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あぢさゐ供養頌

文学と神楽坂

 村松定孝氏の「あぢさゐ供養頌 わが泉鏡花」(新潮社、1988年)からです。これは泉鏡花氏は尾崎紅葉氏から叱咤を受けた明治36年の1年前の出来事で、これも叱咤の様子です。村松氏は寺木定芳氏から話を聞きました。

 それは明治三十五年の夏のことで、寺木定芳が牛込南榎町に鏡花を訪ね、入門してから二年ほどが経っていた。定芳は毎日のように学校の帰りには師の家に上りこんで、夕刻までの一と時を過すのだが、格別、小説を書いて見て貰うわけでもなかった。そんなかれを鏡花は気楽にあしらって、漫然と雑談の聞き役になってくれ、弟子のほうは、ただ師と対面し文字どおり謦咳に接していれば満足であった。先生が原稿執筆に余念ないときは、二階の書斎へ行くのを遠慮して、弟の斜汀(本名豊春、やはり作家志望だったので、紅葉が鏡花の舎弟なるを洒落れて、こういう雅号をさずけた)と将棋をさしたり、八十余歳の祖母きて、、の肩を揉んであげたりした。そんな風で三人暮しの泉家に一枚加わった家族同然の日が続いていた。さて、その年の暑いさかりだけ、逗子で一軒を借りて、当時一般に流行はやり出した避暑なるものをきめこもうという鏡花の計画に、一も二もなく定芳は賛同した。
 鏡花が逗子の地を選んだのは、紅葉に入門する前に、鎌倉のみだれ、、、妙長寺に下宿したこともあって、あの辺は思い出深いし、一夏を空気の佳い場所で、新鮮な野菜を喰べたりすれば、持病の慢性胃腸疾患も快癒するかもしれないという一縷の望みもあってのことだった。
 幸い七、八月は学校が休みだし、海にちかい涼しい場所で一夏を師匠と起居を倶にすることができるとなれば快適この上ない。避暑の一行は、七月のなかばを過ぎてから逗子へ乗り込むこととなった。これを耳にした神田の或る商店の娘さんで、服部てる、、子というのが、ぜひ自分も、参加さして下さい、台所のご用一切はひきうけますとの健気けなげ申し出があり、女手ができて好都合ということになった。彼女は不幸な二十四、五歳の出もどりだが、大の鏡花ファンで、ときどき泉家に出入りしていたから定芳も知らぬ仲ではなかった。合宿のメンバーは、鏡花と弟の斜汀、定芳ともう一人鼻下に泥鰌どじょうひげをはやした古くからの門下生の橋本花涙、これに、てる、、子の、同勢すぐって五人だった。お年寄りを連れだすのは却ってお気の毒だときて、、お婆さまだけはお留守居をおねがいした。
供養頌 くようしょう。供養は仏、菩薩、諸天などに香、華、燈明、飲食などの供物を真心から捧げること。死者への弔い。しょうは功徳をほめる。ほめことば。
寺木定芳 てらきていほう。泉鏡花の勧めで歯科医になり、渡米してアングルスクールで歯科矯正を学ぶ。雑誌「歯科評論」を発刊し、日本麻雀連盟を設立した。出生は1883年。没年は1972年。
謦咳に接する けいがいにせっする。尊敬する人の話を身近に聞く、お目にかかる。謦は「軽いせき」。咳は「重いせき」
みだれ橋 乱橋。鎌倉市材木座3-15-7付近。鎌倉へと攻め込んだ新田義貞と幕府軍が激しく攻防した。
妙長寺 鎌倉市材木座の日蓮宗の寺。
健気な 力の弱いものが勇ましく気丈な。
泥鰌髭 まばらな薄い口ひげ。
同勢 どうぜい。一緒に連れ立って行く人々。行動をともにする仲間。
すぐる 多くの中からすぐれたものを選び出す。えりぬく。

