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神楽坂3丁目 歴史

 明治40年、東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…。

神樂坂町三丁目 昔時せきじよりすべ士地なり。内神樂坂東南とうなんの地は享保火除地ひよけちとなり、後放生寺借地の内に入り、維新後いしんご其西部華族松平氏の邸となる。又神樂坂西北の地は、元祿八年火消役ひよけやく屋敷やしきとなり、後本多氏邸となる。明治四年六月之を合して三丁目とす。
昔時 むかし。いにしえ。往時。
士地 しち。幕府武士の土地
享保 江戸中期の 1716~36年。
火除地 江戸幕府が明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地。
放生寺 新宿区西早稲田にある真言宗の寺
松平 松平出羽守。
元祿八年 1695年。
火消役屋敷 火消屋敷。火消役がその任にあたるために住む屋敷。初めは火消役として旗本4人を選び、各々与力6名、同心30名を付属させた。
本多氏 本多修理因幡守など。定火消などを務める。

 神楽坂3丁目は全て武士の屋敷だったといいます。新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)でも同じです。

神楽坂三丁目
 江戸時代には武家地であった。神楽坂より南の地は享保年間(1716―35)以後は二丁目と同様の変遷をしたが、明治維新後は西部が華族松平氏邸となった。坂の北の地は元禄8年(1695)には火消役屋敷となり、のち本多氏邸となった。明治2年(1869)に牛込神楽町となり、同4年6月、これらの土地を合わせて神楽町三丁目となり(市史稿・市街篇53)昭和26年(1951)5月1日神楽坂三丁目となる(東京都告示第347号)。

 明治8年、江戸時代からの本多家と維新後の松平家がありましたが、あっという間にこれは姿を消し、商売の土地が増えてきます。

明治7年の神楽坂(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

 「ここは牛込、神楽坂」第2号で、竹田真砂子氏の『振り返れば明日が見える。銀杏は見ていた』で…

 本多の屋敷跡は、明治十五、六年頃、一時、牛込区役所がおかれていたこともあったようだが(牛込町誌1大正十年十月)、まもなく分譲されて、ぎっしり家が建ち並ぶ、ほぼ現在のような形になった。反対側、今の宮坂金物店の横丁を入った所には、旧松平出羽守が屋敷を構えていて、当時はこの辺を「出羽様」と呼んでいた。だいぶ前、「年寄りがそう言っていた」という古老の証言を、私自身、聞いた覚えがある。

 区役所については新宿区役所「新宿区史」(新宿区役所、昭和30年)で…

 牛込区役所は、明治11年11月神楽町3丁目に初めて開庁し、15年11月同町3丁目1番地に移り、18年2月袋町光照寺に転じ、19年3月市谷八幡神社内に移り、26年11月新庁舎を設けて箪笥町に転じた。大正12年9月大震災後、弁天町(現弁天公園の場所)にバラック建仮庁舎を設けたが、昭和3年5月12日、再び箪笥町の新庁舎(現新宿生活館)に還った。

 主な土地は、東陽堂の『東京名所図会』第41編(明治37年、1904)は

三丁目 自一番地至十番地。
三丁目一番地に笹川。(料理店)川島本店。(酒類卸小賣)二番地に菱屋。(糸裔)安生堂藥舗。五番地に帝國貯蓄銀行神樂坂支店。(本店は京橋區銀座二丁目。資本金十萬圓。二十九年八月十五日設立)六番地に青陽樓(西洋料理店)淺見醫院あり。

 1917年(大正元年)、東京市区調査会の複製(地図資料編纂会『地籍台帳・地籍地図「東京」』、柏書房、1989年)です。

神楽町3丁目

神楽町3丁目、東京市区調査会

 大正6年、飯田公子氏の『神楽坂龍公亭物語り』(平成23年)では

神楽坂3丁目

神楽坂3丁目

 最後に現代の3丁目です。

神楽坂3丁目(Google)

神楽坂3丁目(Google)

