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幕末の剣士近藤勇の道場跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)から「市谷地区 11. 幕末の剣士近藤勇の道場跡」です。

 幕末の剣士近藤勇の道場跡
      (市谷甲良町20
 甲良町を西に進む。T字路に出るが、その左手前一帯は新撰組の近藤勇や土方歳三などの剣士を送り出した道場「試衛館」のあったところである。
 試衛館は、はじめ天然理心流の近藤周助(武州)の道場であった。そこは、幕府の作事方棟梁甲良豊前が拝領した甲良屋敷で、弟子は千人以上居たという。道を隔てたすぐ西隣に柳町25番地の稲荷神社は、近藤邸内にあったものだという。
近藤勇 こんどういさみ。生年は天保てんぽう5年10月5日。宮川久次の3男。名は昌宜。剣道を天然理心流の近藤周助に学び、その養子となる。幕府に仕えて尊王攘夷派志士の取締りにあたり、元治元年(1864)京都池田屋に志士らを襲撃。しん戦争では甲陽こうようちんたいを組織して政府軍と戦ったが、下総流山で捕えられ、処刑された。
市谷甲良町20 市谷甲良町20は当時、ここが試衛館の道場だと考えていた場所。現在はそれより西の市谷柳町25が正しいと考えています。なお、現在の市谷甲良町20は市谷甲良町1-12になりました。

甲良町か柳町か。地図は明治20年の住宅地図。

土方歳三 ひじかたとしぞう。幕末の新撰組の副長。隊長近藤勇を助けて活躍。鳥羽伏見の戦いに敗れたのちも官軍に抵抗し、箱館りょうかくで戦死。
試衛館 しえいかん。江戸の剣術の道場。天然理心流3代宗家の近藤周助が天保年間(1830-1844)に開設。新撰組局長となる宮川勝五郎(近藤勇)は周助の養子となって4代宗家を継ぎ、道場主をつとめた。

柳町周辺。試衛館と稲荷神社

天然理心流 てんねんりしん りゅう。剣道の流派の一つ。遠江の人、近藤内蔵助長裕が寛政年間(1789‐1801)に創始
武州 武蔵国の別称。現在の東京都と埼玉県、神奈川県川崎市、横浜市にあたる
作事方 さくじかた。江戸幕府の役職。作事奉行の下に属してすべての工事関係に当たったが、のちに小普請方・普請方が置かれてからは、建築、修理だけになった。さじかた。
棟梁 ここでは大棟梁の意味。作事奉行の下に位する大工頭が工事全体を統轄し、その下の大棟梁が設計面の管理や諸職人の手配などを受けもった。
甲良豊前 こう氏は、幕府大棟梁を務めた家系である。東京都図書館「江戸城造営関係資料Q&A」「甲良家は江戸時代どこに住んでいたか」によれば「徳川家の老女栄順尼の拝領屋敷だったところが、元禄13年(1700)甲良豊前に譲られ、正徳3年(1713)町奉行支配に転じた。甲良家は切米百俵だけでは配下を養っていけないので、地貸しを許されていて、その地に町人が住んだことから町奉行支配となり、この地域を甲良屋敷と言うようになった」。また、竹内誠編『東京の地名由来辞典』(東京堂出版、2006)138頁では「江戸時代の甲良屋敷は現在の市谷柳町25番地に該当し、現在の市谷甲良町は、江戸時代には御先手組と御持組大縄地にあたり、町域が異なっている」
柳町25番地の稲荷神社 正一位稲荷神社。試衛館稲荷とも。上図を参照。

