佳作座」タグアーカイブ

神楽河岸(写真)飯田濠 ID 8285 昭和44年頃か

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」は、ID 8285は「昭和44年頃か」として、飯田橋駅から神楽河岸を撮影しました。牛込橋の桜は葉が落ちて裸木になっていて、晩秋から早春にかけての時期でしょう。また、ID 8285とID 8267と8269は桜の枝ぶり、濠の干上がり具会までそっくりで、同じ時の撮影でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8285 神楽河岸

 飯田橋駅のホームの市ヶ谷側、西口に向かうスロープの下から撮った写真です。線路は中央・総武線1番線で、新宿駅方面から御茶ノ水駅方面に乗客を運びます。
 右下は飯田濠ですが、この頃、悪臭に悩んでいて、アオコもありました。また建物についてはID 8267と8269ID 8265を参照してください。

AーD 神楽坂警察署跡地の警視庁の施設。第2機動捜査隊や神楽坂下巡査派出所、寮などに使われた。 E 新宿区役所土木課 F 大郷木材店(倉庫) G 大郷木材店(倉庫)
1 とんかつ森川旧店舗(立喰そば? 早稲田通り) 2 二鶴(早稲田通り) 3 佳作座(外堀通り) 4 三和計器製作所(外堀通り) 5 城北ガレージ(外堀通り) 6 パチンコジャイアンツ(外堀通り)
ⅰ 家の光会館 ⅱ 理科大 ⅲ 双葉ビル ⅳ 理科大 ⅴ 田口屋ビル(神楽坂通り) vi 喫茶軽い心(神楽坂通り)vii 五条ビル(神楽坂通り)viii 神楽坂ビルディング(神楽坂通り)

神楽河岸(写真)ID 8763-66, 68 昭和44年頃か

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」は、昭和44年頃か、ID 8263-66とID 8768は国鉄(現、JR)飯田橋駅から神楽河岸、神楽坂などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8263 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8264 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8265 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8266 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8268 神楽河岸

5図のまとめ

ID 8265から

神楽河岸高層ビル外堀通り(北)
A.警視庁(第2機動捜査隊)a.東京理科大学1.佳作座
B.警視庁b.週刊大衆(双葉ビル)2.トウホウビル(バラエティスタンド飲食街)
C.警視庁(神楽坂巡査派出所)c.東京理科大学3.三和計器製作所
D.新宿区役所土木課d.田口屋生花店(神楽坂通り)4.広告「エアーホット」(神楽小路)
E.大郷木材店(倉庫)e.喫茶軽い心(神楽坂通り)5.城北ガレージ
F.大郷木材店(倉庫)f.五条ビル(神楽坂通り6.パチンコジャイアンツ
G.大郷邸g.神楽坂ビルディング(神楽坂通り)
 ※間に遠く文英堂ビル(岩戸町)
h.丸金ビル(仲通り)
i.銀嶺会館(広告) HiFi サンスイ stereo/ホテル観◯荘/八丈パークサイドホテル

ID 8266から

神楽河岸高層ビル外堀通り(北)
F.大郷木材店(倉庫)h.丸金ビル(仲通り)6.パチンコジャイアンツ
G.大郷邸i.銀嶺会館
(広告) HiFi サンスイ stereo/ホテル観◯荘/八丈パークサイドホテル
7.東京トラベルセンター
H.大郷木材店
一般建築材・ベニア・新建材各種 株式会社
j.岡本ビル(軽子坂)8.牧書店
I.自動車修理場・喫茶ボルボ(階上)k.セントラルコーポラス9.東京都左官工業協同組合
10.厚和寮(厚生年金病院職員寮)(裏通り)

ID 8268から

神楽河岸高層ビル外堀通り(北)
I.自動車修理場・喫茶ボルボ(階上)k セントラルコーポラス10 厚和寮(厚生年金病院職員寮)(裏通り)
J.土萬商店資材置場l 東京厚生年金病院本館

※手前に津久戸小学校
11 倉庫(升本総本店)
K.東京都新宿東清掃事務所m 東京厚生年金病院本館東棟の工事か12 京英自動車
L.東京都水道局n 東京厚生年金病院別館13 キッチンアキラ
M.東京都水道局営業所(上に首都高速が見える)o 第一銀行飯田橋支店14 中升酒店
p 稲垣ビル15 堀上工業
q 広告「週刊現代」(稲垣ビル)16 丸吉百貨店
r 飯田橋東海ビル(東海銀行、下宮比町)

 手前の飯田濠は土砂が堆積して、かなり干上がっています。Iの自動車修理場のターンテーブルやJの資材置場の廃材は濠に飛び出しています。
 また、Kの清掃事務所の下には四角い横穴があり、おそらくはしけが入って上からゴミを落としていたのでしょう。
 後年の地下鉄工事や埋め立て工事は、まだ始まっていません。
 撮影時期は
  昭和44年(1969年)2月 神楽坂ビルディング完成
  昭和44年(1969年)「軽い心」がクラブから喫茶に転換
  昭和44年(1969年)6月 首都高速道路5号線供用開始
から
  ID 13226 昭和45年頃
の間と推測されます。

※ 自動車工場や喫茶ボルボは升本の事業です。
※ 年金病院東棟の増築は昭和50年ごろです。それ以前にも何か工事をしていたのでしょう。
※ 稲垣ビルは奥に建て増しされているようです。(昭和38年 航空写真)

住宅地図。昭和44年

画角の検討 S50(1975-01-19)地理院地図

路面電車(写真)飯田橋駅 第3系統 昭和27年 昭和40年 昭和42年

文学と神楽坂

 路面電車の飯田橋駅は第3系統、第13系統、第15系統が走っていました。第3系統は「外濠線」とも呼ばれ、品川駅前から飯田橋駅までを走行しました。ここでは第3系統の飯田橋駅を3つ見てみます。昭和27年、昭和40年、昭和42年です。

(1)昭和27年

林順信「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)

 ここは飯田橋交差点、五差路で車の往来しげく、真ん中にロータリーを置く。品川駅と飯田橋とを結ぶ③番の折り返し点である。右側は水道局の神楽河岸出張所、その前に薬の広告のある小さな塔は、高圧線の変圧器でそばを通ると「ブーン」とうなっていた。電車には英語で、「停車中追越時速8粁以下」の注意書きがある。

 この当時の飯田橋交差点はロータリー式でした。ロータリーとは「交通整理のための円形地帯」(大辞林)で、ゼブラ柄の模様で囲まれています。写真では複数の円形地帯が見えます。昭和22年の航空写真だと、ロータリーが2つ重なったような構造が分かります。
 円形地帯を貫いているのは、おそらく路面電車の軌道です。手間のかかる軌道移設工事まではしなかったのでしょう。飯田橋交差点は昭和28年に普通の五差路になりました。
 このロータリーの1つには大きな看板で「◯◯立入るな」か、あるいは「◯◯来る」と縦書きで書かれています。

地図院地図 昭和22年12月20日(USA-M698-99)

