文学と神楽坂
鰻坂は市谷砂土原三丁目と払方町の境を西から東へ向け曲折して上る細い坂道です。場所はここ。
2013年ごろの標柱は下のようになっていましたが…
鰻坂(うなぎざか) |
坂が曲がりくねっているため、こう呼ばれた。『御府内備考』によると、幅2間(約3.6m)、長さ約20間(約36.6m)にわたり曲がり登っているため、鰻坂と呼ばれたという。 |
2019年にはこう言葉が変わっていました。
鰻坂 |
坂が曲がりくねっており、鰻のような坂だという意味から鰻坂と呼ばれた。
『御府内備考』の払方町の項に「里俗鰻坂と唱候、坂道入曲り登り云々…」と記されている。 |
平成二十九年三月 新宿区 |
実際に『御府内備考』「払方町」(大日本地誌大系、雄山閣、昭和6年)では……。
一坂 弐ヶ所。 右1ヶ所は町内西より東え登り坂道拾間程巾三程1ヶ所は東南之間裏通ニ有之里俗鰻坂と唱候坂道入曲登り凡貳十間巾貳間程尤不同有之候 |
[現代語訳]坂は2ヶ所。 1ヶ所は町内の西から東へ登り、坂道は長さは2間ぐらいで幅は3間。1ヶ所は東南の間で裏通にある。地方の風習では鰻坂という。坂道は曲り登り、長さはおよそ20間、幅2間であり、そろっていない部分もある。 |
さて、鰻坂には2つあるのです。1つは、下図の左、(A)です。これは昭和56年の区が出した地図です。坂は最初は下降し、最低点は「牛込中央通り」で、一番下を通り、それからまた上に曲がるのです。
もう一方の(B)は図の右のほうで、下から上に上るだけのものです。これは、歴史・文化のまちづくり研究会が編集した『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)に出ていたものです。
区の標柱も微妙です。つまり、東上の標柱は最高点でいいのですが、西下の標柱は牛込中央通りを超えて、上がる一歩手前に標柱はでています。なんとも微妙です。
横関英一氏の『江戸の坂東京の坂』によれば、普通はこのような下がって上がる地形(A)については「坂」ではなく、「谷」を使う事が多いようだと書いています。「鰻谷」ですね。
一方、「坂」というのは、一方は最低点で、一方は最高点で、上がるだけ(か下がるだけ)(B)です。ここは鰻坂なので、上がる(か下がる)だけでしょう。
しかし、これ以外に複雑な方法は沢山あるのでこれだけに限ると実際は何も分かりません。
昔の地図を見てみましょう。「牛込市ヶ谷御門外原町辺絵図」では右下から来る「火之番丁」は2つ(△と▽)に分かれます。ウナギサカは△にしかついていません。
「市ヶ谷牛込絵図」でも「ヤナギサカ」(ウナギザカではないと思う)は右の半分についています。
新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』は
この境を北に上る坂はくねくねと曲がっているため、鰻坂といった |
と書いています。「北に上る坂」といえるのは(B)です。
さらに昔の『東京地理沿革志』(明治29年。編著者、村田峰次郎。発行者、稲垣常三郎)は
此町(払方町)と砂土原町三町目の間に坂あり 其坂路屈曲せるかため鰻鱺坂名あり |
鰻鱺 ばんれい。まんれい。うなぎ。
としています。これは(A)とも(B)ともどっちでもいいですね。
以上、反対はあるけど、牛込市ヶ谷御門外原町辺絵図を信じて(B)に一票入れます。この坂は結構気に入っています。クランクが2つはいっているし。
明治のほかの道路はどうなっているのでしょうか。まず、「フクロ丁」は袋小路にはならず、歌坂につながります。さらに「火之番丁」は「牛込中央通り」に名前が変わり、払方町の真ん中に一本の道路が通っています。
ついでにひとつ上の「富士見馬場」です。ここは富士山がよく見えた場所だといいます。富士山はちょうど西西南に見えるので、道のずっと先に見えたのでしょう。
ここをさらに東に行くと最高裁判所長官公邸が見えてきます。
海老沢泰久氏の「夜のタクシー」(「青春と読書」、集英社、昭和60年。文藝春秋、平成9年)では
「お客さん。いま通ったところね、右へ登る細い坂があったでしょう」
「ええ」
「矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じゃないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」 |
逢坂 歌坂
投稿日。2019年5月11日→2020年10月10日(カメラを変更)