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奥州街道と鎌倉海道|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「戸塚地区 28.奥州街道と鎌倉海道」では……

奥州街道と鎌倉海道
     (戸塚一丁目)
 西北診療所前をさらに西に行くと、右折する細道の西角に五角柱の高さ約40センチほどの道しるべがある。その細道が奥州街道鎌倉海道ともいう)といわれる古道の名残りである。古道は早稲田通りの南に続き、戸塚一丁目と二丁目の境をなしている。それがさらに南の学習院女子部内から戸山ハイツに通じ、西向天神下、新宿二丁目、千駄ヶ谷、霞岳町と続く(四谷45参照)。北は豊島区の宿坂、雑司谷と続くのである。
 その古道を北に行くとすぐ茶屋町通りと出合う。この茶屋町通りが、東からくる鎌倉海道といわれる古道の名残りである。鎌倉海道については、「新編若葉の梢」によると、船で芝付近に着き、そこから霞ヶ関に登り、本永川から番町を横切り牛込矢来町の酒井家下屋敷にくる。その邸内には沓掛け桜牛込22参照)があり、その下通りの小笹坂下が渡船場でそこから船で戸塚の毘沙門山下の船繋ぎ松(5参照)に着き、早大正門、観音寺前、松原通り(20参照)、早大構内、茶屋町通りと続くと推定している。
 なお「南向茶話追考」には、榎町とは榎の大木があったことから名づけられた町名(牛込55参照)で、その木は古来の鎌倉海道にあったものだと書いているから、室町時代以後は、九段から神楽坂—矢来町酒井邸内沓掛桜—榎町—供養塚—茶屋町通りと、牛込台地端をやや直線的に、続いていたものと思われ、これが現在の早稲田通りの前身だったと考えられる。
 この鎌倉海道はさらに、落合台地下の妙正寺にそって西にのびたのであろう(落合7参照)。
〔参考〕武蔵野の交通路 新編若葉の梢 新宿と伝説

西北診療所 専門は内科、胃腸科、循環器科、外科、整形外科、皮膚科です。
道しるべ 残念ながら道しるべはなくなりました。

戸塚地区の一部。「新宿の散歩道」から

西北診療所、道しるべ、戸塚1・2丁目

奥州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から陸奥国(青森県)三厩みんまやに至る街道。
鎌倉海道 鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。別名は鎌倉街道、鎌倉往還おうかん、鎌倉みち

 ここで江戸時代の奥州街道と、鎌倉時代の鎌倉海道(鎌倉街道)が同じ意味で出てくるのは納得できません。奥州街道の現在の出発地は千住で、普通の意味ではこの街道を奥州街道とは呼びません。鎌倉街道の出発地は鎌倉で、しかも、鎌倉と各地を結ぶ全ての道を総称して鎌倉街道と呼びます。この古道は鎌倉街道の1つといえますが、奥州街道とはいえません。

戸塚一丁目と二丁目 昭和50年に、新しい住所表示に変わり、戸塚1丁目以外はなくなりました。しかし、この本は昭和47年に出版したので、 2丁目は消えません。
南の学習院女子部内から……

古道。雑司が谷から霞ヶ丘町

茶屋町通り 江戸時代、流鏑馬などの馬場練習場中の旗本や、雑司ヶ谷に鬼子母神参拝人のため、松並木の下に地元の農家8軒がそれぞれ茶屋を開店。明治初年、8軒全てが廃業し、他の職種に変更。下は歌川広重作『絵本江戸土産』4編「高田馬場」で、茶屋は右下に。

 たか馬場ばば
穴八幡あなはちまんかたはらにあり このところにて弓馬きうばの 稽古けいこありまた
神事じんじ流鏑馬やぶさめ興行こうぎやう せらるゝことあり東西とうざいへ六丁
東南とうなんのぞめば堤塘つゝみつらなり 南北なんぼく三十余間よけん
むかし頼朝よりともきやう隅田すみだがはより このいたせいぞろいありしと いひつた

