フレンチレストラン」タグアーカイブ

神楽坂、坂と路地の変化40年(3)|三沢浩

文学と神楽坂

 けやき舎の「神楽坂まちの手帖」第11号(2006年)から三沢浩氏の随筆「神楽坂、坂と路地の変化40年(3)」を引用します。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、茶色のコメントは地元の方のものです。また、(1)(2)も引用可能な分量に限って、引用します。

◆モデル商店街に選ばれた頃
 東京都が22の商店街を選んだのは、1982年のこと。神楽坂も「モデル商店街」に選ばれて、画期的な衣替えをした。けやきが街路樹として植えられ、今までのUFO型だった街路灯が、ガス灯型に変わる。歩道はインターロッキング・ブロックという、新しい噛み合う小型コンクリートブロックになる。車道は坂部分に輪型を残したままだが、歩道との境界ブロックが、美しくなった。嬉しかったのは、両側にあった電柱が片側だけになり、張り巡らされた電線が、半分に減ったことだった。
 写真を見て頂きたい。夕方の写真は改造以前の、1980年1月の日曜日。歩行者天国の終わる5時前。今の「カグラヒルズ」の位置には、キャバレー「軽い心の大きな間口があった。一度だけ誘われて入ったが、天井の高い巨大な空間で、美女が各テーブルに坐り、ある客たちは音楽に合わせて踊っていた。脂粉の香り、酒の匂いが満ちて、神楽坂の栄華がそこにあった。それは夜の世界、神楽坂の路地には料亭が並び、芸者の数も多かった。

神楽坂、坂と路地の変化40年(3)

 しかしこの中心の通りには、今の繁栄と人通りに較べると、寂しいと思われるほどしんみりとした静けさがあった。現在の全国版チェーン店の隆盛と違い、町の顔をつくる商店が、軒を連ねていた。写真に見える「軽い心」の先、「パチンコマリー」の所は「ツインスター」の賑やかな看板に代わる。

1982年 昭和57年
神楽坂も「モデル商店街」に選ばれて 神楽坂は大久保通りを挟んで1-5丁目と6丁目のふたつの商店会に分かれています。「モデル商店街」になったのは戦後に神楽坂が広がった6丁目の方でした。つまり「昭和57年には、東京都のモデル商店街に指定され、本格的な「街づくり」に着手、歩道を拡幅するとともにカラー舗装して一新、街路灯43基設置し、街路樹も植栽するなどして近代化を図りました」と神楽坂6丁目の神楽坂商店街振興組合は書いています。
衣替え 神楽坂6丁目はモデル商店街に選定され、完成するのは1984年、つまり昭和59年のことです。なお、1-5丁目には、それ以前から街路樹がありました。
けやき ニレ科ケヤキ属の落葉広葉樹の高木。昭和47年10月、新宿区の木として制定。成長が早く、寿命が長いのが特徴。

けやき

UFO型 1-5丁目と6丁目は、それぞれ形状の違う円盤形の街灯でした。

1-5丁目の円盤形街灯(1977年「気まぐれ本格派」22話から)

6丁目の円盤型街灯(1977年「気まぐれ本格派」31話から)

ガス灯型 1-5丁目と6丁目の街灯は、どちらも円盤形の後はガス灯型になりました。しかし両者の形状は異なり、6丁目の方は左右のアームに高低差があります。両者が同時整備かどうかは分かりません。映画「神楽坂モデル商店街完成」(6丁目)はガス灯型の例が出ています。

6丁目のガス灯型街灯

ガス灯型街灯

インターロッキング・ブロック インターロッキング(interlocking)は、かみ合わせる。ブロックを互いにかみ合うような形状にして舗装する。荷重が掛かったとき、ブロック間の目地に充填した砂がブロック相互のかみ合わせ効果(荷重分散効果)が得られる。

インターロッキング・ブロック

輪型を残したまま 急勾配箇所ではアスファルト舗装よりもコンクリート舗装の採用が多い。自動車や自転車がすべりをとめるため『Oオーリング』と呼ばれる円形のくぼみは、ドーナツ状のゴム製リングで型どりをして施工します。

