泉鏡花氏の『婦系図』「湯島の境内」からです。「湯島の境内」は小説「婦系図」(1907年)では入っておらず、戯曲「婦系図」(1914年)で新しく加わりました。戯曲の山場のひとつです。この原本は岩波書店「鏡花全集 第26」(第一版は昭和17年)から。なお、早瀬主税は書生で、主人公。お蔦は内縁の妻です。
早瀬 俺と比ッ切別れるんだ。
お蔦 えゝ。
早瀬 思切つて別れてくれ。
お蔦 早瀬さん。
早瀬 …………
お蔦 串戯ぢや、——貴方、無ささうねえ。
早瀬 洒落や串戯で、こ、こんな事が。俺は夢に成れと思つて居る。
〽跡には二人さし合も、涙拭うて三千歳が、恨めしさうに顔を見て、
お蔦 真個なのねえ。
早瀬 俺があやまる、頭を下げるよ。
お蔦 切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云ふものよ。……私にや死ねと云つて下さい。蔦には枯れろ、とおつしやいましな。
ツンとしてそがひに成る。
早瀬 お蔦、お蔦、俺は決して薄情ぢやない。
お蔦 えゝ、薄情とは思ひません。
早瀬 誓つてお前を厭きはしない。
お蔦 えゝ、厭かれて堪るもんですか。
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三千歳 みちとせ。歌舞伎舞踊で、片岡直次郎と遊女三千歳の雪夜の忍び逢いをうたう。
そがい 背向。後。後ろの方角。後方。