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神楽河岸(写真)ID 8763-66, 68 昭和44年頃か

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」は、昭和44年頃か、ID 8263-66とID 8768は国鉄(現、JR)飯田橋駅から神楽河岸、神楽坂などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8263 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8264 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8265 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8266 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8268 神楽河岸

5図のまとめ

ID 8265から

神楽河岸高層ビル外堀通り(北)
A.警視庁(第2機動捜査隊)a.東京理科大学1.佳作座
B.警視庁b.週刊大衆(双葉ビル)2.トウホウビル(バラエティスタンド飲食街)
C.警視庁(神楽坂巡査派出所)c.東京理科大学3.三和計器製作所
D.新宿区役所土木課d.田口屋生花店(神楽坂通り)4.広告「エアーホット」(神楽小路)
E.大郷木材店(倉庫)e.喫茶軽い心(神楽坂通り)5.城北ガレージ
F.大郷木材店(倉庫)f.五条ビル(神楽坂通り6.パチンコジャイアンツ
G.大郷邸g.神楽坂ビルディング(神楽坂通り)
 ※間に遠く文英堂ビル(岩戸町)
h.丸金ビル(仲通り)
i.銀嶺会館(広告) HiFi サンスイ stereo/ホテル観◯荘/八丈パークサイドホテル

ID 8266から

神楽河岸高層ビル外堀通り(北)
F.大郷木材店(倉庫)h.丸金ビル(仲通り)6.パチンコジャイアンツ
G.大郷邸i.銀嶺会館
(広告) HiFi サンスイ stereo/ホテル観◯荘/八丈パークサイドホテル
7.東京トラベルセンター
H.大郷木材店
一般建築材・ベニア・新建材各種 株式会社
j.岡本ビル(軽子坂)8.牧書店
I.自動車修理場・喫茶ボルボ(階上)k.セントラルコーポラス9.東京都左官工業協同組合
10.厚和寮(厚生年金病院職員寮)(裏通り)

ID 8268から

神楽河岸高層ビル外堀通り(北)
I.自動車修理場・喫茶ボルボ(階上)k セントラルコーポラス10 厚和寮(厚生年金病院職員寮)(裏通り)
J.土萬商店資材置場l 東京厚生年金病院本館

※手前に津久戸小学校
11 倉庫(升本総本店)
K.東京都新宿東清掃事務所m 東京厚生年金病院本館東棟の工事か12 京英自動車
L.東京都水道局n 東京厚生年金病院別館13 キッチンアキラ
M.東京都水道局営業所(上に首都高速が見える)o 第一銀行飯田橋支店14 中升酒店
p 稲垣ビル15 堀上工業
q 広告「週刊現代」(稲垣ビル)16 丸吉百貨店
r 飯田橋東海ビル(東海銀行、下宮比町)

 手前の飯田濠は土砂が堆積して、かなり干上がっています。Iの自動車修理場のターンテーブルやJの資材置場の廃材は濠に飛び出しています。
 また、Kの清掃事務所の下には四角い横穴があり、おそらくはしけが入って上からゴミを落としていたのでしょう。
 後年の地下鉄工事や埋め立て工事は、まだ始まっていません。
 撮影時期は
  昭和44年(1969年)2月 神楽坂ビルディング完成
  昭和44年(1969年)「軽い心」がクラブから喫茶に転換
  昭和44年(1969年)6月 首都高速道路5号線供用開始
から
  ID 13226 昭和45年頃
の間と推測されます。

※ 自動車工場や喫茶ボルボは升本の事業です。
※ 年金病院東棟の増築は昭和50年ごろです。それ以前にも何か工事をしていたのでしょう。
※ 稲垣ビルは奥に建て増しされているようです。(昭和38年 航空写真)

住宅地図。昭和44年

画角の検討 S50(1975-01-19)地理院地図

神楽河岸(写真)加藤嶺夫氏 昭和46年

文学と神楽坂

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)から。加藤氏は1929年(昭和4年)東京都文京区に生まれて、出版社勤務のかたわら東京を散策し、新聞紙上にルポルタージュを執筆しました。2004年に他界。

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 これと昭和46年と50年の地図を比較します。なお、目にみえるゴミは別項で。

