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牛込氏についての一考察|⑦牛込城の城下町

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑦「牛込城の城下町」です。

 袋町高台の西北方一帯の神楽坂四五丁目は、もとさかなといった。ここは家康入国前から兵庫町という町屋で、肴屋まであった(『御府内備考』)。江戸初期牛込に七カ村あったが、町屋になっていたのはここだけであった。
 思うに、神楽坂一帯は古い集落で、特に肴町は牛込城の城下町だったのであろう。このあたりは、地形からみて西に一段高い台地(牛込城)があり、南向きの緩傾斜地で、集落のつくりやすい所である。前述したが、ここから戸塚まで古道がある。
 水運にも恵まれている。つまり、外堀のまだなかった西谷間には市谷本村町から流れてくる川があり、飯田橋あたりの大沼という沼に流れていた。一方今の神田川も、大曲あたりの白鳥沼から大沼に流れ込んでいた。川は大沼から九段下、神田橋(上平川)、常盤橋、日本橋と流れて(下平川)江戸湾に注いでいた。
肴町 神楽坂5丁目を「肴町」と呼びました。神楽坂4丁目は「かみみや町」でした。
兵庫町 「兵庫」は「つわものぐら」「へいこ」「ひょうご」と読み、兵器を納めておく倉。兵器庫。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 肴町については
町方起立之儀は年古義にて書物無之相分不申候得共 往古武州豊島郡野方領牛込村之内有之候処 其後町屋相成御入用之砌 牛込七箇村之者とも武州川崎村ト申処迄御迎ニ罷在候由申伝候 其頃は兵庫町と相唱肴屋とも住居仕候町屋ニ御座候処 大猷院様御代御成ニ期度ニ御肴奉献上候之向後 肴町と相改候様 酒井讃岐守様モ仰渡候ニ付 夫より町名肴町と相唱申候

七カ村 小田原北条氏滅亡後、1590(天正18)年4月に豊臣秀吉の禁制に「武蔵国ゑハらの郡えとの内 うしこめ七村」とあり、また「御府内備考」でも同様な文がでています。

豊臣秀吉禁制 「新宿歴史博物館研究紀要4号」「牛込家文書の再検討」

 個々の地名は書かれておらず、「牛込7村」はこれだという文書もなく、どこの地名でもいいはずです。たとえば、大久保、戸塚、早稲田、中里、和田、戸山、高田の各村(【牛込②】牛込町)、あるいは、大久保村、戸塚村、早稲田村、中里村、和田戸山村、供養塚村(喜久井町)、兵庫町(神楽坂五丁目)の町村(東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」昭和51年。渡辺功一「神楽坂がまるごとわかる本」展望社、平成19年)を上げています。
 でも「御府内備考」の肴町では「牛込七箇村之者とも武州川島村ト申處迄御迎罷在候由申伝候其頃は兵庫町と相唱肴屋とも住居仕候町屋ニ御座候」、つまり、家康の江戸入城時には「牛込七ヵ村の住民は川崎までお迎えに出向き、その頃は兵庫町に住んでいました」。つまり牛込7村のうち1村は兵庫町という町だったのです。

戸塚地域

戸塚 戸塚地域。新宿区の中央北部に位置し高低差のある複雑な地形。江戸時代には主に農村で、明治時代になると、東京専門学校(現:早稲田大学)が開校し、学生や文化人の集まる、活気あふれる町に。
大沼 小石川大沼です。下図では水道橋の下に池が書かれています。
大曲 おおまがり。新宿区新小川町6。神田川が急に曲がっている場所
白鳥池 白鳥池は小石川大沼の上流の池でした。

菊池山哉「五百年前の東京」(批評社、1992)(色改変、一部を表現)

