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牛込城の構築|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)4「牛込城(袋町居館地)と城下町」についてです。もし牛込城があった場合、何がどこにあったのかという疑問があり、そこで昭和61年度に郷土研究会が一致団結して調査に乗りだしました。

牛込城(袋町居館地)と城下町
(1) 牛込城趾の調査
 牛込氏の居館が袋町にあった、という文献は多いが、城として存在を認めているのは『御府内備考』と『江戸名所図会』だけである。
 一般に、城には城としての条件——目的、規模、範囲、施設(、井戸、やぐら曲輪等)——があるものだが、今となっては不明な点が多い。
 今回、昭和61年度、1年がかりで、会員全員でこの調査にあたった。その結果を次に示す。
①目的……袋町への進出は重行の代とすると、まさに、戦国時代へ突入する直前の頃で、居館の安全性を考え、備えが必要だったと想われる。又、筑土八幡の高台は、すでに、扇谷上杉朝興によって“”が築かれ、赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町と、ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂供養塚(奥州街道に想定されている)との二本の古道があったらしい(『牛込区史』)。まさに、城はこの二本の古道を睨んで築かれている。
②規模……牛込氏の故郷、群馬県大胡町にある大胡城趾と、その規模、構造共に、亦、地形こそ違うが、その配置、施設と想われる場所が、非常に類似している。

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 「牛込城蹟」については……

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々

註:いかさま 1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき

江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

 空堀。からぼり。水のないくぼみ。
 水堀。みずぼり。水をためた堀。
やぐら 櫓。城門や城壁の上につくった一段高い建物。敵状の偵察や射撃のための高楼。
曲輪 くるわ。城を構成する防禦区画で、土塁や堀、石垣などで囲まれた平坦地。敷地内を複数の小さな曲輪で区切るのが日本の城の基本。壁面を急傾斜の切岸状にするほか、縁辺に土塁を盛り上げたり、外周や尾根続きに空堀を掘って外部から遮断する。
重行 大胡重行。日本城郭全集第4「東京・神奈川・埼玉編」(人物往来社、1967)では……

 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城(埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条[氏康]氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年(1578年)前後と推察される。

 天文6年は1537年で、豊臣秀吉が誕生した年でした。
筑土八幡の高台 筑土山。現在の筑土八幡神社がある高台
扇谷上杉朝興 室町後期の武将。江戸、川越の城主。朝憲の子。おおぎがやつ上杉朝良の養子。
神楽坂交差点 現在は「神楽坂上交差点」です。
二本の古道 図では「二本の古道」を描くと、中央から右に動く1本(赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町)と中央から左下に動く1本(ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂—供養塚)でしょう。

「牛込区史」「道路」の126頁では……

江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもないが、赤城下の築地の成らない前正保年中の地図に依つて見ると、本区の道路は牛込見附から通寺町榎町の通りを経て馬場下に達するものと、通寺町から南折して柳町から馬場下に達し、前者と合して旧高田馬場方面に走向するものと、(供養塚町の事蹟にこれを古奥州街道の一つと言っているのは採否の限りでないが、しかし比較的重視すべき原始往還たることだけは十分に察せられる)前記柳町附近から分岐して、西大久保方面に走向するものと、市谷本村町より渓谷を辿って谷町に至り、左右に分岐する谷に沿つて一は天神前方面、他は番衆町方面に走向する道路を幹線として、それらに若干の間道を連接する片町或は両側町式市街に過ぎない。

註:正保年中の地図 正保は「しょうほう」。地図は江戸初期、正保元年か2年(1644〜45)に作られたもの
通寺町 現在は神楽坂6丁目

 つまり「2本の古道」と「牛込区史」の「道路」とは全く違っています。さらに「江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもない」といい、これは江戸初期や戦国時代以前は、おそらく憶測が入るので、考えるべきではないといっているのでしょう。
牛込区史 東京市牛込区編「牛込区史」(昭和5年)です。
大胡城趾 群馬県前橋市河原浜町の空堀で区切った中世の城跡。鎌倉幕府御家人の大胡氏が城主。

③範囲……現在の地形、及び当時の状勢から想像すると、城の範囲は袋町を中心として、若宮、北、中、南、砂土原、払方、神楽坂4、5丁目の各町の一部、いわゆる牛込台地の南側一帯と考えられる。
 袋町の光照寺の台地は、この辺での最高地(海抜27米)で、後世、江戸時代には天文屋敷(天文台)が置かれた処である(『御府内備考』)。この台地が伝承の通り、牛込氏居館趾、本丸と思われる場所で、大胡城趾本丸居館趾高台の広さと同じ、8、90米四方になる。

光照寺 袋町15番にある浄土宗の樹王山正覚院光照寺です。
天文屋敷 現在は光照寺の正面にマンション「プラウド神楽坂ヒルトップ」です。
御府内備考 天文屋鋪では……

  天文屋舗蹟
天文屋鋪蹟は地藏坂の上半町ほと西の方なり 延寶の比はたゝ二軒の旗下屋敷ありし 享保十年の江戶圖には屋敷はなくてたゝ明地のことくにて有しと見ゆ その後佐々木文次郞といひし人 元御徒組頭なり 天文の術に長しけれは召出され やかてこひ奉り この所に司天臺を建て天文をはかれりされと この地は西南の遠望さはり多けれはとてその子吉田靱負の時に至り天明二年壬寅七月 或六月朔日ともいふ 今の淺草鳥越の地へうつされたり

牛込城(「牛込氏と牛込城」「東京都新宿区 (13104) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット」から)

 北側……急をなし牛込川の谷になっている(現大久保通り)。
 西側……南蔵院旧本堂前の池にそそいでいたと思われる沢跡が一直線に逆上り、北町、中町通りを直角に横切り、南町通りの直ぐ手前まで達している。水源地は南町通りから一寸と北へ入った箇所で、現在でも使用している井戸があり、当時は涌水が出ていたことであろう。この沢を、更に、手を入れて濠とした形跡がある。
 又、最高裁判所長官邸から払方町へ行く路が牛込中央商店街通りへ出る際に、不自然な凹地が路を横切る。その谷状地の南側は、急に、市ヶ谷濠に落ちて行く。北は崖状になって、民家の中を抜けて、南町通り近くまで達し、前記の水源地近く40~50米附近まで近づいている。恐らく、南町通りができた時にならされてしまったのではないだろうか。以上が西壕跡である。

