平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(展望社、2006年)の「神楽坂三十年代地図」です。この本は平綴じのため、これ以上頁を開くことはできませんでした。まあ、これで十分読めます。
本文の左下に「昭和35年度 神楽坂周辺詳細図より」と書いてあります。残念ながら、この「詳細図」は「国立国会図書館」でも「新宿区立図書館」でもありませんでした。
2つに分けると、解像度が上がり、もう少しきれいな図になります。
平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(展望社、2006年)の「神楽坂三十年代地図」です。この本は平綴じのため、これ以上頁を開くことはできませんでした。まあ、これで十分読めます。
本文の左下に「昭和35年度 神楽坂周辺詳細図より」と書いてあります。残念ながら、この「詳細図」は「国立国会図書館」でも「新宿区立図書館」でもありませんでした。
2つに分けると、解像度が上がり、もう少しきれいな図になります。
地元の方からです |
早稲田通りは、千代田区九段北の田安門交差点から神楽坂や高田馬場を通り、杉並区上井草までの道路の通称です。神楽坂上交差点を境に東側(都心側)は千代田区と新宿区の区道、西が都道になっています。この原点となったと思われる決定が、明治政府の市区改正委員会の議事録にあります。
市区改正は東京市内の道路を区間ごとに第一等~第五等と指定し、道幅を広げる計画でした。現在の内堀通りや中央通りは第一等、外濠通りは場所によって第一等または第二等です。明治21年10月、原案は次のようになっていました。
・第二等道路(幅12間=21.6m)
・第三等道路(幅10間=18m)
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神楽坂通りは第三等道路に指定され、拡幅される予定でした。この原案に異議がありました。
明治21年(1888年)10月12日開催
1番委員 この路線は飯田橋より少しく西により筑土通りの道をとる方が平坦にして実施上も便宜ならん。
24番委員 説のごとく成すときは迂回するならん。(遠回りではないか)
1番委員 いや、かえって迂回を避けうべし。
25番委員 説は至極と考える。もし路線を変更するも8間道(14.4m)にて十分。
1番、2番委員 賛成す。
(新字・新かなで適宜省略)
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賛成多数で、神楽坂通りは第四等道路に格下げになりました。しかし、次の会議でさらに修正されたのです。
明治21年(1888年)10月15日開催
1番委員 実況を調べし。神楽坂通りを肴町まで取り広げるは、はなはだしき坂路のみならず、牛込の繁盛を幾分か傷つくるきらいなしとせぬ。これを少しく北に移し、飯田橋の外の下宮比町と揚場町との間を過ぎ、筑土前町および肴町を貫き、岩戸町の四等線(第四等道路)に接続せば、急坂を避け、(道路の)改良の効果を奏すべし。路線を修正されたし。
(新字・新かなで適宜省略)
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神楽坂は急なので工事が大変だし、商店を立ち退かせるのは損だ。坂を迂回し、北側に新しい道を作ればいい-という意見です。委員会は全会一致で原案の変更を決定し、神楽坂通りは第四等道路からも外れました。
迂回を提案した1番委員は桜井勉といい、内務省地理局長でした。全国に気象観測網を整備したことから「日本の天気予報の創始者」ともされています。
神楽坂の迂回路となったのが、現在の飯田橋—筑八幡町—神楽坂上を結ぶ大久保通りです。地図を見ると、この区間は家を立ち退かせて道を作ったようです。
牛込区史(昭和5年)によれば、神楽坂通りは
・第五等道路(幅6間=10.8m) 第八十二 牛込門外より神楽坂通り矢来町・弁天町を経て馬場下町に至るの道路 |
に指定されました。ところが、この計画は明治36年の市区改正の修正で
・第五等道路 第六 牛込肴町より矢来町・弁天町を経て馬場下町に至るの道路 |
へと短縮され、通りの神楽坂1-5丁目は東京市の管理を外れます。
