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正雪地蔵|新撰東京名所図会、新宿郷土研究、新宿の散歩道

文学と神楽坂

「正雪地蔵」あるいは「織部型灯籠」は矢来町日下が池」の崖下から見つかりました。でも、この灯籠は本当に「キリシタン灯籠」でしょうか? それともただの灯籠でしょうか? そもそもキリシタン灯籠といわれるものはあるのでしょうか?
 まず『風俗画報』の「新撰東京名所図会 第41編」(東陽堂、明治37年)では……

◇牛山書院
(中略)書院の東南、園の一隅に正雪地蔵といへるあり、日下が池崖地より堀出すと、同邸の正雪と曾て縁故あるなし、但し、近傍榎町正雪屋敷の跡ありて、正雪桜など著名なるより附会したるにはあらざるか、粗造なる石の面に微かに地蔵の尊容を刻めるのみ、文字の徴すべきなし。一説に一里塚の地蔵ともいう。

書院 小浜藩酒井家がつくった牛山書院のこと。書院とは「書斎、寺院の僧侶の私室、書院造りの座敷」。「新撰東京名所図会 第41編」によれば、牛山書院は「旧庭園の風致を保存せむが為めに、酒井家にて設くる所なり、即ち伯爵家の別寮(茶室としてつくった小さな建物)にして、前記日下が池も岸の茶屋も皆な之に付属して凡そ千五百坪、一区割をなし、妄に入るを許さず矢来倶楽部にて取締居るなり。書院は茶屋の南にありて相隣れり、書院の側らに古樅老銀杏各一株あり、共に三代将軍時代の物なり、其他甃石、琴柱形の石燈籠等物の今に存するあり」
註:矢来倶楽部 「新撰東京名所図会」では、設立は明治25年頃。場所は山里5号地。明治37年の部員は約80人。客室6間、離れ座敷2間、茶室。割烹や宿泊はなく、料理は門前の吉田屋で。弁当は可。娯楽は囲碁、球技、謡曲など。

正雪 由井正雪。江戸前期の兵学者。3代将軍徳川家光の死を契機に牢人丸橋忠弥らと幕府転覆をはかった(慶安事件)が、駿府の宿屋で包囲され、自殺した。47歳。
地蔵 地蔵は土地を悪いものから守る仏教の菩薩。右手に錫杖しゃくじょう,左手に宝珠を持つ。その信仰は道祖神や庚申信仰などと結合し、広く民間に信仰された。
崖地 崖地とは宅地内にありながら傾斜が急で、宅地としては使用できない土地。正雪地蔵は「日下が池」に面している崖にあったのでしょう。

参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」 明治16年(複製は日本地図センター、2011年)

同邸 酒井邸の邸宅。
曾て かつて。過去のある一時期を表す語。以前。昔。
縁故 血縁・姻戚いんせきなどによるつながり。
正雪屋敷 榎町に由井正雪が張孔堂という邸宅を構え、門弟は4000〜5000人という。しかし、事件の6年後に生まれた新井白石はくせきは、正雪の道場は神田れんじゃく町のいつの裏店だと佐久間洞巌に宛てた手紙で書いています。(新井白石、今泉定介編『新井白石全集 第5巻』吉川半七、1906)

駿河の由井の紺屋の子と申し候さもあるべく候神田の連雀町と申す町のうらやに五間ほどのたなをかり候て三間は手習子を集め候所とし二間の所に住居候よし中々あさましき浪人朝不夕の體にて旗本衆又家中の歴々をその所へ引つけ高砂やのうたひの中にて軍法を伝授し候
正雪桜 由比正雪と丸橋忠弥が酒を酌み交わし叛乱の密談を行った場所。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 52. 慶安の変立役者由比正雪旧居跡」では……
横町を進むと右手(天神町)78番地の小野沢製本所のところには、「正雪桜」という桜の古木が昭和5年まであって天然記念物になっていた。その桜は、正雪の学問所の庭先だったという。慶安2年(1649)の春の夜、正雪はこの桜の下で花見の宴を張りながら、丸橋忠弥と謀略の誓いを立てたと伝えている。
附会 まとめる。追従する。こじつける。
尊容 そんよう。仏像や高貴な人で尊いお顔やお姿
徴す 証明する。照らし合わせる。取り立てる。徴収する。もとめる。要求する。
一里塚の地蔵 一里塚は1里(4km)ごとに土を高く盛り上げた盛土(塚)で、旅人の道しるべになった。地蔵は、この場合は土地を悪いものから守る神で、疫病が村に入り込まないよう魔よけをしたり、旅人の安全を願うなど、さまざまな役割があった。

 ここでは「正雪地蔵」は「由比正雪の像ではない」ということだけがわかりました。次に新宿郷土会『新宿郷土研究』第1号(新宿郷土会、昭和40年)を見てみます。一瀬幸三氏は調査して、「正雪地蔵は切支丹灯籠なり」と報告しています。