 写真に戻ると、路面電車の運転手がしゃがんでタバコを吸い、前には横断歩道があります。停留所はロータリーと同様なゼブラ柄で安全地帯になっていて、「KEEP LEFT/左側通行」と書かれています。英文が大きく書かれたのは占領下の名残でしょう。安全地帯からは四本足の柱が立ち上がり、上部には行灯のような時計が設置してあります。
 700形の路面電車の方向幕は「品川駅」とあり、乗客が数人、電車内で出発を待っています。車両の側面には「クラブ/◯◯」などの広告があります。
 右端に見えるのは東京都水道局の事務所で、飯田壕再開発の直前まで使われていました。建物の前の歩道には「小児せき」という薬の広告があります。

神戸市電の700形 都電の700形はありませんでした。

(2)昭和40年

諸河久「路面電車がみつめた50年」(天夢人、2023)

飯田橋交差点南西側から撮影した飯田橋停留所に停車する3系統品川駅前行きの都電。外濠通りは道幅が狭く、頻繁に渋滞が発生した。都電の後に老舗酒問屋「升本総本店」の土蔵が見える。(1965年9月12日撮影)
水運で栄えた神楽河岸(かぐらがし)の街並み
 上のカットは飯田橋交差点の南西側から外濠通りを撮影したーコマで、飯田橋停留所で品川駅前への折り返しを待つ3系統の都電にカメラを向けた。3系統は700型の独壇場だったが、1965年秋頃から旧杉並線用の2000型に置換えられていった。
 画面右側の「クララ劇場」や左方向の牛込見付にある「佳作座」が「特選洋画を大衆料金で」のフレーズによる100円均一映画館として、近隣の法政大学、理科大学の学生に親しまれていた。撮影時にはホラー映画「妖女ゴーゴン」(イギリス映画/1965年7月公開)が上映中たった。

 これは右から見ていきます。

  1. クララ劇場 特選洋画を大衆料金で 100円均一
  2. 消火栓 セントラルホテル
  3. 電柱広告「外科」
  4. 路面電車「品川駅」➂ 三菱◯◯◯ 2017 乗降者優先
  5. ◯◯家具十ヶ(丸吉家具洋装店)
  6. (松本)自動車株式会社
  7. 遠くの垣根の上に「升本総本店」
  8. 銀嶺会館(5階建て)

住宅地図。1962年。

【参考】第15系統の車体の色。これも2000形です。

当時の第15系統。J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年

(3)昭和42年

三好好三「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」(学研パブリッシング、2010年)

飯田橋交差点 外堀通りを赤坂見附、四谷見附、市ヶ谷見附と走ってきた3系統の終点で、前方の目白通りを行く路線への線路が切られていた。右が飯田橋駅、左が神楽坂方面だが、外堀通りは比較的閑静で、都電の利用客も少なかった。この地点は現在ビルが林立し、オフィス街になっている。◎昭和42年12月7日 撮影:荻原二郎

中央から左下に行くのが第3系統 吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)

 東京都交通局の東京都電アーカイブ③(3系統 品川駅前~飯田橋)と比較しながら見ていきます。

  1. 道路標識(指定方向外進行禁止)
  2. 小学館の百科(事典)
  3. 電柱に「飯田橋」(交差点名標示か)
  4. 路面電車の停留所で駅名標「飯田橋」広告「日本電子計算学院」上部に時計
  5. 東海銀行
  6. 酒は黄桜 きざくら 三平酒造 カッパの絵
  7. パーマレヂィー
  8. 路面電車 品川駅 ➂ 週刊文春 2015 乗降者優先
  9. 稲葉工業(建築中のビル)
  10. 田中土建(建築中のビル)
  11. ゼブラ柄の信号機

神楽坂2丁目(写真)昭和37~39年 ID 4とID 12914

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 4とID 12914を見ていきましょう。ID 12903からID12914までは雨の日の神楽坂通りの写真で、昭和37~39年(1962-64)頃と思われます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4 神楽坂途中から坂下方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12914 神楽坂

 撮影の方向は、神楽坂2丁目から坂下に向いています。雨は現在上がっています。街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。車道は石敷いしじき、石だたみでした。歩道の表面には文様があります。電柱は向かって右側だけで、その上には大きな柱上変圧器があります。
 パチンコマリーとニューイトウの間に横丁の入口があり、奥のレストラン京屋や神楽坂ビリヤードの看板が出ています。横丁に入る部分には歩道と車道の段差を解消する小さなスロープがあります。スロープの脇に街灯とは別に四角張った柱が立ち、上部に「火災〇〇〇」の表紙が突きだしています。街頭型の火災報知器で、柱の下寄りの丸い部分に消防への通報スイッチがあったと思われます。
 横丁に沿ったパチンコマリーの壁面には佳作座の上映案内があります。読みにくいですが、3段のうち上段は「非情の町」(日本公開1962年1月27日)、中段は「ボーイハント」(同1961年5月2日)か「ガールハント」(同1961年12月26日)ではないでしょうか。左端も「(上)映中!」で、こちらはメトロ映画と思われます。マリー、佳作座、メトロ映画とも熊谷興業の経営でした。
 ニューイトウの前の車道は穴を補修してあります。石敷の補修は手間がかかるので、アスファルトで応急処置をしたような感じです。この穴は同時代のID 17-19では確認できません。また横丁へのスロープはID 17にはありません。ID 12903-12914の方が少し後の写真と思われます。

神楽坂2丁目→坂下(昭和37-39年頃)
  1. 陶柿園
  2. (珈琲 音楽 坂)
  3. この辺りで道路に修復後の穴
  4. 「靴はニューイトウ」「洋食 レストラン 京屋」「ビリヤード 神楽坂
  5. 佳作座「非情の町」「〇・ハント」「男の罠・女〇〇」
  6. 袖看板「パチンコはマリーで」
  7. 街灯。「火災〇〇〇」。掲示「神楽坂」
  8. 志乃多寿し
  9. (メトロ映画)
  10. 床屋のサインポール(理容バンコック)
  1. 街灯
  2. ダイヤモンド毛糸 株式会社 大島糸店
  3. (食品 丸八)
  4. たばこ ☎(果実 田金)
  5. オザキヤ(靴)
  6. 電柱「 大久保
  7. 御料理 蒲焼 うなぎ 志満金

住宅地図。1963年

神楽坂1丁目(写真)外堀通り 昭和54年 ID 94とID 11873

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 94とID 11873は、昭和54年(1979年)1月17日、神楽坂1丁目で、外堀通りに沿って撮ったものです。

94 風景 昭和54年1月17日

11873神楽坂 外堀通り

 ID 94については地元の人の解説があります。

 写真ID:94(昭和54年1月17日)は牛込見附(神楽坂下)交差点から揚場町の方を写したものです。
 写真左から赤井商店のテント、さくらや靴店、市原燃料店、ヤマザキパン、名画の佳作座ミッシェルズコーヒーショップ、すべて閉店しました。神楽坂飯店は営業中です。
 懐かしいのは、正面の街路樹の枝の隙間から「東海銀行」が見えること。下宮比町の交差点角に支店がありました。今はスーツカンパニーです。その左のヨコ看板は残念ながら判読できません。

 もう一つ、佳作座の「作」と「座」の間に出ているものはなあに? 「部」はわかります。ほかはわかりません、ものぐさ親父「いまさら鉄ちゃん!?」の品川駅前暮色~都電3番線に乗って~昭和42年には、かすかに全体が写っています。どうやら「婦人倶楽部」と読めます。後の時代には「週刊現代」になるので、講談社の広告スペースだったでしょう。