この茶屋町通りが…… 茶屋町通りは高田馬場跡の並行2本のうち北の1本です(↓)。「新編若葉の梢」では「古來の街道がその儘あって、尾州公戸山御屋敷に入り、高田馬場の中程の所に御門の見える所に出て、馬場を横切り、嘉兵衛の屋敷の西が古來の舊道(鎌倉街道)であって、理十郎の家の東南の隅、清水公御屋敷車門の前で、松原通りからの海道と落合う。」となっています。

正保年中江戸絵図

新編若葉の梢 金子直徳著「若葉の梢」上下2巻(寛政年間)が底本。内容を整備、訂正し、口語体に書き改めたものが「新編若葉の梢」。著者は海老澤了之介。新編若葉の梢刊行会。昭和33年。
船で芝付近に…… 「新編若葉の梢」を引用すると「水路鎌倉街道は、船で芝附近に着き、そこから霞ヶ関に登り、本氷川から番町を横切り牛込の酒井修理大輔(若狭小浜藩主、113千石)の下屋敷にかかるのであった。この酒井家の庭に三抱えもある山桜の大木があり、沓掛桜と呼ばれていた。その下通りの小笹坂という所は、楠不伝が斬られたというので、六十六部の笠の形をした石塔が立っている。ここの泉水の下が渡船場であった。この渡船場から船にのり、入江を渡って、金川の落合、毘沙門山下に着船したのである」
 この「本氷川」がわかりません。まあ「霞ヶ関」と「番町」との間にある土地だと考えていればいいでしょう。
 酒井修理大輔と若狭小浜藩主は同じ人物で、沓掛桜もわかっています。
 ざさざかは、辞書を引けば、文京区と豊島区を分ける坂で、これは違いますね。「楠不伝が斬られた」場所は『新撰東京名所図会』によれば、弁天町らしい。次の文章が弁天町の項に出ています。
「○楠不伝の斬られし地
高田ひばり云、楠不伝が切られし所、榎町宗柏寺向まきかみゆいとこの間なるべし、むかしはざさざかという」

 ここに小笹坂が出てきました。弁天町と宗柏寺の地図は……

弁天町と宗柏寺

 くすのき不伝ふでんとは江戸時代前期の兵法家。由比正雪に楠流軍学を教え、養子にしたという俗説があるそうです。
 次の渡船場もわからない。最古の江戸絵図である「寛永江戸全図」(臼杵市教育委員会、寛永19~20年、1642−43年)を使っても、神田川は遠く、あるのは田圃です。これより古い古い地図がないと本当にわかりません。まあ、あったと考えて「寛永江戸全図」田圃上に青色で航路を書いてみます。

寛永江戸全図(寛永19~20年)

毘沙門山 「新宿の散歩道」の戸山地区5では「商店街を北に行くと、まもなく左手に永田運動具店がある。この店とその奥一帯は昔毘沙門山であったが、昭和8年に道路拡張のため切り崩され、傾斜地になった。藤原秀郷が、天慶四年(941)に平将門を亡ぼして上京する時、秀卿の念持仏で慈覚大師作の毘沙門天像を納めるため毘沙門堂を建てたので毘沙門山と呼ばれたという。毘沙門堂は維新後まもなくとり払われた」

戸塚地区の一部。「新宿の散歩道」から

左が毘沙門山。「新宿の散歩道」から

船繋ぎ松 『新編若葉の梢』を引用すると「この松は毘沙門堂の後方の山腹にあった。大歓院殿(三代将軍家光)が、この古松は幾年程の樹齢かとお尋ねがあった時に、寺僧がおよそ千年にもなるでしょうと申上げたので、千歳ちとせの松というよい名を賜った。むかし藤原の秀郷が船をこの松に繋いだというので船つなぎ松と呼ばれた。この寺の垣外の田面がみな入海で、金川落口の所が着船場になっていたのである。
「この松は直徳の時代すでに枯れてしまっていたが、その後にまた植えられたものか、やはり船繋の松として伝えられる老松が残っていた。これも、昭和の初年、毘沙門山が切りくずされて分譲地となったとき伐られてしまった。いま法輪寺境内に俵藤太秀郷御紹松造跡という、大きな標示杭が建っているが、ここは全然別の山で、船繫松と何等関係ない所である」

