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牛込城の構築|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)4「牛込城(袋町居館地)と城下町」についてです。もし牛込城があった場合、何がどこにあったのかという疑問があり、そこで昭和61年度に郷土研究会が一致団結して調査に乗りだしました。

牛込城(袋町居館地)と城下町
(1) 牛込城趾の調査
 牛込氏の居館が袋町にあった、という文献は多いが、城として存在を認めているのは『御府内備考』と『江戸名所図会』だけである。
 一般に、城には城としての条件——目的、規模、範囲、施設(、井戸、やぐら曲輪等)——があるものだが、今となっては不明な点が多い。
 今回、昭和61年度、1年がかりで、会員全員でこの調査にあたった。その結果を次に示す。
①目的……袋町への進出は重行の代とすると、まさに、戦国時代へ突入する直前の頃で、居館の安全性を考え、備えが必要だったと想われる。又、筑土八幡の高台は、すでに、扇谷上杉朝興によって“”が築かれ、赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町と、ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂供養塚(奥州街道に想定されている)との二本の古道があったらしい(『牛込区史』)。まさに、城はこの二本の古道を睨んで築かれている。
②規模……牛込氏の故郷、群馬県大胡町にある大胡城趾と、その規模、構造共に、亦、地形こそ違うが、その配置、施設と想われる場所が、非常に類似している。

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 「牛込城蹟」については……

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々

註:いかさま 1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき

江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

 空堀。からぼり。水のないくぼみ。
 水堀。みずぼり。水をためた堀。
やぐら 櫓。城門や城壁の上につくった一段高い建物。敵状の偵察や射撃のための高楼。
曲輪 くるわ。城を構成する防禦区画で、土塁や堀、石垣などで囲まれた平坦地。敷地内を複数の小さな曲輪で区切るのが日本の城の基本。壁面を急傾斜の切岸状にするほか、縁辺に土塁を盛り上げたり、外周や尾根続きに空堀を掘って外部から遮断する。
重行 大胡重行。日本城郭全集第4「東京・神奈川・埼玉編」(人物往来社、1967)では……

 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城(埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条[氏康]氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年(1578年)前後と推察される。

 天文6年は1537年で、豊臣秀吉が誕生した年でした。
筑土八幡の高台 筑土山。現在の筑土八幡神社がある高台
扇谷上杉朝興 室町後期の武将。江戸、川越の城主。朝憲の子。おおぎがやつ上杉朝良の養子。
神楽坂交差点 現在は「神楽坂上交差点」です。
二本の古道 図では「二本の古道」を描くと、中央から右に動く1本(赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町)と中央から左下に動く1本(ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂—供養塚)でしょう。

「牛込区史」「道路」の126頁では……

江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもないが、赤城下の築地の成らない前正保年中の地図に依つて見ると、本区の道路は牛込見附から通寺町榎町の通りを経て馬場下に達するものと、通寺町から南折して柳町から馬場下に達し、前者と合して旧高田馬場方面に走向するものと、(供養塚町の事蹟にこれを古奥州街道の一つと言っているのは採否の限りでないが、しかし比較的重視すべき原始往還たることだけは十分に察せられる)前記柳町附近から分岐して、西大久保方面に走向するものと、市谷本村町より渓谷を辿って谷町に至り、左右に分岐する谷に沿つて一は天神前方面、他は番衆町方面に走向する道路を幹線として、それらに若干の間道を連接する片町或は両側町式市街に過ぎない。

註:正保年中の地図 正保は「しょうほう」。地図は江戸初期、正保元年か2年(1644〜45)に作られたもの
通寺町 現在は神楽坂6丁目

 つまり「2本の古道」と「牛込区史」の「道路」とは全く違っています。さらに「江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもない」といい、これは江戸初期や戦国時代以前は、おそらく憶測が入るので、考えるべきではないといっているのでしょう。
牛込区史 東京市牛込区編「牛込区史」(昭和5年)です。
大胡城趾 群馬県前橋市河原浜町の空堀で区切った中世の城跡。鎌倉幕府御家人の大胡氏が城主。

③範囲……現在の地形、及び当時の状勢から想像すると、城の範囲は袋町を中心として、若宮、北、中、南、砂土原、払方、神楽坂4、5丁目の各町の一部、いわゆる牛込台地の南側一帯と考えられる。
 袋町の光照寺の台地は、この辺での最高地(海抜27米)で、後世、江戸時代には天文屋敷(天文台)が置かれた処である(『御府内備考』)。この台地が伝承の通り、牛込氏居館趾、本丸と思われる場所で、大胡城趾本丸居館趾高台の広さと同じ、8、90米四方になる。

光照寺 袋町15番にある浄土宗の樹王山正覚院光照寺です。
天文屋敷 現在は光照寺の正面にマンション「プラウド神楽坂ヒルトップ」です。
御府内備考 天文屋鋪では……

  天文屋舗蹟
天文屋鋪蹟は地藏坂の上半町ほと西の方なり 延寶の比はたゝ二軒の旗下屋敷ありし 享保十年の江戶圖には屋敷はなくてたゝ明地のことくにて有しと見ゆ その後佐々木文次郞といひし人 元御徒組頭なり 天文の術に長しけれは召出され やかてこひ奉り この所に司天臺を建て天文をはかれりされと この地は西南の遠望さはり多けれはとてその子吉田靱負の時に至り天明二年壬寅七月 或六月朔日ともいふ 今の淺草鳥越の地へうつされたり

牛込城(「牛込氏と牛込城」「東京都新宿区 (13104) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット」から)

 北側……急をなし牛込川の谷になっている(現大久保通り)。
 西側……南蔵院旧本堂前の池にそそいでいたと思われる沢跡が一直線に逆上り、北町、中町通りを直角に横切り、南町通りの直ぐ手前まで達している。水源地は南町通りから一寸と北へ入った箇所で、現在でも使用している井戸があり、当時は涌水が出ていたことであろう。この沢を、更に、手を入れて濠とした形跡がある。
 又、最高裁判所長官邸から払方町へ行く路が牛込中央商店街通りへ出る際に、不自然な凹地が路を横切る。その谷状地の南側は、急に、市ヶ谷濠に落ちて行く。北は崖状になって、民家の中を抜けて、南町通り近くまで達し、前記の水源地近く40~50米附近まで近づいている。恐らく、南町通りができた時にならされてしまったのではないだろうか。以上が西壕跡である。

牛込川 昔、南蔵院近傍から飯田橋駅近くの小石川大沼まで流れていたと思われた川。
南蔵院 箪笥町にある天谷山竜福寺南蔵院。
沢跡が一直線に逆上り これは空から見るとはっきりします。

沢跡と南蔵院

現在でも使用している井戸 これは40年近く前、昭和62年(1987)に書かれた文章です。井戸の有無は私にはわかりません。
最高裁判所長官 最高裁判所長官公邸は新宿区若宮町39にあります。
牛込中央商店街通り 正式には「牛込中央通り」。市谷田町交差点から矢来町交差点に至る南北に通る全長約1.2kmの通り
不自然な凹地 払方町に見られます。

払方町の不自然な凹地。

ならされる ならす。均す。平す。高低やでこぼこのないようにする。たいらにする。

牛込城(北と西)

 南側……現在の外濠り通りになっている谷に面して、相当の急崖になっている。
 東側……神楽坂通り善国寺裏あたりまでは崖になっている。若宮町14、西条歯科医院一帯は現在でも、はっきり解る濠跡である。
 ここは当時、空壕ではなく、湿地的な水の可能性さえある。この濠水の流れる谷が、現在の熱海湯通りで、両崖の高さからみて、かなりの水量があったことさえ想像される。そして、若宮八幡の前は崖状になって外濠通りへ落ちている。

外濠り通り 現在は「外堀通り」です。
若宮町14、西条歯科医院一帯 小栗横丁が西側で終わる地域を超えると、西側に西条歯科医院があります。西条歯科医院とその周辺(黄色)が若宮町14です。

若宮町14はこの写真では西条歯科医院とその周辺。右が北方。下の図(↓)では西条歯科医院の地図。

熱海湯通り 小栗横丁と同じ意味です。

 大手門……一説では地蔵坂下の説もあるが、もう少し南寄りの三菱銀行から宮坂金物店辺りではなかろうか。最近、ビル工事をした宮坂金物店の通りに面したところから頑丈なで組んだ井戸が発掘された。これが、いつの時代のものか不明だが、丁度、このあたりが神楽坂通りでは一番高く、古道に対する最短距離の場所となる。又、善国寺裏、料亭松ヶ枝の庭は階段状になり、左右に折れながら登っている。そして最奥の離屋は光照寺墓地のすぐ下へと続いている。この辺が大手門と本丸をつなぐ道ではなかろうか。

大手門 城の正面。正門。おう
宮坂金物店 神楽坂3丁目6-10です。現在はMIYASAKAビルに替わり、こう椿つばき」が営業中。
 ひのき。常緑高木。日本特産。山地に自生、広くは植林。高さ30~40メートル。樹皮は赤褐色で縦に裂け、小枝に鱗片りんぺん状の葉が密に対生する
本丸ほんまる 城郭で、中心をなす一区画。城主の居所で、多く中央に天守(天守閣)を築き、周囲に堀を設ける。

 大手門には仮説として2説があるということになります。一番目は地蔵坂(藁店わらだな)が神楽坂通りと交わる点、二番目はより南方(例えば毘沙門横丁や三つ叉横丁)と神楽坂通りと交わる点。重要なことですが、どちらも仮説です。

市ヶ谷牛込絵図(万延元年)

 江戸時代の「江戸名所図会」や「御府内備考」などでも大手門の位置はわかりません。「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々(註:いかさま=なるほど。いかにも)

 仮説1は芳賀善次郎氏の下図によっています。仮説2はこの文章で、おそらく文責は一瀬幸三氏にあったのでしょう。

図は「牛込氏と牛込城」から

 搦手門……不明。
 井戸……袋町25、26番地一帯は光照寺台地の南側で、一段、低くなっている。牛込城の二の丸とみられる処で、東ぎわは崖で、下は若宮町14の水濠跡になっている。この崖際に三木さんのビルがあるが、江戸時代の土井家の屋敷跡である。土井家時代からのものといわれる、外井戸が屋上にある。今でも、外水を全部まかなっている程、出が良く、大城の水門位置からみて、この辺が牛込城の水門口とみている。この辺り一帯の井戸で、最も重要な井戸と思われるものが26番地、飯塚ビル玄関前の井戸跡であろう。旧宅時代には便利で、良い水の井戸で、余り出が良いので、現在は下水栓につないであるとのことである。飯塚ビル向って左側の隣家は一段高く、その家に通じる路が、この井戸跡を巻くようにして登っている。その路を数登り切ると、光照寺本堂が目と鼻の先にある。水吸み路の名残りではなかろうか。

搦手門 からめてもん。城の裏門。
袋町25、26番地一帯 図を参照。

袋町。建物は昭和62年の時点。現在は西条歯科医院を除き全て新しい建物に変わっている。

二の丸 にのまる。城の本丸の外側を囲む城郭。本丸を守護し、城主の館、藩の各役所、武器や食料の倉庫など
三木さんのビル 袋町25の東南の角。
土井家の屋敷跡 「新撰東京名所図会」牛込之部「中」(東陽堂、明治、明治31年)では

袋町の桜。牛込袋町25番地は遠藤但馬守(江州三上の藩主1万3千石)の下屋敷の跡にして、其地続き及び26番地の辺は光照寺の境内地と幕士の宅址なり、いたく荒れ果てゝ、人の顧みる無し、牧野毅(故陸軍少將)貸して此の一廓を購い、修理して庭園となす。(中略)明治20年頃、始めて神楽町三丁目より、牛込中町に通する邸内横貫の新道を開く、新道開鑿以来、樹木は伐去られ、次第に人家立て込みて、漸く其風致を損ふ、牧野氏去って子爵土井家(元越前大野の藩主4万石)この地所を購い、又但馬守の邸址に館す。

土井家の屋敷跡。袋町25+26。東京五千分ノ1(参謀本部陸軍部測量局。明治16年)

水門口 みとぐち。川が海や湖へ流れ込む所。河口。
飯塚ビル玄関前 図を参照
旧宅 以前に住んでいた家

 曲輪……中世の城には、その城域の最前線の守りとして、曲輪という施設がある。神楽坂通り万長酒店横の路が行元寺への元参道である。最近、万長の主人、馬場さんの案内で、地下の酒蔵を見せていただいた。この地下に、参道と平行して高さ2米の江戸時代以前の築造とみられる石垣が掘り出されている。この地下酒蔵を神楽坂通り方向に、更に拡げようと、堀ったところが巨岩(凝灰岩)にぶつかり、酒蔵の拡張は中止せざるを得なかったそうである。果して、この石垣や巨岩は牛込城の東、古道側に張り出している曲輪の、最も北寄りの土止めに用いたものではないだろうか。そして、ここを起点として、2~3米の高さの崖状をなし、相馬屋ビル裏から、往時の行元寺境内との境界をつくって、本多横丁を横切り、神楽坂3丁目、マーサー美容院裏あたりまで続く、この崖上が牛込城の東曲輪になっていたのではないか。
 この曲輪の南側に若宮八幡の台地があるが、ここも、非常の場合には南曲輪として使う予定をしていたのではなかろうか。又、西壕以西、愛日小学校あたりまで、西曲輪説を考えられる。