牛込見附から飯田橋方向(昭和42年)

 神楽坂飯店の下「ば/うどん」は「そばうどん」(立ち食い店)です。
 また、転回禁止()と自転車及び歩行者専用()があります。転回禁止とは進む方向を180°変える行為で、Uターンやスイッチターンのこと。自転車及び歩行者専用とは、この標識より先、普通自転車と歩行者に限って通行できることです。

神楽坂6丁目(写真)赤城神社入口 昭和51年 ID 9905-9906

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9905~ 9906は、昭和50年(1975年)か昭和51年(1976年)に神楽坂赤城神社入口を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9905 神楽坂赤城神社入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9906 神楽坂赤城神社入口

 車道はアスファルト舗装で、続けて、側溝、縁石、ガードパイプが付いた柵、歩道は無地のアスファルト舗装です。電柱の上には柱上変圧器があります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯ですが、蛍光灯の下部に逆円錐型のランタンがあり、「神楽坂 商栄会」とあります。神楽坂商栄会は6丁目の商店会で、神楽坂商店街振興組合(昭和58年設立)の前身です。
 街灯からは紅葉の造花が沢山ついた枝が斜めに出ています。街灯とは別に、高い場所にナトリウム灯と思える、おそらく都道の街路灯があります。
 さらに、道沿いには、ほかの街灯よりは低く、しかし人間の頭よりは高い、神社の参道をイメージした春日灯籠が並んでいます。
 写真の右、建物の階段を下から見ています。音楽之友社の本社で、階段の上が入り口でした。階段の様子はID 90で分かります。

神楽坂6丁目(昭和51年)
  1. ぶてっくちよ
  2. 神楽坂専売所 サンケイ新聞 日本工業新聞 中  佳作座(上映作品のポスター)
  3. 珈琲専門店 珈琲館 珈琲館の古い◷マーク
  4. (でんわ)☎でんぽう たばこ 内容不明の吊り看板
  5. 直輸入 木彫工芸品 人形ケース
  6. 電柱看板「岡本衣裳店」
  7. 耳鼻咽(喉科)
  1. 赤城神社入口
  2. (消火栓)と看板「〇〇徽章」
  3. →(ベルモンド)
  4. 東京都教育会館→ (赤城神社となり 現・東京都教育庁神楽坂庁舎)
  5. 提灯4つが高く
  6. フォルテーヌ(珈琲)
  7. (地)下鉄 (神楽坂)駅
  8. 〇〇センター

住宅地図。1976年

神楽坂、坂と路地の変化40年(1)|三沢浩

文学と神楽坂

 建築家の三沢浩氏の「神楽坂まちの手帖」第9号(2005年)の随筆「神楽坂、坂と路地の変化40年(1)」を、半分以下の分量に限って、引用します。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、(2)(3)も引用可能の分量に限って引用します。

外堀通りの桜は今年で30年目
 4月初頭、今年もみごとなソメイヨシノが、外堀通りを飾った。新たな柵が、厚いコンクリートの基礎にのり、ライオンズクラブの石の標識が、木柱ペンキ塗りにとって代わった。ライオンざくらと命名されているが、この桜は、1976年にクラブ認証十周年記念の植樹であった。つまり30年目の枝振りは、大きく濠に向けて土手を覆い、ボートに代わる水上の張り出し店に多くの客を呼んで、席待ちの列までできた。
 この植樹以前には、一間毎の柱を貫き、誰もが気軽に水面に降りられた。まだ鮒がよく釣れたころのことだ。土手公園の向こうに、名建築だった「逓信病院」の瀟洒な白亜の姿が見え、そろそろ巨大な警察病院の建て方が始まる頃。神楽坂側には三階建の物理学校時代を示す、理科大学校舎と、小さな研究社の本社が並んでいた。
 くねる都電の線路はなぜか濠側にあって、それに沿って歩くと、春の浅い3月初めには、鼻をくすぐる濠の匂いが漂った。毎年その香を感ずると、春の到来を知ったものだ。何のかおりか、不思議な燻りの匂いだったが、都電が無くなる頃には、車も増え、いつしか消えてしまった。
ライオンズクラブ 東京飯田橋ライオンズクラブ。場所は不明。
張り出し はりだし。建物などの外側へ出っ張らせてつくること、またはその部分。
一間 いっけん。ひとま。尺貫法の長さの単位で、1.81818m
水面に降りられた 実はお堀の柵は低かったのです。

外堀通り。TV。気まぐれ本格派全編(1977年)

土手公園 現在は外濠そとぼり公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
逓信病院 東京逓信病院。千代田区富士見ニ丁目14番23号。総合病院。

東京逓信病院

警察病院 東京警察病院。総合病院。千代田区富士見町。沿革によれば全館竣工は1970年(昭和45年)3月。2008年(平成20年)4月に中野区中野4丁目に移転しました。

住宅地図。1978年

理科大学 東京理科大学。神楽坂キャンパスは新宿区神楽坂1-3。
研究社 昭和40年3月から昭和57年まで、研究社(辞典部門)と研究社出版(書籍・雑誌)は神楽坂に同居しました
燻り いぶり。くすぶり。物がよく燃えないで、煙ばかりを出す

歩行者天国の日曜日、神楽坂通りさわや前 1971年5月 筆者撮影

坂のすべり止めは一升瓶の底だったか
 都電の停留所は牛込見附、今のマクドナルドの隣の公衆便所が最寄りだったが、見附から佳作座を越えるあたりで大きくカーブして、その神楽河岸には材木屋、土砂屋、都のごみ船寄りつきなど、一列の家並みが、ややくねった濠を遮っていた。
 見附からパチンコのニューパリと、洋品のアカイの間を入ると神楽坂が始まる。40年前の坂は、今とくらべると随分と静かだった。高い建物は坂上の菱屋の6階、大きな建物は、今のカグラヒルズの位置にあった、キャバレー「軽い心」で、あとは坂を越え、今も変わらぬ三菱銀行神楽坂支店だったろう。そのほかはほぼ木造の2階建、それら商店の間口は、今とほとんど変わることなく、昔の敷地割りを、その店構えに残していた。おおむね3間、5.4m、奥行きは背後の路地や崖で変わる。上り坂右の裏は路地が通り、左の裏は次第に崖となっているから、大体同じような敷地面積だと思われる。
 1960年代のこの坂には、今の街路樹のけやきは無い。昨年新しい街路灯になる前は、ガス灯型だったが、それも無く、UFO型が曲げた鉄パイプに吊られていた。林立する電柱は家並みを圧倒し、くもの巣のように電線が走り、坂をまたいでいた。歩道はアスファルト、車道はコンクリートで、坂部分は自動車のすべり止めのために、内径で10cm位の輪型が30cm間隔で、びっしり堀り込まれていた。セメントが生乾きのうちに、一升瓶の底を押しつけて輪型をつくったと、冗談交じりの話を聞かされた。
 このコンクリート床がはがされて、アスファルトになり、歩道はインターロッキングという、互いに噛み合ってずれない、小型ブロックに変わる。1980年代初頭に、東京都が都内で22商店街を選び、モデル商店街としたが、その選に入ったからであった。
牛込見附 以下の通り。

牛込神楽坂警察署管内全図(昭和7年)(「牛込警察署の歩み」牛込警察署、1976年から)