年 | 日 | 神楽坂上~坂下 | 路幅 |
---|---|---|---|
明治21年 | 10月(原案) | 市区改正・第三等道路 | 18m |
10月12日 | 市区改正・第四等道路に格下げ | 14.4m | |
10月15日 | 市区改正・第四等道路から格下げ | ||
明治22年 | 5月 | 市区改正・五等道路 | 10.8m |
明治36年 | 3月 | 市区改正の対象外 |
その頃には神楽坂の商店街を拡幅するのは難しくなっていいたのでしょう。神楽坂1-5丁目が都道になっていないのは、この時の決定の影響と考えられます。
また現在の道幅は約12mですが、これは明治期から変わっていないと言われます。神楽坂が急坂だったために都市計画から外れ、古い風情が残ったというのは、とても興味深いことです。
東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録は国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。
読賣新聞で、露伴の『ひげ男』と紅葉の『伽羅枕』とを同時に掲載する計畫を立てたのは、あれは確か二十三年の春頃だつたと思う。兩花形が腕くらべをするといふので、それは非常な評判であつた。何方が旨いか、何方が成功するか、かうした聲は到る處で聞えた。私なども、町の角に大きく出てゐる畫看板を見て、その名聲にあこがれた貧しい文學書生の一人であつた。 紅葉は『伽羅枕』を牛込の北町の家で書いた。太田南畝の屋敷の中だとかいふ奥まつた小さな家で、裏には大きな樫の樹が笠のやうになつて繁つてゐた。八疊の前の庭には、木戸がついてゐて、そこから、硯友社の人達は『居るかい』などと言つて入つて來た。 北町の通を私は其時分よく通つた。其小さな門に、尾崎と書いた表札がかけてあつて、郵便箱には硯友社と書いてあつたのを今でもはつきりと記憶してゐる。やがて讀賣に出た二つの作は、何方も讀む人達の心を惹いた。『ひげ男』は殊に評判がよかつた。『流石は露伴だ!』といふ聾が彼方此方から聞えた。それにも拘らず、露伴は五六囘で筆を絶つて、瓢然として、赤城の山中に隠れた。『伽羅枕』は百囘近く讀いた。 |
木戸 庭などの出入り口に設けた簡単な開き戸。屋根はなく、木の門
瓢然 ひょうぜん。用事や目的もなくふらりと来たり、ふらりと立ち去ったりする様子
赤城 関東平野の北西部、群馬県の赤城山は二重式火山で、前橋市、桐生市などに広がる。山頂には大沼と呼ばれるカルデラ湖がある。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 2は、昭和6年(1931年)頃、飯田橋駅西口付近より坂上方向を撮った写真です。
街灯は中央やや左に一個あります。解像度が悪いので識別しにくいですが、「神楽坂通り 街灯の研究(戦前編)」とは違うもののようです。外堀通りの左側には「均一」という大きな文字と、その上に丸い屋号らしき看板があり、昔の「100円ショップ」である「10銭ストア」等でしょうか。右側でも大きな横文字の看板が見えます。
牛込橋に向かって男性3人が同じ学生帽をかぶって歩いています。3人の他に多くの人も車道を歩いていて、歩道を歩く人は少数です。歩道には桜の木が何本も大きくなっています。歩道と車道を区切る縁石もあります。
これは明治・大正名所 探訪記で絵はがきの写真とよく似ています。特に外堀通りにある2店ではまず同じですが、ただ牛込橋の左側の桜の木は1本しか写っていないように見えます。絵はがきの方が時代が新しく、何らかの理由で失われたのかもしれません。
早乙女勝元氏の『東京空襲写真集』を見ると左端の大きな木は葉が茂っていますが、神楽坂寄りの木は折れたようになっています。手前の木は戦後も生き残り、ID 55-56では太くなった特徴的な三股が確認できます。
写真のキャプションでは……。なお、旧仮名づかいはすべて現代仮名づかいに代えています。
神楽坂 新宿が今日の繁昌をいたす以前は神楽坂は山の手の銀座として繁栄をうたわれたものである。しかし今日といえども早稲田という背景をもつがために決して衰微はしない。夜の神楽坂は露店と早稲田学生とそしてその中を彩る神楽坂芸者の艷しい姿でにぎやかだ。 |