正雪地蔵はキリタン灯籠なり

矢来キリシタン灯籠

1. 男根の形に疑問   一瀬幸三
 新宿区矢来町町会事務所前に『正雪地蔵尊』がある。むかしから眼病に効顕ありと知られているものである。この地蔵について、矢来町会の加藤嘉男氏は「この正雪地蔵は秋葉神社とともに酒井家(旧小浜藩主)が、移転に際し、同町会の守り本尊として、同町会にゆづられたものである」とその来歴を説明してくれた。また、「地蔵尊は男根の形をしている」ということも附け加えられた。そこで、近くにはキリシタン大名として知られている豊後の大友宗麟の長子義統(後に吉続)の住居したという『大友屋敷』などがあり、もしやすると、地方でいわれるヤソ地蔵ではなかろうかと、詳細に調査の結果ヤソ地蔵ともいわれるまごうなきキリシタン灯籠であることが判明した。
2.灯籠の復元
『正雪地蔵』すなわちキリシタン灯籠は高さははめこんだ台石から51cm、ヨコ巾最小15cm、最大で21cm、火熖をこうむって赤茶けておりしたがって、石質ははなはだもろいが御影石のようである。現在は欠損した竿石のみを残している。しかし、キリシタン灯籠としての特徴であるラテン十字形はみられないが、下部にはアーチ形に彫られた中に人物像をみることができる。(この人物像について学者の定説というものはないが、伴天連(Fa dere)ともいい、イエスキリストともいい、マリヤなどともいうが、明かでない。)いまここに矢来のキリシタン灯籠を図をもって、復元すると図のようになる。(斜線は欠損の個所)

矢来町町会事務所 不明。
秋葉神社 東京都神社名鑑では「当社は寛永年中(1624−44)まで牛込寺町(今の神楽坂六丁目付近)に鎮座され、火除の神として崇められていたが、同所住民の願いにより、矢来の酒井若狭守の下屋敷へ遷座され、爾来酒井家の邸内社として崇敬せられていた。明治になって門戸を開き一般の人も参詣できるようになった。昭和27年に酒井家より、矢来町秋葉神社奉賛会に無償にて贈与せられ、昭和49年9月より宗教法人として発足した」
酒井家(旧小浜藩主) わか国(福井県)遠敷おにゅう郡小浜(現、福井県小浜市)に置かれた藩
守り本尊 いつも信仰し、自分を守る神社。
大友宗麟 おおともそうりん。戦国大名。天文19年(1550)父の跡を継ぎ、豊後、筑後、肥後、肥前、豊前の6ヵ国を領し、朝鮮貿易を行い、キリスト教に帰依。天正10年(1582)少年使節をローマへ派遣した。
義統(後に吉続) 戦国時代の武将。宗麟の長子。豊臣秀吉から「吉」を与えられて義統から吉統へと改名し、豊臣一家に。関ヶ原の戦いで敗れ、幽閉された。
大友屋敷 キリシタン大名の大友宗麟の孫・義延の屋敷。義延の孫、義親も1619(元和5)年に死亡し、大友家は断絶に。大友義延は敷地内に大宰府天満宮を勧請、この天神信仰は隠れキリシタンの天主(デウス)信仰に通じるという。
ヤソ地蔵 キリシタン地蔵。十字架地蔵。キリスト教を信仰していた人々が、キリストを抱くマリア像を仏像の姿に置き換え、その一部に十字架などを隠し刻んだ地蔵尊。
キリシタン灯籠 竿石(さおいし。胴の部分)に十字架や像が刻まれ、キリストの尊像だとして崇拝した。切支丹灯籠ともいう。
御影石 花崗岩のこと。当初は神戸市御影地方から生産した。硬く、耐久性があり建材や墓石などに用いる。
竿石 石灯籠で、台石の上にあって火袋を支える柱状の石
ラテン十字形 キリスト教で最も頻繁に用いられる十字の一つ。正十字の下方にのびている線が他の三つより長く,十字の中心がやや上方にある。ギリシャ十字は四枝の長さが等しい。
伴天連 バテレン。ポルトガル語(padre)。神父。転じて、キリシタン。キリスト教。

 一瀬幸三氏の「正雪地蔵は切支丹灯籠なり」の続きです。

3.崖下から発堀
 このキリシタン灯籠はいまの新潮社の前あたりに三代将軍徳川家光が、酒井讃岐守忠勝の牛込下屋敷へ来た際に水泳などをしてたびたび興じた、「日たるが池」というのがあった。正雪地蔵すなわちキリシタン灯籠はこの崖下から掘り出されたものであるという。
 これについて、『風俗画報』「新撰東京名所図会」は次のように誌している。
  書院(著者註=牛山書院)の東南、園の一隅に正雪地蔵といへるあたり、日下が池の崖地より堀出すと、同邸(著者注=酒井邸)の正雪とて縁故あるなし、但し、近傍榎町に正雪屋敷の跡ありて、正雪桜など著名なるより附会したるにはあらざるか、粗造なる石の面に微かに地蔵の尊容を刻めるのみ、文字の徴すべきなし。一説に一里塚地蔵ともいう。
 これが、正雪地蔵に関するすなわちキリシタン灯籠ただひとつの文献である。
 キリシタン灯籠の来歴についてはハッキリしてない。
1.江戸初期にキリシタンが、迫害を受けた際、纖部門下の教徒が、潜伏信仰の対象として創案したもの。
2.キリシタン信奉の茶人が好んで、茶室に用いたもの。
3.道祖神と並べ、迫害下のキリシタンの連絡用として用いたもの。
4.洗礼式に聖盤をのせ聖水を注ぐのに用いたるの。
などであるが、いずれのものが判然としていない。だがこの灯籠がキリシタンと深い関係にあることはいなめない。これが、江戸においてキリシタンの詮義だてのとくに厳しかった、元和(1615~1623)から寛永(1624~1643)にかけてのころ焼すてられ土中に埋められていたるのであろう。
 しかし、一般にはキリシタン灯籠の創案者といわれる、古田織部正重然(教名=フランスコ)が、大阪勢に通じたという理由で、慶長20年(1615)5〜6月一族が切腹を命ぜられたあと、一名織部灯籠ともいわれるキリシタン灯籠が、キリシタンと気脉を通じていることが、露見し、この灯籠の製作、所有の一切を禁じられた。そこで庭の植込みに隠したり、土中深く埋めたり墓地に運んだりして、為政者の目をくらましたものであるともいわれている。
 現に新宿区には二基のキリシタン灯籠がある。ひとつは河田町月桂寺、新宿2丁目の大宗寺のもので、いずれももとは墓地内にあったものであるというからカムフラージーの意味で置いたものだろう。
 こうしたキリシタンの遺物であるキリシタン灯籠が、区内から三基までも発見せられることは四谷にあったといわれる南蛮寺、それから牛込にあったキリシタン宗徒のアジトとに深いつながりがあり、今後の興味ある研究課題といわさるを得ない。ここでは矢来のキリシタン灯籠についてのみ紹介しておいたままである。

