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新見附付近|山内義雄随筆集

文学と神楽坂

山内義雄

 山内やまのうち義雄氏は東京外国語学校(現・東京外国語大学)仏語科を卒業し、京都帝国大学に入学し、上田敏に師事。フランスの劇作家で外交官のポール・クローデル大使が来日することを知り、東京帝国大学仏文科専科に転身。大正12年、東京帝国大学を退学。昭和2年、早稲田大学に転じ、13年、教授。昭和39年、退職まで後進の育成に力を注いだ。生年は1894年3月22日、没年は1973年12月17日、死亡は79歳。

新見附付近

「新見附」というのは電車の停留所ができてからの名前で、むかしはべつに何とも呼んでいなかった。牛込見附と市谷見附のあいだに新しくできたから新見附。濠をへだてた向うが麹町。こちら側が市谷田町。いわゆる新見附からはいる細い往来をへだてて田町二丁目三丁目にわかれていた。今も変っていないだろう。わたしは、その二丁目で生まれ、そして育った。
 新見附から市谷見附寄り、ちょうど砂土原町から北町へぬけるひろい道路の角までが二丁目の表通りで、その二丁目のへ向かって、けん間口まぐちもあろうかと思われる山の手きっての老舗「あまざけ屋」という呉服屋があった。広重の描いた日本橋三越の前身越後屋そっくり店がまえで、名前入りの紺のれん、、、をずらりとつらねたうしろが、一めん畳敷き、もうせんを敷きつめた店になっていた。行きずりの客は、上りかまちに腰をおろして用を足したが、常とくい、、、の客ともなると、店にあがり、番頭から茶菓子や煙草盆の接待をうけながら、正面の蔵の戸口から丁稚でっちのはこびだしてくる呉服物をあれやこれやと品さだめしたものだった。その情景を今もはっきりおぼえているから、おそらく明治の末ごろまでそのままだったろう。
 ところで、あまざけ屋の地所は、濠に面した表通りから裏通りまでぬけていた。そして、わたしの家は、その裏通り一つをへだてて、あまざけ屋の蔵のひとつと向いあっていた。裏通りには、八百屋、足袋屋、茶屋、お仕立物所といった町家まちやがならんでいたが、わたしの家は一段高く石垣をきずき、前に庭をひかえた奥まった構えて、その裏通りでのたった一軒、「官員さん」の家といった感じだった。その庭には、空が見えないほど庭一ぱいにひろがっている見事なしだれ、、、の老木があった。花どきには、それがいつもすばらしい花をつけた。そして、道行く人が、思わずその匂に上を見あげたものだった。それほど人の心にゆとりのある、いい時代でもあったわけだ。二階にあがると、あまざけ屋の蔵や人家の屋根を越して、濠の向うの土手が見わたされた。
 ところが、その田町二丁目の家も、たしか大正の終りごろに売ってしまった。「赤字になりかけたら、へんな見栄なんか棄てて、まず家蔵を売ってしまえ」という、父の遺言を実行してのことだった。
電車の停留所 路面電車の停留所のことです。実は「逢坂下」停留所もありましたが、昭和15年になくなっています

大正11年の路面電車

 ほり。城を取り囲む堀。水がある
麹町 東京都千代田区の地名。以前は旧東京市35区の麹町区。1947年神田区と合併、千代田区となった。
往来 人や乗り物が行き来する道。道路。街道
10間 約18メーメル
間口 まぐち。家屋や地所などの前方に面している部分の幅。正面の幅。表口。
きって 場所・グループを表す名詞に付いて、その範囲の中で最もすぐれていることを表す。…の中でいちばん。
そっくり 歌川広重『名所江戸百景』の「するかてふ」(するちょう)です。道の両側に並ぶ店は呉服屋三井越後屋でした。

名所江戸百景「するかてふ」の一部

店がまえ みせ構え。店の構え方。店の造作。店の大きさや規模。越後屋に似ていると書いてあるので、あまざけ屋は下図で右端の店舗でしょう。

緋もうせん 緋毛氈。緋色の和風カーペットで、敷物や、書画をかく場合の下敷きなど。
上り枢 玄関の上り口に縁にわたしてある化粧横木。

丁稚 職人・商家などに年季奉公をする少年。雑用や使い走りをしていました。
わたしの家 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の猿山峯子氏「大正期の牛込在住文筆家小伝」を調べると、大正11~13年の山内義雄氏の住所は市谷田町二丁目24番地でした。現在はカトリック・イエズス会の援助修道院修練院が建っています。

