神楽坂演芸場」タグアーカイブ

神楽坂よ、もう一度|昭和39年

文学と神楽坂

 くず勘一氏の「月刊金融ジャーナル」(金融ジャーナル社)『新・東京散歩』の「神楽坂よ、もう一度」(1964年)です。氏は随筆家で春秋社顧問、著書は「世界名作小説を中心とする文学の鑑賞 小説篇」「若き人々のための文学入門と鑑賞の手引」「文学の鑑賞」など。「金融ジャーナル」では連載『新・東京散歩』(「神楽坂よ、もう一度」のほかに「新宿」「お茶の水」「神田川から隅田川へ」「鎌倉」「池袋」「渋谷周辺」など)を執筆していました。没年は昭和57年6月25日。享年は80歳。

 飯田檎駅は、市ガ谷寄りのお堀端の水際にあった甲武線牛込駅が、関東大震災以後、水道橋寄りに改築されて面目一新し、出入口が二つ出来たために、そのころの評判小説、菊池寛の「心の日月」では、男と女の待合せ場所が、表口と裏口とになってしまい、飯田橋駅ニレジイが発生するというエピソードによって有名になった。今でこそ駅に出入口が二つあるのは少しも不思議ではないが、大正から昭和の始めごろの小駅の出入口は一つしか無かったのである。
 その飯田橋駅の長い廊下のような通路を抜けて、牛込見付のほうへ出てみると、山の手唯一の繁華街であった神楽坂は、この路の一直線上にある。明治・大正のころから神楽坂は、情緒たっぷりな市民の憩いの場であったが、大正十二年の関東大震災で下町を失ってからは、いっそう拍車がかかって、春や夏の宵など、夜店のアセチレン灯の光に映えた町全体は、まるで極彩色の錦絵を眺めるような風情ふぜいがあった。夢二の絵が、もてはやされた時代である。少年たちの瞳は、アセチレンの灯になまめく芸妓たちの褄先つまさきや白い素足におどおどと吸い寄せられたものである。
甲武線 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
心の日月 菊池寛。大日本雄弁会講談社。初版は昭和6年。皆川麗子には親が決めた結婚相手がいるが、嫌悪感は強く、同じ岡山県の学生磯村晃と飯田橋駅で待合せをする。しかし、麗子は飯田橋の改札口、磯村は神楽坂の改札口で待っていたので、数時間後も会えなかった。麗子は丸ビルで中田商事の青年社長の秘書として働くが、社長の妻からは退職するよう言われる。その後、中田社長は離婚する。また麗子は磯村と話し合い、磯村は中田の妹を愛しているので、心の友達として会いたいと答える。最後は麗子は中田社長の勧めで、音楽学校に入ることになる。
ニレジイ フランス語L’élégie。英語ではelegy。悲歌、哀歌、挽歌。
飯田橋駅の長い廊下のような通路 かつての通路。

アセチレン灯 炭化カルシウムCaC2と水を反応させ、発生したアセチレンを燃焼させるランプ。硫黄化合物などの不純物を含むため、特有のにおいがある。
錦絵 にしきえ。浮世絵版画で、多色ずりの木版画
艶めく なまめく。つやめく。異性の心を誘うような色っぽさが感じられる。また、あだっぽいふるまいをする。
褄先  着物の褄の先端。

 久しぶりに牛込見付の石崖近くに立って私は暮れなずむ神楽坂の灯を眺めた。法政大・物理大の学生の人並で押しつぶされそうである。石崖につづくお堀の上の土手に、戦前は「この土手に登るべからず警視庁」という、いかめしい制札が建っていて、これが現代俳句の濫觴らんしょうだなどと私たちは皮肉ったものである。その土手に、今では散歩道がついて、学生たちの気取った散歩姿が見られる。土手の登りぎわにある煤けた白亜の逓信博物館の、煤けた白亜に捨て難い風情がある。しかし、情緒・風情などの言葉は既に死語といえそうだ。戦争直後の廃墟のようなただ、、に過ぎなかった神楽坂も、幅広い歩道が完成し、老舗しにせの灯も復活した今は、どうやら生気が甦ったようである。
制札 せいさつ。禁令の個条を記し,路傍や寺社の門前・境内などに立てる札。
濫觴 らんしょう。ものごとの始まりや起源を指すことば
煤けた すすける。すすがついて黒く汚れる。
逓信博物館 京橋区木挽町に逓信省庁舎にあった「郵便博物館」から、大正11年、東京市麹町区富士見町二丁目の建物に移転し「逓信博物館」と改称。1964年(昭和39年)、千代田区大手町の逓信ビルに移転。

 坂の中途の左側に、文人墨客の溜り場であった名物屋という珈琲パーラーがあり、中国の詩人コーエイの若き日の姿も、この辺で見られたものである。その右手の亀井鮨に「そっと握ったその手の中に君の知らない味がある」という平山芦江ろこうの筆になる扁額がかかっていたが、今はどうなったか。さらに四、五軒上には、牛込会館という、一種の貨演芸場があり、私たちは、水谷八重子(井上正夫共演)の「大尉の娘」に涙を流し、「ドモ又の死」や「人形の家」や「青い鳥」などでりきんだり興奮したりして″新時代″を感じたものである。その牛込会館の下は、美容院になり、上は何かの事務所か貸室になっているようであった。神楽坂を登り切ったところ、左ヘ曲がると、三語楼金語楼が活躍した神楽坂演芸場があったが、今は、さむざむと自動車の駐車場か何かの空地になっていた。左側の本多横町の角から三軒目かに山本コーヒー店があり、一杯五銭の渋いコーヒーと、外国航路船の浮袋のようにふとく大きいドーナツが呼びものであった。日本髪で和服の可憐な娘さんが、カウンターにいて、学生たちは胸をときめかしたはずだが、さて、山の彼方の空は、そのころは、いっそう遠かった——のである。
文人墨客 文人と墨客。詩文・書画などの風雅の道に携わる人
名物屋 不明です。新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では昭和5年ごろ、亀井すしの坂下南では「カフェ神養軒」「はりまや喫茶」「白十字喫茶」しかありません。
コーエイ 詳細は不明。コーエーとも。大正末期から昭和初期にかけて日本語で詩を書いた詩人。
平山芦江 小説家・随筆家。花柳ものが得意で、都々逸の作詞、随筆を残した。第一次『大衆文芸』を創刊。小説『唐人船』『西南戦争』など。生年は明治15年11月15日、没年は昭和28年4月18日。享年は70歳。
扁額 へんがく。室内や門戸にかかげる横に長い額。
大尉の娘 ロシアの詩人プーシキンの完成された唯一の中編歴史小説。1836年に発表。僻遠の地キルギスの要塞に赴任した少尉補グリニョフとミロノフ大尉の娘マリヤとの恋を、プガチョフの叛乱を背景に描く。
ドモ又の死 有島武郎の作品。大正11年(1922)に発表。若い画家5人は1人(ドモ又)を天才として死亡させるが、実は死亡するのは石膏の面で、ドモ又はドモ又の弟となり、モデル(とも子)と結婚する。そして、悪ブローカーやえせ美術愛好家から金をとろうとしている。
人形の家 1879年、ヘンリック・イプセンの戯曲。弁護士の妻ノラは借金のことで夫になじられ、人形のような妻であったことを悟り,夫も子供も捨てて家をとび出す。
青い鳥 モーリス・メーテルリンク作の童話劇。1908年発表。チルチルとミチルは幸福の青い鳥を探しに行く。
美容院 マーサ美容室です。
山の彼方の空 上田敏氏の『海潮音』「山のあなた」からきています。「山のあなたになお遠く「幸」さいわい 住むと人のいう」。詩では「幸福」ですが、ここでは「恋愛」を指すのでしょう。