註:藤原秀郷 ふじわら の ひでさと。栃木の武将。平将門を朝廷の命により倒し、乱を平定。
  入(り)海 いりうみ。陸地にはいり込んだ海や湖。湾。入り江。cf. 汐入、潮入:低地や海とつながる池・沼・川などに海水が流入すること、その場所。
  金川 現在は「蟹川」。かにがわ。水源は新宿区戸山公園の池。新宿区馬場下町から早稲田鶴巻町を経て新宿区西早稲田の豊橋付近で神田川に合流する。沢蟹がたくさんいた。
  落口 水の流れが落下する所

船つなぎ松(『新編若葉の梢』から)

 また『新宿の散歩道』(戸塚地区5)では「この毘沙門山には船繋ぎ松という古木があった。藤原秀郷が軍船をこの松につないだので名づけられたものという。また千歳松ともいった。家光が鷹狩りの時ここにきて、この松の樹令を開かれた時、この辺一帯を領していた宝泉寺の寺僧が、およそ千年近いだろうと答えたので名づけられたという」
観音寺 真言宗豊山派の慈雲山大悲院観音寺。早稲田大学の大隈講堂に至近。
松原通り 戸塚地区20に「観音寺と早大構内との間の細道(松原通り)を行くとつき当り左手が早大の戸塚球場である」。戸塚球場とは安部球場のことです。

戸塚地域(「新宿の散歩道」から)

南向茶話追考 酒井忠昌著『南向茶話』(寛延4年、1751年)は江戸の地誌。『南向茶話追考』(明和2年、1765年)も江戸の地誌。この『追考』では「◯牛込榎町 古老云、昔は大木の榎有。依て号する由、是木は古来鎌倉海道の由申伝」
九段から神楽坂—……

九段下駅から茶屋町通りまで

供養塚 芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」牛込地区75「牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚」(喜久井町14から20)でしょう。延享2年(1745)から明治2年(1869)まで「牛込供養塚町」が出ています。「牛込供養塚町」と「喜久井町14から20」とは1対1に対応するわけではありません。

牛込供養塚町

牛込台地 落合台地 写真を参照

牛込台地と落合台地 (地理院地図 / GSI Maps|国土地理院)

妙正寺 杉並区清水3丁目にある日蓮宗の法光山妙正寺。妙正寺川の水源となる妙正寺池を中心とした妙正寺公園もあります。妙正寺川は中野区を流れて江古田川を合わせ、新宿区下落合で神田川に合流します。

東京の三十年|田山花袋

文学と神楽坂

『東京の三十年』は田山花袋の回想集で、1917(大正6)年、博文館から書きおろしました。ここでは『東京の三十年』の1節「山の手の空気」の1部を紹介します。

山の手の空氣

牛込市谷の空氣もかなりにこまかく深く私の氣分と一致している。私は初めに納戸町、それから甲良町、それから喜久井町原町といふ風に移つて住んだ。
 今でも其處に行くと、所謂やまの空氣が私をたまらなくなつかしく思はせる。子供を負つた束髮の若い細君、毎日毎日惓まずに役所や會社へ出て行く若い人達、何うしても山の手だ。下町等したまちなどでは味はひたくても味ふとの出来ない氣分だ。

納戸町、甲良町、喜久井町、原町 新宿区教育委員会生涯学習振興課文化財係の『区内に在住した文学者たち』によれば、満17歳で納戸町12に住み、18歳で甲良町12、22歳で四谷内藤町1、24歳で喜久井町20、30歳で納戸町40、31歳で原町3-68に住んでいました。ここで細かく書いています、
束髮 そくはつ。明治初期から流行した婦人の西洋風の髪の結い方。形は比較的自由でした。