上平川 上流の上平川(九段下、神田橋)から下流の下平川(常盤橋、日本橋)に流れて、江戸湾に注いでいた。
常盤橋 日本橋川に架かり、公園から日本銀行側に通じる橋

 太田道灌のころは、この平川の常盤橋あたりは高橋といい、そこは水陸の便がよかったから、江戸城の城下町として賑ったものである。牛込城時代にも、この川をさかのぼって大沼まで舟が来たのであろう。こうして兵庫町は水陸の要路であり、牛込城の城下町となり、牛込城の武器製造職人もいたので兵庫町となっていたのではなかろうか。
 家康の江戸入城時、牛込七カ村の住民は川崎まで出迎えに行ったのである。三代将軍の時、家光が当地に鷹狩りに来られるたびに、町の肴屋が肴を献上したので、以後命によって兵庫町を肴町と改めたのである(『御府内備考』)。
太田道灌 室町中期の武将。扇谷上杉定正の執事。江戸築城は康正2年(1456)に開始、翌年4月に完成したという。兵法、学芸に秀で、和歌歌人だった。
高橋 千代田区の「常盤橋門跡の概要」では
 中世の常盤橋周辺は江戸前島の東岸にあたり、 のちの江戸と浅草を結ぶ街道(鎌倉往還下道)の要衝であったとされている。(中略)文明8年(1476)の「寄代江戸城静勝軒詩序」(簫庵竜統著)には、城東畔の河(平川)の「高橋」に漁船が出入りし、賑わいを見せていたことが記されている。 常盤橋と呼ばれる前は「高橋」、あるいは「大橋」(『事蹟合考』)と称されていたと考えられ、平川の河口に位置したこの地域(平川村)は、 江戸城からほど近い港として重要な位置を占めていたとされる」
家康の江戸入城 徳川家康は駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城にはいりました
川崎まで出迎え 「御府内備考」を意訳すると「御入国に関しては牛込七ヵ村の住民は武蔵むさし国の川崎村というところまでお迎えに出向きました」
肴町 同じく「徳川家光様は御治世の外出の際では魚を何回も差し上げたところ、今後は肴町と改名しろといわれ、酒井讃岐守もこの命令を伝えて、これより、町名は肴町となりました」

「江戸氏文書」室町時代

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)「1 牛込の夜明け前 (3)牛込文書と江戸氏」です。この本では『牛込文書』のうち江戸氏の文書7通について解説をしています。年代は1340年から1449年までで、室町時代にあたります。

武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)

牛込文書と江戸氏
 牛込氏の直系の子孫である、牛込本家(武蔵市西久保在住)所蔵の『牛込文書』という古文書が21通ある(東京都文化財)。この文書は中世後期(室町—戦国期)の新宿区域を、最も、具体的で正確に物語っている貴重な史料である。その古い時代のものから番号をつけると、①から⑦までが何故か江戸氏関係のものである。
 江戸氏は平安末期から鎌倉、南北朝時代にかけて、武蔵在地の武士団、武蔵七党の一つ、秩父党の分かれで、秩父重継の代から江戸庄を領として、江戸氏を名のり、代々、鎌倉幕府の家人を務め、その嫡男庶子を各地に配し、「八ヶ国の大福長者」と称されていた。以下、『牛込文書』江戸氏の項を要約すると次の通りになる。
武蔵七党 平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。
秩父党 平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一つのだま党だが、その中に秩父氏を名乗るグループがあった。例えば秩父孫次郎は北条氏綱による鶴岡八幡宮の再建に協力している。
秩父重継 平安時代末期(11世紀)の武将。武蔵江戸氏初代当主。
江戸庄 「庄」は「庄園」「荘園」ともいい、奈良時代から戦国時代までの中央貴族や寺社による私的大土地所有の形態。個人が開墾したり、他人からの寄進により大きくなった。鎌倉末期以後、武士に侵害されて衰えた。荘。
家人 かじん。家の人。家族。家臣。らい
八ヶ国の大福長者 八ヶ国とは関東。武蔵国千束せんぞく郷石浜(台東区)に着岸する交通のようしょう。東京湾内の漁船、太平洋海運で航行した西国舟が集まり、水陸交通を通じて富も集中。大福だいふくとは 非常な金持。

 似た文章は他にありまして、武蔵野ふるさと歴史館の「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)です。やはり「江戸氏文書」だけの前書を書いています。

 鎌倉幕府滅亡後、内乱が全国に及ぶと武蔵国でも南朝と北朝による戦乱が起こり、武蔵国の武士も多く参陣し、武功を挙げました。暦応2年(1339)に高師冬が関東執事に任命され、足利義詮の下で北畠顕家の追討にあたります。顕家の関東撤退後、義詮、鎌倉公方足利基氏により関東支配が進められますが、師冬、上杉憲顕の両執事の対立や関東管領畠山国清の追放の後、鎌倉公方 (基氏系譜)を関東管領上杉氏が補佐するという形で関東での内乱は終息することとなります。
 暦応3年(1340)、牛込郷の名が史料上初めて登場します。この時、鎌倉幕府滅亡後に幕府に仕えていた武士の没収地である荏原郡牛込郷の支配を足利方についた江戸近江権守が任されます。また、『鎌倉大草紙』によれば、応永23年(1416)に勃発した上杉禅秀の乱において江戸近江守が参戦し戦功を挙げるも討ち死にしたことが記されています。その後、応永30年(1423)には、豊島郡桜田郷内の沽却地(売地)を江戸憲重が取得します。こうした所領の給与は、戦に参戦し戦功を挙げた際に得られることも多く、中世の武士にとって、主君の戦に従い戦功を挙げることは名誉であり、生きる道でもあったのです。
 江戸氏はその後も代々の鎌倉公方との関係を構築していたようで、足利成氏、政氏にそれぞれ酒樽や鯛などを送っている様子がうかがえます。また武蔵平一揆による江戸惣領家の没落、永享の乱、享徳の乱における江戸氏庶流の鎌倉公方・古河公方方への参陣の様子から、江戸氏の衰退および牛込・桜田郷への支配権の喪失も関東における戦乱の中で起こったものと考えられます。