全住宅案内地図帳(新宿区版)公共施設地図 1971年

S50(1975-01-19)揚場町-筑土八幡町(地理院地図)

  1. セントラルコーポラス(地上6階)
  2. 野崎栄義商店飯田橋寮
  3. 厚和寮(厚生年金病院職員寮)
  4. 津久戸小学校? または熊谷組本社ビル工事(津久戸町、昭和49年完成)
  5. 日本製乳株式会社
  6. 升本総本店
  7. 升本 倉庫
  8. 日本製乳株式会社 事務所
  9. 升本 事務所
  10. 升本 倉庫
  11. (不明)
  12. 京英自動車
  13. 土萬商店
  14. 土萬商店

 地元の人は……

1) 厚和寮の右、切妻屋根の上に見えているのが津久戸小の外壁と屋上フェンスでしょう。
2) 黒っぽいものは津久戸小より奥にあり、私には建築中のクレーンのように見えます。
3) 校倉づくりのような横縞は確かに厚和寮の一部ですね。そこに津久戸小の屋上構造物が重なって見えているようです。
(イ)厚和寮・手前側
(ロ)厚和寮・奥側(校倉づくりのような横縞)
(ハ)切妻屋根(升本)
(ニ)川島ガラス?
(ホ)津久戸小(右側が最高部)
(ヘ)建築中の熊谷組本社

厚和寮 奥の建物

飯田橋駅(写真)西口 ID 8267, 8269, 8270, 8286 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8267と8269と8270と8286は「昭和44年頃か」として、飯田橋駅西口周辺を撮影したものです。
 牛込橋の桜は葉が落ちて裸木になっています。ID 8269と8270の歩行者はコートやマフラー姿が目立ち、冬から早春にかけての時期と思われます。ID 8267と8286では建物の窓が何カ所も明いていて、小春日和だったかもれません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8267 飯田橋駅舎から見た飯田橋、神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8286 飯田橋駅舎から見た飯田橋、神楽河岸

 ID 8267と8286は飯田橋駅のホームの市ヶ谷側、西口に向かうスロープの下から撮った写真です。正面の橋は牛込橋で、写真説明にある「飯田橋」は写っていません。線路は中央・総武線1番線で、新宿駅方面から御茶ノ水駅方面に乗客を運びます。
 右下は飯田濠ですが、この頃、悪臭に悩んでいて、アオコもありました。また建物については……

AーD 神楽坂警察署跡地の警視庁の施設。第2機動捜査隊や神楽坂下巡査派出所、寮などに使われた。 E 新宿区役所土木課
1 立喰そば? 2 二鶴?
ⅰ 家の光会館 ⅱ 理科大 ⅲ 双葉ビル ⅳ 理科大 ⅴ 田口屋ビル

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8269 飯田橋、飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8270 飯田橋、飯田橋駅

 ID 8269と8270は飯田橋駅西口前から神楽坂下に向け、早稲田通りの牛込橋などを撮ったものです。牛込橋は戦前に架けられたコンクリート橋で、路面は石畳でした。
 街灯は2種類あります。中央やや左の逆円錐形は千代田区のものでしょう。そのすぐ左は新宿区で、神楽坂と同じ大きな円盤形の街灯が2本あり「神楽坂通り」の表示もあります。右側は円盤型カバーが外れているようです。
 千代田区と新宿区の境界付近の電柱には街灯放送用の拡声器がついていて、「神楽坂 ナカノ」の電柱広告があります。
 早稲田通り沿いの警視庁の建物は、牛込橋の土橋の崖下に建っています。建物の右奥には銀鈴会館の屋上広告、さらに揚場町のセントラルコーポラスが見えます。

全住宅案内地図帳 昭和44年 共施設地図株式会社

箪笥町(写真)昭和35年 ID 565

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 は、昭和35年(1960年)、大久保通り沿いの箪笥町岩戸町付近を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 大久保通り箪笥町付近

 中央を大久保通りがあり、右には大きなS型の道路があります。これが「新蛇段々」で、この仮称は何を隠そう、私です、はい。大久保通りを走る都電は13番線でした。中央奥のひときわ大きな5階建ての建物は東京厚生年金病院(現・地域医療機能推進機構東京新宿メディカルセンター)でした。
 さて、地元の方に解説してもらいました。

