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揚場町|町方書上と御府内備考

文学と神楽坂

揚場町・現代

揚場町・現代

 揚場あげばちょうは新宿区北東部にある町名で、飯田濠に面した荷揚げ場があったので、この名前になりました。
 文政9年(1826年)の「町方書上」の揚場町です。「相」という言葉が出てきますが、「相成る」「相変わらず」と同じで、意味は「語勢や語調を整える。意味を強める」ものです。

新宿近世文書研究会『町方書上 牛込町方書上』平成8年。

新宿近世文書研究会『町方書上 牛込町方書上』平成8年。非売品。新宿区立図書館。

牛込揚場町
一 御城之方り、弐拾七町
一 町方起立之年代、草分人之名書留無御座分り不申候得共、往古武州豊嶋郡野方領牛込村之内有之候處、年月不知武家方御屋鋪相成、其後追々拝領町屋相渡、神田川附而山之手諸色運送之揚場相成候付、町名揚場町相唱申候
[現代語訳]牛込揚場町
一 江戸城からは北西の方角で、およそ3kmぐらい
一 町成立の年代や成立時の人々の名前は書きとめはなく、不明ですが、昔は武蔵国豊島郡野方領牛込村の中にありました。年月はわかりませんが、初めに武家方の御屋敷がでてきて、その後、だんだんと拝領町屋もでできました。神田川の側であり、山の手で種々の品物を運送するのが揚場になりました。町名も揚場町といいます。

書上 かきあげ。特定の事項を調査して、下位から上位の者や機関に上申すること。その文書。
 より。平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた合字平仮名(合略仮名)
 い。北西よりやや北寄り。北西微北。北から東回りで330°
 新字体は「当」
 おおよそ。ほぼ。大体。
弐拾七町 27町。約3km。
起立 きりつ。都市などを建設すること
草分人 くさわけにん。草分は、江戸時代、荒れ地を開拓して新しく町村を設立すること。従事した者や設立当時からの住民を草分町人や草分百姓という。
書留 書き終える。書きとめる。
無御座 ござなく。ありません。ございません。「無し」の尊敬語、丁寧語。
 動詞に付いて、語勢や語調を整える。意味を強める。
不申候 〜と言いませんでした。
候得共 そうらへども。ではありますが
武州 武蔵国の別称。
豊島郡 武蔵国と東京府にあった郡。概ね千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、練馬区の区域
野方領 地名に武蔵野のように野がつくところが多く、まとめて野方と読んでいた。豊島郡のうち牛込村から吉祥寺村までの広範な部分。
屋鋪 やしき。屋敷。
追々 おいおい。これから徐々に。時間が経つにつれて。だんだんと。
諸色 諸式。いろいろな品物。いろいろな品物の値段。物価。
 しこうして。しかして。そして。順接を表す語。しかも。しかるに。それでも。逆接を表す語。

 次は文政12年(1829年)の「御府内備考」の揚場町です。ほとんど同一なので、訳はしません。

揚場町

(左図)御府内備考。第53~55巻。牛込1~3。揚場町。(右図)大日本地誌大系。第3巻。御府内備考巻54。どちらも国会図書館。

一 町方起立の年代草分人の名書留等無御座相分不申候得共往古武州富島郡野方領牛込村の内に有之候處年月不知武家方御屋鋪に相成共後追々拝領町屋に相渡神田川附に而山の手諸色運送の揚場に相成候に付町名揚場町と相唱申候

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。

神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考1

文学と神楽坂

「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」は江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏が書いたもので、新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)に載っています。
 はい、間違いがあるのです。最初は極めて正しいのですが……

 神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考
 往古の牛込の地域とは、どこからどこまでであったという事は定め難い。
 武蔵の国の、その中の一地域が牛込村で、強いていえば小石川と四谷の間の高陵、もっと縮めていえば江戸川流域に沿った小日向と市ヶ谷台との間の地域が、つまり牛込氏(大胡氏)が砦らしき館を築いた光照寺あるいは行願寺の辺り、つまり牛込御門内外(まだ江戸城の外濠は開さくされない時分から)と神楽坂を中心として早稲田、戸塚辺までが牛込であるといえる。
 小田原北条氏麾下に、大胡氏が牛込氏となって牛込城を築いた神楽坂上が、牛込氏の本拠であった事は確かなる事実といえる。この事は前掲牛込城址の項にと述しておいたので、ここでは重記することになるのであえて記述しない。この牛込について“御府内備考”の総説を摘記しておくと、

武蔵国 むさしのくに。東京都、埼玉県、神奈川県の一部
牛込氏 淵名兼行の孫・重俊が上野国赤城山南面の勢多郡大胡に城を築き、大胡氏と称した。戦国時代、重俊から十代の孫・大胡重行の子勝行にいたって、小田原北条氏三代の氏康に招かれ、江戸牛込に移り住み、以後牛込氏と称した。
開さく 開鑿。かいさく。土地を切り開いて道路や運河などを通すこと。
麾下 きか。将軍じきじきの家来。旗本。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。

 これからは国立国会図書館デジタルコレクションの御府内備考を直接使います。ただし、「が」や「ど」などの濁音や、「、」「。」などの句読点は補っていて、また割注という一行の中に二段構えで表示する補注も補っています。
 まず牛込の「込」は、「牧」の和字で、牛が「多く集まる」という意味。次は16世紀で、大胡氏を牛込氏に変更したことが書かれています。これも全く正しいのですが。以下は「御府内備考」を直接引用します。