牛込川 昔、南蔵院近傍から飯田橋駅近くの小石川大沼まで流れていたと思われた川。
南蔵院 箪笥町にある天谷山竜福寺南蔵院。
沢跡が一直線に逆上り これは空から見るとはっきりします。

沢跡と南蔵院

現在でも使用している井戸 これは40年近く前、昭和62年(1987)に書かれた文章です。井戸の有無は私にはわかりません。
最高裁判所長官 最高裁判所長官公邸は新宿区若宮町39にあります。
牛込中央商店街通り 正式には「牛込中央通り」。市谷田町交差点から矢来町交差点に至る南北に通る全長約1.2kmの通り
不自然な凹地 払方町に見られます。

払方町の不自然な凹地。

ならされる ならす。均す。平す。高低やでこぼこのないようにする。たいらにする。

牛込城(北と西)

 南側……現在の外濠り通りになっている谷に面して、相当の急崖になっている。
 東側……神楽坂通り善国寺裏あたりまでは崖になっている。若宮町14、西条歯科医院一帯は現在でも、はっきり解る濠跡である。
 ここは当時、空壕ではなく、湿地的な水の可能性さえある。この濠水の流れる谷が、現在の熱海湯通りで、両崖の高さからみて、かなりの水量があったことさえ想像される。そして、若宮八幡の前は崖状になって外濠通りへ落ちている。

外濠り通り 現在は「外堀通り」です。
若宮町14、西条歯科医院一帯 小栗横丁が西側で終わる地域を超えると、西側に西条歯科医院があります。西条歯科医院とその周辺(黄色)が若宮町14です。

若宮町14はこの写真では西条歯科医院とその周辺。右が北方。下の図(↓)では西条歯科医院の地図。

熱海湯通り 小栗横丁と同じ意味です。

 大手門……一説では地蔵坂下の説もあるが、もう少し南寄りの三菱銀行から宮坂金物店辺りではなかろうか。最近、ビル工事をした宮坂金物店の通りに面したところから頑丈なで組んだ井戸が発掘された。これが、いつの時代のものか不明だが、丁度、このあたりが神楽坂通りでは一番高く、古道に対する最短距離の場所となる。又、善国寺裏、料亭松ヶ枝の庭は階段状になり、左右に折れながら登っている。そして最奥の離屋は光照寺墓地のすぐ下へと続いている。この辺が大手門と本丸をつなぐ道ではなかろうか。

大手門 城の正面。正門。おう
宮坂金物店 神楽坂3丁目6-10です。現在はMIYASAKAビルに替わり、こう椿つばき」が営業中。
 ひのき。常緑高木。日本特産。山地に自生、広くは植林。高さ30~40メートル。樹皮は赤褐色で縦に裂け、小枝に鱗片りんぺん状の葉が密に対生する
本丸ほんまる 城郭で、中心をなす一区画。城主の居所で、多く中央に天守(天守閣)を築き、周囲に堀を設ける。

 大手門には仮説として2説があるということになります。一番目は地蔵坂(藁店わらだな)が神楽坂通りと交わる点、二番目はより南方(例えば毘沙門横丁や三つ叉横丁)と神楽坂通りと交わる点。重要なことですが、どちらも仮説です。

市ヶ谷牛込絵図(万延元年)

 江戸時代の「江戸名所図会」や「御府内備考」などでも大手門の位置はわかりません。「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々(註:いかさま=なるほど。いかにも)

 仮説1は芳賀善次郎氏の下図によっています。仮説2はこの文章で、おそらく文責は一瀬幸三氏にあったのでしょう。

図は「牛込氏と牛込城」から

 搦手門……不明。
 井戸……袋町25、26番地一帯は光照寺台地の南側で、一段、低くなっている。牛込城の二の丸とみられる処で、東ぎわは崖で、下は若宮町14の水濠跡になっている。この崖際に三木さんのビルがあるが、江戸時代の土井家の屋敷跡である。土井家時代からのものといわれる、外井戸が屋上にある。今でも、外水を全部まかなっている程、出が良く、大城の水門位置からみて、この辺が牛込城の水門口とみている。この辺り一帯の井戸で、最も重要な井戸と思われるものが26番地、飯塚ビル玄関前の井戸跡であろう。旧宅時代には便利で、良い水の井戸で、余り出が良いので、現在は下水栓につないであるとのことである。飯塚ビル向って左側の隣家は一段高く、その家に通じる路が、この井戸跡を巻くようにして登っている。その路を数登り切ると、光照寺本堂が目と鼻の先にある。水吸み路の名残りではなかろうか。

搦手門 からめてもん。城の裏門。
袋町25、26番地一帯 図を参照。

袋町。建物は昭和62年の時点。現在は西条歯科医院を除き全て新しい建物に変わっている。

二の丸 にのまる。城の本丸の外側を囲む城郭。本丸を守護し、城主の館、藩の各役所、武器や食料の倉庫など
三木さんのビル 袋町25の東南の角。
土井家の屋敷跡 「新撰東京名所図会」牛込之部「中」(東陽堂、明治、明治31年)では

袋町の桜。牛込袋町25番地は遠藤但馬守(江州三上の藩主1万3千石)の下屋敷の跡にして、其地続き及び26番地の辺は光照寺の境内地と幕士の宅址なり、いたく荒れ果てゝ、人の顧みる無し、牧野毅(故陸軍少將)貸して此の一廓を購い、修理して庭園となす。(中略)明治20年頃、始めて神楽町三丁目より、牛込中町に通する邸内横貫の新道を開く、新道開鑿以来、樹木は伐去られ、次第に人家立て込みて、漸く其風致を損ふ、牧野氏去って子爵土井家(元越前大野の藩主4万石)この地所を購い、又但馬守の邸址に館す。