 この写真を撮影したのは、旧牛込区役所の跡、新宿区役所・箪笥町特別出張所の建屋の屋上でしょう。戦後15年を経ても民家の多くは平屋か2階屋なので、遠くが見通せます。

地理院地図 1961年~1969年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 拡大図

 左側のこんもりした森が筑土八幡神社です。すぐ手前の四角いビルは少し後に東京都の放射線技師学校になりますが、当時は何だったか分かりません。現在は牛込消防署があります。大正時代には関東大震災直後に三越マーケットがやってきました。
 筑土八幡の右、遠くに壁のようなものが見えますが、神田川の向こうの小石川の地下鉄丸ノ内線の地上区間です。この区間は1954年(昭和29年)に開業しています。筑土八幡側の複数の建物は中央大学富坂校舎ではないでしょうか。
 東京厚生年金病院は本館と別館があり、渡り廊下でつながっていました。すぐ手前は津久戸小学校の体育館が見えます。
 年金病院の右側の遠くのビルは、よく分かりません。場所としては外堀通り沿いの文京区後楽にある職安(現ハローワーク飯田橋)あたりでしょう。このビルと病院の別館との間、遠くに見える凸型は後楽園球場のスコアボードのようです。
 高級分譲マンションのはしり、揚場町セントラルコーポラスがあれば、これら文京区の景色は隠れてしまうはずですが、竣工はこの写真の2年後の1962年です。
 右側に切り立ったガケが見えます。手前が岩戸町、ガケの上が袋町です。飲み屋や職人の商工混在する岩戸町と、お屋敷町である袋町の落差が見られます。ガケ上の四角いコンクリートの建物は戦後にできた日本出版クラブで、印刷や出版の会社が集まる牛込地区の象徴のひとつでした。
 出版クラブのすぐ右、三菱銀行神楽坂支店の看板が見えます。建て直し前の旧店舗ですが、当時の神楽坂通りでもひときわ目立つ高い建物でした。
 右端の一番高い瓦屋根は光照寺と思われます。出版クラブ前からの参道に木が見えますが、現在はなくなっています。
 屋根が低いので、電柱だけでなく煙突が目立ちます。自前の焼却炉などを持つ事業者が多かったのだと思われます。もちろん銭湯もあり、年金病院の前に見える煙突が神楽坂で一番大きかった神楽坂浴場(津久戸町)です。昭和51年(1976年)の読売新聞の記事にイラストがあります。筑土八幡の左側が今もある玉の湯(白銀町、当時は別名)です。小栗横丁の熱海湯(神楽坂3丁目)は低い場所にあるので、この写真では明確に分かりません。

中央大学の富坂校舎 中大には1970年代まで、富坂とは別に「後楽園校舎」がありました。添付「今昔マップ」参照。この土地を売って多摩地区の土地を買った時の総長が升本喜兵衛です。多摩校舎の土地は升本総本店のものだったと聞いています。「かつては後楽園校舎、御茶ノ水校舎などの校舎が複数ありましたが、多摩移転時にその多くを売却しました」と中大のサイト

中大 後楽園校舎

 平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(2006年)では「大久保通り」の説明の時に同じ写真を使っています。

 昭和30年ごろ。車も少なく、都電13系統が悠々と走っている。右端に見えるのは、南蔵院から袋町方面に向かう坂道。道路の形状から、二枚が同じ位置を写したものであることが、かろうじて分かる。
 正面上部の大きな建物は厚生年金病院。屋上に見える円形は展望台である。リハビリに用いるため一階から螺旋形のスロープで繋がっており、上ると富士山まで見渡すことが出来た。

