硯友社」タグアーカイブ

椿|田山花袋

文学と神楽坂


 読賣よみうり新聞しんぶんで、露伴ろはんの『ひげをとこ』と紅葉こうえふの『伽羅きやらまくら』とを同時どうじ掲載けいさいする計畫けうくわくてたのは、あれはたしか二十三ねん春頃はるごろだつたとおもう。りやう花形はながたうでくらべをするといふので、それは非常ひじやう評判ひやうばんであつた。何方どちらうまいか、何方どちら成功せいこうするか、かうしたこゑいたところきこえた。わたしなども、まちかどおほきくてゐる看板かんばんて、その名聲めいせいにあこがれたまづしい文學ぶんがく書生しよせいの一にんであつた。
 紅葉こうえふは『伽羅きやらまくら』を牛込うしごめ北町きたまちうちいた。太田おほた南畝なんぼ屋敷やしきなかだとかいふおくまつたちひさなうちで、うらにはおほきなかしかさのやうになつてしげつてゐた。八でふまへにはには、木戸きどがついてゐて、そこから、硯友社けんいうしや人達ひとたちは『るかい』などとつてはひつてた。
 北町きたまちとほりわたしその時分じぶんよくとほつた。そのちひさなもんに、尾崎をざきいた表札へうさつがかけてあつて、郵便箱いうびんばこには硯友社けんいうしやいてあつたのをいまでもはつきりと記憶きおくしてゐる。やがて讀賣よみうりふたつのさくは、何方どちら人達ひとたちこゝろいた。『ひげをとこ』はこと評判ひやうばんがよかつた。『流石さすが露伴ろはんだ!』といふこゑ彼方此方あつちこつちからきこえた。それにもかゝはらず、露伴ろはんは五六くわいふでつて、瓢然へうぜんとして、赤城あかぎ山中さんちうかくれた。『伽羅きやらまくら』は百くわいぢかつゞいた。
ひげ男 「ひげ男」は国立国会図書館デジタルコレクションにあります。
伽羅枕 祇園に生まれ島原に売られ,江戸の吉原に艶名をうたわれた一代女の物語。この『伽羅枕』も国立国会図書館デジタルコレクションにあります。伽羅枕とは「引き出しをとりつけて、その中で香をたくように作った木枕。遊女などが用いた」
絵看板 劇場、映画館などの表に、人物や場面の一部を極彩色の絵にして掲げる看板。
北町 明治23年1月から24年2月まで、住所は牛込北町41番地でした。

東京実測図。明治28年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

全国地価マップ。現在。北町41番地

北町41番地

木戸 庭などの出入り口に設けた簡単な開き戸。屋根はなく、木の門
瓢然 ひょうぜん。用事や目的もなくふらりと来たり、ふらりと立ち去ったりする様子
赤城 関東平野の北西部、群馬県の赤城山は二重式火山で、前橋市、桐生市などに広がる。山頂には大沼と呼ばれるカルデラ湖がある。

泉鏡花旧居跡|芳賀善次郎氏と石川悌二氏

文学と神楽坂

 泉鏡花氏は明治36年3月から3年間、「神楽坂2丁目22番地」に住んでいました。しかし、これは広大な場所です。正確な位置はどこにあるのでしょうか。

神楽坂2丁目22

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)牛込地区「2. 作家泉鏡花旧居跡」では……

2. 作家泉鏡花旧居跡      (神楽坂2―22)
 神楽坂の途中左手、瀬戸物屋の横を行くと坂道に出る。そこを越したところ、理科大学の裏手にあたる崖上は、泉鏡花が明治36年3月から39年7月まで住んだところである。
 泉鏡花の師、尾崎紅葉は、横寺町に住んでいて、多くの弟子を指導していた。その中で一番早く文壇に認められたのは鏡花である。鏡花は、小栗風葉徳田秋声などとともに紅葉門下の硯友社の一員であるが、硯友社の人々は明治32年の新年宴会を、神楽坂の料亭常盤家で行なった。この夜、鏡花は桃太郎(本名、伊藤すず)という若い芸妓を見知ったのである。それ以来、鏡花と桃太郎との交際は続くのであるが、このことを知った紅葉は不快に思っていた。
 そのうち、36年3月、鏡花が神楽坂のここに一軒借りて桃太郎と同棲していることをきき、紅葉の怒りは爆発した。彼は小栗風葉に案内させて鏡花の家へ乗り込んだが、鏡花はす早く桃太郎を裏口から逃してその場をつくろった。紅葉は鏡花を強く叱りつけて帰ったが、その後彼女は涙をのんで鏡花のもとを去ったのである。
 しかしほどなく紅葉は、その年の10月30日に他界した。紅葉の死によって、生木を割かれるように別れた鏡花と桃太郎の仲は、またもとに戻った。それでも亡師に遠慮して鏡花は籍を入れなかった。正式に結婚式を挙げたのは大正15年になってからである。この両人の住んだのもここであった。
 鏡花の“婦系図”は、半自叙伝小説といわれる。発表された翌年、新富座喜多村緑郎伊藤蓉峰らによって上演されてから有名になった。その時新たに書き加えられた湯島境内の場で、早瀬とお蔦が清く別れる一場が特に観客の涙をさそったものであった。このお蔦は桃太郎であり、早瀬主税は鏡花自身であり、酒井先生というのは紅葉のことである。
 鏡花は、神楽坂を忘れられない思い出の地としていたらしく、“神楽坂の唄”と題した詩を書いている。

生木を割かれる 生木なまきを裂く。相愛の夫婦・恋人などをむりやり別れさせる。
新富座 しんとみざ。歌舞伎劇場名。江戸三座の一つで、明治5年、猿若町から京橋区(中央区)新富町へ進出。明治8年、新富座と改称。ガス灯を設備した近代建築だが、大正12年、関東大震災で焼失した。
喜多村緑郎 新派俳優。女形。素人芝居から俳優の道に入る。道頓堀角座を本拠に「成美団」を結成、のち東京でも活躍し、新派三頭目時代をつくる。人間国宝。生年は明治4年、没年は昭和36年。享年は満89才。
伊藤蓉峰 正しくは伊井蓉峰。新派俳優。新派大合同劇の座長格。端麗な容姿と都会的な芸風で、新派の代表的な俳優として活躍した。生年は明治4年、没年は昭和7年。享年は満60歳。

 住所はわかりますが、その他はわからない。そのまましばらく放っておきました。数年後、石川悌二氏が書いた「近代作家の基礎的研究」(明治書院、昭和48年)があると知りました。鏡花の邸宅の写真もあったのです。

 師尾崎紅葉の死去によって、生木を裂かれたような鏡花と桃太郎の仲はふたたび元に返った。鏡花の戸籍面は、この年12月、小石川大塚町から牛込区神楽町2丁目22番地に送籍されているので、紅葉の没後まもなく両人はまた一緒になったのであろう。しかし鏡花は亡師にはばかり、すずの戸籍を長く妻として入れなかった。それが二十数年を経過した大正15年になって、水上滝太郎の切なるすすめにより、改めて結婚式をあげたのであった。
 鏡花、桃太郎が住んだ神楽町二丁目の家宅はすでにないが、そこは神楽坂を上ってまもなく、左側の瀬戸物屋薬屋の間を左折し、その小路がまたにつき当たる左手あたり(現神楽坂2丁目の東京理科大学裏手)にあった。
 新派劇の「婦系図」はその序幕が主税とお蔦の新世帯であって、瀟洒なつくりのその家は、横手に堀井戸があって、すぐ勝手口や台所が続いているが、これは鏡花の実際の住居を模写したもので、桃太郎も芝居のお蔦さながらの生活をしたものと伝えられている。(村松梢風「現代作家伝・泉鏡花」参照)
 ついでながらに加えると、婦系図のヒロインのお蔦は、桃太郎が抱えられていた芸者屋「蔦永楽」にちなんだ名で、酒井先生は紅葉の住んでいた近くの牛込矢来町一帯が、旧小浜藩酒井氏の下屋敷跡だったことから、「酒井先生」としたのであろう。またこの作中に登場するひどく威勢のいい魚屋「めの惣」のモデルは魚徳という人で、現在神楽坂の北側三丁目にある料亭「魚徳」はその人の孫が経営している。この魚徳の姪は、又平という妓名で桃太郎と同じ蔦永楽から左棲をとっていたが、その人もすでに亡い。紅葉の愛妓だった小えん、すなわち婦系図の小吉のモデルは、相模屋の女将村上ヨネの養女に入籍され(戸籍名、村上えん)ていたが、紅葉の死後5年ほどして北海道函館の網元ひかされて妻となった。
この年 明治36年です。
送籍 民法の旧規定で、婚姻や養子縁組などで、1人の戸籍を他家の戸籍に送り移すこと。
瀬戸物屋 太陽堂です。
薬屋 当時は山本薬局。現在は神楽坂山本ビルで、1階はデンタルクリニック神楽坂です。
小路 神楽坂仲坂と名前をつけました。
 堀見坂です。
左手 地図では東側です。

1976年。住宅地図。

あたり 上の写真を見てください。写真に加えて「神楽坂うら鏡花旧居跡(電柱の左方)」と書いています。写真は昭和48年(1973年)頃に撮ったものです。下の写真は平成18年(2006年)頃に撮られたものです。なぜが2本の電柱はそっくりです。また「泉鏡花旧居跡」の場所も正確に同じ場所だとわかりました。「北原白秋旧居跡」の場所はまだ不明。

籠谷典子編著「東京10000歩ウォーキング No.13 神楽坂・弁天町コース」(明治書院、2006年)