官員 かんいん。官吏。役人。明治時代、現在の公務員にあたる用語。
しだれ梅 枝垂れ梅。枝が柳のように優雅にしだれ、淡いピンク色の花が咲く。

花どき 2月初旬~中旬です。

 これを書こうと思って、久しぶりで田町二丁目の旧居のあたりを訪ねてみたところ、かつてのわたしの地所のあったところに、カトリック煉獄修道会の堂々たる建物がたっている。これはいい。パチンコ屋かナイト・クラブにでもなっていたら、とんだ親不孝をするところだった。子供のころ、町っ子どものガキ大将になってその境内を荒しまわった愛敬あいきょう稲荷も、ほんの形ばかりではあるが残っていた。そのすぐ先、北町への広い道路から向うが一丁目だが、そのとっつきのちょっとダラダラ上りの石だたみの路次の奥に、ロシヤ文学の昇曙夢さんの家があり、さらに先へ行って御納戸おなんどをおりきった角に英文学の馬場孤蝶先生の二階家があった。美しいひげ、、をたくわえ、ヴァロットンの描いたフランスの詩人アルベール・サマンそっくりの先生だった。わたしは、この先生から、壱岐いきざか教会の文芸講演会で、はじめてアナトール・フランスの面白さを教えられた。話のうまい先生だった。
 ところで新見附界隈、わたしの住んでいたころのおもかげはまったくなくなってしまっている。あまざけ屋もすがたを消し、そのそばにあった有名な雇人口入所えびや、、、もなくなり、父の気に入りの「箱鶴はこつる」という指物師の家も、「くに」という出入り人力車くるま宿やどもなくなってしまっている。そして、今ではまぼろし、、、、の田町二丁目に、たった一軒、新見附の角の「こばやし」というそばや、、、だけがのこっている。
「色食は人の性なり」、色のほうには縁のないヤボな田町二丁目だったが、この1軒のそばやの存在だけが、「食」の強さをほこっているといった感じだ。
(一九六七・二)

カトリック煉獄修道会 現在はカトリック・イエズス会の援助修道院修練院です。しかし、戦前の地図と戦後を比べると、変化が巨大でした。昔の「市谷田町二丁目24番地」は全く見えません。おそらく25番地にのまれたのでしょう。なお、「こばやし」の住所は赤で書いておきました。注:現在の援助修道会の場所は新宿区市谷田町2-24でした。

昭和43年 市谷田町二丁目

愛嬌稲荷 「市ヶ谷牛込絵図」(1857年)では巨大な「愛嬌稲荷社」が出ています。同じ頃「御府内沿革図書」の「当時之形」(1852年頃)では「教蔵院」になっています。以降は教蔵院です。愛嬌稲荷は教蔵院の鎮守社でした(新撰東京名所図会の市谷田町2丁目)。
とっつき 取っ付き。最初。手初め。
昇曙夢 のぼり しょむ。ロシア文学者。明治36年、ニコライ正教神学校卒業。神学校講師、陸軍士官学校教授、早大、日大などの講師を歴任。生年は明治11年7月17日。没年は昭和33年11月22日。80歳。新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の猿山峯子氏「大正期の牛込在住文筆家小伝」を調べると、明治42年2月から明治43年2月まで、氏の住所は市谷田町二丁目39番地でした。
御納戸坂 現在は「牛込中央通り」です。
馬場孤蝶 ばば こちょう。英文学者。翻訳家。同じ文献で、明治42年2月から大正7年1月まで、氏の住所は市谷田町二丁目1番地でした。
ヴァロットン Félix Edouard Vallotton。フェリックス・バロットン。フランスの画家、版画家。スイスのローザンヌ生れ。ナビ派に参加。木版画にもすぐれていました。生年は1865年2月28日、没年は1925年12日29日。
アルベール・サマン Albert Samain。フランス・フランドル出身の世紀末期の詩人で「秋と黄昏たそがれの詩人」と呼ばれました。生年は1858。没年は1900年。
壱岐坂教会 現在は日本基督教団本郷中央教会です。
アナトール・フランス Anatole France。フランスの作家。格調のある文体と皮肉や風刺が特色。生年は1844年4月16日にパリで生まれ、没年は1924年10月12日。
雇人 やといにん。人に雇われて働く人。使用人。
口入所 くちいれどころ。奉公人などを周旋する家。
指物師 さしものし。たんす、長持、机、箱火鉢など木工品の専門職人。
出入り でいり、ではいり。その家を得意先としてよく出はいりすること
人力車宿 くるまやど。車宿で客の依頼を待つ人力車か車夫。

