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牛込門・牛込駅周辺の変遷|史跡パネル④

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル④は「牛込門・牛込駅周辺の変遷」です。写真3枚と図2枚を掲載し、日本語と英語で解説しています。

牛込門・牛込駅周辺の変遷

牛込うしごめもん・牛込駅周辺の変遷
The Transition of Usigome-mon Gate and Ushigome Station Areas

 外堀そとぼりは、1660(まん3)年、牛込・和泉いずみばし間の堀さらいが行われ、外堀(神田川)をさかのぼって、牛込橋までの通船が可能となり、神田川沿いに河岸かしができました。牛込橋東側の堀端ほりばたには、あげちょうの「町方まちかたあげ」と御三家のひとつである「わり様物さまぶつ揚場」があり、山の手の武家地や町人地へまきや炭などの荷物を運ぶかるが、「軽子坂」を往来したといわれています。
 牛込門から城内に入ると武家屋敷が連なり、他方、堀端から現在の神楽坂の辺りは、善国ぜんこく沙門しゃもんてん)の坂下の地域が武家地、早稲田側には寺町が形成されました。寺の門前には町屋が建ち並び、江戸名所の一つとして賑わいを見せていました。
 明治になると、城外の新宿区側には、空き家と化した武家屋敷跡がげいおきや料亭となり、神楽かぐらざか花街はなまちが形成されていきました。他方、城内の千代田区側の武家屋敷跡に学校などが建てられました。
 牛込土橋東側の堀は、1984(昭和59)年、再開発事業により暗渠あんきょとなり、現在に至っています。また、鉄道整備においても削られずに残された牛込門周辺の土塁は、1911(明治44)年、牛込・くいちがい間の土手遊歩道を外堀保存のため公園とする計画が決定され、1927(昭和2)年、「東京市立土手公園」として開設されました。現在でも国史跡指定区域に、外濠公園として歴史的ふうが保全されています。
和泉橋 千代田区神田を流れる神田川にかかり神田駅に近く昭和通りの橋。。
堀さらい 水路清掃のため堀の土砂・ごみなどを取り除くこと
河岸 江戸時代に河川や湖沼の沿岸にできた川船の港
堀端 堀のほとり。堀の岸
町方揚場 「町方」は江戸時代の用語で,村方・山方・浦方などの地方(じかた)や、武家方・寺社方に対する語。「揚場」とは船荷を陸揚げする場所。
軽子 魚市場や船着き場などで荷物運搬を業とする人足。縄を編んでもっこのようにつくったかると呼ばれる運搬具を用いた。
毘沙門天 多聞天。サンスクリット名はVaiśravaṇa。仏法を守護する天部の神。
寺町 寺院が集中して配置された地域。寺院や墓地を市街の外縁にまとめ、敵襲に際して防衛線とする意図があった。
芸妓置屋 芸妓を抱えておく家。揚屋、茶屋、料亭などの迎えに応じて芸妓の斡旋を業とする。置屋。
花街 はなまち。かがい。遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。
暗渠 地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路。暗溝。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


土塁 どるい。敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた、主に盛土による堤防状の防壁

喰違 喰違見附。江戸城外郭門で唯一の土塁の虎口(城郭の出入り口)。紀尾井ホールの筋向かいにある。
土手公園 昭和2年8月31日「東京市立土手公園」として開園。当初は新見附から牛込見附までの長さ300間(約550m)(大日本山林会報)の公園だった。
外濠公園 昭和7年12月17日、「土手公園」を「外濠公園」と改称。(都市計画東京地方委員会議事速記録)。区域も変更し、牛込見附から赤坂見附までの細長い公園に。現在は、JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までに。
風致 自然の風景などのもつおもむき。味わい。