Oリング

電柱が片側だけ 6丁目の通りの両側に電柱があります。一方、1-5丁目については昭和54年(1979年)のID 85ID 87ID 88ID 89を見ると、すでに電柱は片側だけになっています。三沢氏が撮影した1980年1月の写真(下図)も電柱は片側だけのようです。
キャバレー「軽い心」 写真参照

神楽坂、坂と路地の変化40年

ツインスター 1992年12月~2003年、ディスコ「ツインスター(TwinStar)」がありました。閉店し、フレンチレストラン「ラリアンス{L’Alliance)」に変わりました。

ラリアンス

◆坂と店構えのあり方
 坂下から登り始め最初の路地が「神楽小路」。右角の甘味店「紀の善」は、改造されて昔の面影と違う。歩道から一呼吸あって引違いガラス戸があり、その前に小振りなショーケースのあるのは昔と同じ。心憎い余裕のある入口の気配りだ。「八百屋煎餅」を欲しがる知人がいて、地方に行く時のみやげだった。(省略)
 不二家の店頭で「ベコちゃん焼き」を実演していた昔、人だかりで歩けなかった。5年前の建替えで、店先が変わった。歩道からいきなり7段下がって半地下の店へ。そのカーブする階段の左脇で実演があり、さながらまわり舞台のように、階段を降りながらそれが見られる。右の階段を10段登ればコーヒー店。間口4.5mがこの仕掛けで振り分けられ、立休化して人だかりが無くなった。うまい実例である。(省略)
 間口が流通の店の3軒分ある「陶柿園」は、陶器の老舗。40年間変わらないこの店先は、恐らく神楽坂でも随一の工夫がある。坂の上と下に、2か所の入口、全面ガラスの店先で奥行きが全部見渡せる。加えて内部が5つのレベルに分かれ階段を登ったり、降りたり。それによって空間構成が見え、客がまるでステージを歩くように見える。ガラス器が輝き、人の動きに加わる。
昔の面影と違う 現在の面影は…

紀の善

八百屋煎餅 おそらく紀の善独自の煎餅
半地下の店 写真を参照fujiya
40年間変わらない 陶柿園の開業は昭和23年(1948年)、ビルを建てたのは昭和47年(1972年)でした。2006年の文章としては、少しオーバーです。
随一の工夫 随一かどうかは分かりません。

陶柿園ビル

奥行きが全部見渡せる 陶柿園ビルは店舗が1階と中2階の二層構造になっています。坂下側から入ると1階、坂上側は「神楽坂写真館」などのテナントの入り口を兼ねていて中2階に入れます。また店内の階段でも上下できます。こうした構造が前面のガラス越し見えるのが、建築家としての三沢氏に興味深かったのでしょう。

陶柿園ビル

◆神楽坂は両側商店街の典型
 (省略)
 理科大建築学科の沖塩荘一郎名誉教授は、かつて書いている。「二車線の片側は違法駐車であるが、狭くなった車道を通行人が自由に横断している。現行制度では考えられないことだが、これがこれからのまちづくりのヒント」だと。繁栄している商店街は、アーケードを持とうが持つまいが、狭い道巾で車の入らないこと。有名な江東区の「砂町銀座」。巣鴨のおばあさんの原宿である「とげぬき地蔵商店街」など。商店街は両側に店が並び、ゆっくり品定めができ、斜めに横断したり、行き交えることが賑わいづくりには、欠かせない原理ではなかろうか。(省略)
パタンランゲージ」という、建築都市デザインの文法をのべた、クリス・アレキサンダーという、カリフォルニア大学教授は、そのパタンの一つに店先を扱っている。それも随分と研究し、学生に実験させた。店が一望の下に見えることで、店内に客を呼び込める。当たり前のことだが、大小に関わらず、店舗の入口の必要条件であることを強調している。つまらないことを研究したものと、昔は考えていたが、神楽坂の両側では、その工夫に溢れていることを痛感する。

パタンランゲージ pattern language。クリストファー・アレグザンダー教授が提唱した、建築・都市計画に関わる理論。人々が「心地よい」と感じる環境(都市、建築物)を分析して253のパターンを挙げている。例には「小さな人だまり」「座れる階段」「街路を見下ろすバルコニー」など。
建築都市デザイン 現在の都市像や将来像を描くデザイン。