 近藤勇は、天保5年(1834)10月9日、調布市在の農業宮川久次郎の三男として生まれ、幼名を勝太といった。成人してこの試衛館に入門して武芸を励んだ。近藤周助は勝太の技量と人物を見込み、嘉永2年(1849)10月19日に養子に迎えた。勝太16才の時で、この時、勇と改名した。
 勇の武芸は、日ごと上達し、また一人前の道場経営者になったので、周助は周斉と名を改めて四谷舟町に隠居し、慶応3年10月28日、76才で病死した。
 柳町の試衛館は、手挾まになったので、のちにこの東の二十騎町に移転した(その年月日不明)。
 近藤勇は、幕府で募集した浪士隊に参加したが、徳川14代将軍家茂の公武合体を実現するための上京にあたって、文久3年(1863)の春、その前衛隊となって京都に上った。勇はその後新撰組を組織して隊長となり、勤皇狩りを始めるのである。
 試衛館出身で近藤勇につぐ剣士としては、土方歳三(日野の在、石田の農家生まれ)、山南敬助(仙台の浪人)、沖田総司(奥州白河藩出身)、井上源三郎(日野宿出身)たちで、これらは勇門下の四天王といわれた。
〔参考〕新宿郷土研究第三号 新撰組史録 明治を夢みる
天保5年(1834)10月9日 現在は「生年は天保5年10月5日(1834年11月5日)。没年は慶応4年4月25日(1868年5月17日)」としています。
宮川久次郎の三男 ウィキペディア(Wikipedia)では「武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に百姓・宮川久次郎と母みよ(ゑい)の三男として生まれる。幼名は勝五郎、後に勝太と改める」。別称は昌宜(まさよし)。
近藤周助 ウィキペディア(Wikipedia)では「江戸時代末期(幕末)の剣豪。天然理心流剣術3代目宗家。新選組局長近藤勇の養父。旧姓は嶋崎。幼名は関五郎・周平、後に周斎。諱は邦武。妻は近藤ふで」「近藤三助(天然理心流剣術2代目)の弟子となり、天保元年(1830年)に流派を継いで、近藤の姓を名乗る」。天保10年(1839年)、天然理心流剣術道場・試衛館を江戸市谷甲良屋敷(現新宿区市谷柳町25番地)に開設した。没年は慶応3年10月28日(1867年11月23日)
手挾ま 正しくは「じま」。住居、部屋などの空間が、生活や仕事をするのには狭い。
浪士隊 ろうしぐみ。1862年(文久2年)江戸幕府が出羽国庄内地方の浪士(幕府や藩と主従関係のない武士)清河きよかわ八郎はちろうの献策を受けて、浪士たちを募集した。目的は江戸幕府14代将軍徳川家茂いえもちの上洛に先立ち、京都の治安回復を図ること。壬生浪士、新選組、新徴組の前身。
公武合体 江戸時代末期に朝廷(公)と幕府(武)が協力して政治を行うこと
新撰組 幕末期、江戸幕府が浪人を集めて作った集団。1862年(文久2)幕府は清川八郎などの協議により浪士隊を作り、同年2月に300人余を集め上京し、壬生みぶ村屯所に分宿。しかし、尊攘の大義をめぐって分裂し、分派の清川派は江戸へ引き揚げた。京都守護職松平容保(会津藩主)の支配と庇護のもとに近藤勇、芹沢鴨らは組織を再建、新撰組と名づけた。1863年9月、無謀な行いのあった局長芹沢せりざわかもを斬り、近藤勇、土方ひじかた歳三としぞうが実権を掌握。発足時は24名だったが、最大時には約230名の隊士が所属していたとされる。
勤皇 勤王。京都朝廷のために働いた一派。
狩り 追いたてて捕らえること。「魔女狩り」
山南敬助 近藤勇らとともに新選組を結成する。当初は副長、後に総長。屯所移転問題を巡り近藤や土方歳三と対立を深め、最終的に脱走。新選組の隊規に違反したとして切腹。何故切腹にまで至ったか真相は謎である。
沖田総司 江戸末期の新撰組隊士。奥州白河藩を脱藩し、新撰組設立当初から参加。近藤勇の刑死後、江戸でおそらく肺結核により死亡。天然理心流の剣法にすぐれ、池田屋事件で活躍。
井上源三郎 近藤勇の兄弟子。京都池田屋事件では土方隊の支隊の指揮を担当。近藤隊が斬り込んだという知らせを受けて部下と共に池田屋に突入、8人の浪士を捕縛する活躍を見せる。慶応4年、鳥羽・伏見の戦いで、淀千両松で官軍と激突(淀千両松の戦い)、敵の銃弾を腹部に受けて戦死。享年40。
勇門下の四天王 近藤勇門下の四天王。新宿郷土研究第三号の「近藤勇の試衛館道場」によれば、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助の4人。