神楽坂1丁目(写真)昭和54年 ID 85とID 11875、ID 86とID 11872

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 85とID 11875、ID 86とID 11872は、昭和54年(1979年)1月の神楽坂1~2丁目を撮ったものです。坂上方向(ID 85とID 11875)と、その逆の牛込橋方向(ID 86とID 11872)を狙っています。
 一方通行の向きから見て時間は午後です。年賀の貼り紙や街灯の若松があり、シャッターを閉めている店が多いので正月休み中でしょう。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱の上には柱上変圧器があります。また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。昭和49年の「Mr. Dandy」や、昭和51年のID 69-71より少し後の時代ですが、いくつか店がビルになるなど、若干の変化があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 85 神楽坂途中より坂上方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11875 飯田橋駅前 牛込見附

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 86 神楽坂途中より坂下方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11872 神楽坂

ID 11873では1月17日のID 94と同じで、さくらや靴店は開店中。ID 11874とID 11876はネクタイの人が沢山で正月とは思いにくい。ID 93もID 94と同じでしょう。これらが昭和54年(1979年)1月17日の撮影と思います」と地元の方、

神楽坂1~2丁目【牛込見附から坂上に向けて】
  1. 麻雀
  2. 牛込見附交差点の飯田橋側に「調製中」と回転式標識
  3. 「牛込見附」交差点
  4. (ニューバリーパチンコ)
  5. 電柱看板の「八千代鮨」と「(質)大久(保)」
  6. (田原屋フルーツパーラー)特徴的な丸い電飾の突き出し看板。テントの形が変わっています。

  7. (清水衣裳)店
  8. 「翁庵」のシャッターにおそらく「謹賀新年」の貼り紙。「生。」(そ)は「楚」のくずしかな、(ば)は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。
  1. 「カレーシ(ョップ) ボ(ナ)」の看板
  2. 白十字病院 皮膚泌尿科/婦人科/外科/内科
  3. 「紙 文具 事務用品 原稿用紙 山田紙店」 「さくら 山田紙店 さくらカラー チェーン店」「Canon NPコピーサービス」「文房具加盟店」「文具 事務用品 原稿」
  4. (FIRE H)YDRANT 消火栓。消火栓広告「三菱銀行〇前 福屋 神楽坂 不動産」
  5. 地下鉄 飯田橋駅
神楽坂通り/美観街         神楽坂通り/美観街
(坂下の案内標識)

九段坂


飯田橋 ◀━╋━▶市谷見附
  1. 「丸和証券」。上に「麻雀倶楽部 かぐら 4F」「SPC 美容室 〇店」
  2. 電柱看板の「甘露 あまなっと。神楽坂 五十鈴」と「川島歯科
  3. 小栗横丁
  4. (鰻 志満金)看板「ジロー 3F、4F、5F」
  5. 離れたところで「話し方教室」「旭図書」
  6. ほとんど見えないが「三菱銀行」
  1. 不二家洋菓子
  2. 紀の善 あんみつ
  3. 看板「英会話 ウィンザー〇ム」
  4. 神楽小路
  5. 交通標識「⮪ 自転車を除く 12-24 一方通行路←」
  6. Frère WADAYA メンズウェアー(Frère は兄弟)
神楽坂通りの一番 高いところから6丁目の「協和(銀行)」の看板

1980年 住宅地図。

東京の三十年|田山花袋

文学と神楽坂

『東京の三十年』は田山花袋の回想集で、1917(大正6)年、博文館から書きおろしました。ここでは『東京の三十年』の1節「山の手の空気」の1部を紹介します。

山の手の空氣

牛込市谷の空氣もかなりにこまかく深く私の氣分と一致している。私は初めに納戸町、それから甲良町、それから喜久井町原町といふ風に移つて住んだ。
 今でも其處に行くと、所謂やまの空氣が私をたまらなくなつかしく思はせる。子供を負つた束髮の若い細君、毎日毎日惓まずに役所や會社へ出て行く若い人達、何うしても山の手だ。下町等したまちなどでは味はひたくても味ふとの出来ない氣分だ。

