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牛込門と枡形石垣|史跡パネル⑤

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル⑤「牛込門と枡形石垣」は他の4枚とは少し離れていて、テーマも「牛込門と枡形石垣」となり、「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」とは少々違っています。まあ「牛込門」だけは出ています。写真2枚と図4枚、うちコンピュータグラフィック(CG)は2枚、日本語と英語で解説しています。

牛込門と枡形石垣

史跡紹介解説板

 牛込門は、牛込ぐちとも呼ばれ、1636(寛永かんえい13)年、徳島とくしまはんしゅはち須賀すか忠英ただてる御手おてつだいしんで担当して築きました。牛込門の構造は、「江戸えどじょうえず絵図えず」に描かれているように、石垣を方形ほうけいにめぐらし、ばしから入る「かぶもん」(高麗こうらいもん)と、わたりやぐらを頂く「おおもん」の、二重の門を配置する枡形ますがたもんでした。「冠木門」から枡形内へ敵が侵入しても、「大御門」ではばみ、渡櫓と方形にめぐらした石垣から一斉に攻撃できる仕組みとなっていました。
 1872(明治5)年、旧江戸城をじょうかくとして管轄かんかつすることになった陸軍省は、こうじょう守衛しゅえいの観点から城門の存廃そんぱい方針を定め、外郭21門の廃止を決定し、東京府に引き継ぎました。東京府は、市街地整備の観点から、城門や渡櫓、枡形の石垣や土塁の撤去を進めました。
 牛込門は、渡櫓撤去後、1902(明治35)年に枡形石垣の一部が撤去されましたが、東西の石垣が残り、現在の姿になりました。当初の枡形の形状を、道路面にそうで表現をしており、この場所から、枡形の形状を眺めることができます。
 なお、石垣の構造は、当駅の駅前広場にて解説しています。現在、石垣の脇に保存される角石には、「[蜂須賀」わのかみのうち」と、枡形築造に当った蜂須賀忠英の刻印が残されています。
徳島藩 阿波国(徳島県)・淡路国(兵庫県淡路島・沼島)の2国を領有した藩
御手伝普請 豊臣政権江戸幕府が大名を動員して行った土木工事
江戸城御門絵図 江戸城御外郭御門絵図。江戸城外郭26図の全体図と番所の平面図を折本に仕立てたもの。奥書は享保2年 (1717)10月。
方形 四角形。
冠木門 左右の門柱を横木(冠木)によって構成した門
高麗門 正面左右の二本の本柱に切妻きりづまの屋根をかけ、これと直角に控柱を本柱の背後に立てて切妻屋根をかけたもの。城郭の外門などに多く見られる。
渡櫓 左右の石垣にまたがらせて造ったやぐら
大御門 おおみかど。「門」の尊敬語。特に皇居の門。
枡形門 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
城郭 城の周囲に設けた囲い。城壁。城と外囲い。外敵を防ぐための防御施設。とりで。
皇城 天皇の御所。宮城。皇居
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
舗装で表現 実際の枡形石垣がいた場所を舗装の変化を使ってわかりやすくしています。

枡形石垣があった位置

枡形防御の仕組み

枡形石垣。枡形門の位置は二角(⭕️)ではわかる。

実際の枡形石垣があった場所

実際の枡形石垣があった場所

角石 方形に切った石。四角な石材。岩石学辞典では緻密で珪酸質の岩石の一般名

  Also known as the Ushigome Gateway, Ushigome-mon Gate was constructed in 1636 under the direction of Hasuchika Tadateru, the lord of Tokushima domain. As described in the Illustrated Maps of Edo Castle’s Outer Gates, Ushigome-mon Gate’s inner section was surrounded by stone walls, which were arranged in a square shape to form an enclosure. It was comprised of two gates: a Korean-style outer gate, which led to a square courtyard and could be entered from the earthen bridge, and a large, two-story inner gate containing a timber-framed gatehouse. Even if enemy forces successfully penetrated the outer gate and entered the courtyard, they were prevented from entering the castle grounds by the large internal gate. Ushigome-mon Gate’s design enabled forces defending the Castle to attack the enemy from the walkway in the gatehouse’s upper tier and positions atop the stone walls surrounding the courtyard.
  In 1872, the Ministry of the Army assumed control of Edo Castle and were tasked with protecting the Imperial Palace. After taking control, they announced that many of the existing gates would be torn down in the name of security. Ultimately, they order the removal of 21 of the outer gates. The Ministry of the Army then assumed responsibility for guarding and maintaining the gates that remained in place. In an effort to develop Tokyo’s urban infrastructure, the Tokyo prefectural government moved carried out the actual work of removing the castle gates, elevated walkways above the gates, stone walls that surrounded many of the gates, and the earthen fortifications in their vicinity.
  In 1902, after the elevated walkway above Ushigome-mon Gate had been removed a portion of the stone walls surrounding its inner sections were torn down. However, the eastern and western walls were left in place and remain in existence today. The original form of the square courtyard that surrounded the gate is indicated by the surface of the road constructed in its place. It enables visitors to grasp the layout of the square courtyard that surrounded the Gate’s inner portion.
  The exhibit on the first floor provides a detailed description of the stone walls’ struc-ture. A cornerstone retrieved from the side of one Ushigome-mon Gate’s stone wallsis emblazoned with two seals: those of Hachisuka lemasa and Hachisuka Tadahide, who supervised. the construction of Ushigome-mon Gate’s walled courtyard.