御府内備考

御府内備考

 総説
此所は往古武蔵野の有し所にて牛多くおりしかはかくとなへり。駒込村 初に出  馬込村 荏原郡に 馬込村あり 等の名もしかなりと 南向茶話 。さもありしならん。江戸古圖にも牛込村みへたり。中古上野國大胡の住人大胡彦太郎重治といひし人當國にうつり 年時を 詳にせず 此豊島郡牛込村にすみ小田原の北條に属せり。その子宮内少輔亜行天文十二癸卯年の秋七十八歳にして卒す。その子宮内少輔勝行が時に至り天文廿四乙卯年 弘治元年なり 五月六日、北條氏康に告て大胡を改めて牛込氏となれり。此時氏康より判物を賜ひ江戸の内牛込村今井村 今赤坂にあり 櫻田村日尾村 今の日比谷なり  を領せり 他国の領地は略せり  勝行天正十五丁亥年七月廿五日卒すとし八十五歳 牛込系図北條分限帳を見るに江戸牛込六十四貫四百三十文の地を大胡某領せしよし載す。


往古 おうこ。おうご。過ぎ去った昔。いにしえ。
武蔵野 武蔵野台地。荒川と多摩川に挟まれた関東平野南西部の洪積台地の通称。

125,000デジタル標高地形図

125,000デジタル標高地形図 http://www.gsi.go.jp/kanto/kanto41001.html

 まき。馬や牛を放し飼うために区画された地域。
南向茶話 国立国会図書館デジタルコレクション「戯作六家撰」を引くと、 岩本佐七「燕石十種」(国書刊行会、明治40年、国立国会図書館オンライン)が出てきます。この354コマのうち254コマに「南向茶話」左下に「牛込之名目は風土記に相見え不申候へども舊き名と被存候凡て當国は往古嚝野の地なれば駒込馬込(目黒邊)何れも牧の名にて込は和字にて多く集る意なり」と書いてあります。
上野国 現在の群馬県。
大胡彦太郎重治 新宿区赤城元町にある赤城神社については、鎌倉時代の上野国(群馬県)赤城山麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治は、正安2年(1300年)、牛込早稲田田島村に赤城神社の分霊を祀ったといいます。
宮内少輔 くないしょうゆう。従五位下の官位。宮内長官は1人、宮内大輔は1人、宮内少輔は1人で、宮廷の修繕、食事、掃除、医療など庶務を務めた。
天文十二癸卯年 1543年
卒す しゅっす。死ぬ。特に皇親や四位・五位の人の死で。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代相模国の戦国大名。1515~71年。
北条分限帳 相模の戦国大名北条氏康が作らせた、一族・家臣の役高を記した分限帳。

「牛込方」の一部は麹町にはいっているのではと、磯部鎮雄氏は指摘します。しかし、そうではなく、単に神楽坂一丁目と二丁目の発展を描いているだけです。個人の名前が出ていますが、全員、神楽坂の南に出ている名前です。

正保年中江戸絵図

正保年中江戸絵図。正保元年(1644)頃の図

 新見隨筆に云、昔は牛込の御堀もあらで、四番町にて長坂血槍、須田久左衛門なとの並びの屋敷をさして番町方といひ、牛込かたは小栗半左衛門、間宮七郎兵衛、都筑叉右衛門などのならびを牛込といへり[1]。その間の道幅百間に餘りし故。牛込かたと四番町の間、ことの外廣く草茂りて夜ことに辻切など云ことあり[2]、その後丸毛五郎兵衛、中根九郎兵衛などいへる小十人をつとめし人、小栗、間宮を屋鋪の前の方に居宅を給ひ、鈴木次右衛門、松平所左衛門、小林吉左衛門などおしならびて市が谷の田町へつゞきし故、道幅もおのづとせばまり七十四間といふになれり。そのころ牛込の御門もいできしなり。

小栗半左衛門、間宮七郎兵衛、都筑叉右衛門 名は違いますが、姓は同じものが、下図で青色で描いた居宅にあります。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間は1673~81年。

[1] 磯部鎮雄氏の註は「今千代田区富士見町1丁目、日本歯科大あたりか? この辺も牛込のうちに入るらしい」と書いていますが、残念ながら、入りません。延宝年間の地図で、神楽坂より南の方を見ればよかったのにと考えてしまいます。現在、小栗半左衛門、間宮七郎兵衛、都筑叉右衛門の並びは、牛込神楽坂二丁目にはいります。
百間 1間が1.81mで、百間は181mです。
四番町 現在は千代田区の町名の九段北3丁目と4丁目。
辻切 ➀ みちり。村の入り口で行われる民俗習慣のひとつ。注連縄しめなわを張ったり、大草鞋わらじを掛けたりして、悪霊や悪疫の侵入を防ぐ。➁ 辻斬。つじぎり。武士などが街中などで通行人を刀で斬りつける事。この場合は➁でしょう。
[2] 同じく磯部鎮雄氏の註は「このあたり切図の番町図をみると御用地で広く、里俗蛙ヶ原(かわずがはら)という所で,左手に牛込御門がある。この御門内も牛込の内であったのであろう」。[1]と同じで、残念ながら違い、御門内は千代田区です。
丸毛五郎兵衛、中根九郎兵衛 右図で水色で描いた居宅でしょう。
小十人 こじゅうにん。江戸幕府の職名で、将軍出行の際に先駆として供奉した足軽の組。
鈴木次右衛門、松平所左衛門、小林吉左衛門 右図で緑色で描いた居宅
七十四間 135.42mです。どこからどこまで測ったのか不明ですが、神楽坂下のスターバックスから麹町警察署飯田橋前交番までの距離でも正しいと思います。下図を参照。
牛込御門 寛永16年(1639年)に建築しました。

外堀通り

外堀通り(グランマップ Mapnet Corp. 2001で作成)