土止め どどめ。土留め。土手や土砂の崩壊を防止する工作物
マーサー美容院 マーサ美容院。神楽坂通りと神楽坂仲通りとが接する神楽坂3丁目の美容院だった。 昭和27年の写真で見る新宿 ID 8-12や、アルバム 東京文学散歩で見ることができます。
愛日小学校 あいじつしょうがっこう。新宿区北町26。明治13年(1880年)加賀町の吉井学校と、牛込柳町の市ヶ谷学校が合併し、愛日学校が創立。男女共学の公立学校。

牛込城の東曲輪

 綜じて、今回の調査によると、以上の条件から中世の城と認めても良いという結論がでた。石垣など殆どない、地形を利用した舌状台地上の平城で、主として、土塁と空壕で存在していたことであろう。
 城域の広さが、若干広い感じがするが、当時の関東の城の例にならうと根古屋衆を城内に住まわせていたと想われる。根古屋とは一族郎党であり、側近衆の住む家を云う。城内の大切な水場を囲むようにして、根古屋を建て、農耕をやり、馬を飼っていたと思う。其の他、武器庫、馬場、集合広場も城内にあった筈である。
 そして、江戸時代、天正年間(1590)牛込勝重が徳川幕府の家人(旗本)となると、牛込領を幕府に返上、城、居館は廃されて、百姓地になり、その後、正保2年(1645)神田にあった光照寺が袋町へ移転してきた。牛込氏は小日向牛天神下隆慶橋近くに旗本千百石取りとして屋敷を構えたのである。

根古屋 ねごや。山城の麓に形成された将兵たちの居住区域。戦国山城時代の城下の村。
牛込氏は…… 礫川牛込小日向絵図(安政4年、1857)では牛込常次郎と書かれています。

礫川牛込小日向絵図

飯田橋分水路工事(写真)ID 14812〜15 昭和52年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 14812-15は昭和52年(1977年)、飯田橋分水路の工事を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14812、飯田橋分水路工事、昭和52年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14813、飯田橋分水路工事、昭和52年

 神田川沿いの目白通りを東向きに撮影しています。ID 14812は右端に「石切橋」の交差点表示と信号機。左の先に石切橋があり、神田川を渡っています。目白通り沿いには写真奥に向けて「三菱石油」「共立」の看板。さらに奥のビルの「◯AN」は、ID 14813の「TO」と併せて「TOPPAN」(凸版印刷)でした。
 首都高速道路はT型橋脚で、「非常駐車帯」の出っ張りが路面を覆うコンクリートに影を落としています。分水路の工事が終わったあとでしょうか。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14814、飯田橋分水路工事、昭和52年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14815、飯田橋分水路工事、昭和52年

 ID 14812-3とは逆で西向きの撮影です。首都高のT型橋脚は右側が長く、神田川の上にせり出しています。ID 14815は手前の交通信号のある橋橋を自動車が渡っていて、これは「古川橋」です。さらに奥に向けて「掃部かもんばし」と「はなみずばし」と「江戸川橋」と続きます。

 ID 14814の左に「三菱銀行」の江戸川橋支店の看板があります。この支店は2020年10月26日に統合(廃止)され、現在は三菱UFJ銀行神楽坂支店内です。

神楽坂6丁目(写真)昭和47-49年 ID13227

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 13227は神楽坂6丁目から5丁目や3丁目の方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13227 神楽坂

 横の大通りは大久保通り、縦の大通りは神楽坂通りです。中央やや左の上面は巨大な「車両進入禁止」の回転標識がありますが、これは午前だけで、午後は「一方通行入り口」一方通行入口に変わります。全体にID 7430(昭和45年)と似ていますが、「車両進入禁止」の回転標識は角が丸くなっており、これはID 13174-13180(昭和47年秋~48年春)と同じものです。
 交差点名は「神楽坂」で、信号機にゼブラ柄の背面板はありません。横断歩道は白線のみで、路面のゼブラゾーンは描かれていません。
 交差点の奥と手前右側は神楽坂5丁目で、右側だけが電柱になり、上には大きな柱上変圧器があります。一方、交差点の手前左側は神楽坂6丁目で、左側に電柱があります。
 車道はアスファルト舗装。巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」もあります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、右側は丸い蛍光灯、左側は蛍光灯の下部に逆円錐型のランタンがあります。街灯の主柱は左側は白く、右側は黒く写っています。
 歩行者の1人が普通の背広で、外套等は着ていません。
 いくつかの手かがりから、撮影年代を推定してみましょう。まず三菱銀行神楽坂支店が3丁目の新ビルに戻り、仮店舗の後に「パチンコ山水林」ができました。これは昭和47年(1972年)以降です。
 回転標識の近くに歩行者天国を示す交通標識(歩行者専用)や(自転車及び歩行者専用)はありません。一方、ID 11824(昭和54年)には出てきます。なお、ID 11824の正面の高いビルは、昭和53年(1978年)3月に完成した相馬屋ビルです。しかし、ID 13227には建築中の様子も見えません。
 歩行者天国の交通標識について調べると、坂下の牛込見附の交差点でもID 13158(昭和47年秋~48年春)、ID 8800(昭和48年)にはの標識がありません。しかし田口氏05-10-32-01(昭和49年12月)(下図)には登場します。坂上でも同時期に交通標識が整備されたと考えれば、撮影時期は昭和47-49年と推測できます。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街神楽坂 05-10-32-1 牛込見附交差点から 1974-12-21

神楽坂6丁目→5丁目(昭和47-50年)
  1. ▶街灯。「神楽坂商栄会」「0-12 (駐車禁止)」「(区間内)」
  2. 「ナショナル ナショナル 店会の店」「JCB」(篠原電気店)
  3. 「喫茶室 ▲2階 HAKUSA」「(Coca) Cola (白砂)」「喫茶室 白砂 HAKUSA」
  4. 回転標識の背面
    ――神楽坂交差点
  5. 回転標識(車両進入禁止)
  6. 「(角)のせ(ともの)屋 (河)合(陶)器店
  7. 山下漆器店
  8. 割烹 うなぎ 蒲焼 大和田
  9. 洋品 タカミ
  10. 中国料理 東(花飯店)
  11. 神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに広告があり、ない場合は直接店舗に広告があった、

  1. コーセー化粧品 桔梗店
  2. 宝石 メガネ 時計 (株)タイヨウ
    ――神楽坂交差点
  3. 営業案内/土地建物売買管(理)/賃貸借周(旋)/電話買取及(販売)/不動産一般(代理)(つくば商事
  4. 東電のサー(ビスステーション)
  5. サントリーバー スローン
  6. 薬ヒグチ
  7. (季)川
  8. タイヨウ メガネセンター メガネ
  9. パチ(ンコ)(山水林
  10. 神楽坂通り/美観街
  11. やき(とり殿堂)鮒忠
  12. 五十鈴
  13. パチンコ おおとり
  14. 突き出し看板「田原屋
  15. 三菱銀行

住宅地図。昭和52年。

神楽坂3, 4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13188-98

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からID 13198までは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13188からID 13198までは神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13188 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13189 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13190 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13191 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13192 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13193 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13194 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13195 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13196 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13197 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13198 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色です。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」がありました。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱はモノクロ写真では薄い色が多いのですが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違いました。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. ▶防火水そう (丸)岡陶苑 ここ
  2. (ヤマ)ダヤ (洋傘、帽子)
  3. ▶突き出し看板と電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  4. ジャウトーヤ フルーツ パーラー喫茶。テントは「パーラー喫茶 フルーツ ジャウトーヤ」手前が果物店、奥がフルーツパーラー
  5. (店舗)
  6. 神楽坂通り/美観街
  7. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  8. 宮坂金物店
  9. (歩行者横断禁止)
  10. ▶電柱看板「 フクヤ 袋町 12」「川島歯科
  11. ▶街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  12. テントは「〇’S SHOP SAMURAIDO」(サムライ堂洋品店)ばぁ侍(2階)DC
  13. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  14. 消火栓。広告「カメラのミヨシ」(本多横丁)
  15. ▶電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  16. (車両進入禁止)毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  17. 善國寺
  18. (駐車禁止)
  19. ▶立て看板「こどもの(飛び出し多し/徐行)」
  20. ▶電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  21. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  22. ▶電柱看板「松ヶ枝
  23. 五十鈴
  24. やきとり殿堂(鮒忠
  25. タイヨウ(時計店)
  26. ヒグチ(薬局)
  27. 遠くに協和銀行
  28. ジャノメミシン
  1. 京都 。看板「 堂々オープン 960円〇〇 浪費させない店 コンパ エアプレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. 酒豪 ひな鳥 丸むし焼 とりちゅう
  3. たばこ(中西タバコ?)
  4. 看板「家のマーク ショーケース 〇〇」(坂本ガラス店?)
  5. (日)邦工(計や記、試?)(宮坂ビル)
  6. 中国料理 五十(番)
  7. (一方通行入口)。本多横丁
  8. 仐と(はきもの)(近江屋)
  9. スゴ(オ)(洋菓子店)
  10. 大佐和 神楽坂店(現・楽山
  11. ▶電柱看板「宝楽」(旅館)
  12. (毘沙門せ)んべ(い) 福屋本舗
  13. (尾沢)薬(局) カネボウ(化粧品)
  14. 第一勧業信用組合

▶は車道寄りの歩道上に広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年。出版は1972年2月

神楽坂4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13167~13170

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13167-70はカメラを神楽坂4、5丁目に置き、3丁目などを東向きに撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13167 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13168 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13168 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13170 神楽坂歩行者天国

 歩道はアスファルト舗装で、縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました(よく見ると現在も2色塗りです)。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。車道もアスファルト舗装でしたが、コンクリート舗装があるという意見もあります、
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色です。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781(昭和50年頃)など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 善國寺は本堂の再建後で、石囲いも一新されています。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂4,5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. (テーラー)島(田)
  2. アワヤ(オシャレ洋品 阿波屋)
  3. ▶たばこ
  4. 「福屋不動産 」「毘沙門せんべい」「福屋本舗
  5. お茶のり老舗 大佐和 神楽坂(店舗)
  6. 「店」。無数の字がある。ID 101の説明1の「〇〇〇〇銘茶研究会〇〇」と同じ(大佐和)
  7. 仐とは(きもの)(近江屋)
  8. ▶通学路(本多横丁
  9. (駐車禁止)(区間内)
  10. 五十(番) 中華料理
  11. 日邦工〇(宮坂ビル)
  12. 酒豪 ひな鳥 丸蒸し 焼き 鳥忠
  1. .花輪 祝開店 ロッテ商事 おおとり(パチンコ)
  2. テント(田原屋
  3. 善國寺
  4. ▶公衆電話ボックス
  5. ▶電柱看板「 質入 丸越質店
    ――毘沙門横丁
  6. ▶電柱看板「料亭 松ヶ枝
  7. 三菱銀行
  8. ▶電柱看板「小野眼科
  9. ▶電柱看板「ハ千代鮨」
  10. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年

神楽坂5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID 13174、ID 13176、ID 13178、ID 13180

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13174、ID 13176、ID 13178、ID 13180はカメラを神楽坂交差点(現・神楽坂上交差点)付近に置き、東向き(神楽坂下方向)に撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13174 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13176 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13178 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13180 神楽坂歩行者天国

「神楽坂」交差点(現「神楽坂上」交差点)があり、その交差点の上に信号機があり、信号機には背面板はないようです。神楽坂通りを横断する横断幕「楽しい情緒豊かな歩行者天国」が、左端の標識ポール「神楽坂」につながっています。この標識ポールは昭和20年代に坂上と坂下につくられたもので、坂下は昭和35年頃までに撤去されましたが、坂上はこの写真の時点でもまだ健在でした。寺内横丁の先には「神楽坂通り/美観街」が見えます。さらに遠くの「神楽坂通り/美観街」も見えます。
 交差点に面して「車両通行止 日曜・祝日の 12ー18 牛込警察署長」というバリケード看板が出ています。これは現在の歩行者天国の実施時間(12:00-19:00)とは異なります。当時は夏季と冬季で実施時間を変えていました。よく見るとバリケード看板の「18」のところに貼り紙の跡がみえます。
 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。昭和50年のID 9781など、他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

「神楽坂」交差点・神楽坂5丁目→3丁目(昭和48年)
  1. (車両進入禁止)
  2. ▶道路標識(駐車禁止)0-12 (区間内)
  3. 標識ポール「神楽坂」と横断幕「楽しい情緒豊かな歩行者天国」
  4. (歩行者横断禁止)
  5. 店舗(菊岡三味線店
  6. 店舗(明治牛乳販売所)。店頭に「明治」と書かれた牛乳ビンのコンテナが山積み
  7. 突き出し看板「(大)和田」 壁面看板「大和田」鰻焼(割烹)
  8. 店舗(リード商会)
  9. タカミ(洋品店
  10. 神楽坂通り/美観街
  11. (東洋)飯店
  12. (恵比寿精肉)
    ――寺内横丁
  13. 日本盛 ニホンザカリ 特約店 万長 Bireley’s(酒店)
  14. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街」

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. 「メガネ」の看板 (タイヨウ)
  2. カーブした矢印らしき照明広告 (「木」偏 パチンコ山水林)
  3. 東電(の)サービスステーション  新宿区神楽坂 
  4. 道路標識の反対側
  5. 神楽坂通り/美観街
  6. 中河電気
  7. 丸越(下図)
  8. 日本酒まつり 鮒(忠)
  9. (パチン)コおおとり。花輪
  10. 善國寺
  11. ▶公衆電話ボックス
  12. 三菱銀行

