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築土城|日本城郭全集

文学と神楽坂

 『日本城郭全集』(人物往来社、1967)では新宿区にある城として3つしか載っていません。牛込城、南北朝時代の早稲田の新田陣屋、そしてこの築土城です。

つく   新宿区築土八幡町
 築土城は築土八幡町の築土八幡宮の地にある。『南向茶話』、『江戸往古図説』などによれば、上杉管領時代の砦の跡で、八幡宮はその城主の弓矢を祀ったものだという。
 『江戸名所図絵』には、管領上杉時代のの跡で、時氏が弓矢をもって八幡宮に勧進したもので、文明年間(1469一86)上杉朝興(扇谷)が社殿を修飾して、この地の土産神としたとある。しかし、管領上杉家に時氏という人物はいない。おそらく、『江戸名所図絵』の編者斎藤月岑が「上杉時代」というのを「上杉時氏」と書き誤り、時氏を城主の名前と誤解したのではないかと考えられるのである。
 築土城の存続期間は不明で、軍記類にもその名を見ない。思うに長禄元年(1457)、江戸城が築かれる以前の、一時的な砦であろう。八幡宮は現存しているが、付近には砦の遺構は何一つ残ってはいない。
(江崎俊平)

南向茶話 酒井忠昌氏の『南向茶話』(寛延4年、1751年)は江戸の地誌で、

扨又当所八幡の地は、往古上杉管領時代の塞の跡にて、其城主の弓矢を以て祭ると申伝ふ
江戸往古図説 大橋方長氏の「江戸往古図説」(寛政12年、1800年)では
往古上杉官領時氏砦の跡成其城主の弓矢を祭る處
上杉管領 関東管領かんれい。室町幕府の職名。鎌倉公方の補佐役で、上杉憲顕のりあきが任ぜられて以後、その子孫が世襲した。
江戸名所図絵 江戸名所図会(斎藤月岑、1834~36)では
その後文明年間、江戸の城主上杉朝興ともおき社壇を修飾し、この地の産土神うぶすなとすといふ。 ふみにいふ、当社の地は往古そのかみ管領上杉時氏の塁の旧跡にして、時氏のゆみを以って八幡宮に勧請なし奉ると云々
 とりで。土をかさねて築いた小城。
上杉朝興(扇谷) 室町後期の武将。江戸、川越の城主。朝憲の子。おおぎがやつ上杉朝良の養子。
土産神 産土神。うぶす(産)な(土)がみ。生まれた土地の神。
斎藤月岑 さいとうげっしん。江戸末期の著述家。江戸神田の名主。著作は「江戸名所図会」「武江年表」「東都歳事記」「声曲類纂」など。

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 33. 城跡だった筑土八幡高台」では……

33. 城跡だった筑土八幡高台
        (筑土八幡町七)
 筑土八幡の所は一段高く眺望のよいところである。江戸時代の「南向茶話」「江戸往古図説」には、ここは戦国時代、管領上杉氏の城跡で、八幡宮はその城主の弓矢を祭ったものだとある。
 長禄元年(1457)、江戸城が築かれる以前の、一時的なとりでだったろうという。
〔参考〕江戸往古図説 南向茶話 日本城郭全集四巻

筑土八幡神社|由緒

文学と神楽坂

 筑土八幡神社は新宿区筑土八幡町2-1にある、今や小さい神社です。

 戦前の神社は昭和20年の戦災で焼失しました。

築土山に鎮座す。明治5年村社に列せられた。東京市公園課。東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖. 第二輯。大正12年

 しかし、「田村虎蔵先生顕彰碑」を始め、登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」があり、文化財となると巨大な空間です。

 まず筑土八幡神社の由緒について。天保年間に斎藤月岑氏が7巻20冊で刊行した「江戸名所図会」では

築土八幡宮 津久土明神の宮居に竝ぶ地主の神にして、別當は天台宗松霊山無量寺と号す。祭神応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、以上三座なり。相傳ふ、嵯峨天皇の御宇、この地に一人の老翁住めり。常に八幡宮を尊信す。或時、當社の御神、この翁が夢中に託して、永くこの地に跡を垂れ給はんとなり、老翁奇異の思ひをなす、その翌日一松樹の上に、瑞雲ずいうん靉靆あいたいして、旌旗はたの如くなるを見る。(松霊山の号こゝにおこると云ふ。)時に一羽の白鳩來つて、同じ樹間このまにやどる。郷人さとびと翁が霊夢を聞きて、直ちにこの樹下きのもと瑞籬みずがきめぐららして、八幡宮とあがむ、遙の後慈覺大師東國遊化ゆうげの頃、傳教大師彫造し給ふ所の阿彌陀如来を本地佛とし、小祠を經始けいしす、其後文明年間、江戸の城主上杉朝興ともおき、社壇を修飾し、此地の産土神とすといふ。(或ふみにいふ、當社の地は往古管領上杉時氏の壘[トリデ]の跡にして、時氏の弓箭ゆみやを以て八幡宮に勸請なし奉ると云々)