 では、文書を開いてみます。

「足利義詮御教書」暦応3年(1340)
 時代は室町幕府創設直後、当時の鎌倉府の義詮(尊氏長子)が執事のこうのもろふゆに命じて、江戸氏の所領であるいも郡(現埼玉騎西町)の替地として、荏原郡牛込郷けつ分(所有者のない知行地)を与えたものである。恐らく、鎌倉幕府滅亡から室町幕府成立期の混乱時に牛込郷は不知行地になっていたのであろう。

 この本文は一瀬幸三氏のものですが、他に[A] 矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)と、[B] あれば新宿区役所の「新宿区史」(昭和30年)[C] 武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)、[D] 新宿区教育委員会「新宿区文化財総合調査報告書(1)」(昭和50年)も加えています。文書①から⑦までの数は一瀬幸三氏の数字です。

① [A] 武蔵国守護の高師冬が鎌倉公方足利義の意を奉じて、江戸近江権守に崎西郡芋茎郷に替えて、闕所となっていた荏原郡牛込郷(現新宿区)を預置くことを通達している。牛込郷の初見史料である。暦応の年号を持つが、全体的な筆勢・花押共に弱い。(矢島氏)

「高師冬奉書」暦応3年8月23日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

① [B] この文書によると、江戸近江権守は今まで持つていた崎西郡芋茎郷が何らかの理由で没収されることになり、その替所として牛込郷が闕所になつていたので、それを足利氏から貰ったことが分る。従つてこれによると、本区牛込がはじめて史上に明文を見、江戸氏の領地になつたことを知るのである。しかし鎌倉時代の節に述べた如く、江戸氏は古くから本区と関係があると思われ、江戸近江権守が牛込を領したのが、江戸氏の本区支配の最初であつたとは思われない。逆に暦応に牛込の闕所地を江戸氏が領したのは、古くから縁故の土地であったためではなかろうか。(略)
 江戸氏が室町時代に於いて足利氏の配下にあったことは「太平記」、「後鑑」に見えるが、更に曆応3年の「牛込文書」によると、江戸氏は高師直の息参河守師冬の配下に属していたのではないかと思う。そうすると師冬は当時下総・常陸にいた南朝の軍と戦っていたのであるから(保暦間記・後鑑)、江戸氏もその軍に加わっていたのではあるまいか。その後、貞和5年に尊氏の息基氏が関東に下り、関東管領となったが、基氏はその時僅か十歳であった。そのため師冬はその補佐にあたっていた。従って江戸氏も亦自然基氏に属することになったらしい。(新宿区史)
① [C] 前年に関東執事に就任し、関東平定を推し進めた高師冬が足利義詮の意を奉じた文書。冬軍には多くの武蔵・相模国の中小武士らが従いましたが、長期の戦闘に疲弊し帰国を希望する者もあったといい、高幡不動本尊像内文書(国指定重要文化財 日野市・金剛寺蔵)には参戦した武士の実態が記されています。江戸氏も冬に従い戦功を挙げたと考えられ、本文書はその際の戦功として牛込郷の領有を認められたものです。(武蔵野ふるさと歴史館)
① [D] 鎌倉公方の足利義詮(尊氏の子)が、執事高師冬に命じて、江戸氏に芋茎郷(現騎西町内)の替地として、牛込郷の欠所分(不知行地)を付与したもの。宛名の江戸氏は庶流で名は不明。牛込郷のみえる最初の史料であり、荏原郡に属していたことも明らかである。(新宿区文化財総合調査報告書)

闕所 けっしょ。中世、没収や、領主が他に移ったりして、知行人のいない土地。闕所地。
預置く 預け置く。あずけおく。人や物を他の人に託して、保管・管理を任せる。

② 「前遠江守打渡状」応永30年(1423)。
③「一色持家書状」応永33年(1426)
 この書からは、当時の幕府管領と鎌倉府の対立状態が鮮明にわかってくる。

② [A] 前遠江守有秀が江戸憲重に対し、施行状の通りに豊島郡桜田郷の沽却地を打ち渡している。発給者の有秀の名字は未詳だが、署名・花押が小さいことから鎌倉府の奉行人クラスの存在と推定される。(矢島氏)