丸越質店。神楽坂6丁目8。1974年

住宅地図。1974年

神楽坂4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13165~66, ID13171

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13165-66とID 13171-73はカメラを神楽坂4、5丁目に置き、3丁目など東向きに撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13171 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13165 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13166 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13172 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13173 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました(よく見ると現在も2色塗りです)。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 善國寺は本堂の再建後で、石囲いも一新されています。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。
 ID 13166の写真では花輪が少なくとも7輪ほど出ています。「祝開店 おおとり 〇〇」と読めます。パチンコ「おおとり」の開店祝いに見えます。
「おおとり」を経営する鳳企業株式会社の会社沿革では

1964年(昭和39年) 神楽坂にパチンコ店『おおとり』オープン
1969年(昭和44年) 鳳企業株式会社設立
1970年(昭和45年) 新宿西口にパチンコ店『アラジン』オープン
アラジン新宿店2階に焼肉店オープン
1971年(昭和46年) 『北京料理 西口飯店』オープン
1977年(昭和52年) 『アラジン池袋店』オープン
1980年(昭和55年) NASA ビル建設

 地元の方によれば

「1964年(昭和39年) 神楽坂にパチンコ店『おおとり』オープン」とあります。昭和41年のID 12280にも「おおとり」の看板が写っています。
 パチンコ店では新台入れ替えなどを機に「新装開店」で出玉サービスをうたうことがあったので、この花輪はその種のものと想像されます。5丁目に新たに開店した「山水林」に対抗したものかも知れません。

 ID 12280の写真と住宅地図とは全く違います。住宅地図では昭和47年までは「おおとり」はなく、あるのは「フードセンター」です。しかし、地元の方によれば

ID 12272-73, 75-7612280、12282の縁日(夜店)の写真について念のため撮影年代を再検討しました。
・毘沙門堂の石囲いは再建前のもので、昭和45年以前
・易占の看板は池田信「1960年代の東京」(昭和40年)に酷似
・歩道は文様のない角石で昭和45年より前(ID 8299など)
・「オバケのQ太郎」などのブーム
昭和41年(1966年)という記録に無理はないと思います。

 では、どうして「フードセンター」が住宅地図に昭和39年から昭和47年まで、何年も残ったのでしょう。多分、今のように精密さや正確さは求めていなかったのでしょうか? でも住宅地図の最後に「航空写真一図化一測量修正一調査-トレス一筆耕一仕上。氏名・番地・職種すべて実態調査(足で調べる)。年一回現行維持」と書いてある。う~ん。わかりません。

神楽坂4,5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. (カネボ)ウ化粧(品)。尾沢薬局「化粧品/カメラ・材料 尾沢」「
    ――ごくぼその路地
  2. オシャレ洋品(阿波屋アワヤ
  3. ▶たばこ
  4. 福屋不動産 毘沙門せんべい 福屋本舗
  5. お茶のり老舗 大佐和 神楽坂(店舗)
  6. 「店」
  7. 仐(近江屋)
  8. ▶通学路(本多横丁
  9. (駐車禁止)(区間内)
  10. 酒豪 ひな鳥 丸蒸し 焼き 鳥忠
  1. .花輪 祝開店 おおとり ロッテ商事(パチンコ)
  2. テント(田原屋
  3. 善國寺
  4. ▶公衆電話ボックス
  5. ▶電柱看板「 質入 丸越質店
    ――毘沙門横丁
  6. ▶電柱看板「料亭 松ヶ枝
  7. 三菱銀行
  8. ▶電柱看板「小野眼科
  9. ▶電柱看板「ハ千代鮨」
  10. (ジャウ)トーヤ(果物店)
  11. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年

神楽坂5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13161~13164

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13161、ID 13162、ID 13163、ID 13164はカメラを神楽坂5丁目に置き、東の方向(3、4丁目)に向けて撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13161 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13162 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13163 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13164 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました。写真の左端、テントの脇の太い鉄柱は「神楽坂通り/美観街」の標識です。
 そのすぐ右の「寺内横丁」に横看板が見えますが、読めません。横丁を入ったところに、住宅地図によって異同がありますが「米枡」「割烹椿」「クラブパリジェンヌ」「末っ子」などの店名が見えます。「(米)桝」と「(割)烹 椿」と見れなくもないと思います。こうした店が横丁の入り口に共同看板を出していた可能性が高いでしょう。横丁の共同看板は毘沙門横丁のID 11833にも見られます。なお「寺内」ばかりではなく「地内」という名前もありました。

 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。また、歩行者の大半がコートや外套を着ており、年代の詳細はここで話しています。

神楽坂5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. 店舗
  2. (車両通行止め)「〇〇〇」「(日曜日)祝日の(12)ー18」
  3. 横看板(寺内横丁
  4. 「(日本)盛 ニホンザカリ 特約店 万長」「Coca -Cola」「Bireley’s バャリース 万長酒店」「キリンビール」UC
  5. 日本法令のロゴマーク 届け用紙 相馬屋
  6. 第一勧業信(用)組(合)(昭和46年10月、日本勧業信用組合から改称)

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. 電柱の足元に段ボール箱(家電品か)
  2. ▶電柱看板「内科 小児科 産婦人科 放射線科 阿部医院」「 加藤質店」
  3. 中河電(気) SONY (ト)リニトロン ボタ(ン)でん(わ)
  4. 週刊新潮(芳進堂)
  5. 電柱看板「川島歯科」「加藤産婦人科」
    ――地蔵坂(藁店)
  6. 「やきとり殿堂 鮒忠」「鳥の王様」「鮒忠 宴会場 2F 」「鮒」
  7. ▶「日本酒まつり 鮒忠」
  8. パチンコ おおとり 花輪
  9. 田原屋(果物と洋食屋)
  10. ▶電柱看板「斉藤医院
  11. ▶電柱看板「 丸越質店
  12. ▶公衆電話ボックス
  13. 三菱銀行
  14. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街」

住宅地図。1973年

神楽坂3丁目(写真) 昭和47年秋~48年春 ID13154~ID13157

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13154、ID 13155、ID 13156、ID 13157は神楽坂3丁目から4~5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13154 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13155 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13156 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13157 神楽坂歩行者天国

 歩道はアスファルト舗装で、一方、車道で坂の傾斜が急な部分はOリングのくぼみがついたコンクリート舗装で、Oリングの位置は「万平」「龍公亭」あたりまででした。それ以上の車道舗装についてはここに。縁石は黄色と無彩色との2色で、意味は「駐車禁止」。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」があります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多いのですが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781(昭和50年頃)など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったのでしょう。
 電柱は左側だけで、その上に大きな柱上変圧器があります。
 歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日の実施中。また、歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。

神楽坂3丁目→4、5丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. (レストラン)花菱
    ――見番横丁に
  2. 麻雀 一発
  3. ▶「違法駐車はレッカーで移動〇/牛込警察(署)」
  4. (最高速度)高中速度
  5. ▶電柱看板「外科 小児科 斉藤医院」「加(藤)産婦人科
  6. (菊)正宗 青柳寿司 ★サッポ(ロビール) し青柳寿
  7. (そ)ばところ 神楽坂 丸屋 生蕎麦
  8. 丸岡陶苑 DC UC
  9. (消火栓)丸岡陶苑
  10. タイヘイゴルフ
  11. ▶電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ」。
  12. (ヤマ)ダヤ
  13. フルーツ パーラー ジャウト(ー)ヤ
  14. 神楽坂通り/美観街
    ――三つ叉通り
  15. 宮坂金物店
  16. ▶電柱看板「 フクヤ」
  17. 三菱銀行
  18. 遠くに「協和銀行」
  1. (歩行者横断禁止)
  2. 縞模様のテント(赤と黄色 神楽坂青果店)
  3. (消火栓)火災警報器
    ――芸者新道へ続く路地
  4. 鮨どころ(二葉
  5. カバーマーク(美容品)(ニューマヤ美容室)
  6. 積まれた布団(フトン関商店)
    (数店おいて)
  7. 清酒〇〇〇 鳥忠
  8. 日邦工〇(宮坂ビル)
    ――本多横丁へ
  9. 仐(近江屋履物店)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1976年

神楽坂3, 4, 5丁目(写真) 昭和47年秋~48年春 ID13152-53,13159-60

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13152とID 13153、ID 13159、ID 13160は神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13152 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13153 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13159 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13160 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、おそらく黄色と無彩色に塗り分けていたでしょう。道路標示「駐車禁止」が立っています。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」があります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多いです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったでしょう。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。例外としてID 13160では右側にも電柱があり、路地の奥に電線をつなぐためのものでしょう。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節と思われます。歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日の実施なので、銀行をはじめ営業していない店が目立ちます。
 ID 13152-13153の三菱銀行は昭和47年(1972)ごろ5丁目の仮店舗から建て直した新店舗に移りました。仮店舗の後に「パチンコ山水林」(現在はシュエット神楽坂)が開業しています。ところが昭和47年や昭和48年の住宅地図では「パチンコ山水林」はまだありません。
 一方、ID 13159-13160の「毘沙門せんべい 福屋本舗」は写真では2階屋ですが、昭和48年(1973)9月に5階建ての現ビルに建て替えられました。従ってこの写真の撮影時期は昭和47年の秋から、遅くとも昭和48年の春先と推定されます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. 電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  2. ジャウトーヤ (喫)茶 フルーツ。手前が果物店、奥がフルーツパーラーでした。
  3. (店舗)
  4. 神楽坂通り/美観街
  5. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  6. 宮坂金物店
  7. (歩行者横断禁止)
  8. フクヤ。電柱看板「川島歯科
  9. 街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  10. DC JCB。サムライ堂洋品店 ばぁ侍(2階)
  11. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  12. FIRE HY(DRANT) 消火栓。広告「カメラのミヨシ」本多横丁にあった。角から4軒目くらい(下の右図)
  13. 電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  14. 毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  15. 善國寺。子どもが石囲いに登っている。本堂再建時に石囲いは一新したので滑り台はなく、この写真はただのワンパク坊主。
  16. (駐車禁止)
  17. 立て看板「こどもの飛び出し多し/徐行」
  18. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  19. 電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  20. おおとり(パチンコ)
  21. やきとり殿堂 鮒忠
  22. 中河電気
  23. パチンコ(山水林)。現在はシュエット神楽坂、築年月は2007年6月
  24. タイヨウ(時計・メガネ)
  25. 神楽坂通り/美観街
  26. 薬ヒグチ
  27. 遠くに協和銀行
  1. 京都。看板「オープン 浪費させない店 コンパ 〇〇プレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. (一方通行入口)。本多横丁へ(ここから4丁目)
    (数店おいて)
  3. (大佐和)神楽坂店(現・楽山
  4. (バー)鼓 この先突き当たり右 (「紅小路」へ)(下図)
  5. 電柱看板「 フクヤ」「旅館 宝楽」
  6. (店舗としもた屋)
  7. 毘沙門せんべい 福屋本舗 福屋不動産
  8. (店舗)
  9. オシャレ洋品 アワヤ
    ―――「ごくぼそ」へ
  10. 紳士服 テーラー 島田
  11. 尾沢薬局 (くす)り尾崎 カネボウ化(粧品)
  12. (店舗) (ここから5丁目)
  13. 第一勧業信用組合(駐車場)
  14. (店舗)
  15. かやの木(玩具店)
  16. (消火栓)
  17. 第一勧業信用(組合)。昭和46年(1971年)10月に改称

住宅地図。1980年。つづみとミヨシ

住宅地図。1976年。

神楽坂6丁目(写真)昭和45年 路面電車 13系統 加藤嶺夫氏

文学と神楽坂

 加藤嶺夫氏の「東京消えた街角」(河出書房新社、1999年)で「神楽坂通り 新宿区神楽坂6-4先から東方」は昭和45年3月15日、神楽坂6丁目から神楽坂交差点(現、神楽坂上交差点)を通り、神楽坂5丁目などを撮ったものです。左右に走るのは都電13系統で、この年の3月27日に廃止されました。その12日前の撮影です。

 車道はアスファルト舗装で、次に側溝、縁石、歩造があります。ゆるやかな坂が大久保通り。信号の向こうは神楽坂通り(神楽坂5丁目)で、こちら向きの一方通行になっています。
 中央やや左の上面は巨大な「車両進入禁止」の回転標識がありますが、これは午前だけで、午後は「一方通行入り口」一方通行入口に変わります。この奥に黒の標識があり、不明ですが、新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7430を見ると、表裏に2枚張り合われた「神楽坂」だったと分かります。さらに奥には「神楽坂通り/美観街」があります。
 では信号の手前の神楽坂通りはどうでしょうか。センターラインがあるので一見、対面通行に見えます。しかし左側にある「駐車禁止」の標識には0-12(午前中)の時間表示があります。午前中の車の向きに対する標識と考えられ、逆側には12-24(午後)の標識があったはずです。これはID 9909と同じです。つまり手前の神楽坂通りも一方通行だったのです。

神楽坂6丁目→5丁目(昭和45年)
  1. 喫茶室 2階 COFFEE 白砂(田中屋)
  2. 大久保通り
  3. 山下漆器店
  4. 割烹 うなぎ (大和田
  1. 街灯標識「神楽坂通り」 この場所は神楽坂5丁目なので、信号の向こうと同じ円盤形の街灯でした。左側の街灯にはありません。
  2. 電柱看板「歯科 川畑
  3. SEIKO(タイヨウ時計店)
  4. 大久保通り。背面板(ゼブラ柄)がある信号機
  5. 「宅地建物取引 有限会社 つくば商事」 「営業案内/土地・建物・売買・管理/賃貸借・周旋/電話買取及販売/不動産一般代理」 突き出し看板「たばこ/DPE つくば」(つくば商事)
  6. COFFEE&SNACK カレッセ サントリーバー(つくば商事の2階)
  7. 電柱看板「 東電のサービスステーション」
  8. 薬ヒグチ
  9. 季川
  10. 三菱銀行(仮店舗)
  11. 麻雀
  12. 大きな建物(中河電気) 現・八潮ビル 昭和43年(1968年)9月竣工
  13. 遠くに煙突(改築予定の三菱銀行旧店舗)