マクドナルド 現在はカナルカフェブティックで、お菓子などを販売します。
公衆便所 位置は変わりません。
佳作座 現在はパチンコ店「オアシス飯田橋店」です。
材木屋、土砂屋、都のごみ船 現在は100%なくなりました。細かくは「神楽坂と神楽河岸」で。
寄りつく よりつく。 そばへ近づく。
ニューパリ 正確にはニューパリー
ほかはほぼ木造の2階建 実際には菱屋がビルになった昭和42年(1967年)頃に、大島ビル(1959年竣工)、五条ビル(1967年竣工)、神楽坂ビル(1969年竣工)など同程度の高さのビルがいくつも建っています。
街路樹 昭和48年までは街路樹は全くなく、牛込橋は桜の木でした。昭和49年、神楽坂1~5丁目はけやきになっています。
ガス灯型 昭和54年、神楽坂1~5丁目はUFO型でした。昭和59年(田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-2神楽坂標柱 1984-10-02)、ガス灯型になっています。

田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-02 昭和59年1984-10-02

UFO型 大きな電灯で、昭和36年2月に「鈴蘭灯」から変わりました。
輪型 Oリングです。
冗談交じり 多分、冗談。
インターロッキング インターロッキング(interlocking)は、かみ合わせる。ブロックを互いにかみ合うような形状にして舗装する。荷重が掛かったとき、ブロック間の目地に充填した砂がブロック相互のかみ合わせ効果(荷重分散効果)が得られる。
その選に入った 神楽坂6丁目だけです。

神楽坂1丁目(写真)昭和36年 牛込橋 ID 12125~12127

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 12125、ID 12126,ID 12127を見ましょう。レンズは外堀通りと神楽坂の坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭すずらん灯があり、車道は平坦でデコボコはありません。信号機はゼブラ柄の背面板があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12125 神楽坂下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12126 神楽坂下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12127 神楽坂下

 牛込橋から神楽坂下までの車道にセンターラインがあり、この部分が逆転式一方通行になるのはずっと後ですが、早い段階でセンターラインは描かれなくなっていたと地元の方。
 牛込橋の桜の木はよく見ると若葉がついているようです。
 写真の右上で、メトロ映画(上の看板は「yヽロ映画」)では東映作品「鳴門なると秘帖ひちょう」(公開日は昭和36年1月26日)、松竹作品「はったり青年紳士」(公開日は昭和36年3月15日)をやっていました。下に行き「さくら」は「さくらや靴店」です。森本不動産は小栗横丁に行く横丁にありました。
 右中央に「赤井商店」が見えますが、その前のID 12126に女性が描かれた看板が見えます。よく見ると『ナポリ』らしき字があり、ソフィア・ローレン出演の映画『ナポリ湾』(日本公開は昭和35年12月)を佳作座でやっていたのではないか、と地元の人。佳作座は2番館なので、昭和36年に出もいいと思います。
 撮影は牛込橋周辺で、新宿歴史博物館の発表では昭和37年になっています。でも、同じ撮影でID 52とID 53では昭和36年4月になっています。よく見ましょう。「yヽロ映画」はどちらも同じ壊れ方。映画作品もまったく同じで、外堀通りから牛込橋に渡る立て看板や、通り沿いにみえる造花の飾りも同じです。造花はカラー写真だとサクラを模したピンクだと確認できます。ID 12125~12127は、ID 52~53の左端の駐車車両は見えませんが、ほぼ同時期に撮影したと推定できます。
 では昭和37年と昭和36年、どちらでしょうか? 昭和37年2月以前に撮ったID 55と56を比べてみましょう。「メトロ映画」はさらに「 ヽ凵映画」とぼろぼろで、鈴蘭灯ではなく大型の蛍光灯になっています。ID 52~53とID 12125~27はID 55と56よりは昔なのです。つまり、昭和36年に撮影したのです。
 では色を含めて書いておきます。

神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂1~2丁目(昭和36年)
  1.  中河電気 「旅館 野乃木」
  2. 天下の銘酒 富士錦  三富酒 。壁にネオン「三富」
  3. 交通標識
  4. 外堀通り
  5. 赤色ネオン「パチンコ」「(ニュ)ーパリー」。部分的に赤と黒の壁
  6.  田原屋 
  7. 貸衣裳 清水衣裳店
  1. ポスター「森本不動産」「産婦人科 加藤」
  2. 外堀通り
  3.  赤井商店  ポスター「ナポリ(湾)」 さくらや靴店
  4.  印章  ゴム印 (津田印店)
  5. 美容室(ニューマヤ
  6. ヤマザキパン(神楽堂)
  7. 神楽小路に行く(見えない)
  8.  コ〇ン〇ン (山一薬品)
  9. メトロ映画「鳴門秘帖」「はったり青年紳士」
  10. キャバレー (ムーンライト)

神楽坂上空(写真)昭和36年、ID 12145

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12145は、昭和36年(1961年)、上空から神楽坂全体を撮ったものです。また、新宿区役場「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年3月)にもでています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12145 神楽坂上空より

 主に「通り」と「横丁」を上げてみます。拡大すると見えます。

 これから神楽坂通りを1番目として、北(右)でも南(左)でも遠くなると番号も増えていきます。また、近景から遠景まで順番に書いていきます。なお、地元の方から多大な助力を頂きました。特に遠景ではこの助けがないとできませんでした。感謝、感謝です。

近北

ID 12145の一部 神楽坂上空 近北

  1. 赤井商店(足袋)
  2. さくらや(靴)
  3. 燃料市原
  4. 佳作座(名画座)
  5. ジャマイカ コーヒー
  6. モルナイト
  7. 三陽商店工場
  8. 三和計器製作所
  9. 小林商店(砂・セメント)
  10. 伝道出版社
  11. 人形の家(喫茶)
  12. 神楽坂通りは一方通行。早稲田通りは対面通行
  13. 神楽坂警察署
  14. 池か
  15. 銀鈴会館(名画館など)

1962年。住宅地図。

近南

ID 12145の一部 神楽坂上空 近南

  1. パチンコニューパリー
  2. 聖学館と酒井
  3. 三河屋 酒店
  4. 大野テーラー
  5. 双葉社 週刊大衆
  6. 中華 源来軒
  7. 東京トヨペット
  8. コーヒー カーネギー
  9. アケミ美容室
  10. ひかりのくに
  11. 建築中(東京理科大学)

は東京理科大学

1962年。住宅地図。

中北

ID 12145の一部 神楽坂上空 中北

  1. 三菱銀行
  2. ムーンライト
  3. 大久保
  4. ゴルフ神楽坂。この手前は結構なガケで、コンクリートの擁壁になっている。このガケは今も同じ。
  5. 石造りの安井邸。翌年には鈴木邸になる。子供たちにとっては「お化け屋敷」。
  6. 旅館なの花。隣の青灰色の建物と一体で。
  7. 神楽坂浴場

1962年。住宅地図。


中南

ID 12145の一部 神楽坂上空 中南

  1. 三菱銀行
  2. 牛込三業会(今の東京神楽坂組合
  3. 熱海湯
  4. 松ケ枝
  5. 丸紅飯田若松荘
  6. 神楽坂若宮八幡神社

1962年。住宅地図。


遠北

ID 12145の一部 神楽坂上空 遠南

  1. 三菱銀行
  2. 神楽坂上交差点
  3. 音楽之友社
  4. 熊乃湯。現・玉の湯
  5. 白銀公園
  6. 赤城神社
  7. 神祇社殿
  8. 東京都職員飯田橋病院 ※後の放射線学校
  9. 雪印健保会館 ※現・升本本社
  10. 朝鮮新報社(?)