「前遠江守打渡状」応永30年11月21日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

沽却地 こきゃくち。「沽却」は売り払う。売却。沽却された土地。売買の対象となる土地。
② [C] 江戸憲重が桜田郷内の沽却地(売地)を与えられた際の打渡状。室町時代の武蔵国においては、鎌倉公方の命令により遵行を命じる奉書が作成されると、守護・守護代は遵行状(伝達命令文書)を作成しこれを取り次ぎ、遵行使を派遣して知行人に証状として打渡状を交付しました。応永23年(1416)の上杉禅秀の乱後に、足利持氏方についた武士らの還補(何らかの理由で失った土地を取り戻すこと)が認められており、桜田郷は以前から江戸氏が領有していたため、本文書も桜田郷の一部を江戸氏に還補された際のものと考えることもできます。(武蔵野ふるさと歴史館)
② [D] 江戸憲重の買得地である豊嶋郡桜田郷の下地を、江戸上野入道を証人として憲重に沙汰するという内容。(新宿区文化財総合調査報告書)


③ [A] 甲斐守護武田長と鎌倉公方足利持氏の合戦に関わるものである。鎌倉府奉公衆で武田信長討伐軍の総大将であった一色持家が、甲斐国田原(現山梨県都留市)に在陣中の江戸憲重の労をねぎらい、足利持氏に戦功を注進する旨を伝えている。端裏には切封墨引があるが、線に勢いがなく、切封の上に墨を引いた跡というより点を二点打ったような書き方になっている。(矢島氏)

「一色持家書」7月26日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

③ [B] 関東管領の下にあった刑部少輔一色持家から、長い間の在陣の労を謝し、忠節をつくしたことに対する感謝状がある。これが何時のもので、何処で誰と闘つたものか明確を欠いている。(新宿区史)
③ [C] ④号文書と関連する文書で、一色持家が応永33年の武田信長征討における江戸憲重の在陣の労をねぎらい、その忠節を足利持氏に報告するという旨を伝えた文書。持家の注進により④号文書が発給されました。(武蔵野ふるさと歴史館)
③ [D] この年(1426)6月に、鎌倉公方足利持氏は、甲斐の武田信長を攻めるため一色特家を遣わした。この文書は、従軍した江戸憲重の忠節を、持家が持氏に注申すると約束したもの。(新宿区文化財総合調査報告書)

④ 「足利持氏感状」応永33年(1426)。
⑥ 「足利成氏書状」。
⑦「足利政氏書状」。
 ⑥、⑦は共に年末詳。以上の三通の文書から、江戸氏は鎌倉幕府時代から御家人であり、終始、鎌倉府方に属し、やがて、その後引き起された「永享の乱」(1439)にも公方に従い、江戸を離れ、常陸へ移り、自ら衰亡の結果をつくっていった。

④ [A] 足利持氏が一色持家の注進を受けて憲重の田原での戦功を賞している。これは前者を受けて発給されたものである。全文一筆と思われるが、持氏の花押のバランスが悪く、寸法もやや大きい。筆跡も応永期より下ると思われることから、写と判断した。(矢島氏)

「足利持氏感状」応永33年8月11日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

④ [B] 関東管領足利持氏からの感状がある。多分この二通の文書(③と④)は関係のあるものであろう。そうすると江戸氏が戦っていたのは甲州田原の戦争であったことが分る。(新宿区史)
④ [C] 鎌倉公方足利持氏が江戸憲重に与えた直状。持氏が自らの花押を据えて戦功があった憲重に与えた文書で、直状のなかでも戦功に対する賞を述べるものは感状といいます。「田原陣」は甲斐国都留郡にあった田原郷をさし、持氏に従わない武田信長を一色持家率いる軍勢が征討にあたりました。憲重は持家に従い参戦しており、江戸氏と鎌倉公方との主従関係をうかがうことができます。(武蔵野ふるさと歴史館)
④ [D] 足利持氏も自ら甲斐国田原に出陣し、一色持家の注申に従って、江戸憲重の戦功を賞した。武田長は8月25日に征圧された。(新宿区文化財総合調査報告書)

⑥ [A] 足利成氏が江戸越後守に宛てた書状で、酒等の贈答品に対する礼を述べている。江戸越後守は憲重・重方の一族と思われるが、実名は判らない。この文書に据えられた成氏の花押はバランスが悪いうえに重ね書きをしていることから、写の可能性がある。(矢島氏)