大阪寿司は絶滅品種?|石野伸子

文学と神楽坂

 石野伸子氏は2005年から2007年までに産経新聞に「お江戸単身ぐらし」を連載し、それをまとめて、2008年『女50歳からの東京ぐらし』(産経新聞出版)を上梓しました。中でも大阪寿司の専門店『大〆おおじめ』については2題を2005年秋に書き、これは第2部です。大〆は神楽坂6丁目8番にあった店舗ですが、2017年、閉店しました。

やっぱり絶滅品種?
「絶滅寸前・東京の大阪寿司ずし」に何通ものお便りをいただいた。
 まずは、「大阪寿司ってなんですか」という東京育ちのKさん。「江戸前でいうところのちらしのことですか? 押し寿司といえば笹寿司しか知りません」。そうですか。それほど東京では知られていないですか。とため息をつきつつ説明しようとしたがこれがなかなか難しい。広辞苑ではあっさり「関西風の押し寿司・巻き寿司の総称」とあるだけ。ブリタニカではもう少し詳しく「江戸前の握りに対し、大阪特有の押し寿司、巻き寿司をいう。箱寿司サバ寿司・蒸寿司などがあり、ネタにはサバ、小ダイ、コハダなどを使う」とあり、これが現実認識に近いでしょうか。
「神楽坂の大〆おおじめさん。懐かしい名前です」と書いて来られたのは滋賀県栗東市にすむ中西予芝子さん(46)。結婚前は東京住まいで祖母のお気に入りの店だった思い出の地。「まだ健在と知りうれしい。今度は主人と一緒に」。ええ、ええ、ぜひとも。1940年代に東京・牛込で少女時代をすごしたという大田区の読者からは「昔は蒸寿司を注文できる店がたくさんありましたね。専門店があったとは知りませんでした」と。
 東京の大阪寿司がどのような変遷をたどってきたか、もっと知りたいと書いてこられたのは浅草の男性。これについては寿司の業界団体でもはっきりせず、この種の資料豊富な「食の文化ライブラリー」を訪ねてみた。司書の方に『すし技術教科書』(旭屋出版)の「江戸前ずし編」「関西ずし編」という大著を見せられた。それらによれば、かつて江戸でも押し寿司が主流だったが、江戸末期に握り寿司が登場し、明治から大正にかけて関西では箱寿司、関東では握りと分かれて、けんを競うようになった。東京では明治33年に大阪寿司と命名して売り出したがあり人気を集めたが、結局、握りには対抗できなかった。
 同ライブラリーで「なぜ箱寿司は全国区にならなかったか」という難問に食文化研究家の石毛直道さんが答えている一文を見つけた(平成10年『別冊サライ・鮨(すし)特集』)。それには「東京が日本の首都になったからだ」とある。
 えーつ、じやあやっぱり絶滅品種?
ちらし すし飯の上に各種の具を飾ったもの。
笹寿司 笹の葉の上に、酢飯と味付けした山菜や卵焼、紅ショウガ、鮭のそぼろなどの具をのせたもの。
巻き寿司 海苔や厚焼き卵の上に寿司飯をのせ、寿司種を芯にして巻いた寿司。
箱寿司 方形の枠の中に寿司飯を詰め、その上に魚などの種をのせ、ふたの上から重しをして作る寿司。
サバ寿司 サバの肉を上にのせた押しずし。
食の文化ライブラリー 公益財団法人味の素食の文化センターの食分野に特化した専門図書館。場所は都営地下鉄の浅草線高輪台駅から徒歩4分。
すし技術教科書 全国すし商環境衛生同業組合連合会監修、荒木信次編著者。旭屋出版。昭和53年。写真も綺麗。姸を競う けんをきそう。女性たちが美しさを競い合う。「姸」とはみがきのかかった容色のうつくしさ。
 「元祖大阪寿司 ぎんざ日乃出」ですが、日乃出ビルを建てて、閉店。場所は中央区銀座5-13-19。
別冊サライ・鮨特集 岩本敏。小学館。1998年。
東京が日本の首都になったからだ どこにもそんな文章はありません。似た文章はありますが。つまり、実際にはもっと高尚なのです。後は「別冊サライ・鮨特集」で。