牛込で一番先に目に立つのは、又は誰でもの頭に殘つて印象されてゐるだらうと思はれるのは、例の沙門しやもん緣日であつた。今でも賑やかださうだが、昔は一層賑やかであつたやうに思ふ。何故なら、電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵は神樂(かぐら)(ざか)の通へと出かけて行つたから……。
 私は人込みが餘り好きでなかつたから、さう度々は出かけて行かなかつたけれど、兄や弟は緣日毎にきまつて其處に出かけて行つた。その時分の話をすると、弟は今でも「沙門しやもん緣日えんにちにはよく行つたもんだな……母さんをせびつて、一銭か二銭貰つて出かけて行つたんだが、その一銭、二銭を母さんがまた容易よういに呉れないんだ」かう言つて笑つた。兄はまた植木が好きで、ありもしない月給の中の小遣ひで、よく出かけて行っては――躑躅、薔薇、木犀海棠花、朝顔などをその節々につれて買つて来ては、緣や庭に置いて楽んだ。今。私の庭にある大きな木犀もくせいは、実に兄がその緣日に行つて買って来て置いたものであった。
 神樂阪の通に面したあの毘沙門の堂宇だうゝ、それは依然として昔のまゝである。大蛇の()(もの)がかゝつたり何かした時の毘沙門と少しも違つていない。今でも矢張、賑やかな緣日が立つて、若い夫婦づれや書生や勤人つとめにんなどがぞろぞろと通つて行つた。露肆や植木屋の店も矢張昔と同じに出てゐた。
 さうした光景と時と私の幻影に殘つてゐるさまとが常に一緒になつて私にその山の手の空氣をなつかしく思はせた。私の空想、私の藝術、私の半生、それがそこらの垣や路や邸の栽込うゑこみや、乃至は日影や光線や空氣の中にちやんとまじり込んで織り込まれているような氣がした。

毘沙門 仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日にしました。
電車 市電(都電)のことです。もちろん、この時代(明治20年代頃)、鉄道は一部を除いてありません。
躑躅 つつじ。ツツジ科の植物の総称。中国で毒ツツジを羊が誤って食べたところ、もがき、うずくまったといいます。これを漢字の躑躅(てきちょく)で表し、以来、中国ではツツジの名に躑躅を当てました。
木犀 もくせい。モクセイ科モクセイ属の常緑小高木
海棠花 かいどうはな。中国原産の落葉小高木。花期は4-5月頃。淡紅色の花。
堂宇 どうう。堂の軒。堂の建物
露肆 ほしみせ。ろし。路上にごさを敷き、いろいろな物を並べて売る店

中町の通――そこは納戸町に住んでゐる時分によく通つた。北町、南町、中町、かう三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かつた。他の通に比べて、邸の大きなのがあつたり、栽込(うゑこみ)綺麗(きれい)なのがあつたりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。
 それに、其通には、若い美しい娘が多かつた。今、少將になつてゐるIといふ人の家などには、殊にその色彩が多かつた。瀟洒(せうしや)な二階屋、其處から玲瓏(れいろう)と玉を(まろば)たやうにきこえて來る琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ美しい白い手、そればかりではない、運が好いと、其の娘逹が表に出てゐるのを見ることが出來た。

瀟洒 俗っぽくなくしゃれているさま
玲瓏 玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま
轉ぶ まろぶ。まろぶ。くるくる回る。ころがる。ころがす

納戸町の私の家は、その仲町の略々盡きやうとする處にあつた。私の借りてゐる大家の家の娘、大蔵省の屬官をつとめてゐる人の娘、その娘の姿は長い長い間、私が私の妻を持つまで常に私の頭に(から)みついて殘つてゐた。その父親といふ人は、毎年見事に菊をつくるのを樂みにしてゐた。確かその娘も菊子と呼ばれた。『わが庭の菊見るたびに牛込のかきねこひしくおもほゆるかな』『なつかしき人のかきねのきくの花それさへ霜にうつろひにけり』かういふ歌を私は私の『(うた)日記(につき)』にしるした。
 その娘は後に琴を習ひに番町まで行った。私は度々その(あと)をつけた。納戸町の通を浄瑠璃阪の方へ、それから濠端へ出て、市谷見附を入つて、三番町のある琴の師匠(しゝやう)の家へと娘は入つて行った。私は往きにあとをつけて、歸りに叉その姿を見たい爲めに、今はなくなつたが、市谷の見附内の土手(どて)の涼しい木の蔭に詩集などを手にしながら、その歸るのを待つた。水色の蝙蝠傘、それを見ると、私はすぐそこからかけ下りて行つた。白茶の繻子の帶、その帶の間から見ると白い柔かな肘、若い頃の情痴(じやうち)のさまが思ひやらるゝではないか。『今でも逢つて見たい。否、何處かで逢つてゐるかも知れない。しかし、もうすつかりお互に變つてゐて、名乘りでもしなければわからない』不思議な人生だ。