「足利成氏書状」12月11日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

⑥ [C] 江戸越後守が酒樽などを贈答したことに対する足利成氏の礼状。成氏は足利持氏の子で、永享の乱により滅亡した鎌倉府を再興した人物です。成氏が対立する関東管領上杉憲忠を殺害したことがきっかけとなり、およそ30年にわたる享徳の乱へと発展します。乱勃発後まもなく成氏は鎌倉を奪われ、下総国古河に拠点を移しました。江戸城などを奪取した上杉氏は武蔵国からも多くの武士を動員しています。本文書は発給年代が不明であり、江戸氏が享徳の乱の最中に上杉と鎌倉・古河公方のどちら方で活動していたかは定かではありません。(武蔵野ふるさと歴史館)
⑥ [D] 成氏は持氏の子で、康正元年に古河に入り、文明末年まで家督していたのでその間のもの。榼(酒だる)到来の礼状。江戸氏が古河公方に従っていたことを示すものである。(新宿区文化財総合調査報告書)

⑦ [A] 足利政氏から江戸越後守に宛てた、鯛などの贈答品に対する礼状である。この鯛は、憲重・重方が桜田郷に所領があったことから、桜田郷の海辺から納められた可能性が高い。また裏書の記載から、牛込氏の分家に際しては江戸氏文書も分割して相続されていたことがうかがえる。(矢島氏)

「足利政氏書状写」12月9日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

⑦ [B] 該文書は基氏が江戸氏から贈物をもらつたのでその礼の手紙である。この文書が何時頃のものか年号がないので分らないが、基氏は「後鑑」巻34貞和5年(1349)10月26日の条を見ると、『是月、以将軍家次子亀若丸鎌倉管領、以上杉越後憲顯、高三河守師冬執事』とあって、貞和5年僅か10歳で鎌倉に降り、関東管領となっているから、それから彼が死んだ貞治6年(1367)まで約20年の間のものであろう。(新宿区史)
⑦ [C] 古河公方である足利政氏から江戸越後守の鯛など贈答に対して送られた礼状。政氏は延徳元年(1489)に足利成氏から家督を譲られます。本文書の発給年代は不明ですが、江戸氏が古河公方と主従関係があったことがうかがえます。(武蔵野ふるさと歴史館)
⑦ [D] 政氏は成氏の子。長享2年頃家督し、永正12年まで文書がみられる。鯛到来の礼状。(新宿区文化財総合調査報告書)

⑤ 「江戸憲重譲状」文安6年(1449)。<
clear=”left” /> 江戸氏内部で、所領の桜田郷、牛込郷の一部を憲重から江戸重方に譲渡するという内容であり、江戸氏が牛込の地を領有していたことを示す最後の文書である。

⑤ [A] 江戸憲重が同重方に対し、桜田知行分・牛込郷からそれぞれ5貫文、手作分などを譲り渡す旨を記した譲状である。これより重方は憲重の子息と考えられる。重方は既に文安元(1444)年に牛込赤城大明神(現赤城神社)に大般若経を奉納しており、これ以前から牛込郷の支配に関わっていたと思われる。この文書は全文一筆だが、筆勢・花押ともに大変弱く、写の可能性も否定できない。(矢島氏)

「江戸憲重詫状」文安6年5月15日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

⑤ [B] この二つの文書(②と⑤)により、江戸憲重が牛込・桜田の両郷を領有していたことを知る。更に又以上の文書よりして江戸近江権守と江戸憲重は父子か孫の関係ではあるまいか。江戸重通・江戸淡路守・江戸房重・江戸近江権守は同時代の人物と思われるが、「江戸氏系図」にも名前がなく横の関係は分らない。しかしこれ等江戸氏はいずれも一族であり、鎌倉時代の江戸氏の正統を継ぐものであろう。江戸氏は主として、桜田・牛込・浅草を中心とした地域に拠をしめ、その庶流は室町初期の頃までには更に拡がっていたらしい。(新宿区史)
⑤ [C] 江戸憲重が江戸重方に桜田知行分と牛込郷からそれぞれ5貫文と手作(直営の耕作地)等を譲与する旨を記した文。重方は、文安元年(1444)には牛込郷の鎮守である赤城神社(現新宿区早稲田鶴巻町)に大般若経600巻を奉納しており、この頃には牛込郷の知行にも関わっていたと思われます。そのため重方は憲重の嫡子と考えられます。(武蔵野ふるさと歴史館)
⑤ [D] 江戸憲重が知行地の全部を重方に譲与するというもの。とくに桜田郷の内の年貢五貴文と牛込郷の内の年責五貫文とが中心であり、このほか手作地(屋敷まわり)なども重方に譲与するというもの。年貴高反当り500文として、両郷で二町の土地になる。(新宿区文化財総合調査報告書)