纖部 ふる重然しげなり。古田おり。古田おりのかみ。信長、秀吉、家康の三代に仕えた武将。茶道でのせんのきゅうの弟子で、織部流の開祖。大坂夏の陣では、豊臣家への内通を疑われて切腹。徳川秀忠に茶法を伝授し、陶芸で織部陶の名を後世に伝えた。
潜伏信仰 17~19世紀、ひそかにキリスト教信仰を続けていた形態
道祖神 村の境や道の分岐、山道の道端に祀られる石の彫像に宿る神道の神
詮義 評議して明らかにすること。その評議。罪人を取り調べること。
古田織部正重然 上の「纖部」を参照
織部灯籠 夜の茶会のため社寺の石灯籠。織部灯籠は四角形の火袋を持つ活込み型の灯籠。茶人・古田織部好みの灯籠ということで「織部」の名がある。
気脉 きみゃく。気脈。血液の通う道筋。仲間うちなどでの、考え・気持ちのつながり。
月桂寺 正覚山月桂寺。臨済宗円覚寺派。新宿区河田町2-5。寛永9年(1632)市谷に起立、寛永11年河田町に移る。
大宗寺 霞関山本覚院太宗寺。浄土宗。新宿区新宿2-9-2。慶長2年(1597)開山。
カムフラージー カムフラージュ。camouflage。敵の目をくらますために、軍艦・戦車・建造物・身体などに迷彩などを施す
南蛮寺 室町末期〜安土桃山時代のキリスト教の教会堂。
宗徒のアジト 宗徒とはある宗教・宗派の信徒、信者。アジトとは地下運動者の隠れ家。

キリシタン灯籠だった正雪地蔵

 以上は一瀬幸三氏の思慮です。この「像」はキリスト像(かマリア像、宣教師像)にも似ていますが、本当?と考えてしまいます。
 ここで牧村史陽氏の『織部灯籠はキリシタン灯籠か』(史陽選集刊行会、昭和43年)の写真を4枚ほど上げておきます。

「織部灯籠はキリシタン灯籠か」

 次は芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、昭和47年)「牛込地区 24. キリシタン灯籠だった正雪地蔵」で、賛否両論をまとって登場します。

キリシタン灯籠だった正雪地蔵
      (矢来町三)
 旺文社業務局反対側にある町会事務所横の細道奥に秋葉神社がある。その入口左手に「正雪地蔵尊」を祭る祠がある。昔から眼病に効能があると信仰されていた。
 もと近くの崖下から掘り出され、酒井家屋敷内にあったものを、酒井家が移転する時に、町会の守り神として町会にゆずられたものである。
 これは、実はミカゲ石(火災を受けて赤くなっている)でつくられた頭部の欠けた織部型灯籠のキリシタン灯籠である。かくれキリシタン信徒の連絡用やひそかに信仰するためのものだろうというが、確実な証拠はない。しかし、たいてい地中から掘り出されるので、正常な姿で置かれることを好まれなかったか、世間からはばかれたものであるということができる。
 正雪地蔵と呼ばれたのは、この北方の天神町に、由比正雪の住んだ跡があるので結びつけられたものだろうという(52参照)。
 正雪地蔵はキリシタン灯籠であるとするのは、これが地中にかくされていたものを掘り出されたものであること、掘り出された所はキリシタン大名である小浜藩酒井家の屋敷内であること、天神町の北野天満宮あたりにキリシタン大名として知られていた豊後の大友宗麟の子孫、義乗が住んでいた大友屋敷であることなどから、それらと関係があるのではないかと推察するのである(53参照)。
 これが眼病に効験あるといわれたのは、かくれキリシタンが自分たちの信仰対象物をカムフラージュするために、「この灯籠を見ると眼がつぶれる」と、まことしやかにいいふらしたことが、後世になって眼病の守り神としての言仰に変ったのではないかという(市谷37・新宿21参照)。