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

岩戸町|神楽坂

文学と神楽坂

 岩戸町は、江戸前期には留守居与力がここに住み、明暦の大火が起こると、 幕府が没収して、火除地になります。さらに深川六間堀町の代地も加わり、名前も岩戸町に変わります。岩戸町の名称は、天照大神が天の岩戸に隠れると、アメノウズメが神楽に合わせて舞い、岩戸を開いたという神話があるためです。明治になると、全てが岩戸町になります。

 東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…

牛込岩戸町 延寶えんぽうころ幕府留守居るすゐ輿力よりき此に住す、後官収くわんしうして火除地となし、寛政十年深川六間堀町代地となる。神楽坂の上に在るを以て岩戸いわとまちと加ふ。初め二箇町に分らしが、明治四年六月之をはいし、東隣とうりん肴町さかなまち一部いちぶを加へて一町とす。

[現代語訳]延宝の頃には大奥や女中の事務をする留守居与力がここに住み、その後、幕府が没収して、防火用空地の火除地となった。寛政十年には深川六間堀町(現、江東区の1部)の代替地になった。神楽坂の上にあるから、岩戸町といった。最初は2か所に分割したが、明治4年6月、これを廃止、東の肴町の1部を加えて、1町になった。

江戸時代の岩戸町。江戸時代の青色の多角形が神社仏閣を除いて明治初期の岩戸町に。左上は延宝年間(1673-81)で留守居があり、右上は天明年間(1781-88)の火除地、左下は寛政年間(1789-1817年)で深川六間堀町の代地が付け加わり、右下は当時(嘉永5年、1852年)。

江戸時代の岩戸町。江戸時代の青色の多角形が神社仏閣を除いて明治初期の岩戸町に。左上は延宝年間(1673-81)で留守居があり、右上は天明年間(1781-88)の火除地、左下は寛政年間(1789-1817年)で深川六間堀町の代地が付け加わり、右下は当時(嘉永5年、1852年)。

留守居 江戸幕府の職名。大奥の取り締まり、奥向き女中の諸門の出入り、諸国関所の女手形などの事務、将軍不在のときは江戸城中の警衛などをつかさどった。また、諸大名が江戸屋敷に置いた職名。幕府との公務の連絡や他藩の留守居役との交際・連絡を担当。
与力 江戸時代、町奉行、留守居、大番、火消役などに付属し、町奉行組与力、御旗奉行組与力、大御番与力、火消役組与力、百人組与力、御留守居番与力などと呼ばれ、その組の頭を助けて庶務をつかさどったもの。
官収 国家や幕府が租税や土地を没収すること。
火除地 江戸幕府が明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地。
深川六間堀町 江東区常盤二丁目と森下一丁目に当たる土地。
代地 だいち。かわりの土地。代替地。
 と呼ぶ

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)でもほぼ同じです。

岩戸町いわとちょう
 延宝年間(1673-81)は幕府留守居与力の居住地などであったが、のち上納させて火除地とした。寛政10年(1798)に深川六間堀の代地として町屋ができ、牛込岩戸町一丁目、牛込岩戸町二丁目となる。両町は善国寺を挟んで東が一丁目、西が二丁目である。
深川ふかがわ六軒ろっけん掘町ぼりちょう代地だいち 牛込岩戸町一丁目・二丁目 もともと深川六軒掘町にあったが、寛政九年(1797)11月22日に神田かんだ佐久間さくまちょうから出火した火事の際、飛火で類焼し、地所が御用地となったため、代地として下された。その際、神楽に縁があるため岩戸町としたいと願い出て認められ、深川六軒掘町代地牛込岩戸町一丁目、二丁目となった。これは、天照あまてらす大神おおかみが、天の岩戸に隠れてしまったとき、アメノウズメが神楽に合わせて舞い、岩戸を開いたという神話に因み、神楽坂の神楽と並べて岩戸としたのである。町内東南に毘沙門びしゃもん横町がある。北西に藁店横町がある。これは隣町の袋町に藁屋があるからだとされる(町方書上)。

