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神楽坂1丁目(写真)令和元年 ID 13298

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13298は、令和元年(2019)5月、「神楽坂入口」を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13298 神楽坂入口

 交差点名は「神楽坂下」。信号機にはゼブラ柄の背面板はありません、車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で黄色と無彩色に塗り分け、「駐車禁止」の意味です。街灯の柱は灰色で、光源はアイ ツインアーク(水銀ランプと高圧ナトリウムランプ)で、逆さまの正四角錐で包まれています。回転式の「(車両進入禁止)自転車を除く 0-12」の標識も見えます。
 横断歩道の奥の車道が赤く舗装されています。通称「ギラギラ舗装」で、交差点付近の駐停車禁止の注意喚起を目的に東京都が平成13年頃から導入しています。ただし交通標識や路面標示のような全国一律のルールではないので、道路管理者が判断しているようです。この部分は新宿区道です。
 左右に走る外堀通りは、いつか都市計画で拡幅されます。このため写真手前の建物は2階建てで、少し奥の建物から高くなっています。左側の建物が斜めに切れたようになっているのは、その部分まで道路が広がることを意味しています。

神楽坂1丁目→坂上(令和元年)
  1. ▶看板「交通事故多発 取締強化路線」
  2. STARBUCKS COFFEE(喫茶店)パチンコニューバリー跡
  3. ▶交差点名「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」信号機。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  4. エイブル(不動産会社)田原屋フルーツパーラー跡
  5. ▶街灯。横断幕「神楽坂まち舞台・大江戸めぐり 2019年 宵祭 5月11日(土)本祭 5月11日(日)」
  6. モスバーガー(ハンバーガー屋)清水衣裳店跡
  7. 翁庵1・2F。梨々苑(焼肉)B1。「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」「Darts bar」
  8. 屋上広告「インターネット まんが喫茶 自遊空間」(向かいのカグラヒルズに入居)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. 情報満載お部屋探し♪ Dramatic Communication アパマンショップ Network 飯田橋店(不動産仲介会社)赤井足袋店跡
  2. (車両進入禁止)自転車を除く 0-12」。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」(一方通行入口)「12-24」
  3. カレーショップ ボナッ
  4. ▶消火栓
  5. ▶神楽坂通り
  6. ▶標柱、三角コーン
  7. のレン 室(米麹食品専門店)白十字診療所跡
  8. ▶街灯。横断幕・「神楽坂」
  9. のレン(生活用品店)山田紙店跡
  10. ▶地下鉄 神楽坂駅
  11. 地下鉄 神楽坂駅出入口
  12. 「ドトールコーヒー Finest Quality Doutor 1F 34席 2F 41席 3F 57席」「300m ホットカルドカルド神楽坂」「パク・ボゴム」「ペ(コちゃん)」突き出し看板「ペコちゃん」「ペコ(ちゃん焼)日本で(ここだけ!)」
  13. カグラヒル。屋上にあるのはKADOKAWAのデジタルサイネージ広告で、この時に表示されていたのは…「とんび」の重松清x堤真一が贈る感動作 泣くな赤鬼。6.14 FRI ROADSHOW 堤真一/柳楽優弥/川栄李奈。原作:重松清「せ(んせい。)」「(カラオケの)鉄人」「地域最〇 SEG(A)神楽坂」「インターネット まんが 喫茶 自遊(空間)」「マツモトキヨシ」

デジタルサイネージ広告 デジタル技術を活用し、平面ディスプレイやプロジェクタなどで映像や文字を表す情報・広告媒体。英語でDigital Signage(電子看板)

花袋と紅葉(1)

文学と神楽坂

 昭和41年、新宿郷土会「新宿郷土研究」第4号に「花袋紅葉」という一文が書かれています。この「新宿郷土研究」は新宿区立図書館で借りられますが、誰が作者「わたくし」になるのか不明です。この編集兼発行人は一瀬幸三氏なので、おそらく一瀬氏でしょう。

