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江戸城|史跡解説板1

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の外側の歩行者空間には中型パネル4枚、石1個と大型パネル2枚(国指定史跡「江戸城外堀跡」とその遺構巡り)、西口改札外のコンコースにもパネル(外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造)があります。
 1階の中型パネル4枚()のうち、1枚目は江戸城です。徳川家康が作った江戸城は、まず本丸を拡大し、西の丸を作り、さらに大名達は江戸を建設してきます。
 写真は城郭などが3枚、図は江戸城跡の全体図です。

江戸城

江戸城
The History of Edo Castle
 江戸城は、平安時代末の江戸氏居館きょかん、室町時代のおお道灌どうかん、戦国時代の小田原ほうじょう氏の支城として受け継がれました。豊臣とよとみ秀吉ひでよしは、北条氏を滅ぼすと、徳川とくがわ家康いえやすを関東にほうしました。1590(てんしょう18)年、徳川家康は江戸城に入城し、江戸城とじょうまちの建設を始めました。家康入城時の江戸城には石垣はなくるいのみで、も入り江でほんばしきょうばし辺りも海面と同じ高さの湿地でした。
 家康は、まず城内の寺を出しほんまるを拡張し、城下町の武家ぶけちょうにんを整えました。次に、本丸の南の台地を削り西の丸を造成し、その残土で日比谷入り江を埋め立てました。1603(けいちょう8)年、ばくを開き実権を握った家康は、てんしんとして、城と城下町建設にしょだいみょうを動員しました。同じ年に、かんやまを崩して日本橋南の地域を埋め立て、市街地の造成と日本橋の架橋を行い、翌年には日本橋を起点とする五街道を整備しました。1606(慶長11)年には二の丸三の丸城郭の整備、石垣築造を進め、翌年にはてんしゅが完成しました。なお、天守は1657(明暦めいれき3)年に大火で焼失した後、再建されませんでした。
 1868(明治元)年、明治天皇が江戸城に入り皇居となり、1960(昭和35)年、江戸城内郭ないかくの堀が「江戸城跡」として国の特別史跡に指定されました。このほか、「江戸城外堀跡」と「ときばし門跡もんあと」が史跡に、そとさくらもんやすもんみずもんとそれぞれのやぐらもんが重要文化財に指定されています。
支城 本城のほかに領内各地に設けた城。
移封 いほう。大名などを他の領地へ移すこと。転封てんぽう。国替え。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
本丸 ほんまる。日本の城郭で、中心をなす一区画。城主の居所で、多く中央に天守(天守閣)を築き、周囲に堀を設ける。
西の丸 にしのまる。江戸城本丸の南西方の一郭。将軍の世子の居所、また、将軍の隠居所
天下普請 江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事
五街道 ごかいどう。江戸時代、日本橋を起点とした東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中。幕府はこれを直轄し、道中奉行の管轄下に宿駅など整備し、一方関所を設けて統制を厳重にした。そのため参勤交代など主として公用に利用、一般の旅人は脇往還を多く通った。
二の丸 本丸の外側に隣接して城主の館邸の設けられた郭(周囲を土や石などで築いた囲いの内側の地域)
三の丸 二の丸につづいて外側の家臣屋敷などの並ぶ郭
城郭 城と外囲い。堀や土塁・石垣などにより,外敵の攻撃を防いだ施設。
天守 城の本丸に築かれた最も高い物見やぐら。天守閣。天守やぐら。
内郭 うちぐるわ。ないかく。城などの内側に築かれた囲い。また、その区域
江戸城外堀跡 江戸城の防衛的な施設である外堀のうち、牛込見附から赤坂見附まで延長約3.3kmと虎ノ門地区が、1956年(昭和31)に国の史跡に指定され、2008年(平成20)に追加指定を受けた。江戸時代以来の堀や土手、城門石垣が残る。
櫓門 やぐらもん。上階に櫓(城壁などの上に造った建物で、諸方を展望して偵察したり、矢や弾丸を発射して防戦の用とした)をのせた門。