 ところで、そんな或る日、突如として紅葉山人の襲撃をうける恐怖のときがおとずれたのだった。
 その不意のアクシデントのあった当日は、おり悪しく、すゞ、、が来ていた。
 最初に山人の姿を見つけたのは斜汀であった。岡の上にあるこの家の縁先からは一望のもとに、遥か停留場まで延びている畔道の通路が見おろされる。その道をこちらに向って、鋭いまなこの紅葉先生がいそぎ足でやってくるのを咄嵯に確認した斜汀は、
「先生が、先生が……」
 八畳の間ですゞ、、とさしむかいで、お八ツ西瓜を喘り合う、しんねこぶりを発揮していたところへ、あわてて駈け込んでくると、兄の腕をつかんで、はげしくゆすぶった。
「なに‼ 本当か。ひと違いじゃないのか」
 いきなり、西瓜を投げ出した鏡花は、それでも未だ信じられない表情で、縁先に立って行ったが、一瞬、うっと息をのんだのは、もう麓のあたりまで、その人の近づいているのが、はっきり目に映じたからだった。
 一同、蒼白となって、まず、すゞ、、を家主の農家へ避難させ、彼女のものと勘づかれそうな品物を、あわてて押入にかくし、山人の御入来を待ちうけた。
 間取りは、さきにも記したように、八畳と玄関を上ってすぐの四畳半の二間きりだから、先生を奥にお通しして、鏡花は次の間のほうへひきさがって平伏し、花涙と定芳は、そのうしろに小さくちぢこまっていた。
 そのとき、紅葉の視線が、じろりと庭の物干竿に向うと、その眼は目ざとく、干してあったみず浅葱あさぎの腰巻を見つけ、いきなり、
「あれは誰のだ」
 鏡花は、(しまった)と、狼狽のあまり、肩をぶるぶるとふるわせながら、その場の気転で、
「は、はい、あれは手伝いに来ております服部のでございます」
 と、とりつくろったつもりが、
「服部のだと? おい、素人の女が紐のない腰巻をしめるか。あれが商売女のものだくらい、解らぬ俺だと思ってるのか。貴様、いつから師匠に嘘をつくことを覚えたんだ。俺は、てめえたちに嘘をつけと、いつ教えた。弟子の分際で、よくも師匠をコケにしやがったな。そこに居るのは、泉の身うちの者か。おめえらも、いい親分を持ったもんだな。今日かぎり、俺は泉とは縁を切るから、そう心得ろ」
 大喝一声どころか、百雷一時に落ちる凄まじさに、鏡花は、ただもう、おろおろと、平蜘蛛のように、畳に頭をこすりつけたまま。定芳たちも青くなって、とりつく島もない有様だったという。
 さながら大波乱の一場面だったに違いない。
すゞ 将来の鏡花の妻。桃太郎は芸者時代の名前。旧姓は伊藤。生年は明治14年9月28日、没年は昭和25年1月20日。享年は68歳。
停留場 路面電車の停留場。バスの停留所。鉄道では場内信号機・出発信号機を設けていない停車場。
畔道 あぜみち。田と田の間の細い道。
お八ツ おやつ。午後の間食のこと。八つ時(やつどき)で、現代の午後3時ごろに食べた
西瓜 スイカ
しんねこ 男女が差し向かいで、むつまじく語り合うこと
水浅葱 灰みの青緑系の色。 #7faba9 
大喝一声 だいかついっせい。大声で怒鳴りつけたり、叱りつけたりすること。
百雷 ひゃくらい。多くのかみなり。声や音の大きなこと。百連の雷。万雷。
平蜘蛛のように ひらぐも。ぺしゃんこになる。平身低頭する様子。