 わたくしは、横寺町を通るたび田山花袋椿』(大正15年版)という随筆集におさめられている文章の一節を思い出すのだ。
「横寺町の通りは、山の手で名高い旨いどぶろくを売る居酒屋、墓地を隔てて紅葉山人の二階…。明治23、4年頃から34、5年まで、私はこの通りを何んなに歩いたかも知れなかった。恋にあこがれたり、富貴にあこがれたりして、時には失望の心遺るに場所がない為めわざわざ其処に出て来たりした」は、田山花袋の面目躍如たるものがある。
 紅葉の住まっている横寺町の二階の窓を見ては、当時の流行作家である紅葉を羨やむ一方憎しみともなっていたのだろう。花袋の『東京の三十年』には、「自分より4つか5つの年上のー青年、それでいて、日本の文壇の権威、こう思うと、こうして、じっとしてはいられないような気がする。羨ましいと共に妬ましいという気が起る。」と、いっているのは、ほんとうの気持だったろう。
 花袋が、群馬県館山林町から二度目の出郷をこころみたのは、兄が内務省修史局へ勤務するようになったので、牛込富久町の旧会津侯の邸宅の中にあった。
 花袋はここから神田の英語学校に通ったのである。そこへいくまでの道程を、「牛込の監獄署の裏から士官学校の前を通って、市ヵ谷見附へ出て、九段招魂社の中をぬけて、神田の方へ出て行く路は、私は毎日のように通った」と、『東京の三十年』に書いているが、昔の人はよく歩いたものである。また、同書に「その時分(明治20年頃)は、大通りに馬車鉄道があるばかりで、交通が、不便であったため私達は東京市中は何処でもてくてく歩かなければならなかった」と、あるのをみてもよくわかる。
 それから花袋が、19才の明治22年(1889)納戸町の家賃の高い家から甲良町へ移った。たぶんこの家のことだろう。前述の『椿』という随筆集にこう書いている。
「貧しい私の家は、その頃間数の多い家に住むことはできなかった。私は三間しかない汚ない家の中にいた。私は、机を座敷の八畳の一隅に置いた。机の前が硝子障子になつているので、そこから猫のような小さな庭が常に見えた。投ったままにして置いた万年青の鉢だの丈の低い痩せこけた芭蕉だのボケだの、バラだのが見えた。時には明るい日影が射したり、雨がしめやかに降っていたりした。私はいつもそこで日を暮した」と、いう一節がある。
 甲良町は、甲良屋敷のあとと、その附近の開墾地をあわせて、甲良町としたところで、花袋の住んでいたというのは、開墾地に建てた借家と見られるからいまの25番地附近と推定できる。
 それはともかく、この文章を読むと明治時代の借家の間取りや環境がよくわかる。花袋はここで、小説、文学の勉強に専念していた。「いつまでも遊んでいるんだが、宅の“録”にも何処へでも5円でも10円でも取って呉れればよいに…」という母親の愚痴もいちどならずいくたびか聞いたことであろう。“録”というのは、花袋の実名録弥のことである。
「自分もきっと、文壇の寵児になってみせる」といつも興奮していたし、外国文学の知識の吸収を怠らなかった。
椿 国立国会図書館オンラインに載っています。
どぶろく にござけ。発酵してできたもろみを濾過することなくそのまま飲む。
富貴 ふっき。ふうき。富んで尊いこと。財産が豊かで位の高いこと。
心遺る こころやる。心に滞るものを他におしやる。心のうさを晴らす。心を慰める
東京の三十年 田山花袋の回想集。1917年(大正6年)、博文館から出版。
群馬県館山林町 現在は群馬県館林市城町14です。
内務省修史局 太政官正院地誌課は、1874年(明治7年)に内務省地理寮に合併、75年には修史局(77年修史館)に合併されました。
邸宅 下図で赤い図。
神田の英語学校 仲猿楽町(今の神保町二丁目周辺)だとインターネット「おさんぽ神保町
監獄署 下図の中央

東京実測図。明治28年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

士官学校 陸軍士官学校。下図の左手。
市ヵ谷見附 下図の中央部
九段 東京都千代田区西部の地区。麹町こうじまち台から神田方面へ下る坂(九段坂)に、江戸時代、9層の石段を築き、幕府の御用屋敷を建て九段屋敷と称したから。
招魂社 東京招魂社。現在の靖国神社。下図の右手

東京実測図。明治28年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

神田 神田区。千代田区の旧神田区地域。北に神田川が、南東に日本橋川が流れ、東京都電車が区の全域を走る。
馬車鉄道 鉄道馬車。軌道上を走る馬車の輸送機関。1882年(明治15年)6月、東京馬車鉄道会社により新橋―日本橋間に開通し、10月には日本橋―上野―浅草―浅草橋―日本橋間が開通した。
万年青 おもと。ユリ科の常緑多年草。