 Edo Castle’s origins can be traced to the establishment of the Edo Clan’s estate in the late-Heian period.  During the Muromachi period, it served as the location of Ōta Dōkan’s branch castle.  Entering the Warring States Period, it was controlled by the Hōjō Clan’s and served as the site of their branch castle. When Toyotomi Hideyoshi eradicated the Hōjō Clan in the late-sixteenth century, Tokugawa Ieyasu was sent to their former territory in the Kantō region. In 1590, leyasu assumed control of Edo Castle and initiated the Castle’s reconstruction and construction of the surrounding castle town. At the time, there were no stone walls on the Castle site. The only remaining features of the Hōjō Clan’s branch castle were its earthen fortifications. In addition, the Hibiya area was an inlet and the Nihonbashi and Kyōbashi areas were low-lying wetlands.
 leyasu began the reconstruction effort by removing temples from the site, expanding the Castle’s inner citadel, and supervising the construction of the city’s commoner districts and warrior estates. He then removed portions of the plateau immediately south of the inner citadel and constructed the western citadel. In addition, the inlet in Hibiya was filled in using the earth removed from the plateau. In 1603, leyasu, who had by then seized national political authority and established a tent government, mobilized domainal lords from the across the country to construct the remaining portions of Edo Castle and the surrounding city area. The same year, Kanda Hill was leveled and earth removed from the Hill was used to fill in the southern portions of the Nihonbashi area. The area was then developed and Nihon-bashi Bridge was constructed. The following year, an archipelago-wide network of five overland circuits originating from Nihon-bashi Bridge was established. In 1606, the second and third citadels and castle tower were constructed and work continued on the stone walls surrounding the Castle. By the following year, the Castle’s main keep was complete. In 1657, however, the Castle was destroyed by a fire and had to be reconstructed.
 In 1868, the Meiji emperor moved to Edo Castle and it came to serve as the imperial palace. In 1960, Edo Castle’s inner moat was classified as Edo Castle’s official ruins and designated a National Heritage Site. In addition, remaining portions of the Castle’s outer moat and the ruins of Tokiwabashi Gate received designation as Historical Landmarks. Lastly, the box-shaped, two-story gatehouses at Sakurada-mon, Tayasu-mon, and Shimizu-mon Gates were designated as Important National Treasures.


大手門 霞会館「鹿鳴館秘蔵写真帖」平凡社、1997

本丸大手門 本丸正門。慶長12年(1607)完成、のち伊達政宗が延べ42万人、大判2600枚を費やして右折枡形門となす。明暦の大火後、万治2年(1659)に再建された。大正12年震災で倒壊し復興された渡櫓門も戦災で焼失、現渡櫓門は昭和40年(1965)の復元。高麗門と石塁のみ遺構として現存。写真には渡櫓右に二ノ丸異三重櫓が見える。警戒は厳しく、明治4年(1871) 4月「御城内御門謷戒兵規律」には、警戒兵が門両脇に2人ずつ昼夜交替で立ち、例外を除き鑑札所持者のみ朝六ツ時から暮六ツ時まで通行を許した。明治22年皇居造営後、内閣が赤坂仮皇居から大手門内に移動、大手門は内閣への通用門となった。(霞会館「鹿鳴館秘蔵写真帖」平凡社、1997)

江戸城写真集 蓮池三重櫓、本丸御殿址と台所櫓 東京誌料 東京都立図書館

 この写真は鹿鳴館秘蔵写真帖の「下乗橋前より二ノ丸東三重櫓方向」と全く同じなので……
下乗橋前より二ノ丸東三重櫓方向 下乗橋大番所前から二ノ丸殿東側を写した写真。左手奥から東三重櫓、東多聞、異三重櫓。堀を挟んで、右手に同じ三ノ丸の平川門へ通じる喰違門の一部が見られる。大手門と喰違門の間には、御殿詰・勝手方などを除く会計一般を扱った下勘定所が置かれていた。現在、堀は二ノ丸北櫓跡まで埋められ、それより下梅林門までが天神堀となっている。埋め立て部分には宮内庁病院や厩舎、三の丸尚蔵館などが建設され、かつての面影は全くない。(霞会館「鹿鳴館秘蔵写真帖」平凡社、1997)