婦系図 おんなけいず。1907年(明治40年)、泉鏡花の小説や、原作とした演劇・映画
蔦永楽 つたえいらく。神楽坂3丁目2番地。地図は大正元年の地図です。正確なものはなく、これ以上は不明です。

東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

左棲 ひだりづま。(左手で着物の褄を持って歩くことから)芸者の異名。
相模屋 神楽坂3丁目8番地。地図は大正元年の地図です。相模家はこの赤い地図で、問題は何軒があるのか、です。

相模屋

相模屋。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

 明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)では、どうも1軒だけでした。ただし、数軒をまとめて地図上だけ1軒にしたと考えることもできますが。

網元 漁網・漁船などを所有し、網子あみこ(漁師)を雇って漁業を営む者。網主あみぬし
ひかされて じょうなどにひきつけられる。ほだされる。

鏡花幻想|竹田真砂子

文学と神楽坂

竹田真砂子

竹田真砂子

『鏡花幻想』は1989年に竹田真砂子氏が書いた、泉鏡花ではなくその妻、すずを中心にした小説です。
 竹田真砂子氏は小説家で、出身は神楽坂。時代小説を中心に活躍し、また、神楽坂を題材にした小説も沢山あります。作品は「十六夜に」「白春」「あとより恋の責めくれば 御家人南畝先生」など。生年は昭和13年3月21日です。
 これは泉鏡花が将来の妻すずと同棲を始めてそれを知った尾崎紅葉が激怒した部分です。実際にはこの激怒した時間は、昼下りではなく、夜中に起こりました。

 一応の体裁が整って、すゞは神楽町二丁目の家から毎日蔦永楽に通って、一日四、五時間ほど座敷を勤め、家事にも馴れてきた四月の中頃、鏡太郎は突然、横寺町尾崎紅葉からの呼び出しを受けた。豊春も同行せよとの伝言である。二人は衣服を改めて横寺町へ出かけた。
 四月十四日。昼下りである。
 十二、十三日と二日続けて昼間の遠出のお座敷があって、すゞは伯爵家の広大な庭園に設えられた仮設舞台清元を歌ってきた。踊る立方たちかたと違って、地方じかたは地味な存在だけれど、先年の硯友社の新年会で『保名』をひとくさり歌って以来、本格的に鍛えた咽喉が重宝がられて、大事なお座敷の地方というと、よく声がかかるようになった。(略)
 わずか二時間後に、思いもかけぬ残酷な宣告を鏡太郎の口から聞こうとは。すゞにも祖母にも露ほどの予感もなかった。
体裁 ていさい。外から見た様子。外見。外観。
四月十四日 明治36年の4月でした。
昼下り 正午をやや過ぎた頃。
仮設舞台 必要に応じて仮に設ける舞台。
清元 きよもと。清元節。江戸浄瑠璃の一派。
立方 立ち方。たちかた。歌舞伎・日本舞踊で、立って舞い踊る者。
地方 じかた。日本舞踊で、伴奏音楽を演奏する人々。唄・浄瑠璃・三味線・囃子などの演奏者をまとめていう。
保名 やすな。歌舞伎舞踊。清元節の曲名。篠田金治作詞、清沢万吉作曲。『深山みやまのはな及兼とどかぬ樹振えだぶり』の一節
ひとくさり 一齣。一闋。謡いもの、語りもの、また話などのまとまった一区切り。

 横寺町から帰って来た時の、鏡太郎の顔には表情がなかった。豊春はうつむいたまま、
「お帰りなさい」
 すゞが声をかけても返事もせず、上りかけた足を下駄に戻して、また外へ出て行ってしまった。
 鏡太郎も、ひとことも口をきかずに二階へ上る。下から後姿を見上げてすゞは首をひねった。
「どうしなすったんでしょうねえ」
 祖母も眼窟の落窪んだ目を見開いて、きょとんとしている。お茶をいれて二階へ持って行こうとしたが、祖母が手を振って止めた。尋常でない鏡太郎の様子に祖母もすゞも、階下でただ座って、息を殺しているより他になすすべがなかった。
 だから二階で手が鳴った時、用をいいつけられるのを待ち兼ていたすゞは、
「はあい」
 元気よく返事をして、祖母に笑いかけてから跳びはねるように立上った。
「御用でしょうか」
 座ってをあけて、敷居の外から声をかける。鏡太郎は机に背を向けて正座していた。敷いている友禅の座布団は、祖母に綿の入れ方を習いながらすゞが拵えたものである。
「ここへ来てお座り」
 鏡太郎は静かに自分の前の座を手で示した。
 すゞは前掛けをはずしてに入れてから中へ入って襖を閉め、示された場所に座った。
 鏡太郎はすゞを見ない。視線は畳に落ちたままだ。
「心を静めて聞いてもらいたい。折入っての頼みだ。無理を承知の酷い頼みだ」
 聞きとりにくいほど小さな声である。
 ふすま。和室の仕切りに使う建具。木などの骨組みの両面に紙や布を張ったもの。
敷居 しきい。襖や障子などの建具を立て込むために開口部の下部に取り付ける、溝やレールがついた水平材。
友禅 ゆうぜん。江戸時代に現れた多彩な模様染め。
前掛け 衣服をよごさないようにきものの上に着ける布。
 たもと。和服の袖付けから下の、袋のように垂れた部分。

 すゞには鏡太郎が苦しんでいるのが分った。その苦しみがすゞの肌に伝わって、ちくちくと絹針の先で突かれるように痛かった。
 ――早くおっしやいましな。そんなにお苦しみになるとお体にさわります。
 どんな酷い頼みか知らないが、いえば少しは鏡太郎の苦しみが減るだろう。すゞも半分、鏡太郎と同じ苦労が味わえる。すゞは、口をつぐんでしまった鏡太郎の顔を、首をかしげて見上げた。
 鏡太郎はほとんど口を動かさずにいった。
「この家から出て行ってもらいたい」
 すゞには鏡太郎のいっていることが、よく分らなかった。手を膝において、首をかしげた姿勢のまま、なお鏡太郎の顔を見つめて次の言葉を待った。が、鏡太郎は黙っていた。
 見えない渦が二人を取り囲み、深い深い、暗い暗い沈黙の底に引きずりこんでいった。
 どれほどそうしていただろうか。すゞの頭の中は空っぽになり、手足にもまるで感覚がなくなっていた。起きているのか、眠っているのか、それさえ判然としなかった。
「あなた、ね、あなたですわね」
 声が出ているか、口が動いていか、自分でもよく分らなかったけれど、すゞは鏡太郎に語りかけてみた。
 鏡太郎の姿勢もさっきから少しも変っていない。外出着のまま、羽織もぬがずにきちんと布団の上に座っている。畳に置いた視線も動いていない。
「先生の御意だ。女と暮らすなら破門すると」
 このひとことを鏡太郎はどんな思いでいっているのだろう。いいたくない、これだけは生命に代えてもいいたくない。それでも、どうしてもいわなければならない仕儀になって、今、鏡太郎はすゞの前に魂ぐるみ生命を投げ出したのだ。(中略)「お前にだけは教えておく。紅葉先生は重い胃病で、お生命いのちはもう永くないんだ」
 先月、紅葉が入院していたことは、すゞも知っていた。今は自宅に戻っているから、すゞは全快したものと思っていたのだが、死期が近いなんて。これでは鏡太郎もすゞも、無理難題を吹きかける紅葉を恨むこともできやしない。
 鏡太郎の腕に力がこもった。その腕の中ですゞは何度も何度も頷いた。

 尾崎紅葉は、1903年(明治36年)3月、胃癌と診断され、4月、ここに書いてあるように泉鏡花を叱責し、10月30日、自宅で死亡しました。享年は37歳でした。

 実際のすずはもっと気が強いような気がします。「鏡花幻想」では話してはいるんですが、ひよわく、気が強くはない。一方「婦系図」でも「湯島の境内」でも、鏡花が描くすずはもっと話しているし、芯も強い。

絹針 きぬばり。絹布や薄手木綿を縫うときに用いる細い針。
羽織 はおり。和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。
仕儀 しぎ。物事の成り行き。事の次第。特に、思わしくない結果や事態。
頷く うなずく。首肯く。肯く。肯定・同意・承諾などの気持ちを表して首をたてに振る。

尾崎紅葉旧居跡(360°VRカメラ)

 平成28年、新しく説明文がでました。これは新しいものです。なお「十千萬堂」は、この説明文では「とちまどう」となっていますが、やはり「とちまんどう」でしょう。ここだけは「とちまんどう」としています。

文化財愛護シンボルマーク

新宿区指定史跡
 ざき こう よう きゅう きょ あと
所 在 地 新宿区横寺町47番地
指定年月日 昭和60年3月1日


 この地は、小説家の尾崎紅葉(1867~1903)が、明治24年(1891)から明治36年(1903)10月30日に亡くなるまで12年間暮らし、代表作「金色こんじきしゃ」など多くの作品を執筆した場所である。
 紅葉は、本名を徳太郎といい、江戸の芝中門前町(現在の港区浜松町)に生まれた。東京府第二中学や三田英学校で学び、明治16年(1883)大学予備門に入学、同18年にはやまみょうらと硯友社けんゆうしゃを結成、回覧雑誌『らくぶん』を発行した。同21年には帝国大学法科大学(現在の東京大学)政治科に入学、翌年には文科大学国文科に移るが同23年に退学した。在学中から読売新聞社に入社し、「きゃまくら」「三人妻」などを連載して人気作家となり、やがて明治めいじ文壇ぶんだん重鎮じゅうちんとして幸田こうだ露伴ろはんとともに紅露こうろ時代じだいを築いた。
 紅葉は鳥居家の母屋を借りて居住したが、自らの号でもある「まんどう」と称した。二階の八畳と六畳を書斎と応接間にし、一階にはいずみきょうら弟子が起居したこともあった。当時の家屋は戦災により焼失したが、鳥居家には今も紅葉がふすまの下張りにした俳句の遺筆が保存されている。
 平成28年3月25日

