まずその内容です。
「どんどん」は2つ? こちらのサイトで、神田川の「どんどん」を知りました。ただ、どうにも分かりにくいところがあります。 歌川広重団扇絵「どんどん」の記事には「船河原橋は『どんど橋』『どんどんノ橋』『船河原のどんどん』などと呼ばれていた」とあります。一方で団扇絵に描かれた「どんどん」については「牛込御門で、その向かいは神楽坂」と説明しています。 別の記事の船河原橋と蚊屋が淵では「船河原橋は(中略)俗にドンド橋或は單にドンドンともいふ。」 牛込橋では「この『どんどん』と呼ぶ牛込御門下の堰」と書かれています。 同じものかと錯覚してしまうのですが、牛込御門のある牛込橋と、船河原橋は別の橋です。 おかしいなと思って改めて地図(明治20年 東京実測図)を見たら、船河原橋のすぐ下に堰と思われるものが書かれています。 つまり「船河原のどんどん」と、広重団扇絵の「どんどん」は別モノなんですね。 「どんどん」と呼ばれるものが2つあったのでしょうか。それとも何かの間違いでしょうか。 |
まず「どんどん橋」を考えてみます。辞書を見ると「踏むとどんどんと音のする木造の太鼓橋(反り橋、全体が弓なりに造ってある橋)」。また「どんどん」は「物を続けざまに強く打ったり大きく鳴らしたりする音を表す」ことだといいます。なるほど、太鼓橋だったんだ。つまり、これは固有名詞ではなく、あくまでも一般名詞なのです。そして、船河原橋でも、牛込橋でも、一般名詞の「太鼓橋」や「どんどん橋」と呼んでもいいのです。
赤坂の溜池では堰をつくって、やはり「赤坂のどんどん」と呼ばれていたようです。この「どんどん」は「どんどんと音のする橋」なのでしょう。
御府内備考(府内備考の完成は1829年)の「揚場町」には船河原橋、つまり「どんどん橋」がありました。橋
右は町内東北の方御武家方脇小石川邊えの往來江戸川落口に掛有之船河原橋と相唱候譯旦里俗どん/\橋と相唱候得共
解説とは違い、中景に船河原橋が見え、遠くに隆慶橋が見えています。
町方書上(書上の完成は1825-28年)の「揚場町」も同じです。
船河原橋之義者町内東北之方御武家方脇小石川辺江之往來、江戸川落口二掛有之、船河原橋与相唱候訳、且里俗どんどん橋与相唱候得共 |
牛込御門 【正保御國繪図】には牛込口と記す。【蜂須賀系譜】に阿波守忠英寛永十三年命をうけ、牛込御門石垣升形を作るとあり。此時始て建られしならん。【新見某が隨筆】に昔は牛込の御堀なくして、四番町にて長坂血槍・須田久左衛門の並の屋敷を番町方といひ、牛込方は小栗牛左衛門・間富七郎兵衛・都筑叉右衛門などの並びを牛込方といふ。其間道はゞ百間にあまりしゆへ。牛込と番町の間ことの外廣く、草茂りしと也。其後牛込市谷の御門は出来たりと云々。 |
上図は牛込揚場跡で、門は牛込見附門です(鹿鳴館秘蔵写真帖。明治元年)。写真を見ると橋の手前が遊水池になっています。牛込門の船溜と呼びました。
さて、この「どんどんノ図」はどちらなのでしょうか。牛込揚場町にある茗荷屋は右岸にあり、この位置から、おそらく、牛込橋だろうと思っています。