 以上、7通の解説を読んでみました。①②⑤は領有地に関する問題で、他は戦功の感謝や酒や鯛を送ったことに対するお礼です。

暦応3年13408月23日① 鎌倉公方足利義詮は北埼玉芋茎郷の替地として江戸氏に牛込郷を付与。
応永30年142311月21日② 江戸氏が桜田郷を領有していたことが判る。
応永33年14267月26日③ 一色持家から江戸憲重氏の忠節を足利持氏に報告する。
応永33年14268月11日④ 関東管領足利持氏から武田氏との戦で江戸氏は感状を貰う。
文安6年14495月15日⑤ 江戸氏が桜田郷のほか牛込郷を領していた。
12月11日⑥ 足利政氏から江戸越後守に宛てた、鯛などの贈答品に対する礼状
12月9日⑦ 足利成氏が江戸越後守に贈った酒等の贈答品に対する礼

牛込の夜明け前。牛込要図。「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)(緑色は当方の追加)

牛込城の城下町|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」(三交社、1972年)「牛込地区 11.牛込城の城下町」では

牛込城の城下町
      (神楽坂五丁目)
 毘沙門様の先に左折するがあるが、そのあたり一帯は、肴(さかな)町といっていた。家康入国以前から兵庫町という町屋で、肴屋まであった。江戸初期には牛込に七つの村があったが、町屋になっていたのはここだけであった。
 思うに、神楽坂一帯は古い集落であって、特に肴町はあとで案内する牛込城13参照)の城下町だったのであろう。このあたりは、地形からみて、西部に一段高い台地(牛込城)があり、南向きの緩傾斜地で、集落のつくりやすい所である。
 水運にも恵まれている。つまり、外堀がまだ造られなかったころ、その谷間には川が流れていた。そして飯田橋あたりは大沼という沼地で、その川はこの大沼に流れていた。大沼には、神田川も流れこんでいた。大沼からは、九段下、神田橋(上平川)、常盤橋、日本橋と流れて(下平川)江戸湾に注いでいた。太田道灌のころは、常盤橋あたりは高橋といい、そこは水陸の便がよかったから、江戸城の城下町としてにぎわったものである。
 牛込城時代にも、舟がこの川をさかのぼって大沼まで来ていたことであろう。揚場町は荷物の揚場であるが古くは船河原であり、今でも南に町名が残っており、船のとまる場所から名づけられたものである(市谷16参照)。
 この城下町には、この水運によって海産物はじめ諸物資が運び込まれてきたのであろう。その上ここは戸塚に通じている古い交通路の通っていた所である(戸塚28参照)。こうして兵庫町は水陸の要路であり、牛込城の城下町となり、牛込城の武器製造職人がいたので名づけられた町だったのではあるまいか。
 前にのべた行元寺は、この城下町の人たちの菩提寺でもあったのであろう。
 家康の江戸入城時には、牛込七ヵ村の住民は川崎までお迎えに出向いたものである。
 三代将軍の時、家光が当地に鷹狩りに来られるたびに町の肴屋が肴を献上したので、以後命によって兵庫町を肴町と改めたのである。昭和26年5月1日神楽坂五丁目となった。
〔参考〕御府内備考 五百年前の東京 牛込氏についての一考察 東京都社寺備考

 藁店わらだなか同じく地蔵坂
七つの村 小田原北条氏滅亡後、1590(天正18)年4月に豊臣秀吉の禁制に「武蔵国ゑハらの郡えとの内 うしこめ七村」とあり、また「御府内備考」でも同様な文がでています。

豊臣秀吉禁制 「新宿歴史博物館研究紀要4号」「牛込家文書の再検討」

 個々の地名は書かれておらず、「牛込7村」はこれだという文書もなく、どこの地名でもいいはずです。たとえば、大久保、戸塚、早稲田、中里、和田、戸山、高田の各村(【牛込②】牛込町)、あるいは、大久保村、戸塚村、早稲田村、中里村、和田戸山村、供養塚村(喜久井町)、兵庫町(神楽坂五丁目)の町村(東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」昭和51年。渡辺功一「神楽坂がまるごとわかる本」展望社、平成19年)を上げています。
 でも「御府内備考」の肴町では「牛込七箇村之者とも武州川島村ト申處迄御迎罷在候由申伝候其頃は兵庫町と相唱肴屋とも住居仕候町屋ニ御座候」、つまり、家康の江戸入城時には「牛込七ヵ村の住民は川崎までお迎えに出向き、その頃は兵庫町に住んでいました」。つまり牛込7村のうち1村は兵庫町という町だったのです。
城下町 室町時代以降、武将・大名の城郭を中心に発達し、武士団や商工業者が集住した町
大沼 小石川大沼です。下図では(すいとうばし)の下に池が書かれています。