新宿歴史博物館によると、この本は仲摩照久編『日本地理風俗大系 第二巻 大東京篇』(新光社、昭和6年)だそうです。さっそく国立国会図書館からコピーをとってもらいました。
神楽坂と市ケ谷 主要交通路は早稲田から飯田橋に至る路並に新宿から同じく飯田橋に行く線は、他の区でも同様であるが、都会の商業、事務の中心から放射状に出ているもので最も重要である。これに交わる電車の通されていない多少広い道路が次に重要な交通線である。尤も矢来町には途中まで電車が敷設された。それ等の中で殊に神楽坂附近はその最も盛な場所であって、関東大震災直後には大商店の分店がここに集って山の手銀座の名があったが、災害地の復興と新宿の繁栄などのために、一時程ではなくなった。 この区は一般に住宅地で、大工場や大商店はあまりない。牛込区が東京市の一部分としての形態を備へ始めたのは極めて最近のことである。元禄の頃には現在の江戸川橋より西方は全く田であり、明治に入っても明治十七年参諜本部陸軍部測量局の測量の東京五千分一の地形図によって見ても、早稲田附近は全く田であり、当時の小日向新古川町附近までは今日の郊外のやうな人家の配列をなし、矢来町附近にも畑や竹藪が多かった。早稲田大学で人家が立並んだのは大正に入ってからのことである。 その住宅地の間に陸軍関係の学校、その他が割合に広い面積を占めている。南部の市ヶ谷本村町には陸軍士官学校があり、河田町には陸軍経済学校、戸山町に陸軍幼年学校、戸山学校、近衛騎兵連隊がある。 市ケ谷には市ケ谷刑務所があって、未決被告及び被疑者を収容している。 病院の大きなものに済生会病院、衛戌病院、至誠病院などがある。 市ケ谷八幡宮は士官学校の東隣にあって、文明年間太田道灌が築城の際に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものである。台地上にあって眺望がよい。 |
電車が敷設 矢来町から新橋までの都電の線路は敷設されていた。
関東大震災 1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に起きた。
大商店の分店 今 和次郎編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年。再版はちくま学芸文庫、平成13年)では「三越の分店、松屋の臨時賣場、銀座の村松時計店と資生堂の出店さてはカフエ・プランタン等々一夜に失はれた下町の繁華が一手に押し寄せた観があった」。なお、松屋といっても銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではありません。
江戸川橋 飯田橋付近から関口大洗堰までの神田川はかつては「江戸川」でした。 この江戸川にかかった、東京都文京区関口一丁目を渡る橋は「江戸川橋」と呼びました。
明治十七年参諜本部陸軍部測量局 参諜本部の業務は「機務密謀に参画し地図政誌を編輯し並に間諜通報等の事を掌る」です(明治4年、兵部省陸軍部内条例)。
全く田であり 明治17年の参諜本部陸軍部測量局では小日向西古川町から早稲田大学までは本当に田んぼでした。
小日向新古川町 小日向区東古川町と西古川町。現在の文京区関口1丁目の東の半分。
矢来町附近 やはり矢来町附近は田んぼや畑が多かったといいます。
陸軍士官学校 旧日本陸軍の現役将校養成学校。明治7年(1874)東京市ケ谷に設置。
陸軍経済学校 陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育や経理官への上級教育を行った。現在は東京女子医科大学の一部。
陸軍幼年学校 陸軍将校志願の少年に士官学校の予備的教育を施した学校。東京陸軍地方幼年学校の生徒数は約50名で、13歳から16歳で入校し3年間の教育が行われた
戸山学校 陸軍戸山学校。旧日本陸軍で、学生に体操、剣術、喇叭譜などの訓練を施した学校。
近衛騎兵連隊 宮城の守護や儀仗を任務とした旧日本陸軍の師団のうち、主に騎兵の連隊。現在は学習院女子大学、戸塚第一中学校、戸山高校など
市ケ谷刑務所 刑務所で、大正11年から昭和12年まで東京市牛込区市谷富久町にあった
済生会病院 戸山3丁目にあり、牛込恩賜財団済生会病院(済生会病院麹町分院が改称)が移転した病院。