 その先の沙門天しゃもんてんをまつる善国寺のお隣りには、山の手の洋食の味を誇った田原屋があり、晩年の鷲尾雨工は、この店の酒と料理と雰囲気とを、こよなく愛していたようだ。同じ側に五十鈴といった甘い物屋と鮒忠という鳥料理屋があるが、これは、いずれも戦後派である。その角を左へ、急坂を少し登ると、今はアパートか何かになっているが、山の手の洋画封切場として偉容を誇る牛込館があった。徳川夢声の前のインテリ弁士といわれた藤浪無鳴がここに拠り、やがて夢声も、つづいて奇声と頓才で売出した大辻司郎が、右手を符の上へ突込んで銀幕の前へ、のこのこと現われて大喝采を博した懐しい大正時代。さらに、その以前、隣り上の下宿屋には、宇野浩二広津和郎などの若い文士たちが、とぐろを巻いていたものである。さらに大昔、藁店わらだなといったこのあたりは、由井正雪何何剣客のゆかりの地でもあったらしい。
封切 ふうきり。ふうぎり。封を切る。開封する。(近世、小説本は袋に入れられ発売した)新版の本。新作映画をはじめて上映して一般に見せること。一番館。
藤浪無鳴 活動写真弁士(無声映画の説明者)の1人。映画会社の翻訳を行い、のちに活動弁士になり、初めは浅草の金竜館、のちに新宿の武蔵野館の主任弁士を務めた。徳川無声の兄分で、2人で大正六年三月に帝国劇場でトマス・インス監督の大作映画「シヴィリゼーション」で弁士を行っている。また大日本映画協会を主宰しヨーロッパ映画の輸入に携わった。生年は明治20年8月4日。没年は昭和20年6月11年。享年は59歳。
大辻司郎 漫談家。活動写真弁士。兜町の株屋から弁士に転向し、「胸に一物、手に荷物」「海に近い海岸を」「勝手知ったる他人の家へ」「落つる涙を小脇にかかえ」などという「迷説明」など珍妙な台詞で有名になった。頭のてっぺんから出る奇声とオカッパ頭も有名。昭和27年、日航機もく星号の伊豆大島三原山の墜落事故で遭難死。生年は明治29年8月5日。没年は昭和27年4月9日。享年は55歳。
下宿屋 みやこ館です
とぐろを巻く 蛇などが渦巻状に巻いてわだかまっている。何人かの人が、ある場所に集まって長時間いる。腰を落ちつけて動かなくなる。
何何 不定称。不定の人や物事についていう。あれこれ。

 新宿―水天宮間の都電通りへ出る少し手前の左側に、紅屋という二階建の洋菓子店があり、高級な甘党を喜ばせていた。三階に、東京でも嚆矢といわれるダンスホールがあったが、いつの間にか消え失せ、その後はもっばら味の店としてさかっていた。そのころ一週間に二、三回は必ず二階の隅の卓に、小柄で白髪童顔の老紳士が、コーヒーを喫しながら何かを読んでいるのにぷつかったものだ。その老紳士秋田雨雀に、私は、ここで知り合いになった。
都電通り 現在の大久保通り。
嚆矢 こうし。何かの先がけとなるもの。物事の初め。最初。やじりにかぶらを用いていて、射ると音をたてる矢。昔、中国で、戦争の初めにかぶら矢を射たところから。

 都電通りを渡って、四、五軒目のパン屋通りを左へ入ると、カフエ・プランタンがあった。大麗災で下町を追われたダンディたちのメッカであったカフエ・プランタン。しかし私には、その薄暗い客席が、どうしても馴染なじめなかった。今でこそ町名の区別がなくなったが、この辺は、もととおてらといい、少し横へ曲れば、横寺町になり、飯塚というとぶろく、、、、屋があり、その先の路次の奥に松井須磨子のくびれ死んだ芸術倶楽部があった、ひところは倉庫のようになっていて、子供たちの遊び場であったことを覚えている。今は、もうその場所跡すら誰も知らない。記憶の中に溶けこんでしまっているようだ。この通りを少し歩いた左側に明冶の文豪尾崎紅葉の住んでいた古びた二階家と庭木が、戦争前までは残っていたが、新しい世代には関係のない絵空事とでもいおうか。
 今、この通り寺町(矢来から江戸川方面と早稲田、高冊馬場通りへつづく)は、地下鉄工事でバスなどは一方交通になっているが、ここから神楽坂へかけては、散歩道としても全くよい環境であったのだ。右側にある神楽坂武蔵野館という映画館は、文明館といって、神田の錦輝館とともに東京の映画館の草分けの一つでもあった。
 その隣りに南北社という本屋があり四六判型の「日本」という珍らしい大衆総合雑誌を発行していた。
 昭和の始めごろだったろうか。夜店のバナナの叩き売りとは違う青年のかけ声が聞こえるので、人混みをかきわけて覗いてみると、白皙長髪の青年たちが、部厚い原稿用紙の束をり売りしているのであった。つまり印刷工程を経ていないなまの小説なのである。こういう時代もあったのだ。青年たちの一人は、新しい小説家の金子洋文であった。
錦輝館 きんきかん、1891年10月9日、開業し、1918年8月19日に焼失。多目的会場。明治30年、東京でバイタスコープ(トマス・エジソンが発明したアメリカ最初の活動写真)の初めての映画があった。
白皙 はくせき。皮膚の色の白いこと
金子洋文 かねこようぶん。小説家、劇作家。武者小路実篤に師事。労農芸術家連盟を結成。昭和22年、社会党の参院議員を一期務めた。創作集「地獄」「鷗」「白い未亡人」、戯曲集「投げ棄てられた指輪」「飛ぶ唄」「狐」「菊あかり」など。生年は明治27年4月8日。没年は昭和60年3月21日。享年は91歳。

 通り寺町をまっすぐ通り抜けると矢来下に出る。その先が江戸川橋、左へ折れて早稲田へつづくが、矢来下の交番の横手に水守亀之助の家があり、小川未明もこの近所に住んでいて、娘さんの大きな澄んだ眼が印象的だった。矢来通りには東洋経済新報社もあったと思うが、古道具屋が多く「カーネギー曰く、多くの不用品を貯えんよりは有用の一品を求めよ」と大書した看板の店があった。その頃は古道具屋をあさるほどの身分でもなかったから、どんな有用な品があったか知らないが、古道具屋とカーネギーの取り合わせが珍らしく、この店はあまりはやらないのだろうと思ったりした。悠長な時代であった。
 矢来下から引返してだらだら坂を上り、右にそれると新潮社の通りだ。滝沢修が近くに住んでいた。今でも新潮社通いの文士達を時たま見かける。
(筆者は随筆家)

江戸川橋 神田川中流で目白通りの橋。場所は文京区関口一丁目。
水守亀之助 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の猿山峯子氏の「大正期の牛込在住文筆家小伝」では、大正11~14年、矢来町3番地中ノ丸2号に住んでいました。昭和3年は矢来町66番地でした(下図)。「ラ・カグ」のあたりです。さらに、昭和6年は弁天町60でしたが、戦災で焼失し、終戦直後は世田谷に疎開したと、地元の人の調査で。概略は明治40年、田山花袋に入門。大正8年(1919年)中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。編集者生活の傍ら『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と合わせて新潮三羽烏といったようです。生年は明治19年(1886年)6月22日。没年は昭和33年(1958年)12月15日。享年は72歳。

昭和5年 牛込区全図 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』昭和57年から


小川未明 同じく、大正5~6年には矢来町38番地に住んでいました。
カーネギー 実業家。カーネギー鉄鋼会社を創業。スコットランドで生まれ、1848年には両親と共にアメリカに移住。
だらだら坂 矢来通りに相当します。
新潮社の通り 牛込中央通りです。
滝沢修 俳優、演出家。開成中学を卒業後、1924年築地小劇場に入る。昭和22年、宇野重吉らと劇団民藝を創設。映画・テレビドラマへの出演も多い。生年は明治39年(1906年)11月13日、没年は平成12年(2000年)6月22日。享年は93歳。

ミスターダンディー(写真)本多横丁、三つ叉横丁、牛込橋 昭和49年

文学と神楽坂

 雑誌「Mr. DANDY」(中央出版、昭和49年)に「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」を出しています。

 この1974年に起きたことを簡単に挙げると、総理大臣は田中角栄、「金権選挙」を展開するも、参議院は過半数以下。逆に、ジャーナリストの立花隆が文藝春秋に「田中角栄研究」を掲載。ついに11月、首相は退陣。
 小野田寛郎元少尉はルパング島で30年ぶりに発見され、また巨人軍の長嶋茂雄選手は引退。米国では、ニクソン大統領は「ウォーターゲート事件」のため、辞任しました。

 最初の写真は「戦前から同じ場所にあった大野屋足袋店。看板も、柱に貼ってある札も読めます」と地元の方。場所は本多横丁。家は材木と瓦でできたもので、エアコンはあっても1台だけでしょう。

大野屋足袋店

 次の写真(下図)に行きます。左側の家は「戦前からの名店・呉服の柏屋」と地元の方。右側は住宅地図では個人名になっていますが、「珍味堂のはず。テントがあるのに個人宅はおかしい。建物も珍味堂と同じ。ぶら下がっている板状のものは、最後まで使っていた木の看板じゃないかな」と地元の人。場所も本多横丁です。

呉服の柏屋

1976年。住宅地図。

 3枚目の写真は「三つ叉横丁の角」と説明する地元の方。「みよし」は料亭、白鷹マークがある看板には炉ばた焼きの「1丁」。白鷹は日本酒の銘柄。左側の横丁は「三つ叉横丁」で、右側は「見番横丁」と、それぞれ名前がついています。
 一部を拡大すると、下は赤色は神楽坂演芸場の跡で、見番の駐車場になっています。