 In 1660, the section of the outer moat located between Ushigome-bashi and Izumi Bridges was dredged. This made it possible for boats to travel up the outer moat (Kanda River) to Ushigome-bashi Bridge. In addition, banks were constructed on both sides of the Kanda River. The bankside area on the eastern side of Ushigome-mon Bridge was home to the Agebachō neighborhood’s “community landing,” and “the Owari House Landing,” which was controlled by the Owari, one of the three branches of the Tokugawa clan. Both sites were used to offload arriving cargo. Porters transporting firewood and charcoal to warrior estates and commoner neighborhoods in the Edo’s Yamanote area are said to have traveled from these moat-side landings up an incline known as Hill of Karuko.
 Entering the castle grounds from Ushigome-mon Gate, warrior estates lined the street. The area located at the foot of Zenkoku Temple between the moat banks and present-day Kagurazaka was home to warrior estates and, on the Waseda side, there were Buddhist temples. Commoner residences lined the space in front of the temple gates and the area emerged as one of Edo’s most bustling sites.
 Entering the Meiji period, unoccupied former warrior estates outside the castle walls on the Shinjuku Ward side came to host restaurants and establishments employing geisha entertainers and courtesans. This led to the establishment of the Kagurazaka pleasure quarter. In contrast, schools and other institutions were constructed on the grounds of abandoned warrior estates inside the castle wall on the Chiyoda Ward side.
 In 1984, the moat on the eastern side of Ushigome-bashi Bridge was enclosed in conjunction with a local reedevelopment project. It remains covered today. In addition, in 1911, the government presented a plan to transform the portions of the moat embankment in the vicinity of Ushigome-mon Gate that survived the construction of the railroads into a public park and preserve remaining portions of the outer moat between Ushigome and Kuichigai as a pedestrian walkway. This resulted in the creation of Tokyo Dote City Park, which was founded in 1927. Even today, historic landscapes located inside the area officially designated as a national heritage site have been preserved in the form of Sotobori Park.

図 牛込神楽坂
画讃は「月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり」と読めます。

図 牛込揚場(江戸土産)
牛込御門外北の方 ふね原橋わらばしより南のかたちょう第宅ていたくのきを並べ 東南の方は御堀にて材木および米噌はさらなり 酒醤油始め諸色を載てここに集へり 船丘をなせり 故に揚場名は負けらし これより四谷赤坂辺まで運送す 因てこの所の繁華山の手第一とせり

写真 1905年頃の神楽坂下

牛込神楽坂。明治35~39年頃。石黒敬章編集『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001年)

写真 1959年の神楽坂下
神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち(やらせ? 他にも色々な論争が発生しています)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 31 神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち

写真 牛込濠の桜

鉄道写真と飛行機写真の撮影紀 トーキョー春爛漫

外堀の変遷|史跡解説板4

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の中型パネル4枚()の4枚目は「外堀の変遷」です。外堀は江戸城の防御が本来の役目ですが、他にも浮世絵の背景、舟船の輸送路、さらに江戸城がなくなっても、甲武鉄道と外堀の絵葉書として登場します。さらに明治では、新しい「新見附橋」もできています。

外堀の変遷

外堀そとぼりの変遷
The Transition of the Outer Moat

 外堀は江戸城防御の役割だけではなく、豊かな水辺空間として当時から江戸市民に親しまれ、名所絵などの浮世絵にも多く描かれました。「名所めいしょ江戸えどひゃっけい」(広重ひろしげ」・1856(安政あんせい3)年—1858(安政5)年)には、市ヶ谷八幡の門前町あんぜんまちが堀端に広がり賑わう景色が、外堀とともに描かれています。また、「富士ふじさんじゅう六景ろっけい」(広重・1858(安政5)年)には、御茶の水の懸樋かけどいしたを、荷物を載せた船が往来する様子が描かれ、外堀が物資輸送路としても使われていたことがわかります。
 明治期以降も外堀はけいしょうとして受け継がれました。1893(明治26)年、地域有志者からの寄付金により、ばんちょうより市谷いちがやまちに通じる新道(現・しんつけ)開設願いが出され、こう鉄道の延伸工事と一体で建設されることとなりました。
 1894(明治27)年に開通した甲武鉄道と外堀の風景は絵葉書などに多く取り入れられました。1911(明治44)年には、牛込からくいちがいまでの土手遊歩道を江戸城外堀として永久に保存するため公園とすることが計画され、1927(昭和2)年に牛込橋から新見附橋までの区域が「東京市立土手公園」として開設されました。なお、甲武鉄道や近代の牛込濠周辺の変遷については、駅舎2階に解説板を設置しています。
懸樋 かけどい。懸け樋。地上にかけ渡して、水を導くとい
景勝地 景色がすぐれている土地。勝地、行楽地、観光地、保養地、避暑地、リゾート
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。