半蔵門 霞会館「鹿鳴館秘蔵写真帖」平凡社、1997

半蔵門 桜田門と同じく元和6年(1620)奥羽諸侯が建造した右折枡形門。土手で桜田堀と半蔵堀とを画したため門前の橋は築かれなかった。名称は門内に住んだとされる伊賀の服部半蔵に由来する。この門は内郭の西門に位置し、武蔵国府へ向かう国府方口とも称された。麴町の町名は、国府路こふじに由来するとされる。写真には解体中の半蔵門の渡櫓門が見られる。なお現在の高麗門は和田倉門より移築したもの。現在枡形はない。(霞会館「鹿鳴館秘蔵写真帖」平凡社、1997)

「江戸氏文書」室町時代

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)「1 牛込の夜明け前 (3)牛込文書と江戸氏」です。この本では『牛込文書』のうち江戸氏の文書7通について解説をしています。年代は1340年から1449年までで、室町時代にあたります。

武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)

牛込文書と江戸氏
 牛込氏の直系の子孫である、牛込本家(武蔵市西久保在住)所蔵の『牛込文書』という古文書が21通ある(東京都文化財)。この文書は中世後期(室町—戦国期)の新宿区域を、最も、具体的で正確に物語っている貴重な史料である。その古い時代のものから番号をつけると、①から⑦までが何故か江戸氏関係のものである。
 江戸氏は平安末期から鎌倉、南北朝時代にかけて、武蔵在地の武士団、武蔵七党の一つ、秩父党の分かれで、秩父重継の代から江戸庄を領として、江戸氏を名のり、代々、鎌倉幕府の家人を務め、その嫡男庶子を各地に配し、「八ヶ国の大福長者」と称されていた。以下、『牛込文書』江戸氏の項を要約すると次の通りになる。
武蔵七党 平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。
秩父党 平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一つのだま党だが、その中に秩父氏を名乗るグループがあった。例えば秩父孫次郎は北条氏綱による鶴岡八幡宮の再建に協力している。
秩父重継 平安時代末期(11世紀)の武将。武蔵江戸氏初代当主。
江戸庄 「庄」は「庄園」「荘園」ともいい、奈良時代から戦国時代までの中央貴族や寺社による私的大土地所有の形態。個人が開墾したり、他人からの寄進により大きくなった。鎌倉末期以後、武士に侵害されて衰えた。荘。
家人 かじん。家の人。家族。家臣。らい
八ヶ国の大福長者 八ヶ国とは関東。武蔵国千束せんぞく郷石浜(台東区)に着岸する交通のようしょう。東京湾内の漁船、太平洋海運で航行した西国舟が集まり、水陸交通を通じて富も集中。大福だいふくとは 非常な金持。

 似た文章は他にありまして、武蔵野ふるさと歴史館の「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)です。やはり「江戸氏文書」だけの前書を書いています。