神楽坂(新宿区)側に残る橋台
The Remained Bridge Stage Beside Kagurazaka
 1989(平成元)年の地下鉄南北線工事における発掘調査で、牛込うしごめばしの新宿区側の橋詰に高さ9.5mの牛込うしごめつけの土橋の石垣が確認されました。石垣は軟弱な地盤の下位にある強固な砂層地盤を支持層としてはしどうを敷いた上に築かれており、弱い地盤施工する際の工夫がうかがえます。その他、当時の土橋の側溝の構造がわかる遺構なども発見されています。

  An archaeological excavation carried out in 1989 in conjunction with the construction of Tokyo’s Nanboku Subway Line uncovered a 9.5-meter-high stone wall from the Shinjuku Ward-side approach to Ushigome-mon Gate’s earthen bridge. The stone wall was constructed on top of a crib base, which served as a support layer for the hardened stratum of sand comprising the bottom tier of the site’s weak foundation. This discovery provides us with insight into the techniques used during the Edo period when building on sites with an unstable foundation.

橋詰 橋が終わっている所。橋のきわ。主に橋の架け替え用地、災害時の一時避難場所、材料置き場・交番等の敷地としての空間(関東大震災後の復興事業で制度化)
梯子胴木 長手の木材に梯子のように短い木材を一定間隔で置いてつなげた工法

側溝 道路や鉄道の側端などに設けられる小水路排水のために設置される溝。道路にたまった雨水などを排水するためや、民地の用水路・排水路として設置する。

写真 牛込御門(「旧江戸城写真帖」東京国立博物館)
Picture: Ushigome-mon Gate (The Photobook of Old Edo Castle. Tokyo National Museum)
牛込門橋台石垣位置

牛込門橋台石垣位置

橋台 きょうだい。橋の土台の部分。

牛込門橋台石垣イメージCG

牛込門橋台石垣イメージ

江戸城外堀跡の案内図|史跡解説板5

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 西口駅舎1階の歩行者空間にある「遺構巡り」は「史跡 江戸城外堀跡 周辺案内図」と「江戸城外堀跡 散策案内図」です。

江戸城外堀跡

江戸城外堀跡散策案内図

江戸城外堀跡 散策案内図
Edo Castle’s Outer Moat Walking Map

 この2枚の散策図は、飯田橋駅から四ツ谷駅周辺に残る江戸城外堀跡を中心とした文化財を示したものです。これらは、近世から近代までの東京の歴史を示しています。
 また、日本橋を起点とする五街道が四方に延び、江戸出入口の大木戸や宿場の位置を左の図に示しました。
 さらに江戸御府内を示した「墨引図(町奉行支配の町範囲)」は、概ね現在の山手線を中心として、東は隅田川を越えて錦糸町駅までの広い地域であったことが分かります。

大木戸 おおきど。大きな城門。近世、国境や都市の出入り口に設けた関門。
墨引図 「御府内」とは朱引で表し、江戸時代「江戸の市域」のこと。朱引図には、朱線と同時に黒線(墨引)が引かれており、墨引で示された範囲は「町奉行所支配の範囲」

 These two maps indicate the location of historical sites in the vicinity of Iidabachi and Yotsuya Stations. The sites offer vital insights about Tokyo’s history from the early modern to the modern period.
 The map on the left traces the path of early modem Japan’s “Five Routes,” which radiated out in all directions from central Edo’s Nihon-bashi Bridge, and indicates the location of the city’s entrance gates and post stations on its periphery.
 The second map is a jurisdictional map indicating the territories under the authority of the Edo City Governor. It shows that areas inside the Yamanate Line comprised the city center and that the city area extended over a vast space that stretched far east as present-day Kinshicho Station.