1976年。住宅地図。

 次の写真は、どこにでもありそうな光景で、実際には見たことはなく、全く不明。

 最後は一代前の牛込橋。現在の橋は平成8年に架け替えられたもの。一代前の橋は「ぼくの近代建築コレクション」でも出てくる。近くの瓦屋根の1棟は昔のボート乗り場。その隣で真っ黒な1棟は神楽坂1丁目の1軒で、上がる道路からは一段低い。遠くの中央1棟は「家の光」、右の2棟は東京理科大のビル。

牛込橋

神楽坂演芸場(360°全天球VRカメラ)

文学と神楽坂

 神楽坂演芸場(えんげいじょう)は神楽坂3丁目にありました。

牛込町誌 第1巻(大正10年)「神楽坂演芸場」

 坂下から神楽坂3丁目のお香と和雑貨の店「椿屋」の直前を左に曲がると、左手に広々とした駐車場があります。

駐車場

駐車場

 360°カメラでは…

 この駐車場は「神楽坂演芸場」があったところです。場所はここです。昭和10年に「演舞場」に改名しました。戦後まで営業したという噂(『新宿区の民俗』、新宿歴史博物館、平成13年)もありますが、戦災で終わったという説(吉田章一『東京落語散歩』平成9年、メディカピーシー、吉田章一『神楽坂まちの手帖』第13号)の方が有力でしょう。昭和20年4月13日、空襲でなくなり、1952年、『火災保険特殊地図』では何も残らず、1960年、住宅協会の『新宿区西部』では、夜警員詰所になっています。

 講談・義太夫・落語に対して、彩りとして演ずる漫才・曲芸・奇術・声色・音曲などの色ものが有名でした。

『新宿区の民俗』によれば、「二階建ての建物で一五〇席ほどあった。他の二館は木戸銭が三〇から五〇銭であったのに対し、演芸場は七〇銭とった。他の館よりきれいで芸者衆もよくきていた」と書いてあります。
 写真も残っています。柳家金語楼(きんごろう)などが有名人でした。

 なお、新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)には

 大久保孝氏は『ここは牛込、神楽坂』第3号の「懐かしの神楽坂」で『その路地の奥に』を書き、

神楽坂演芸場
 本多横丁の手前、盛文堂という本屋と宮坂金物店の間の道を入るとすぐに「神楽坂演芸場」があった。ここは芸術協会の砦であったから、金語楼、柳橋、柳好(先代)、金馬、小文治、桃太郎などが出ており、講談では一竜斎貞山、大島伯鶴、神田伯竜、小金井芦州など、その他色ものでは、新内の富士松宮古太夫など。
 後年好きになった、桂文楽、三遊亭円生、古今亭志ん生は落語協会の所属なので、聞いていない。
 金語楼はもっぱら兵隊もの。貞山は義士外伝。貞山の息子が府立四中にいたので、中学でも彼の談を聞いたものである。柳好はまだ「がまの油」くらいで、得意の「野ざらし」をやったのは、四十過ぎであったろう。三平の父親の林家正蔵は頭のてっぺんから声を出して、「相撲見物」とか「源平盛衰記」をやった。春風亭柳橋の養子さんは兄の友人で、赤城さんの近くに住んでいたが、この人は「時そば」を脚色した「支那そばや」をやっていた。
 暮は客が入らないので、木戸銭を十銭にしたが、あまり入らない。でも金語楼が怪しげな日本舞踊をやったり、柳橋が座ぶとんをひっくりかえして、紙をめくって次の出演者を知らせたり、お茶をだしたりするのがおかしかった。
 正月になると、木戸銭は一円になり、惣出は良いが、まくらもそこそこにひっこんでしまうのは、いただけなかった。でもやっと稼ぎ時になったのだから仕方あるまい。

 中村武志氏が「神楽坂の今昔」(毎日新聞社刊『大学シリーズ 法政大学』昭和46年)に書き、

 坂の左側の宮坂金物店の角を曲がった横丁に、神楽坂演芸場があって、講談、落語がかかっていた。当時は、金語楼が兵隊落語で売り出していて、入場料を一円二十銭も取られた覚えがある。お客は法政や早稲田の学生が多いので、三語楼は、英語入りの落語をあみだして、これも人気があった。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座

神楽坂の通りと坂に戻る場合


神楽坂の今昔2|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。氏は小説家兼随筆家で、1926(大正15)年、日本国有鉄道(国鉄)本社に入社し、1932(昭和7)年には、働きながら、法政大学高等師範部を卒業しました。なお、ここで登場する写真は、例外を除き、毎日新聞社刊の「大学シリーズ法政大学」に出ていた写真です。

 ◆ 学生は飲んで突いた
 豊かでない私たちは、安い店を選んで飲んだ。白十字の近くに樽平があった。お銚子の金印が二十銭、銀印が十五銭で、当時の安い店――須田町食堂渋谷食堂の八銭から十二銭にくらべると少し高いが、おと・・()を四品つけてくれるのが魅力であった。もちろん私たちは銀印であった。

白十字 現在はポルタ神楽坂に隠れてしまいました
樽平 現在はラーメン屋「天下一品」
金印 昔は中国の皇帝がその地位に応じて玉印・金印・銀印・銅印などが与えられました。これが元でしょうか。
須田町食堂 大正13年、須田町食堂は東京神田須田町で値段が手ごろな「簡易洋食」として創業しました。やがて、大きくなり、大衆食堂チェーンをつくりました。これが聚楽じゅらくの始まりです。
 神楽坂の須田町食堂は神楽坂一丁目10にありました。現在は、三経第22ビルという雑居ビルになっています。
 安井笛二氏は「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)で…

◇須田町食堂 れいの須田町食堂の神樂坂支店であります。此のへんに氣の利いた大衆たいしう食堂しよくだうがありませんので擧生やサラリーマンなとの人氣にんきを一手に引き受けてゐます。カツライス(十三錢)が人氣ものでよるはお酒(一本十三錢)に湯豆腐ゆどうふや肉なぺの客が多い。」と書いてあります。
 この図は、志満金などを中心に神楽坂下から上にかけて左側の商店だけを抜き出したものです。右図の左側は昭和5年頃、中央は平成8年12月、右側は平成29年の商店です。
1930年頃1995年2017年
はりまや喫茶夏目写真館ポルテ神楽坂
白十字喫茶大升寿司
太田カバン神楽坂煎餅
今井モスリン店カフェ・ルトゥールY! mobile
樽平食堂ラーメン花の華天下一品
大島屋畳表田金果物店メガネスーパー
尾崎屋靴店オザキヤ靴オザキヤ
三好屋食品志満金 鰻志満金
増屋足袋店
海老屋水菓子店
八木下洋服田口屋生花田口屋生花
渋谷食堂 渋谷区宇田川町にあった大衆食堂。
おとおし お通し。日本料理で、その注文を帳場へ通すときに出す、簡単な料理。
 右側の頂上近くの横丁に、東京亭というカフェーがあった。そこの女給さんが、私の友だちのS君にほれて、つれて来てくれと頼まれるのだが、彼は運げまわるのだから閉口した。若いころから私は運が悪かった。東京亭の近くのおでん屋いくよにはよく通った。
 学生の遊びとしては、まだ麻雀屋のない時代で、もっぱら悠長で上品な玉突きを楽しんでいた。地元の商店の若主人などもビリヤードのお客であった。
 右側の下から二つ目の横丁をまがった左側のビリヤードに、先代の林家正蔵がよく来ていた。神楽坂演芸場へ出演の合間の暇つぶしだったのだろう。彼は少しヤブニラミの気味だったがよく当たった。
東京亭 神楽坂仲通りにあったカフェーです。安井笛二氏の『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』では
白木屋横町――小食傷(せうしよくしやう)新道(しんみち)の観があって、おでん小皿盛りの「(はな)()」 カフェー「東京亭」 野球(やきう)おでんが看板(かんばん)の「グランド」 縄のれん式の()料理(れうり)「江戸源」 牛鳥鍋類の「笑鬼(しうき)」等が軒をつらねてゐます。
いくよ わかりません。近くにおでん屋「お豊」がありました。これと間違えていた?
玉突き ビリヤードのこと
先代の林家正蔵 6代目のこと。生年は1888年11月5日。1918年4月、6代目正蔵。没年は1929年4月25日。当たりネタは「居残り佐平次」
 ◆ 学生の娯楽は映画と寄席
 レストラン田原屋の裏に、洋画のセカンドランで有名な牛込館があった。弁士は、これも一流の徳川夢声山野一郎松井翠声で、学校をさぼった法政の学生でいつも満員だった。
 肴町都電通りを越えて、通寺町へはいった右側に、日本映画専門の文明館があった。坂の左側の宮坂金物店の角を曲がった横丁に、神楽坂演芸館があって、講語、落語がかかっていた。当時は、金語楼が兵隊落語で売り出していて、入場料を一円二十銭も取られた覚えがある。お客は法政や早稲田の学生が多いので、三語楼は、英語入りの落語をあみだして、これも人気があった。