江戸図「千代田区史 上」千代田区役所。昭和35年

 菊池山哉氏の「500年前の東京」(批評社、1992)は

「後楽園の南半部から三崎町の西へかけて余り深くはないが20尺程度の池がある。後楽園の台地と神楽坂方面の台地とは飯田橋と大曲りの橋の間で陸続きになっている。其の上流小日向の台地と牛込の台地との間の一大盆地が白鳥池である。
 江戸川が流れ込み、末はドン/”\橋で小石川の大沼へ入り小石川の流れを合せて再び平川となつて、一ツ橋から常磐橋へ流れ、末は日本橋川となって江戸橋で東京湾へそぞく」

500年以前江戸城 菊池山哉「500年前の東京」(批評社、1992)

上平川 下平川 15世紀には、現在の江戸城平川門周辺に、上平川村と下平川村の2村があり、推測の域から出ないのですが、上平川村は平川門の北側付近、下平川村は江戸城大手門から東京駅周辺とされます。また、平川門の上下に分けて、平川は上平川と下平川に分かれました。
常盤橋 常盤橋公園から日本銀行までの日本橋川に架かる橋

太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。
高橋 平川の河口には大きな橋(「高き橋」「高橋」)がかかり、港町として大賑わいでした。ちなみに、江戸という地名も平川に由来します。「江」とは大きな川、つまり平川で、「戸」とは戸口、河口のこと。平川の河口が江戸になりました。
戸塚 大正3年(1914年)1月1日に町制施行し、戸塚町になり、昭和7年(1932年)10月1日、東京市編入時に大字下戸塚は戸塚町一丁目になり、大字源兵衛は戸塚町二丁目、大字戸塚は戸塚町三丁目と四丁目、大字諏訪は諏訪町になりました。1975年(昭和50年)まで変わりませんでした。

兵庫町 兵庫は兵器の倉庫(武器庫)に由来。
武器製造職人 刀の製作では鉄師、とうしょう(刀鍛冶、刀工)、研ぎ師、彫師や研磨師、鞘師といった複数の職人が必要でした。
菩提寺 ボダイジ。先祖代々の墓や位牌をおき、葬式や法事を行う寺。檀那だんな寺。家単位で1つの寺院の檀家となり、墓をつくること。
家康の江戸入城 駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城にはいりました。
牛込七ヵ村の住民…… 「牛込町方書上」肴町の項で、村から町に変わったと延べ、つづいて「御入国之砌、牛込七ヶ村之者共、武州川崎村と申所迄御迎二罷出候由申傅候」と書いてきます。つまり「御入国に関しては牛込七ヵ村の住民は武蔵むさし国の川崎村というところまでお迎えに出向きました」

牛込町方書上 肴町

兵庫町を肴町と 同じく「牛込町方書上」肴町の項で、「大猷院様御代、御成之都度々々御肴奉献上候、仍之向後肴町と相改候様、酒井讃岐守様被仰渡候二付、夫ゟ町名肴町と相唱申候」と書かれ、大猷院様とは徳川家光のこと、ゟは合字の「より」。「徳川家光様は御治世の外出について、しばしば魚を差し上げたところ、今後は肴町と改名するといわれ、酒井讃岐守もこの命令を伝えて、これより、町名は肴町となりました」
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。

光照寺(写真)昭和27年頃 ID 9496

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9496は、昭和20年代後半、こうしょうを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9496 光照寺

 光照寺は、新宿区袋町の浄土宗の寺院で、増上寺の末寺。正式には樹王山正覚院光照寺といいます。
 手前の車道の舗装、参道の敷石はいずれもかなり荒れています。
 左手に文化財の木札があります。残念ながら本文は読めません。

新宿区文化財
史跡
 牛込城址
(不明)
昭和二十七年

新宿区役所

 ちなみに1972年(昭和47年)9月21日に田口重久氏は「歩いて見ました東京の街」のなかで写真を撮っています。

田口重久「歩いて見ました東京の街」05-02-34-1

 20年を経ていますが塀や敷石、門柱は同じもののようです。新宿区の木札はより詳細な説明になりました。現在は、すべて一新されています。

田口重久「歩いて見ました東京の街」05-02-34-2

旧跡 牛込城跡
 牛込氏の居城地は袋町北部の大部分であるが、大切な部分は光照寺境内である。
 戦国時代の天文6年(1537)前後のころ、小田原の北条氏は群馬県赤城山ろくの大胡城主大胡重行を招き、牛込に住わせた。大胡氏はここに牛込城をつくって住むことになったが、城といっても大勢の家来と住む平山城の居館地であったろう。
 その規模は西は南蔵院に通じる道、北は都電通りの崖、東は神楽坂に面した崖、南は境内南の崖で、舌状半島の台地の尖端部である。大手門は神楽坂にあり、裏門は西の南蔵院に通じる道にあった。牛込家の居館は光照寺境内北部にあったようである。
 大胡重行の子勝行は、天文24年(1555)正月6日に姓を牛込と改め、小田原氏の重要家臣となり、赤坂、桜田、日比谷あたりまで領していたが、北条氏が滅亡したあとは、徳川家の家臣となり、館は廃止された。今の光照寺は正保2年(1645)神田から移転したものである。
  昭和43年1月
新宿区