善国寺 間違いでしょう。「大久保通り」の両側です……と書きましたが、間違いは自分でした。国立公文書館デジタルアーカイブ「明治東京全図」(明治9年)では牛込岩戸町は現在より広く、善国寺の東まで広がっていました。

明治東京全図(明治9年)岩戸町・肴町・上下宮町

 新撰東京名所図会 第42編(1906)では

     ○町名の起原並に沿革
牛込岩戸町いはとちやうは、もと幕士ばくし所有地しよいうち及び肴町さかなまちの商家ありしに、後ち上地となり、しばらく空間の地たりしを、寛政の頃深川ふかゞわけんぼり代地だいちとなれり。即ち神樂坂かぐらざかの上なれば、あま岩戸いはとかみあそび、其ちなみにて岩戸町と唱ふと。
 府内備考(五十四)に云、町名之牛込うしごめ神樂坂かぐらざか上にて被下置候に付神樂坂と申緣を以て、岩戸町と唱申度旨邨上肥後守御番所へ同年(寛政十年)九月中御願申上候得者、同十月二十七日小田切土佐守御内合にて願之通被仰付、深川六間堀町代地牛込岩戸町一丁目二丁目と相唱あひとなへ可成旨被仰付、依之其節より前書之通唱來候哉

嘉永かえい切繪きりゑを見るに、此地、深川ふかゞわ間堀けんぼり代地岩戸町、肴町岩戸町二丁目とありて、甚だ入組いりくめり、明治の初、肴町さかなまちの一部を之れに編入し、舊名きうめいを襲ひ、丁目の稱を省き、牛込岩戸町いはとちやうとなす。


幕士 幕府の侍。武士。
肴町 現、神楽坂5丁目
上地 民間から幕府・政府に召し上げられた土地。
深川六間堀町 江東区常盤二丁目と森下一丁目に当たる土地。
代地 だいち。かわりの土地。代替地。
神あそび かみあそび。神遊び。神前で、歌舞を奏すること
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 これに関わる事柄。…こと、…に関して。
被下置候 下し置かれ候。に与える。
邨上肥後守 村上肥後守と同じ。官位は肥後守で、国は現在の熊本県。
御番所 江戸時代、町奉行所のこと
小田切土佐守 江戸時代の旗本。官位は土佐守で、国は現在の高知県。
御内合 正しくは「御内寄合」。内寄合とは江戸時代、寺社・町・勘定の各奉行が月3回月番の役宅に集まり、事務連絡や公事訴訟の審判を行ったこと。
被仰付 おおせつけられる。命じられる
可成旨 これは間違い。府内備考では「可申旨」が正しい。「申すべきむね」。申し出るように
通唱 「一般に広く知られた歌」でしょうか。

 最後に江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏は、新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』で、こう書いています。なお、残念ながら、岩戸町の命名は明治の役人ではなく、江戸時代の村上肥後守の命名でした。

 岩戸町(いわとちょう)今は岩戸町は電車道を挾んで,元肴町の角から1町となっているが,切図をみると毘沙門堂の隣地が岩戸町1丁目、さらに肴町の間を左へ曲って南蔵院の通りを少し行った左側に岩戸町2丁目が二ヶ所に分れていた。“東京府志料”には
 此地はもと武家の賜地及び肴町の市店ありしが、後ち上地となり空間の地たりしを、寛政九年、深川六間堀町回禄に罹り、翌十年其町内百十三間の地、用地となり、当所を代地に給ふ。此地は神楽坂の上なれば、其の因みにて(岩戸神楽)岩戸町と唱うと。
 明治二年元牛込岩戸町一町目二町目を合せ五年又同町続き士地を合併す。
 今盛んに地名表示替が行われているが、筆者などは何町といえばほとんど何区のどの辺と判っていたが、その60年来なじんだ古い町名は消えて、思いもよらない地名が付けられるので分らない事甚だしい。明治の役人が岩戸神楽から取って岩戸町などと付ける所は洒落っ気があってよい思いつきである。なお、この町にある法正寺と正定院の二軒を二軒寺と呼んだ。