住宅地図。1973年

神楽坂青年会「神楽坂まっぷ」(神楽坂青年会、1985年)

毘沙門横丁(写真)昭和54年 ID 11832, 11833

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11832とID 11833は、昭和54年1月、毘沙門横丁を撮ったものです。 この2枚とID 76ID 78ID 83は同一の撮影でしょう。季節は冬で、ID 72、73ID 74。75、77もおそらく同じ時期です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11832 神楽坂5-37 善国寺の横の道

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11833 神楽坂5-37 善国寺の横の道

 ここは以前から毘沙門横丁といっていました。道路はアスファルト舗装で、両側に下水溝(側溝)と縁石があり、車道と歩道の区別はなく、街灯はID 9779と同じ水銀灯に見えます。また、電柱の上には柱上変圧器があります。

神楽坂4~5丁目(昭和54年1月)
  1. 三菱銀行の側面と夜間通用口
  2. 菊正宗 すき焼 割烹 牛もん
  3. 寿し処 寿し作
  4. 一條
  5. 黒い塀(松ヶ枝駐車場)
  1. 石焼いも
  2. (消火栓)
  3. 毘沙門天のコンクリートフェンスと石材数枚
  4. 電柱看板「宮城道雄記念館」「十字路右折」「神楽坂5-37」
  5. 取り外した看板「所」「会」。おそらくID 8299のような「福引所/神楽坂通り商店会」が、歳末の売り出し時に毘沙門天境内に設けられていたのでしょう。
  6. 藤間高寿
  7. 看板「藤間高寿/小勝 /はやま
  8. 電柱看板「あまなっと 五十鈴」「麻雀クラブ 三功」
  9. 料亭「松ヶ枝

神楽坂5丁目(写真)昭和54年 ID11824 神楽坂上交差点

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11824は、昭和54年1月、当時の神楽坂交差点(現、神楽坂上交差点)から神楽坂5丁目を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11824 大久保通りから神楽坂通り(早稲田通り)を見る

 車道はアスファルト舗装で、平坦で、凸凹もなく、両側には側溝と縁石があります。歩道もアスファルト舗装で、平坦です。街灯は昭和36(1961)年以降の大きな円盤形で、その下に「神楽坂通り」、さらにその下に木と人工葉があります。標識(一方通行)が大きく描かれて、その奥には大きなサイン「神楽坂」があり、さらに奥には標識「神楽坂通り/美観街」があります。
 ID 7430(昭和45年)とよく似た写真ですが、10年の間に違いが生じました。
・信号機に交差点名の標識がついた。
・ロール型の方向指示標識の矢印が横から縦に変わった。
・横断歩道が「はしご型」に描かれている。
・大久保通りの路面電車13系統がなくなった(廃止は昭和45年3月)。
 変わっていないのは、電柱が向かって右側だけにあること、標識「神楽坂通り/美観街」があること、それに一方通行の矢印の陰になって「神楽坂」の標識ポールがあることです。この標識ポールは昭和20年代後半に坂下(ID 23)と坂上(ID 9495)に設置した古いものです。坂下は昭和30年代に取り外されましたが、坂上はまだ残っています。
 矢印の下の「自転車を除く」は坂下のロール型の方向指示標識にも見えます(ID 9109など)。しかしID 65(昭和48年)にはありません。自転車は一方通行に従わなくていいことを明確にしたのでしょう。
 店の並びはあまり大きく変わっていませんが、正面の大きなビルは相馬屋ビルで、1978年(昭和53年)3月築です。
 DPE(Development, printing, enlargement)は現像・焼き付け・引き伸ばしの略で、ID 7430(昭和45年)にはつくば商事が行っていたようです。今回の昭和54年では、DPEは2つあります。右側の「DP(E)気軽に海外旅(行)」はそのすぐ下に鳩のトレードマークと「ヒ」があり、ヒグチのDPEだと思います。左側の「DPE 37円」はつくば商事かヒグチか、はっきりしませんが、つくば商事の一部を借りてヒグチが業務を始めたとすると、つくば商事からすれば、ヒグチに全てあげた方がいいでしょう。

ID 11824 DPE

神楽坂5丁目(昭和54年)
  1. 裏向きのスタンド看板(歩行者天国時に車道に出す)
  2. 標識(一方通行)「自転車を除く」。標識(自転車及び歩行者専用)。「歩行者専用道路/12-13/日曜 休日は/4月-10月/12-20/11月-3月/12-18」。標識(駐車禁止)0-12。「ランチタイム・プロムナード」のマーク
  3. 古い標識ポール「神楽坂」
  4. 河合陶器店 陶磁器 ガラス食器 陶芸用品
  5. 山下漆器店
  6. 菊岡三味線店
  7. 明治ゴールド牛乳(田口牛乳店)。2階はBoss ルネ
  8. 割烹 うなぎ 蒲焼 大和田。歩道に出前用と思われるバイク数台。
  9. 立て看板「英会話」
  10. リード商会)ビクター レコード
  11. タカミ洋品店
  12. 中国料理 東花飯店
  13. 標識「神楽坂通り/美観街
  1. 電柱。「神楽坂」交差点。電柱看板(牛込犬猫病院)。貼り紙
  2. 営業案内/土地・建物・売買・管理/賃貸借・周旋/電話買取及販売/不動産一般代理(つくば商事)
  3. DPE 37円。
  4. 看板は「貸出の物件」。あるいは読めない
  5. 薬ヒグチ。DP(E)気軽に海外旅(行)。
  6. 田原屋 フルー(ツ)
  7. 三菱銀行

住宅地図。1980年

坂上の風景

神楽坂1丁目(写真)昭和50年頃 ID 9781

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9781は、昭和50年頃、神楽坂1~2丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9781 神楽坂

 車道はアスファルト舗装、そばに側溝、縁石、歩道もアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」、さらに「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。電柱は道路の左側にしかありません。また電柱には大きな柱上変圧器があります。

神楽坂1~2丁目(昭和50年頃)
  1. 「12-23 (駐車禁止)「レッカー移動 牛込警察署長」
  2. 電柱看板「 大久保
  1. ✚ 診療〇〇 皮膚泌尿科 婦人科 外科 内科(白十字診療所)
  2. (消火栓) 消火栓広告「三菱銀行前 福屋 神楽坂 不(動)産」
  3. 「紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店」「」「事務用品」「文具」「原稿用紙」「Canon  NP コピーサービス」「Kodak」「さくら  さくらカラー」
  4. 地下鉄 飯田橋駅
  5. 不二家。不二家洋菓子
  6. 紀の善
  7. 床屋のサインポール
  8. 屋上看板「(ハッピ)ージャック」袖看板「喫茶 軽(い)心 」
  9. (山一)薬品
  10. 袖看板「パチンコはマリーで」
  11. (ニュー)イトウ(靴)
  12. (珈琲 音楽 坂)
  13. 純喫茶 クラウン

1976年。住宅地図。

神楽坂2丁目(写真)昭和48年 ID 8805, ID 8806

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8805とID 8806は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂2丁目から坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8805 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8806 神楽坂

 休日の歩行者天国が始まっています。「歩道がそれ以前のブロック敷きからアスファルトになっています」と地元の方。一方、車道について、急勾配のコンクリート坂は滑り止めが必要ですが、これは道路表面に円形のオーリングを埋め込み、一定時間後にそれを取り除く方法をとっています。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。
 電柱の上には大きな柱上変圧器があり、電柱看板も見られます。また遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えています。

神楽坂2丁目(昭和44年)
  1. 化粧品 おしゃれの店 十奈美 ブラバス・スタッフ/BR  KOJI/コージーアイラッシュ MG5
  2. 電柱の剥がされたビラ「ベトナム革(命)」
  3. おしゃれの(S)PO(T)T ESUTA(洋品店)
  4. とんかつ かん一(2階)
  5. (高い位置に マルマン)ガスライター メガネのオオカワ Nikon メガネレンズ
  6. 街灯看板「神楽坂通り」
  7. 電柱看板「歯 石川」「 大久保
  8. ヒデ美容室
  9. (音楽)長崎(五条ビル)
  10. 菊正宗 青柳寿司
  11. そばどころ 神楽坂 丸屋
  12. 三菱銀行
  1. ビクター音楽 リ(ード商会)(レコード店) 2階 (名)人荘 (麻雀店)
  2. 山田紙店 仮営業所(以前の亀井寿司)
  3. 資生堂化粧品 さわや  カネボウ化粧品
  4. 喫茶 馬
  5. マーサ美容室(窓からウインドウ型のエアコンが飛び出している。昭和40年(1965)頃の写真ID 15にはないもの。店舗の冷房が普及していった時期でしょう)
  6. アザミ
  7. ナショナル クレジット ナショナル カラーテレビ(竹谷電気工事)
  8. 小料理 万平
  9. 東洋紡カーテン(菱屋
  10. 東京電力(サービスステーション)
  11. 鮨どころ 二葉
  12. 酒酒 鳥忠
  13. 五十(番)

1973年。住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)景色 昭和41年 ID 7658

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 7658を見ていきましょう。時代は1966年(昭和41年)で、全員長袖で、コートを着ている人もいます。撮影の方向は、神楽坂1丁目から坂上に。街灯は蛍光灯一つだけで、これは昭和36(1961)年以降です。車道は平坦で、凸凹もありません。道路にたまった雨水などを排水する側溝があります。歩道は昭和37年夏や、昭和41年の「坂のある街」では表面に滑り止め文様がありましたが、昭和41年の後半にややサイズの大きい平らな正方形のブロックに代わり、きれいに並んでいます。この歩道は改修後でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7658 神楽坂 紀の善付近 1966年

神楽坂1~2丁目(昭和41年)
  1. 1階建て。田口屋生花店だが、ID 54の大きな看板はなくなった。
  2. 街灯看板の「パール ビリヤード」と「神楽坂」
  3. 電柱看板の「川島歯科
  4. 小栗横丁に行く小道
  5. 壁面看板とファサード看板の「花 田口屋生花店」。不明のネオンだが、ID 5081では「花 田口屋」。ここから2丁目
  6. 街灯と「神楽坂」
  7. 「御料理 蒲焼 志満金」と「うなぎ丼」
  8. 電柱看板の「 大久保
  9. 「靴 オザキヤ
  10. たばこ ☎(田金果実店)
  11. (食品 丸八)
  12. 「特約店 大島糸店」 4階建て
  13. サンコール(松本商店)
  14. 夏目写真館
  15. ✚クスリ(神楽坂薬局)
  16. 「洋装生地 林屋」
  17. ヒ(デ美容室)
  18. 五条ビル。5階建て。翌1967年完成だが突き出し看板も出ており完成間近
  19. 遠くに「(三菱)銀行
  1. 街灯
  2. 山田紙店
  3. ヤマザキパン(明治アイスクリーム)コカコーラ。公衆電話。でんわ☎でんぽう。公衆電話の台に第一相互銀行の広告
  4. おしるこ 紀の善
  5. 神楽小路。歩道からは1段下がる。おそらく歩道の改修で段差がついた。
  6. 床屋のサインポール(理容バンコック)
  7. (Frère WADA)YA(メンズウェアー)ID 86に詳しい
  8. 消(火栓)レストラ(ン)この先〇
  9. 軽い心
  10. ニューイトウ(靴)
  11. 遠くに「資生堂化粧品」(さわや
  12. 遠くに「神楽坂通り/美観街」。「坂のある街」にはないので、歩道改修と同時設置か。

神楽坂3丁目(写真)三菱銀行前と田原屋前、昭和33年 ID 6338と6340

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6338とID 6340は、昭和33年(1958年)「明治神宮遷宮祭記念自動車パレード」を撮ったものです。ID 6338は神楽坂三菱銀行前で、ID 6340は田原屋前で撮っています。坂下から坂上へパレードは動き、ID 6338では自動車などや、ID 6340では消防庁音楽隊のパレードでした。11月始めに都内各地で行われ、「本日特売日」の横断幕が見えますが、神楽坂通り商店街は「5の日」を特売日にしていたので、撮影日は11月5日かもしれません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6338 明治神宮遷宮祭記念自動車パレード 神楽坂三菱銀行前

神楽坂4、5丁目(昭和33年)坂上→坂下
  1. 純フランス菓子 ス(ゴウ)
  2. 突き出し看板「とんかつ・フライ うづ巻」
  3. 電柱看板「とんかつ うづ巻」
  1. 「消火栓」「神楽坂 内科 第一医院」
  2. 山手七福神 毘沙門天 易占 6本線(こう
  3. 電柱看板「眼科一般 整形 検眼 小野眼科」「土地 家屋 野口商会 不(動産)」
  4. 大久保」「倉庫完備 大久保」
  5. 三菱銀行

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6340 明治神宮遷宮祭記念 消防庁音楽隊 神楽坂 田原屋前

神楽坂4、5丁目(昭和33年)坂上→坂下
  1. 提灯
  2. マケヌ屋洋(品)
  3. 東京名物 手焼きせんべい(せんべい 福屋
  1. (べー)コン、ソーセ(ージ)」「牛 豚」「株式会社 福田」肉店
  2. 電柱看板「 金融 さわや小間物店横入る 大久保」「倉庫完備
  3. 田原屋
  4. 垂れ幕「本日特〇〇」
  5. 松ケ枝
  6. 三菱銀行