 More than just a component in Edo Castle’s defense structure, the outer moat was also a verdant, waterside leisure space much loved by city residents. Depictions of the outer moat were frequently included in Tokugawa-era collections of woodblock prints. One famous collection entitled the One Hundred Famous Views of Edo, which was composed between 1856 and 1858 by the artist Hiroshige, includes a print depicting the outer moat and bustling, moat-side cityscape in the vicinity of Ichigaya’s Hachiman Gate. In a separate collection entitled Thirty-Six Views of Mount Fuji from 1858, Hiroshige depicts a cargo-filled boat passing under the outer moat’s Ochanomizu Acqueduct. This tells us that the moat was also a functional space used to transport goods around the city.
  After the 1868 Meiji Restoration, the outer moat continued to be considered a scenic area and a residential district was constructed on the moat’s Shinjuku side. Following the construction of the Köbu Railway in 1894, the Railway and surrounding outer moat area frequently came to be featured in postcards. In 1911, the authorities presented a plan to preserve Edo Castle’s outer moat as a public park. Specifically, the plan called for the construction of a pedestrian walkway along the embankment extending from Ushigome to Kuichigai. The plan came to fruition in 1927 with the construction of Tokyo’s Dote City Park, which extended from Ushigome to Shinmitsuke Bridge.
  For more information about the Kōbu Railway and Ushigome Moat’s modern development, please visit the history plaza on the second floor.

写真 土手公園 この写真は「日本地理風俗大系 II」(新光社、昭和6年)でも「日本地理風俗大系 第1改訂版」(誠文堂新光社、昭和11年)でもありませんでした。
写真 市谷濠
写真 現在の旧土手公園
図 四ツ谷御門外 だいじょうけんに してほかばんの しょうきゃく住むこと いずれの口もことなら ねど、わきこうしゅう 街道かいどうよりるの くちにして、かの玉河たまがわの じょうすいひく大樋おおとい あり。千歳せんざいきゅうの 仁計じんけいあおぐ べしとうとむべし
図 市ヶ谷八幡

牛込見附のせきに用いられていた石
 この解説板の横に置いてある石は、牛込見附ばし構築こうちくされていた堰の水路面に使用されていたもので、駅舎工事にあたり発掘されました。発掘結果や当時の堰の様子をうかがい知れる史料などを、JR飯田橋駅ホーム上(実際に堰が発見された位置となる牛込橋の真下付近)で解説しています。

 せき。河川の流水を制御し、水を取り入れるために、川の流れをさえぎって造る構造物。水力発電用ダムや堤防の機能はない。

オーストラリア・ニューサウスウェールズ州の堰。低いダム

The Stone Used to Construct Ushigome-dobashi Bridge’s Weir
  The stone located next to this installation was used to construct the weir located under Ushigome-mon Gate’s earthen bridge. Portions of the weir were discovered during the construction of lidabashi Station. Documents detailing what was discovered at the site and describing the weir’ s appearance can be found at the exhibit on the platform at JR lidabashi Station. The exhibit is located in the vicinity of the site under Ushigome-bashi Bridge, where the weir was actually discovered.


江戸城外堀|史跡解説板2

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の中型パネル4枚()のうち2枚目は江戸城の外堀です。写真は日本語と英語で書かれて、諸門の写真や図が18枚、大きい図は江戸城全体図と神田川の地形です。