土井家の屋敷跡。袋町25+26。東京五千分ノ1(参謀本部陸軍部測量局。明治16年)

水門口 みとぐち。川が海や湖へ流れ込む所。河口。
飯塚ビル玄関前 図を参照
旧宅 以前に住んでいた家

 曲輪……中世の城には、その城域の最前線の守りとして、曲輪という施設がある。神楽坂通り万長酒店横の路が行元寺への元参道である。最近、万長の主人、馬場さんの案内で、地下の酒蔵を見せていただいた。この地下に、参道と平行して高さ2米の江戸時代以前の築造とみられる石垣が掘り出されている。この地下酒蔵を神楽坂通り方向に、更に拡げようと、堀ったところが巨岩(凝灰岩)にぶつかり、酒蔵の拡張は中止せざるを得なかったそうである。果して、この石垣や巨岩は牛込城の東、古道側に張り出している曲輪の、最も北寄りの土止めに用いたものではないだろうか。そして、ここを起点として、2~3米の高さの崖状をなし、相馬屋ビル裏から、往時の行元寺境内との境界をつくって、本多横丁を横切り、神楽坂3丁目、マーサー美容院裏あたりまで続く、この崖上が牛込城の東曲輪になっていたのではないか。
 この曲輪の南側に若宮八幡の台地があるが、ここも、非常の場合には南曲輪として使う予定をしていたのではなかろうか。又、西壕以西、愛日小学校あたりまで、西曲輪説を考えられる。

土止め どどめ。土留め。土手や土砂の崩壊を防止する工作物
マーサー美容院 マーサ美容院。神楽坂通りと神楽坂仲通りとが接する神楽坂3丁目の美容院だった。 昭和27年の写真で見る新宿 ID 8-12や、アルバム 東京文学散歩で見ることができます。
愛日小学校 あいじつしょうがっこう。新宿区北町26。明治13年(1880年)加賀町の吉井学校と、牛込柳町の市ヶ谷学校が合併し、愛日学校が創立。男女共学の公立学校。

牛込城の東曲輪

 綜じて、今回の調査によると、以上の条件から中世の城と認めても良いという結論がでた。石垣など殆どない、地形を利用した舌状台地上の平城で、主として、土塁と空壕で存在していたことであろう。
 城域の広さが、若干広い感じがするが、当時の関東の城の例にならうと根古屋衆を城内に住まわせていたと想われる。根古屋とは一族郎党であり、側近衆の住む家を云う。城内の大切な水場を囲むようにして、根古屋を建て、農耕をやり、馬を飼っていたと思う。其の他、武器庫、馬場、集合広場も城内にあった筈である。
 そして、江戸時代、天正年間(1590)牛込勝重が徳川幕府の家人(旗本)となると、牛込領を幕府に返上、城、居館は廃されて、百姓地になり、その後、正保2年(1645)神田にあった光照寺が袋町へ移転してきた。牛込氏は小日向牛天神下隆慶橋近くに旗本千百石取りとして屋敷を構えたのである。

根古屋 ねごや。山城の麓に形成された将兵たちの居住区域。戦国山城時代の城下の村。
牛込氏は…… 礫川牛込小日向絵図(安政4年、1857)では牛込常次郎と書かれています。

礫川牛込小日向絵図

神楽から名づけられた神楽坂|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 1. 神楽から名づけられた神楽坂」についてです。

神楽から名づけられた神楽坂
      (神楽坂1から6丁目)
 飯田橋駅九段口の前に立つ。駅すぐ左手に旧牛込見付門跡の石垣の一部が残っている。そこに牛込御門があってその向うが江戸城内だった。
 九段と反対側が神楽坂である。坂を上り、矢来下、戸塚、高田馬場、下井草駅と続く道早稲田通りである。
 神楽坂の地名の由来にはいろいろあるが、江戸城内の田安にあった筑土神社を今の筑土八幡町に遷座する時、この坂の中途で神楽を奏したことからつけられた(改選江戸誌)というのが信じられている。その筑土神社は、戦後飯田町へ移転した。
 このほか、市谷駅近くの市谷八幡の祭礼時、みこしがこの坂で止って神楽を奏する習慣になっていたとか、江戸中期、坂の中ほどで穴八幡祭礼の神楽を奏するしきたりがあったから(江戸誌)とか、若宮八幡の神楽がここまで聞えるからとか、赤城元町の赤城神社の神楽音が聞えたからとか、いろいろある(江戸名所図会)が、神社の神楽と結びついて名づけられたことにはまちがいない。それだけ牛込には神社が多いということを示している。
 江戸時代には、坂に向って左側に店が並び、右側は武家屋敷と寺院であった。明治になり、早稲田に早稲田大学ができ、今の飯田橋駅九段口に甲武鉄道牛込駅ができると、そこが大学の玄関口となり、神楽坂にはしだいに商店が並んでにぎやかになったのである。
 神楽坂という町名は、以前は外堀通りから上って、大久保通りまでであった。それが、昭和26年5月1日、戦後の発展をめざす神楽坂振興会の音頭とりで、付近6ヵ町を一丸として神楽坂と改称し、赤城神社入口まで、名称が統一されたのである。
九段口 現在は西口。
石垣の一部 旧牛込御門の渡櫓わたりやぐらの土台が残ったものです。
続く道 下図参照。
神楽坂の地名の由来 「神楽坂の由来」を参照
江戸城内の田安 たやす。田安門は九段坂から北の丸に入る門。しかし、筑土神社は一度も城内に入ったことはありません。田安郷(現、千代田区九段坂上)にはありますが。
筑土神社 天慶3年(940年)、江戸の津久戸村(現、千代田区大手町一丁目)に平将門の首を祀り「津久戸明神」として創建。室町時代、太田道灌が田安郷(現、千代田区九段坂上)に移転、以降「田安明神」とも呼ばれた。元和2年(1616年)、筑土八幡神社隣接地(現、新宿区筑土八幡町)へ移転し、「築土明神」と呼ばれた。1945年の東京大空襲で全焼し、1954年、現在の九段中坂の途中にある世継稲荷境内へ移転(住所は千代田区九段北1-14-21)。

