牛込門から牛込駅へ」タグアーカイブ

牛込門・牛込駅周辺の変遷|史跡パネル④

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル④は「牛込門・牛込駅周辺の変遷」です。写真3枚と図2枚を掲載し、日本語と英語で解説しています。

牛込門・牛込駅周辺の変遷

牛込うしごめもん・牛込駅周辺の変遷
The Transition of Usigome-mon Gate and Ushigome Station Areas

 外堀そとぼりは、1660(まん3)年、牛込・和泉いずみばし間の堀さらいが行われ、外堀(神田川)をさかのぼって、牛込橋までの通船が可能となり、神田川沿いに河岸かしができました。牛込橋東側の堀端ほりばたには、あげちょうの「町方まちかたあげ」と御三家のひとつである「わり様物さまぶつ揚場」があり、山の手の武家地や町人地へまきや炭などの荷物を運ぶかるが、「軽子坂」を往来したといわれています。
 牛込門から城内に入ると武家屋敷が連なり、他方、堀端から現在の神楽坂の辺りは、善国ぜんこく沙門しゃもんてん)の坂下の地域が武家地、早稲田側には寺町が形成されました。寺の門前には町屋が建ち並び、江戸名所の一つとして賑わいを見せていました。
 明治になると、城外の新宿区側には、空き家と化した武家屋敷跡がげいおきや料亭となり、神楽かぐらざか花街はなまちが形成されていきました。他方、城内の千代田区側の武家屋敷跡に学校などが建てられました。
 牛込土橋東側の堀は、1984(昭和59)年、再開発事業により暗渠あんきょとなり、現在に至っています。また、鉄道整備においても削られずに残された牛込門周辺の土塁は、1911(明治44)年、牛込・くいちがい間の土手遊歩道を外堀保存のため公園とする計画が決定され、1927(昭和2)年、「東京市立土手公園」として開設されました。現在でも国史跡指定区域に、外濠公園として歴史的ふうが保全されています。
和泉橋 千代田区神田を流れる神田川にかかり神田駅に近く昭和通りの橋。。
堀さらい 水路清掃のため堀の土砂・ごみなどを取り除くこと
河岸 江戸時代に河川や湖沼の沿岸にできた川船の港
堀端 堀のほとり。堀の岸
町方揚場 「町方」は江戸時代の用語で,村方・山方・浦方などの地方(じかた)や、武家方・寺社方に対する語。「揚場」とは船荷を陸揚げする場所。
軽子 魚市場や船着き場などで荷物運搬を業とする人足。縄を編んでもっこのようにつくったかると呼ばれる運搬具を用いた。
毘沙門天 多聞天。サンスクリット名はVaiśravaṇa。仏法を守護する天部の神。
寺町 寺院が集中して配置された地域。寺院や墓地を市街の外縁にまとめ、敵襲に際して防衛線とする意図があった。
芸妓置屋 芸妓を抱えておく家。揚屋、茶屋、料亭などの迎えに応じて芸妓の斡旋を業とする。置屋。
花街 はなまち。かがい。遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。
暗渠 地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路。暗溝。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


土塁 どるい。敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた、主に盛土による堤防状の防壁

喰違 喰違見附。江戸城外郭門で唯一の土塁の虎口(城郭の出入り口)。紀尾井ホールの筋向かいにある。
土手公園 昭和2年8月31日「東京市立土手公園」として開園。当初は新見附から牛込見附までの長さ300間(約550m)(大日本山林会報)の公園だった。
外濠公園 昭和7年12月17日、「土手公園」を「外濠公園」と改称。(都市計画東京地方委員会議事速記録)。区域も変更し、牛込見附から赤坂見附までの細長い公園に。現在は、JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までに。
風致 自然の風景などのもつおもむき。味わい。