1962年。住宅地図。


遠南

ID 12145の一部 神楽坂上空 遠南

  1. 神楽坂上交差点
  2. 協和銀行
  3. 日本出版クラブ
  4. 光照寺
  5. 日本興業銀行社宅 ※旧・酒井家矢来屋敷
  6. 新宿区箪笥町特別出張所 ※ここからID 565を撮影した
  7. 見えないけど袖摺坂はこのあたり


最遠

 最後は最も遠い光景です。地元の方が教えてくれました。そのまま描いています。

ID 12145の一部 神楽坂上空 最遠

  1. 早大理工学部
  2. 都立戸山高校
  3. 早大記念会館
  4. 穴八幡
  5. 早大早稲田キャンパス
  6. 学習院目白キャンパス
  7. 椿山荘

神楽坂2丁目(写真)昭和33年 ID 57

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 57は、神楽坂2丁目を撮ったものです。撮影の方向は、坂下から坂上で、街灯は昭和36~7年まで続いた鈴蘭灯でした。
 シャツの人がいますが、半袖の人はいません。つまり夏ではありません。歩道はきれいで平坦です。
 左に建築中のビルは大島ビルで、この築年月は昭和34年(1959年)5月、総階数は4階です。建築後は大島糸店になりました。この撮影日は、佳作座の広告「野ばら」があるので、昭和33年秋や冬でしょう。
 一方、新宿歴史博物館の調べではこの写真は「昭和37年頃」に撮ったといいます。
 横断幕の「本日特売日」があります。
 また、車道のOリングはないのですが、アスファルト舗装では車の馬力が不十分で、石敷でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 57 神楽坂入口付近から坂上方向

神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂2丁目(昭和33年)
  1. 建築中。「タイヤモンド毛糸 大島糸店」になる
  2. 電柱看板。「 倉庫完備 大久保」「石川歯科
  3. (マルヨシ美術店)
  4. 夏目写真(館)
  5. 「+クスリ」。精神安定剤「ハーモニン 神楽坂薬局」
  6. 洋装生地 林屋
  7. (十奈美)
  1. パチンコマリー。Pachinco Mary。右端に佳作座の広告「野ばら」(日本公開は昭和33年8月23日)も。
  2. 壁面看板「ジュ 靴」「ヤマヤタ ⇒」
  3. 看板「洋食 喫茶京屋⇒」(奥にあった)
  4. 「靴はニューイトウ」
  5. 通りに接し「イトウふと(ん)」。「コーヒー 坂」ではない
  6. (陶磁器 陶柿園
  7. 「旅館 かぐら苑」の半分だけが見える
  8. クラウン(喫茶)
  9. ルナ美容室
  10. ポーラ化粧品
  11. 亀井鮨
  12. ひときわ高い看板「資生堂化粧」(さわや
  13. 遠くに看板「テレビ 竹谷電気」。
  14. さらに「万平のみや」の特徴的な吊り看板

遠くの看板(写真)ID 6998、ID 68、ID 94、ID 486

文学と神楽坂

 地元の方から情報です。

古い写真の街の風景には、撮影者が意図した被写体とは別の思い出が残ることがあります。新宿歴史博物館の「写真で見る新宿」から、そんなものをいくつか拾ってみました。

写真 ID:6998(昭和30年代後半)は「東京厚生年金病院前 進む地下鉄工事」のキャプションのように、大久保通り筑土八幡町交差点から飯田橋交差点にかけての下り坂、地下鉄東西線の建設風景です。

6998 東京厚生年金病院前 進む地下鉄工事

開削工法の路面が木材でフタをされ、中央を都電の軌道が走っています。道路の上には都電の架線が張り巡らされていて、かなりうるさく感じます。

年金病院(現・東京新宿メディカルセンター)は建て替え前のもので、上空から見るとY字になった美しい曲線を持つ特徴的なデザインでした。日本武道館なども手がけた著名な建築家の作品だったそうです。Y字マークは病院のシンボルだったようで、薬の袋などに印刷されていた記憶があります。

病院の前を走るタクシーは、日産買収前のプリンス自動車の初代グロリアでしょうか。写真の右の「川島ガラス」「東衣装店」は今も同じ場所で営業中です。

写真の中央、病院の並びに「第一銀行」が見えます。戦後に進出した支店で、その後は「第一勧業銀行」、「みずほ銀行」と合併を繰り返し、神楽坂通りの「三菱UFJ銀行」のライバルとして今もこの場所に店を構えています。

東京厚生年金病院 昔の新宿区津久戸町の総合病院の名前。現在はJCHO(Japan Community Healthcare Organization、ジェイコー)東京新宿メディカルセンターに。

JCHO東京新宿メディカルセンター

開削工法 地表面から掘り下げてトンネルをつくる垂直掘削方式のひとつ
Y字になった美しい曲線を持つ特徴的なデザイン 石田竜次郎・和歌森太郎共書の「県別・写真・観光日本案内 東京都」(修道社、昭和36年)で、東京厚生年金病院が書かれています。

モダンな厚生年金病院  飯田橋の筑土八幡近くにあるこの厚生年金病院は四階建て総ガラス張り、Y字型のみるからに明るいモダンな病院であり、昭和28年に完成した。

東京厚生年金病院

このデザインについては他でもでています。

2014年4月、東京新宿メディカルセンターに変更しました。
著名な建築家 山田守氏の設計。1917年、東京帝国大学建築学科を卒業、逓信省営繕課に入り、電信局・電話局の設計を行う。1945年、逓信省を退官し、1951年、東海大学工学部建設工学科教授。建築物は東京中央電信局、東京厚生年金病院、日本武道館、京都タワーなど。生年は1894年4月19日、没年は1966年6月13日。享年は満72歳。
初代グロリア 昭和34年(1959年)の4ドアセダン。写真と比べて私にはちょっと違う気がする。

川島ガラス 新宿区揚場町2-17。ガラス工事を行う。
東衣裳店 新宿区揚場町2−21。洋服や和服を貸す。

店を構えて 最終的には「みずほ銀行 飯田橋支店」です。上図を参照。

写真ID:68(昭和48年5月22日)は、飯田橋西口前から神楽坂を見た写真です。

68

68 飯田橋駅付近より坂上方向

右側は神楽坂警察の古い建物で、この頃は使われず、飯田濠再開発の取り壊しを待っていたのではないでしょうか。道の左側は神楽坂1丁目の一部で、いくつかの店は商店会にも加盟していました。店のある左側だけ、神楽坂と同じ街灯が設置されているのが分かります。その向こうの双葉社のビルには、大ヒットした上村一夫の『同棲時代』の大きな広告が見えます。

写真中央、パチンコ店の上のヨコ看板「イーグルボウル」は下宮比町にありました。今はマンションになっています。また神楽坂通りのひときわ高い場所に見えているのは三菱銀行の看板です。