江戸城外堀

江戸城外堀
The History of Edo Castle Outer Moat

 江戸城は、本丸ほんまる二の丸三の丸西の丸北の丸吹上ふきあげからなる内郭ないかく内堀が囲み、その表門おおもんでした。外堀は、雉子きじばしもんから時計回りに、ひとつばしもんかんばしもんときばしもんなど諸門をめぐり、ふくばしもんからとらもん溜池ためいけから四谷門市谷門牛込うしごめもんを経て、現在のかんがわに入り、いしかわもんから浅草あさくさもんで、すみがわに至る堀でした。外堀工事は、1606(けいちょう11)年に雉子きじばしから溜池ためいけまでの堀を構築こうちく後、1618(げん4)年に駿するだい掘削くっさくされて平川ひらかわ(現ほんがわ)のりゅうに付け替えられ、神田川が誕生しました。この工事で、平川はほりどめばしで締め切られ、独立した堀となりました。
 1636(寛永かんえい13)年には、てんしんで外堀が構築され、江戸のそうがまえが完成します。この工事は、雉子橋から虎ノ門に至る外堀の総石垣化と枡形ますがた築造をまえほそかわいけくろなど西国さいこくざまだいみょう石垣いしがきかた六組ろくくみ)、牛込うしごめばしから赤坂あかさかばしにかけての外堀掘削とるい構築こうちく東国とうこくだいみょう堀方ほりかた七組ななくみ)が行いました。
 その後も幕府は、外堀を維持するために大名の手伝普請による堀さらいをしました。牛込~市谷間の堀は、市谷~四谷間より水位が下がり、土砂が堆積し、が繁ったため、しんぎょうの管理下で頻繁ひんぱんにさらいが行われました。また、町人にも堀にゴミを捨てないよう町触まちぶれも出され、外堀の維持・管理が行われました。
本丸 日本の城郭建築で、最も主要な部分。多く、天守閣を築き、周囲に石垣や濠をめぐらし、城主が戦時に起居する。
二の丸 城郭で、本丸の外側の郭。二の丸の大きな役割は最重要の本丸を守護すること。
三の丸 二の丸を守るのが三の丸の主な役割
西の丸 本丸の西のほうに、独立して設けられた区画。将軍の世子の居所や、将軍の隠居所。世代交代をした城主が隠居場所として使うのが基本で、城主の妻や世継ぎとなる子が住むこともあった。
北の丸 城の北側の区画。特に、江戸城の北の丸にあった将軍の正妻の居所をいう。
吹上 元は風が吹き上げる高い所
内郭 城の内側に石などで築かれた囲い。また、その地域
内堀 ないごう。城の内部にある堀。
表門 おもてもん。建物などの表口にある門。正門
大手門 城の正門
雉子橋門 雉子橋門跡は「千代田区景観まちづくり重要物件」指定の地域遺産。千代田区一ツ橋と九段南を結ぶ。家康が朝鮮からの使節をもてなすためのきじをこの附近の鳥小屋で飼育したことが橋名の由来。
一橋門  徳川家康が江戸入国の際に丸木の一本橋を渡したことによる。江戸城の外堀の橋の一つ。雉子橋の東方、神田橋との間の橋で、南詰に一ツ橋御門があった。
神田橋門 千代田区神田と大手町を結ぶ橋。江戸城外濠(日本橋川)にかかる。江戸時代には魚市がたった。
常盤橋門 常盤橋は1590年(天正18)の架橋ともいわれ、江戸でも最も古い橋で、長さ17間(約31m)、幅6間(約11m)と、両国橋が架かるまでは江戸一の大橋だった。その橋に通じるこの門は、江戸城外郭の正門にあたり、桝形ますがた門の形状をよくとどめている。
呉服橋門 中央区八重洲やえす1丁目にあり、外堀通りと永代えいたい通りの交差点にあった。
虎ノ門 江戸城を守る三十六見附門の一つである虎ノ門が置かれた
溜池 東京都港区北部と千代田区の境界にある。江戸時代には外堀の一部で、大池があり、その水は上水に使用されていたが、明治期には埋立てられた。
四谷門 現在の麹町方面と四谷方面(新宿区)を結び、半蔵門を起点とする甲州街道の口
市谷門 1636年(寛永13年)、美作みまさかやまはん(現在の岡山県)藩主・もり長継ながつぐが築造
牛込門 1636年(寛永13年)、阿波徳島藩(現在の徳島県)藩主はち須賀すか忠英ただてが築造
神田川  東京都を流れる荒川水系隅田川支流の一級河川
小石川門 1636年(寛永13年)、岡山藩(現在の岡山県)藩主池田光政によって築造
浅草門 浅草橋は台東区、中央区の境にある橋。神田川が隅田川に合流する地点にかかり、奥州街道の入り口になる。浅草門は現在の浅草橋の南たもとにある。
隅田川 東部を貫流する荒川の分流
駿河台 徳川家康が江戸入府の際に、駿河から連れてきた家臣団がこの地に居住したからとする説と、富士山が見えたからとする説がある。
掘削 土砂や岩石を掘り取って穴を開けること
平川 神田川の前身。三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発して、かつては河口は大手町1丁目のあたりで、日比谷入江という干潟の海に流れを注いでいた。海水が遡上してて飲料水に不適だった。1620(元和6)年、平川は天下普請の大工事により、それまでの流路を変更し、三崎橋から先は駿河台・秋葉原をへて柳橋より隅田川に流れ込むようになった。
日本橋川 千代田区と中央区を流れる一級河川。江戸時代の天下普請のとき、平川は三崎橋から堀留橋までが埋め立てられ堀留となった。これは飯田堀、飯田川とも呼ばれていた。1903年(明治36年)、市区改正事業があり、埋めた区間を再度神田川まで開削し、神田川の派川として日本橋川と呼ばれるようになる。
流路 川の水が流れる場所
堀留橋 日本橋川に架かり、南堀留橋の上流約120m。九段北一丁目と飯田橋二丁目の間から西神田三丁目に通じる専大通りの橋。昔この付近の日本橋川を堀留川と称した
天下普請 江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事
総構 城以外に城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造
枡形 ますがた。枡のような四角な形。城の一の門と二の門との間にある方形の広場。出陣の際、兵の集まる所。侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
石垣方六組 西国・四国の大名61家は「石垣方」6組に編成して江戸城東方の堀に石垣を築かせた。
牛込土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