旺文社業務局 昭和48年の住宅地図です。

昭和48年の住宅地図

キリシタン大名である小浜藩酒井家 小浜藩の藩主を務めた酒井家はキリシタンではありませんでした。
北野天満宮 北野神社。新宿区天神町63。創建年代等は不詳。

 松田重雄氏の「切支丹燈籠の信仰」(恒文社、昭和63年)はキリシタン灯籠であることは疑いはないと考えています。

▶︎ 一般の燈籠や織部燈籠には、病気と結んだ伝承はないが、切支丹燈籠にはいろいろの病気恢復信仰に習合したものがある。これは、この燈籠のみにある特異性である。
 東京都矢来町の燈籠の尊像を正雪地蔵と称し、「この地蔵様を信仰すると眼病が治る」との信仰が現在も続き、お花や満願の願開きの旗が供えられている。東京付近だけでなく、大阪市方面、その他の地方からの信仰が、今もって絶えない。小浜市雲浜地区蔵のものは、竿の型が男子の性器に似ていることから、性器に関する病気の守護地蔵として今も信仰が続き、水と花が供えられていた(中略)。このように二重信仰によって、彼等が熱祷の場を守り抜いた信念には、心に重圧を受けた。(103頁)
▶︎ 江戸牛込屋敷に、旧小浜藩主酒井讃岐守忠勝の屋敷があった。庭内に切支丹燈籠を祀っていたが、幕府の手前園内の、清らかな「ひたるが池」の崖下に沈め、聖地としていた。その後、池から拾い上げたと、酒井家では伝えている。小浜時代、切支丹大名であった酒井家が礼拝の対象とし、いつの頃か秋葉神社の境内に祀られた。
 新宿区矢来町に秋葉神社の小祠がある。その横に「正雪地蔵」が祀られている。『新撰東京名所図会』によると、近く榎町には正雪屋敷があり、その近くにあったので、正雪地蔵と呼んだ。これは擬装するため、表画上地蔵信仰に習合し、よく聖地を守り抜いたのである。(111頁)
▶︎ 切支丹燈籠の文様が風化のため見のがすこともあり、読み取りにくい場合がある。このようなとき拓本によって判明する場合が多い。東京都新宿区矢来町の正雪地蔵は、戦災を受けて焼けただれ、竿の上部半分が火によって破裂している。肉眼では文様がさだかではなかったが、拓本を取ったところ、創造時代型の印の一部が浮き出て、時代的考証の上に大いに役立ったことがある。(234頁)
習合 異なる教義などを折衷すること。「神仏習合」

 以上、正雪地蔵は「キリシタン灯籠」だったという賛成論を書きましたが、いえいえ、それで終わる話ではありません。最後に反対論を。
 まず小浜若狭藩では寛永11年(1634)11月に酒井忠勝が小浜町・敦賀町に条々を発し、キリシタンの信仰は厳禁していました。小浜若狭藩がキリシタンで「日下が池」にキリスト像(かマリア像、宣教師像)がある……なんてことはありえないのです。
 隠居お勉強帖ではこの地蔵を「こじつけが幾重にも重なった謎多き小祠」と書いています。
 武者小路千家の「卜深庵」ではブログの「織部灯篭」の中で……

大正末期から昭和の初期にかけて、一部の研究者や郷土史家によるキリシタン遺物の研究熱が高まり、織部灯篭に彫られた長身像がマントを羽織った宣教師に似ているとして、織部灯篭の一部を「キリシタン燈籠」と称するようになりました。そして現在、地方自治体で文化財指定ものが全国で21基の織部灯篭が「キリシタン灯篭」として文化財指定されています。
 キリシタン灯篭の研究書として、美術史家の西村貞の『キリシタンと茶道』と松田重雄の『切支丹灯籠の研究』等があります。西村は織部灯篭の一部をキリシタン宗門と関係づけようと論証に努めています。また松田重雄も曖昧な論述でキリシタン灯篭であると主張していますが、スペイン・ポルトガルの関係史を専門とし南蛮文化研究家で歴史学者の松田毅一は、『キリシタン 史実と美術』でこれらの説を完全に論破しています。また『潜キリシタンと切支丹灯籠』(松田重雄著、1966)の書評に日本のキリスト教・キリシタン史家の海老沢有道は、「一言にして云えばキリシタン研究が半世紀も逆行した観がある。全くひどい本が公刊されたものである。各頁誤謬、曲解、こじつけにみちており、それを指摘するだけで、逆に一冊の本ほど執筆せねばならない。(中略)従来の学問研究を理解し、吟味した形跡もなく、キリシタンの教理、信仰についても理解に欠けており、とに角恐れ入った著作である」と手厳しく酷評しています。
 この書評は海老沢有道著「ゑぴすとら」(キリスト教史学会、1994)の「『切支丹灯籠』評」(203頁)でした。全部の評論を取り出すと……
 鳥取民族美術館長松田重雄氏が、永年のキリシタン燈篭の研究を公けにするから、推薦して欲しい旨、昨秋同地の永田牧師から再三の依頼を受けた。そして執筆意図と目次、その要点等を拝見したが、学間的に極めて不安なものがあるので強く御辞退し、刊行の暁には批評させて戴く旨お答えして置いた。それが、このたび愈々出版されたのであるが、一言にして云えばキリシタン研究が半世紀を逆行した観がある。全くひどい本が公刊されたものである。各誤謬・曲解・こじつけにみちみちており、それを指摘するだけで、逆に一冊の本ほどを執筆せねばならない。ただ全国各地に散在する130余の、いわゆるキリシタン燈籠を調査し、形態的整理をしたという点にとりえがある。また問題の謎の文字をPatri(父に)と解する新説を出している。が、参考文献が巻末に若干掲げられているものの、従来の学的研究を理解し、吟味した形跡もなく、キリシタン教理・信仰についても理解を欠いており、とに角恐れ入った著述である。
 こうした書を、部外者の京大建築学の福山教授や元拓大総長矢部貞治氏が、学的研究として持ちあげた序を寄せているのは、まだしも、日本基教団総会議長大村勇氏が提灯もちをされていることは誠に遺憾の極みである。