もうひとつ、パチンコ店の左上に見える大きな「B」は、大久保通り沿いの岩戸町にある教育出版の文英堂です。今も同じ場所に新しいビルがあります。写真の当時、旧ビルの地下に郵便局がありました。もともと4丁目にあった「神楽坂郵便局」(現在は楽山)が昭和40年頃に移転したのです。諸事便利な神楽坂の商店街ですが郵便は岩戸町まで行く必要があり、ちょっと不便でした。「神楽坂郵便局」が4丁目に新築したオザワビル(旧尾沢薬局)に戻ってきたのは1988年(昭和63年)でした。

文英堂とイーグルボウル

イーグルボウル 下宮比町2-27の一部にありました。

1973年。住宅地図。

写真ID:94(昭和54年1月17日)は牛込見附(神楽坂下)交差点から揚場町の方を写したものです。

94

94 神楽坂入口近く外堀通り

写真左から赤井商店のテント、さくらや靴店、市原燃料店、ヤマザキパン、名画の佳作座ミッシェルズコーヒーショップ、すべて閉店しました。神楽坂飯店は営業中です。

懐かしいのは、正面の街路樹の枝の隙間から「東海銀行」が見えること。下宮比町の交差点角に支店がありました。今はスーツカンパニーです。その左のヨコ看板は残念ながら判読できません。

下宮比町の交差点 「飯田橋交差点」です。

写真ID:486(昭和56年頃)でも、はるか遠くに下宮比町の交差点が見えます。

486 江戸城外堀跡

中央のこんもりした森は、東京日仏学院やその近隣のお屋敷の庭木でしょう。その向こうに熊谷組の本社が見えます。

外堀通り沿いには出版大手の「家の光」や「研究社」、その向こうには理科大の複数の校舎が並んでいます。遠く横に走っている首都高速が左側に隠れるあたりの黒っぼい建物が東海銀行の支店。さらに左、一段高い大きなハートのマークの看板が、東京厚生年金病院の並びにある第一勧業銀行(現みずほ銀行)の支店です。

①熊谷組
②家の光
③研究社
④⑤⑥理科大
⑦第一勧業銀行
⑧東海銀行


こうして見ると銀行業は、看板に大きな投資をしていますね。

山の手と下町の同居-軽子坂と揚場町

文学と神楽坂

 揚場町って、どんな町なんでしょうか。そこで、津久戸小学校PTA広報委員会の「つくどがみてきた、まちのふうけい」(新宿区立津久戸小学校、2015年)をまず広げてみました。これはPTA制作の簡単にわかる小冊子で、揚場町もこの学区なのです。「まちの風景」を開き、「津久戸町」はこの学校があるところ、揚場町はその隣町です。次は「牛込見附・飯田橋」。あれっ、でない。さらに次を見ましょう。「新小川町」「東五軒町、西五軒町」「神楽坂」「赤城元町・赤城下町」「白銀町」「矢来町・横寺町」「袋町」「若宮町・岩戸町」「市谷船河原町」、これで終わり。揚場町はどこでもない。なぜ、でないの?
 2017年、ウィキペディアで揚場町の世帯数と人口は54世帯と105人。こんな小ささだったんだ。ちなみに、津久戸町のほうが小さくて98人。揚場町にはマンションがあるから、津久戸町に人口的には勝っている。しかし、揚場町には本当に大きな地域で、沢山の人がいるはずなのに、どうして少ないの? 標高が低い揚場町は倉庫と職場だけで、標高が高い地域では第一流の豪邸だけ、どちらも人口密度は低い。
 つまり、揚場町の中に「山の手と下町」が同居していると、地元の方。以下は地元の方の説明です。

 神楽坂は、よく「山の手の下町」と言われます。かつては城西地区で唯一の花街だったし、台地の上の住宅街に隣接して下町の賑やかさがあるからでしょう。それとは別の意味で山の手と下町の同居を感じさせるのが、神楽坂通りの裏手の軽子坂と揚場町です。
 昭和50年ごろまで、牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした。地名で言うと西側は神楽坂一丁目と揚場町、東側は神楽河岸です。名画の佳作座の前を過ぎると人の往来がぐっと減り、あとは、いま「飯田橋升本ビル」になっている升本酒店の本店とか、反対側の材木商とか、自動車の整備工場とか、役所の管理用の建物とか。そのほか普通の人にはなじみがない建材や産業材の会社兼倉庫みたいなものが立ち並んでいました。そういえば一時期、大相撲の佐渡ケ嶽部屋が古い建物に入居していたこともありました。都心の大通りなのにオフィス街でも商店街でもなく、倉庫街みたいな感じでした。
 神楽坂通りでは昭和40年代から、4-5階建てのビルがドンドンできていたんですが、外堀通り沿いは平屋か2階建てばかり。だから「メトロ映画」とか「軽い心」が飯田橋駅からよく見えたと言います。神楽小路の出口のギンレイホール大きな看板がついたのも、前にある建物が低かったからです。
 揚場町をちょっと入ったところの升本さんの倉庫は広場みたいになっていて、近所の子どもの遊び場でした。その先の路地の奥には生花市場がありました。割と早くに他の市場に統合されたのですが、もし今も残っていたら「市場横丁」なんて呼ばれたかも知れません。こういう場所でしたから、江戸時代に荷揚げ場があって、人夫が荷を担いでいたという歴史が納得できました。

城西地区 江戸城、現在の皇居を中心にして、西側の方角にある地域。6区があり、新宿区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、練馬区。
花街 遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。遊郭。花柳街。いろまち。はなまち。
軽子坂と揚場町 下図参照。

1912年、地籍台帳・地籍地図

牛込見附の交差点 現在は「神楽坂下」交差点
神楽河岸 下図参照。新宿区の町名で、丁目の設定がない単独町名。飯田橋駅の西側に位置する小さな町域があり、駅ビル「飯田橋セントラルプラザ」の建設のため、神楽河岸の形やその区境は変更している。

昭和58年「住宅地図」、区境などを変更

升本酒店の本店 酒問屋の升本総本店です。図の左側の「本店」は升本総本店のことです。

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

反対側の材木商 「大郷材木店」はラムラ建設で津久戸町に移転しました。「材木横丁」と呼んでいる場所です。

大郷材木店。https://blog.goo.ne.jp/kagurazakaisan/e/873ba776487429d0e755425fc61ee9ce

自動車の整備工場 神楽河岸の大郷材木店の北(右隣)にあって、1980年代には「ボルボ」という喫茶店を併設していました。残念ながら1965年の地図には載っていません。
役所の管理用の建物 地図を参照

1965年「住宅地図」

佐渡ケ嶽部屋 おそらく部屋の建て替え中に、佳作座の先の「三和計器」の跡に仮住まいしていたようです。「三和計器」は、1985年9月、飯田橋駅前地区再開発で、千葉県船橋市に工場を移転し、「三和計器」のあとには、1988年に「神楽坂1丁目ビル」が完成しました。その間に佐渡ケ嶽部屋ができました。部屋は現在、千葉県松戸市で、それ以前は墨田区太平で稽古していました。
生花市場 飯田生花市場です。花市場は建物の隣の何もないところが本来の場所で、そこに切花の入った大きな箱を並べて取引します。