赤坂土橋 赤坂御門のこと。土橋とは城郭の構成要素の一つ。堀を掘ったときに虎口前の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
堀方七組 関東・奥羽の大名52家を「堀方」7組に編成して江戸城西方の堀を構築させた。
手伝普請 近世の統一政権(豊臣政権,江戸幕府)が大名を動員して行った土木工事。
堀さらい 水路清掃のこと。
 インド原産のハス科の多年性水生植物。地下茎は「蓮根」(れんこん、はすね)
普請奉行 土木・建築工事において基礎工事を管掌する。
町触 まちぶれ。江戸時代に町人に対して出された法令
喰違 麹町区紀尾井町阪上から赤坂離宮前に出る城門。江戸城外郭門で唯一、石垣ではなく土塁による虎口(城の出入口)
  Edo Castle’s inner hull was comprised of six citadels: the main, second, third, western, northern, and fukiage citadels. The entire inner hull was encircled by an internal moat and Ōte-mon Gate served as its main entrance. The Castle’s outer moat originated at Kijibashi-mon Gate and passed, in clockwise direction, through Hitotsubashi-mon, Kandabashi-mon, Tokiwa-bashi-mon, Gofukubashi-mon, and Torano-mon Gates. It then extended from Castle reservoir through Yotsuya-mon, Ichigaya-mon, and Ushigome-mon Gates before ultimately flowing into the present-day Kanda River. From there. it served as a canal, which passed through Koishikawa-mon and Asakusa-mon Gates and ultimately converged with the Sumida River.
  The outer moat’s development began in 1606 with the construction of a canal from Kiji-bashi Bridge to the Castle reservoir. The second stage in its evolution came in 1618, when portions of the Kanda Plateau were removed and the canal was redirected towards the Hira River. That process gave birth to the Kanda River and transformed the Hira River, which was closed off at Horidome-bashi Bridge, into an independent canal.
  The outer moat was finally completed in 1636, when feudal lords from eastern and western Japan were mobilized to construct its remaining portions. Specifically, western domainal lords, including the Maeda, Hosokawa, Ikeda, and Kuroda Houses, were ordered to supervise the construction of stone walls and the square masugata enclosures used to protect the castle gates along the section of outer moat between Kiji-bashi Bridge and Torano-mon Gate. In constrast, domainal lords from eastern Japan were order to dig a canal between Ushigome-bashi and Akasaka-bashi Bridges and construct earthen fortifications.
  In order to maintain the outer moat, the Tokugawa shogunate mobilized domainal lords from around the country to dredge it. In particular, the section of the moat between Ushigome and Ichigaya required frequent dredging because the water level often receded, resulting in the accumulation of silt on the moat floor and the development of water lilies on its surface. Such dredging projects were carried out under the supervision of the shogunate’s Governor of Construction. In addition, the city authori-ties attempted to keep the outer moat free of debris by issuing official proclamations banning the residents of commoner neigh-borhoods from disposing of garbage in the moat.