納戸町、甲良町、喜久井町、原町 新宿区教育委員会生涯学習振興課文化財係の『区内に在住した文学者たち』によれば、満17歳で納戸町12に住み、18歳で甲良町12、22歳で四谷内藤町1、24歳で喜久井町20、30歳で納戸町40、31歳で原町3-68に住んでいました。ここで細かく書いています、
束髮 そくはつ。明治初期から流行した婦人の西洋風の髪の結い方。形は比較的自由でした。

牛込で一番先に目に立つのは、又は誰でもの頭に殘つて印象されてゐるだらうと思はれるのは、例の沙門しやもん緣日であつた。今でも賑やかださうだが、昔は一層賑やかであつたやうに思ふ。何故なら、電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵は神樂(かぐら)(ざか)の通へと出かけて行つたから……。
 私は人込みが餘り好きでなかつたから、さう度々は出かけて行かなかつたけれど、兄や弟は緣日毎にきまつて其處に出かけて行つた。その時分の話をすると、弟は今でも「沙門しやもん緣日えんにちにはよく行つたもんだな……母さんをせびつて、一銭か二銭貰つて出かけて行つたんだが、その一銭、二銭を母さんがまた容易よういに呉れないんだ」かう言つて笑つた。兄はまた植木が好きで、ありもしない月給の中の小遣ひで、よく出かけて行っては――躑躅、薔薇、木犀海棠花、朝顔などをその節々につれて買つて来ては、緣や庭に置いて楽んだ。今。私の庭にある大きな木犀もくせいは、実に兄がその緣日に行つて買って来て置いたものであった。
 神樂阪の通に面したあの毘沙門の堂宇だうゝ、それは依然として昔のまゝである。大蛇の()(もの)がかゝつたり何かした時の毘沙門と少しも違つていない。今でも矢張、賑やかな緣日が立つて、若い夫婦づれや書生や勤人つとめにんなどがぞろぞろと通つて行つた。露肆や植木屋の店も矢張昔と同じに出てゐた。
 さうした光景と時と私の幻影に殘つてゐるさまとが常に一緒になつて私にその山の手の空氣をなつかしく思はせた。私の空想、私の藝術、私の半生、それがそこらの垣や路や邸の栽込うゑこみや、乃至は日影や光線や空氣の中にちやんとまじり込んで織り込まれているような氣がした。

毘沙門 仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日にしました。
電車 市電(都電)のことです。もちろん、この時代(明治20年代頃)、鉄道は一部を除いてありません。
躑躅 つつじ。ツツジ科の植物の総称。中国で毒ツツジを羊が誤って食べたところ、もがき、うずくまったといいます。これを漢字の躑躅(てきちょく)で表し、以来、中国ではツツジの名に躑躅を当てました。
木犀 もくせい。モクセイ科モクセイ属の常緑小高木
海棠花 かいどうはな。中国原産の落葉小高木。花期は4-5月頃。淡紅色の花。
堂宇 どうう。堂の軒。堂の建物
露肆 ほしみせ。ろし。路上にごさを敷き、いろいろな物を並べて売る店

中町の通――そこは納戸町に住んでゐる時分によく通つた。北町、南町、中町、かう三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かつた。他の通に比べて、邸の大きなのがあつたり、栽込(うゑこみ)綺麗(きれい)なのがあつたりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。
 それに、其通には、若い美しい娘が多かつた。今、少將になつてゐるIといふ人の家などには、殊にその色彩が多かつた。瀟洒(せうしや)な二階屋、其處から玲瓏(れいろう)と玉を(まろば)たやうにきこえて來る琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ美しい白い手、そればかりではない、運が好いと、其の娘逹が表に出てゐるのを見ることが出來た。

瀟洒 俗っぽくなくしゃれているさま
玲瓏 玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま
轉ぶ まろぶ。まろぶ。くるくる回る。ころがる。ころがす