 松田毅一氏の『キリシタン 史実と美術』(淡交社、昭和44年)では……
 わが国では上代から神社仏閣に石燈籠が安置され、近世初期からは茶庭にも、そして近代になっては広く庭園一般にも各種の石燈籠が普及するようになった。ここで取り扱ういわゆる「織部型燈籠」は、近世の初期から愛用され、茶庭のみならず、寺社、庭園、墓地その他全国各地に見受けられるものである。それは普通、竿石さおいしの上部が横に突き出し、下部に人像が刻まれている点が大きい特徴とされているのであるが、特に本書で問題とするゆえんは、大正末期から、それはキリシタン宗門と密接な関係があるという説が流布しているからである。そして今では、多くの人々が、織部型燈籠のことをたとえその一部にせよ「キリシタン燈籠」と称するに至った。
 しかしながらこのキリシタン燈籠説は、はなはだしく根拠に久け、キリシタン史の権威者と認められている人々は、すべて織部型燈籠とキリシタンは無関係である、あるいは少なくとも直接的には関係がないとして、問題にもしていない。それにもかかわらず、キリシタン燈籠説が今なお鳴りをひそめないのみか、これを誇示し流行させる風潮が見受けられるのである。けだし、わが史学界なり読書界における奇現象といわねばなるまい。だが、それには若干の理由がある。すなわち、その一は、優れた美術史家であった故西村貞氏が、事実上、初めてキリシタン燈籠説を学術書として公にした際、学界はあえて反駁しようとはせず、したがって同説はあたかも公認されているかのような印象を世人に与えたことにあると思われる。もとより今日までに、西村説、およびそれに類する説を「認められない」と主張した方は幾人もおられるが、西村氏が、その博覧強記と蘊蓄うんちく、ならびに情熱を傾け、数百枚にわたって筆されたのに対し、わずか数頁の反論ないし所感といったものに留まったので、キリシタン燈籠説を主張する人々をなお決定的に沈黙せしめるに至らぬのであろう。理由の第二は、キリシタン燈籠説と称するものにも異説があり、織部型燈籠そのものにも種々の形態があって、これについて問題を提起し、論争することは容易でないからである。それをあえて試みようとすれば、勢い相当な長文ないし一書を執筆する覚悟が必要となる。理由の第三は、織部型燈籠といっても、中台以上を欠いた竿石だけのものが多いので、それらは、もともと燈籠の形態であったのか、あるいは卒塔婆そとばか五輪塔に由来するような竿石の部分だけのものが先に存在し、それを利用して燈籠としたのであるかという基本的なことが明らかでない。もしその後者であるならば、織部燈籠の実体を究めるためには、種々の石造物や民間信仰の研究にまで拡大せしめねばならない。そのような次第で、私は今日まで執筆をちゅうちょして来たのであるが、「キリシタン燈籠」という誤った説が公然と流布し、甲論乙駁、混迷の状態にあることを、今にして秩序立てなければ、後世、キリシタン研究は収拾のつかない状態に陥るのではないかとさえ要点されるまでになった。

 また川島恂二氏の「古河藩領とその周辺の隠切支丹」(日本図書刊行会、1986)では……
 昭和44年松田毅一氏著『キリシタン—史実と美術』では、『切支丹灯籠なぞは推理小説の類で学問的根拠は絶無であり全くの作り話に過ぎない』と断定を下された。突如、一天忽かにかき曇り、雹が降って来て皆びっくりして押し黙ってしまった。
 今は松田毅一著「南蛮巡礼」昭和56年中央文庫に、同氏著昭和42年南蛮巡礼(朝日新聞社)も加えられていて名著である。
 松田毅一氏と共に日本の指折り数える切支丹権威者海老沢有道氏も「曲解の極である」として切支丹灯籠を否定している。松田毅一は正直な偉い人で正々堂々とその潜キリシタンでない理由を我々素人に書いて呉れている。

 つまり、この地蔵は「キリシタン燈籠」ではなく、そもそも「キリシタン燈籠」という燈籠はなく、普通の織部灯篭で、これを崇拝するのは大間違いだ……としています。
 研究の比較として、一方は一流の郷土研究家や美術史家たち、一方はキリシタンの権威者たち、さあ正しいのがどちらなの? 私は後者の方に軍配を上げます。

地蔵坂|天神町

文学と神楽坂

 新宿区の地蔵坂には神楽坂5丁目と袋町の坂と、矢来町や天神町に近い坂という二つの坂があります。天神町に近い地蔵坂は正確にはどうなっているのでしょうか。まず標柱は……

地 蔵 坂
(じぞうざか)
江戸時代後期、小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町へ下る坂を地蔵坂と呼んでいた(『すな残月ざんげつ』)。坂名の由来はさだかではないが、おそらく近辺に地蔵尊があったものと思われる。

 しかし、ここから100mも離れていない北方に渡邊坂があります。この渡邊坂については別の場所に書いています。ここでは地蔵坂について書いていきます。
 横関英一氏の「続江戸の坂 東京の坂」(有峰書店、昭和50年)では……

都内における古今の坂名、橋名の同じものを一括して揚げると、次のようになる。(中略)
地蔵坂(牛込、王子、志村、向島)
地蔵橋(築地川)

とほとんど何も書いてありません。
 石川悌二氏の『江戸東京坂道事典』(新人物往来社、昭和46年)では……

地蔵坂(じぞうざか)
 矢来町交番の前の道(江戸川橋通り)を北に下る坂で、坂下は山吹町を通って江戸川橋に至る。坂上は通称矢来下とむかしからよばれた。『異本武江披抄』には「地蔵坂 酒井修理大夫下屋敷脇、天神町へ下る坂也。今此坂を地蔵坂といへど、むかし楠ふでんが害せられたるは、酒井の屋敷と御先手組屋敷の間なり、由井正雪が宅地は榎町済松寺脇、西丸御先手組の所なりといふ」とあり、袋町の地蔵坂の楠不伝暗殺の伝えを否定している。
「新撰束京名所図会」にはこのあたりのことを「昔の酒井邸は土手を築き、矢来を結び、老樹陰森として昼なほ暗く、夜は辻斬、迫剥出没せり、されば臆病者の武士は門前夜行なりがたく、帯刀の柄に手をかけて、一目散に駆け披けたりとの談柄あり」と述べ、また地蔵坂については「同町(矢来町)と東榎町の間を南に上る坂あり、地蔵坂といふ」とし、『異本武江披抄』が「天神町へ下る」としているのとは少しくい違いがあるようだ。

 岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では……

地蔵坂(天神町、矢来町交番前を西北へ東榎町へ下る坂)
  〈別名〉 三年坂
「長十三間巾二間」(東京府志料)
 交番前を左にカーブして下る早稲田通りの坂。三年坂の別名をもつのは、転べば三年の後には命を失うというほどの急坂であったと思われる。いまも、交番前は、どすんと落ちる急勾配である。
 坂下で早稲田通りの南側から奥の裏通りに入ると、露地を挾んで家がびっしりと並んでいる。向かい合った家の軒が、くっつかんばかりだ。
「矢来の坂を下りた所、天神町の裏通りには、結婚当時に住つてゐた。長屋住ひ見たいで、子供の泣声、台所のにほひ、便所通ひの気色まで此方へ通じるので、明窓浄几と云つたやうな、文人の生活趣味は、その借家では感ぜられなかった。」(正宗白鳥『心の焼跡』)(中略)
 明治は暗く、そして、泥ンこであった。
明窓浄几 めいそうじょうき。明るい窓と清潔な机。明るく清らかな書斎をいう。

『今昔東京の坂』に出てくる別名「三年坂」は、神楽坂の本多横丁とほぼ同じ名です。さて、天神町の地蔵坂に戻って、この場所は3冊とも本質的に同じ場所を指します。つまり坂が始まる牛込天神町交差点から坂が終わる(下図)までの地域です。
 ただし坂の始まりと終わりは現在と江戸時代で違うのが普通です。また、明治時代には、地蔵坂と渡邊坂が真っ直ぐな1本の道(江戸川橋通り)に改修しました。つまり江戸時代から明治時代まで2つの坂を少しずつ、凸凹は直し、クランクは止めて、なだらかな坂1つに替えました。また、現在の渡邊坂には、高低差は感じません。江戸時代は坂らしい坂ばずだ…と思います。

礫川牛込小日向絵図。嘉永2年~文久3年(1849-1863)これは蔓延元年(1860)の図

 なお、文京区の礫川牛込小日向絵図(嘉永5年、1852年)では天神町の道に階段がありました。すぐに階段はなくなりますが、この階段があると、坂下の天神町と坂上の矢来下で、2つの坂は別々になっても、一本には普通はできないと思います。

小日向絵図礫川牛込小日向絵図 尾張屋板 嘉永5年(1852)

 最後に現在の地蔵坂と渡邊坂、江戸川橋通りの地図です。江戸時代の絵図とは南北が逆で、天神町交差点は一番下になります。

居酒屋の作家|山本容郎

文学と神楽坂

『居酒屋の作家』(潮出版社、昭和57年)を書いた山本容郎ようろう氏は文芸評論家で、昭和28年からの12年間は角川書店編集者。昭和50年、フリーに。著書に「文壇百話ここだけの話」「作家の食卓」など。生年は昭和5年4月20日、没年は平成25年12月4日。享年は満83歳。

 私は、曙橋へ出る大通りを少し歩いた。町名でいうと、弁天町である。弁天町と云えば、私は井伏鱒二の「夜ふけと梅の花」が頭に浮かぶ。
「或る夜更けのこと、正確にいえば去年の三月二十日午前二時頃、私はひどく空腹で且つくったくした気持で、何処かおでん屋でもないかと牛込弁天町の通りを歩いていた」
 と、始まるこの作品は、暗がりから出てくる血だらけの男と、それが機縁になって交友関係が出来る奇妙で味のある短篇小説だ。
 奇妙で味のある短篇小説と云えば、と私はつぶやきながら、早稲田通りへ引返して、天神町交番まで来た。
 その作品は、内田百閒の「神楽坂の虎」という小説。ここでは、主人公は、三人づれで、夜中の十二時過ぎ、店をやっている鮨屋をさがしているうちに暗がりに大きな虎を、五、六匹見る話なのである。
「夜ふけと梅の花」の血だらけの男も酔っぱらって、四、五人の男に袋だたきになったのである。彼は大トラということになろうか。
 神楽坂界隈は、虎がよく出る。私は、二つの作品の偶然の一致を喜んだ。百閒はトラを本物の虎として書いているけれど、酔っぱらいのトラを揶揄しているのかも知れない。
曙橋 あけぼのばし。新宿区住吉町。立体交差の道路橋の名前
大通り 正しくは外苑東通り
夜ふけと梅の花 大酒飲みの男は、消防団4、5人から袋叩きにあい、主人公に出会う。主人公はなだめながら、交友関係ができないうちに、男から5円を受け取る。5、6月後、主人公も酔客になり、同様な事を行う。
且つ かつ。二つの行為や事柄が並行して行うこと
くったく 屈託。ある一つのことばかりが気にかかってその他が手につかない。くよくよすること。
機縁 きえん。きっかけ。縁。
早稲田通り 千代田区九段北の靖国通りの田安門交差点から、神楽坂通りを通り抜け、外苑東通りの交点から杉並区上井草の青梅街道の井草八幡前交差点までの延長15kmの東西方向の道路
神楽坂の虎 夜の神楽坂を通ると、虎が五六匹でてくる。うち一匹が後をつけてくる。「夢語り」手法を境地に高めたもの。
揶揄 やゆ。からかう。なぶる。嘲弄ちょうろうする