改選江戸誌 正しくは「改撰江戸志」。原本はなく、作者も瀬名貞雄と信じられるが、正確には不明。「改撰江戸志」を引用した「御府内備考」では……

市ケ谷八幡宮の祭禮に神輿御門の橋の上にしはらくとゝまり神楽を奏すること例なり依てこの名ありと 江戸砂子 穴八幡の祭禮にこの坂にて神楽を奏するよりかく名つくと江戸 穴八幡の御旅所の地この坂の中ふくにあり津久土の社の伝にこの社今の地へ田安より遷坐の時この坂にて神楽を奏せしよりの名なりといふはもつともうけかたきことなり 改撰江戶志

信じられている 現在は信頼度100%のものはありません。
市谷八幡 市谷亀岡八幡宮。市谷八幡町15。文明10年(1478年)に太田道灌が江戸城の鎮守として、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請
穴八幡 穴八幡宮出現殿。西早稲田2-1-11。康平5年(1062年)、奥州の乱を鎮圧した源義家が当所に兜と太刀を納めて八幡宮を勧請し、東北鎮護の社になった。
若宮八幡 神楽坂若宮八幡神社。若宮町18。鎌倉時代の文治5年(1189年)、源頼朝公が奥州の藤原泰衡を征伐するため、当所で下馬宿願し、鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を分社した。

神楽坂の名前の由来。築土明神、市谷八幡宮、穴八幡宮、若宮八幡宮

飯田町 飯田町ではなく現在は九段北1-14-21です。
江戸誌 「江戸志」が正しい。別名は「新編江戸志」。寛政年間に作成。ウェブサイトのコトバンクによれば「近藤儀休編著・瀬名貞雄補訂」。改正新編江戸志では(くずし字は私訳)……

市谷八幡祭礼に神輿牛込御門橋上に暫く留りて神楽を奏しけるよつて此名ありと江戸砂子にみゆ又或説に穴八幡の祭礼にこの坂にて神楽を奏すと[云け]り名付ると也別穴八幡の旅所この坂の上にあり放生寺の持[之]津久戸神社の社伝には今の地へ遷座の時此坂にて神楽を奏すよしといふ

江戸名所図会 神楽坂については以下の通り。なお、割注は()で書いています。

同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹はんぷく右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼の時は神輿この所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。(或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしかなづくとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。)(斎藤長秋等編「江戸名所図会 中巻 新版」角川書店、1975)

左側に店が並び、右側は武家屋敷と寺院であった 正しくは「左側(下)には民家、店舗、寺院、武家屋敷2軒が並び、右側(上)は年貢町屋を除き全て武家屋敷であった」

当時(嘉永5年、1852年)の状況

早稲田大学 前身は「東京専門学校」で、明治15年10月21日に創設。20年後の明治35年9月2日、「早稲田大学」と改称。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
牛込駅ができる 明治27年10月9日、牛込駅が開通しました。
大学の玄関口 現在はJR山手線の高田馬場駅から徒歩20分。東京メトロの東西線早稲田駅から徒歩5分。都バス(学バス)の高田馬場駅から早大正門までバス7分。都電の荒川線早稲田駅から徒歩5分。
 早大正門から神楽坂4丁目までは徒歩約30分。
商店が並んで 明治時代の「新撰東京名所図会」(第41編、明治37年)では、もう商店だけです。
大久保通り 戦前、神楽「町」に終わりを告げるのは、大久保通りではありません。また、戦前、神楽坂4−6丁目はなく、あるのは上宮比町、肴町、通寺町でした。終わりを告げるのは、本多横丁と毘沙門横丁です。

昭和16年、牛込区詳細図

赤城神社入口

昭和56年、新宿区史跡地図

神楽坂からきえたもの(2)

文学と神楽坂

—–★かしら★—–
町ごとに町鳶ていうのがいて、みんなの面倒見てくれるんだ。火事のときに駆けつけてくれたりね。それを「かしら」って呼ぶの。

かしら とびしょく・大工・左官など職人の親方。
町鳶 鳶頭かしらかしら。梁から梁へ文字通り飛んだので鳶。鳶職は「町鳶」と「ちょう鳶(高所作業者・橋梁、ゼネコンで働く鳶職人)」に分けられる。「町鳶」とは地元密着型の鳶職人。
 東京街人によれば、享保3年(1718)、南町奉行大岡越前守の令を受け、町人から成る町火消組合が誕生した。町火消し(町鳶)は、道路や家屋の普請、祭礼の設営や警固、祝い事や催事の運営、橋、井戸の屋根、つるべや上水道の枡、木管や下水道のどぶ板といった町内下部構造の作成、保守、神社などの祭礼では神酒所やお仮屋を製作したりしている。
 明治維新と共に町火消しは東京府に移管し、明治5年(1872)「市部消防組」と改称され、現在の「江戸消防記念会」に至る。ここでは東京23区を11区に分け、その下に87の組を設け、正会員(各組の三役=組頭・副組頭・小頭)と準会員(筒先・纏持ち・梯子持ち・若衆)合わせて約800人の鳶が所属する。「鳶頭」と呼ばれるのは三役だけだ。
 とび職もかしらも今に続いている。神楽坂では商店会に加盟していて、建築工事だけでなくお祭りの提灯や正月の松飾り、冠婚葬祭の手伝いなどをしている。
 ただし、町鳶は東京に特有の職人ではないか。

—–★獅子舞★—–
お獅子がね、正月と二月三日に来てたんですね。頭をかんでもらったりしましたよ。あれもかしらがやってたんだよね。でも正月の三ヵ日に来ても何処も店が開いてないなんて時代になって、それで来なくなっちゃったね。
—–★寺内★—–
アインスタワーになってるあたりね、寺内っていって迷路みたいな路地になってたんだ。そこでカン蹴りやったりしてたな。

アインスタワー 26階地下1階建の五丁目のタワーマンション。2003年1月竣工。
寺内 じない。明治40年以前は行元寺という寺があった地域。

—-★焚き火★—–
昔はね、商品をわらで包んで持ってくるんだ。だから荷物を解いたあと、そのわらでよく焚き火をしたよ。そしたら近所の人が集まってきてさ。仲が良かったよね、みんな。
—–★自慢焼き★—–
コパンは昔、自慢焼きっていうのをやってたんだ。大判焼きみたいなやつ。あれはいつやめちゃったんだっけ。