 またさっしいのホームページの「都電13番線 今昔物語」では新蛇段々の急峻な坂道が見えます。新蛇段々の反対側の坂は袖振坂です。

都電13番線 今昔物語

東京都都市整備局の地図

山の手と下町の同居-軽子坂と揚場町

文学と神楽坂

 揚場町って、どんな町なんでしょうか。そこで、津久戸小学校PTA広報委員会の「つくどがみてきた、まちのふうけい」(新宿区立津久戸小学校、2015年)をまず広げてみました。これはPTA制作の簡単にわかる小冊子で、揚場町もこの学区なのです。「まちの風景」を開き、「津久戸町」はこの学校があるところ、揚場町はその隣町です。次は「牛込見附・飯田橋」。あれっ、でない。さらに次を見ましょう。「新小川町」「東五軒町、西五軒町」「神楽坂」「赤城元町・赤城下町」「白銀町」「矢来町・横寺町」「袋町」「若宮町・岩戸町」「市谷船河原町」、これで終わり。揚場町はどこでもない。なぜ、でないの?
 2017年、ウィキペディアで揚場町の世帯数と人口は54世帯と105人。こんな小ささだったんだ。ちなみに、津久戸町のほうが小さくて98人。揚場町にはマンションがあるから、津久戸町に人口的には勝っている。しかし、揚場町には本当に大きな地域で、沢山の人がいるはずなのに、どうして少ないの? 標高が低い揚場町は倉庫と職場だけで、標高が高い地域では第一流の豪邸だけ、どちらも人口密度は低い。
 つまり、揚場町の中に「山の手と下町」が同居していると、地元の方。以下は地元の方の説明です。

 神楽坂は、よく「山の手の下町」と言われます。かつては城西地区で唯一の花街だったし、台地の上の住宅街に隣接して下町の賑やかさがあるからでしょう。それとは別の意味で山の手と下町の同居を感じさせるのが、神楽坂通りの裏手の軽子坂と揚場町です。
 昭和50年ごろまで、牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした。地名で言うと西側は神楽坂一丁目と揚場町、東側は神楽河岸です。名画の佳作座の前を過ぎると人の往来がぐっと減り、あとは、いま「飯田橋升本ビル」になっている升本酒店の本店とか、反対側の材木商とか、自動車の整備工場とか、役所の管理用の建物とか。そのほか普通の人にはなじみがない建材や産業材の会社兼倉庫みたいなものが立ち並んでいました。そういえば一時期、大相撲の佐渡ケ嶽部屋が古い建物に入居していたこともありました。都心の大通りなのにオフィス街でも商店街でもなく、倉庫街みたいな感じでした。
 神楽坂通りでは昭和40年代から、4-5階建てのビルがドンドンできていたんですが、外堀通り沿いは平屋か2階建てばかり。だから「メトロ映画」とか「軽い心」が飯田橋駅からよく見えたと言います。神楽小路の出口のギンレイホール大きな看板がついたのも、前にある建物が低かったからです。
 揚場町をちょっと入ったところの升本さんの倉庫は広場みたいになっていて、近所の子どもの遊び場でした。その先の路地の奥には生花市場がありました。割と早くに他の市場に統合されたのですが、もし今も残っていたら「市場横丁」なんて呼ばれたかも知れません。こういう場所でしたから、江戸時代に荷揚げ場があって、人夫が荷を担いでいたという歴史が納得できました。

城西地区 江戸城、現在の皇居を中心にして、西側の方角にある地域。6区があり、新宿区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、練馬区。
花街 遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。遊郭。花柳街。いろまち。はなまち。
軽子坂と揚場町 下図参照。

1912年、地籍台帳・地籍地図

牛込見附の交差点 現在は「神楽坂下」交差点
神楽河岸 下図参照。新宿区の町名で、丁目の設定がない単独町名。飯田橋駅の西側に位置する小さな町域があり、駅ビル「飯田橋セントラルプラザ」の建設のため、神楽河岸の形やその区境は変更している。

昭和58年「住宅地図」、区境などを変更

升本酒店の本店 酒問屋の升本総本店です。図の左側の「本店」は升本総本店のことです。

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

反対側の材木商 「大郷材木店」はラムラ建設で津久戸町に移転しました。「材木横丁」と呼んでいる場所です。

大郷材木店。https://blog.goo.ne.jp/kagurazakaisan/e/873ba776487429d0e755425fc61ee9ce

自動車の整備工場 神楽河岸の大郷材木店の北(右隣)にあって、1980年代には「ボルボ」という喫茶店を併設していました。残念ながら1965年の地図には載っていません。
役所の管理用の建物 地図を参照