 In 1660, the section of the outer moat located between Ushigome-bashi and Izumi Bridges was dredged. This made it possible for boats to travel up the outer moat (Kanda River) to Ushigome-bashi Bridge. In addition, banks were constructed on both sides of the Kanda River. The bankside area on the eastern side of Ushigome-mon Bridge was home to the Agebachō neighborhood’s “community landing,” and “the Owari House Landing,” which was controlled by the Owari, one of the three branches of the Tokugawa clan. Both sites were used to offload arriving cargo. Porters transporting firewood and charcoal to warrior estates and commoner neighborhoods in the Edo’s Yamanote area are said to have traveled from these moat-side landings up an incline known as Hill of Karuko.
 Entering the castle grounds from Ushigome-mon Gate, warrior estates lined the street. The area located at the foot of Zenkoku Temple between the moat banks and present-day Kagurazaka was home to warrior estates and, on the Waseda side, there were Buddhist temples. Commoner residences lined the space in front of the temple gates and the area emerged as one of Edo’s most bustling sites.
 Entering the Meiji period, unoccupied former warrior estates outside the castle walls on the Shinjuku Ward side came to host restaurants and establishments employing geisha entertainers and courtesans. This led to the establishment of the Kagurazaka pleasure quarter. In contrast, schools and other institutions were constructed on the grounds of abandoned warrior estates inside the castle wall on the Chiyoda Ward side.
 In 1984, the moat on the eastern side of Ushigome-bashi Bridge was enclosed in conjunction with a local reedevelopment project. It remains covered today. In addition, in 1911, the government presented a plan to transform the portions of the moat embankment in the vicinity of Ushigome-mon Gate that survived the construction of the railroads into a public park and preserve remaining portions of the outer moat between Ushigome and Kuichigai as a pedestrian walkway. This resulted in the creation of Tokyo Dote City Park, which was founded in 1927. Even today, historic landscapes located inside the area officially designated as a national heritage site have been preserved in the form of Sotobori Park.

図 牛込神楽坂
画讃は「月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり」と読めます。

図 牛込揚場(江戸土産)
牛込御門外北の方 ふね原橋わらばしより南のかたちょう第宅ていたくのきを並べ 東南の方は御堀にて材木および米噌はさらなり 酒醤油始め諸色を載てここに集へり 船丘をなせり 故に揚場名は負けらし これより四谷赤坂辺まで運送す 因てこの所の繁華山の手第一とせり

写真 1905年頃の神楽坂下

牛込神楽坂。明治35~39年頃。石黒敬章編集『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001年)

写真 1959年の神楽坂下
神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち(やらせ? 他にも色々な論争が発生しています)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 31 神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち

写真 牛込濠の桜

鉄道写真と飛行機写真の撮影紀 トーキョー春爛漫

甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅|史跡パネル③

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル③は「甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅」です。写真5枚(うち空中写真が1枚)、図は1枚で、日本語と英語で解説しています。

甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅

こう鉄道てつどう国有化・複々ふくふくせんと飯田橋駅
The Nationalization of Kobu Railways and Construction of Multiple Lines and Iida Station

 1906(明治39)年に甲武鉄道は国有化され、1909(明治42)年に中央東線(1911(明治44)年に中央本線に改称)の一部となりました。
 甲武鉄道の乗客数は、開業した1894(明治27)年には85万8千人、翌年には242万2千人と急増していました。大幅に増えた旅客輸送に対応するため、汽車・貨物と電車の分離を目的に、1922(大正11)年から複々線化工事が行われました。複々線化の際、牛込うしごめえき下りホーム等が支障となったため、1928(昭和3)年に電車線のいいまちえき(現在の千代田区飯田橋三丁目)と統合する形で、そのちょうど中間となる曲線位置に飯田橋駅が開業しました。
 開業当時の飯田橋駅は両端に出口があり、東口側は高架駅のような構造になっている一方、西口側は橋上の駅舎でした。この西口は旧牛込駅の利用者に対して影響が少なくなるよう設けられたものであり、長い通路が造られ、2016(平成28)年まで使用されていました。駅の屋根は古レールを使って作られ、現在もホーム上から確認することができます。
 飯田橋駅のホームは急曲線にあったため、車両の大型化に伴いホームと電車の間には広いすきができていました。2020(令和2)年に、ホームを牛込駅があった市ヶ谷駅寄りの直線部分に移設し、より安全な直線ホームに改められました。あわせて、地域のシンボルとして史跡を活かした駅前広場や駅舎が整備されました。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
駅の屋根は古レールを使って 屋根だけではなく、あらゆるところに古レールを使っていました。Golgodenka Nanchatte Researchでは……