 街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭すずらん灯でした。車道は平坦、滑らかで、センターラインがなく、つまり一方通行になっています。一方通行はこの写真の昭和33年に逆転式に変わったのですが、それ以前は坂上から坂下への一方通行でした。この写真では3丁目から5丁目方向へ車が向いているので、逆転式導入後と思われます。
 電柱の上には柱上変圧器があります。歩道と車道の段差はわずかですが、車道の端には雨水を流す側溝があるようです。
 人々の密度に非常に高く、警察官も出ています。ID 6338で手紙などを持って走る女性は制服姿で、三菱銀行の職員でしょうか。しかし胸のバッチがスリーダイヤに見えないな、と地元の方。
 ID 6340で屋号を見ると、最初の右側の看板は「(べー)コン、ソーセ(ージ)」「牛 豚」「株式会社 福田」肉店で、レストランの「田原屋」、毘沙門天の境内を挟んで「三菱銀行」が続きます。左側の看板は「東京 名物 手焼きせんべい」(せんべい 福屋)と「マケヌ屋洋品」(後のAWAYA洋品店、現在は鮨酒肴 杉玉)でした。
 看板についてはID 6338の右から➀消火栓と第一医院、➁山手七福神 毘沙門天、➂土地家屋 野口商会不(動産)と小野眼科、➃電柱看板「質 大久保」が2回、➄三菱銀行、左で➅純フランス菓子 ス(ゴオ)。➆とんかつ フライ うづ巻(紅小路の左2軒目)。➅と➆の間の看板は写真では読めませんが、ここは郵便局なので「葉書 切手 小包 為替」などと小さな文字でサービス内容が書かれていたのでしょう。ID 6340では「松ケ枝」だけが見えます。
 昭和30年のID 4893(下図)では、三菱銀行はギリシャの円柱を模した4本の飾りを持つ建物でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4893 新宿区商店感謝祭 新宿菊まつり 花自動車パレード 三菱銀行神楽坂支店前

 昭和33年では様相を一変しています。これは戦前の外装を化粧直ししたものと思われます。1軒手前の建物は昭和30年には「おそば春月」でしたが、すでに店はなくなっていてベニヤ板で囲まれています。

 なお、脚注も地元の方がまとめてくれました。
遷宮 明治神宮の「遷宮」は戦災の再建社殿に移ったのもので、11/3の明治天皇誕生日の直前らしい。
側溝 後の時代に標準となる歩道と車道の段差は、専門用語では「L型側溝
小野眼科 新小川町にありました。

小野眼科

ベニヤ板で囲まれて 三菱銀行の駐車場は地図では確認できないとのこと。

神楽坂上空(写真)昭和36年、ID 12145

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12145は、昭和36年(1961年)、上空から神楽坂全体を撮ったものです。また、新宿区役場「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年3月)にもでています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12145 神楽坂上空より

 主に「通り」と「横丁」を上げてみます。拡大すると見えます。

 これから神楽坂通りを1番目として、北(右)でも南(左)でも遠くなると番号も増えていきます。また、近景から遠景まで順番に書いていきます。なお、地元の方から多大な助力を頂きました。特に遠景ではこの助けがないとできませんでした。感謝、感謝です。

近北

ID 12145の一部 神楽坂上空 近北

  1. 赤井商店(足袋)
  2. さくらや(靴)
  3. 燃料市原
  4. 佳作座(名画座)
  5. ジャマイカ コーヒー
  6. モルナイト
  7. 三陽商店工場
  8. 三和計器製作所
  9. 小林商店(砂・セメント)
  10. 伝道出版社
  11. 人形の家(喫茶)
  12. 神楽坂通りは一方通行。早稲田通りは対面通行
  13. 神楽坂警察署
  14. 池か
  15. 銀鈴会館(名画館など)

1962年。住宅地図。

近南

ID 12145の一部 神楽坂上空 近南

  1. パチンコニューパリー
  2. 聖学館と酒井
  3. 三河屋 酒店
  4. 大野テーラー
  5. 双葉社 週刊大衆
  6. 中華 源来軒
  7. 東京トヨペット
  8. コーヒー カーネギー
  9. アケミ美容室
  10. ひかりのくに
  11. 建築中(東京理科大学)

は東京理科大学

1962年。住宅地図。

中北

ID 12145の一部 神楽坂上空 中北

  1. 三菱銀行
  2. ムーンライト
  3. 大久保
  4. ゴルフ神楽坂。この手前は結構なガケで、コンクリートの擁壁になっている。このガケは今も同じ。
  5. 石造りの安井邸。翌年には鈴木邸になる。子供たちにとっては「お化け屋敷」。
  6. 旅館なの花。隣の青灰色の建物と一体で。
  7. 神楽坂浴場

1962年。住宅地図。


中南

ID 12145の一部 神楽坂上空 中南

  1. 三菱銀行
  2. 牛込三業会(今の東京神楽坂組合
  3. 熱海湯
  4. 松ケ枝
  5. 丸紅飯田若松荘
  6. 神楽坂若宮八幡神社

1962年。住宅地図。


遠北

ID 12145の一部 神楽坂上空 遠南

  1. 三菱銀行
  2. 神楽坂上交差点
  3. 音楽之友社
  4. 熊乃湯。現・玉の湯
  5. 白銀公園
  6. 赤城神社
  7. 神祇社殿
  8. 東京都職員飯田橋病院 ※後の放射線学校
  9. 雪印健保会館 ※現・升本本社
  10. 朝鮮新報社(?)

1962年。住宅地図。


遠南

ID 12145の一部 神楽坂上空 遠南

  1. 神楽坂上交差点
  2. 協和銀行
  3. 日本出版クラブ
  4. 光照寺
  5. 日本興業銀行社宅 ※旧・酒井家矢来屋敷
  6. 新宿区箪笥町特別出張所 ※ここからID 565を撮影した
  7. 見えないけど袖摺坂はこのあたり


最遠

 最後は最も遠い光景です。地元の方が教えてくれました。そのまま描いています。

ID 12145の一部 神楽坂上空 最遠

  1. 早大理工学部
  2. 都立戸山高校
  3. 早大記念会館
  4. 穴八幡
  5. 早大早稲田キャンパス
  6. 学習院目白キャンパス
  7. 椿山荘

三菱銀行神楽坂支店|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 地元の方が三菱銀行について送ってくれました。

三菱UFJ銀行神楽坂支店は神楽坂のランドマークのひとつで、関東大震災以前から商店街の中心にあります。前身は川崎銀行で、合併して川崎第百銀行、さらに戦時統合によって三菱銀行に吸収合併されました。

大正期の川崎銀行の写真は神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期にあります。煉瓦造りと思われる建物です。博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年)にも写っていますが、すでに川崎第百銀行だったはずです。

この建物は、おそらく終戦前に石造りに建て替えられました。戦時中の空襲で焼け残った様子が写真【A】です。戦後しばらくは、内装をし直して再利用していたようです。

写真【A】

早乙女勝元『東京空襲写真集-アメリカ軍の無差別爆撃による被害記録;決定版』東京大空襲・戦災資料センター。勉誠出版。2015年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 4871、4893、4899には、昭和30年(1955年)の神楽坂支店が写っています。円柱を模した飾りを前面に持つ立派な建物です。店内は天井が高く、2階建てだったと思われます。

全体のフォルム写真【B】を【A】と比べると、同じ建物であることがよく分かります。後ろの煙突は建物に付属していた焼却炉のようなものでしょう。また写真【C】の入り口上部のアーチ状の飾りが焦げ跡のように見えるのは、戦災のなごりかも知れません。

写真【B】新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」4871 三菱銀行神楽坂支店

写真【C】新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」4899 三菱銀行神楽坂支店

この写真から間もなく、三菱銀行は写真【C】の右側、隣接する蕎麦屋「春月」の土地を買い取りました。最初は駐車場として使い、それから支店を建て増ししました。

ちょっと分かりにくいのですが、1965年4月の写真【D】 (「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社)に写っている神楽坂支店です。【B】とほぼ同じですが、隣の春月はなくなっています。

写真【D】1960年代の東京 神楽坂5丁目(1965年4月)

1968年7月の写真【E】(田口政典氏。毘沙門天遠景。(05-02-32-1)は、一見すると【D】とよく似ています。しかし建物の外壁や屋上、窓の形状が違い、煙突も奥まって見えます。これが建て増し後の姿です。

写真【E】田口政典氏。毘沙門天遠景。1968-07-13(05-02-32-1)

とはいえ、戦前の建物では増築しても手狭で不便だったのでしょう。高度経済成長期に三菱銀行は建て直しを決断します。石造りの旧店舗は、周辺への通知と道路の通行止めをした上で爆破して取り壊しました。ちょっとしたイベントでした。現店舗は駐車場を地下にして建て直したものです。建て直し中、神楽坂支店は5丁目の仮店舗で営業していました。1970年3月の写真【F】 (「東京消えた街角」河出書房新社、1999年)に仮店舗が写っています。旧店舗跡には、現在の4階建ての店舗が建ちました。1972年9月の写真【G】(田口政典氏。毘沙門天遠景。(05-02-32-2)は、完成間もない頃の神楽坂支店です。

写真【F】「東京消えた街角」(河出書房新社)1970年3月

写真【G】田口政典氏。毘沙門天遠�景 1972-9-21(05-02-32-2)

その後、三菱銀行は東京銀行と合併、さらにUFJ銀行と合併して現在の三菱UFJ銀行になりました。神楽坂支店の建物も、すでに半世紀を経たことになります。

近年、大手銀行は支店網を縮小しています。三菱UFJ銀行も近隣の市ヶ谷支店、飯田橋支店、江戸川橋支店を相次いで撤退しました。しかし商店街を中心に優良な顧客を抱えている神楽坂支店は残す側になったそうで、複数の支店を同一店舗で束ねる「ブランチ・イン・ブランチ」方式で飯田橋支店と江戸川橋支店を兼ねる形になりました。今後もずっと、神楽坂のランドマークであってほしいものです。

ランドマーク 都市景観や田園風景において目印や象徴となる対象物。landmark
神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期 大正期の川崎銀行が載っています。神楽坂の今昔
博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年) 同じブログの下部では『大東京写真案内』の写真が載っています。大東京写真案内
5丁目の仮店舗 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(昭和46年)も仮店舗で営業するところをとらえています。
ブランチ・イン・ブランチ 合併した銀行などで、勘定系システム統合前に複数の支店を1か所の窓口にして行うもの
神楽坂のランドマーク 最近の写真は最後に

三菱銀行。2012/11/10

神楽坂3丁目と5丁目(写真)菊まつり 昭和30年 ID4871、ID 4893、ID 4894、ID 4899

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID4871、ID 4893、ID 4894、ID 4899は、昭和30年(1955年)「新宿区商店感謝祭新宿菊まつり花自動車パレード」を撮ったものです。まだこれ以上ものはおそらくあると思いますが、ID 4871とID 4894は「神楽坂田原屋前」、ID 4893とID 4899は「三菱銀行神楽坂支店前」と副題が付いています。
 坂下から坂上へのバスやトラックの「商店感謝祭」パレードでした。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭すずらんの花をかたどった鈴蘭灯でした。車道は平坦、滑らかで、実線で描いたセンターラインがあり、つまり対面通行でした。電柱の上には細い柱上変圧器があります。電柱は、家のすぐ前に立ち、歩道と車道は境石(コンクリートなどで作った石を埋め込んだもの)をはさんで同じ高さになっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4871 新宿区商店感謝祭 新宿菊まつり 花自動車パレード 神楽坂 田原屋前

 車一台目は区の広報車で拡声器があり、上下に「新宿区商店感謝祭〇」。二台目はオート三輪。三台目は伊勢丹の飾りを乗せたトラック。四台目は花装飾の小型車。五台目のトラックも「新宿区商店感謝祭」。さらに後続車。左端にパレードを追い越している乗用車。
 看板には「田原屋」と「Bireley’s(バヤリース)」。電柱看板の「渡邊家畜病院」と「牛込家畜病院」、遠くに「三菱銀行」と6丁目にあった「鳥羽歯科」。建物は石垣のあるところが毘沙門天、その向こうが三菱銀行。

 地元の方の解説は

 最も印象的なのは三菱銀行の神楽坂支店です。石造りの立派な建物ですが、店内の天井が高く2階建てだったように記憶しています。
 その手前、毘沙門天は石積みの塀があり、戦災の焼け残りと思われます。写真集「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」の「早稲田通り。善国寺(毘沙門天)。神楽坂5丁目(1965年4月)」では、石垣を除いた古い塀が撤去されています。
 電柱看板の「牛込家畜病院」は「山本〇」「袋町」と読めるので、後の山本犬猫病院と思われます。
区の広報車 昭和28年12月、区は広報車を購入し、昭和29年3月、活動開始。

広報車。新宿区勢要覧。昭和32年。

鳥羽歯科 6丁目で協和銀行と反対側にありました。

1960年。住宅地図。

牛込家畜病院 袋町にありました。山本犬猫病院と同じ場所でした。

1964年。住宅地図。

山本犬猫病院 袋町で、以前は日本出版クラブの対面で、牛込家畜病院と同じ場所です。

1980年。住宅地図。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4893 新宿区商店感謝祭 新宿菊まつり 花自動車パレード 三菱銀行神楽坂支店前

 車一台目は拡声器のあるバスで、トレードマークが「マルブツストアー」で「気楽にお買物が出来る店」「新宿区商店感謝祭」。二台目は三輪トラックで「新宿区 菊まつり」「新宿大通商店会」。三台目はで三越、四台目はJOQRの「文化放送」。少し離れて拡声器があるバス。
 看板には「西條医〇」「太〇朝〇 売〇」、反対側に「川島歯科」。
 建物は「三菱銀行」、続いて地図によれば「サムライ堂」「宮坂金物屋」。車道を子供が三輪車で運転中。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4894 新宿区商店感謝祭 新宿菊まつり 花自動車パレード 神楽坂 田原屋前