新宿区教育委員会


野田宇太郎|文学散歩
 牛込界隈⑥紅葉十千万堂跡

文学と神楽坂

   紅葉十千万堂跡

 飯塚酒店藝術倶楽部の思い出を右にしてそのまま南へまっすぐに横寺町を歩くと、左に箪笥町への道がわかれ、その先は都電通りに出る。その道の右側に大信寺という罹災した古寺があり、その寺の裹が丁度ちょうど尾崎紅葉終焉の家となった十千万堂の跡である。十千万堂というのは紅葉の俳号で、戦災焼失後は紅葉の家主だった鳥居氏の住宅が建てられた。その表入口は横寺町の通りにあって、最近新らしく造られた鉄製の透し門の中に、新宿区で今年の三月に新らしく建て直したばかりの「尾崎紅葉旧居跡」と書いた、史跡でなく旧跡の木札標識がある。そこへ入った奥の左側の、鳥居と表札のある家の屋敷内が、ほぼ十千万堂の跡に当る。
 紅葉が祖父の荒木氏と共に横寺町四十七番地にそれぞれ隣りあわせて一軒ずつの貸家を借りて住みついたのは、明冶二十四年二月頃である。
 明冶二十二年の新著百種第一冊『二人比丘尼色懺悔』が作家としての出世作となった紅葉ではあったがすでにその頃は硯友社を率いる新進作家と云ってよかった。樺島喜久を妻に迎えたのは明治二十四年三月、横寺町に移って間もなくの二十五歳のときである。

都電通り 大久保通りです。
大信寺 新宿区横寺町にある浄土宗寺院です。図では赤い矢印。詳しくはここに

終焉の家 図では「尾崎紅葉旧居跡」です。
今年 昭和44年です
木札標識 現在は「新宿区指定史跡」になりました。詳しくはここで
新著百種 1889年に吉岡書籍店で刊行しました。
二人比丘尼色懺悔 ににんびくにいろざんげ。尾崎紅葉氏の出世作。ある草庵に出逢った2人の尼が過去の懺悔として語る悲しい話。

 泉鏡花が紅葉門人第一号として入門したのもその年十月で、鏡花は先ず尾崎家の書生として同居し、明治二十七年には父の死を迎えて金沢に帰郷し、貧苦の中に「義血侠血」などを書いた期間もあったが、大凡二十八年二月まで、約四年間を紅葉の許で薫陶を受けた。鏡花につづいて柳川春葉小栗風葉徳田秋聲などが硯友社の門を潜って紅葉に師事し、やがて鏡花、秋聲、風葉は次代の文壇に新風を捲き起すと共に、紅葉門の三羽烏とも呼ばれるようになった。そのうちの小栗風葉が中心となって、十千万堂裏の、少し低くなった箪笥町の一角に文学塾が開かれたのは明治三十年十二月からである。
 紅葉は入門者があると一時この文学塾に入れるのが常であった。その塾では秋聲も明治三十二年二月に筑土八幡下に移るまで梁山泊のような生活をしたことがある。
 明治三十年一月から三十五年五月に亙り読売新聞に継続連載し、三十六年一月から三月までは「新小説」にその続篇を書きつづけた『金色夜叉』を最後に、紅葉が胃癌のために歿したのは明治三十六年十月三十日で、まだ三十七歳の若さであった。だがその死は悟りに徹したともいえる大往生で、「死なば秋露のひぬ間ぞ面白き」という辞世の句をのこしている。
義血侠血 旅芸人の女性がある青年を金銭的に援助する。その女性がある男性を過失で殺し、検事になった青年が断罪する。最後は2人ともに自殺で終わる。「瀧の白糸」の原作。
大凡 おおよそ。細部にこだわらず概略を判断する。だいたい。大ざっぱに。およそ。
薫陶 人徳・品位などで人を感化し、よい方に導くこと。香をたいて薫りを染み込ませ、陶器を作り上げる意から。
文学塾 十千万堂塾、または詩星堂。詳しくは徳田秋声の「‎光を追うて」で
梁山泊 りょうざんぱく。中国山東省済寧市梁山県の沼。『水滸伝』ではここに住む人々を主人公とした小説。転じて、豪傑や野心家の集まる場所。
金色夜叉 『読売新聞』連載。未完。鴫沢しぎさわ宮はいいなずけである一高生のはざま貫一を捨てて富豪の富山と結婚する。貫一は復讐のために高利貸の手代となる。
ひぬ 干ぬ。乾く。

 わたくしが昭和二十六年にはじめて紅葉住居跡をたずねたときは、秋聾が昭和八年に書いた「和解」という小説に、K(鏡花)と共にその附近を久しぶりに歩いたことがほぼ事実通りに書かれているので、それを頼りに焼け跡の大信寺で横寺町四十七番地の紅葉住居跡を尋ねると、中年の婦人が紅葉の大家でもあったという寺の裏の鳥居という家を教えてくれた。
 鳥居家は焼け跡に建てられたばかりの、まだ新らしい家であったが、紅葉歿後の十千万堂のことを知る老婦人がいて、昔の玄関や母家の在り方まで詳しく語った。紅葉遺著の『十千万堂目録』の扉に描かれている玄関口の簡単なスケッチなどを記憶して訪れたわたくしに、玄関前の木はモチの木で、その木は戦災で焼けたが、根株だけはまだ掘らずに残しているからと、わざわざ上土を取り除けてその黒い根株を見せてくれたりもした。
 そして十千万堂の襖の下張りから出て来たという、よれよれに痛んだ鳥の子紙の一枚には、「初冬や髭もそりたてのをとこぶり 十千万」、もう一枚には「はしたものいはひすきたる雑煮かな 十千万堂紅葉」と、紅葉の癖のある書体でまだ下書きらしい句が一つずつ書かれていた。それをやっとのことで読むと、紅葉葬儀の写貞や「尾崎德太郎」と印刷した細長い洒落た名刺一枚なども奥から出して見せてくれた。……
 あれから十八年が過ぎていると思うと歳月のへだたりはすでにはるかだが、十千万堂跡が新宿区の旧跡に指定されて見学者が多くなっているほかは、鳥居家の容子もあまり変らず、老婦人もさすがに頭髪はうすくなり白いものもふえているが、依然として元気で、久しぶりに訪れたわたくしをよく覚えていて、快く迎えてくれた。
根株 ねかぶ。木の切り株。
上土 うわつち。表面の土。
下張り したばり。ふすま屏風びょうぶなどの下地。
初冬や髭もそりたてのをとこぶり 初冬や髭剃りたての男ぶり
はしたもの 端者。半者。召使いで、身分は中程度。それほど身分の低くない召使いの女。
いはひ 祝い。めでたい出来事を喜ぶこと。

芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)

へだたり 隔たること。その度合い。
容子 様子。外から見てわかる物事のありさま。状況。状態。身なり。態度。そぶり。

矢来町|文士罷り通る

文学と神楽坂

 現在言語セミナー編「『東京物語』辞典」(平凡社、1987年)からです。これは「江戸の名残り」の「矢来町」。

文士罷り通る
 私の生家がある東京牛込の矢来町というところは、ものの本によると、江戸期にお化けの名所だったのだそうである。矢来のもみ並木というと泣く児を黙らせるときの言葉に使われたらしい。樅並木は、今、ほんの名残りという形で残っているが、お化けという言葉はすでにリアリティを失ってしまった。
「幻について」色川武大

罷り通る まかりとおる。「通る」「通用する」を強制し、わがもの顔で通る。堂々と通用する。
 もみ。マツ科の常緑高木。本州中部から九州の低山に生える。

矢来町 下図を参照

名残り ある事柄が過ぎ去ったあとに、なおその気配や影響が残っていること。
リアリティ 現実感。真実性。迫真性。

 もう少しこの文章を読むと(色川武大阿佐田哲也全集・3、福武書店、1991年)

 もっとも、因縁という言葉を上調子に使えば、以下のことを書き記すにいたった発表誌の社屋も、その牛込矢来町に建っている。
 小学校の五年生頃、頻々とズル休みをしたのが祟って父兄呼出しを喰らい、おくれた勉学の埋め合わせに、夜教頭の家に通って特別講習を受けることを命じられた。折角のご配慮であったが、私はそれも途中からズルけて家を出ると映画館や寄席に入り浸ってしまう。
 というのは、私はもともとはきはきしない子供だったが、教頭先生の前にきちんと坐っていると、トイレに行きたい、ということがなかなかいいだせない。そうなるとなおさら行きたくなるもので、ある夜、猛烈な我慢の末に、座布団の上で小便を垂れ流してしまった。しかも、私はなおうじうじとして、失態のお詫びもせずに黙って帰ってきてしまう。それで行きにくくなったこともある。
 矢来町にはその頃、某大名の末裔の広大な邸があり、その裏手の長い塀に沿った小道の向こう側は学校と空地で、ところどころにぽつんと街燈がある。教頭宅からの帰途だから十時近くで、寒い晩だった。私は子供用のマントを羽織っていたが、級友はみなオーバーなので私はその服装が嫌でしょうがなかった記憶がある。
 その道を、ぽっつりと和服の女の人が歩いてきた。変った姿をしていたわけではないが、ただ遠眼に顏が白すぎる。白っぽさが眼につきすぎる。子供心に、おや、と思っているうちに近づき、すれちがった。
 その女の人は、お面をつけていた。
発表誌 昭和54年、「別冊小説新潮」に発表
うじうじ 決断力がなく、思いためらう。ぐずぐず。
某大名の末裔 若狭わかさ国(福井県)小浜藩の酒井邸。
小道 下図を参照