納戸町の私の家は、その仲町の略々盡きやうとする處にあつた。私の借りてゐる大家の家の娘、大蔵省の屬官をつとめてゐる人の娘、その娘の姿は長い長い間、私が私の妻を持つまで常に私の頭に(から)みついて殘つてゐた。その父親といふ人は、毎年見事に菊をつくるのを樂みにしてゐた。確かその娘も菊子と呼ばれた。『わが庭の菊見るたびに牛込のかきねこひしくおもほゆるかな』『なつかしき人のかきねのきくの花それさへ霜にうつろひにけり』かういふ歌を私は私の『(うた)日記(につき)』にしるした。
 その娘は後に琴を習ひに番町まで行った。私は度々その(あと)をつけた。納戸町の通を浄瑠璃阪の方へ、それから濠端へ出て、市谷見附を入つて、三番町のある琴の師匠(しゝやう)の家へと娘は入つて行った。私は往きにあとをつけて、歸りに叉その姿を見たい爲めに、今はなくなつたが、市谷の見附内の土手(どて)の涼しい木の蔭に詩集などを手にしながら、その歸るのを待つた。水色の蝙蝠傘、それを見ると、私はすぐそこからかけ下りて行つた。白茶の繻子の帶、その帶の間から見ると白い柔かな肘、若い頃の情痴(じやうち)のさまが思ひやらるゝではないか。『今でも逢つて見たい。否、何處かで逢つてゐるかも知れない。しかし、もうすつかりお互に變つてゐて、名乘りでもしなければわからない』不思議な人生だ。

納戸町 納戸町は新宿区の東部で、その東部は中町や南町と、南東部は払方町と市谷鷹匠町と、南部は市谷左内町と、西部は二十騎町と市谷加賀町と、北西部は南山伏町・細工町に接する。町域内を牛込中央通りが通っている。田山花袋退いた場所は中町に続く場所だった。
属官 ぞっかん。ぞくかん。下役の官吏。属吏
明治28年番町 ばんちょう。千代田区の西部で、元祖お屋敷街。東側は内堀通り、北側は靖国通り、南部は新宿通り、西部は外堀通りで囲まれた場所。
浄瑠璃坂 じょうるりざか。新宿区の市谷砂土原町一丁目と同二丁目の境を、西北方の払方はらいかた町に向かって上る坂。
濠端 ほりばた。濠は水がたまった状態のお堀。濠のほとり。濠の岸
市谷見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。お堀の周りにある門。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。市ヶ谷見附ではJR中央線が走っています。
三番町 千代田区の町名。北部は九段北に、東部は千鳥ヶ淵に、南部は一番町に、西部は四番町に接する。
250px-Satin_weave_in_silk繻子 しゅす。繻子織りにした織物。通常経糸たていとが多く表に出ていて、美しい光沢が出るが、比較的摩擦には弱い。

こんなことを考へるかと思ふと、今度は病後の體を母親につれられて、運動にそこ此處(ここ)と歩いたことが思ひ出される。やきもち阪はその頃は狹い通であつた。家もごたごたと汚く並んでゐた。阪の中ほどに名代(なだい)鰻屋があつた。
 病後の私は、そこからそれに隣つた麹阪の方をよく散歩した。母親に手をひかれながら……。小さな溝を跨がうとして、意氣地(いきぢ)なくハタリと倒れたりなどした。母親もまだあの頃は若かつた。
 柳町の裏には、竹藪(たけやぶ)などがあつて、夕日が靜かにさした。否そればかりか、それから段々奥に、早稲田の方に入つて行くと、梅の林があつたり、畠がつゞいたり、昔の御家人(ごけにん)零落(れいらく)して昔のまゝに殘つて住んでゐるかくれたさびしい一區劃があつたりした。其時分はまだ山の手はさびしかつた。早稲田近くに行くと、雪の夜には(きつね)などが鳴いた。『早稲田町こゝも都の中なれど雪のふる夜は狐しばなく』かう私は咏んだ。

やきもち阪 やきもち坂。焼餅坂は新宿区山伏町と甲良町の間を西に下って、柳町に至る、大久保通りの坂です
鰻屋 場所は不明
麹阪 麹坂。こうじざかでしょうか。東京に麹坂という坂は聞いたことはありません。それでも探す場合には「それに隣つた麹阪の方をよく散歩した」という文章だけです。明治20年の地図では、焼餅坂や大久保通りと隣り合わせにある坂は1本南にある坂だけです。他にもありえますが、これを麹坂だとしておきます。0321
跨ぐ またぐ、またがる。またを広げて両足で挟むようにして乗る
意氣地 ()()。事をやりとげようとする気力や意気地がない。やりとげようとがんばる気力がない。
柳町 市谷柳町は新宿区の東部に位置し、町内を南北に外苑東通り、東西に大久保通りが通り、市谷柳町交差点で交差している。
御家人 将軍直属の家臣で、御目見以下の者。将軍に直接謁見できない。
零落 おちぶれること