泉鏡花旧居跡|芳賀善次郎氏と石川悌二氏

文学と神楽坂

 泉鏡花氏は明治36年3月から3年間、「神楽坂2丁目22番地」に住んでいました。しかし、これは広大な場所です。正確な位置はどこにあるのでしょうか。

神楽坂2丁目22

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)牛込地区「2. 作家泉鏡花旧居跡」では……

2. 作家泉鏡花旧居跡      (神楽坂2―22)
 神楽坂の途中左手、瀬戸物屋の横を行くと坂道に出る。そこを越したところ、理科大学の裏手にあたる崖上は、泉鏡花が明治36年3月から39年7月まで住んだところである。
 泉鏡花の師、尾崎紅葉は、横寺町に住んでいて、多くの弟子を指導していた。その中で一番早く文壇に認められたのは鏡花である。鏡花は、小栗風葉徳田秋声などとともに紅葉門下の硯友社の一員であるが、硯友社の人々は明治32年の新年宴会を、神楽坂の料亭常盤家で行なった。この夜、鏡花は桃太郎(本名、伊藤すず)という若い芸妓を見知ったのである。それ以来、鏡花と桃太郎との交際は続くのであるが、このことを知った紅葉は不快に思っていた。
 そのうち、36年3月、鏡花が神楽坂のここに一軒借りて桃太郎と同棲していることをきき、紅葉の怒りは爆発した。彼は小栗風葉に案内させて鏡花の家へ乗り込んだが、鏡花はす早く桃太郎を裏口から逃してその場をつくろった。紅葉は鏡花を強く叱りつけて帰ったが、その後彼女は涙をのんで鏡花のもとを去ったのである。
 しかしほどなく紅葉は、その年の10月30日に他界した。紅葉の死によって、生木を割かれるように別れた鏡花と桃太郎の仲は、またもとに戻った。それでも亡師に遠慮して鏡花は籍を入れなかった。正式に結婚式を挙げたのは大正15年になってからである。この両人の住んだのもここであった。
 鏡花の“婦系図”は、半自叙伝小説といわれる。発表された翌年、新富座喜多村緑郎伊藤蓉峰らによって上演されてから有名になった。その時新たに書き加えられた湯島境内の場で、早瀬とお蔦が清く別れる一場が特に観客の涙をさそったものであった。このお蔦は桃太郎であり、早瀬主税は鏡花自身であり、酒井先生というのは紅葉のことである。
 鏡花は、神楽坂を忘れられない思い出の地としていたらしく、“神楽坂の唄”と題した詩を書いている。

生木を割かれる 生木なまきを裂く。相愛の夫婦・恋人などをむりやり別れさせる。
新富座 しんとみざ。歌舞伎劇場名。江戸三座の一つで、明治5年、猿若町から京橋区(中央区)新富町へ進出。明治8年、新富座と改称。ガス灯を設備した近代建築だが、大正12年、関東大震災で焼失した。
喜多村緑郎 新派俳優。女形。素人芝居から俳優の道に入る。道頓堀角座を本拠に「成美団」を結成、のち東京でも活躍し、新派三頭目時代をつくる。人間国宝。生年は明治4年、没年は昭和36年。享年は満89才。
伊藤蓉峰 正しくは伊井蓉峰。新派俳優。新派大合同劇の座長格。端麗な容姿と都会的な芸風で、新派の代表的な俳優として活躍した。生年は明治4年、没年は昭和7年。享年は満60歳。

 住所はわかりますが、その他はわからない。そのまましばらく放っておきました。数年後、石川悌二氏が書いた「近代作家の基礎的研究」(明治書院、昭和48年)があると知りました。鏡花の邸宅の写真もあったのです。

 師尾崎紅葉の死去によって、生木を裂かれたような鏡花と桃太郎の仲はふたたび元に返った。鏡花の戸籍面は、この年12月、小石川大塚町から牛込区神楽町2丁目22番地に送籍されているので、紅葉の没後まもなく両人はまた一緒になったのであろう。しかし鏡花は亡師にはばかり、すずの戸籍を長く妻として入れなかった。それが二十数年を経過した大正15年になって、水上滝太郎の切なるすすめにより、改めて結婚式をあげたのであった。
 鏡花、桃太郎が住んだ神楽町二丁目の家宅はすでにないが、そこは神楽坂を上ってまもなく、左側の瀬戸物屋薬屋の間を左折し、その小路がまたにつき当たる左手あたり(現神楽坂2丁目の東京理科大学裏手)にあった。
 新派劇の「婦系図」はその序幕が主税とお蔦の新世帯であって、瀟洒なつくりのその家は、横手に堀井戸があって、すぐ勝手口や台所が続いているが、これは鏡花の実際の住居を模写したもので、桃太郎も芝居のお蔦さながらの生活をしたものと伝えられている。(村松梢風「現代作家伝・泉鏡花」参照)
 ついでながらに加えると、婦系図のヒロインのお蔦は、桃太郎が抱えられていた芸者屋「蔦永楽」にちなんだ名で、酒井先生は紅葉の住んでいた近くの牛込矢来町一帯が、旧小浜藩酒井氏の下屋敷跡だったことから、「酒井先生」としたのであろう。またこの作中に登場するひどく威勢のいい魚屋「めの惣」のモデルは魚徳という人で、現在神楽坂の北側三丁目にある料亭「魚徳」はその人の孫が経営している。この魚徳の姪は、又平という妓名で桃太郎と同じ蔦永楽から左棲をとっていたが、その人もすでに亡い。紅葉の愛妓だった小えん、すなわち婦系図の小吉のモデルは、相模屋の女将村上ヨネの養女に入籍され(戸籍名、村上えん)ていたが、紅葉の死後5年ほどして北海道函館の網元ひかされて妻となった。
この年 明治36年です。
送籍 民法の旧規定で、婚姻や養子縁組などで、1人の戸籍を他家の戸籍に送り移すこと。
瀬戸物屋 太陽堂です。
薬屋 当時は山本薬局。現在は神楽坂山本ビルで、1階はデンタルクリニック神楽坂です。
小路 神楽坂仲坂と名前をつけました。
 堀見坂です。
左手 地図では東側です。

