五叉路」タグアーカイブ

飯田橋交差点(写真)目白通り 平成元年 ID 508

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 508は平成元年9月に「下宮比町交差点」(正しくは「飯田橋交差点」)を、おそらくセントラルプラザの2階デッキ部分から撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 508 下宮比町交差点

 中央には五叉路があり、左下から横断歩道と飯田橋歩道橋を越えて右に抜けるのが外濠通り。横断歩道の向こうから左上に続くのが大久保通り。歩道橋の向こうの首都高速道路5号線(池袋線)に沿う形で中央奥にカーブしていくのが目白通りです。歩道橋は「外堀通り/新宿区下宮比町」と書かれています。
 手前に見えているのは地下の駐車場につながる換気装置でしょう。ラムラの「せせらぎ」にかかる「ひいらぎばし」の上で、おそらくフリーマーケットを開催中。やや離れて交差点に近い小屋は、地下鉄の出入り口のエレベーターです。

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)

 遠くに見えるビル等は左から……

  1. 「週刊現代」と「飯田橋東海ビル」
  2. 「(セント)ラル/(ファイ)ナンス」
  3. 地面に小さなテント
  4. 「ビューティープラザ/レディ」(パーマ)
  5. 「ミカワ薬局」
  6. 「五洋建設」

昭和55年(1980年) 飯田橋交差点 ラムラ建設前

飯田橋交差点(写真)目白通り 昭和54年 ID 498-500, 12107-08, 12111

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 498-500, 12107-08, 12111は昭和54年3月に飯田橋交差点、飯田橋歩道橋、目白通り、外堀通り、首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しています。資料名は「下宮比町交差点」で、地元ではそう呼ばれることが多かったようですが、正しい名称は「飯田橋交差点」です。また、 ID 12107はID 499と、ID 12108はID 500と、ID 12111はID 498とほぼ同じ写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 498 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12111 飯田橋歩道橋 目白通り 飯田橋駅付近

 歩道橋に横断幕「ゆずり合いモデル交差点/ゆとりを◯◯て東京に」と地名表示「目白通り/新宿区下宮比町」。その下を左右に横切るように車が走るのは外濠通りです。左端に特徴的なカーブした歩道橋の階段が見えます。
 たくさんの自動車が並んで待っている道路は「目白通り」です。奥には首都高速道路と橋脚があります。高速の直下は神田川ですが、昭和40年以前には江戸川と呼びました。
 交差点の向こうは文京区です。「(写)真製版所」「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」が見えます。
 撮影位置は図のでしょう。

撮影位置(1978年下宮比町付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 499 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12107 飯田橋歩道橋

 ID 498より、やや左よりを撮影しています。歩道橋の横断幕「ゆずり合いモデル交差点/ゆとり◯◯◯で東京に」と地名表示「目白通り/新宿区下宮比町」の左に、交通信号機と、小さく「飯田橋」交差点名表示があります。道路標識としては(指定方向外進行禁止)(大型貨物自動車等通行止め)とおそらく(駐車禁止)と(区間内)があります。撮影位置は図のです。
 右奥に伸びる片側2車線の道は目白通り。左右は外濠通りです。手前に信号機と、歩道橋が影を落としているので撮影位置が分かります。
 歩道橋の下にある建物は左から「LADY」「焼肉」「肉」「歯科」「麻雀」「土井建材」「近畿日本ツーリスト」「(フィニッシュワークス)クール」「サワ◯◯」。歩道橋の上は「ビューティープラザ/レディ」「ステッカー/も/つくります」「ジャッカル断裁機/東京伊藤鉄工㈱」「合コンパご宴会」「(モリ)サワ」「M」。


新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 500 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12108 飯田橋歩道柵