オモト

甲良町 明治二年(1869)市谷甲良屋敷を市谷甲良町と改称(己已布令)し、同五年には付近の武家地、開墾地を併合した。なお、江戸時代の甲良屋敷は現在の市谷柳町の一部で、甲良町にはない。
甲良屋敷 現在の市谷柳町の一部。徳川家の老女栄順尼の拝領屋敷だったところが、元禄13年(1700)甲良豊前(4代相員)に譲られ、正徳3年(1713)町奉行支配に転じた。甲良家は切米百俵だけでは配下を養っていけないので、地貸しを許されていて、その地に町人が住んだことから町奉行支配となり、この地域を甲良屋敷というようになった。(甲良家は江戸時代どこに住んでいたか。東京都立図書館)
開墾地 開墾地(山林や原野を切り開いた土地)はどこを指し示すのか、わかりません。江戸時代、甲良町はすべて人が住んでいました。したがって明治初期になってから一部の家はなくなり、原っぱができたのでしょう。
25番地附近 「新宿郷土研究」では25番地附近を、別の研究は甲良町12を指しています。ちなみに明治19-20年に発行した参謀本部陸軍部測量局の「東京五千分ー東京図家量原図」(日本地図センター発行。2011年)では甲良町12は桐、甲良町13は原と家、甲良町25は普通の家が描かれています。

東京実測図。明治28年(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

東京五千分ー東京図測量原図。参謀本部陸軍部測量局。明治19-20年。日本地図センター発行。2011年

神楽坂1丁目(写真)昭和36年 ID 52と53

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 52と53を見ましょう。撮影は牛込橋周辺で、昭和36年4月。レンズは外堀通りや神楽坂の坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭すずらん灯があり、車道は平坦でデコボコはありません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 52 神楽坂入口から坂上方向

 寺田弘発行「神楽坂アーカイブズチーム第1集」(NPO法人粋なまちづくり倶楽部、2007年)では《なつかし写真館➀》としてこのID 52を「飯田橋付近から神楽坂通りをのぞむ(昭和30年ごろ)」として描いています。しかし、「昭和30年ごろ」はおかしいと思っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 53 神楽坂入口から坂上方向

「牛込橋から神楽坂下までの車道にセンターラインがあります。この部分が逆転式一方通行になるのはずっと後ですが、早い段階でセンターラインは描かれなくなっていました」と地元の方。
 よく見ると牛込橋の桜の木に若葉がついているようです。
 写真の右上で、メトロ映画(上の看板は「y ヽロ映画」)では東映作品「鳴門なると秘帖ひちょう」(公開日は1961年1月26日)をやっていました。下に行き「さくら」は「さくらや靴店」です。森本不動産は小栗横丁に行く横丁にありました。

森本不動産 全住宅案内地図帳 新宿区 昭和37年版 住宅協会

 加藤産婦人科は袋町7番地でした。

昭和37年 加藤医院 全住宅案内地図帳 新宿区 昭和37年版 住宅協会

 なお、下の地図の「神楽坂通り」の「通」のすぐ下の「あき不庵」は「おきな庵」(翁庵)の間違いでしょう。
 右中央に「赤井商店」が見えますが、その前に女性が描かれた看板が見えます。「よく見ると『ナポ』らしき字がある。ソフィア・ローレン出演の映画『ナポリ湾』(日本公開1960年12月)を佳作座でやっていたのではないか」と地元の人。佳作座は2番館なので、1961年に出ているようです。

It started in Naples

https://eiga3mai.exblog.jp/30110439/

 それでは左端に行きましょう。中央にある電柱広告「旅館かぐら苑」の隣の漢字は「野」の草書体で、「野乃木ののき」でした。また居酒屋「酒蔵三富」がその左上にあります。

52L

 なお、これよりも昔は電柱広告が「旅館かぐら苑」のままで出たこともあります。ID 7002(撮影は昭和34年)です。

7002 神楽坂昭和34年頃。新宿歴史博物館

 以上、昭和36年(1961年)4月の写真でした。

飯塚酒場|横寺町

文学と神楽坂

飯塚酒場
横寺町2

新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』から

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」「新宿区」「05-05-34-1芸術倶楽部跡遠景 1975-08-28」では

05-05-34-1芸術倶楽部跡遠景 1975-08-28

飯塚酒場の官許にごり

 三叉路を越えての場所、内野医院の手前、龍門寺と神楽坂中央整骨院の反対側、現在は家1軒と4台の駐車場になっていますが、この横寺町7番目が飯塚酒場でした。有名な居酒屋で自家製のどぶろく「官許どぶろく」「官許にごり」が有名で、文士もこれを目当てに並んでいました。