コパン 6丁目のキムラヤの隣にある喫茶店。昔はタバコで臭かったけど、現在は禁煙です。シュークリームが最も有名。
自慢焼き 「大判焼き」も「自慢焼き」も全部「今川焼」と同じお菓子。小麦粉の皮で餡を包み、銅板で焼き上げる。ニチレイによれば「じまん焼き」は日本で5番目に多い「今川焼」でした。

—–★若宮八幡の境内★—–
若宮八幡は、今は境内がないですけど、昔はあったんです。そこでこま回しも凧揚げも出来たんですね。

昔はあった 江戸時代、若宮八幡神社は巨大でした。江戸名所図会の若宮八幡 これは昭和44年の若宮八幡神社です。「こま回しも凧揚げもできた」という巨大さがありました。

神楽坂若宮八幡神社(1973年)

—–★金語楼プロ★—–
白銀町の読売新聞の所に柳家金語楼が住んでて、金語楼プロダクションっていうのをやってたんだ。あそこは少年野球のチームも持ってて、山下敬二郎(金語楼の息子)もそこでプレーしてたよ。

白銀町の読売新聞 読売新聞は以前は肴町、現在は神楽坂5丁目です。

1990年と1963年。住宅地図。

柳家金語楼 喜劇俳優、落語家。新作落語は千以上。エノケン、ロッパと並ぶ三大喜劇人。本名は山下敬太郎。生年は1901年2月28日。没年は1972年10月22日。71歳で死亡。
山下敬二郎 ロカビリー歌手。ポール・アンカの「ダイアナ」の日本語カバーで有名。柳家金語楼の非嫡出子。生年は1939年2月22日。没年は2011年1月5日。死亡は満72歳。

—–★新内流し★—–
ろくさんっていう、有名な新内の流しがいたよ。
—–★喧嘩★—–
喧嘩もよくあったね。口で言い合うんじゃなくて、掴み合いの。でも今みたいに危ないもんじゃないんだ。
—–★地蔵坂の駄菓子屋★—–
地蔵坂にあった牛込館っていう映画館が火事で燃えた後、映写室だけがポツンと残ってたんだ。そこに老夫婦が住んで駄菓子屋をやってたね。毘沙門様にもお店を出してたんじゃないかな。

地蔵坂 藁店わらだなとも。神楽坂5丁目と袋町とをつなぐ坂道。
火事 火事が起こったという話は不明です。戦災の話はあります。牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第7号で山下武氏が書いた「神楽坂藁店界隈」では「露き出しになったコンクリートの映写室の残骸が焦土の中に立つ牛込館の焼け跡を眼にしたときは、ハッと胸を衝かれ、その場に呆然と立ち尽くしてしまったのを憶えている。昭和20年4月13日の夜、二百数十機にもおよぶB29の投下した火箭ひやによって、山の手銀座と謳われた神楽坂一帯はことごとく灰燼に帰してしまったのだ。もちろん、牛込館とてその例外であろうはずはなかったが、自分の眼で見るまでは信じたくない気持だった。」
牛込館 活動写真館の一つ。大正3年、完成。戦時中は「神楽坂松竹」。戦災のため完全に閉館。
毘沙門様 神楽坂5丁目36にある日蓮宗鎮護山善国寺です。毘沙門堂の毘沙門天は、加藤清正の守本尊で、新宿山之手七福神の一つです。

—–★貸本屋★—–
6丁目の、百円ショップになってる所に貸本屋があったよ。赤胴鈴の助とか鉄腕アトムを借りたな。

百円ショップ 神楽坂6-17に百円ショップ「The 100 Stores」があります。(2024年3月に閉店予定)
なってる所 住宅地図では昭和37年、別の家が建っていましたが、昭和38年に「神楽坂書店」になり、この店で扱っていたのでしょう。昭和62年も同じ書店ですが、昭和63年は空地になり、隣の店「チキータ」と一体化して今の百円ショップが建ちました。

貸本屋 保証金をとって漫画本、大衆小説を貸本として貸す店。紙芝居は昭和28年、テレビ放送の開始以後数年後に衰え、紙芝居の作者は多くは貸本屋むけ長編漫画本の制作に移る。昭和34年頃をピークにして貸本屋は全国的に流行したが、その後、減少した。
赤胴鈴之助 赤い胴の少年剣士の活躍を描く。昭和29年8月号の『少年画報』に第1話が出たが、漫画家の福井英一氏が死亡し、新人漫画家の武内つなよし氏が急遽後を継ぎ、昭和35年12月号まで続いた。
鉄腕アトム 21世紀、原子力で動き、ロボットのアトムの活躍を描く。原作は手塚治虫氏。

—–★日本テレビの電波塔★—–
麹町の日本テレビ、あそこにもテレビ塔があったんだ。エレベーターがついてて、行くと登らせてくれるんだよね。そこからは神楽坂も全部見えたよ。

テレビ塔 千代田区二番町の旧・日本テレビ本社にあった「日本電波塔」は、東京タワー完成後も使われ、1980年(昭和55年)、解体された。https://dl.ndl.go.jp/pid/8557566

若宮神社(写真)昭和52年 田口重久氏

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の若宮神社(昭和52年、1977年8月27日)の写真を上げておきます。
 昭和44年の歴史博物館のID 8247-8248とよく似た画角ですが、いろいろ違いがあります。

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」若宮神社入口遠景

 一枚目を新宿歴史博物館のID 8247と比較すると、交通標識「自転車及び歩行者専用」と下に「歩行者用通路」の表示。道路には「車両通行止め」のスタンド看板が立っています。この道は昭和44年は「軽自動車以外通行できません」(ID 8252)でした。

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」若宮神社 鳥居と社殿遠景

 二枚目とID 8248を比較すると、木製の鳥居ができています。よく見ると一枚目にも見えます。この鳥居は長持ちしなかったと思われ、『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年3月発行)の写真(下図)では四角い土台だけになっています。