 ID 498とほぼ同じ場所から、右よりを撮影しています。左で見切れているのが目白通り。左右に車が走るのは外濠通りです。右手前の車は信号待ちで、頭上にある歩道橋の影が映っています。撮影位置は図のオレンジです。
 歩道橋の地名表示は「外堀通り/新宿区下宮比町」、また手すりには「飯田橋/Iidabashi」の交差点名表示があります。写真の中央から右の大部分は神田川にかかる船河原橋で、歩道橋の少し奥は文京区になります。飯田橋は千代田区の地名ですが、この写真には写っていません。
 歩道橋の角に信号機と標識(指定方向外進行禁止)とおそらく標識(直進以外進行禁止)があり、これは中央分離帯でしょう。
 建物は「ばな」「万」「5階」「◯クト」ですが、遠くの袖看板は文字が小さくて確認できません。「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」は露出のせいで読みにくくなっています。

飯田橋駅東口(写真)令和元年 ID 13319

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13319は令和元年(2019年)飯田橋歩道橋の下から飯田橋交差点を中心に撮ったカラー写真です。ここは飯田橋駅東口に近く、昭和58年8月5日に区境変更していますが、この写真を撮った場所はおそらく新宿区でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13319 飯田橋交差点令和

 この飯田橋交差点は五叉路ですが、道路は奥に行く大久保通りと左右の外堀通りしか見えず、前後をつなぐ目黒通りは見えません。歩道橋には「外堀通り/新宿区下宮比町」と書かれています。空に雲はなく、無電柱化の成功のため電柱もありません。左側の中央分離帯にあるのはブリンカーライト(障害物表示灯)です。

飯田橋交差点(令和元年)
  1. 名代 富士そば 24
  2. TULLY’S COFFEE 
  3. 格安販売 チケット モモ 新幹線自販機 黄色のバックカラーに「魚」か?
  4. (駐車禁止)
  5. (店舗 TULLY’S COFFEE)
  6. 「ふくの鳴」「ラーメン」
  7. 鳥よし
  8. 遠くに熊谷組ビル
  1. THE SUIT COMPANY ECC外語学院 英・中・韓・仏 伊・西・独 3F Leave a Nest 4, 5F 鳥どり B1F
  2. 魚盛  うおもり  みずほビジネスパートナー MIZUHO みずほ銀行
  3. 大野屋
  4. サンワード貿易 飯田橋内科歯科クリニック  JJS 〒
  5. 東京新宿メディカルセンター別館(東京厚生年金病院別館を平成9年に改築、平成26年に改称)

住宅地図 令和2年

神楽坂下の五叉路案[明治の市区改正](明治22年ごろ)

文学と神楽坂

地元の方からです

 市区改正で作られた飯田橋の五叉路は今も健在です。計画図を見ると、現在の神楽坂下交差点も五叉路にする予定でした。

 図の赤い実線は、市区改正設計で最も幅の狭い第五等道路を示します。これについて市区改正委員会では以下の議論がありました。

明治21年(1888年)10月15日開催
委員長  まず大体を決し、支線は実施に臨み斟酌するの精神をもって、四等(以上)の主なる路線のみを議定せり。(条例に)五等道路をいちいち掲ぐるとせば、その調査容易なるまじ。
6番委員 焼失(火事)を待って改正なすとしてはいかが。
19番委員 堅牢の家屋を建設すれば改正の期なきに至らん。ことごとく決定し置くことにしたし。
15番委員 (専門の)委員を設け調査するとしては。
17番委員 五等道路ごときは市民の意見にまかすとして可ならん。
4番委員 委員の手数は省きうるも、東京府庁は道路に着手するを得ざるべし。
13番委員 路線を定めずしたらば、庶民は家屋建築、地所売買に苦しむなるべし。
(新字・新かなで適宜省略)

 火事を待って道路計画を決めるというのは、大火の多かった江戸の町の歴史を思わせる意見です。採決によって専門委員を設ける案を採用し、神楽坂通りの迂回を提案した1番委員、新見附部分の新道を提案した19番委員らが選ばれました。

 さて神楽坂下に戻って、明治22年、市区改正で以下の道が指定されました。

第五等道路
第八十一 牛込神楽坂下より若宮町・南町を経て、納戸町に至るの路線。

 具体的には神楽坂下から小栗横丁-若宮町の新坂-南町の通りを結び、幅6間(10.8m)に広げるものです。

 やや強引に見えます。何より小栗横丁と新坂の間には高いガケがあり、地図の等高線が狭くなっています。ここに道を通すのは大規模な工事になるでしょう。第五等道路の指定にあたり、十分な調査がされなかったことを思わせます。
 明治36年、市区改正が大幅に縮小された新計画で第八十一は脱落し、神楽坂下は五叉路になりませんでした。小栗横丁と新坂の間は現在、若宮神社側を迂回して上る道になっています。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録は国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。ただし、第五等道路の個別の議論は残っていないようです。