 井伏鱒二は『人と人影』(1972年)で

 この店は江戸時代から続いて来た店で、土間の入口に「官許どぶろく」と書いた古めかしい看板を掛けていた。土間のなかは古風なままに簡素なつくりだが、幕末のころ札束に黴をわかしたという噂が立っていたほどの店である。町奉行から呼出しがあって「牛込には官札に黴が生えるほど金があるのか」と皮肉を云われたそうだ。

 中屋金一郎編著「東京のたべものうまいもの」(北辰堂, 1958年)では

「飯塚酒店」。弘化四年(1847)創業。にごり酒で有名。戦中統制以来、戦後も作っていないが、お客相手のなわのれんの方は、おばあさんが帳場を、八十すぎたおじいさんが、酒をだしたり、料理をこしらえていた。おじいさんの丹精する、いかの白づくりと、なすのからし漬けはそろばんずくではできない手の込んだすばらしい味だったが、近ごろ休んでいる。さびしいことである。早稲田派の作家・詩人がよくきていた。かつて、稲垣足穂氏のあらわれなかった晩はなく、また、明大の校歌を作った、そしてロマンチックな社会主義詩人の児玉花外が晩年困っていたとき、ここのおばあさんが家作の長屋に住まわせ、三度の食事を運んで面倒を見ていた。養育院へ入ったのちも、明大の学生とともに最後まで世話したことが伝えられている。

 衣巻省三氏の「馬込牛込」(「文藝世紀」、昭和15年、文藝世紀社。再録は「タルホスペシャル」別冊幻想文学➂、1987年、幻想文学会出版局)では

 横寺町の通りに「飯塚」と呼ばれる牛込名代の飲屋があつた。その裏手の同名の質屋と兄弟分で、自分の家で種々の酒を醸造し、安く、うまく飲ませた。その道のものは誰知らぬものもない老舗だつた。十錢もあればブランデーが一杯五銭もあればおがとれた。此處では細かい神經など用をなさない。他の、新興の、文化的な薄手のものとちがひ、古風に、どつしり落着いてゐた。時分どきには、さしもの廣いこの店も唯嗷々、此の店の「ごつた」のお皿盛りのやうに一杯だつた。家庭と云ふものを知らぬは毎日ここに来た。この店については――誰か餘り見かけない客が便所へ行かうと立上つたとしよう。お爛場にゐるでつぷり血色のいい梅ちゃんが、「ハイお便所!」と喚くやうに云ふ。すると奥で仕事してゐた若い衆が、「こちらヘ!」と誘導してくれる。斷らうものなら道に迷つて了ふ。廣い、薄暗い酒造場をくねくね廻つて、大酒樽の乾された裏庭へ出てから、その片隅に隠れてゐる便所に案内してくれるのだ。丁度胸のへんに鐵棒が一本横に渡してあつた。成程上手に出来てゐるわいと、醉つたお客は思はず胸を當てた。こんな仕掛けを見ただけで大方客種も知れる。お天気の好い晝間は、鷄が餌を拾ひ、雄鷄が千鳥足を突つきに来た。皆んなは怖い鷄だと云つてゐた。ダットサンや乳母車もおかれ、子守娘がこの家の美しい末娘を遊ばせてゐた。牛込の飲屋の裏に、こんな長閑な風景もあるのかと、感心しながら戻ると又道を失ふ。まごまごしてゐると。さつきの若い衆が「こちらヘ!」と導いてくれた。この便所行は。退窟した酒間の気持らしにもなり、運動にもなつた。もう、「 ハイお便所!」と云はれなくなつたら、常連の一人となつた證證である。常迪は此の飲屋を愛する者ばかりの寄り合ひだつた。身なりこそ凡て卑しいと云へるが、たちの惡い客は見當らなかつた。不思議に喧嘩がなかつた。主人は茶色の圓帽をかぶつて、ほんの時たま顔を見せた。帳場に坐る時は眼鏡をかけた。店の長テーブルの奥の端に席をとると、帳場越しにお座敷が見渡された。夕飯時には、お櫃を抱へた女中を侍らし、一家うち揃つての團欒だつた。大きな食卓の上になごやかな笑ひが溢れてゐた。家庭を失つた者、故鄕を去つてうらぶれた者などにとつて、たまらぬ程なつかしい一瞥だつた。それは店の方とちがひ、上品な格をそなへた一家の夕餉だつた。

 酒や飯に添えて食べるもの。おかず。副食物。
嗷々 ごうごう。口やかましい。騒々しい。声がうるさい。
 小説家の稲垣足穂氏です。
長閑 のどか。静かでのんびりして落ち着いている。
円帽 正教会で長輔祭・長司祭に与えられる円筒形の帽子。カミラフカ。日本正教会では円帽子という。