 鎌倉幕府滅亡後、内乱が全国に及ぶと武蔵国でも南朝と北朝による戦乱が起こり、武蔵国の武士も多く参陣し、武功を挙げました。暦応2年(1339)に高師冬が関東執事に任命され、足利義詮の下で北畠顕家の追討にあたります。顕家の関東撤退後、義詮、鎌倉公方足利基氏により関東支配が進められますが、師冬、上杉憲顕の両執事の対立や関東管領畠山国清の追放の後、鎌倉公方 (基氏系譜)を関東管領上杉氏が補佐するという形で関東での内乱は終息することとなります。
 暦応3年(1340)、牛込郷の名が史料上初めて登場します。この時、鎌倉幕府滅亡後に幕府に仕えていた武士の没収地である荏原郡牛込郷の支配を足利方についた江戸近江権守が任されます。また、『鎌倉大草紙』によれば、応永23年(1416)に勃発した上杉禅秀の乱において江戸近江守が参戦し戦功を挙げるも討ち死にしたことが記されています。その後、応永30年(1423)には、豊島郡桜田郷内の沽却地(売地)を江戸憲重が取得します。こうした所領の給与は、戦に参戦し戦功を挙げた際に得られることも多く、中世の武士にとって、主君の戦に従い戦功を挙げることは名誉であり、生きる道でもあったのです。
 江戸氏はその後も代々の鎌倉公方との関係を構築していたようで、足利成氏、政氏にそれぞれ酒樽や鯛などを送っている様子がうかがえます。また武蔵平一揆による江戸惣領家の没落、永享の乱、享徳の乱における江戸氏庶流の鎌倉公方・古河公方方への参陣の様子から、江戸氏の衰退および牛込・桜田郷への支配権の喪失も関東における戦乱の中で起こったものと考えられます。

 では、文書を開いてみます。

① 「足利義詮御教書」暦応3年(1340)
 時代は室町幕府創設直後、当時の鎌倉府の義詮(尊氏長子)が執事のこうのもろふゆに命じて、江戸氏の所領であるいも郡(現埼玉騎西町)の替地として、荏原郡牛込郷けつ分(所有者のない知行地)を与えたものである。恐らく、鎌倉幕府滅亡から室町幕府成立期の混乱時に牛込郷は不知行地になっていたのであろう。

 この本文は一瀬幸三氏のものですが、他に[A] 矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)と、[B] あれば新宿区役所の「新宿区史」(昭和30年)[C] 武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)、[D] 新宿区教育委員会「新宿区文化財総合調査報告書(1)」(昭和50年)も加えています。文書①から⑦までの数は一瀬幸三氏の数字です。

① [A] 武蔵国守護の高師冬が鎌倉公方足利義の意を奉じて、江戸近江権守に崎西郡芋茎郷に替えて、闕所となっていた荏原郡牛込郷(現新宿区)を預置くことを通達している。牛込郷の初見史料である。暦応の年号を持つが、全体的な筆勢・花押共に弱い。(矢島氏)

「高師冬奉書」暦応3年8月23日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

① [B] この文書によると、江戸近江権守は今まで持つていた崎西郡芋茎郷が何らかの理由で没収されることになり、その替所として牛込郷が闕所になつていたので、それを足利氏から貰ったことが分る。従つてこれによると、本区牛込がはじめて史上に明文を見、江戸氏の領地になつたことを知るのである。しかし鎌倉時代の節に述べた如く、江戸氏は古くから本区と関係があると思われ、江戸近江権守が牛込を領したのが、江戸氏の本区支配の最初であつたとは思われない。逆に暦応に牛込の闕所地を江戸氏が領したのは、古くから縁故の土地であったためではなかろうか。(略)
 江戸氏が室町時代に於いて足利氏の配下にあったことは「太平記」、「後鑑」に見えるが、更に曆応3年の「牛込文書」によると、江戸氏は高師直の息参河守師冬の配下に属していたのではないかと思う。そうすると師冬は当時下総・常陸にいた南朝の軍と戦っていたのであるから(保暦間記・後鑑)、江戸氏もその軍に加わっていたのではあるまいか。その後、貞和5年に尊氏の息基氏が関東に下り、関東管領となったが、基氏はその時僅か十歳であった。そのため師冬はその補佐にあたっていた。従って江戸氏も亦自然基氏に属することになったらしい。(新宿区史)
① [C] 前年に関東執事に就任し、関東平定を推し進めた高師冬が足利義詮の意を奉じた文書。冬軍には多くの武蔵・相模国の中小武士らが従いましたが、長期の戦闘に疲弊し帰国を希望する者もあったといい、高幡不動本尊像内文書(国指定重要文化財 日野市・金剛寺蔵)には参戦した武士の実態が記されています。江戸氏も冬に従い戦功を挙げたと考えられ、本文書はその際の戦功として牛込郷の領有を認められたものです。(武蔵野ふるさと歴史館)
① [D] 鎌倉公方の足利義詮(尊氏の子)が、執事高師冬に命じて、江戸氏に芋茎郷(現騎西町内)の替地として、牛込郷の欠所分(不知行地)を付与したもの。宛名の江戸氏は庶流で名は不明。牛込郷のみえる最初の史料であり、荏原郡に属していたことも明らかである。(新宿区文化財総合調査報告書)