 空中に横断幕「追越注意」と提灯の「和装まつり」。
 車一台目の右から区の広報車で「新宿区商店感謝祭〇」「新宿区商店〇〇〇」「感謝祭」、二台目は「感謝祭」。三台目は「お買物は伊勢丹へ」「伊勢丹」「TAN」、四台目は「(感)謝祭」。
 看板は「田原屋」と壁面看板の「田」、電柱看板「牛込家畜病院」、「(掘)田の〇牛 〇〇指定店」、「洋服」「〇〇家具」、和菓子の「五十鈴」、パチンコの変種の「スマートボール リボン」、地蔵坂(藁店)がはいり、本屋の「武田芳進堂」、電柱看板の「川島歯科←」「加藤産(婦人科)」、スタンド看板の「あなたは右側を通って下さい」、店舗2軒、パチンコモナミ、電柱看板の「〇婦人科」、反対側でのぼりの「パイロット高級万年筆」。

 右端の電柱広告は見切れていますが「旅館・和可菜」でしょう。万年筆ののぼり旗は4丁目の福田屋文具店と思われます。福田屋は現在も店はありますが、長く営業していません。
「あなたは右側を通って下さい」の立て看板は、少し時代が違うID 23など複数の写真で見られます。「車は左、人は右」の交通啓蒙用としてある程度の期間、使われたと推測できます。
 藁店の角に「スマートボール リボン」が見えます。ここは昭和20年代には「ノーブル 西沢商店」でした。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では
「ノーブルさんのあとへすぐ鮒忠ですか?/そうですね」。
という話になっています。実際は鮒忠の前にスマートボールがあったわけです。
 和菓子の五十鈴の手前の「牛」「洋品」「家具」の看板は「堀田肉店」です。なぜ洋服や家具があるかと言えば、ここは戦前の「勧工場」のような共同市場形式の店だったからです。建物の中に通路をつくり、そこを区画して小さな店が入っていたそうです。オーナーが「堀田肉店」だったので、近所でもそう認識されていたのでしょう。「神楽坂フードセンター」という地図の記載もありますが、食品関係の店が多かったようです。1970年代にパチンコ店になりました。
(※注・私の母は毎日ここで、食材の買い物をしていたそうです)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4899 新宿区商店感謝祭 新宿菊まつり 花自動車パレード 三菱銀行神楽坂支店前

 1本の横断歩道。
 車一台目の左からバスで「JOQR 文化放送」「新宿区商店感謝祭」。二台目のトラックはモールに隠れてのトレードマークと「新宿区」「(MITSUKOS)HI」「〇で金お〇」。三台目は「新宿大通商店会」「謝祭」「(ま)つり」、四台目は「」、五台目は「〇の国産腕時計 (シ)チズン」。
 看板は「鳥羽歯科」。建物は「三菱銀行」「東京都 おそば 春月」

 中央の「おそば 春月」の看板は、戦前から続く名店です。「東京都」とあるのは、おそらく「麺類外食券」が使える店を示したのでしょう。「かぐらむら。67号」の写真には戦後のものと思われる簡素な街灯と春月の看板が見えますが、かなり外観が違っています。その理由はよく分かりません。
 商店街の売り出しは中元・歳暮に相場が決まっていて、その合間にイベントを挟むのが一般的です。10-11月の菊祭りは、ちょうどそういう季節ですね。「花自動車パレード」って今は聞きませんが、この車列が音楽を鳴らしながらゆっくり進んだと思われます。だから乗用車や自転車が追い越しているのでしょう。
 戦後に発足した新宿区は、明治から「山の手銀座」と呼ばれていた神楽坂地区と、昭和に入ってから急成長した新宿地区の縁が遠かったと言われます。このイベントは両地区を含めて区の商業者の一体感を醸成しようと企画したのでしょう。
 ただ飾りつけは新宿地区が中心です。マルブツ(丸物)は関西の百貨店が戦後に東京進出したもので、現在の伊勢丹新館のところに店があったそうです。他地区の商店街では、新宿のイベントが出張ってきたように感じられたでしょう。神楽坂では別に「和装まつり」をしていて、パレードの見物人が寂しいのも、そうした空気を映したものかもしれません。

車列は全部で10台。
1台目 区の広報車。
2台目 オート三輪。花飾り。
3台目 ダンプトラック。伊勢丹(新宿)の飾り。
4台目 小型の四輪車。花飾り。
5台目 ダンプトラック。シチズン時計(淀橋)の飾り。
6台目 バス。丸物百貨店(新宿)の飾り。
7台目 オート三輪。新宿大通商店会(新宿)の飾り。
8台目 ダンプトラック。三越(新宿)の飾り。
9台目 バス。文化放送(四谷)の飾り。
10台目 バス。
バスはいずれもオープンデッキがあり、イベントや選挙用のものです。

神楽坂3丁目(写真)三つ叉通り 昭和44年 ID 101

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 101は、昭和44年(1969年)、カメラを神楽坂3丁目に置き、神楽坂上の交差点方向を撮ったものです。写真の右側は4丁目、奥の方は5丁目になります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、「神楽坂通り」と花の木をモチーフにした造花があります。消火栓標識と消火栓広告がありますが、広告は空欄のようです。電柱の上には柱上変圧器があり、電柱看板も見えます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 101 三丁目

 すぐに左に回る路地は「三つ叉通り」という名前が付いています。牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第13号の「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏、1998年)では…… なお、井上元氏はインタラクション社長、林功幸氏は「巴有吾有」オーナーでした。

 するとさっきの検番通りに出る。
井上 そこは、道が三つに分かれているので『三つ叉通り』と名付けた。安易だったか。

 地元の方に意見を聞きました。

 撮影時期としてはID 64の神楽坂下(昭和45年3月)や、ID 7430の神楽坂上(昭和45年11月)と近いのですが、違いがいくつかあります。
 第一に、歩道です。このID 101は正方形の石を敷き詰めたもので、昭和40年代の神楽坂の「坂のある街」(昭和41年)と同じです。昭和45年はアスファルト舗装に変わっています。
 第二に、「神楽坂通り/美観街」という大きな標識ポールが、この写真で確認できないことです。「美観街」の標識は昭和42年の写真(田口氏 05-14-37-1 a b c)にはなく、昭和45年はあります。歩道の舗装と同時工事だったかも知れません。
 もう1点、この写真ではほとんど見えませんが、三菱銀行は建て替え前の旧店舗だったはずです。昭和45年には5丁目の仮店舗で営業していました。
 以下に、田口氏05-02-32-2などの他の写真で分かることも含めて解説します。

    1. 見切れているのは大佐和商店(現・楽山)。3階建てでした。看板は「○○○○銘茶研究会○○」と読めます。大佐和が4丁目に移転してきたのは昭和43年でした。
    2. 電柱広告「川島歯科」 ※袋町
    3. 「(福屋不)動産部/(毘沙門)せんべい福屋本店」
    4. 立看板「こどもの飛び出し多し」
    5. 尾沢薬局/富士フィルム」 ※DPE店を兼業していました。
    6. 日本勧業(信用組合) ※勧信の車庫
    7. かやの木 玩具店
    8. 電柱広告「中河電気」 ※5丁目
    9. 消火栓広告 空欄
    10. 電柱広告「 大久保
    11. (遠くに)協和銀行  ※6丁目
    12. 電柱広告「小野眼科」 ※新小川町
    13. サントリーバー さむらい ※洋品サムライ堂が2階で並営していました。
    14. 看板「(三菱銀)行」
    15. KEYS MADE。(合鍵作成)  ※宮坂金物店

70年。住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)昭和48年 ID 67

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 67は、昭和48年(1973年)5月22日、牛込橋から神楽坂1丁目などを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 67 飯田橋駅付近より坂上方向

 中央の通りは早稲田通りで、中央帯はありません。渡辺功一氏によれば、昭和54年にここも逆転式一方通行になったといいます(『神楽坂がまるごとわかる本』けやき舎、36頁)。この通りの右側は神楽河岸、左側は神楽坂1丁目です
 街灯は円盤形の大型蛍光灯ですが、左側の街灯(写真では「同棲時代」の右前。4枚目の写真)だけが形が違っています。新宿区の予算ではなく、この場所は区境を越えて、千代田区でした。
 また、最前部の車道と歩道は、石畳でした。この時代の牛込橋はコンクリート製。平成8年に現在の鋼製の橋に架け替えられました。ID 68も同様です。

 最初は4階以上の高層ビルです。これこそ地元の方の協力がないとできません。

高層ビル

  1. 理科大
  2. 週刊大衆なので双葉ビル
  3. 理科大
  4. 1丁目の田口屋(花屋)ビルで5階建て。2丁目の田口屋は2階建て
  5. 大島ビル。1階は大島糸店。4階建て。竣工は1959年5月。
  6. 五条ビル。2丁目。竣工は1967年。
  7. 三菱銀行。3丁目。現在は三菱UFJ銀行。
  8. 「軽い心」のビル。2丁目。現在はカグラヒルズビル
  9. 丸金ビル。3丁目。神楽坂仲通り。1973年の住宅地図だと「金丸ビル」。現存しません。
  10. 川田ハイツ。3丁目。現在は「クレール神楽坂6」。1973年6月竣工、5階建て。芸者新道に面していて、上に行くほど床面積がすぼまります。
  11. 七福ビル。2丁目。1971年2月竣工。5階建て。足元に「神楽坂ゴルフガーデン」(緑の楕円)がありました。

84年 住宅地図。五条ビル、大島ビル、田口ビル。丸金ビル、川田ハイツ、七福ビル。

 では1丁目です。左から右に…

67 1丁目

  1. キッチン熊
  2. ボート場
  3. 街灯。赤い円。新宿区のものではない。
  4. もつやき、正宗。キリンビール。やなぎ
  5. 立喰そば。飯田橋
  6. 金鷹。ラーメン。(二鶴)
  7. 電柱に「とんかつ森川」
  8. とんかつ森川。白鷹。
  9. コーヒー77
  10. 東山酒蔵

 右側に電柱看板「洋装店 ナカノ」があります。現在は3丁目のナカノビル。

六さんの途中下車|六浦光雄

文学と神楽坂

 昭和42年(1967年)7月2日発行の「サンデー毎日」です。
 六浦むつうら光雄みつお氏はここで「六さんの途中下車」を連載していました。氏は朝日新聞の嘱託漫画家で、細密な風俗漫画で有名でした。昭和38年、第9回文芸春秋漫画賞を受賞。生年は大正2年2月23日。没年は昭和44年6月12日。享年56歳。死因は脳出血でした。

 ドデン、ウイーン、チンジャラ、パラパラ、バタン、キュ。
 この音のヌシは、都電とクルマと、パチンコ屋と、その客をはやいとこオケラにするたくらみのホット・ジャズと、交通事故だ。むかしは人が倒れる音も、バターン、キューとのんびりしとったが、スピード時代のいまは、バタン、キュとのばさずにノビちまう。こちら牛込見付交差点。行く手には神楽坂がある。
 ドデン、パタンという現代の神楽バヤシのひびきのなかをオカメ、ヒットコ群衆が、ピーヒョロ行きかう。テンツクテンツクスッテンテン。物価高はテンをつき、庶民のふところはもはやスッテンテン。なのに右の空に「軽い心」というクラブのネオン。ハハノンキダネ。左の空にジュラルミンの星ひとつ。
 昔、ホシひとつの兵隊のとき、よくこの坂を通った。九段から戸山ヵ原へ行く通りミチだ。同年兵はほとんどフィリピンでパタン、キュと消えた。私って重い心になるとハラの虫がなく。神楽坂下の左手に「信華園」というシナソバ屋がある。この家のチャーシューはうまいねえ(チャーシューメン120円)。
 この店のすじ向かいに『紀の善』というしるこ屋がある。夏の甘味ではなんたって、、、、、氷アズキが一ばんだ。おしまいころのあのシタにのこるアズキの香がなんともいえんねえ。坂上、三菱銀行前のゲタ屋の横丁を右折して明治ビリヤードの角を左にはいると『おひで』というオサケ屋がある。剣菱180円。スイトン180円。
 本日は、話も横道にそれた。「おひで」での私の音は、キュキュ、ゴキーン。いろいろと申しわけない……
オケラ 所持金が全然ない人かないこと。元は博徒・すり仲間の隠語。
ホット・ジャズ モダンジャズ以前のジャズ演奏。黒人色が強く、即興を重視したものを漠然と指していう
のびる さんざんなぐられて動けなくなる。ひどく疲れてぐったりする。グロッキーになる。
ハヤシ 囃子。歌や舞踊,芝居,動作などをにぎやかにはやしたてる音楽やことば
ピーヒョロ トビ(鳶)の鳴き声。ピーヒョロ、ヒョロと鳴く。
テンツクテンツク 囃子の太鼓の音を表す語
スッテンテン 所有していた金や物などがすっかりなくなること
テンをつく 天を衝く。非常に高いこと。
ハハノンキダネ のんき節。歌の終わりに「はは、のんきだね」という囃子はやしことばが入る。大正7年(1918)ごろから流行した俗謡
ジュラルミン アルミニウム合金の一つ。軽量で強力で、航空機などの構造用材として使う。
ホシひとつ 二等兵(右図)
戸山ヵ原 戸山ヶ原。とやまがはら。現在は戸山ハイツ、国立国際医療研究センター、早稲田大学文学部などがある。
ハラの虫 腹の虫。空腹どきの腹鳴りを、腹中に虫がいて、それが鳴くと喩える
信華園 現在は三経第22ビル。翁庵と田口生花店との2店に挟まれた店舗
おひで この場所はわかりませんでした。