セカンドラン 映画を封切り館後の二番目に上映すること。
肴町 神楽坂五丁目のこと
都電通り 大久保通りのこと
通寺町 神楽坂六丁目のこと
◆ 歩行者天国のはしり
 神楽坂は、私の知るかぎり、空気が汚染されていない数十年前から、歩行者天国を実行していた。冬は午後五時、夏は六時ごろから夜中まで、諸車通行止の札が立てられた。たしか麻布十番と八丁堀も、同じように歩行者天国を実行していた。
 夏になると、たいていの家では、夕食後一家そろって、浴衣がけで神楽坂へ出たものだ。背広で歩いているのは、会社の帰りか、用事のある人であった。だから、遠くから眺めると、一本の白い帯のように見えた。
 歩道と車道の区別はなかったから、道いっぱいにあふれた人たちが、両側にぎっしり並んでいる夜店をひやかしながら、アセチレン灯に照らされて、一度ではなく、二度、三度往復したものだ。
アセチレン灯 アセチレンを燃料とする照明用の灯火。すすが多く、独特の臭いがある。

神楽坂考|野口冨士男

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆集『断崖のはての空』の「神楽坂考」の一部です。
 林原耕三氏が書かれた『神楽坂今昔』の川鉄の場所について、困ったものだと書き、また、泉鏡花の住所、牛込会館、毘沙門横丁についても書かれています。

-49・4「群像」
 さいきん広津和郎氏の『年月のあしおと』を再読する機会があったが、には特に最初の部分――氏がそこで生まれて少年時代をすごした牛込矢来町界隈について記しておられるあたりに、懐かしさにたえぬものがあった。
 明治二十四年に生誕した広津さんと私との間には、正確に二十年の年齢差がある。にもかかわらず、牛込は関東大震災に焼亡をまぬがれたので、私の少年期にも広津さんの少年時代の町のたたずまいはさほど変貌をみせずに残存していた。そんな状況の中で私は大正六年の後半から昭和初年まで――年齢でいえば六歳以後の十年内外をやはりあの附近ですごしただけに、忘しがたいものがある。
 そして、広津さんの記憶のたしかさを再確認したのに反して、昨年五月の「青春と読書」に掲載された林原耕三氏の『神楽坂今昔』という短文は、私の記憶とあまりにも大きく違い過ぎていた。が、ご高齢の林原氏は夏目漱石門下で戦前の物理学校――現在の東京理科大学で教職についておられた方だから、神楽坂とはご縁が深い。うろおぼえのいいかげんなことを書いては申訳ないと思ったので、私はこの原稿の〆切が迫った雨天の日の午後、傘をさして神楽坂まで行ってみた。

東京理科大学 地図です。理科大マップ

 坂下の左角はパチンコ店で、その先隣りの花屋について左折すると東京理大があるが、林原氏は鳥屋の川鉄がその小路にあって《毎年、山房の新年宴会に出た合鴨鍋はその店から取寄せたのであった》と記している。それは明治何年ごろのことなのだろうか。私は昭和十二年十月に牛込三業会が発行した『牛込華街読本』という書物を架蔵しているが、巻末の『牛込華街附近の変遷史』はそのかなりな部分が「風俗画報」から取られているようだが、なかなか精確な記録である。
 それによれば明治三十七年頃の川鉄は肴町二十二番地にあって、私が知っていた川鉄も肴町の電車停留所より一つ手前の左側の路地の左側にあった。そして、その店の四角い蓋つきの塗物に入った親子は独特の製法で、少年時代の私の大好物であった。林原文は前掲の文章につづけて《今はお座敷の蒲焼が専門の芝金があり、椅子で食ふ蒲どんの簡易易食堂を通に面した所に出してゐる》と記しているから、川鉄はそこから坂上に引っ越したのだろうか。但し芝金は誤記か誤植で志満金が正しい。私が学生時代に学友と小宴を張ったとき、その店には芸者がきた。

パチンコ店 パチンコニューパリーでした。今はスターバックスコーヒー神楽坂下店です。
肴町二十二番地 明治28年では、肴町22番地は右図のように大久保通りを超えた坂上になります。明治28年には川鉄は坂上にあったのです。『新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、明治37年、1904年)では「鳥料理には川鐵(22番地)」と書いています。『牛込華街読本』(昭和12年)でも同様です。一方、現在の我々が川鉄跡として記録する場所は27番地です。途中で場所が変わったのでしょう。
明治28年の肴町22番地
引っ越し 川鉄はこんな引っ越しはしません。ただの間違いです。
正しい 芝金の書き方も正しいのです。明治大正年間は芝金としていました。

 ついでに記しておくと、明治三十六年に泉鏡花が伊藤すゞを妻にむかえた家がこの横にあったことは私も知っていたが、『華街読本』によれば神楽町二丁目二十二番地で、明治三十八年版「牛込区全図」をみると東京理大の手前、志満金の先隣りに相当する。村松定孝氏が作製した筑摩書房版「明治文学全集」の「泉鏡花集」年譜には、この地番がない。
 坂の中途右側には水谷八重子東屋三郎が舞台をふんだ牛込会館があって一時白木屋になっていたが、現在ではマーサ美容室のある場所(左隣りのレコード商とジョン・ブル喫茶店あたりまで)がそのである。また、神楽坂演芸場という寄席は、坂をのぼりきった左側のカナン洋装店宮坂金物店の間を入った左側にあった。さらにカナン洋装店の左隣りの位置には、昭和になってからだが盛文堂書店があって、当時の文学者の大部分はその店の原稿用紙を使っていたものである。武田麟太郎氏なども、その一人であった。
 毘沙門様で知られる善国寺はすぐその先のやはり左側にあって、現在は地下が毘沙門ホールという寄席で、毎月五の日に開演されている。その毘沙門様と三菱銀行の間には何軒かの料亭の建ちならんでいるのが大通りからでも見えるが、永井荷風の『夏すがた』にノゾキの場面が出てくる家の背景はこの毘沙門横丁である。

 読み方は「シ」か「あと」。ほかに「跡」「痕」「迹」も。以前に何かが存在したしるし。建築物は「址」が多い。
ノゾキ 『夏すがた』にノゾキの場面がやって来ます。

 慶三(けいざう)はどんな藝者(げいしや)とお(きやく)だか見えるものなら見てやらうと、何心(なにごころ)なく立上つて窓の外へ顏を出すと、鼻の先に隣の裹窓の目隱(めかくし)(つき)出てゐたが、此方(こちら)真暗(まつくら)向うには(あかり)がついてゐるので、目隠の板に拇指ほどの大さの節穴(ふしあな)が丁度ニツあいてゐるのがよく分った。慶三はこれ屈強(くつきやう)と、(のぞき)機關(からくり)でも見るやうに片目を押當(おしあ)てたが、すると(たちま)ち声を立てる程にびつくりして慌忙(あわ)てゝ口を(おほ)ひ、
 「お干代/\大變だぜ。鳥渡(ちよつと)來て見ろ。」
四邊(あたり)(はゞか)る小聾に、お千代も何事かと教へられた目隱の節穴から同じやうに片目をつぶつて隣の二階を覗いた。
 隣の話聾(はなしごゑ)先刻(さつき)からぱつたりと途絶(とだ)えたまゝ今は(ひと)なき如く(しん)としてゐるのである。お千代は(しばら)く覗いてゐたが次第に息使(いきづか)(せは)しく胸をはずませて来て
「あなた。罪だからもう止しませうよ。」
()(まゝ)黙つて隙見(すきま)をするのはもう氣の毒で(たま)らないといふやうに、そつと慶三の手を引いたが、慶三はもうそんな事には耳をも貸さず節穴へぴつたり顏を押當てたまゝ息を(こら)して身動き一ツしない。お千代も仕方なしに()一ツの節穴へ再び顏を押付けたが、兎角(とかく)する中に慶三もお千代も何方(どつち)からが手を出すとも知れず、二人は眞暗(まつくら)な中に(たがひ)に手と手をさぐり()ふかと思ふと、相方(そうほう)ともに狂氣のやうに猛烈な力で抱合(だきあ)つた。

寄席と映画

文学と神楽坂

 寄席と映画館、劇場は8つありました。東側から行くと…

 佳作座。神楽坂1丁目にありました。現在はパチンコ「オアシス」

 牛込会館。神楽坂3丁目にあり、貸し座敷として働きました。水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。現在はコンビニのサークルKです。

 神楽坂演芸場。これも3丁目にあり、漫才・曲芸・奇術・声色・音曲などの色もの(現在の寄席)が有名でした。現在は駐車場。

 牛込館。漱石も通った寄席、和良(わら)(だな)亭、俳優学校と創作試演会の「牛込高等演芸館」、映画館の牛込館などがあり、大正時代は専ら牛込館でした。現在は数軒の飲食店。