 私とMは、早稲田通りと大久保通りの交差点から、筑土八幡の方へ歩いた。左側に菊鮨、第三玉の湯、そして「しょうが見える。
 私は、昭和二十八年から四十年まで、飯田橋駅(新宿寄り)から出て、左へ九段の方へ入る方角にある出版社に勤めていた。その関係で神楽坂は、昔なじみの町なのである。「庄」は、昔なじみの飲み屋なのである。
 時は午後二時。私は近くに会社のある友入たちを呼んだ。そら豆、枝豆、やきとりを頼んで、ビールを飲み出した。やがで、総員五人になった。
 二十五、六年前、私は会社のOという二年先輩につれられて、夕方神楽坂を歩いた。彼は江戸趣味があって、私を吉原へも案内してくれた。その時、神楽坂を少し登り、「志満金」(うなぎ屋)の先の路地を左へ曲ると空地へ出た。彼は、ここが、鏡花と神楽坂の芸者・桃太郎(本名・伊藤すず)とが恋愛関係になり、紅葉没後、新世帯を持った場所だと教えてくれた。目の下には、物理学校(東京理科大学)が見えた。
 私は、その頃、読んだばかりの北原白秋の「物理学校裏」の詩の切れ切れを口に出していた。

 日が暮れた、淡い銀と紫――
 蒸し暑い六月の空
 暮れのこる棕櫚の花の悩ましさ。

 それから「一楽」「亀田屋」と、かつてのなじみの店を歩いた。トラにならないけれど、この町は、文豪と虎がよく似合うようだ。
交差点 昔は(昭和55年など)「神楽坂交差点」でした。今は(昭和59年など)「神楽坂上交差点」です。この本が出版された昭和57年11月はどちらを使ったのは、不明です。
筑土八幡 北東方向です。
菊鮨、第三玉の湯、そして「たこ庄」 3軒全ては白銀町にあります。地図を参照

1980年。住宅地図。

昔なじみ 昔馴染。昔から親しくしている人や物、場所。昔親しんだ人や物、場所。
出版社 角川書店です。住所は千代田区富士見二丁目7番地。現在は富士見二丁目13番3号。
趣味 物事から感じ取られるおもむき。味わい。情趣。
吉原 吉原遊廓、江戸幕府が公認した遊廓。初めは江戸日本橋近く(日本橋人形町)に、明暦の大火の後、浅草寺裏の日本堤に移転した。前者を元吉原、後者を新吉原と呼ぶ。
なじみの店 「一楽」や「亀田屋」の位置は不明です。

ミスターダンディー(写真)文章と仏閣神社 昭和49年

文学と神楽坂

 雑誌「Mr. DANDY」(中央出版、昭和49年)に「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」を出しています。この神社の中や前などにカメラを置いて撮っています。雑誌なのに有名人もタレントもなく、言ってみれば誰も気にしない写真です。ある地元の人は「手抜き企画で、神社ばかり。文化に縁遠い記事」だといっています。現代の人間だと、まず撮らない写真……。でも、変わったものは確かにあるし、それに本文には、ちょっといいこともある。では読んで、そして、見てみましょう。

 飯田橋駅九段口の前に立って、九段の反対側が神楽坂である。
 江戸時代、築土八幡を移すときこの坂で神楽を奏したことから、神楽坂の名が生れたとか穴八幡の神楽を奏したとか、若宮八幡の神楽が聞えてくるとかいろいろあるが、とにかく、その神楽から生れた名であることはまちがいない。
 江戸時代は坂に向って左側が商家、右側が武家屋敷であった。
 明治になり早稲田大学ができ、その玄関口として次第に商店街を形成していったのである。
 昭和10年頃は山の手一の繁華街で、夜の盛り場としても名があり――神楽坂は電気と会社員と芸妓の街である――といわれた。
 神楽坂の芸者、神楽坂はん子の「ゲイシャワルツ」を覚えている人もあるにちがいない。
 また、ここには多くの文人墨客が住んでいた。思いつくままあげてみると、作家泉鏡花(神楽坂2-22)尾崎紅葉(横寺町)北原白秋(2-22)などがある。
 鏡花の“婦系図”は半自叙伝小説で、早瀬は鏡花であり、お蔦は神楽坂芸者で愛人であった桃太郎であり、真砂町の先生は紅葉であるという。
左側が商家 江戸時代は左側も武家屋敷でした。
文人墨客 ぶんじんぼっかく。ぶんじんぼっきゃく。詩文や書画などの風流に親しむ人。「文人」は詩文・書画などに、「墨客」は書画に親しむ人。