 新宿郷土研究第三号の「近藤勇の試衛館道場」(新宿郷土会、昭和41年)では……

近藤勇の試衛館道場
 天然理心流近藤周助(邦武)の経営する道場試衛館は、市谷柳町甲良(高麗)屋敷にあった。しかるに大衆文学の作家である子母沢寛氏の『新選組始末記』には、永倉新八翁遺談として「近藤勇の道場試衛館は小石川小日向柳町の上にあった。」と誌しているが、これは永倉新八の記憶ちがいか口述筆記のまちがいであろう。なぜなら近藤の実家宮川家には、近藤周助と間で養子縁組をした当時の文書があるがこれには、「嘉永2年酉10月19日江戸高良屋敷西門、近藤周助」とある。また、平尾道雄氏の『新撰組史録』には、試衛館は「初め市ヶ谷柳町上高麗屋敷に在ったが、もと大工棟梁何某の住宅跡で、場所が狭かつたので、後になって牛込二十騎町に移された。」とあるが、二十騎という町名のできたのは明治5年(1872)でしたがってそれ以前は、二十騎組といっていた。それはともかく最初にあつた試衛館の位置だが、これは江戸切絵図などから想像して、現在の甲良町20番地がその跡だと推定している。
 前述のように近藤周助と宮川勝太(勇)との養子縁組によつて試衛館の経営は、近藤の手に移され、周助は四谷の舟板横町に隠居する。
 勇の道場の出身者で四天王といわれるのは、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助である。
近藤周助(邦武) 新選組局長近藤勇の養父。旧姓は嶋崎。幼名は関五郎・周平、後に周斎。いみな(死後に、生前の業績などで贈った称号)は邦武。妻は近藤ふで。
甲良(高麗)屋敷 甲良(こうら)と高麗(こうら)なので、どちらの漢字も使ったのでしょう。
子母沢寛 しもざわ かん。小説家。生年は1892年2月1日。没年は1968年7月19日。
新選組始末記 子母澤寛の小説。昭和3年に万里閣書房から『新選組始末記』を処女出版し、昭和44年に角川文庫から『新選組始末記』、講談社も昭和46年に『新選組始末記』を出版。
永倉新八 幕末の武士で、松前藩から脱藩し、心形刀流の師範代。のちの新選組隊士。「新選組始末記」では「永倉新八翁遺談」としている。没年は大正4年1月5日
江戸切絵図 嘉永4年(1851)「市ヶ谷牛込絵図」のこと。

二十騎町と市谷甲良町。景山致恭、戸松昌訓、井山能知 編「市ヶ谷牛込絵図」尾張屋清七。嘉永4年(1851)

牛込二十騎町 牛込甲良町の東隣に位置する。天龍寺境内で、天和3年(1683)寺が類焼し移転。御先手与力2組の屋敷に。その1組が10人(騎)なので牛込二十にじっ町と呼ばれていた(東京府志料)。1857年の尾張家板江戸切絵図で「二十キクミ」(上図)と記す。明治4年6月、町として成立。明治44年(1911)「牛込」を省略、二十騎町に。
甲良町20番地 現在は柳町25番地。
嘉永2年酉…… 平尾道雄著『定本新撰組史録』(新人物往来社、1977)は平尾道雄著『新撰組史録』(白竜社、1967)の改訂版で、これも国立図書館でそのまま読めます。

   差出申養子一札之事
ー、今般貴殿枠我家養子に貰請度申入れ候処、早速相談被下、我等方に貰請候処実正也。然る上は諸親類は不申、勝手とも差構無く御座候。仍之加印一札入置申処仍て如件。
  嘉永二年酉10月19日
江戸高良屋敷西門 近 藤  周 助
世話人      山田屋  権兵衛
同        上布田村 孫兵衛
  站村 源次郎殿
  代  弥五郎殿

新撰組史録 平尾道雄著『定本新撰組史録』(新人物往来社、1977)では。

試衛館は天然理心流ー近藤周助(邦武・号は周斎)の道場で、はじめ江戸市ヶ谷柳町の上高麗屋敷にあった。もと大工棟梁の住宅を道場に使っていたが場所がせまいため、後に牛込二十騎町に移っている。

坂道の独特の景観と“遊び方”|石野伸子

文学と神楽坂

 石野伸子氏が書いた「女50歳からの東京ぐらし」(産経新聞出版、2008年)から「坂道が作る独特の景観」「坂道の“遊び方”」(2006年秋)です。氏は産経新聞記者で、初の女性編集長になりました。
 まえがきでは「実際に暮らしてみての東京。それも酸いも甘いもかみ分けた(はずの)、大人の五十代が感じた等身大の大都会。大阪の新聞社で長く生活面の記者をしてきたから、衣食住は取材の基本だ。見て聞いて食べて住んで、心に残る東京を語ってみよう」 はい、難しいけれど、できればそうしたい。