江戸城外堀跡周辺案内図

 小さな小さな文字です。でも、神楽坂に関係するものは多くはありません。

神楽坂界隈(Kagurazaka District)江戸時代に武家や神社の街として作られましたが、明治期に料亭に利用され、今も江戸以来の路地が残されています。
善国寺(Zenkoku Temple)1595(文禄4)年に馬喰町で創建、麹町を経て1793(寛政5)年に現在地へ移転しました。神楽坂の毘沙門さまです。
牛込門跡(The Remains of Ushigome-mon Gate)1636(寛永13)年に作られた江戸城外郭門の1つで、1902(明治35)年に大部分が撤去されましたが、現在でも石垣が良好に保存されています。
外濠公園(Sotobori Park)1927(昭和2)年に外堀を埋め立てることにより、土手公園を開設。グランドなどに利用されています。
田安門(Tayasu-mon Gate)上州(現在の群馬県)へ向かう道の起点で、1620(元和6)年に完成しました。高麗門は江戸城に残る最も古い建築物です。
市谷亀岡八幡宮(Ichigaya’s Kamegaoka Hachiman Shrine)江戸城の鎮守として1479(文明11)に建てられましたが、外堀築造で現地に移転しました。江戸名所として多くの錦絵に描かれました。
江戸歴史博物館(Shinjuku Historical Museum)旧石器、縄文時代等の遺跡から江戸時代の暮らし、明治以降の発展まで新宿区の歴史を紹介しています。
江戸歴史散歩コーナー 東京メトロ市ヶ谷駅構内(Exhibit: Walking Edo’s History/Ichigaya Metro Station Concourse)地下鉄工事で発掘された江戸城の遺構や外堀機築技術が紹介されています。
江戸城外堀跡史跡展示広場(Edo Castle Outer Moat History Plaza)外堀及び四ツ谷駅周辺の歴史を四ツ谷駅構内の展示広場で紹介しています。
市谷門跡(The Remains of Ichigaya-mon)1639(寛永16)年に完成した江戸城外郭門で、1913(大正2)年に石垣撤去され、現在は土橋の石垣のみが残っています。
コモレ四谷(CO・MO・RE YOTSUYA)四谷地域の歴史を紹介する解説版が設置されています。
四谷門跡(The Remains of Yotsuya-mon)江戸城外郭門で、1639(寛永16)年に完成しました。1903(明治36)年に大部分は撤去され、現在枡形石垣の一部が残っています。
心法寺(Shimpo Temple)心法寺は1597(慶長2)年に創建され、一部が千代田区の文化財に指定されています。
四谷大木戸と水道碑(Totsuya Gateway and Tamagawa Aqueduct Commemorative Monuments)江戸への人や物の出入りを監視するため江戸初期に設置されました。玉川上水の碑とともに大木戸の記念碑が残っています。
四谷見附橋(Yotsuya-mistuke-bashi Bridge)1913(大正2)年に東宮御所(迎賓館)にあわせネオバロック調の意匠で架橋されました。1991(平成3)年現在の橋に架け替えられました。
須賀神社(Suga Shrine)1634(寛永11)年に江戸城外堀が造られた際に清水谷(現在の千代田区紀尾井町)から移転された稲荷神社が起源で、のちに神田明神の牛頭天王が合祀されました。
外堀普請で移転した寺院(Temples Relocated in Conjunction witk Outer Moat’s Construction)江戸城外堀の工事に伴い寺院が四谷地域に移転し、現在もこの地域に多く立地しています。
御所隧道(Gosho Tunnel)1894(明治27)年に開通した甲武鉄道のトンネルで、東宮御所(現在の迎賓館)を通過することから名が付けられました。現在も利用されています。
喰違(The Remains of Kuichigai Gate)外堀で唯一土塁を組み合わさせた門で、1612(慶長17)年に完成しました。現在も原形を確認できます。
赤坂門跡(The Remains of Akasaa-mon Gate)江戸城外郭門で、1639(寛永16)年に完成しました。石垣は一部現存し、福岡黒田家の刻印がみられます。

飯田橋周辺案内図

牛込駅(千代田区側)駅舎跡

牛込駅(千代田区側)駅舎跡
 甲武鉄道時代、ここには牛込駅の出入口がありました。
 現在でも、当時作られた駅舎の左右にあった石積み擁壁がそのまま残されており、見ることができます。
The Remains of Ushigome Station
石積み擁壁 高低差のある土地で土砂崩れを防ぐために設置し、石を積んだ壁。

牛込門枡形石垣跡の舗装表示
 かって牛込門の枡形石垣があった位置が自然石舗装で表現されており、その大きさを体感することができます。
Remnants of Ushigome-mon Gate’s Stone Walls
枡形 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。

石に刻まれた印

石に刻まれた印
 かつて牛込門の枡形石垣を構成していた石垣石が移設展示されています。
 枡形石垣の整備を担当した徳島藩蜂須賀阿波守の刻印とみられるものが確認できます。
Inscriptions on the Stone

江戸城外堀跡散策案内図

江戸城外堀跡散策案内図

散策モデルルート
Aルート:「外堀散策ルート」Edo Castle’s Outer Moat
周囲14kmの江戸城外堀を史跡中心に巡ります。
This walk visits heritage sites along the outer moat’s 14-kilometer periphery
Bルート:「江戸城内ルート」Edo Castle
牛込門から北の丸の田安門を経て旧江戸城本丸跡を巡ります。
Departing from Ushigome-mon Gate, this walk passes through the Northern Citadel’s Tayasu-mon Gate before visiting the remains of Edo Castle’s Inner Citadel.
Cルート:「外堀水辺散策ルート」The Outer Moat Riverside Walk
神田川と日本橋川にある鉄道遺産などを巡ります。
This route visits sites along the Kanda and Nihonbashi Rivers relates to local railroad development.