1965年「住宅地図」

佐渡ケ嶽部屋 おそらく部屋の建て替え中に、佳作座の先の「三和計器」の跡に仮住まいしていたようです。「三和計器」は、1985年9月、飯田橋駅前地区再開発で、千葉県船橋市に工場を移転し、「三和計器」のあとには、1988年に「神楽坂1丁目ビル」が完成しました。その間に佐渡ケ嶽部屋ができました。部屋は現在、千葉県松戸市で、それ以前は墨田区太平で稽古していました。
生花市場 飯田生花市場です。花市場は建物の隣の何もないところが本来の場所で、そこに切花の入った大きな箱を並べて取引します。

 そんな倉庫街が、軽子坂を上りはじめると一変します。坂の左側に佐久間さんのお屋敷。右には升本さんの広大な本宅。坂の上の、いまノービィビルが建っているところには石造りの立派な洋館がありました。ここが誰の持ち物か忘れられていて、あまりに生活感がないので、失礼ながら「お化け屋敷」と呼ばれていました。その周辺も50坪、100坪といった庭付き一戸建てばかりで、今ほど土地が高くなかったにせよ、庶民には高嶺の花でした。
 少し大げさかも知れませんが、現場労働の「下町」と名声・財力の「山の手」が鮮やかに隣接していた。それが軽子坂であり、揚場町だと思うのです。今は再開発が進みましたが、それでも揚場町の「山の手」部分のお屋敷町の面影が、わずかに残っています。

升本さんの広大な本宅 下図を参照。

軽子坂。1963年(昭和38年)「住宅地図」

石造りの立派な洋館 これは鈴木氏の邸宅だといいます。安居判事の邸宅とも。「住宅地図」では1970年、更地になり、1973年、駐車場になっています。「神楽坂まちの手帖」12号の「神楽坂30年代地図」では

 津久戸小学校から仲通りに向かう左側の「セントラルコーポラス」。初期の分譲住宅で、中庭と半地下の広い駐車場のあるぜいたくなつくりは、マンション(豪邸)という呼ぶにふさわしい。当時、ここに住むこと自体にステータスがありました。もともとは石黒忠悳石黒忠篤という名士の豪邸だったようです。
 神楽坂に縁の深い政治家に田中角栄がいます。その生涯の盟友であった二階堂進は、セントラルコーポラスにずっと住んでいました。入り口にポリスボックスがあり、警備の巡査が常駐していました。二階堂さんは自宅のほかにマスコミ用の部屋を借りていたそうで、政治部の記者が常時、出入りしていたと聞きます。そうした記者が神楽小路の「みちくさ横丁」あたりでヒマつぶしをしていたので、こんな話が地元に伝わるのです。
 セントラルコーポラスの並びには警察の官舎があるのですが、ここには署長クラスでないと住めないのだとウワサで聞いています。やはり高級住宅の名残りなんでしょう。
 揚場町の「下町」部分、外堀通り沿いは、すっかりビルが建ち並びました。ただ神楽坂の入り口に近い一丁目にはパチンコ「オアシス」はじめ、低層の建物が残っています。そこも再開発の計画が動き出したと聞きます。いずれ高い建物が建てば、裏通りになる神楽小路みちくさ横丁も大きく姿を変えるでしょう。

仲通り 正確には神楽坂仲通り。

1984年「住宅地図」

セントラルコーポラス マンション。築年月は1962年10月。地上6階。面積帯は80㎡~109㎡台。
石黒忠悳ただのり 子爵・医学博士・陸軍軍医総監。西洋医学を修め、大学東校(のちの東大医学部)の教師。その後、陸軍本病院長、東京大学医学部綜理心得、軍医総監、貴族院議員。生年は弘化2年。没年は昭和16年。享年は97歳。シベリアを単騎横断した福島安正氏が陸軍軍医寮の空家を無料で借りられるよう世話をしたことがあるという。
石黒忠篤 忠悳の長男。農林官僚、政治家。東京帝大卒。15年農相。農業団体の要職を歴任。戦後、農地改革を推進。「農政の神様」といわれた。生年は明治17年。没年は昭和35年。享年は76歳。
名士の豪邸 最初の地図で「石黒邸」

二階堂進

二階堂進 昭和21年、衆議院自民党議員。田中角栄の腹心。昭和47年、第1次田中内閣で官房長官。のち党の副総裁などを歴任。昭和51年のロッキード事件では灰色高官。生年は明治42年10月16日。没年は平成12年2月3日。享年は90歳。
警察の官舎 警視庁神楽坂荘。築年月は1978年2月。4階建。