学校 商業学校がありました。

 この本文に対する「解説」は……

 江戸名物の一つ、小浜藩主酒井邸の竹矢来が、明治五年の町名決定に際しそのまま「矢来町」となる。現在の東京の町名で旧地名が残る数少ない町の一つである。
 また明治期の矢来町は、多くの文学者が居住した町としても名高い。「海潮音」の上田敏が明治20年。「今戸心中」の広津柳浪、実子で『神経病時代』の広津和郎が、24年からほぼ10年間居住。その他、小栗風葉川上眉山硯友社組に私小説の極北といわれる嘉村磯多など。
 英国留学より帰国した夏目漱石が、妻鏡子の実家のあるここ矢来町に三ヶ月いて、明治36年3月、本郷区千駄木町へ居を構えた。
竹矢来 竹を縦・横に粗く組み合わせて作った囲い。

 最後は章の脚注です。

*現在でも都心とは思えぬほど静かな住宅街である。矢来町の中心には地下鉄東西線の「神楽坂」駅がある。本来、「矢来町」駅でもよかったはずなのだが、知名度を考えて神楽坂駅としたらしい。もっとも神楽坂の毘沙門天まで僅か二、三百メートルの距離でしかないが。
矢来能楽堂の近くに、新潮社の社屋がある。創設者佐藤義亮が「中央文壇にあこがれて18歳の時、裸一貫で上京して以来、新聞配達をやり、牛乳配達をやり……辛酸を重ね、初め《新声社》を起したが倒産、捲土重来を期し改めて文芸出版社、新潮社を設立」(村松梢風「佐藤義亮伝」)した。出版界に大きなトレンドをつくった新潮社がここに出来たのは大正2年のことであった。
矢来能楽堂 1908年、神田西小川町に舞台を設けたが、関東大震災で焼失。1930年に牛込矢来町60の現在地に移って復興。1945年5月24日、空襲で再度焼失。昭和27年、現在の舞台・建物が完成。
捲土重来 けんどちょうらい。けんどじゅうらい。物事に一度失敗した者が、非常な勢いで盛り返すこと。
トレンド trend。動向。傾向。趨勢。風潮


紅葉の葬儀②|江見水蔭

文学と神楽坂

 江見水蔭氏は小説家で、硯友社同人、のちには大衆小説を書いています。1869年9月17日(明治2年8月12日)に生まれ、昭和2年に書いた『自己中心明治文壇史』は貴重な文壇資料になりました。これは尾崎紅葉氏の葬儀の情況です。

坪内先生の卒倒(明治三十六年の冬の下)
 紅葉の死に就て各新聞は競つて記事を精密にした。その葬儀の模様も委細に報導されたので、茲には主として、自己中心で記載するが、贈花其他は可成り長くつゞいた。棺惻に門生逹が左右に別れて從つたが、其中に異彩を放つたのは、瀬沼夏葉女史で、この人はニコライ神學校の教師瀬沼某の夫人で、露國文學に通じ、その飜譯を故人に示しなどしてゐた。
 硯友社員は棺後に直ぐつゞいた。會葬者は一人も殘らず徒歩で青山の齋場まで附随した。高田先生なども無論であつた。
 思案が行列整理の任に當つて「皆二列に並んで下さい。」と無遠慮に觸れて廻つたが、皆その通りにして呉れた。自分は柳浪と並んで行つた。
 川上音二郎藤澤淺二郎二人が、横寺町の某寺門前で、シルクハツトフロツクコートで默送してゐた。行列が神樂坂を降り、堀端を進行中に、陸軍將校が騎馬で通行し掛つて、馬の暴れを鎭め切れず、一寸行列を亂した事があつた。
森鷗外丶丶丶丶騎馬で丶丶丶紅葉の丶丶丶行列を丶丶丶攪亂丶丶さした丶丶丶。」と某新聞に記載したのは、全くの無根で、前記の軍人を鷗外に嵌めて了つたのだ。

ニコライ神学校 千代田区神田駿河台の正教会の大聖堂。正式には東京復活大聖堂。ロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライ(Nicholas)に由来。
瀬沼某 瀬沼恪三郎かくさぶろうのこと。明治23年、ロシアに留学。キエフ神学大にまなぶ。帰国後、正教神学校教授、校長をつとめる。
二人 「金色夜叉」を演じた役者たちです。
嵌める はめる。ぴったり合うように物を入れる。物の外側にリング状や袋状の物をかぶせる。

 青山齋場は立錐の地も無いまでに會葬者が詰めてゐた。
 硯友社の追悼文は、眉山が書いて、思案が讀んだが、途中から鳴咽して丶丶丶丶丶丶丶丶切々丶丶聽くに丶丶丶忍びず丶丶丶會葬者も丶丶丶丶亦多く丶丶丶涕泣した丶丶丶丶
 突然會葬者中に卒倒者を生じた丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶それは坪内逍遙先生であつた○○○○○○○○○○○○○。それを最初に氣着いて抱き留めたのは、伊臣眞であつた。早速場外へお逹れして、岡野榮の家で靜養されたが、一時は皆吃驚した。(腦貧血を起されたのであつた。)
 次ぎに角田竹冷宗匠が、秋聲會を代表して追悼文を讀んだ。之も亦泣きながらであつた。
 門弟を代表しては鏡花が讀んだ。
 自分は長年、多くの葬儀に列したけれども、紅葉の時の如く會葬者の殆ど全部が、徒歩で以て長途を行き、二列の順をくづさなかつた樣なのは、他に見なかつた。又齋場に於ける緊張味は、殆ど類を見ないのであつた。わざと成らぬ丶丶丶丶丶丶劇的光景丶丶丶丶に富んだ丶丶丶丶のは丶丶故人の丶丶丶徳望の丶丶丶現はれ丶丶丶と見て丶丶丶好からう丶丶丶丶である丶丶丶

青山斎場 現在は青山葬儀所。場所は港区南青山2-33-20。明治34年に民間の斎場として開設。大正14年に旧東京市に寄付。なお、尾崎紅葉の墓は青山霊園で1種ロ10号14側にあります。
秋声会 しゅうせいかい。俳句結社。1895年(明治28)10月、角田竹冷ちくれい、尾崎紅葉、戸川残花、大野洒竹しゃちくらが、日本派以外の新派俳人を広く糾合して創立。その趣旨は、新古調和、折衷主義で、革新的意気に欠け、作句面では遊俳とも称される趣味的傾向が強かった。
宗匠 そうしょう。文芸・技芸などの道に熟達し、人に教える立場にある人。特に和歌・連歌・俳諧・茶道・花道などの師匠。
長途 ちょうと。長いみちのり。遠い旅路。
わざとならず ことさらでない。さりげない。自然な。

尾崎紅葉の臨終③江見水蔭

文学と神楽坂

 江見水蔭氏が『自己中心明治文壇史』で書いた尾崎紅葉氏の臨終の様子です。

   紅葉逝く(明治三十六年の冬の上)

 悲しみの極みの日は遂に来た。十月三十日の朝、紅葉危篤の至急電報が來た。急いで自分は陣屋横町の家を出た。
其頃自動車があれば問題ではないのだが、品川から牛込までは、綱曳の人力車としても相當に時間を要するのだ。
取りあへず品川驛へ駈付けると、其折、山の手線の汽車が入つたので、急いでそれに飛乘り、新宿で又乘替へて、牛込驛で下車したが、此時品川から偶然同行したのは、紅葉夫人菊子の從妹の良人、岸といふドクトルであつた。
硯友社員及び門下生は勿論、角田竹冷長田秋濤齊藤松洲、その他が前後して駈付けて來た。
紅葉の病床は二階の八疊? 我々は階下の一室に詰切つてゐた。看護には菊子夫人を初め親族方が附切りの他に、看護婦二人ゐた。(この内の丶丶丶丶一人が丶丶丶後に丶丶柳川丶丶春葉丶丶夫人丶丶
それから○○○○神樂坂○○○藝妓で○○○相模屋○○○○養女○○である○○○小ゑん○○○といふのも○○○○○枕頭を○○○離れ○○なか○○。(この小ゑんといふのは、明治二十七年の三月三十一日に初めて紅葉と逢つた。それは紅葉が思案風谷及び自分との四人連れで、例の吉熊で小集した時なので。その後一二度社中と共に矢張吉熊へ呼び、四月二十一日には紅葉思案風谷及び自分との四人逹で、相模屋の經營してゐる喜美川といふ待合に遊んだのが深くなる始まりであつた。それからズツト永く續いてゐるのであつた。この小ゑんが紅葉死後、東洋通の某代議士の貞淑なる夫人と成つた。その代議士も先年物故した。)
午後に丶丶丶成つて丶丶丶(何時であつたか記憶を缺ぐ)もう丶丶到底丶丶駄目丶丶だから丶丶丶靜かに丶丶丶暇乞丶丶したら丶丶丶好からう丶丶丶丶といふので丶丶丶丶丶、親族側が先きで有つたらう。それから友人逹が、二階の六疊? の方に入つて待合せ、そこから二人宛組んで、次の間の八疊? の方に行き、生前の△△△告別△△をした△△△。(門生一同を集めて――七たび丶丶丶人間に丶丶丶生れて丶丶丶文章丶丶報國丶丶遺言丶丶した丶丶時に丶丶――ドレ△△を見ても△△△△マヅイ△△△面だなァ△△△△――と死の丶丶前の丶丶諧謔丶丶發した丶丶丶といふ丶丶丶のは丶丶前後丶丶の筈丶丶。)
自分の前には、秋濤と他に一名で、あのノンキ屋の秋濤が涙滂沱で出て來たのが、今も歴々と限前に浮んで来る。それとスレ違ひに自分は柳浪と共に病室に入った。
紅葉は丶丶丶未だ丶丶意識は丶丶丶明瞭で丶丶丶二人の丶丶丶顏を丶丶見て丶丶
遠方を◎◎◎ワザ◎◎/\◎◎……』と云つて丶丶丶その儘丶丶丶眼を丶丶閉ぢた丶丶丶
自分は△△△胸が△△一杯で△△△低頭△△した△△ゞけで△△△一言も△△△發し△△得な△△かつ△△。柳浪も同樣であつた。それで其儘退いて他と入替つた。
遠方をワザ/\とは、明かに自分に向つてゞ。それは其時代としては、品川は東京外で、旅へでも出るツモリで、呑氣に遊ぶ程なのだが。それは丶丶丶紅葉が丶丶丶自分に丶丶丶發し丶丶最後の丶丶丶別れの丶丶丶としては丶丶丶丶何んだか丶丶丶丶餘所行丶丶丶挨拶丶丶の様で丶丶丶自分丶丶としては丶丶丶丶悲し丶丶かつ丶丶
自分は神戸以來、紅葉の感情を害してゐたに相違無かつた。皆それは自分の不德の致す處なので、それには辯解の辭が無いのである。
小波が獨逸滞在中、紅葉が三十五年五月六日夜一時に書いた手紙の中に(『紅葉より小波へ』参照)