「牛込神楽坂若宮町小史」から

 また拝殿の裏側の丸紅(株)若宮寮は建て直し中で、これは地図によると1980年に丸紅若宮荘になりました。

若宮神社 住宅地図 1980年

 三枚目は新宿歴史博物館にはない写真です。昭和27年3月の新宿区の木札で「現在仮殿のままであり」とあります。『牛込神楽坂若宮町小史』には「昭和24年(1949年)に拝殿、昭和25年(1950年)5月に社務所を建築」(13ページ)と「昭和25年(中略)に、社務所が建てられ、拝殿は昭和34年(1959年)6月に出来上がりました」(93ページ)と異なる記述があり、区の木札に従うなら後者の記録が正しいかも知れません。

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」若宮神社案内板

 新宿区文化財資料
    若宮神社
 文治五年(1189)の秋に源頼朝が奥州藤原泰衡征伐の戦勝祝いに鎌倉の鶴岡八幡宮の若宮八幡を勧請して建てたものであるという。若宮とは仁徳天皇のことである。
 のちに太田道灌が文明年間(1469~86)に江戸城鎮護のため再興して社殿を江戸城に向くようにした。
 戦災を受けて現在仮殿のままであり境内は児童遊園地になっている。
  昭和27年3月           新宿区

本多横丁(写真)昭和7年 ID 96

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 96は、本多横丁の入り口を撮ったものです。資料は「若宮八幡祭礼神輿、本田横町角」で備考は「1932年」、つまり昭和7年の貴重な写真です。「角」は近くに四つ角や三つ角があるという意味です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 96 若宮八幡祭礼神輿、本田横町角

 道路は何もなく、歩道と車道もわかりません。
 さて、以降は上半分の解説ですが、地元の方の考えを100%いれています。神輿は神楽坂通りを走っています。

 1はナナメ渦巻きの床屋のマーク(サインポール)で、理容所を示します。2の看板は右横書きで「理島豊」と読めます。豊島理髪店は「大東京繁昌記|早稲田神楽坂01」に出てきます。3もサインポールと同じデザインで、おそらく豊島理髪店の突き出し看板でしょう。
 4はお祭りの御神酒所と思われます。輿こしは神様が氏子の地域を回う乗り物で、神輿が地域で休憩する場所を神酒みきしょと言います。よしずのようなもので囲われていて、しめ飾りや提灯らしきものも見えます。
 この場所は神楽坂(戦前は神楽町)3丁目で、若宮八幡の氏子地域です。本多横丁を挟んで、この写真の奥側の4丁目(戦前は上宮比町)は筑土八幡の氏子になります。ふたつの神社は現在、1週間程度の間をおいて秋祭りをします。戦前も同じように日を違えていたでしょう。

本多横丁 戦前

 5は神楽坂通りの街灯です。神楽坂通り 街灯の研究(戦前編)に出てくる【K】【L】と同じものの下側だけ写っているようです。まだ歩道が十分に整備されておらず、街灯は店の近くに立っていました。神輿の金鵄が柱を隠しているようです。
 6も街灯ですが、5の街灯とは形状も、また街灯の向き違います。これは本多横丁の入り口の両側の街灯だからでしょう。特筆すべきは、この戦前の街灯の形状が、終戦から間もないすずらん通り=本多横丁の写真の街灯と酷似していることです。鋳物製と思われるので、焼け残って再利用されたかも知れません。
 7は「天〇 㐂作」と読めます。牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第5号の「戦前の本多横丁」によれば「天ぷら・喜作」という高級店があったそうです。その案内広告ではないでしょうか。また、この広告が貼ってある板壁の家は神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期に写っている竹川靴店と思われます。
 8は仮名の「し」に見えますが、神輿の屋根の角にある巴字型の飾りと思います。
 9は「本〇所」のように読めます。「本多横丁」や「神楽坂」と面白いけれど、さすがに違うようです。
 最後に、地元の方に提供して頂いた写真を添えておきます。5~6歳と思われる子供が「上宮比」のお祭りのはっぴを着て、頭には「神」の手ぬぐいをはちまきにしています。撮影は昭和8-9年ごろということで、ID 96とほぼ同時期です。

上宮比はっぴ

毘沙門さま あれこれ

文学と神楽坂

 地元の方が毘沙門さまについてのあれこれです。

 毘沙門天は神楽坂の象徴的存在で、こちらのブログでも詳しく述べられています。それらに語られていないことを、落ち穂拾いのように綴ってみます。

【1】児童遊園
 戦前の毘沙門さまの敷地内には、いろいろな出店があったそうです。戦後、そのスペースは区の児童遊園になりました。

 写真集「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」の「早稲田通り。善国寺(毘沙門天)。神楽坂5丁目(1965年4月)」や 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」05-02-32-1毘沙門天遠景 1968-07-13に、当時の様子が写っています。撮影日に3年の違いがありますが、その間にブロック塀が出来たようです。

 門脇にある小高い四角いものは石造の滑り台で、近所の子どもが「お山の大将」を競いました。余った敷地をこういう形で区に貸すと、寺は固定資産税の減免や補助を受けられ、区は子どもの遊び場や避難場所を確保できるという政策なのだそうです。同様の児童遊園は近隣だけでも筑土八幡の階段脇(歴史博物館ID:7451)若宮八幡の境内など多くの例があり、現在の毘沙門さまにも一部が残っています。

早稲田通り。善国寺(毘沙門天)。神楽坂5丁目(1965年4月)

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

毘沙門天遠景 1968-07-13

田口政典氏。毘沙門天遠景。1968-07-13。http://masanori1919.web.fc2.com/05_Shinjuku/05-02/05-02.htm#09_Bishamonten

筑土八幡の階段脇(歴史博物館 ID:7451 昭和41年12月15日。学校帰りに筑土八幡神社で遊ぶ子ども達

歴史博物館 7451 筑土八幡境内の遊び場開設

若宮八幡の境内 以前の若宮八幡神社。ブランコがわかります

田口政典氏。若宮神社入口遠景。1977-08-27。http://masanori1919.web.fc2.com/05_Shinjuku/05-01/05-01.htm#03_WakamiyaJinja