レール

柱はホーム中央に1本の架構パターンと2本の部分に分かれており、2本が1本に集約される端部では梁の納まりにこれまた独特の古レールの絡み具合が見られる。

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】ホーム上屋古レール全景

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】ホーム上屋古レール全景
冒頭でも触れた西口への通路も古レールが下部構造に大量に使用されている。まるで線路上から撮影したような写真であるが、あくまでもホーム上から撮影したものであり、ホームの曲がり具合が相当のものであることを実感できる。奥に見える下駄ばきの建物が西口の駅舎である。

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】西口通路古レール全景

同通路を西口改札外の牛込橋付近より見下ろす。これだけの長さで立ち上がる古レールが延々と続くのは壮観である。しかし、現在の耐震基準ではまずアウトではなかろうかと思われる華奢な架構とも言える。一体どのような構造計算の結果で OK となったのだろうか。

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】西口通路古レール全景

 Kōbu Railway was nationalized in 1906 and became part of the Chūōtō Line in 1909. Two years later, the Chūōtō Line’s official name was changed to the Chūō Main Line.
 In 1894, Köbu Railway’s ridership numbered 858,000. By the following year, it had nearly tripled to 2,422,000. In 1922, additional lines were constructed in order to accommodate the line’s rapidly expanding ridership and to separate the steam and freight lines from the electric passenger lines. In 1928, Ushigome Station was merged with Iidamachi Station (present-day Chiyoda Ward Iidabashi 3-chome) because the platform for its outbound line obstructed the construction of the additional lines. This led to the creation of Iidabashi Station, which was located along a curve section of track equidistant from Ushigome and Iidamachi Stations.
 At the time of its opening, there were entrances at both ends of Iidabashi Station. While the eastern side had an elevated, viaduct-like structure, the eastern portion was located on a bridge. In order to accommodate passengers who previously boarded the train at Ushigome Station, a long passage connecting Iidabashi Station with its western entrance was constructed and remained in use until 2016. The Station’s roof was constructed using old pieces of rail track. These sections of the roof are visible today from the station platform.
 Because Iidabashi Station was located along a sharp curve, the construction of larger rail cars resulted in a wide gap between the platform and trains that served the station. In 2020, the platform was relocated to the straight section in the direction of Ichigaya Station previously occupied by Ushigome Station. This narrowed the gap between the platform and trains and made it safer for passengers to board. In conjunction with the platform’s relocation, a station-front plaza and station XX, was constructed.

写真 戦後直後の飯田橋駅航空写真

三好好三、三宅俊彦、塚本雅啓、山口雅人著「中央線オレンジ色の電車今昔50年」(JTBパブリッシング、2008年)

手前が都電の走っていた外堀通り、左下が神楽坂方面。牛込濠と中央線の線路を越えてゆく橋が牛込橋。橋の下から右の濠端にかけてが旧・牛込駅の跡地である。橋の上に飯田橋駅の西口駅舎がある。そこからゆるやかに左へ下る長いスロープの通路とカーブを描いた飯田橋駅が見える。その先のカーブ右側一帯が旧・飯田町貨物駅。駅の左側の小さな水面 が旧飯田濠で、現在は埋め立てられて「セントラルプラザ・ラムラ」のビルが建っている。昭和38年11月8日 写真:三宅俊彦、三好好三、三宅俊彦、塚本雅啓、山口雅人著「中央線オレンジ色の電車今昔50年」(JTBパブリッシング、2008年)

飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分

都電15番の鉄道趣味 撮影日 1982年(昭和57年)10月25日らしい

写真 戦後直後の飯田橋駅航空写真

地図・空中写真閲覧サービス コース番号 M698 写真番号 99 1947/12/20(昭22)撮影高度 1524m 焦点距離 154.000mm 撮影計画機関 米軍

写真 昭和初期の牛込見附・飯田橋駅西口

写真 昭和初期の牛込濠と土塁の様子

写真 飯田橋駅旧西口通路
 飯田橋駅の写真としてはインターネット「れとろ駅舎」が非常によく撮れています。