闕所 けっしょ。中世、没収や、領主が他に移ったりして、知行人のいない土地。闕所地。
預置く 預け置く。あずけおく。人や物を他の人に託して、保管・管理を任せる。

② 「前遠江守打渡状」応永30年(1423)。
③「一色持家書状」応永33年(1426)
 この書からは、当時の幕府管領と鎌倉府の対立状態が鮮明にわかってくる。

② [A] 前遠江守有秀が江戸憲重に対し、施行状の通りに豊島郡桜田郷の沽却地を打ち渡している。発給者の有秀の名字は未詳だが、署名・花押が小さいことから鎌倉府の奉行人クラスの存在と推定される。(矢島氏)

「前遠江守打渡状」応永30年11月21日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

沽却地 こきゃくち。「沽却」は売り払う。売却。沽却された土地。売買の対象となる土地。
② [C] 江戸憲重が桜田郷内の沽却地(売地)を与えられた際の打渡状。室町時代の武蔵国においては、鎌倉公方の命令により遵行を命じる奉書が作成されると、守護・守護代は遵行状(伝達命令文書)を作成しこれを取り次ぎ、遵行使を派遣して知行人に証状として打渡状を交付しました。応永23年(1416)の上杉禅秀の乱後に、足利持氏方についた武士らの還補(何らかの理由で失った土地を取り戻すこと)が認められており、桜田郷は以前から江戸氏が領有していたため、本文書も桜田郷の一部を江戸氏に還補された際のものと考えることもできます。(武蔵野ふるさと歴史館)
② [D] 江戸憲重の買得地である豊嶋郡桜田郷の下地を、江戸上野入道を証人として憲重に沙汰するという内容。(新宿区文化財総合調査報告書)


③ [A] 甲斐守護武田長と鎌倉公方足利持氏の合戦に関わるものである。鎌倉府奉公衆で武田信長討伐軍の総大将であった一色持家が、甲斐国田原(現山梨県都留市)に在陣中の江戸憲重の労をねぎらい、足利持氏に戦功を注進する旨を伝えている。端裏には切封墨引があるが、線に勢いがなく、切封の上に墨を引いた跡というより点を二点打ったような書き方になっている。(矢島氏)

「一色持家書」7月26日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

③ [B] 関東管領の下にあった刑部少輔一色持家から、長い間の在陣の労を謝し、忠節をつくしたことに対する感謝状がある。これが何時のもので、何処で誰と闘つたものか明確を欠いている。(新宿区史)
③ [C] ④号文書と関連する文書で、一色持家が応永33年の武田信長征討における江戸憲重の在陣の労をねぎらい、その忠節を足利持氏に報告するという旨を伝えた文書。持家の注進により④号文書が発給されました。(武蔵野ふるさと歴史館)
③ [D] この年(1426)6月に、鎌倉公方足利持氏は、甲斐の武田信長を攻めるため一色特家を遣わした。この文書は、従軍した江戸憲重の忠節を、持家が持氏に注申すると約束したもの。(新宿区文化財総合調査報告書)