若宮八幡神社。雑誌「Mr. DANDY」(中央出版、昭和49年)「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」

【2】石囲いの寄進者
 神社の玉垣にあたる毘沙門さまの石囲い。多くの場合、地元に奉加帳を回し、寄進者の名を石柱に1本ずつ掘ります。角の太い柱は時の顔役が名を残すのです。
 1960年代の写真の石囲いは戦前の焼け残りです。その後、毘沙門堂を建て直した1971年(昭和46年)に一新しました。政財界の黒幕と呼ばれた児玉誉士夫氏がひとりで寄進したそうなので、石柱に他の名前がありません。後にこの石囲いを少し削り、地元の寄付で現在の赤い山門を建てました

石囲い 石で作った塀
奉加帳 ほうがちょう。神仏に奉加する金品の目録や寄進者の氏名などを記した帳簿。寄進きしん帳とも。
児玉誉士夫 昭和時代の右翼運動家。外務省や参謀本部の嘱託として中国で活動。16年、海軍航空本部の依頼で「児玉機関」を上海につくり物資調達に。20年、A級戦犯。釈放後、政財界の黒幕となり、51年ロッキード事件では脱税容疑で起訴。病気で判決は無期延期。公訴は棄却。生年は明治44年2月18日。没年は昭和59年1月17日で、死亡は72歳。
赤い山門を建てました 平成6年です。渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(展望社、2007)では「平成6年(1994)開創400年を迎えた毘沙門天は、本堂と唐破風造りの山門の建立を無事すませ、開創400年記念事業『落慶式』が、10月14日しめやかに執りおこなわれた。街の明るいイメージに合わせて、山門、本堂ともに、伝統色である朱色にしている」
 

【3】今も残る毘沙門堂
 毘沙門堂は今のコンクリート造に建て替えられましたが、1951年(昭和26年)に再建した旧堂は近くの蓮秀寺(市谷薬王寺町)に移築され、今も残っているのだそうです。これについては風聞だけで、確認を取っていません。ただ同じ日蓮宗ですし、写真を見るとよく似た建物ではあります。
※ 蓮秀寺
https://www.aiemu.co.jp/graveyard/temple_detail.php?tid=57
http://tokyoshinjuku.blog.shinobi.jp/市谷薬王寺町/蓮秀寺
蓮秀寺 新宿区市谷薬王寺町にある日蓮宗の蓮秀寺。山号は久栄山。

確認を取っていません いいえ。確認はあるようです。昭和26年建立の毘沙門堂は実際に今も蓮秀寺に移築され、祭っています。

昭和26年建立の毘沙門堂がなつかしい
昭和26年から45年頃まで神楽坂通りに建っていた毘沙門堂は、実は今もその姿のまま拝観することができる。市谷薬王寺にある同じ宗派の蓮秀寺に移築されているからだ。戦後間もなく建てられた毘沙門堂は、当時の姿のまま時間が止まったように建っている。嶋田住職は、いまでも同じ宗派のお寺なので訪れることがあり、その度になつかしいと語る。
神楽坂deかぐらむら 神楽坂・声のライブラリー 第5弾
毘沙門様と神楽坂の発展」毘沙門天善國寺嶋田尭嗣住職



ミスターダンディー(写真)文章と仏閣神社 昭和49年

文学と神楽坂

 雑誌「Mr. DANDY」(中央出版、昭和49年)に「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」を出しています。この神社の中や前などにカメラを置いて撮っています。雑誌なのに有名人もタレントもなく、言ってみれば誰も気にしない写真です。ある地元の人は「手抜き企画で、神社ばかり。文化に縁遠い記事」だといっています。現代の人間だと、まず撮らない写真……。でも、変わったものは確かにあるし、それに本文には、ちょっといいこともある。では読んで、そして、見てみましょう。

 飯田橋駅九段口の前に立って、九段の反対側が神楽坂である。
 江戸時代、築土八幡を移すときこの坂で神楽を奏したことから、神楽坂の名が生れたとか穴八幡の神楽を奏したとか、若宮八幡の神楽が聞えてくるとかいろいろあるが、とにかく、その神楽から生れた名であることはまちがいない。
 江戸時代は坂に向って左側が商家、右側が武家屋敷であった。
 明治になり早稲田大学ができ、その玄関口として次第に商店街を形成していったのである。
 昭和10年頃は山の手一の繁華街で、夜の盛り場としても名があり――神楽坂は電気と会社員と芸妓の街である――といわれた。
 神楽坂の芸者、神楽坂はん子の「ゲイシャワルツ」を覚えている人もあるにちがいない。
 また、ここには多くの文人墨客が住んでいた。思いつくままあげてみると、作家泉鏡花(神楽坂2-22)尾崎紅葉(横寺町)北原白秋(2-22)などがある。
 鏡花の“婦系図”は半自叙伝小説で、早瀬は鏡花であり、お蔦は神楽坂芸者で愛人であった桃太郎であり、真砂町の先生は紅葉であるという。
左側が商家 江戸時代は左側も武家屋敷でした。
文人墨客 ぶんじんぼっかく。ぶんじんぼっきゃく。詩文や書画などの風流に親しむ人。「文人」は詩文・書画などに、「墨客」は書画に親しむ人。