(前略)眉山には今だに一會も致さず稀有なるはあの男に御座侯如何致し候つもりにやあれほどの友にてありながら無下にあさましき人に有之侯
水蔭も日増に遠々しく相成はや半年近くも面會不致(下略)

 斯ういふ有樣で、紅葉晩年の親友は大分變つてゐた。(眉山のは、自分のと違つて、明かに理由があつた。それは小波洋行の時、送別會に顏を出さなかったのを紅葉が怒ったので、眉山もツヒ其爲に來難く成つてゐたのであつた。臨終には無論駈付けて來たので、紅葉は丶丶丶我儘丶丶氣儘丶丶丶に就て丶丶丶最後の丶丶丶忠告を丶丶丶試みた丶丶丶此時は丶丶丶眉山も丶丶丶泣い丶丶服膺した丶丶丶丶。)
夜十一時、遂に昏睡に入つた。親族、友人、門生等の多数に取卷かれて、安らかに永き眠りに就いた。自分は丶丶丶此時丶丶釈尊丶丶涅槃丶丶の有樣丶丶丶連想せず丶丶丶丶には丶丶ゐられ丶丶丶なか丶丶

陣屋横町 旧東海道品川宿の1横町。京浜急行新馬場駅の近くで、『東京逍遙』では、ここ。

綱曳の人力車 人力車などで、急を要するとき、かじ棒に綱をつけてもう一人が先引きすること。図を参照。
紅葉の病床 これを参考に。
小えん 神楽坂の芸者で愛人。芸妓置屋相模屋の村上ヨネの養女でした。
喜美川 明治37年の「新撰東京名所図会」では喜美川の所在はわかりませんでした。神楽阪(現在の神楽坂一~三丁目)、上宮比町(現、神楽坂四丁目)、肴町(現、神楽坂五丁目)、通寺町(現、神楽坂六丁目)にはありませんでした。なくなったか、それ以外にあったかでしょう。
暇乞い いとまごい。別れを告げること。別れの言葉。
告別 別れを告げること。いとまごい。
文章 文を連ねて、まとまった思想や感情を表現したもの。威儀・容儀・文辞などとして、内にある徳の外面に現れたもの。
報国 国恩にむくいるために働くこと。国に尽くすこと。
諧謔 おどけておかしみのある言葉。気のきいた冗談。ユーモア。
滂沱 ぼうだ。雨が激しく降る様子。涙がとめどなく流れる様子。
歴々 はっきりと。ありありと見える。
余所行き よそゆき。よそへ行くこと。外出すること。改まった態度や言葉づかい。
服膺 ふくよう。心にとどめて忘れないこと。
釈尊 しゃくそん。釈迦の尊称。
涅槃 ねはん。煩悩を消して、悟りの境地にはいること。釈迦の死亡。

尾崎紅葉の臨終④伊藤整

文学と神楽坂

 伊藤整氏の『日本文壇史』第7巻(講談社、初版は1964年)では尾崎紅葉氏の臨終を詳しく書いています。

 硯友社の社員は当初は4人でした。明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校、現・東京大学教養学部)の学生、尾崎紅葉山田美妙石橋思案と高等商業学校(現・一橋大学)の丸岡九華の4人が創立したのです。同年5月、機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を発行。以降、同人に巌谷小波(いわやさざなみ)広津柳浪川上眉山らが参加、また紅葉門下の泉鏡花小栗風葉柳川春葉徳田秋声等が加わっています。『我楽多文庫』には小説、漢詩、戯文、狂歌、川柳、都々逸(どどいつ)などさまざまな作品を載せ、その結果、明治20~30年代の文壇の中心勢力になりました。

 玄関の三畳に集っていた七人の弟子たちへも遺言するというので、皆は二階の八畳の病室へ入った。紅葉は目を閉していた。弟子たちが、
「先生、先生」と口々に呼んだ。
 紅葉は目を見開いた。そして言った。
「まづい面を持つて来て、見せろ。」
 一人一人名前を言え、と言われて、一同は次々と「小栗です」、「です」、「徳田です」、「柳川です」と言った。
 それに一つ一つうなずいてから、紅葉は言った。
「お前たち、相互に助け合って、おれの門下の名を辱しめないやうにしろよ。夜中は忙がしい所を毎夜かはるがはる夜伽(よとぎ)に来て呉れて満足した。どうか病気に勝って今一度生き返り、世話をしてやらうと思つてゐたこともあるが、もういかん。これから力を合せて勉強し、まづいものを食っても長命して、ただの一冊一篇でも良いものを書け……おれも七度生れ変つて文章のために尽す積りだから……」
 すすり泣く声か弟子たちの間に起った。

玄関の三畳 後藤宙外氏の『明治文壇回顧録』によれば
半坪程の土間につづく取次の間は、確か二畳であつたと思ふ

 と書き、一方、鳥居信重氏が『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会)で描く尾崎邸の玄関は

畳二枚に板敷1畳分の玄関

と書いてあります。野口冨士男氏の『私のなかの東京』では

面積は三畳でも、そのうちの奥の一畳分は板敷きになっていたので三畳といえば三畳だが、二畳といえば二畳でもあったのである

と書いています。図はここにあります。
七人の弟子たち 七人の名前のうち泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声は正しいと思います。「十千万堂塾」や「詩星堂」に入った人は風葉、春葉、秋声の3人に加えて、白峯、紫明、凉葉でした。これがそうでしょうか。
夜伽 病人の看護、主君の警備などのために夜通し寝ずにそばに付き添うこと。
「直さん、直さん」と妻喜久子の弟の医師樺島直次郎を呼び、モルヒネを多量に注射して死なしてくれ、と言った。樺島直次郎が、あまり興奮するといけない、と言うと、紅葉は憤然として、
「そんなに女々しくちや仕方がない。どうせ命かない者か悶え苦しんで二時間や三時間生きながらへて何になるものか」と言った。
 皆が困り切っていると、彼は言葉をついで、
「理窟の分らぬ奴ぢやないか。この苦しみをして生きてゐたつて、何の役に立つものか。お前等がそんなことを言ふのは。死んだことがないからだ。嘘だと思ふなら死んでみろ」と言った。
 あまり興奮させては、と皆が次の間に下り、樺島直次郎はカンフルにモルヒネを少し入れて注射した。そのあと紅葉は気分が落ちついた。そして何か甘い(あん)のようなものを食べたいと言うので、金鍔(きんつば)を一口食べさせた。
 そのうちに、また小栗、泉と呼ぶので二人が行くと、
「今夜は酒はどうした?」と、いつもの夜伽のことを訊いた。鏡花は、今夜も酒を持って来ました、徳田は、肴として鳥と松茸の煮たのを持って来ました、と言った。
「三十日近くに、えらいな。酒をここへ持って来て飲んだらよからう」と紅葉が言った。
 酒はもう下で皆で飲んでしまった後だったので、改めてそこへ酒を持って来させ、鏡花と風葉の間に置き、紅葉には管で少し口に入れてやり、あとを皆が一口ずつ飲んだ。別れの盃であった。

カンフル 樟脳。しょうのう。医薬名。中枢神経興奮薬で、心運動亢進や血圧上昇をきたす。興奮剤としてカンフル注射液を用いていたが、作用が不確実なため、使用は現在なくなった。
金鍔 小麦粉の薄い皮で餡を包み、刀の鍔に似せて平たくし、鉄板の上で軽く焼いた和菓子