住宅地図。1965年

剣菱 剣菱けんびし酒造。本社は兵庫県神戸市東灘区。日本酒「剣菱」の蔵元
スイトン 水団。小麦粉の団子だんごを入れた汁物。

神楽坂1丁目(写真)昭和36年 ID 54

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 54は、昭和36年4月に神楽坂1~2丁目を撮ったものです。撮影の方向は、坂下から坂上です。街灯は昭和36~7年まで続き、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯でした。電灯は1本あたり3個なので、よく見ると、かなりの電灯は壊れています。別に神楽坂通りに桃の造花がいくつもあります。コートを着た人はいますが、半袖の人はいません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 54 神楽坂入口から坂上方向

神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂1~2丁目(昭和36年?)
  1. 清水衣裳店
  2. 翁庵
  3. 桃の造花では?
  4. 甘味 桜井。1階ショーケースに
    「お赤飯」
  5. 「生花 造花」「田口屋生花店」(果実店の萬屋販売所ではなくなっている)
  6. 山崎パンの配送車が停車中。反対側のヤマザキパンに行くところ
  7. 左側の田口屋生花の下で配送車の扉に隠れて「1日-15日 大東○ 百円」。おそらくクジのイベント。(100円買うと100万円当たる)
  8. 小栗横丁に通じる通り
  9. 電柱看板「森本不動産」。小栗横丁に入り1軒裏にあった。
  10. 田口屋生花店。丸い看板「花」
  11. 志満金
  12. 電柱看板「大久保」。仲通りにありました。⚫は他の写真で「倉庫完備」
  13. 数軒して「タイヤモンド毛糸 大島糸店」
  14. 数軒があり「新古美術品店」か。将来は「松本商店」になる場所。
  15. 「ク」スリ
  16. 遠くに「(三菱銀)行」
  1. 「ヤ」が見える。2階はニューマヤ美容室。1階の入り口にスタンド看板の価格表。コールド(セット■)1500 シャンプー100など。コールドパーマとは熱は使わず、代わりに薬剤を使用
  2. 1階は山田紙店
  3. 公衆電話
  4. 神楽堂。ヤマザキパン
  5. 神楽小路に行く小道があり、その上に「ダン(ス)⇒」がある。小柳ダンス
  6. BAR みなみ
  7. 志乃多寿し
  8. 山一薬品
  9. スタンド看板で「1日ー15日 大東京○○まつり 百万円」。下には「神楽坂○興○」。神楽坂通り商店会は、昭和41年まで「神楽坂振興会」でした。

 ID 48(昭和34年)と比べると、いくつかの場所が代わっています。左側は万屋販売所だったのから「生花 造花」となり、右側は「トリスバー」から「BAR みなみ」に代わりました。昭和35年の神楽坂三十年代地図では万屋が出ています。

1960年、62年は人文社「日本分県地図地名総覧」から。63年は住宅協会「全住宅案内図帳 新宿区」から。田口屋とbarみなみ

神楽坂2丁目(写真)昭和27年頃 ID 29とID 5081

文学と神楽坂

 昭和27年頃に撮った新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で2枚の写真です。1つは新宿歴史博物館 ID 29で、解像度は921 x 733ピクセルです。

新宿歴史博物館 ID 29 神楽坂途中、2丁目付近

 これは次のような説明があります。

神楽坂2丁目(写真)昭和27年頃 ID 29
 最左端は「生花や」で、田口屋生花店です。隣には鰻の「志満金」、尾崎屋(靴店)、田金果物店、八食品、大島糸店と続きます。のぼり旗は「歳末大売り出し」で、良く見るとID 28でも確認できます。

 次は新宿歴史博物館 ID 5081です。本体の解像度は3286 x 2480ピクセルでしたが、WordPressでは最大の解像度は2560ピクセルだけです。

新宿歴史博物館 ID 5081

 これも新宿歴史博物館に次の説明があります。

昭和(戦後) / 昭和27年(1952)頃 創業明治2年(1869)の老舗うなぎ屋志満金の前。

 さて同じ新宿歴史博物館で、どうして解像度がこれほど違うのか、おそらく…と考える前に…
 もう一度、ID 5081を説明しましょう。左端は「花 田口屋」です。夜に光るネオンがあり、ID 29でも分かりにくいけれど、よく見るとあります。
 次が「志満金」。左側には「北京料理」があります。看板は「銘酒 白鷹 料理 志満金」「蒲焼」の2つ。街灯のポールには「コーヒー 〇 フジヤ」と書いてあります。
 次は尾崎屋で、靴屋です。靴の絵と「ライ  ム」があります、「アポロ〇〇〇」もあります。ここにも長靴のネオンがあります。
 次は名前がない2店舗で、都市製図社の火災保険特殊地図(昭和27年)によれば田金器物、八食品で、人文社の「日本分県地図地名総覧」(昭和35年)では「果実 田金」「食品 丸八」です。旗は「歳末大売り出し」ではなく、「全店 大売出し」でした。
 次は大島糸店。看板は「毛糸ボタン 洋裁〇〇〇」。電柱看板の「質 買入 大久保」があります。
 続いて「神楽 菓子」と「〇遠家具」と「夏目写真館」が続き、口中清涼剤「仁丹」は「神楽坂薬局」があるためでしょう。
 さらに電柱看板の「三池旅館」、増田屋の「牛豚肉」、「太陽堂」「セトモノ」の瀬戸物屋。
 最も遠い「千代田銀行」は、三菱銀行です(⇒)。ウィキペディアでは1948年(昭和23年)から 1953年(昭和28年)まで、「株式会社千代田銀行」と改称したといいます。今もほぼ同じ場所に三菱UFJ銀行があります。
 解像度の違いについて、地元の方は「連続して撮影したものと見ていいと思います。
 なぜ、かくも解像度が違うのか。ID 29は保存したプリントからスキャンした。ID 5081はネガが残っていた。その差でしょう。両者に決定的な違いはないと思います」といい、これには大賛成です。でもID 29のネガも残っているのではと思います。

都市製図社「火災保険特殊地図」昭和27年

遠くの看板(写真)ID 6998、ID 68、ID 94、ID 486

文学と神楽坂

 地元の方から情報です。

古い写真の街の風景には、撮影者が意図した被写体とは別の思い出が残ることがあります。新宿歴史博物館の「写真で見る新宿」から、そんなものをいくつか拾ってみました。

写真 ID:6998(昭和30年代後半)は「東京厚生年金病院前 進む地下鉄工事」のキャプションのように、大久保通り筑土八幡町交差点から飯田橋交差点にかけての下り坂、地下鉄東西線の建設風景です。

6998 東京厚生年金病院前 進む地下鉄工事

開削工法の路面が木材でフタをされ、中央を都電の軌道が走っています。道路の上には都電の架線が張り巡らされていて、かなりうるさく感じます。

年金病院(現・東京新宿メディカルセンター)は建て替え前のもので、上空から見るとY字になった美しい曲線を持つ特徴的なデザインでした。日本武道館なども手がけた著名な建築家の作品だったそうです。Y字マークは病院のシンボルだったようで、薬の袋などに印刷されていた記憶があります。

病院の前を走るタクシーは、日産買収前のプリンス自動車の初代グロリアでしょうか。写真の右の「川島ガラス」「東衣装店」は今も同じ場所で営業中です。

写真の中央、病院の並びに「第一銀行」が見えます。戦後に進出した支店で、その後は「第一勧業銀行」、「みずほ銀行」と合併を繰り返し、神楽坂通りの「三菱UFJ銀行」のライバルとして今もこの場所に店を構えています。

東京厚生年金病院 昔の新宿区津久戸町の総合病院の名前。現在はJCHO(Japan Community Healthcare Organization、ジェイコー)東京新宿メディカルセンターに。

JCHO東京新宿メディカルセンター

開削工法 地表面から掘り下げてトンネルをつくる垂直掘削方式のひとつ
Y字になった美しい曲線を持つ特徴的なデザイン 石田竜次郎・和歌森太郎共書の「県別・写真・観光日本案内 東京都」(修道社、昭和36年)で、東京厚生年金病院が書かれています。

モダンな厚生年金病院  飯田橋の筑土八幡近くにあるこの厚生年金病院は四階建て総ガラス張り、Y字型のみるからに明るいモダンな病院であり、昭和28年に完成した。

東京厚生年金病院

このデザインについては他でもでています。

2014年4月、東京新宿メディカルセンターに変更しました。
著名な建築家 山田守氏の設計。1917年、東京帝国大学建築学科を卒業、逓信省営繕課に入り、電信局・電話局の設計を行う。1945年、逓信省を退官し、1951年、東海大学工学部建設工学科教授。建築物は東京中央電信局、東京厚生年金病院、日本武道館、京都タワーなど。生年は1894年4月19日、没年は1966年6月13日。享年は満72歳。
初代グロリア 昭和34年(1959年)の4ドアセダン。写真と比べて私にはちょっと違う気がする。

川島ガラス 新宿区揚場町2-17。ガラス工事を行う。
東衣裳店 新宿区揚場町2−21。洋服や和服を貸す。

店を構えて 最終的には「みずほ銀行 飯田橋支店」です。上図を参照。

写真ID:68(昭和48年5月22日)は、飯田橋西口前から神楽坂を見た写真です。

68

68 飯田橋駅付近より坂上方向

右側は神楽坂警察の古い建物で、この頃は使われず、飯田濠再開発の取り壊しを待っていたのではないでしょうか。道の左側は神楽坂1丁目の一部で、いくつかの店は商店会にも加盟していました。店のある左側だけ、神楽坂と同じ街灯が設置されているのが分かります。その向こうの双葉社のビルには、大ヒットした上村一夫の『同棲時代』の大きな広告が見えます。

写真中央、パチンコ店の上のヨコ看板「イーグルボウル」は下宮比町にありました。今はマンションになっています。また神楽坂通りのひときわ高い場所に見えているのは三菱銀行の看板です。

もうひとつ、パチンコ店の左上に見える大きな「B」は、大久保通り沿いの岩戸町にある教育出版の文英堂です。今も同じ場所に新しいビルがあります。写真の当時、旧ビルの地下に郵便局がありました。もともと4丁目にあった「神楽坂郵便局」(現在は楽山)が昭和40年頃に移転したのです。諸事便利な神楽坂の商店街ですが郵便は岩戸町まで行く必要があり、ちょっと不便でした。「神楽坂郵便局」が4丁目に新築したオザワビル(旧尾沢薬局)に戻ってきたのは1988年(昭和63年)でした。

文英堂とイーグルボウル

イーグルボウル 下宮比町2-27の一部にありました。

1973年。住宅地図。

写真ID:94(昭和54年1月17日)は牛込見附(神楽坂下)交差点から揚場町の方を写したものです。

94

94 神楽坂入口近く外堀通り

写真左から赤井商店のテント、さくらや靴店、市原燃料店、ヤマザキパン、名画の佳作座ミッシェルズコーヒーショップ、すべて閉店しました。神楽坂飯店は営業中です。

懐かしいのは、正面の街路樹の枝の隙間から「東海銀行」が見えること。下宮比町の交差点角に支店がありました。今はスーツカンパニーです。その左のヨコ看板は残念ながら判読できません。

下宮比町の交差点 「飯田橋交差点」です。

写真ID:486(昭和56年頃)でも、はるか遠くに下宮比町の交差点が見えます。

486 江戸城外堀跡

中央のこんもりした森は、東京日仏学院やその近隣のお屋敷の庭木でしょう。その向こうに熊谷組の本社が見えます。

外堀通り沿いには出版大手の「家の光」や「研究社」、その向こうには理科大の複数の校舎が並んでいます。遠く横に走っている首都高速が左側に隠れるあたりの黒っぼい建物が東海銀行の支店。さらに左、一段高い大きなハートのマークの看板が、東京厚生年金病院の並びにある第一勧業銀行(現みずほ銀行)の支店です。

①熊谷組
②家の光
③研究社
④⑤⑥理科大
⑦第一勧業銀行
⑧東海銀行


こうして見ると銀行業は、看板に大きな投資をしていますね。

神楽坂上の風景(写真)昭和45年 ID 7430

文学と神楽坂

 地元の人から神楽坂上についてです。

 神楽坂はもともと坂の名前なので、外堀通りの「神楽坂下(牛込見附)」交差点から坂を見上げた写真が多い。大久保通りの「神楽坂上」交差点の写真は少ないです。新宿歴史博物館の昭和45年の写真(ID:7430、下図、拡大できます)は、貴重な一枚です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7430 神楽坂 坂上風景。昭和45年11月14日

 この交差点名は戦前は「肴町」だったそうです。町名が神楽坂になり、交差点名も「神楽坂上」に変わりました。当時は「神楽坂の出口」と認識されていました。それが最近では、地下鉄神楽坂駅や牛込神楽坂駅周辺まで、ひとくくりに神楽坂と呼ばれるようになりました。いずれは交差点名も、また変わるのかも知れませんね。

 交差点から向かって左側。「美観街」の大きな標識ポールは寺内に下っていくの角にありました。角店は見えていませんが、この時代は肉屋の恵比寿亭だと思います。ポールに隠れている黒地白文字の看板は、名称変更前の「日本勧業信用組合」本店の高い広告塔だと思います。手前の相馬屋越しに見えています。その左下、やはり読めない看板は酒屋の万長でしょう。

 寺内横丁です。
角店 かどみせ。道の曲がりかどにある店。

 手前の大きな看板は「中国料理 東花飯店」と読めます。ここは戦後、ビルが建ったのは早かったのですが、何度か商売替えをしていて、失礼ながら店としては安定していなかった印象があります。