岩戸神楽 民俗芸能。面をつけて神々に扮し、「岩戸隠れ」「大蛇退治」など神話に取材した所作を演じる。宮崎県高千穂町で行われる神楽は有名。
明治の役人 岩戸町の命名は明治の役人ではありません。江戸時代から岩戸町でした。
二軒寺 法正寺と正定院は地図で。現在、二軒寺とは呼ばないようです。正定院は夏目漱石門下の森田草平氏が明治41年から43年にかけて下宿していました。

二軒寺

二軒寺。赤色で囲み、水色で描かれた場所が現在の岩戸町。

袋町|イチョウと旧日本出版会館

文学と神楽坂

 日本出版会館と日本出版クラブ会館は牛込城があったとされる光照寺の正面に並んで建っていました。
 日本出版クラブは、「出版界の総親和」という精神を掲げ、1953年9月に設立。1957年(昭32)、181社が参加して日本書籍出版協会を設立し、1957年8月には日本出版クラブ会館が落成。創設60周年を迎える2013年、一般財団に移行しました。
 この会館は財団法人・日本出版クラブが運営し、一般の方でもレストランや宴会場、会議室など複合施設で利用が可能でした。
 隣りにあるのは、日本出版会館。財団法人・日本書籍出版協会が入り、著作権の問題や違法コピーへの対策、読書離れなど、高度情報化社会の発展により生じる新たな問題への対応も行っていました。
 2018年、日本出版クラブはクラブ ライブラリーとして神保町に移転し、かわってマンションを建築。2023年7月、ようやく「プラウド神楽坂ヒルトップ」は落成。

出版会館

かつての出版会館。現在(2019年)は工事中。

 ここには大きなイチョウの木がたっています。その前には

新宿区保護樹木
 樹齢250年以上のイチョウの木。戦時中、焼け野原となった街にこのイチョウが焼け残っており、それを目印に被災した人々が戻ってきたといわれています。幹には戦災の時の傷(裂け目)が残っており、そこからトウネズミやケヤキが生えており、生命力を感じさせます。イチョウやシイの木は水分を多く含むため、焼失せず残った木が今も数多く区内に存在しています。(新宿区平和マップより)

 現在はイチョウの木と看板だけがあります。

 その上には、現在は何もないのですが、2013年初めまで、この土地の歴史の変遷が書いてありました。

「新暦調御用所(天文屋敷)跡」 新宿区袋町6番地

 この土地の歴史の変遷当地は天正18年(1590年)徳川家康が江戸城に入府する迄、上野国大胡領主牛込氏の進出とともに、三代にわたる居館城郭の1部であったと推定される。牛込氏の帰順によって城は廃城となり、取り壊されてしまった。正保2年(1645年)居館跡(道路をへだてた隣接地)に神田にあった光照寺が移転してきた。
 その後、歌舞伎・講談で有名な町奴頭幡随院長兵衛が、この地で旗本奴党首の水野十郎左衞門に殺されたとの話も伝わるが定説はない。享保16年(1731年)4月、目白山より牛込・麹町・虎の門まで焼きつくした大火により、この地一帯は火除地として召上げられさら地となった。明和2年(1765年)当時使われていた(ほう)(りゃく)(れき)の不備を正すため、天文方の佐佐木文次郎が司り、この火除地の1部に幕府は初めて新暦調御用所(天文屋敷)を設け、明和6年に修正終了したが、天明2年(1782年)近くの光照寺の大樹が観測に不都合を生じ、浅草鳥越に移転した。佐佐木は功により、のちに幕府書物奉行となり、天明7年85歳で没す。墓は南麻布光林寺。以降天明年中は火除地にもどされ、寬政から慶応までの間、2~3軒の武家屋敷として住み続けられた。
 弘化年中には御本丸御奥医師の山崎宗運の屋敷もあった。この時代の袋町の町名は、今に至るまで変わることはなかった。近世に入ってからこの地に庭園を構えた高級料亭一平荘が開業し、神楽坂街をひかえ繁栄していたという。昭和20年の大空襲により神楽坂一帯はすべて焼失し焼跡地となった。
 戦後は都所有地として高校グラウンドがあったが、昭和30年日本出版クラブ用地となり会館建設工事を進めるうち、地下30尺で大きな横穴 を発見、牛込城の遺跡・江戸城と関連などが話題となり、工事が一時中断した。昭和32年会館完成現在に至っている。
  2007(平成19)年1月
       平木基治記(元文藝春秋)
        ”天文屋敷とは?”……パンフレット あります。
             出版クラブ受付まで