1976年。住宅地図。

あたり 上の写真を見てください。写真に加えて「神楽坂うら鏡花旧居跡(電柱の左方)」と書いています。写真は昭和48年(1973年)頃に撮ったものです。下の写真は平成18年(2006年)頃に撮られたものです。なぜが2本の電柱はそっくりです。また「泉鏡花旧居跡」の場所も正確に同じ場所だとわかりました。「北原白秋旧居跡」の場所はまだ不明。

籠谷典子編著「東京10000歩ウォーキング No.13 神楽坂・弁天町コース」(明治書院、2006年)


婦系図 おんなけいず。1907年(明治40年)、泉鏡花の小説や、原作とした演劇・映画
蔦永楽 つたえいらく。神楽坂3丁目2番地。地図は大正元年の地図です。正確なものはなく、これ以上は不明です。

東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

左棲 ひだりづま。(左手で着物の褄を持って歩くことから)芸者の異名。
相模屋 神楽坂3丁目8番地。地図は大正元年の地図です。相模家はこの赤い地図で、問題は何軒があるのか、です。

相模屋

相模屋。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

 明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)では、どうも1軒だけでした。ただし、数軒をまとめて地図上だけ1軒にしたと考えることもできますが。

網元 漁網・漁船などを所有し、網子あみこ(漁師)を雇って漁業を営む者。網主あみぬし
ひかされて じょうなどにひきつけられる。ほだされる。

鏡花幻想|竹田真砂子

文学と神楽坂

竹田真砂子

竹田真砂子

『鏡花幻想』は1989年に竹田真砂子氏が書いた、泉鏡花ではなくその妻、すずを中心にした小説です。
 竹田真砂子氏は小説家で、出身は神楽坂。時代小説を中心に活躍し、また、神楽坂を題材にした小説も沢山あります。作品は「十六夜に」「白春」「あとより恋の責めくれば 御家人南畝先生」など。生年は昭和13年3月21日です。
 これは泉鏡花が将来の妻すずと同棲を始めてそれを知った尾崎紅葉が激怒した部分です。実際にはこの激怒した時間は、昼下りではなく、夜中に起こりました。

 一応の体裁が整って、すゞは神楽町二丁目の家から毎日蔦永楽に通って、一日四、五時間ほど座敷を勤め、家事にも馴れてきた四月の中頃、鏡太郎は突然、横寺町尾崎紅葉からの呼び出しを受けた。豊春も同行せよとの伝言である。二人は衣服を改めて横寺町へ出かけた。
 四月十四日。昼下りである。
 十二、十三日と二日続けて昼間の遠出のお座敷があって、すゞは伯爵家の広大な庭園に設えられた仮設舞台清元を歌ってきた。踊る立方たちかたと違って、地方じかたは地味な存在だけれど、先年の硯友社の新年会で『保名』をひとくさり歌って以来、本格的に鍛えた咽喉が重宝がられて、大事なお座敷の地方というと、よく声がかかるようになった。(略)
 わずか二時間後に、思いもかけぬ残酷な宣告を鏡太郎の口から聞こうとは。すゞにも祖母にも露ほどの予感もなかった。
体裁 ていさい。外から見た様子。外見。外観。
四月十四日 明治36年の4月でした。
昼下り 正午をやや過ぎた頃。
仮設舞台 必要に応じて仮に設ける舞台。
清元 きよもと。清元節。江戸浄瑠璃の一派。
立方 立ち方。たちかた。歌舞伎・日本舞踊で、立って舞い踊る者。
地方 じかた。日本舞踊で、伴奏音楽を演奏する人々。唄・浄瑠璃・三味線・囃子などの演奏者をまとめていう。
保名 やすな。歌舞伎舞踊。清元節の曲名。篠田金治作詞、清沢万吉作曲。『深山みやまのはな及兼とどかぬ樹振えだぶり』の一節
ひとくさり 一齣。一闋。謡いもの、語りもの、また話などのまとまった一区切り。