坂道の独特の景観

坂道が作る独特の景観 東京には坂道が多い。名前がついているものだけでも600とも1000とも言われる。東京を語るのに坂道は欠かせないが、さすが東京、「そうですか」で済まない人が多いのは、坂道を語る本が多いことでも知られる。だから、町歩きが好きな知人がたまたま新宿区の戸山公園を散策していて、声をかけた男性が坂道ウォッチャーであったのも、さほど珍しい偶然というわけではないのかもしれない。で、「面白い人に出会ったのよ」と紹介され、話を聞くことになったのも。
 お名前を山崎浩さん(72)という。大手企業をリタイアし、5、6年前から坂道ウオッチングを楽しんでいる。その日に歩いていた戸山公園は尾張徳川家下屋敷があったところで、なんと園内に箱根山を模した40メートルを超す築山もあり、そこで知人に出くわした。「何しているのですか」とお互い話が弾み、メールを交換する仲になった。都会にはそんな出会いもあるらしい。知人も相当町歩きの達人だが、その彼女が興味をかきたてられるほど、山崎さんの「坂道熱」は高かった。まず持ち物が違う。並みの案内書だけでなく、江戸切り絵図、過去と現在とを比べた重ね地図のコピーをたずさえ、そこをマーキングしつつ歩くという徹底ぶり。すでに600の坂を踏破したという。600といえば主だった坂ほぼすべてじゃないですか。「まあ、そうなりましょうか。いまはかつてあった坂道がどう変貌したか、あるいはしていないか。そちらの方に興味が移り、同じ道を歩き直しているところです」
 確かに東京の坂道を歩いていると、道の上と下では日当たりもがらりと違って階層というものを見せつけられる気がするし、六本木の裏道あたりのしゃれたレストランは決まって坂道の途中にあり雰囲気を増す。坂道は東京の街に独特の景観を作り出しているんだな、という感想は持つけど、それっきり。山崎さんをそこまで駆り立てるものは何なのか。「若いころはどこに行くにも徒歩で、なんで東京ってところはこんなにでこぼこしているんだ、と体に疑問がしみこんだ。それを解読しているわけですが」。もちろんそれだけじゃあない。


戸山公園 戸山公園は新宿区戸山一・二・三丁目、新宿区大久保三丁目からなり、箱根山地区(箱根山を中心とした地区)と、大久保地区(明治通りを隔てた地区)に分かれる。かつて箱根山地区の一帯は江戸随一の大名庭園と称された尾張徳川家下屋敷「戸山莊」があった。6代藩主宗春の頃には「東海道」を模して宿場町や渡船、山道などが再現され、人間がいない点以外はまるでテーマパークのようだった。
坂道ウォッチャー 坂道の観察者、観測者、見張り人、番人。
尾張徳川家 徳川御三家のひとつ。徳川家康の第9子義直を始祖。名古屋に居城に、石高は61万9千石。尾張家。尾張徳川家。
下屋敷 したやしき。江戸時代、本邸以外に江戸近郊に設けられた大名屋敷。

東陽堂『新撰東京名所図会』第42編

箱根山 神奈川県南西部、富士火山帯に属する三重式火山。
築山 つきやま。日本庭園に人工的に土砂を用いて築いた山。
江戸切り絵図 江戸時代から明治にかけてつくられた区分地図。分割して詳細を示した。江戸市街図刊本にこの例が早くからみられる。
重ね地図 東京と江戸時代の地図を、重ね合わせて表示する地図。
マーキング しるしを付ける。目印を付ける

坂道の“遊び方”