 そんな倉庫街が、軽子坂を上りはじめると一変します。坂の左側に佐久間さんのお屋敷。右には升本さんの広大な本宅。坂の上の、いまノービィビルが建っているところには石造りの立派な洋館がありました。ここが誰の持ち物か忘れられていて、あまりに生活感がないので、失礼ながら「お化け屋敷」と呼ばれていました。その周辺も50坪、100坪といった庭付き一戸建てばかりで、今ほど土地が高くなかったにせよ、庶民には高嶺の花でした。
 少し大げさかも知れませんが、現場労働の「下町」と名声・財力の「山の手」が鮮やかに隣接していた。それが軽子坂であり、揚場町だと思うのです。今は再開発が進みましたが、それでも揚場町の「山の手」部分のお屋敷町の面影が、わずかに残っています。

升本さんの広大な本宅 下図を参照。

軽子坂。1963年(昭和38年)「住宅地図」

石造りの立派な洋館 これは鈴木氏の邸宅だといいます。安居判事の邸宅とも。「住宅地図」では1970年、更地になり、1973年、駐車場になっています。「神楽坂まちの手帖」12号の「神楽坂30年代地図」では

 津久戸小学校から仲通りに向かう左側の「セントラルコーポラス」。初期の分譲住宅で、中庭と半地下の広い駐車場のあるぜいたくなつくりは、マンション(豪邸)という呼ぶにふさわしい。当時、ここに住むこと自体にステータスがありました。もともとは石黒忠悳石黒忠篤という名士の豪邸だったようです。
 神楽坂に縁の深い政治家に田中角栄がいます。その生涯の盟友であった二階堂進は、セントラルコーポラスにずっと住んでいました。入り口にポリスボックスがあり、警備の巡査が常駐していました。二階堂さんは自宅のほかにマスコミ用の部屋を借りていたそうで、政治部の記者が常時、出入りしていたと聞きます。そうした記者が神楽小路の「みちくさ横丁」あたりでヒマつぶしをしていたので、こんな話が地元に伝わるのです。
 セントラルコーポラスの並びには警察の官舎があるのですが、ここには署長クラスでないと住めないのだとウワサで聞いています。やはり高級住宅の名残りなんでしょう。
 揚場町の「下町」部分、外堀通り沿いは、すっかりビルが建ち並びました。ただ神楽坂の入り口に近い一丁目にはパチンコ「オアシス」はじめ、低層の建物が残っています。そこも再開発の計画が動き出したと聞きます。いずれ高い建物が建てば、裏通りになる神楽小路みちくさ横丁も大きく姿を変えるでしょう。

仲通り 正確には神楽坂仲通り。

1984年「住宅地図」

セントラルコーポラス マンション。築年月は1962年10月。地上6階。面積帯は80㎡~109㎡台。
石黒忠悳ただのり 子爵・医学博士・陸軍軍医総監。西洋医学を修め、大学東校(のちの東大医学部)の教師。その後、陸軍本病院長、東京大学医学部綜理心得、軍医総監、貴族院議員。生年は弘化2年。没年は昭和16年。享年は97歳。シベリアを単騎横断した福島安正氏が陸軍軍医寮の空家を無料で借りられるよう世話をしたことがあるという。
石黒忠篤 忠悳の長男。農林官僚、政治家。東京帝大卒。15年農相。農業団体の要職を歴任。戦後、農地改革を推進。「農政の神様」といわれた。生年は明治17年。没年は昭和35年。享年は76歳。
名士の豪邸 最初の地図で「石黒邸」

二階堂進

二階堂進 昭和21年、衆議院自民党議員。田中角栄の腹心。昭和47年、第1次田中内閣で官房長官。のち党の副総裁などを歴任。昭和51年のロッキード事件では灰色高官。生年は明治42年10月16日。没年は平成12年2月3日。享年は90歳。
警察の官舎 警視庁神楽坂荘。築年月は1978年2月。4階建。


私のなかの東京|野口冨士男|1978年④

文学と神楽坂

         *
 牛込見附神楽坂下といったかつての市電停留所から神楽坂をのぼる右角には 赤井という足袋屋があって、ずんぐりした足袋の形をした白地の看板には黒い文字で山形の下に赤井と記されていた。そのため幼少期の私は赤い富士山とおぼえていたもので、足袋の専門店であったその店は、げんざい屋号も🏠アカイと改称してネクタイやワイシャツを商品とする洋品店に変更しているが、左角の土蔵造りの 寿徳庵という和菓子舗の跡は🏠パチンコ店になっている。土蔵造りに腰高のガラス戸がはまっていた店構えは昭和年代まで残っていたものだし、現在でも府中とか川越などへ行ってみるとそんな店舗を見かけるが、東京に生まれ育った私は、そんな小都市へ行って、少年として自身がすごした大正時代へのノスタルジーをおぼえさせられる。
パチンコ店 パチンコニューパリーでした。

なお、🏠は1978年で当時の建物か、1985年の「神楽坂マップ」で当時の建物、☞は新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)で関東震災前の建物や説明です。
 また下の『神楽坂まっぷ』(神楽坂青年会、1985)は文章と比較的に同じ時期に作成された地図です。🏠アカイと🏠パチンコ店はここに出ています。

坂下の地図(1985年神楽坂まっぷ)

アカイ パチンコ 山田紙店 地下鉄 紀の善 神楽小路 佳作座

 右側の三軒目にある🏠山田紙店は文房具屋になっていて、私はそこへ原稿用紙を買いに入ったとき、大学生の行列が出来ているのをみて何事かとおもったが、期末試験にちかい時期で、コピイサービスとよばれている複写のためにならんで順番を待っているのだとわかった。他人のノートを借りて自分で筆写もせずにコピイをとるところに現代学生気質があらわれているのかもしれないが、それを慨歎しない私も現代の風潮に染まってしまっているといわねばなるまい。二十名ほどの人数だったとおもうが、不思議なことに、女子学生は一人もいなかった。女子はマメなのか、ケチなのか、そういうことになると私にはわからない。
 山田紙店のむかって左側が🏠地下鉄有楽町線飯田橋駅への通路になっているが、その一軒おいた先隣りにあるしるこ屋の 🏠紀の善は、もと二階座敷まであった神楽坂では名代のすし屋であった。そして、その横丁はいま 🏠神楽小路と名づけられた飲食店街になっているが、突き当りは神楽坂と平行している軽子坂の登り口で、右角に特選名画の上映館🏠ギンレイがあって、横丁の側に入口のある地階の🏠シネマサロンくららではピンク映画が上映されている。映画館はそのほかにも至近距離にもう一軒外濠通りの🏠佳作座があって、日曜日に前を通ったら観客が行列していた。不振といわれる映画興行にも、フィルムによっては行列が出来る。
 神楽坂界隈の興行ものとしては、以上三館のほか毘沙門さまの本堂半地下で毎月二日間だけ催される定期寄席があるきりで、のちにのべる震災前後の神楽坂全盛期にあった一つの劇場と、五軒の寄席と、二つの映画館と、和菓子舗の寿徳庵のならび――外濠通りの市ケ谷寄りにあった娘義太夫の定席琴富貴などは、跡形もなく消え去ってしまった。ほかには、いまのところデパートもないので、神楽坂には他土地から客を吸引できる力があるわけはない。年に何回かはかならず出かける私のような人間は、恐らく例外中の例外だろう。そんな神楽坂がなぜ日曜日には歩行者天国になるのか、結果論としては不思議なほどである。