金鍔

金鍔

 そのあとで紅葉が、思案に、
「石橋、是非解剖してくれ」と言った。
 思案が当惑して口ごもると、
「何だ生返事なんかしやがつて。おれを解剖すると新聞屋なんざあ種がふえて喜ぶだらう」と言って微笑した。そのあとで紅葉は、葬式に寝棺を使うと皆より高い位置になって悪いから、駕籠(かご)にしてくれと言い、また遺品の分配のことも言った。朝方の四時半には遺言もお別れも済んだ。
 その頃、突然、すさまじい音を立てて大雨が降りはじめ、雨の中に夜が明けた。
 紅葉が言った。
「石橋、曇天(クラウデイ・ウエザー)だな、なに、(レーン)が降つてる? どうも天気の悪いのが一番いやだ。」
 そして彼は顔をしかめた。
 それから彼は牛乳を少し飲んだ。五六人ががりで寝巻や蒲団をすっかり新しく取り替えたあと、紅葉はよく眠った。
 この十月三十日の朝早く打った電報で、 硯友社員の江見(えみ)水蔭(すいいん)川上(かわかみ)眉山(びざん)広津(ひろつ)柳浪(りゅうろう)丸岡(まるおか)九華(きゅうか)たちがまた駆けつけた。外に長田(おさだ)秋濤(しゅうとう)斉藤(さいとう)松洲(しょうしゅう)角田(つのだ)竹冷(ちくれい)などの友人も来た。午後になって、もう駄目だから暇乞いしようと言って、親戚から順に二人ずつ八畳の病室に入った。長田秋濤は涙を滂沱(ぼうだ)と流していた。柳浪と水蔭が一緒に入ると、紅葉は、目を開いて二人を見、
「遠方をわざわざ、……」と言って、すぐまた目を閉じた。柳浪も水蔭も胸が一杯になり、一語も発することかできなかった。眉山が入って行くと、紅葉は、眉山の我がままについて最後に忠告をした。眉山は泣き出した。
 その夜の十一時十五分、潮の引きぎわに、紅葉は昏睡したまま息を引きとった。

暇乞い いとまごい。別れを告げること。別れの言葉。
滂沱 雨の降りしきるさま。涙がとめどもなく流れ出る様子

文壇昔ばなし②|谷崎潤一郎

文学と神楽坂


             ○
紅葉の死んだ明治卅六年には、春に五代目菊五郎が死に、秋に九代目團十郎が死んでゐる。文壇で「紅露」が併稱された如く、梨園では「團菊」と云はれてゐたが.この方は舞臺の人であるから、幸ひにして私はこの二巨人の顏や聲音(こわね)を覺えてゐる。が、文壇の方では、僅かな年代の相違のために、會ひ損つてゐる人が随分多い。硯友社花やかなりし頃の作家では、巖谷小波山人にたつた一囘、大正時代に有樂座自由劇場の第何囘目かの試演の時に、小山内薰に紹介してもらつて、廊下で立ち話をしたことがあつた。山人は初對面の挨拶の後で、「君はもつと背の高い人かと思つた」と云つたが、並んでみると私よりは山人の方がずつと高かつた。「少年世界」の愛讀者であつた私は、小波山人と共に江見水蔭が好きであつたが、この人には遂に會ふ機會を逸した。小波山人が死ぬ時、「江見、己は先に行くよ」と云つたと云ふ話を聞いてゐるから、當時水蔭はまだ生きてゐた筈なので、會つて置けばよかつたと未だにさう思ふ。小栗風葉にもたつた一遍、中央公論社がまだ本郷西片町麻田氏のの二階にあつた時分、瀧田樗陰(ちよいん)に引き合はされてほんの二三十分談話を交した。露伴藤村鏡花秋聲等、昭和時代まで生存してゐた諸作家は別として、僅かに一二囘の面識があつた人々は、この外に鷗外魯庵天外泡鳴靑果武郎くらゐなものである。漱石一高の英語を敎へてゐた時分、英法科に籍を置いてゐた私は廊下や校庭で行き逢ふたびにお時儀をした覺えがあるが、漱石は私の級を受け持つてくれなかつたので、残念ながら聲咳に接する折がなかつた。私が帝大生であつた時分、電車は本鄕三丁目の角、「かねやす」の所までしか行かなかつたので、漱石はあすこからいつも人力車に乗つてゐたが、リュウとした(つゐ)大嶋の和服で、靑木堂の前で俥を止めて葉巻などを買つてゐた姿が、今も私の眼底にある。まだ漱石が朝日新聞に入社する前のことで、大學の先生にしては贅澤なものだと、よくさう思ひ/\した。

菊五郎 尾上(おのえ)菊五郎。明治時代の歌舞伎役者。市村座の座元。生年は1844年7月18日(天保15年6月4日)。没年は1903年(明治36年)2月18日。享年は満58歳。
團十郎 市川団十郞(だんじゅうろう)。明治時代の歌舞伎役者。屋号は成田屋。生年は1838年11月29日(天保9年10月13日)。没年は1903年(明治36年)9月13日。享年は満64歳。
紅露 コウロ。紅露時代。明治20年代の近代文学史上の一時期で、尾崎紅葉と幸田露伴が主導的立場にあった。
梨園 俳優、特に、歌舞伎役者の世界。唐の玄宗皇帝が梨の木のある庭園で、みずから音楽・舞踊を教えたという「唐書」礼楽志の故事から。
團菊 普通は三人で、団菊左。だんぎくさ。明治を代表する歌舞伎俳優、九世市川団十郎・五世尾上菊五郎・初世市川左団次のこと
声音 声の調子。こわいろ。
有楽座 日本最初の全席椅子席の西洋式劇場。現在は有楽町のイトシアプラザ(ITOCiA)が建つ。1908年(明治41年)12月1日に開場。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼亡。
自由劇場 小山内薫と市川左團次(2代目)が明治時代に起こした新劇運動。「無形劇場」で劇場や専属の俳優を持たない。
試演 試験的に上演や演奏すること。
少年世界 少年読者を対象とした雑誌。博文館発行。1895年1月創刊、1933年10月終刊。
中央公論社 雑誌『中央公論』を中心とする総合出版社。1886年に創立された西本願寺の修養団体「反省会」がその前身。1912年西本願寺から離れ、14年中央公論社と改称。坪内逍遙訳「新修シェークスピヤ全集」 (1933) 、谷崎潤一郎訳『源氏物語』 (39~41) などを出版。
西片(にしかた) 東京都文京区の町名。右上図は現在の西片町。このほぼ90%が昔の駒込西片町。これに駒込東片町・田町・丸山福山町・森川町・柳町の1部が合併し、成立したもの。
 旧麻田駒之助邸は残っています。図を。
一高  昭和10(1935)年までは本郷向ヶ岡弥生町(現・東京大学農学部敷地)にありました。
聲咳に接する 正しいのは謦咳(けいがい)。尊敬する人に直接話を聞く。お目にかかる。
かねやす 東京都文京区本郷三丁目にある雑貨店。「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳で有名。
 つい。素材や模様・形などを同じに作って、そろえること。
大島 大島紬。おおしまつむぎ。鹿児島県奄美大島特産の伝統工芸品、紬織物の一種。高級着物地。
青木堂 文京区本郷5丁目24にありました。1階が小売店で洋酒、煙草、食料品を販売、2階は喫茶店。青木堂はここが本店。なお、牛込区通寺町(現、神楽坂六丁目)の青木堂とは関係はないといいます。

神楽坂|東京繁昌記

文学と神楽坂

 木村荘八氏が書いた『東京繁昌記』という本があり、私は区の図書館で借りて読みました。A4判で、厚さは2.5cm。重さは1.6kgもあります。おっきい。全体で246頁なので、1頁1頁が相当に重たい。区の本は昭和33年に発行した演劇出版社の複製で、昭和62年に国書刊行会が再発行しています。
 氏は洋画家であり、生家は牛鍋屋いろは。岸田劉生氏とフューザン会・草土社を結成。小説の挿絵で有名で、『東京繁昌記』の画文は芸術院恩賜賞を受けました。生年は明治26年8月21日。没年は昭和33年11月18日。享年は満65歳でした。
 で、これほどの重い本だと「神楽坂」の文章も多いのではと思いましたが、文字は1頁以下でした。昭和30年、読売新聞の「師走風景帖」の文章で神楽坂を描いています。

東京繁昌記 尾崎紅葉の句に「寒参り闇にちんちん千鳥かな」。その白装束の寒参りを点景として神楽坂を描いた絵を見たことがあるが、九段坂には車のあと押しの「立ちんぼ」を配するなど、明治の人の風景描写は叙情細やかだった。上五を忘れたけれども「――つらりと酔ふて花の春」これも紅葉の句で、その注解に、一夜明けると、紅葉は門下生に羽織と着ものの「おしきせ」を出し、それを着つれた連中がほろ酔いで肩をそろえ、目白押しに神楽坂に行くところ、とあった。
 明治の神楽坂は硯友社の勢力範囲だった。今の神楽坂は早稲田と法政のなわ張りだろう――山の手の地形はここ(牛込)も麻布と同じく、到底後からの人工では出来ない(あが)り・(さが)りに豊富で、坂の名は、昔市ヶ谷八幡の祭礼にこの坂の近くで神楽を奏したからこの名があるといわれ、あるいは若宮八幡の神楽がこの坂まで聞えたからともいわれる。

 12月9日

寒参り闇にちんちん千鳥かな 岩波書店の『紅葉全集』第九巻を調べましたが、「寒詣翔るちん/\千鳥哉」だけが全集にはありました。
――つらりと酔ふて花の春 『紅葉全集』第九巻にはなさそうです。
目白押し めじろおし。メジロが樹上に押し合うように並んでとまるところから。多人数が込み合って並ぶこと。

 反対側の頁にはA4判全てを使って白黒の絵を描いています。パチンコマリーは現在のゲームセンター「セガ神楽坂」(場所はここ)に当たります。

木村荘八氏の「神楽坂」

木村荘八氏の「神楽坂」


大震災①|昭和文壇側面史|浅見淵

文学と神楽坂


 関東大震災の神楽坂の様子です。浅見(ふかし)氏は昭和時代の小説家、評論家で、私小説風の作品や作家論、作品論などを発表しました。『昭和文壇側面史』は昭和43年に発表し、浅見淵は69歳のときです。