④ 「足利持氏感状」応永33年(1426)。
⑥ 「足利成氏書状」。
⑦「足利政氏書状」。
 ⑥、⑦は共に年末詳。以上の三通の文書から、江戸氏は鎌倉幕府時代から御家人であり、終始、鎌倉府方に属し、やがて、その後引き起された「永享の乱」(1439)にも公方に従い、江戸を離れ、常陸へ移り、自ら衰亡の結果をつくっていった。

④ [A] 足利持氏が一色持家の注進を受けて憲重の田原での戦功を賞している。これは前者を受けて発給されたものである。全文一筆と思われるが、持氏の花押のバランスが悪く、寸法もやや大きい。筆跡も応永期より下ると思われることから、写と判断した。(矢島氏)

「足利持氏感状」応永33年8月11日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

④ [B] 関東管領足利持氏からの感状がある。多分この二通の文書(③と④)は関係のあるものであろう。そうすると江戸氏が戦っていたのは甲州田原の戦争であったことが分る。(新宿区史)
④ [C] 鎌倉公方足利持氏が江戸憲重に与えた直状。持氏が自らの花押を据えて戦功があった憲重に与えた文書で、直状のなかでも戦功に対する賞を述べるものは感状といいます。「田原陣」は甲斐国都留郡にあった田原郷をさし、持氏に従わない武田信長を一色持家率いる軍勢が征討にあたりました。憲重は持家に従い参戦しており、江戸氏と鎌倉公方との主従関係をうかがうことができます。(武蔵野ふるさと歴史館)
④ [D] 足利持氏も自ら甲斐国田原に出陣し、一色持家の注申に従って、江戸憲重の戦功を賞した。武田長は8月25日に征圧された。(新宿区文化財総合調査報告書)

⑥ [A] 足利成氏が江戸越後守に宛てた書状で、酒等の贈答品に対する礼を述べている。江戸越後守は憲重・重方の一族と思われるが、実名は判らない。この文書に据えられた成氏の花押はバランスが悪いうえに重ね書きをしていることから、写の可能性がある。(矢島氏)

「足利成氏書状」12月11日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

⑥ [C] 江戸越後守が酒樽などを贈答したことに対する足利成氏の礼状。成氏は足利持氏の子で、永享の乱により滅亡した鎌倉府を再興した人物です。成氏が対立する関東管領上杉憲忠を殺害したことがきっかけとなり、およそ30年にわたる享徳の乱へと発展します。乱勃発後まもなく成氏は鎌倉を奪われ、下総国古河に拠点を移しました。江戸城などを奪取した上杉氏は武蔵国からも多くの武士を動員しています。本文書は発給年代が不明であり、江戸氏が享徳の乱の最中に上杉と鎌倉・古河公方のどちら方で活動していたかは定かではありません。(武蔵野ふるさと歴史館)
⑥ [D] 成氏は持氏の子で、康正元年に古河に入り、文明末年まで家督していたのでその間のもの。榼(酒だる)到来の礼状。江戸氏が古河公方に従っていたことを示すものである。(新宿区文化財総合調査報告書)

⑦ [A] 足利政氏から江戸越後守に宛てた、鯛などの贈答品に対する礼状である。この鯛は、憲重・重方が桜田郷に所領があったことから、桜田郷の海辺から納められた可能性が高い。また裏書の記載から、牛込氏の分家に際しては江戸氏文書も分割して相続されていたことがうかがえる。(矢島氏)