光照寺 光照寺はここに。
定説 実際は定説があり、ないのが間違い。詳説は幡随院長兵衛について
火除地 火除地について
新暦調御用所 浅草天文屋敷について書いています
一平荘 一平荘について、巴水の絵が綺麗
高校 一平荘は税金が払えなかったため、高校に代わりました
横穴 由比正雪の抜け穴ではと大騒ぎになります。切支丹の仏像について

また『拝啓、父上様』の第10話で、こんなエピソードを書いています。

出版クラブ
  お引きめ。
  集まっている人々。
「その日は神楽坂の新年会に当たる “お引き初め”が出版クラブであり、その流れで“坂下”も忙しかった。

 テレビででたのは本当に一瞬です。

出版クラブ11

袋町|火除明地と新暦調御用所

文学と神楽坂


よけあき

 これは、江戸時代、火事の延焼を防ぎ、避難所として設けた空き地です。
 幕府は1657年の明暦(めいれき)大火以後、特に享保期(1716~1736)に、多くの火除地を作りました。
 町民の火除地では当初は防火機能だけでしたが、18世紀には次第に庶民の都市活動の場として火除地の利用は盛んになりました。
 一方、武家地に立地する火除地では馬場、御放鷹の場、官有稽古場、袋町では御鉄炮稽古場が作られていますが、眺望の良い場所以外には賑わった空間ではなかったようです。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。113頁

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。113頁。

新暦しんれき調しらべ御用屋敷

 宝暦13年(1763)、日蝕の記載に漏れがあり、明和元年(1764)、幕府は佐々木ささきもんろう天文方てんもんがたに任命し、翌2年、光照寺門前の火除明地に「新暦調御用屋敷」をつくっています。いわゆる天文屋敷です。
 明和8年(1771)「修正ほうりゃくれき」を完成しました。しかしこの天文台の木立は茂り、不都合が出て、天明二年(1782)、牛込藁店わなだな(現袋町)から浅草鳥越とりごえに移っています。

 「御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では

天文屋舗蹟
天文屋鋪蹟は地藏坂の上半町ほと西の方なり延寶の比はたゝ二軒の旗下屋敷ありし享保十年の江戶圖には屋敷はなくてたゝ明地のことくにて有しと見ゆその後佐々木文次郞といひし人 元御徒組頭なり  天文の術に長しけれは召出されやかてこひ奉りこの所に司天臺を建て天文をはかれりされとこの地は西南の遠望さはり多けれはとてその子吉田靱負の時に至り天明二年壬寅七月 或六月朔日ともいふ 今の淺草鳥越の地へうつされたり

 浅草天文台は葛飾北斎「富獄百景・鳥越の不二」にも出ています。

葛飾北斎「富獄百景・鳥越の不二」

 天文方は編暦・天文・測量・地誌・洋書翻訳を職務として、当時の学問の最先端を行く所でした。この球体は天体の角度などを測定する「渾天こんてん」から黄道環こうどうかんを取り、簡略化したもので、「簡天かんてん」といいます。

 手前の屋根の下には、天体の高度を測定する「しょうげん」があります。たぶん、牛込藁店もほぼ似たような屋敷だと思います。

『寛政暦書』 渋川景佑他編 35巻35冊 http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/exhibition/006/011.jpg

寛政暦書』 渋川景佑他編 35巻35冊