 大正12年9月1日の関東大賞災を知ったのは、大阪においてであった。夏休みで神戸へ帰省していたが、その朝たまたま大阪天満橋の伯父の家を訪ねていたところ、昼時分になり、暑いから川船へいこうと、川船料理屋へ連れていかれた。そして、川魚料理で一杯やっていると、グラグラとやって来て船が大きく揺れ、川波が激しく騒いだ。大きな地震だネと、伯父は呟いたが、それでも、二、三度、揺れ戻しがあると、その儘おさまった。で、ふたたび盃を平にしていると、まもなくジャンジャン号外の鈴の音がし、それが東京潰滅という第一報だったので驚いたのだった。
(中略)当時ぼくは牛込弁天町の下宿屋にいたので、下宿屋はもちろんのこと、神楽坂を中心とする牛込の山の手界隈はほとんど被害らしい被害は無かった。神楽坂の中ほどに、巌谷一六書の金看坂を掲げた、いまでも残っている老舗の尾沢薬局が、そのころ、隣りにレストランを経営していた。このレストランの二階が潰れていたくらいである。(中略)

田原屋・川鉄・赤瓢箪

 戦災で焼け、近年やっと復活して昔のように客を集めているらしい洋食屋の田原屋は、大震災のころ既に山の手の高級レストランとして有名だったが、この田原屋。肴町の路地の奥にあった、尾崎紅葉をはじめ硯友社一派がよく通ったといわれる川鉄という鳥屋。それから、質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋。これらの店には、文壇、画壇、劇壇を問わず、あらゆる有名人が目白押しに詰めかけていた。白木屋がいち早く神楽坂の中途に特売所を設けたが、一応物資が出まわると、これが牛込会館という俄か劇場に早変わりし、水谷竹紫水谷八重子たちの芸術座アンドレーフの「殴られるあいつ」を上演したりしていた。この劇団に、のちに築地に小劇場のスターとなった、東屋三郎汐見洋田村秋子たちが客演していたが、この連中の顔がとくに赤瓢箪ででよく見受けられた。


弁天町 場所は新宿区の北部に。巨大な町ですが、明治5年から変わっていません。大部分が宗参寺の境内で、元禄十一年以降次第に町皿みができ門前町となりました。
弁天町
尾澤薬局尾沢薬局 神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています。
レストラン 尾沢薬局の隣りは、カフェー・オザワといいました。加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』「早稲田神楽坂」(昭和2年)によれば「薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフェを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないゝカッフェが出来、それで益〻土地が開け且その繁栄を増すように思われたからだった。」
赤瓢箪 これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では「おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん」と書き、昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では「赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。」と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。関東大震災でも潰れなかったようです。
白木屋 しろきや。東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ。かつて日本を代表した百貨店の一つ。法人自体は現在の株式会社東急百貨店として存続。1930年(昭和5年)、錦糸堀や神楽坂に分店を出しています。
牛込会館 神楽坂の2丁目から3丁目に入ってすぐ右側で、現在は「サークルK」です。関東大震災の数日後、水谷竹紫と水谷八重子は牛込会館の屋上に上っています。牛込会館は現在はサークルKに変わっています。
芸術座 第二次芸術座。第一次芸術座は、1913年、島村抱月、松井須磨子などが結成し、1919年、解散。第二次芸術座は、水谷竹紫、水谷八重子が名前を受け継ぎ、同名の劇団を起こしました。
アンドレーフ Леонид Николаевич Андреев。Leonid Nikolaevich Andreev。レオニード・ニコラーエヴィチ・アンドレーエフ。20世紀はじめのロシアの作家。生年は1871年8月21日(ユリウス暦8月9日)。没年は1919年9月12日。ロシア第一革命の高揚とその後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家に。
田村秋子 たむら あきこ。新劇女優。生年は明治38年(1905年)10月8日、没年は昭和58年(1983年)2月3日。1924年築地小劇場の第1回研究生として入所、創立公演『休みの日』に出演。29年、夫の友田恭助と築地座を結成、戦後は文学座に出演。



手の字|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 広津和郎氏が『年月のあしおと』(1963年)に書いた「手の字」の場所はどこにあるのでしょうか。まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。

 が散歩から帰って来て、
「今手の字に寄ったら、尾崎が若い連中をつれて来ていた」など書生に話しているのを聞いたことがあった。
 手の字というのは、肴町の方から通寺町に入って直ぐ左手の路地に屋台を出していた寿司屋で、硯友社の人達はこの寿司屋を贔屓にしてよく出かけて行ったものらしい。
 この手の字はずっと後まであって、近松秋江氏などもよくそこに立寄って、おやじから紅葉の思い出話などを聞いたらしい。私が早稲田を卒業したのは大正二年であったが、その頃もその寿司屋はまだそこに出ていた。

肴町 現在の神楽坂五丁目です
通寺町 現在の神楽坂六丁目です
路地 ろじ。狭い道。「横丁」にも同じようなニュアンスがありますが、「路地」では更に狭く隣接する建物の関係者以外はほとんど利用しない道です。

手の字 東亰市牛込區全圖 明治29年8月調査

 これからは全くの空想ですが、次の場所が正しいと思っています。まず図を見てください。明治29年の東京市牛込区全図の1部です。赤い丸を見ると、ここに道路3本が集まっています。赤丸から西北西に出るのが「通寺町通り」、反対側の東南東にずっと行くと「神楽坂通り」になります。南西南に行くのは江戸時代では「川喜田屋横丁」と呼ばれ、明治時代には無名の路地でした。その中に寿司屋「手の字」(赤棒)があったのでしょう。

 ちなみに昭和6年、横井弘三氏が書いた『露店研究』を読むと、

 まづ牛込郵便局から出発して坂を下らう。右側に寿司、おでん、左側にある、古本、八百屋、ミカン、古本、表札、古本、XX、古着、眼鏡、電気、靴墨、洋服直し、古本、靴、ブラッシュ、古本、名刺刷り、古本、柳コリ(略。ここから愈々露店は両側になる)

 当時の牛込郵便局は現在の「音楽の友社」(神楽坂6-30)にありました。そこから下を向いて右側には露店2店、左側には19店が並びます。この左側の19店は恐らく等間隔に近い形で並んでいたのでしょう。では右側の2店はどう並んでいたのでしょう。しかも右側の1店は寿司が出てきます。これは「手の字」であったのか、違ったのでしょうか。
 明治時代には、この地図で見られるように赤丸から西北西に進む通寺町通りは急に狭くなりました。明治29年の上の東京市牛込区全図ではそうなっています。露店も同じです。赤城神社から出発しても、初めは道路は狭く、当然、露店用の面積も狭く、そのため、露店は一方向だけ、つまり北側だけにできたのではなかったのでしょうか。道路が広くなる赤丸を超えてから、初めて露店は両側にできたのです。つまり、赤城神社から神楽坂の方に来る場合、最初は北側の露店だけがあり、しかし、南側は何もなく、南側にできるのは川喜田屋横丁を超えた所からで、そこに寿司とおでんの2つがあったと考えます。この場合はこの寿司と「手の字」は同じでしょう。
 なお、邦枝完二作の「恋あやめ」(1953年、朝日新聞社)の「新世帯」には「郵便局前の屋台ずし『ての字』ののれんに首を突っ込んで」と書いています。これは少なくとも広津和郎氏が描いた「手の字」ではないと思います。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂11|カッフエ其他

文学と神楽坂

 加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』「早稲田神楽坂」(昭和2年)です。

  カッフェ其他
 カッフェ其他これに類する食べ物屋や飲み物屋の数も実に多い。殊に震災後著しくふえて、どうかすると表通りだけでも殆ど門並だというような気がする。そしてそれらは皆それぞれのちがった特長を有し、それぞれちがった好みのひいき客によって栄えているので、一概にどこがいゝとか悪いとかいうよりなことはいえない。けれども大体において、今のところ神楽坂のカッフェといえば田原屋とその向うのオザワとの二軒が代表的なものと見なされているようだ。

カッフェ コーヒーなどを飲ませる飲食店。大正・昭和初期には飲食店もありますが、女給が酌をする洋風の酒場のことにも使いました。
震災後 関東大震災は大正12年(1923年)9月1日に起こりました。神楽坂の被害はほとんど何もありませんでした。
門並 かどなみ。その一つ一つのすべて。一軒一軒。軒なみ。何軒もの家が並び続いている。以上は辞書の訳ですが、どれももうひとつはっきりしません。
オザワ 一階は女給がいるカフェ、二階は食堂です。現在はcafe VELOCE ベローチェに。

 下の図は加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』の挿絵です。古い「田原屋」の絵がでています。 田原屋の絵

(左)牛込區全圖 市區改正番地入 三井乙藏 著 三英社大正10年2月(右)牛込区名鑑. 大正15年版 小林徳十郎 編 自治めざまし新報社 大正14年

 田原屋とオザワとは、単にその位置が真正面に向き合っているというばかりでなく、すべての点で両々相対しているような形になっている。年順でいうと田原屋の方が四、五年の先輩で料理がうまいというのが評判だ。下町あたりから態〻食事に来るものも多いそうだ。いつも食べるよりも飲む方が専門の私には、料理のことなど余り分らないが、私の知っている文士や画家や音楽家などの芸術家連中も、牛込へ来れば多くはこゝで飲んだり食べたりするようだ。五、六年前、いつもそこで顔を合せる定連たちの間で田原屋会なるものを発起して、料亭常盤で懇親会を開いたことなどあったが、元来が果物屋だけに、季節々々の新鮮な果物が食べられるというのも、一つの有利の条件だ。だがその方面の客は多くは坂上の本店のフルーツ・パーラーの方へ行くらしい。
 薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフェを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないゝカッフェが出来、それで益〻土地が開け且その繁栄を増すように思われたからだった。少し遅れてその筋向いにカッフェ・スターが出来、一頃は田原屋と三軒鼎立の姿をなしていたが、間もなくスターが廃業して今の牛肉屋恵比寿に変った。早いもので、オザワが出来てからもう今年で満十年になるそうだ。田原屋とはまたおのずから異なった特色を有し、二階の食堂には、時々文壇関係やその他の宴会が催されるが、去年の暮あたりから階下の方に女給を置くようになり、そのためだかどうだか知らぬが、近頃は又一段と繁昌しているようだ。田原屋の小ぢんまりとしているに反して、やゝ散漫の感じがないではないが、それだけ気楽は気楽だ。