 坂道ウォッチャーの山崎浩さん(72)はこれまで東京の坂道600本を踏破した。しかし、まだ坂道を登りきった気がしない。「次から次に知りたいことが出てくるのです」
 そもそもの疑問は東京になぜ坂道が多いかだった。「地理的にいえば、東京は多摩川扇状地。そこに流れ込む無数の小さな流れが関東ローム層を削り、凹凸の多い地形になった。それを江戸幕府は町づくりに利用したといわれますね」。坂道の名前はどうやって決めたのか。「江戸以来の名前が多いですが、歩いてみてよくわかりました。実に単純。見たまま、それらしい名前をつけています」。例えば、富士山が見えるから富士見坂。うねうね曲がっているのでへび坂。狭いところなのでねずみ坂。「昔は地図なんてものがないわけですから川や橋、そして坂道が目印になった。いわば住所地がわりだったのです」。なるほどなるほど。「あっ、これらはもちろんすべて受け売りです」
 坂道案内の指南書はたくさんあるが、山崎さんが基本図書にしているのは横関英一著『江戸の坂東京の坂』、明治以降の坂が詳しい『江戸東京坂道事典』、わかりやすい『歩いてみたい東京の坂』など。そして江戸時代との比較で『江戸明治東京重ね地図』、江戸の地誌が詳しい『新編武蔵風土記稿』 『御府内備考』などが必需品だという。
 江戸から現代にいたるまで東京は大災害にあい、都市開発が続き大きく変遷した。坂道の運命もそれに伴い消滅したり、平らになったりしたのだが、それらを確認しながら坂道を歩くと、東京歴史散歩をすることになる。「鉄道、都電、オリンピック、この三つが東京の顔つきを大きく変えたことがよくわかりました」。こうなるともはや都市研究家。
 2006年の江戸川乱歩賞を受賞した早瀬乱さんの『三年坂 火の夢』(講談社)は、江戸の華・火事と坂道とをモチーフにした力作だ。「三年坂で転んでね」。謎の言葉を残して急死した兄の足跡を追ううち、文明開化の東京の陰影があぶり出される。あれ、読まれしたかと山崎さんに聞いたら、「三年坂は東京にはいくつもあり、名前が変わっているものもありましてね」と、たちまち解説が始まった。まさに作品の謎にかかわるところ。坂道ひとつでこれだけ都市を一人遊びできる。そこがすごい。

ウォッチャー watcher。ある対象を定期的、継続的に観察、監視する人。多くは他の語と複合して用いる。「政界ウォッチャー」
多摩川 東京都を北西から南東に貫流し、下流部では神奈川県との境界をなす川
扇状地 川が山地から平地へ流れ出る所にできた、扇形の堆積たいせき地形
関東ローム層 関東平野をおおっている火山灰層。ローム(loam)とは砂、シルト、粘土からなる土壌の組成名で、国際土壌学会法ではシルト・粘土の合量35%以上、粘土(<0.002mm)15%以下、シルト45%以下と定義される。
富士見坂 新宿区では旧尾張藩邸に元々あった坂。現在は自衛隊市ヶ谷駐屯地内。その場所は不明。
へび坂 蛇坂。港区では三田4丁目1番、4丁目2番の間で、付近の藪から蛇の出ることがあったため。
ねずみ坂 鼠坂。新宿区の鼠坂とは納戸町と鷹匠町との境を、北のほうへ上る狭い坂だった。現在は歩道橋に取って変えられた。
横関英一著『江戸の坂東京の坂』 昭和45年に有峰書店から出ている。続は昭和50年。ほぼ全ての坂が書いてある。
『江戸東京坂道事典』 石川悌二著。出版社は新人物往来社。平成10年。同じ作者の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)のほうが早い。この2冊、内容もほぼ同じで、ほぼ全ての坂が書いてある。
『歩いてみたい東京の坂』 歴史・文化のまちづくり研究会編の『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)。限られた坂について微細に書いてある。
『江戸明治東京重ね地図』 江戸時代・明治時代の東京と、現代の東京の地図を重ねて表示できるアプリ。16500円。しかし、2020年3月31日から、サービス提供は終了。「一般社団法人 地歴考査技術協会」で後継サービス提供を計画中。
『新編武蔵風土記稿』 しんぺんむさしふどきこう。御府内を除く武蔵国の地誌。昌平坂学問所地理局による事業で編纂。1810年(文化7年)起稿、1830年(文政13年)完成。
『御府内備考』 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
早瀬乱 はやせ らん、小説家、ホラー小説作家、推理作家。法政大学文学部を卒業。生年は昭和38年。
『三年坂 火の夢』 2006年、第52回江戸川乱歩賞受賞作。兄が残した言葉の謎を追う実之。東京に7つある三年坂の存在に辿り着いたとき、さらなる謎が明らかになってくる。
三年坂 三年坂で転ぶと三年以内に死亡するか、転べば三年の寿命が縮まるという俗信がある。本来は寂しい坂道だから気をつけろという言い伝え。詳しくは三年坂・由来で。