 柳水亭。肴町(神楽坂5丁目)にありました。明治時代は講釈席の鶴扇亭、大正に入ると寄席の柳水亭、関東大震災の翌年の大正13年(平松南氏の『神楽坂おとなの散歩マップ』展望社、2007年)には勝岡演芸場になり、さらに活動写真の東宝映画館になりました。現在は飲食店。

 牛込亭。牛込亭も色物が主体で、通寺町(神楽坂6丁目)にありました。道路で2つに切られて普通の民家になっています。

 文明館。通寺町(神楽坂6丁目)にあり、文明館の勧工場、映画館の文明館から後に映画館の武蔵野館と変わりました。現在はスーパーのよしや。

 最後に今でもやっているギンレイホール

 神楽坂で思い出の旧映画館、旧寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとこの場所で他の映画館や寄席に行きます。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座

色物寄席 現在の寄席の演芸場。江戸時代から昭和初期に至るまで、浪曲席、講談席(釈場)と区別し、落語、手踊、百面相、手品、音曲などの混合席のこと。現在は色物ではなく、寄席になった。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑥

文学と神楽坂


 全長三百メートルといわれるのは、恐らく坂下から以前の電車通り――現在の大久保通りまでの距離で、坂自体はそのすこし先が頂上だが、四階建てのビルに変貌しているパン屋の🏠木村屋は、いまもその先のならびにある🏠尾沢薬局🏠相馬屋紙店とともに土蔵造りで、そこの小判形をした大ぶりな甘食はげんざい市販されている中央部の凸起した円形の甘食より固めで、少年期の私が好んだものの一つであった。
 木村屋よりすこし先の反対側に、いまのところ店がしまっている婦人洋装店シャン・テがあって、そこと🏠宮坂金物店とのあいだの横丁を左折するとシャン・テの裏側に🏠駐車場があるが、かつてその場所には神楽坂演芸場という神楽坂最大の寄席があった。前記した「読売新聞」の「ストリート・ストーリー」にあるイラストマップには、その場所に『兵隊さん』の落語で鳴らした柳家金語楼似顔がえがかれていて≪私のフランチャイズだった≫と書き入れてあるが、私が出入りした時分にはまだ金語楼もかすんでいた。
 ついでに『神楽坂通りの図』もみておくと、シャン・テのところには煙草屋と盛文堂書店があって、後者は昭和十年前後には書店としてよりも原稿用紙で知られていた。多くの作家が使用していて、武田麟太郎もその一人であった。
 右角の宮坂金物店の先隣りはいまも洋品店の🏠サムライ堂で、私などスエータやマフラを買うときには、母が電話で注文すると店員が似合いそうなものを幾つか持って来て、そのなかからえらんだ。反物にしろ、大正時代には背負い呉服屋というものがいて、主婦たちはそのなかから気に入ったものを買った。当時の商法はそういうものであったし、女性の生活もそういうものであった。

距離 交差点「神楽坂下」から交差点「神楽坂上」までの距離
反物 大人用の着物を1着分仕立てるのに必要な布地
シャン・テ  国立図書館の住宅地図によれば、1976年、1978年には🏠カナン洋装店、1980年はシャンテでした。したがってシャンテで問題はないと思います。
3丁目(85)

木村 カナン シャンテ 宮坂金物店 駐車場 サムライ 三菱銀行 善国寺 本多横丁 近江屋 五十番 毘沙門横丁 裏つづき

イラストマップ 昭和51年(1976年)8月16日の読売新聞「都民版」から。絵はもっと拡大できます。
読売新聞(76/08/16)

うを徳 金語楼

 現状でいえばその先が🏠三菱銀行で、横丁の先が毘沙門さまの🏠善国寺だが、サムライ堂の前あたりに出た草薙堂という夜店の今川焼は私も好物で、『神楽坂通りの図』には≪三個で二銭、大きくて味が評判だった≫と記されている。少年時代のことで記憶があやしいが、三個で二銭とは逆に二個で三銭ではなかったろうか。他の店よりとびきり高価だったはずだが、それだけの価値はあった。形が大きかっただけではなく、ツブシアンとコシアンの二種があって、後者には白インゲンが混入してあった。その後、私はそういうものに一度も行き遭ったことがない。
 サムライ堂の向いにある横丁が筑土八幡前へぬけて行く🏠本多横丁――横関英一の『江戸の坂 東京の坂』や石川悌二の『東京の坂道』というような著書によると三年坂ということになるが、本多横丁の呼称は江戸切絵図をみると、そのあたりに本多修理の屋敷があったためだとわかる。いま左角は傘はきものの🏠近江屋で、右角が中国料理の🏠五十番だが、後者は加能作次郎が行きつけにしていたという豊島理髪店の跡で、その前に出たバナナの叩き売りは夜店の中で最も人気があった。最近テレビにショウとして出て来るバナナの叩き売りは関西系なのか、あんなゆっくり節をつけたお念仏みたいなものでは客が眠くなる。東京の夜店のバナナ売りの口上は、どこの土地にかぎらず、もっとずっと歯切れのいい早口の恐ろしく勇ましいものであった。
 本多横丁のはずれの右角はいま熊谷組の本社になっているが、その手前の右側の石垣の上には、向島に撮影所があったころの初期の日活映画俳優であった関根達発の家があって、幼稚舎一年のとき寄宿舎にいた私は二年のときから三、四歳年長だった関根達発の長男大橋麟太郎に連れられて通学した。筑土八幡の石段は戦前には二つならんでいたような気がするが、いまは一つしかない。

筑土八幡 つくどはちまん。東京都新宿区筑土八幡町にある神社。
江戸の坂 東京の坂東京の坂道 この横丁の坂は『江戸の坂 東京の坂』でも『東京の坂道』でも「三年坂」として書かれています。たとえば『東京の坂道』では

三年坂(さんねんざか) 三念坂とも書いた。神楽坂三、四丁日の境を神楽坂の上の方から北へ下り、筑土八幡社の手前の津久土町へ抜ける長い坂。三年坂の名のいわれはすでに他のところで述べたので省く。津久土町はもとは牛込津久土前町とよんだが、「東京府志料」はこれを「牛込津久土前町 此地は筑土神社の前なれば此町名あり、もと旧幕庶士の給地にして起立の年代は伝へざれども、明暦中受領の者あれば其頃既に士地なりしこと知るべし。」とし、また坂については「三念坂 下宮比町との間を新小川町二丁日の方へ下る。長さ五十七間、巾一間四尺より二間二尺に至る。」と記している。この坂道通りは花柳界をぬけて神楽坂通りに結びつく商店街である。

「三年坂」と「本多横丁」を考えてみれば、かたや「坂」、かたや「街」なので、全く出所は違います。
本多修理 本多修理の邸地は本多横丁と接する場所にありました。本多修理は少なくとも本多家の二代から四代までが名乗っていました。
寛政四年

関根達発 セキネ タッパツ。生年は1883年1月17日。没年は1928年3月20日。俳優。日本映画草創期に活躍した二枚目俳優。新派俳優から日活向島撮影所、松竹蒲田撮影所に入社。退社後はマキノ・プロダクションの作品に出演。
筑土八幡の石段 筑土(つくど)八幡(はちまん)。新宿区筑土八幡町の神社。一時、神社の2社があったことがあります。元和2年(1616年)、江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、北の「八幡」と比較して南の「津久戸明神社」と呼ばれてきました。その後、第二次世界大戦で2社はどちらも全焼。北の八幡神社は現在でも当地に鎮座しますが、津久戸明神社は千代田区九段北に移転します。戦前では地図でも明らかなように石段も2つありました。明治時代も同じように2社がありました。
昭和5年牛込区全図から

津久戸明神(筑土八幡神社)、現在の新宿区筑土八幡町。 小沢健志、鈴木理生監修「古写真で見る江戸から東京へ」世界文化社、2001

 関根達発の家よりさらに手前の十字路は軽子坂上だが、その右側にある料亭🏠うを徳の初代が、泉鏡花の『(おんな)系図(けいず)』のめの惣のモデルだといわれている。
 🏠善国寺本堂の右横へ行くと毘沙門ホール入口と標示されていて、「毎月五日・二十五日開演神楽坂毘沙門寄席」と濃褐色の地に白い文字を染めぬいた幟が立っているが、ニカ所ある善国寺の石の門柱にはそれぞれ「昭和四十六年五月十二日児玉誉士夫建之」と刻字されている。戦前の境内には見世物小屋が立ったり植木屋が夜店を出したが、少年時代の私にとって忘れがたいのは本堂の左手にあった駄菓子屋で、そこで買い食いした蜜パンは思い出してもぞっとする。店主は内髪の老婆で、ななめに包丁を入れて三角に切った食パンに糊刷毛のようなもので壺の中の蜜を塗って渡されたが、壺や刷毛は一年になんど洗われたか。大正時代の幼少年は、疫痢でよく死んだ。
 三菱銀行と善国寺のあいだにあるのが🏠毘沙門横丁で、永井荷風の『夏姿』の主人公慶三が下谷の(ばけ)横丁の芸者千代香を落籍して一戸を構えさせるのは、恐らくこの横丁にまちがいないが、ここから🏠裏つづきで前述の神楽坂演芸場のあったあたりにかけては現在でも料亭が軒をつらねている。