衛戌病院 えいじゅびょういん。旧日本陸軍の衛戍地(軍隊が長く駐屯して防衛する重要地域)に設置された病院。陸軍病院の旧称。陸軍本病院は陸軍省の管轄であり、昭和4年(1929年)3月 新宿区戸山町(現在地)に移転。その後、国立東京第一病院から現在は国立国際医療研究センターに。
至誠病院 東京女医学校(現在の東京女子医科大学)の学長、吉岡弥生氏は関東大震災の後に下宮比町の至誠病院を入手し、繁栄したが、昭和20年4月、空襲で全焼した。今は東京厚生年金病院から東京新宿メディカルセンターとして発展中。
市ケ谷八幡宮 正しくは市谷亀岡八幡宮。新宿区市谷八幡町にある神社。鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったもの。「鶴岡」に対して「亀岡」八幡宮としている。
太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。
「三井住友トラスト不動産」の「四谷・牛込」で「戦前期の四谷・牛込」「神楽坂にあった均一ストア」(https://smtrc.jp/town-archives/city/yotsuya/p06.html)を見てみます。
百貨店の『高島屋』は1927(昭和2)年より店内に均一商品の売場を設け好評を得ていた。1931(昭和6)年、10銭均一の『高島屋10銭ストア』を大阪で開業。その後、20銭均一の商品も加えて『高島屋10銭20銭ストア』として全国でチェーン展開。「昭和恐慌」の時勢ということもあり、翌年には51店舗まで成長した。1935(昭和10)年の資料では、陶磁器、菓子、玩具、家庭・雑貨用品など、10銭均一の商品として2,000種以上、20銭均一の商品として400種以上を取り扱っていた。現在の100円ショップの原型といえるものであった。写真は1932(昭和7)年に開店した『高島屋10銭20銭ストア 神楽坂店』で、1933(昭和8)年頃の撮影 |
では、早速、国立国会図書館で東京交通社「大日本職業別明細図」(昭和12年)のコピーを依頼しました。でてくると、写真はこれだけ。巨大な地図の一部なのでした。
では文章は? はい、これだけです。
あとは全部「三井住友トラスト不動産」が作った説明だったのです。最後に「三井住友トラスト不動産」では
1938(昭和13)年には別会社の「丸高均一店」として独立、最盛期となる1941(昭和16)年に106店舗となったが、その後、戦時下になると均一での販売は困難となり、戦局の激化に伴い次々と閉店に追い込まれた。 |
「てくてく牛込神楽坂」の「三角堂と買取り店」では神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)からの引用を行い、
相川さん (中略)そこへ十銭ストアができた。
山下さん 「高島屋」が? そんな間口が広かったですか?
馬場さん そんな広くないですよ。
相川さん 二間半ぐらい。
山下さん もっと大きいっちゅうような感じがしていた。繁盛していたんだよな。高島屋系統は下にもあったしね。
相川さん 飯田商事というのが高島屋をやっていた。
馬場さん 一時期、高島屋と論争してね。「丸高ストア」と名乗ったときも記憶がある。高島屋さんというのも飯田さんの系統だから。なんかあったんだと思う。
|
高島屋10銭ストアは「時代」が「震災後」の所にあります。
時代 | ←北西 | 南東→ | |||
---|---|---|---|---|---|
震災前 | 洋服・都築 | 機山閣 | 玩具店 | 松葉塩物 | 神楽坂せんべい |
震災後 | 菊岡三味線 | 山岡書店 | 三角堂メガネ | ||
昭和5年頃 (1930) | 高島屋十銭ストア (昭和7年以降) | ナトリ理容室 | 岡沢菓子店 | ||
1952 | (空き) | 雑貨 | パチンコ | 楽器レコード リード商店 |
|
1955 | 明治牛乳 | 関口商店 | うなぎ大和田 | ||
1963 | (空き) | ||||
1980 | Fance | ||||
1999 | 菱屋 | 弁当たぐち | (建) | ||
2010 | 五十番 | キッチンママ | セイジョー | ||
2018 | チカリシャス | 買い取り店 | |||
2020 | 全て閉店 | ||||
2021 | 将来の道路 | 神楽坂5丁目ビル |