 横寺町から帰って来た時の、鏡太郎の顔には表情がなかった。豊春はうつむいたまま、
「お帰りなさい」
 すゞが声をかけても返事もせず、上りかけた足を下駄に戻して、また外へ出て行ってしまった。
 鏡太郎も、ひとことも口をきかずに二階へ上る。下から後姿を見上げてすゞは首をひねった。
「どうしなすったんでしょうねえ」
 祖母も眼窟の落窪んだ目を見開いて、きょとんとしている。お茶をいれて二階へ持って行こうとしたが、祖母が手を振って止めた。尋常でない鏡太郎の様子に祖母もすゞも、階下でただ座って、息を殺しているより他になすすべがなかった。
 だから二階で手が鳴った時、用をいいつけられるのを待ち兼ていたすゞは、
「はあい」
 元気よく返事をして、祖母に笑いかけてから跳びはねるように立上った。
「御用でしょうか」
 座ってをあけて、敷居の外から声をかける。鏡太郎は机に背を向けて正座していた。敷いている友禅の座布団は、祖母に綿の入れ方を習いながらすゞが拵えたものである。
「ここへ来てお座り」
 鏡太郎は静かに自分の前の座を手で示した。
 すゞは前掛けをはずしてに入れてから中へ入って襖を閉め、示された場所に座った。
 鏡太郎はすゞを見ない。視線は畳に落ちたままだ。
「心を静めて聞いてもらいたい。折入っての頼みだ。無理を承知の酷い頼みだ」
 聞きとりにくいほど小さな声である。
 ふすま。和室の仕切りに使う建具。木などの骨組みの両面に紙や布を張ったもの。
敷居 しきい。襖や障子などの建具を立て込むために開口部の下部に取り付ける、溝やレールがついた水平材。
友禅 ゆうぜん。江戸時代に現れた多彩な模様染め。
前掛け 衣服をよごさないようにきものの上に着ける布。
 たもと。和服の袖付けから下の、袋のように垂れた部分。

 すゞには鏡太郎が苦しんでいるのが分った。その苦しみがすゞの肌に伝わって、ちくちくと絹針の先で突かれるように痛かった。
 ――早くおっしやいましな。そんなにお苦しみになるとお体にさわります。
 どんな酷い頼みか知らないが、いえば少しは鏡太郎の苦しみが減るだろう。すゞも半分、鏡太郎と同じ苦労が味わえる。すゞは、口をつぐんでしまった鏡太郎の顔を、首をかしげて見上げた。
 鏡太郎はほとんど口を動かさずにいった。
「この家から出て行ってもらいたい」
 すゞには鏡太郎のいっていることが、よく分らなかった。手を膝において、首をかしげた姿勢のまま、なお鏡太郎の顔を見つめて次の言葉を待った。が、鏡太郎は黙っていた。
 見えない渦が二人を取り囲み、深い深い、暗い暗い沈黙の底に引きずりこんでいった。
 どれほどそうしていただろうか。すゞの頭の中は空っぽになり、手足にもまるで感覚がなくなっていた。起きているのか、眠っているのか、それさえ判然としなかった。
「あなた、ね、あなたですわね」
 声が出ているか、口が動いていか、自分でもよく分らなかったけれど、すゞは鏡太郎に語りかけてみた。
 鏡太郎の姿勢もさっきから少しも変っていない。外出着のまま、羽織もぬがずにきちんと布団の上に座っている。畳に置いた視線も動いていない。
「先生の御意だ。女と暮らすなら破門すると」
 このひとことを鏡太郎はどんな思いでいっているのだろう。いいたくない、これだけは生命に代えてもいいたくない。それでも、どうしてもいわなければならない仕儀になって、今、鏡太郎はすゞの前に魂ぐるみ生命を投げ出したのだ。(中略)「お前にだけは教えておく。紅葉先生は重い胃病で、お生命いのちはもう永くないんだ」
 先月、紅葉が入院していたことは、すゞも知っていた。今は自宅に戻っているから、すゞは全快したものと思っていたのだが、死期が近いなんて。これでは鏡太郎もすゞも、無理難題を吹きかける紅葉を恨むこともできやしない。
 鏡太郎の腕に力がこもった。その腕の中ですゞは何度も何度も頷いた。