 隣はタカミ洋品店。その隣の「東芝レコード」の看板は楽器・レコードのリード商会本店です。このリード商会は、間口が広くて奥行きがない、三角形の変則敷地の店でした。2丁目の「神楽坂ビル」に支店がありました。CDや電子配信の台頭とともに、相次いで閉店したように思います。

「割烹 うなぎ蒲焼」の看板は大和田。神楽坂には他にウナギ専門店として坂下の志満金、本多横丁のたつみやがあり、藁店の角の鮒忠もウナギが売りでした。当時の商店街としての密度の濃さを感じます。

 その先からが、大久保通りの拡幅計画で道路になってしまう土地です。新規にビルを建てることも出来ず、戦後すぐの古い建物に手を加えながら使っている店が大半でした。大和田の隣は、この当時は田口牛乳店。明治牛乳の配達から菓子店、弁当店など、時代の変化に合わせて商売替えしていたように記憶します。

 写真の一番左、見切れているのは菊岡三味線店です。ショーウインドウに三味線が下がっているのが、なんとなく分かります。今ではリード商会から左はすべて、新しいビルと道路になってしまいました。

三角形の変則敷地の店 リード商会はまさに三角形の地域でした。

1970年。住宅地図。

 向かって右側は、ほとんど商店が見えていません。この写真の頃の大和田の向かい、戦前に紅谷があったあたりには、タイヨウ時計と三菱銀行の仮店舗が並んでいたのではないかと思います。銀行には大きな金庫が必要だった時代で、仮店舗といえどもわざわざ新しいビルを建てたと聞きました。5丁目に移転しなかったのは3丁目の旧店舗の敷地の方が広いからか、あるいは土地の権利関係の問題があったのかも知れません。

 当時からタイヨウ時計は大久保通りを渡った左の角に支店があり、後にそちらに自社ビル(タイヨウビル、1987年12月竣工)を建てて店を集約。三菱銀行も3丁目に戻りました。今はどちらもこの場所にはありません。当時の銀行の仮店舗は、このブログの「神楽坂の今昔1」の記事中の写真で見られます。このビルは銀行の移転後、パチンコ店になったように記憶しています。

タイヨウ時計… 以前の益美屋からタイヨウ時計になり、紅谷(赤)は空地(赤)になりました。なお、水色は「東京靴下KK」ですが、しばらくして「薬ヒグチ」になりました。

仮店舗 三菱銀行の店舗は見えないですが、最初の写真をよく見ると、沢山の人が待っているようです。ある人は「その向こう、歩道に人が何人か見えるのが銀行っぽい」といっていました。
 住宅地図では昭和45年も昭和46年も空白でした。
 加藤嶺夫氏の「東京消えた街角」(河出書房新社、1999年)では、はっきり見えます。

 電柱広告の「東電のサービスステーション」は、3丁目の菱屋の隣にありました。

「薬」だけ見える看板は薬ヒグチで、「427店」に向けて積極出店していた頃です。後に1丁目と4丁目にも別店舗を出しましたが、今はすべて撤退しています。

 一番右、「DPEつくば」は不動産屋のつくば商事です。ここも大久保通りにとられる土地ですが、それを承知で店を出したそうです。道路拡張時には営業実績に応じた補償金がもらえます。

 小さいですが写真の右下隅の「歩行者天国11/15より 正午~六時」。初期のホコ天は、夏は20:00まで、冬は18:00までと季節で運用時間を変えていました。その告知です。今は通年で19:00までになりました。これも季節感が昔より希薄になったひとつの表れのように思います。

東電のサービスステーション ここです。

1970年。住宅地図。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8806 神楽坂(一部)

薬ヒグチ 1970年「東京靴下KK」のお隣で、つくば商事の一部が「ヒグチ薬局」になりました。


「ほてや」と「ほていや」

文学と神楽坂

「ほてや」について、地元の人の意見です。

 本多横丁(神楽坂通り~芸者新路)を興味深く拝読しました。
 ただ最後に出てくる「ここは牛込、神楽坂」第5号「本多横丁のお年寄りが語ってくれました」の「ほてや」広田静江さん83歳の話は、釈然としません。
 広田さんは「戦前は毘沙門天の隣の「春月」というおそば屋さんがあったところ…今の三菱銀行の隣に店がありました」と話しています。その「春月」は、こちらのブログで何度も登場します。

 たとえば…
 ◎神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形
 ◎待合「誰が袖」では「遊び場だった『寺内』」の明治40年前後の地図が書かれています。
 ◎春月[昔]は、明治25年生まれの子母沢寛氏が「書生の頃から久しく通った」と回顧します。
 ◎大正6年の神楽坂地図(龍公亭物語り)
 ◎神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期
 いずれも同じ場所にあります。「春月」は一貫して人気店で、廃業したのは戦後のことでした。

 じゃあ、ほてやさんはどこに店があったのでしょう。ウェブサイトで自社を「大正初期の創業」としています。「毘沙門横丁」の奥、春月の裏あたりなら可能性があります。


 もう少し、ほてやさんについて考えてみます。店舗は「大正初期」に創業したといいます。大正の地図は1つしかなく、「古老の記憶による関東大震災前の形」です。しかし、ここには「ほてや」はありません。
 戦前の昭和の地図は「昭和12年 火災保険特殊地図」だけです。これにも「ほてや」はありません。店舗としてはまだまだ若いと考えたのでしょうか。

都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年

 なお、戦後も春月が同じ場所で出てきます。したがって、「ほてや」は春月と同じ場所にはありえませんが、戦前には、その下のXに、あるいは春月の一部分を借りてもよさそうです。

都市製図社「火災保険特殊地図」昭和27年

小林徳十郎「牛込区名鑑」大正15年。自治めざまし新報社

 ちなみに同じ呉服屋で似た名前の「ほていや」という店がありました。この「ほていや」についても説明します。「ほていや」は明治時代にもう出店して、住所は肴町(現在の5丁目11番地)。「ほてや」とは違うものだとわかります。「ほていや」は伊勢丹に合併されて消えました。
 ◎古老の記憶による震災前の形
 ◎東京名所図会(東陽堂、第41編、明治37年、14頁)には「呉服店には布袋屋(11番地)
 ◎明治35年、西村酔夢氏の「夜の神楽坂」では「これは土地の石川屋や、ほていやなどで拵らえる」
 ◎大正13年、泉鏡花作の「春着」では「神樂坂には、他に布袋屋と言ふ――今もあらう――呉服屋があつた」
 戦後はブティックタカミが建っていましたが、大久保通りの拡幅のため取り壊されて、現在は一部がセブンイレブンに変わりました。


 結局「ほてや」は一帯どこにあったのでしょう。「大正初期の創業」だけではわかりません。春月は戦後も生き残っています。現在のところ、「春月」ではなくその裏手にあった(Xの場所)か、あるいは春月の一部分を借りて、三菱銀行の隣に「ほてや」があったと考えます。
 なお、ほていは一般的には「布袋」と書いて、10~11世紀の仏僧で、大きな袋をせおい、体型は肥満体でした。

東京大空襲と神楽坂1

文学と神楽坂

 第二次世界大戦の東京大空襲で、神楽坂の被害は桃色の範囲で起こり、逆に白色には大きな被害はありませんでした。これは日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)です。神楽坂は焼け野原になり、焼けていない建物は三菱銀行と津久戸小学校だけでした。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

 さらに「新宿区地図集」(新宿区教育委員会、昭和54年)と「語りつぐ平和への願い-新宿区平和都市宣言5周年記念誌」(新宿区、平成4年)で、黄色や桃色は被害はあり、白色はなかった場所です。

新宿区地図集新宿区平和都市宣言5周年記念誌
「新宿区地図集」(左図)と「語りつぐ平和への願い-新宿区平和都市宣言5周年記念誌」(右図)

早乙女勝元『東京空襲写真集-アメリカ軍の無差別爆撃による被害記録;決定版』東京大空襲・戦災資料センター。勉誠出版。2015年

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第7号の「街の宝もの」で高橋春人氏は、

『戦災の神楽坂を見る』(作品①)という絵は、昭和二十年八月二.十八日、終戦直後に復員してきたときに描いたもの。坂上右側の三角形の壁は、いまも坂の途中にある木村屋パン屋の跡で、左側の四角い建物は三菱銀行。右側の方にある黒い木は、本多横丁の裏手にあった銀杏いちょうで、これはその後生き返ったとか。

高橋春人「ほろびの街」PHPエディータ―ズ・クループ。2019年

『燃える牛込台地』(作品②)。これは昭和二十年の三月十日の空襲のとき、外濠の土手から向うが燃えるのを描いたものです。この夜、東京は大空襲を受けて、まず下町のほとんどがやられた。この付近も、靖国神社方面から富士見町、お濠を越えて市ヶ谷田町…という経路で被爆していったんです。私はそのとき富士見町にいて、最初は状況判断ができず、後で考えれば焼夷弾の落とされた弾帯の道筋にそって逃げていたんです。女房と一緒で、やっと靖国神社の裏手を通って新見附方面の土手公園に出てきたら、向いの牛込台地が燃えていてね。あのあたりの屋敷町には立木が多くて、火の手が梢から梢と、走るように燃え移っていくんです。
 明け方、戻ってみると、家は燃え落ちていて、自分の部屋にぎっしり積んであった本や資料がそのままの形でまだ炭火のように真っ赤に燃えていた。その後、警察病院の方まで歩いてきたら、顔が焼けただれた高射砲隊の兵隊たち(後楽園球場に陣地があった)が、トラックで病院に運びこまれてきて。大通りには消防車が焼けてころがっていて………。神楽坂の大通りには、有名な料亭の金蒔絵の食器などが山積みにされ「お好きな品をさしあげます」という立て札が立っていたけれど、持っていく人は誰もいなかった。私はその三日後に、吉祥寺の成蹊大学にあった陸軍第一航空軍司令部に応召、そこで終戦になって帰ってきたわけです。

 水野正雄氏は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「神楽坂を語る」で

(復員のため)二十二年四月に名古屋に上陸しました。上陸したら東京の空爆した場所の地図等が出ていて、神楽坂は全滅でした。名古屋から東海道線の夜行に乗って、当時六円のおにぎりを買いました。もらったお金は三百円。そのうち百五十円を名古屋出るときにもらいました。飯田橋の改札で復員切符を見せて渡そうと思ったら、鉄道員が「お家ありますか?」と聞くので、「多分ありません」と答えると、切符を持って行けばどこまでも行けるからと切符を返してくれました。六年経って帰ってきたが、もう何もない。毘沙門の隣の三菱銀行が半分傾いてあるだけで、他は何もありませんでした。この付近の人たちは道の両側に各自の防空壕を掘って暮らしていました。小さい防空壕がいっぱいあったんです。それから津久戸小学校が少し残っていました。あと建物は三菱銀行と津久戸小学校だけ残っていました。助六のおやじさんから閧いて後からわかったことだけど、外堀飯川堀の方が半分埋まっていて、そこに材木屋だとか神楽坂警察署を建てました。屋根だけが出ているような状態で神楽坂警察署ができていました。神楽坂警察は屋根が低くて、麹町方面から来た火事を逃れて助かっていました。戦後の商業地には闇屋が出てきていたが、警察が健在なので、みんな捕まっちゃって神楽坂の発展がかえって遅くなってしまったそうです。

 戦災は神楽坂警察署にはなかったようです。神楽河岸は残り、最初の図でも戦災はなかったようです。

 神楽坂出身の竹田真砂子氏は「綱子の夏」(小説新潮、1998年7月号、日本文藝家協会「現代の小説1998」徳間書店、1998)で

 一ヶ月後、ともかくも様子を見て来ると、秀樹を母親に頂け、リュックサックに、とうもろこしとトマトとひまわりの種をつめて、綱子は上京した。
 満員の汽車を乗り継ぎ、以前なら四時間たらずのところを、六時間かけて到着すると、神楽坂は一面、焼野原になっていた。
 坂の両側に軒を連ねていた商店も、瀟洒(しょうしゃ)(たたずま)いを見せていた料亭の、洗い出しの板塀もない。横丁も小路も瓦礫(がれき)に埋もれて方角さえ分らず、自分の家がどの辺に建っていたのか、見当もつかなかった。
 わずかに、焼け焦げたコンクリートの肌を哂して形を(とど)めている小学校と銀行の位置を確かめて、この辺と思う所に行ってみる。と、思いがけないことに、その一画には焼け木杭(ぼっくい)が何本か打ちこんであり、あり合わせの板きれに書き記した『一新松所有地』の札が立っていた。綱子は、ぼんやりと、その木札を眺め、重 いリュックサックを背負ったまま、しばらくそこに佇んでいた。
「あれぇ、お綱姐さんじゃありませんか」
 突然、後から声をかけられた。綱子が振向くと、顔見知りの男が立っていた。
「やだ、鶴さんじゃないの。まあ、あなた、生きててくれたのね」
 声が、どんどん元気になった。
 鶴さんは、花柳界の事務局である見番(けんばん)で働いていた男衆(おとこし)だった。女房子は疎開させたが、自分は見番の管理室に寝泊りしていて空襲にあい、九死に一生を得たのだという。
「よくぞご無事で」
 涙ぐむ綱子に、改めて鶴さんは頭をさげ、
「姐さんもご無事でなによりでした」
 大粒の涙をこぼした。

洗い出し アライダシ。板の表面をこすり、洗って木目(もくめ)を浮き出させたもの。
男衆 おとこしゅう。おとこしゅ。おとこし。男の人たち。男の奉公人。