落籍 らくせき。抱え主への前借金などを払い、芸者や娼妓(しょうぎ)の稼業を止めること。身請け
うを徳 その写真は

うを徳
毘沙門寄席 現在も中身は変えながら続いています。たとえば毘沙門寄席

夢をつむぐ牛込館

文学と神楽坂

 1975年9月30日、『週刊朝日』増刊「夢をつむいだある活動写真館」で牛込館について出ています。初めて神楽坂の牛込館の外部、内部や観客席も写真で撮っています。

週刊朝日 むかしの映画館は、胸をわくわくさせる夢をつむぐ(やかた)であった。暗闇にぼおっと銀色の幻を描いた。
 東京・神楽坂にあった牛込館もそういった活動写真館の一つだった。もちろん、今は姿かたちもない。写真を見ると、いかにも派手な大正のしゃれた映画館に見える。
 これを、請け負ったのは清水組。その下で働いていた薄井熊蔵さんが建てた。薄井さんはことし五月、九十四歳で亡くなった。できた当時のことを、聞くすべもない。さいわい、つれそいの薄井たつさん(八四)が世田谷の三軒茶屋近くに健在だときいて訪れた。
「さあね、大正十年ぐらいじゃなかったかね。そのころ広尾に住んでましたけど、いい映画館を造ったのだと言って、そのころ珍しい自動車に乗せられて見に行きましたよ、ええ。まだ興行はやってなかったけど、正面玄関とか館内にはいって見てきましたよ。シャンデリアつて言うのですか、電灯のピカピカついたのがさがっていましたし、たいしたもんでしたよ。行ったのは、それ一回でしたけどねえ」
 なんでも当時の帝国劇場を参考にして、それをまねて造ったというのだが……。
観客席

観客席

 帝国劇場のことが少し入り

 この牛込館が十年ごろ完成したことになると、震災の時はどうだったのか。あるいはその後ではなかったのか。たつさんの記憶もたしかではない。もっとも神楽坂方面は震災の被害は少なかったともいわれるが……。

文士が住んだ街

 昭和の初期、この館を利用した人は多い。映画プロデューサー永島一朗さんも、そのひとりだ。
「そうねえ、そのころ二番館か三番館だったかな。私は新宿の角筈に住んでいて、中学生だったかな、七銭の市電に乗るのがもったいなくて、歩いて行ったものですよ。当時は封切館は五十銭だったが、牛込館は二十銭だった。新宿御苑の前に大黒館という封切館がありましたよ。
 どんな映画を見たか、それはちょっと覚えてないなあ。牛込館はしゃれた造りではあったが、椅子の下はたしか土間だったですよ」
 おもちゃ研究家の斎藤良輔さんも昭和五、六年ごろから十年にかけて早稲田の学生だったので、ここによく通ったそうだ。
「なんだか〝ベルサイユのばら〟のオスカルが舞台から出てくるような、古めかしいが、なんだかしゃれた感じがありましたよ。そのころ万世橋のシネマパレスとこの牛込館が二番館か三番館として有名で、われわれが見のこした洋画のいいのをやっていました。客は早稲田と法政の学生が多かったな。神楽坂のキレイどころは昼間も余りきてなかったな。ちょうど神楽坂演芸場という寄席ができて、そこに芸術協会の金語楼なんかが出ていて、そっちへ行ってたようだ」
 この神楽坂、かつては東京・山の手随一の繁華街で、山の手銀座といわれた時代があった。昭和四年ごろから、次第にその地位を新宿に奪われていった。関東大震災前から昭和十年にかけて、六大学野球はリーグ戦の華やかなころ、法政が優勝すると、軒なみ法政のちょうちんが並び、花吹雪が舞った。早稲田が勝てば、Wを描いたちょうちんで優勝のデモを迎えた。
 また日夏耿之介三上於莵吉西条八十宇野浩二森田草平泉鏡花北原白秋などの文士がこの街に住み、芸術的ふん囲気も濃く、文学作品の舞台にもしばしばこの街は登場している。
 だから、牛込館はそういった街の空気を象徴するものでもあった。
 明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向こうに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。
 かつての牛込館あとをたずねて歩いた。年配のおばあちゃんにたずねると、土地の人らしく、「ええ、おぼえてますとも」と言って目をかがやかせる。空襲で焼かれるずっと前に、牛込館はこわされて、消えて行った。そのあとに、今も残っている旅館が二軒。それがかつて若い人たちが、西欧の幻影を追いもとめた夢まぼろしの跡である。

二番館 一番館(封切り館)の次に、新しい映画を見せる映画館

写真は最初の1枚を入れて4枚。牛込館

牛込館内部

牛込館の内部

牛込館の前に記念撮影

牛込館の前で記念撮影

 現在の リバティハウスと神楽坂センタービル。この2館が旧牛込館の場所に立っている。360°カメラです。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座


大震災③|昭和文壇側面史|浅見淵

 文学と神楽坂

三代目小さんの独演会

 ちなみに、そのころ佐佐木茂索氏の住んでいた洋館が、のちに中戸川吉二のはじめた「随筆」の発行所となり、その編集を受持っていた牧野信一も、暫くこの洋館に住み込んでいたように記憶している。
 そのほか、寄席や釈席が震災でたくさん焼けたので、牛込亭神楽坂演芸場などの寄席、これは釈席の江戸川亭などに、一流の噺し家や講釈師がつぎつぎと現われた。当時名人といわれていた三代目柳家小さんの独演会で、得意とする「笠碁」をはじめ、どの噺しもあまり描写がこまかいので肩を凝らしたり、錦城斎典山の「小夜衣草紙」で、梅雨の夜更けの陰気な吉原の曲輪(くるわ)の広廊下に聞こえてくる幽霊女郎の厚草履の音に戦慄を覚えたりもしたものだ。いまにして思うと、この時代が落語や講釈の名人が活躍した最後だったような気がする。

小さん やなぎやこさん。落語家。生年は安政4年8月3日(1857年9月20日)。没年は昭和5年(1930年)11月29日。滑稽噺の名手として明治中期の東京落語界で人気がありました
洋館 『随筆』第一号の編集部は天神町14、発行所は巣鴨です。一方、最終号(第二巻第11号)で『随筆』の発行所は天神町6になっています。赤で囲んだ場所で、右は天神町14、左は天神町6です。天神町6は東洋経済新報社の社屋でもあります。洋館は天神町14にあったのでしょうか。随筆・矢来下
随筆 随筆久米正雄、水守亀之助を相談役に迎え、牧野信一を編輯兼印刷人として大正12年11月、雑誌『随筆』を創刊。当時の大家の名前が沢山出ています。
釈席 しゃくば。講談を興行する寄席。講釈場
江戸川亭 小石川区関口町にありました。
笠碁 かさご。古典落語の演題の一つ。碁敵同士が、ののしり合って、けんか別れになりますが、雨の日、唐傘がないので(かぶ)り笠をかぶって出かけ、また2人で碁を打つと碁盤に雨の滴が落ちるので、「いくら拭いても後から垂れて……おい、いけねえなぁ、かぶり笠を取んなよ」
錦城斎典山 きんじょうさいてんざん。3代目の講釈師。1863‐1935、文久3‐昭和10年。世話物、時代物の両方に長じて、近代講釈界最高の名人とうたわれました。写実的な読み口と、的確な情景描写が有名。
小夜衣草紙 講談の一演目。客の不実を恨んで自害した吉原の遊女、小夜衣の亡霊が巻き起こす事件の数々を語ります。
曲輪 くるわ。一定の地域を限って、その周囲と区別するために設けた囲い、つまり城や砦の周りに築いた土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)や石垣など。

文学と神楽坂

日本歓楽郷案内(5/5)

文学と神楽坂

 歡樂郷としての神樂坂は花街の外に、牛込館神樂坂日活館といふ二つの映畫館があるだけで、數年前までは山手第一の高級映畫館だつた牛込館も、現在では三流どころに叩き落されて了つた。尚ほ寄席の神樂坂演藝場だけが落語の一流どころを集めて人氣を呼ぶが、これとて昔日のそれと比較すればお話しにならない。
 只、夏の夕べに最も喜ばれるのは外堀の一廓を占領した貸ボートである。
 朝の一漕は健康の基――なんて、考へやうによっては甚だ變に解釋できるスローガン掲げて旺んに若い男女を惹きつけてゐる。
 暗い隅つこの方ヘボートを寄せて、なにか甘い囁き耽つてゐる戀の男女に、わざと水を放ねかけて通る岡燒逹の悪戯も、夏の夕暮の状景としてはまことにふさわしい。
 ボートに乗る女學生――彼女たちの尻を追ふ中學生の多いのも、神樂坂景物の見迯し帰ない一つであらう。