神楽坂|兵庫横丁 と 兵庫町…想像図なんです

文学と神楽坂

 兵庫はひょうごだと兵庫県でいいのですが、へいこ、ひょうご、つわものぐらだと兵器を納めておく倉、兵器庫になります。では兵庫横丁と兵庫町は? 新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」では……

神楽坂五丁目

 神楽坂三・四丁目の西側、大久保通りまでの地域で、神楽坂の両側に広がる。江戸時代は武家地の他、神楽坂の両側および現大久保通りに面した横町の計五か所に分かれて牛込うしごめ肴町さかなまちが、神楽坂の北側に行元ぎょうがん門前もんぜんおよび寺地があった。

牛込肴町 家康の関東入国以前からの町屋で、はじめ兵庫ひょうごといったがその起立は不明。古くは豊島郡野方領牛込村内にあった村が、その後町屋になつたという。家康江戸入りの際には既に兵庫町と唱え、当時から肴屋が多く住む町屋だった。三代将車掌光の時代 家光御成のたびごとに肴を献上したため、今後は肴町と改めるよう酒井出居から仰せ渡され 町名を肴町とした(町方書上)。兵庫町という名称は、牛込城下にあることから、武器倉庫や武器職人があったためではないかという説がある。(町名誌)

肴町が5つの町に

安政4年(1857)『市谷牛込絵図』(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)から

 つまり、兵庫町から肴町に変わり、だから神楽坂五丁目なんだ、でまあ、いいと思います。

 ところが、兵庫横丁は、神楽坂五丁目ではなく、神楽坂四丁目なのです。四丁目なのに、どうして? はっきりいって、わかりません。だって、長いこと住んでいた人も「ここは兵庫横丁というんだ」と初めて知った人もいます。いまでは相当の人が知っていますが……

 ただひとつ、下図が頭に張り付いているのでしょう。でも、これは想像図ですよ。大手門も兵庫町もここでは空想で、いわば嘘です。しかも、神楽坂四丁目は江戸の昔は大きな家が建っていて、道路はありませんでした。江戸より前はまったくわかりません。

 想像図は楽しいので、おおいに出るといいと思います。しかし、区がわからないという場合、わからないのでしょう。でも、でも、ここは私道です。想像図も大歓迎です。

 ただし、想像だとはっきりいったほうがいいとは思います。また、兵庫町=肴町も正しい。でも、下図の「兵庫町」は正しいこともありえますが、現段階では空想の1つです。なお、原図は新宿区郷土研究会の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、1987年)で、新宿区の図書館や国立国会図書館から借りることができます。牛込城の想像図

毘沙門横丁|路地

文学と神楽坂

「毘沙門横丁」は5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱UFJ銀行の間にある小さな路地です。名前についてはここで。すこし行くと石畳が現れます。
石畳 毘沙門横丁
 この通りは2つ路地があり、どちらも石畳で覆っています。最初の路地はここです。なにもなそうですが、昔はこの路地も料亭が一杯で、以前はどちらも大量の料亭がありました。
 2本のうち、先が行き止まりの路地を「ひぐらし小路」(場所はここ)と名付けようと、『ここは牛込、神楽坂』は提案しています。理由は「なんか夏になると、ひぐらし蝉が鳴くような気がして」。石畳(ひぐらし小路)

 このまま道を辿っていくと道は左に曲がります。この正面はアフリカ料理(でした。転居。)現在は「西洋バル フルール フィオーレ」に変わりました。松ケ枝があったマンション 右側にはマンションがあります。このマンションに以前の料亭松ケ枝まつがえがありました。この料亭の創業は明治38年。昭和50年代にこの料亭はなくなり、現在はこのマンションに変わっています。
 左に曲がると、路地は「出羽様下」に変わります。

 

神楽坂附近の地名。明治20年内務省地理局。新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

内務省地理局(上図、新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』「神楽坂付近の地名」45頁。1970年)では「出羽様下」と書いています。『ここは牛込、神楽坂』の竹田真砂子の「振り返れば明日が見える」では同じようなことを書いていますが、違う点もあり、松平出羽守は宮坂金物店(今のお香の店「椿屋」)の横丁を入った所に屋敷を構えて、この辺りを「出羽様」といったそうです。
 松平出羽守は明治7年の「東京大小區分絵図」(1874年、下図。新宿区「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」298ページを参照)では本多家に並ぶ大きさがありました。

明治7年の神楽坂