四谷門

数寄屋橋門

雉子橋門

市谷門

山下門

一橋門

牛込橋

幸橋

神田橋

小石川門

虎ノ門

常盤橋門

筋違門

赤坂門

呉服橋門

浅草門

喰違

鍛冶橋門

四谷門数寄屋橋雉子橋門市谷門山下門一橋門
牛込門幸橋門神田橋門小石川門虎ノ門常盤橋門
筋違門赤坂門呉服橋門浅草門喰違鍛治橋門

赤坂門:長崎大学附属図書館蔵
Akasaka-mon Gate: “Photo Tokyo Past and Present” Hiroshi Nozawa
喰違:『絵本江戸土産』国立国会図書館蔵
Kuichigai-mon Gate: “Edo Souvenir in Pictures” National Diet Library
そのほか:『旧江戸城写真帖』東京国立博物館蔵
Others: “Old Edo Castle Photo Collection” Tokyo National Museum

江戸城外堀

江戸城全体図zsっっっっっっっっっっd

江戸城全体図

 野中和夫編「石垣が語る江戸城」(同成社、2007)では……

 61歳で待望の栄冠をにぎった家康、日本最大の実力者となって幕府を開いた。
 ところが、家康は征夷大将軍となってわずか2年で世子秀忠にゆずる。慶長10年(1605)2月24日、譜代、外様の大名10万余の軍勢を率いて江戸を出発し、威風あたりをはらう入京、天下の人々は驚いた。このことは「天下は廻り持ち」の思想を否定し、徳川の子孫が独占することを宣言するためであった。政治的中心が、江戸と大坂という分裂状況を事実上終止符をうち、諸大名にその方向を決定させるのに十分であった。
 天下は徳川のもの、政治の中心となる威容をほこる本城作りに、譜代・外様を問わず天下の大名総力をあげて工事に協力させることが可能となったのである。諸大名も将軍への忠誠を示すために命ぜられるまま城普請にかり出された。
 慶長の天下普請のはじまりである。(略)
慶長11年(1606)の修築工事
(略)この時の工事箇所は、外郭の雉子橋より溜池落口までの石垣の他、本丸石垣、天守台、富士見橋台石垣、虎門石垣などにあたり、天守台を除き5月には竣工する。(略)
慶長12年の修築工事
 この年の修築工事は、前年の工事の未了部分を継ぎ、さらに雉子橋から溜池際に至る東南の外濠を改修することを主目的としている。(略)
寛永13年(1636)の修築工事
 この年の工事は、外郭の修築によって江戸城の総がまえが完成する時である。(略)

寛永期の修築工事

慶長期の修築工事


 修築工事は、石垣方と堀方とからなり、石垣方は西国大名、堀方は東国大名が担当し、石垣工事は、神田橋から桜田にいたる修築と虎ノ門・御成橋門(幸橋門)・赤坂門・喰違門・外糀町口(四谷門)・市ヶ谷門・牛込門・小石川門・筋違門・浅草橋門・溜池台の外郭諸門の桝形、濠の掘削工事は、赤坂から市ヶ谷までの外濠西側を開削することを目的としている。外濠西側の掘削によって東北の神田川に連結し、外郭諸門の築造によって城濠が完成するのである。

神田川の地形

 堀留橋(ほりどめばし)江戸時代の堀はここで終了し、元飯田町堀留と呼ばれた。埋め立ての時期は不明だが、寛文期(1661〜1673年)には堀留(堀で掘り進められない終了地点)になっていたらしい。大正時代の関東大震災の後に復興事業があり、再び架橋した。