歓楽郷 喜び楽しむ土地
牛込館 牛込館は神楽坂5丁目から藁店を上がる途中の袋町にありました。昭和12年の地図(左)と現在の地図(右)とを加えると、リバティハウスと神楽坂センタービル2つを加えて「牛込館」になるのでしょう。なお、牛込館の南側にある(みやこ)館は明治、大正、昭和初期の下宿で、名前だけは聞いたことがある文士たちがたくさん住んでいました。

牛込館

左は都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和12年).右は現在の地図(Google)


神楽坂日活館 『かぐらむら』に出た『記憶の中の神楽坂』「神楽坂6丁目辺り」には

武蔵野館は現在のスーパー「よしや」の場所にあった映画館。戦前は「文明館」「神楽坂日活」だったが、戦災で焼けてしまって、戦後地域の有志に出資してもらい、新宿の「武蔵野館」に来てもらった。少年時代の私は、木戸銭ゴメンのフリーパスで、大河内伝次郎や板妻を観た。

と書いてあります。なお、毎日新聞社『1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶』(写真 池田信、解説 松山厳。2008年)で武蔵野館の写真が残っています。神楽坂武蔵野間館

花街 芸者屋・遊女屋などの集まっている町。色里。色町。かがい。
昔日 せきじつ。過去の日々。往時。いにしえ
一廓 いっかく。一つの囲いの中の地域。あるひと続きの地域
一漕 いっそう。船を1回こぐ。
旺ん さかん。 盛んとも。勢いがいい様子
囁き ささやき。私語。ささやくこと。また、その声や言葉
耽る ふける。一つの物事に熱中する。夢中になる
岡焼 おかやき。自分と直接関係がないのに、他人の仲がいいのをねたむこと
見迯し みのがす。迯は逃の俗字。見ていながら気づかないでそのままにする

大東京繁昌記|早稲田神楽坂07|通寺町の発展

文学と神楽坂

 1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に乗った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』の一部、「通寺町の発展」です。

通寺町の発展

 普通神楽坂といえば、この肴町の角から牛込見附に至る坂下までの間をさすのであるが、今ではそれを神楽坂本通りとでもいうことにして、通寺町の全部をもずっと一帯にその区域に加えねばならなくなった。その寺町の通りは、二十余年前私が東京へ来てはじめて通った時分には、今の半分位の狭い陰気な通りで、低い長家建の家の(ひさし)が両側から相接するように突き出ていて、雨の日など傘をさして二人並んで歩くにも困難な程だったのを、私は今でも徴かに記憶している。今活動写真館になっている文明館が同じ名前の勧工場だったが、何でもその辺から火事が起ってあの辺一帯が焼け、それから今のように町並がひろげられたのであった。
肴町 現在の神楽坂五丁目です。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といい、この名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。しかし、江戸城の城門以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。ここでは市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所を示すと考えます。
通寺町 現在の神楽坂六丁目です。
長家建 共有の階段や廊下がなく、1階に面したそれぞれの独立した玄関から直接各戸へ入ることのできる集合住宅。
 ひさし。窓・出入り口・縁側などの上部に張り出す小さな屋根。出入り口や窓の上部に設けることで、日差しや雨から守ることができるようになる。
勧工場 かんこうば。現在「スーパーよしや」が建っています。明治20年5月、牛込勧工場のスタートでした。
 工業振興のため商品展示場で、1か所の建物の中に多くの店が入り、日用雑貨、衣類などの良質商品を定価で即売しました。1店は間口1.8メートルを1〜4区分持つので、規模は小さく、また、多くは民営で、商人達の貸し店舗の商店街でした。入口と出口は別々にするのが一般的ですが、牛込勧工場は入口と出口が同じでした
 明治11年、東京府が初めて丸の内にたつくち勧工場を開場し、明治20~30年代にかけ全盛期を迎えます。明治40年以後になると、百貨店の進出があり、「勧工場もの」という言葉が安物の代名詞として広がり始め、大正3年(1914)にはわずか5か所に減り、衰退していきます。
 辰ノ口勧工場は明治15年の松斎吟光氏の「辰之口勧工場庭中之図」(発売元は福田熊次郎)で見ることも可能です。

火事が起って 牛込勧工場は通寺町で明治20年5月に販売開始。火災や盗難などがあれば、出品者に分担。地図を見ると、明治43年、道路は従来のままで、明治44年には拡幅終了。おそらく火災による道路拡幅は明治43年から明治44年までに行ったのでしょう。

通寺町の拡幅。明治43-44年

 その頃、今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所に、いろはという牛肉屋があった。いろはといえば今はさびれてどこにも殆ど見られなくなったが、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青の色ガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立っていた。或時友達と二人でその店へ上ったが、それが抑抑私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金がかゝるかと内心非常にびくくしながら箸を取ったが、結局二人とも満腹するほど食べて、さて勘定はと見ると、二人で六十何銭というのでほっと胸を撫で下し、七十銭出してお釣はいらぬなどと大きな顔をしたものだったが、今思い出しても夢のような気がする。

安田銀行聖天様いろは 下図の「火災保険特殊地図」(昭和12年)を見てみましょう。最初に、上下の大きな道路は神楽坂通り、下の水平の道路は大久保通り、2つの道路が交わる交差点は神楽坂上交差点です。
「安田銀行」は左にあります。その右には「聖天様」、つまり安養寺があり、そして昔の「いろは」(牛肉料理店)があります。 これは「牛肉店『いろは』と木村荘平」で詳しく検討しています。

第十八いろは(新宿区道路台帳に加筆)

 現在の写真では「安田銀行」は「セイジョー」から薬販売の「ココカラファイン」に、安養寺は同じく安養寺で、「いろは」はなくなりました。

 それから少し行ったところの寄席の牛込亭は、近頃殆ど足を運んだことがないが、一時はよく行ったものだった。つい七、八年か十年位前までは、牛込で寄席といえばそこが一等ということになっていた。落語でも何でも一流所がかゝっていつも廊下へ溢み出すほどに繁盛し、活動などの盛にならない前は牛込に住む人達の唯一の慰楽場という観があった。私が小さん円右の落語を初めて聞いたのもそこであった。綾之助小土佐などの義太夫加賀太夫紫朝新内にはじめて聞きほれたのも、矢張りその牛込亭だったと思う。ところがどういうわけでか、数年前から最早そういう一流所の落語や色物がかゝらなくなって、八幡劇だの安来節だのいうようなものばかりかゝるようになった。それも一つの特色として結構なことであるし、それはそれとして又その向々の人によって、定めて大入繁昌をしていることゝ思うが、私としては往時をしのぶにつけて何となくさびしい思いをせざるを得ないのである。場所もよし、あの三尺か四尺に足らない細い路地を入って行くところなど、如何にも古風な寄席らしい感じがしたし、小さんや円右などの単独かんぱんの行燈が、屋根高く掲げられているのもよく人目を引いて、私達の寄席熱をそゝったものだった。今もその外観は以前と少しも変らないが、附近の繁華に引換え、思いなしかあまり眼に立だなくなった。今では神楽坂演芸場の方が唯一の落語の定席となったらしい。

牛込亭 この地図では「寄席」と書いています。現在の地図は、牛込亭は消え、ど真ん中を新しい道路が通りました。なお、この道路の名前は特に付いていません。
小さん 1895年3月、3代目襲名。1928年(昭和3年)4月、引退。
円右 1882年に圓右、1883年真打昇進。1924年10月、2代目圓朝に。一般的に「初代圓右」として認識。
綾之助 女性。本名は石山薗。母から義太夫の芸を仕込まれ、1885年頃、浅草の寄席で男装し丁髷姿で出演。竹本綾瀬太夫に入門し竹本綾之助を名乗る。1886年頃に両国の寄席で真打昇進。端麗な容姿と美声で学生等に人気を呼び、写真(プロマイド)が大いに売れたといいます。
小土佐 女性。竹本(たけもと)小土佐(ことさ)。女義太夫の太夫。明治の娘義太夫全盛期から昭和末まで芸歴は長大。
義太夫 義太夫節、略して義太夫は江戸時代前期から始まる浄瑠璃の一種。国の重要無形文化財。
加賀太夫 男性。富士(ふじ)(まつ)加賀(かが)太夫(たゆう)は、新内節の太夫の名跡。7代目は美声の持ち主で俗に「七代目節」と言われる。明治末から大正時代の名人。現在に通じる新内の基礎はこの人物がいたため。
紫朝 富士松ふじまつ紫朝しちょう。男性。明治大正の浄瑠璃太夫。
新内 新内(しんない)(ぶし)は、鶴賀新内が始めた浄瑠璃の一流派。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受けたといいます。
色物 寄席において落語と講談以外の芸。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていました。
八幡劇 大衆演劇の劇団でしょうか。よくわかりません。
安来節 やすぎぶし。島根県安来地方の民謡。