神楽坂、坂と路地の変化40年(2)|三沢浩

文学と神楽坂

 『神楽坂まちの手帖』第10号(2005年)に建築家の三沢浩氏が小栗横丁を主体として書いています。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、(1)(3)も引用可能の分量に限って引用します。

神楽坂、坂と路地の変化40年

 小栗横丁は20数年の間、自宅からの通勤路だった。だから最近のこの道の変遷には、驚きひとしおである。神楽坂に外堀通りから入り、理科大への田口生花店の角を左へ、そして古い石垣と志満金厨房の間を右に入る。そこから始まり、突き当たりの西條歯科で終わるゆるいカーブの続く、200m余の路地が小栗横丁と呼ばれる。石垣の所に元禄時代1700年頃の、江戸切絵図に小栗五大夫の屋敷が見える。文政の1800年代には、西條歯科の斜め前の丸紅若宮寮の場所にも小栗仁右衛門とあり、これも路地に名を残す一因ではなかったか。
 左側の神楽坂2丁目22番に、泉鏡花明治38年まで4年間住み、並びの家北原白秋明治42年まで、2年間住んだことになっている。「からたちの花」はここで生まれたのかどうか。今は理科大附属の外人教師館だが、以前は石段の上に平屋の板張り小住宅が、草花やつりしのぶに囲まれてひっそりとあり、中からクラシック音楽が流れ出ていた。右の細い路地、夏日写真館の脇を抜けると神楽坂で、入口にガス灯つきの石の門があった。


ひとしお 一入。ほかの場合より程度が一段と増すこと。何か特別な事情や理由があって一段と程度が増していること。

小栗横丁。1983年。住宅地図

外堀通り 皇居のまわりを一周する最大8車線の都道。
理科大 東京理科大学。新宿区神楽坂一丁目に本部を置く私立大学
田口生花店 正しくは田口屋生花店
志満金厨房 志満金はうなぎ割烹を主にする日本料理。厨房とはその調理室のこと
西條歯科 最西部にある歯医者
江戸切絵図 江戸時代から明治にかけてつくられた区分地図。

元禄と文政。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から

丸紅若宮寮 大手総合商社丸紅株式会社の共同宿舎。2001年には依然開設し、2010年には終了しています。
明治38年 泉鏡花旧居跡では、明治36年3月から明治39年7月まで住んでいたとのこと。この「泉鏡花・北原白秋旧居跡」は泉鏡花の旧居だといいます。
並びの家 道などの同じ側。神楽坂2丁目22番はかなり大きな場所です。その2軒に泉鏡花氏と北原白秋氏の2人がいたわけです。おそらく別の家に住んでいたのでしょう。

神楽坂2丁目。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

明治42年 北原白秋旧居跡では、明治41年10月末から明治42年10月まで住んでいたとのこと。
からたちの花 大正13年、「赤い鳥」で詞を発表。歌詞は「からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ/からたちのとげはいたいよ/靑い靑い針のとげだよ/からたちは畑の垣根よ/いつもいつもとほる道だよ/からたちも秋はみのるよ/まろいまろい金のたまだよ/からたちのそばで泣いたよ/みんなみんなやさしかつたよ/からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ」
外人教師館 地図によると「東京理科大学神楽坂客員宿舎」(右下)。その後、新宿区若宮町に移動しました。

1996年。住宅地図

つりしのぶ 釣り忍。竹や針金を芯にして山苔を巻きつけ、その上にシノブの根茎を巻き付けて、さまざまな形に仕立てたもの。
夏日写真館 以前は坂上を見て左側でした
ガス灯つき ガス灯つきの石の門に相当する門は思い出せないと、地元の人。下は商店会の街灯でした。