1985年「神楽坂まっぷ」の神楽小路

ギンレイ ギンレイホールは、1974年にスタートした名画座で、ロードショーが終わった映画の中から選択し2本立てで上映する映画館です。一階にあります。
くらら 地下の成人映画館「飯田橋くらら劇場」は2016年5月31日に閉館しました。劇場 横寺町の芸術倶楽部は関東大震災の時にはアパートになっていたので、これではなく、牛込会館でしょう。
寄席 牛込演芸館(神楽坂演芸場)牛込亭柳水亭(勝岡演芸場)がすぐにでてきますが、ほかの2軒はわかりません。わら店(和良店)は色ものですが、大正3年から映画館の牛込館になっていました。『風俗画報』の統計(明治35年)には寄席五軒となっていますが、普通は戦前で三軒と数えます。
映画館 文明館牛込館です。

神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとこの場所で他の映画館や寄席に行きます。

ギンレイホール くらら 軽子坂

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座
琴富貴 新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)「古老談義・あれこれ」では
 手前ども(赤井屋商店)の向い側に『琴富貴』という小さな貸席がございました。経営者は高原さんという人でタレギタ、即ち娘義太夫の常打ちの席でした。席は夜はじまりますので昼間あいておりますから、ここも近所の子供達の遊び場所になっていました。高座に御簾(ミス)が掛っていますので、面白がって上げ下げして留守番の人にえらく叱られたこともあります。ここではよく雨戸をしめて幻燈をやって遊びました。2階は貸席ですが1階は飯屋と甘酒屋になっていました。然しなんといっても子供達が集る中心は毘沙門様の境内でした。

なお、琴富貴は「ことぶき」と読むようです。タレギタとは噺家などが使う隠語で、女義太夫と同じ意味です。また、「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」にも出ています。

東京気侭地図1|神吉拓郎

文学と神楽坂

 昭和56年(1981年)、35年もの昔、神吉(かんき)拓郎(たくろう)氏が書いた『東京気侭地図』の一節です。神吉氏は小説家、俳人、随筆家で、昭和24年NHKにはいり、ラジオ番組「日曜娯楽版」などの放送台本を手がけ、昭和59年、都会生活の哀歓を軽妙な文体で描いた「私生活」で直木賞。生年は 1928年(昭和3年)9月11日、没年は1994年(平成6年)6月28日で、53歳でした。

 神楽坂の灯
 喫茶店の名前にもいろいろあるけれど、「軽い心」というのをご存じだろうか。
 中央線の電車が、飯田橋の駅にかかるとき、神楽坂の見当を一瞥すると、丁度そのあたりに「軽い心」と大きな看板が上っている。club軽い心
 夜はネオンが灯って、その文字がいっそう目立つ。そばに、喫茶と書き添えてあるけれども、その方は、あまり目に入らない。「軽い心」の方に目を奪われてしまうからである。
 どういう人が名付けたのか知らないが、面白い命名をしたものだと思った。なんとなく気になる名前である。
青い背広で心も軽く……
の、あの時代を思わせる。もしかしたら、あの時代を懐しむ気持が、その名を付けさせたのかもしれない。
「ぼくはキャバレーかと思ってました」
 やはり、あの名前を気にしていた人も他にいて、その一人のO君は、てっきり、ムンムンムレムレのキャバレーに違いないと決めこんでいたのだそうだ。
「いつか入ってやろうと思ってたんですがね。そうか……、喫茶店かあ」
 O君は残念そうであった。あとで人に教えて貰ったところによると、O君の勘はみごとに当っていて、十年前まではキャバレーだったそうである。命名者は、同じ飯田橋の映画館「佳作座」の持主でもある。これもいい名前だ。
 その「軽い心」と並んで目立つのは、「東京ワンタン本舗」のこれまた大きな看板である。中央線の車中から眺めている限りでは、神楽坂は「軽い心」と「東京ワンタン」に占領されているようでなんだか可笑しい。

軽い心 場所はここです。「神楽坂まちの手帖」の第1号で講談社の小田島雅和氏は
九時頃に句会が終わると、まだまだ話し足りなくて、坂下近くにあった「軽い心」という喫茶店に流れることが多かった。この店はかつてキャバレーだったそうで、格別珈琲がおいしいわけでもなかったが、キャバレーの造りそのままで、ボックスごとの仕切りがやたらに高く、隣のボックスが見えないようになっている。喫茶店としては何とも妙で、それが気に入って、私は個人的にもよく利用した。

「神楽坂まちの手帖」第4号の「神楽坂まちかど画廊」で
最近でこそ奇想天外な店名に驚かなくなったが、「軽い心」の看板は当時はずいぶんと人目を引いた。ではいったいなんの店か。知っている人は、神楽坂の古いなじみである。クラブとあるが、平たくいって、いまはほとんど死語となったキャバレーである。昭和30年代前半のある日の風景である。

 昭和42年の「新修新宿区史」(新修新宿区史編集委員会、昭和42年)の写真でも、「CLUB 軽い心」でした(下図)。なお、銅版画は別に書きました。

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「神楽坂まちの手帖」第5号の「読者のページ」で高瀬進氏は

「軽い心」、キャバレー時代、1度覗いたことがあります。爆笑王林家三平さんが、本当に面白く、腹を抱えて笑ったものです。「軽い心」はその後、喫茶店になり、よく昼寝したのを覚えています。場内が広く、そして暗かったので妙に落ち着けました。

 インターネットで熊谷興業の歴史を読むと、1969年(昭和44年)、純喫茶「軽い心」を開店と書いてあります。 直前は神楽坂下の「マクドナルド」でしたが、現在、この店は閉鎖し、マツモトキヨシになりました。

ムンムン においや熱気などが息苦しいまでに強くたちこめているさま。むっと。
ムレムレ  風通しが悪く熱気がこもる。空気が通らないので熱気や湿気がこもる。
青い背広で 「青い背広で」は昭和12年(1937)の歌で、歌手・藤山一郎が軽快なリズムで歌い上げます。藤山氏がダークグリーン、つまり緑の背広を着ているのを見た作詞家の佐藤氏が、即興でこの詩を書き上げたといわれています。神吉氏が9歳になった時に、はやりました。

   青い背広で  心も軽く
   街へあの()
   行こうじゃないか
   紅い椿で  ひとみも濡れる
   若い僕らの  生命の春よ
作詞:佐藤惣之助  作曲:古賀政男

佳作座 外堀通りに面しています。ここも熊谷興業が経営していました。開館は1957年(昭和32年)10月、閉館は1988年(昭和63年)4月です。場所はここです。

池田信「1960年代の東京」毎日新聞社、2008

池田信「1960年代の東京」毎日新聞社、2008

飯田橋佳作座http://photozou.jp/photo/show/1962745/195020592

 また「まちの思い出をたどって」第2集では白黒写真がでています。

佳作座(白黒)

阿奈井文彦「名画座時代」(岩波書店、2006年)

 現在はパチンコ店の「オアシス飯田橋店」です。

オアシス
ワンタン本舗 場所はわかりませんでした……と書いたのですが、kenji氏の投稿により、この看板はギンレイホールの屋上にあったんだと、わかりました。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座