飯田橋の五叉路[明治の市区改正](明治40年ごろ)

文学と神楽坂

地元の方からです

 五叉路の交差点は十字路に比べて交通信号が変則です。神楽坂周辺には五叉路が連続している区間があります。このふたつは明治の市区改正で作られた大久保通りが関係しています。
 西側にある筑土八幡町交差点については、筑土八幡神社前(写真)の記事で記述しています。

東京市区改正全図(明治23年)五叉路 赤の実線や破線が市区改正の道路計画

 ここでは東側の飯田橋交差点の成り立ちを見ます。
 明治22年、市区改正委員会は現在の大久保通りを第四等道路に指定します。神楽坂通りを通すと急坂になるので、北側にバイパスとして設ける計画でした。

第四等道路
 第三十五、牛込揚場町第二等線より津久戸前町に至り、左折して肴町・山伏町通り、原町等を経て、戸山学校に至るの路線。

 この市区改正設計は「道路事業がほとんど進まず、最低限の項目を選んで拾い上げた新設計案が作成されました」(東京の都市づくりのあゆみ 1章06 032頁左下、2019)

大久保通り 飯田橋付近 比較図 東亰市牛込區全圖 明治29年8月調査明治40年1月調査


 明治36年に改められた新設計でも、大久保通りは「第十四」と番号が変わり、同じ内容で残りました。
 注目すべきは起点が「揚場町」であることです。同時期に第四等道路に指定された現在の目白通りは

第四等道路
 第五、飯田橋外より江戸川に沿い、江戸川橋際に至るの路線。

と「飯田橋外」と書いてあります。確かに道路計画図では、大久保通りは飯田橋交差点と少しずれて描かれています。
 しかし実際の大久保通りは揚場町より北側、下宮比町が起点となりました。新しい道は明治40年までに開通し、この工事に伴うと見られる移転などが相次いでいます。

出来事
明治36年市区改正新設計決まる
二条基弘公爵邸(津久戸前町16)(→牛込若松町に転居)
明治37年二条邸跡に津久戸小学校開校
明治40年宮比神社が筑土八幡宮境内に遷座
行元寺が西五反田に移転
明治43年牛込区議会、飯田橋-新宿車庫間の路面電車の促成の意見書
大正元年飯田橋-牛込柳町方面の市電開業

 なぜ起点を下宮比町に変更したのか。ネット公開している市区改正委員会の議事録の範囲では理由は分かりません。おそらく急速に市民権を得ていた市電の敷設が関係していたのでしょう。

携帯番地入東京區分地圖(明治42.11)21コマ 飯田橋付近 破線は市電の計画線。大久保通りは不正確

東京五案 内(大正3)13コマ 飯田橋付近 市電は延伸途中。中央線飯田町駅との乗り換え拠点に

 飯田橋は5方面から市電が集まる結節点となり、複雑に軌道が敷かれていました。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録のうち明治33年までを国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

下宮比町(飯田橋)交差点

文学と神楽坂


地元の方です

 目白通りと外堀通り、そして大久保通りが交わる五叉路を、地元では「下宮比町の交差点」と呼ぶことが多かったと記憶します。
 しかし戦後の地図を見ると、一貫して「飯田橋」と書かれています。この理由を考察しました。
 交差点は全域が外堀の外で、新宿区内になります。隣接する千代田区の地名「飯田橋」は不適当とも言えます。しかしながら、かつては都電の結節点として交差点を取り囲むように飯田橋停留所があったことから、飯田橋と呼ぶことに抵抗は少なかったはずです。