夏日写真館

 次の右折れの先は、藤原酒店と向き合って整美歯科、左は急坂を経ると加賀まりこさん宅へ抜ける。熱海湯前までは粋な飲食店が並び、そのうちの一軒は、やや広くなった通に店内から、客用の椅子を出して日向干し。この店の入口にはほぼ毎日、ふぐひれも干してあって、ひれ酒を誘った。熱海湯右の石段を登れば斉藤医院、突き当たりは履き物の「助六」の裏庭で、いつも池への水音が優雅。熱海湯前には煉瓦の階段がゆるく登る、手すりつきの路地があって、突き当たりには桜の古木が、すばらしい花を見せた。
 さてこれから突き当たりまでが、小栗横丁の舞台。右側は黒塀が続いて、名だたる料亭があった。まず喜久月、続いて鷹の羽、その裏に接して重の井。重の井の入口は若宮八幡の通りで右に折れ、坂を登った突き当たりが、このあたりに君臨していた松ケ枝となる。もちろん小栗横丁ではないが、道の左右には仕出屋芸妓置屋があった。

1973年、住宅地図

斉藤医院

整美歯科 以前は「正しくは臼井歯科では? 非常に短命に終わった整美歯科か、名前だけを間違えて正しくは臼井歯科だったのでしょう」と書きましたが、しかし、昭和42年の『新修新宿区史』を見ると、整美歯科は確かにあったようです(参照は「新修新宿区史」で左端の電柱広告を)。
加賀まりこ かがまりこ。女優。生年は1943月12月11日。千代田区神田小川町に生まれ、神楽坂2丁目で大きくなった。フジテレビの『東京タワーは知っている』でデビュー。和製ブリジット・バルドーとも。
若宮八幡 鎌倉時代の文治五年秋、若宮八幡宮を分社した。図の「若宮町」よりもさらに南に存在。「出羽様下」通りと同じ。
仕出屋 注文に応じて料理をつくり届けることを業とする家
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。芸妓屋。芸者屋。置屋。

 ある夕刻、この道筋を帰ってきたが、花屋から石垣の角を曲がるあたりで、脂粉の香がひと筋流れているのを感じた。この小路は巾2~3m、しかも大きくカープしながら、時にはねじれるように曲がって先が見通せない。しかも次第にゆるく登る。脂粉の流れは左右に消えることなく、家並みに沿って続いていたが、熱海湯先で消えた。料亭には置き塩のある格子戸の入口と、黒塀にとりつけた小さな木戸がある。どの入口に入ったものか。
 その格子戸を開けると、打ち水された坪庭、黒松が枝を延ばし、玄関は右か左に90度折れた所にあって、格子戸越しには全貌は見えないのが常。玄関の式台を上がると、右に折れて次の間、また90度折れて座敷に近づく。狭い敷地に小栗横丁から入り、奥行きを深くするための、日本流の入り方がそこに残っていた。植え込みに遣り水踏み石灯龍に灯、粋な庭には朝から手入れをする仲居さんの姿があり、一本ずつ格子を磨くのも仕事のうち。夕刻ともなると、ある入口には一流製鉄会社の黒い背広連、別の料亭では横山隆一等の漫画集団の姿も見た。三味線の高鳴る黒塀からは、経理関係の組合などが溢れ出したり。

脂粉 しふん。紅とおしろい。
次第にゆるく登る ノエル・ヌエット氏が描いた「若宮町」も上にのぼっています。この絵画もここでしょうか。

若宮町。ノエル・ヌエット作。1946年。画集「東京」から

現在の神楽坂2丁目から若宮町に

置き塩 盛り塩。もりしお。塩を三角錐型や円錐型に盛り、玄関先や家の中に置く風習。縁起担ぎ、厄除け、魔除けの意味があります。
格子戸 格子を組んで作った戸。
木戸 街路、庭園、住居などの出入口で、屋根がなく、開き戸のある木の門。
打ち水 ほこりをしずめたり、涼をとるために水をまくこと。
坪庭 建物と建物との間や、敷地の一部につくった小さな庭。
式台 玄関の土間とホールの段差が大きい場合にその中間の高さに設けられる横板
遣り水 やりみず。水を庭の植え込みや盆栽などに与えること。
踏み石 通常は、玄関や縁側などにある、靴を脱ぎておく踏み台のような石。日本庭園にある飛び石。
灯龍 とうろう。日本古来の戸外照明用具。竹,木,石,金属などの枠に紙や布を張って,中に火をともす。
仲居 旅館や料亭などで客の接待をする女性。
横山隆一 漫画家。第2次世界大戦後『毎日新聞』に『フクちゃん』を1956年~71年まで連載。生年は1909年5月17日、没年は2001年11月8日。享年は満92歳。