 新宿歴史博物館の『新宿区の民俗』「神楽坂通りの図 古老の記録による震災前の形」を見ると震災前

態〻 わざわざ。特にそのために。故意に。「〻」は二の字点、ゆすり点で、訓読みを繰り返す場合に使う踊り字です。大抵「々」に置き換えらます。
料亭常盤 昭和25年に竣工した本多横丁の常盤家ではありません。当時は上宮比町(現在の神楽坂4丁目)にあった料亭常盤です。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、常盤と書いてある店だと思います。たぶんここでしょう。
上宮比町
薬屋の尾沢 尾沢薬局からカフェー・オザワが出てきました。神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています。
 カッフェ・スター 牛肉屋恵比寿に変わりました。カッフェ・スターというのはグランド・カフェーと同じではないでしょうか?別々の名前とも採れますが。
恵比寿亭 現在山せみに代わりました。場所はここ。
散漫 まとまりのない。集中力に欠ける。

 この外牛込会館下のグランドや、山田カフエーなどが知られているが、私はあまり行ったことがないのでよくその内容を知らない。又坂の中途に最近白十字堂という純粋のいい喫茶店が出来ている。それから神楽坂における喫茶店の元祖としてパウリスタ風の安いコーヒーを飲ませる毘沙門前の山本のあることを忘れてはなるまい。

グランド 新宿区郷土研究会の20周年記念号『神楽坂界隈』の中の「神楽坂と縁日市」によれば昭和初期に「カフエーグランド」は牛込会館の下か右、あるいは地下にあったようです。現在はサークルK神楽坂三丁目店です。
山田カフエー 「神楽坂と縁日市」によれば昭和初期に「カフエ山田」は現在の助六履物の一部にありました。
白十字堂 「神楽坂と縁日市」によれば昭和初期に「白十字喫茶」は以前の大升寿司にありました。現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
パウリスタ風 明治44年12月、東京銀座にカフェーパウリスタが誕生しました。この店はその後の喫茶店の原型となりますが、これは「一杯五銭、当時としては破格値だったため、カフェーパウリスタは開店と同時に誰もが気軽に入れる喫茶店として親しまれるようになりました」(銀座カフェーパウリスタのPR)からです。なお、パウリスタ(Paulista)の意味はサンパウロっ子のこと。
山本 『かぐらむら』の「今月の特集」「記憶の中の神楽坂」で、「『山本コーヒー』は楽山の場所に昭和初期にあった。よく職人さんに連れていってもらった」と書いてありました。同じことは「神楽坂通りの図 古老の記録による震災前の形」でみられます。詳しくはここで
 震災後通寺町の小横町にプランタンの支店が出来たことは吾々にとって好個の快適な一隅を提供して呉れた様なものだったが、間もなく閉店したのは惜しいことだった。いつぞや新潮社があの跡を買取って吾々文壇の人達の倶楽部クラブとして文芸家協会に寄附するとの噂があったが、どうやらそれは沙汰止みとなったらしい。今は何とかいう婦人科の医者の看板が掛かっている。あすこはずっと以前明進軒という洋食屋だった。今ならカッフエというところで、近くの横寺町に住んでいた尾崎紅葉その外硯友社けんゆうしゃ一派の人々や、早稲田の文科の人達がよく行ったものだそうだ。私が学校に通っていた時分にも、まだその看板が掛かっていた。今その当時の明進軒の息子(といってもすでに五十過ぎの親爺さんだが)は、岩戸町の電車通りに勇幸というお座敷天ぷら屋を出している。紅葉山人に俳句を教わったとかで幽郊という号なんか持っているが、発句よりも天ぷらの方がうまそうだ。泉鏡花さんや鏑木かぶらぎ清方さんなどは今でも贔屓ひいきにしておられるそうで、鏡花の句、清方の絵、両氏合作の暖簾のれんが室内屋台の上に吊るされている。

プランタン、婦人科医、明進軒 渡辺功一氏著の『神楽坂がまるごとわかる本』では以下の説明が出てきます。

「歴史資料の中にある明治の古老による関東大震災まえの神楽坂地図を調べていくうちに「明進軒」と記載された場所を見つけることができた。明治三十六年に創業した神楽坂六丁目の木村屋、現スーパーキムラヤから横丁に入って、五、六軒先の左側にあったのだ。この朝日坂という通りを二百メートルほど先に行くと左手に尾崎紅葉邸跡がある。
 明治の文豪尾崎紅葉がよく通った「明進軒」は、当時牛込区内で唯一の西洋料理店であった。ここの創業は肴町寺内で日本家屋造りの二階屋で西洋料理をはしめた。めずらしさもあって料理の評刊も上々であった。ひいき客のあと押しもあって新店舗に移転した。赤いレンガ塀で囲われた洒落た洋館風建物で、その西洋料理は憧れの的であったという。この明進軒は、神楽坂のレストラン田原屋ができる前の神楽坂を代表する洋食店であった。現存するプランタンの資料から、この洋館風建物を改装してカフェープランタンを開業したのではないかと思われる。
 泉鏡花が横寺町の尾崎紅葉家から大橋家に移り仕むとき、紅葉は彼を明進軒に連れていって送別の意味で西洋料理をおごってやった。かぞえ二十三歳の鏡花はこのとき初めて紅葉からナイフとフォークの使い方を教わったが酒は飲ませてもらえなかったという。当時、硯友社、尾崎紅葉、泉鏡花、梶川半古、早稲田系文士などが常連であった」

 しかし、困ったことにこの資料の名前は何なのか、わからないことです。この文献は何というのでしょうか。 この位置は最初は明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように名前が変わりました。また、明進軒は「通寺町の小横町」に建っていました。これは「横寺町」なのでしょうか。実際には「通寺町の横丁」ではないのでしょうか。あるいは「通寺町のそばの横丁」ではないのでしょうか。
 渡辺功一氏の半ページほど前に笠原伸夫氏の『評伝泉鏡花』(白地杜)の引用があり、

 その料理店は明進軒といった。紅葉宅のある横寺町に近いという関係もあって、ここは硯友社の文士たちがよく利用した。紅葉の亡くなったときも徹夜あけのひとびとがここで朝食をとっている。〈通寺町小横丁の明進軒〉と書く人もいるが、正しくは牛込岩戸町ニ十四番地にあり、小路のむかい側が通寺町であった。今の神楽坂五丁目の坂を下りて大久保通りを渡り、最初の小路を左へ折れてすぐ、現在帝都信用金庫の建物のあるあたりである。

と言っています。昭和12年の「火災保険特殊地図」で岩戸町24番地はここです。
明進軒
 また別の地図(『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった「寺内」)でも同じような場所を示しています。
肴町
 さらに1970年の新宿区立図書館著の「神楽坂界隈の変遷」でも

紅葉が三日にあげず来客やら弟子と共に行った西洋料理の明進軒は、岩戸町24番地で電車通りを越してすぐ左の小路を入ったところ(今の帝都信用金庫のうしろ)にあった。

 さらに『東京名所図会』を引用し

 明進軒は岩戸町二十四番地に在り。西洋料理,営業主野村定七。神楽坂の青陽楼と併び称せらる。以前区内の西洋料理店は,唯明進軒にのみ限られたりしかば、日本造二階家(其当時は肴町行元寺地内)の微々たりし頃より顧客の引立を得て後ち今の地に転ず。其地内にあるの日、文士屡次(しばしば)こゝに会合し、当年の逸話また少からずといふ。

 結論としては明進軒は岩戸町二十四番地でしょう。
硯友社 けんゆうしゃ。明治中期の文学結社。1885年(明治18)2月、東京大学予備門在学中の尾崎紅葉、山田美妙(びみよう)、石橋思案(1867‐1927)らが創立。同年5月から機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を創刊し、小説、漢詩、戯文、狂歌、川柳、都々逸(どどいつ)など、さまざまな作品を採用。紅葉、美妙が筆写した回覧雑誌、のちに印刷しさらに公売。
勇幸 場所は上の地図を見て下さい。この場所は今でも料理屋さんがたくさん入っています。鏑木清方の随筆「こしかたの記」では

ひいき客のあと押しもあって新店舗に移転した。赤いレンガ塀で囲われ明進軒は紅葉一門が行きつけの洋食店で、半古先生も門人などをつれてよく行れた。後年私が牛込の矢来に住んで、この明進軒の忰だったのが、勇幸という座敷天ぷらの店を旧地の近くに開いて居るのに邂逅(めぐりあ)って、いにしえの二人の先生に代わって私が贔負(ひいき)にするようになったのも奇縁というべきであった。泉君(鏡花)も昔の(よしみ)があるので、主人の需めるままに私と寄せがきをして、天ぷら屋台の前に掛ける麻の暖簾(のれん)を贈った。それから彼は旧知新知の文墨の士の間を廻ってのれんの寄進をねだり、かわるがわる掛けては自慢にしていた。武州金沢に在った私の別荘に来て、漁り立ての魚のピチピチ跳ねる材料を揚げて食べさしてくれた。気稟(きっぷ)のいい男であったが、戦前あっけなく病んで死んだ。

なお、「旧地の近くに」と書いてあり、これは「明進軒の近くに」あったと読めます。