住宅地図。飯田橋交差点 1962

 ひとつの可能性は信号機に交差点名が表示されていなかったことでしょう。単に「下宮比町のあたり」と呼ばれていたことはありそうです。
 もうひとつは、この交差点に1970年代に設置された「飯田橋歩道橋」の住所表示です。田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の写真には大きく地名が書かれています。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」06-09-57-1 船河原橋西詰から 1976-12-02

 実は信号機の交差点名の表示も始まっています。よほど目立たなかったのでしょう。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」06-09-57-2 船河原橋南詰から 1976-12-02 赤囲みが交差点名

 現在でも同様な表示はあるのですが、いくぶん文字を小さするなど誤解を避ける工夫をしているようです。


飯田橋交差点(写真)信号機 昭和28年 ID 13030

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13030は、昭和28年(1953年)、飯田橋交差点(当時は下宮比町交差点)から東南から西北を、つまりしも宮比みやび町を見た写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13030 飯田橋交差点

 新宿未来創造財団の「新宿風景Ⅱ」(新宿区立新宿歴史博物館、平成31年)では……

120 飯田橋交差点 昭和28年(1953)
左手奥が大久保通りで、かすかに津久戸小学校が見える。左手建物の屋上に見える丸い建物は、東京厚生年金病院。

 交差点は五叉路(東西に目白通り、南北に外堀通り、大久保通り)ですが、見えているのは左奥に坂を上る大久保通りだけ。左に立つ電柱の右側に隠れるような黒い影が、説明文にある津久戸小学校の校舎です。
 中央の縦に並んだ信号機は交差点の中の土台の上に立っています。信号機の背面板と土台は注意喚起のゼブラ柄。「自動交通信号機設置記念」の看板は緑門のように青葉で囲まれているようです。読めない文字は自治体名か警察署名でしょう。
 同時期のID 23(昭和27年頃)では、隣接する牛込見附交差点(現・神楽坂下交差点)に信号機が見えません。都内の信号機の多くは戦災で失われました。それが復旧した記念の写真と思われます。
 しかし、もう一つ重要な意味があります。戦後、この交差点はロータリー交差点に変わったのです。しかし、「朝夕のラッシュ時には車のこう水になり、ひどいときには500台ぐらいが五つの道にひしめいて歩行者も命がけで横断する」(読売新聞、昭和28年12月1日)状態になったのです。ロータリーをやめ、代わりに普通の五叉路に戻って、それが完成したのがこの写真でした。細かくはロータリーの廃止を見てください。
 右上に煙突が2本。手前は「工場」、その奥は「クリーニング」です。この一帯は牛込台地から見ると川沿いの低地です。通りに面して店が並んでいますが、裏に回ると工場や倉庫が多く立地していました。
 大久保通りをバスが何台か下ってきています。交差点に近い黒バスは分かりませんが、少し後ろは都バスと思われます。富士TR014X-2のようです。
 飯田橋交差点は都電3系統が交わる交通の要でした。路面電車は写っていませんが、空中には縦横に架線が渡っています。車道と歩道の間はガードレールではなく歩車道分離柵でした。
 正面のひときわ偉容を放つのは東京厚生年金病院です。昭和27年10月に開設、11月に診療開始。南棟を増設し、昭和28年に完成しました。5階建てで、屋上の丸い建物の下はぐるぐる回るらせん階段でした。35年後の昭和62年に建て替えのため南棟を解体し、平成10年に東棟を解体して旧館の取り壊しが終了。平成26年、東京新宿メディカルセンターに改称。

 以下、左から右に。

    大久保通り手前側

  1. 質王 陣屋 質と金融
  2. 立て看板「横断(歩道)/見」
    大久保通り向こう側

  1. 大野屋武道具店
  2. 第一銀行(現・みずほ銀行飯田橋支店)
  3. や〇處
  4. 〇マニ(ヤマニ飲食店?)
  5. 不明
  6. 建屋越しの看板「旅館タカラ」(多加良)
  7. 不明、2階窓に干し物
  8. 電柱広告「たから」(多加良)
  9. 不明
  10. 山口のパン
  11. 飯田橋ビヤホール 中華料理 キリン
  12. パーマネント (L)ady
  13. 森永キャラメル づぼ屋

下宮比町。人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年