 そんな懐旧談をしていたら限りがないが、兎に角寺町の通りの最近の発展は非常なものである。元々地勢上そういう運命にあり、矢来方面早稲田方面から神楽坂へ出る幹線道路として年々繁華を増しつゝあったわけであるが、震災以後殊に目立ってよくなった。あの大震災の直後は、さらでだに山の手第一の盛り場として知られた神楽坂が安全に残ったので、あらゆる方面の人が殺到的に押し寄せて来て、商業的にも享楽的にも、神楽坂はさながら東京の一大中心地となったかの如き観があった。そして夜も昼も、坂下からずっとこの寺町の通り全体に大道露店が一ぱいになったものだったが、それから以後次第にそれなりに、私のいわゆる神楽坂プロパーと等しなみの殷賑を見るに至り、なお次第に矢来方面に向って急激な発展をなしつゝある有様である。

兎に角 他の事柄は別問題として。何はともあれ。いずれにしても。ともかく。
さらでだに 然らでだに。そうでなくてさえ。ただでさえ。
殷賑 いんしん。活気がありにぎやかなこと。繁華

私の東京地図|佐多稲子②

文学と神楽坂

 佐多稲子氏の『私の東京地図』の「坂」②です。

 この道に、あんなに商店の灯が輝やき、人々が群れて通ったのであろうか。この辺りなどは、地上に密集して建っている家並みでもって盛り上っている、といったところだっただけに、それの消えてしまった跡は、一層空漠としてしまったのであろう。全く此処は、電車通りをのぞいて言えば、家の軒の下を小さな路地が曲りくねり、坂をなして、あちらへこちらへと抜けている、そんなところであった。今、丘の起伏にそって弧を描いて一本通っている神楽坂、この表通りを左右ヘー歩這入れば、待合芸者屋とそれにともなうこまごました店で埋まってしまっていたものだ。紅谷(べにや)の前の相馬屋紙店の横を、家壁に袖をふれるようにして入ってゆけば、吸い込まれるように先きへ先きへと、小さな石段があったり、突き当りかと見ればまたその家の玄関の横へ抜けていたり、おもいがけない奥まったところに汁粉屋があったり、髪結の看板が出ていたりなどして、そのまわりは入口と入口の喰っつき合った、あるいははすかいに玄関の反れた、小さな待合ばかりであった。狭い石段は家の軒の下に陽の光りもとどかぬふうで、おもいがけなく別世界へ迷い込んだ気分に誘う。どこからかまた坂の表どおりへ出ると、店の奥では洋食を食べさせる果物屋の田原屋や、そのはすむかいの何とかいうレストランなど、ハイカラな洋食を食べさせる家もあり、毘沙門(びしゃもん)さまの石垣についてそばやとの間を入ると、そこはまた花柳界で、この次の横町には、神楽坂演芸場が、芸人の名を筆太に書いた看板を表通りからも見えるように出して、昼間はひっそりと、厚い屋根瓦の(ひさし)を展げていた。

この道 神楽坂通りでしょう。
消えてしまった跡 これは第2次世界大戦のため神楽坂の大半が消えたことをいっています。
待合 待ち合わせのための場所を提供する貸席業のこと。
芸者屋 芸者置屋ともいい、芸者などを抱える業態。プロダクションに当たります。
入ってゆけば 相馬屋紙店の横は寺内横丁と呼んでいます。
石段 石段で一番最初に出てくるのはここ。

クランク

玄関の横 上を見ると一見行き止まりに見えますよね。でも玄関の横がら右に入っていけます。

 以下は新宿区図書館「神楽坂界隈の変遷」の『神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形』を参考にします。

神楽坂。古老の大震災の前
汁粉屋と髪結 この時代(『神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形』)ではここが汁粉屋と髪結です。時代は違っているので、これも違っていることも充分ありえます。でも、本多横丁にあるのを指しているのではないでしょうか。
はすかい 斜交い。ななめ。はす。ななめに交わること。

神楽坂。古老の大震災の前

レストラン カフェー・オザワでしょうか?
毘沙門 ご存じ善國寺毘沙門天
そばや 「そば春月」のこと。関東大震災前の昭和12年ではそうでした。昭和27年では「春月のみや」に変わっています。
 建物の出入り口・縁側などの上部にでる片流れの小屋根。

 大地震のすぐあと、それまで住んでいた寺島の長屋が崩れてしまったので、私は母と二人でこの近くに間借りの暮らしをしていた。芸者屋などにすぐ喰っついてゆるゆると高くなる方はもう静かな住宅が並んでいる。いつも門の戸をたてたままというような邸もあり、洋風の窓にレースのカーテンが塀越しにのぞける家もあり、道路のすぐそばから、がらがらと戸の開く格子づくりの二軒長屋などもある。この近くに住んでいる人のほかは通りてもないような狭い坂道が幾条も上から流れてみんな神楽坂へ出る。だから、この上の納戸町(なんどまち)にあった私の間借りの家は、このどの坂を通ってもいい。牛込見附から省線電車に乗って東京駅へ通う私は、朝夕この坂のひとつを通って往き来するのであった。

大地震 関東大地震は大正12年(1923年)9月1日でした。したがって、大正12年に佐多稲子と母は神楽坂周辺に移転し、この章も大正12年が中心になっています。
寺島 墨田区(昔は向島区)曳舟の寺島町。納戸町
この近く 「私」の住所は新宿区納戸町でした。
納戸町 右図の通り。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。牛込見附も江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。
省線電車 鉄道省の管轄下にある電車。JRに相当。

毘沙門横丁|名前

文学と神楽坂


毘沙門

 名前について「毘沙門横丁」は5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱東京UFJ銀行の間にある小さな路地のことです。場所はここ。明治20年も同じ呼び名の毘沙門横丁です。「毘沙門横丁」「おびしゃ様の横丁」はついこの間まで呼んでいた名前です。これ以上簡単なものはありません。
 野口冨士夫の『私のなかの東京』では

 三菱銀行と善国寺のあいだにあるのが毘沙門横丁で、永井荷風の『夏姿』の主人公慶三が下谷のおばけ横丁の芸者千代香を落籍して一戸を構えさせるのは、恐らくこの横丁にまちがいないが、ここから裏つづきで前述の神楽坂演芸場のあったあたりにかけては現在でも料亭が軒をつらねている。

と書いています。昔の地図でも出ています。

新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)

 一方、「毘沙門横丁」なのに、「大手門通り」という言い方があります。これは不思議な名称です。ここ10年程昔から使ってきたようです。牛込城「大手門跡」に行くと書いていますが、この「大手門跡」は具体的にはどこなのでしょうか。本当にそれは「大手門跡」なのでしょうか?
 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

神楽坂から地蔵坂を上る辺りに牛込城の大手門があったと伝えられる

と書き、『神楽坂界隈』平成9年の水野正雄氏の「中世の神楽坂とその周辺」では

大手門…一説では地蔵坂下の説もあるが、もう少し南寄りの三菱銀行から宮坂金物店辺りではなかろうか

と書いています。

 また「牛込城跡」について東京都新宿区教育委員会の説明では

光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される

御府内備考」では

おもふに今善國寺なとある邊若宮八幡と行願寺の間住古の道にてそこに向ひて城門を立てしなるべし

と推考を書いています。

 大手門はどこにあったのか、明らかになってはいません。ある学説や風説としてはいいのでしょうが、あまり使いたくはない名前です。

拝啓、父上様」の第1話では

毘沙門前
  通りをつっ切り境内へ入る一平。
  その目に――
  ザックを背負って肉マンを喰っている一人の若者。
  中川時夫。
  ――ケイタイを耳に当てている。
一平「(歩きつつ、ケイタイに)よし。お前だな。肉まんを喰ってるお前だな」
  若者の前に立ち、ケイタイを切る。
一平「時夫君か」
時夫「(変に明るい)オス! 一平か」
一平(ムッとする)
時夫「(食いつつ)この町凄えな! 外国人に逢っちやったぜ」
一平「―――」
  間
一平「ついて来い(歩き出す)」
時夫「オス! 何だそっちか。全然逆の方探してたなハハ。――いくつだ一平」
一平「(ムッと)お前は」
時夫「十九。高枚中退だ」
  短い間。
一平「俺は二十三だ」
時夫「それにしちゃ可愛いな。ヒヒッ、ま、よろしく頼まァ!」
一平「こっちだ!(曲る)」
時夫「オス!」
  音楽――「板場のテーマ」ダイナミックに、イン。


毘沙門横丁