 江戸時代、江戸七福神の一つ、毘沙門様が坂を上って左側の善国寺にある。
 東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが最初である。明治、大正にかけて、夜の賑いは大変なもので表通りは人出で歩けないほどであった。
 早稲田通りをでて左へゆくと赤城神社がある。これはこの地の当主牛込氏が建てた神社である。
 築土八幡は一段高く眺望の利く位置にある。
 ここは戦国時代、管領上杉氏の城跡で、八幡宮はその城主の弓矢を祭ったものである。
 ここにある康申塔は、高さ約1.5メートル幅約70センチの石碑で、面にオス、メスの二猿が浮き彫りにされている。
 一猿は立って桃の実をとろうとし、一猿は腰を下して待つところで、アダムとイブを連想される。これを由比正雪が信仰したという説がある。しかし、少々時代のずれがある。
 由比正雪といえば、このあたり、大日本印刷工場の東南から東方一帯が、正雪の旧居跡であった。
 伝説によると、正雪の道場済松寺門前から東榎町、天神町にかけて約5000坪の地所に広がっていたという。
 いずれにせよ、その町の一つの道、一つの坂には、長い歴史の過去があるのである。
 それを思い、あれを思い、ただ急ぎ足に通りすぎるだけでなく、ふと、なにかを振り返りたくなる――そんな静かな気持で、この町を歩いてみるといいだろう。まだまだ、多くのむかしがそこにある。
 そして、そこを吹く風に、秋をみつけたとき、あなたは旅情を知る人になっているにちがいない。
管領 かんれい。室町幕府で将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄した。
八幡宮 八幡神を祀る神社。9世紀ごろ、八幡神を鎮護国家神とする信仰が確立し、王城鎮護、勇武の神、武人の守護神などになった。武士を中心に弓矢の神として尊崇された。
康申塔 こうしんとう。庚申塚に建てる石塔。村境などに、青面金剛しょうめんこんごう童子、つまり病魔、病鬼を除く神を祭ってある塚。庚申の本尊を青面金剛童子とし、三匹猿はその侍者だとする説が行き渡っている。
由比正雪 ゆいしょうせつ。江戸前期の軍学者。慶安事件の首謀者。1651年徳川家光の死に際し,幕閣への批判と旗本救済を掲げて幕府転覆を企てたが、内通で事前に発覚。正雪は自刃した。生年は慶長10年(1605年)、没年は慶安4年7月26日(1651年9月10日)。
時代のずれ 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)の一部では
34、珍らしい庚申塔
(略)この庚申塔は、由比正雪が信仰したものという伝説がある。しかし、正雪は、この碑の建った13年前の慶安四年(1651)に死んでいるのである。(略)

由比正雪 実際は位置不明です。正雪の記載があるのは、新宿区矢来町1-9にある正雪地蔵尊だけですが、正雪との関係を示す史料はありません。
済松寺 新宿区榎町77番地。
東榎町、天神町 ひがしえのきちょう。てんじんちょう。済松寺、東榎町、天神町について図を参照。

全国地価マップ

  • 赤城神社。「赤城神社再生プロジェクト」で新たに本堂などを建て、2010年、終了するので、この写真は昔のものです。

赤城神社(今)

「昭忠碑(大山巌碑)」もありました。明治37~8年の日露戦役を記念し、明治39年に建てられて、陸軍大将大山巌が揮毫しました。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。内容はここに詳しく。

 現在はかわって三社があります。赤城出世稲荷神社、八耳神社、あおい神社です。

三社

  • 神楽坂若宮八幡神社。昭和20(1945)年5月25日、東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。1949年に拝殿、1950年5月に社務所を再度建築。その後、敷地の西側に新社殿を建て、残った部分をマンションにしました。マンションの竣工は1999年です。

若宮八幡神社

現在の若宮八幡神社

  • 善国寺。昭和46年に本堂を建てています。したがって、現在と同じ寺院でした。

 庚申塔もあります。

東京震災記|田山花袋

文学と神楽坂

 さまざまな筆者達が関東大震災にどう向き合っていたのでしょうか。当時の東京では沢山の問題が出てきて、たとえば、伊豆大島が海に沈下し見えなくなったというデマまでが出ました。
 しかし、こと神楽坂に限ると、大々問題は起こらなかったといえます。震災が激しくなる場所は下町でした。
 例えば、田山花袋氏では『東京震災記』で関東大震災を描きましたが、一般的に神楽坂の震災は極めて軽微で、花袋氏もそこには触れていません。以下は田山花袋氏の『東京震災記』で牛込の場合です。

 ぬけ弁天から若松町に出て、それから弁天町へと行った。榎町の通りもかなりに混雑していた。私は横町から横町へと入って行った。川上眉山の自殺した天神町の家のある傍を山吹町へと抜けて、それから赤城下町改代町の方へと行った。そこはひどかった。家は家と重り合って倒されていた。二階がペシヤンコに潰れているような家もあれば、一気にのめって、滅茶滅茶に倒れているような家もあった、山の手では、被害はここあたりが一番ひどくはないだろうかと思われた。
 石切橋をわたって小石川に入った。そこらはことに警戒が厳重であった。

震災

田山花袋氏の『東京震災記』(地図は大正11年)

ぬけ弁天 厳嶋(いつくしま)神社、通称抜弁天(ぬけべんてん)は新宿区余丁町にある神社。苦難を切り開くための神社から抜弁天。
若松町 わかまつちょう。当地の松が江戸城に正月用の門松として献上されたことから。
弁天町 べんてんちょう。町域のほぼ中央を外苑東通りが南北に縦貫。牛込弁財天(べんざいてん)(ちょう)などの数町から現在の1町に。
榎町 えのきちょう。早稲田通りが南部を横に。町内に大きな榎の大木があったと言われます。
天神町 てんじんちょう。町域内を東西方向に早稲田通りが通ります。寛永のころ(1628-44)キリシタン大名の孫、大友義延の屋敷、大友屋敷がありました。「天神」はキリシタンの天の神(デウス)に。
山吹町 やまぶきちょう。町域内を東西方向に早大通りが、南北方向には江戸川橋通りが。「山吹の里」はこの地だというので名前がつきました
赤城下町 あかぎしたまち。地域北部は改代町に接します。俗称は赤城明神下。
改代町 かいたいちょう。この土地を代地として与えたので、改代町という説が。江戸時代には古着屋が並び、したがて古着(だな)と言われてきました。
石切橋 いしきりばし。石切とは石工のことで、このあたりに石工職人が多数住んでいました。
小石川 こいしかわ。東京都文京区のおよそ西半分。東京都文京区の町名、または旧東京市小石川区を指す地域名