納戸町 納戸町は新宿区の東部で、その東部は中町や南町と、南東部は払方町と市谷鷹匠町と、南部は市谷左内町と、西部は二十騎町と市谷加賀町と、北西部は南山伏町・細工町に接する。町域内を牛込中央通りが通っている。田山花袋退いた場所は中町に続く場所だった。
属官 ぞっかん。ぞくかん。下役の官吏。属吏
明治28年番町 ばんちょう。千代田区の西部で、元祖お屋敷街。東側は内堀通り、北側は靖国通り、南部は新宿通り、西部は外堀通りで囲まれた場所。
浄瑠璃坂 じょうるりざか。新宿区の市谷砂土原町一丁目と同二丁目の境を、西北方の払方はらいかた町に向かって上る坂。
濠端 ほりばた。濠は水がたまった状態のお堀。濠のほとり。濠の岸
市谷見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。お堀の周りにある門。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。市ヶ谷見附ではJR中央線が走っています。
三番町 千代田区の町名。北部は九段北に、東部は千鳥ヶ淵に、南部は一番町に、西部は四番町に接する。
250px-Satin_weave_in_silk繻子 しゅす。繻子織りにした織物。通常経糸たていとが多く表に出ていて、美しい光沢が出るが、比較的摩擦には弱い。

こんなことを考へるかと思ふと、今度は病後の體を母親につれられて、運動にそこ此處(ここ)と歩いたことが思ひ出される。やきもち阪はその頃は狹い通であつた。家もごたごたと汚く並んでゐた。阪の中ほどに名代(なだい)鰻屋があつた。
 病後の私は、そこからそれに隣つた麹阪の方をよく散歩した。母親に手をひかれながら……。小さな溝を跨がうとして、意氣地(いきぢ)なくハタリと倒れたりなどした。母親もまだあの頃は若かつた。
 柳町の裏には、竹藪(たけやぶ)などがあつて、夕日が靜かにさした。否そればかりか、それから段々奥に、早稲田の方に入つて行くと、梅の林があつたり、畠がつゞいたり、昔の御家人(ごけにん)零落(れいらく)して昔のまゝに殘つて住んでゐるかくれたさびしい一區劃があつたりした。其時分はまだ山の手はさびしかつた。早稲田近くに行くと、雪の夜には(きつね)などが鳴いた。『早稲田町こゝも都の中なれど雪のふる夜は狐しばなく』かう私は咏んだ。

やきもち阪 やきもち坂。焼餅坂は新宿区山伏町と甲良町の間を西に下って、柳町に至る、大久保通りの坂です
鰻屋 場所は不明
麹阪 麹坂。こうじざかでしょうか。東京に麹坂という坂は聞いたことはありません。それでも探す場合には「それに隣つた麹阪の方をよく散歩した」という文章だけです。明治20年の地図では、焼餅坂や大久保通りと隣り合わせにある坂は1本南にある坂だけです。他にもありえますが、これを麹坂だとしておきます。0321
跨ぐ またぐ、またがる。またを広げて両足で挟むようにして乗る
意氣地 ()()。事をやりとげようとする気力や意気地がない。やりとげようとがんばる気力がない。
柳町 市谷柳町は新宿区の東部に位置し、町内を南北に外苑東通り、東西に大久保通りが通り、市谷柳町交差点で交差している。
御家人 将軍直属の家臣で、御目見以下の者。将軍に直接謁見できない。
零落 おちぶれること