 尾崎紅葉は、1903年(明治36年)3月、胃癌と診断され、4月、ここに書いてあるように泉鏡花を叱責し、10月30日、自宅で死亡しました。享年は37歳でした。

 実際のすずはもっと気が強いような気がします。「鏡花幻想」では話してはいるんですが、ひよわく、気が強くはない。一方「婦系図」でも「湯島の境内」でも、鏡花が描くすずはもっと話しているし、芯も強い。

絹針 きぬばり。絹布や薄手木綿を縫うときに用いる細い針。
羽織 はおり。和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。
仕儀 しぎ。物事の成り行き。事の次第。特に、思わしくない結果や事態。
頷く うなずく。首肯く。肯く。肯定・同意・承諾などの気持ちを表して首をたてに振る。

十千万堂日録|尾崎紅葉

文学と神楽坂

尾崎紅葉

尾崎紅葉

 尾崎紅葉氏は自分の日記を書き、特に明治34年1月から36年10月までを『十千万堂日録』として発表しています。
 この泉鏡花氏の事件は1903年(明治36年)4月に起こりました。鏡花氏が将来妻になる芸者すずを落籍し、同棲します。しかし、この件で紅葉氏は鏡花氏を叱責し、すずとの訣別を要求しました。紅葉氏から見たこの事件は『十千万堂日録』に書かれています。

明治36年4月14日
風葉を招き、デチケエシヨンの編輯に就いて問ふ所あり。相率て鏡花を訪ふ。(妓を家に入れしを知り、異見の為に趣く。彼秘して実を吐かず、怒り帰る。十時風葉又来る。右の件に付再人を遣し、鏡花兄弟を枕頭に招き折檻す。十二時頃放ち還す。
疲労甚しく怒罵の元気薄し。
夜、小栗風葉を招いたが、口述の編集について聞いてきたい所があったからだ。2人ともに連れ会って、泉鏡花を訪ねた。愛する芸者を家に入れたとを知ったからだ、鏡花の過ちをいさめ、同意させたいと思ったが、知らないと言い張り、真実を吐かなかった。私は怒って帰った。十時になって、風葉もやってきた。右の件につき、再度、鏡花の兄弟を枕頭に招き、厳しく諫言した。十二時頃、放ち還す。疲労は甚しく、怒りののしる元気は薄い。

 紅葉氏は訣別を要求したのでしょう。さて、泉氏はどうするのか、本文を読む限り、はいといったとは書いていません。

十千万 とちまん。非常に数や量の多いこと。巨万
明治36年 1903年
デチケエシヨン dictation、口述。門弟たちが紅葉氏を慰めるため企画した短篇集「換菓篇」のこと。
 親愛な、親密な、愛する。
異見 自分の思うところを述べて、人の過ちをいさめること。他の人とは違った考え。異議。異論。
趣く 従う。同意する。同意させる。
折檻 強くいさめること。厳しく諫言かんげんすること。
怒罵 どば。怒りののしること。

明治36年4月15日
風葉秋声来訪。鏡花の事件に付き、之より趣き直諌せん為也。夜に入り春葉風葉来訪、十一時迄談ず。
直諌 ちょっかん。遠慮することなく率直に目上の人を、いさめること。遠慮なく相手の非を指摘して忠告すること。

 読む限り、紅葉氏は部下の風葉氏や秋声氏からも再考してほしいといわれたようです。その後、夜の11時頃までかかって、あれこれを話し合ったようです。

明治36年4月16日
夜鏡花来る。相率て其家に到り、明日家を去るといへる桃太郎に会ひ、小使十円を遣す。

 二日後、桃太郎(すず、将来の鏡花の妻)は家から離れることになったようです。別れるとははっきり書いていません。

桃太郎 日本の芸者。桃太郎は芸者時代の名前。泉鏡花の妻、泉すず。旧姓は伊藤。生年は1881年(明治14年)9月28日、没年は1950年(昭和25年)1月20日。享年は満68歳。
十円 明治38年ごろ、小学校の先生の初任給は10~13円、大銀行の大卒の初任給は35円でした。当時の10円は今でいう10万円ぐらいだと、このホームページで。