[現代語訳]津久戸明神と並ぶ土地の神で、別当は天台宗松霊山無量寺という。祭神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇の三柱。伝承によると、嵯峨天皇の時代、この地に一人の老人がいた。常に八幡宮を信仰していたが、ある時、当社の神が老人の夢に現れ、永くこの地に自らの跡を残すように告げた。翌日、松の木の上に瑞雲がたなびき旗のように見えた。松霊山の山号は、これに由来する。この時 一羽の白鳩が飛んで来て松の枝にとまった。里人たちは老人の夢の話を聞き、松の木の下に玉垣をめぐらして八幡宮として祀った。その後、慈覚大師が東国遊歴の頃、伝教大師が彫った阿弥陀如来を本地仏として祠が建てられ、さらに文明年間(一四六九~八七)江戸城主上杉朝興が社殿を整え、この地の鎮守とした。一説に、この場所は昔、関東管領上杉時氏の城館があり、時氏の弓矢を八幡宮に奉納したという。(多くは新宿区歴史博物館『江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり』平成12年から)

御宇 ぎょう。帝王が天下を治めている期間。御代
瑞雲 ずいうん。めでたいことの起こるきざしとして現れる雲。祥雲
靉靆 あいたい。雲のたなびくさま。雲の厚いさま。
旌旗 せいき。はた。のぼり。軍旗
瑞籬 ずいり。神社などの玉垣。みずがき。

江戸名所圖會。東京都立図書館

「江戸名所図会」の上図では、筑土八幡は右、築土神社は左の神社です。現在は右側の筑土八幡しか残っていません。左側の築土神社は千代田区九段に移動し、かわって小玉製作所やカトリックの修道院などがやって来ました。

筑土八幡(右)と築土神社(左) 東京市編「東京案内 下巻」(裳華房、1907) 121-123頁/484

筑土八幡と筑土神社(現在).

筑土八幡とカトリックの修道院(現在).

新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、1906)では

 筑土八幡神社は筑土八幡町七番地卽ち筑土山に鎮座す。表門は石柱にて銅製の注連をかけ。石磴中段に石の鳥居あり。筑土八幡神社と題する銅額を掲ぐ。享保十一年丙午建る所にして。從四位下行豊前守丹治眞人黑田直邦と銘せり。山上に株の松あり。千年松といふ株の遺蘖なりとて。ここにも注連を張りぬ。社殿は土蔵造りにて。格天井。拝殿には大なる弓とうつぼとを掛け右の方に獅子頭を安じ。筑土八幡神社の扁額を打たり。殿前の石獅には文化七庚午年八月吉日。石燈篭には寛政十二庚申八月十五日とあり。左には梅右には櫻を植へぬ。

[現代語訳]筑土八幡神社は筑土八幡町七番地、つまり周辺の高台を「筑土山」といったが、ここに鎮座している。表門は石柱で銅製のしめなわをかけ、石段の中段には石の鳥居がある。筑土八幡神社という銅額を掲げている。銘は、享保十一年、従四位下行豊前守の丹治眞人黒田直邦。山上に株の松があり、千年松という株がでている。ここにもしめなわを張っている。社殿は土蔵造りで、天井は格天井、拝殿には大なる弓と矢を掛け、右の方に獅子頭をおいた。筑土八幡神社の横長の額がある。殿前の石獅には1810年8月吉日、石燈篭には1800年8月15日と書いてある。左には梅、右には桜を植えた。

山本松谷画「明治東京名所図会」(講談社、1989)

山本松谷画「明治東京名所図会」(講談社、1989)

石磴 せきとう。石段。石の多い坂道。
中段 今も下から48段目
享保十一年 1726年
黒田直邦 上野沼田藩主。寛文6年(1666年)生れ。享保8年(1723年)奏者番。同20年(1735年)3月歿。享年は70歳
遺蘖 蘖は切り株や木の根元から出る若芽。余蘖。
格天井 太い木を井桁いげた状に組み、上に板を張った天井
 えびら。矢を入れて右腰につける武具。うつぼ(靫・空穂・靭)は矢を携帯する筒状の容器。
扁額 門戸や室内に掲げる横に長い額
文化七庚午年 1810年
寛政十二庚申 1800年

 境内には由来も書いてあります。

      筑土八幡神社由来
 昔、嵯峨さが天皇の御代(今から約1200年前)に武蔵国豊嶋こおり牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁かいた。ある時、翁の夢の中に神霊しんれいが現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそはへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人さとびとに語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連しめなわをゆいまわして、その松をまつった。
 その後、伝教でんぎょう大師だいしがこの地を訪れた畤、この由を聞いて、神像を彫刻してほこらに祀った。その時に筑紫つくし宇佐宮土をもとめていしずえとしたので、筑土つくど八幡はちまん神社と名づけた。
 さらにその後、文明年間(今から約500年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地のうぶすとし、また江戸鎮護の神と仰いだ。
 現在、境内地は約2200平方米あり、昭和20年の戦災で焼失した社殿も、昭和38年氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽河岸・神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。
 御祭神
   応神天皇
   神功皇后
   仲哀天皇
 大祭
   九月十五日

宮比神社由来
 御祭神は宮比神みやびのかみ大宮売命おおみやのめのみこと天鈿女命あめのうずめのみことともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治40年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和37年に再建したものである。

筑紫 古代の九州の総称
宇佐 大分県宇佐市。宇佐神宮がある。これは全国4万社強の八幡宮の総本宮である。
宮土 この場合は「(宇佐神)宮の土」でしょう。
 「石据え」から。建物の柱をのせる土台石。物事を成り立たせる根本
社壇 しゃだん。神を祭ってある所。社殿
産土神 生まれた土地の守護神。ウブスは生産、ナは土地の意味。