「足利政氏書状写」12月9日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

⑦ [B] 該文書は基氏が江戸氏から贈物をもらつたのでその礼の手紙である。この文書が何時頃のものか年号がないので分らないが、基氏は「後鑑」巻34貞和5年(1349)10月26日の条を見ると、『是月、以将軍家次子亀若丸鎌倉管領、以上杉越後憲顯、高三河守師冬執事』とあって、貞和5年僅か10歳で鎌倉に降り、関東管領となっているから、それから彼が死んだ貞治6年(1367)まで約20年の間のものであろう。(新宿区史)
⑦ [C] 古河公方である足利政氏から江戸越後守の鯛など贈答に対して送られた礼状。政氏は延徳元年(1489)に足利成氏から家督を譲られます。本文書の発給年代は不明ですが、江戸氏が古河公方と主従関係があったことがうかがえます。(武蔵野ふるさと歴史館)
⑦ [D] 政氏は成氏の子。長享2年頃家督し、永正12年まで文書がみられる。鯛到来の礼状。(新宿区文化財総合調査報告書)

⑤ 「江戸憲重譲状」文安6年(1449)。
 江戸氏内部で、所領の桜田郷、牛込郷の一部を憲重から江戸重方に譲渡するという内容であり、江戸氏が牛込の地を領有していたことを示す最後の文書である。

⑤ [A] 江戸憲重が同重方に対し、桜田知行分・牛込郷からそれぞれ5貫文、手作分などを譲り渡す旨を記した譲状である。これより重方は憲重の子息と考えられる。重方は既に文安元(1444)年に牛込赤城大明神(現赤城神社)に大般若経を奉納しており、これ以前から牛込郷の支配に関わっていたと思われる。この文書は全文一筆だが、筆勢・花押ともに大変弱く、写の可能性も否定できない。(矢島氏)

「江戸憲重詫状」文安6年5月15日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

⑤ [B] この二つの文書(②と⑤)により、江戸憲重が牛込・桜田の両郷を領有していたことを知る。更に又以上の文書よりして江戸近江権守と江戸憲重は父子か孫の関係ではあるまいか。江戸重通・江戸淡路守・江戸房重・江戸近江権守は同時代の人物と思われるが、「江戸氏系図」にも名前がなく横の関係は分らない。しかしこれ等江戸氏はいずれも一族であり、鎌倉時代の江戸氏の正統を継ぐものであろう。江戸氏は主として、桜田・牛込・浅草を中心とした地域に拠をしめ、その庶流は室町初期の頃までには更に拡がっていたらしい。(新宿区史)
⑤ [C] 江戸憲重が江戸重方に桜田知行分と牛込郷からそれぞれ5貫文と手作(直営の耕作地)等を譲与する旨を記した文。重方は、文安元年(1444)には牛込郷の鎮守である赤城神社(現新宿区早稲田鶴巻町)に大般若経600巻を奉納しており、この頃には牛込郷の知行にも関わっていたと思われます。そのため重方は憲重の嫡子と考えられます。(武蔵野ふるさと歴史館)
⑤ [D] 江戸憲重が知行地の全部を重方に譲与するというもの。とくに桜田郷の内の年貢五貴文と牛込郷の内の年責五貫文とが中心であり、このほか手作地(屋敷まわり)なども重方に譲与するというもの。年貴高反当り500文として、両郷で二町の土地になる。(新宿区文化財総合調査報告書)

 以上、7通の解説を読んでみました。①②⑤は領有地に関する問題で、他は戦功の感謝や酒や鯛を送ったことに対するお礼です。

暦応3年13408月23日① 鎌倉公方足利義詮は北埼玉芋茎郷の替地として江戸氏に牛込郷を付与。
応永30年142311月21日② 江戸氏が桜田郷を領有していたことが判る。
応永33年14267月26日③ 一色持家から江戸憲重氏の忠節を足利持氏に報告する。
応永33年14268月11日④ 関東管領足利持氏から武田氏との戦で江戸氏は感状を貰う。
文安6年14495月15日⑤ 江戸氏が桜田郷のほか牛込郷を領していた。
12月11日⑥ 足利政氏から江戸越後守に宛てた、鯛などの贈答品に対する礼状
12月9日⑦ 足利成氏が江戸越後守に贈った酒等の贈答品に対する礼

新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」1987