 江戸時代、江戸七福神の一つ、毘沙門様が坂を上って左側の善国寺にある。
 東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが最初である。明治、大正にかけて、夜の賑いは大変なもので表通りは人出で歩けないほどであった。
 早稲田通りをでて左へゆくと赤城神社がある。これはこの地の当主牛込氏が建てた神社である。
 築土八幡は一段高く眺望の利く位置にある。
 ここは戦国時代、管領上杉氏の城跡で、八幡宮はその城主の弓矢を祭ったものである。
 ここにある康申塔は、高さ約1.5メートル幅約70センチの石碑で、面にオス、メスの二猿が浮き彫りにされている。
 一猿は立って桃の実をとろうとし、一猿は腰を下して待つところで、アダムとイブを連想される。これを由比正雪が信仰したという説がある。しかし、少々時代のずれがある。
 由比正雪といえば、このあたり、大日本印刷工場の東南から東方一帯が、正雪の旧居跡であった。
 伝説によると、正雪の道場済松寺門前から東榎町、天神町にかけて約5000坪の地所に広がっていたという。
 いずれにせよ、その町の一つの道、一つの坂には、長い歴史の過去があるのである。
 それを思い、あれを思い、ただ急ぎ足に通りすぎるだけでなく、ふと、なにかを振り返りたくなる――そんな静かな気持で、この町を歩いてみるといいだろう。まだまだ、多くのむかしがそこにある。
 そして、そこを吹く風に、秋をみつけたとき、あなたは旅情を知る人になっているにちがいない。
管領 かんれい。室町幕府で将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄した。
八幡宮 八幡神を祀る神社。9世紀ごろ、八幡神を鎮護国家神とする信仰が確立し、王城鎮護、勇武の神、武人の守護神などになった。武士を中心に弓矢の神として尊崇された。
康申塔 こうしんとう。庚申塚に建てる石塔。村境などに、青面金剛しょうめんこんごう童子、つまり病魔、病鬼を除く神を祭ってある塚。庚申の本尊を青面金剛童子とし、三匹猿はその侍者だとする説が行き渡っている。
由比正雪 ゆいしょうせつ。江戸前期の軍学者。慶安事件の首謀者。1651年徳川家光の死に際し,幕閣への批判と旗本救済を掲げて幕府転覆を企てたが、内通で事前に発覚。正雪は自刃した。生年は慶長10年(1605年)、没年は慶安4年7月26日(1651年9月10日)。
時代のずれ 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)の一部では
34、珍らしい庚申塔
(略)この庚申塔は、由比正雪が信仰したものという伝説がある。しかし、正雪は、この碑の建った13年前の慶安四年(1651)に死んでいるのである。(略)

由比正雪 実際は位置不明です。正雪の記載があるのは、新宿区矢来町1-9にある正雪地蔵尊だけですが、正雪との関係を示す史料はありません。
済松寺 新宿区榎町77番地。
東榎町、天神町 ひがしえのきちょう。てんじんちょう。済松寺、東榎町、天神町について図を参照。

全国地価マップ

  • 赤城神社。「赤城神社再生プロジェクト」で新たに本堂などを建て、2010年、終了するので、この写真は昔のものです。

赤城神社(今)

「昭忠碑(大山巌碑)」もありました。明治37~8年の日露戦役を記念し、明治39年に建てられて、陸軍大将大山巌が揮毫しました。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。内容はここに詳しく。

 現在はかわって三社があります。赤城出世稲荷神社、八耳神社、あおい神社です。

三社

  • 神楽坂若宮八幡神社。昭和20(1945)年5月25日、東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。1949年に拝殿、1950年5月に社務所を再度建築。その後、敷地の西側に新社殿を建て、残った部分をマンションにしました。マンションの竣工は1999年です。

若宮八幡神社

現在の若宮八幡神社

  • 善国寺。昭和46年に本堂を建てています。したがって、現在と同じ寺院でした。

 庚申塔もあります。

堀見坂(360°カメラ)

文学と神楽坂

「堀見坂」ってどこにあるのでしょう。神楽坂通りから神楽坂仲通りの反対の坂を小栗横丁に向かって下り(この坂の仮称は神楽坂仲坂)、四つ角に立ちます。この四つ角を起点として、南に上る神楽坂2丁目の坂道です。

堀見坂

堀見坂

『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏、1998年)では「堀見坂」が始めて出てきます。なお、坂崎重盛氏はエッセイストで波乗社代表、井上元氏はインタラクション社長、林功幸氏は「巴有吾有」オーナーでした。

坂崎 この「小栗横丁」の「渡津海」の先を左に曲がって……。
井上 あれは意外な発見でした。「若宮八幡」に向かうところですが。
林  あの坂の途中から、昔はお堀が見下ろせた。土手公園や電車が走っているのも見えましたから。
坂崎 で、『堀見坂』とした。
井上 ちょっと安易だったんじゃないですか。今は見えないし。
坂崎 いや、今は見えなくても昔の地形を思い出すためにもいいじゃないですか。
井上 富士見坂というのはいっぱいある。今では富士山は見えないけれど、昔はここから富士山が見えたということで。その伝ですな。

渡津海 わたつみ。小料理を食べる割烹でした。2000年にはあったのですが、2010年までには閉店しました。
土手公園 現在は外濠(そとぼり)公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。

 明治28年の「東京実測図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、小栗横丁はありますが、お蔵坂と堀見坂はまだありません。

明治28年、東京実測図

 ここで青色の坂にも名前はなさそうです。坂そのものは寛政年間(1789~1801年)ではまだありませんが、文政年間(1818~1831年)になると出てきます。名前が不明の坂なのですが、名前がないのも不憫です。神楽坂仲坂はどうでしょうか。

 明治29年の「東京市牛込区全図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、堀見坂と一部のお蔵坂がありました。

明治29年、神楽坂二丁目

明治29年、東京市牛込区全図



新坂|袋町と若宮町の間に(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 「新坂」は横関栄一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)によれば18か所もあるといいます。新宿区では2か所で、ここでは袋町と若宮町の間を西に上がる坂です。さて、左側は元禄12年(1699)です。右側は享保(1716年)・元文(1736)の年に当たります。大きな違いは?

新坂2

新坂2

 まず巨大な戸田左門の屋敷があるかないかが違います。左図にはありますが、右図にはなくなりました。かわりに左上から中央に下がる道路(茶色の矢印)ができています。これが新坂です。

新坂

新坂

 明治時代も現在もあまり変わってはいません。上は袋町で下は若宮町です。これらの町の間をこの坂は通過します。

 昭和51年、新宿区教育委員会の『新宿区町名誌』では

若宮八幡から袋町の境を西に上る坂は新坂という。江戸中期に新しく聞かれた坂だから名づいた

と書き、平成22年、新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』では

若宮八幡から袋町の境を西に上る坂は新坂(しんさか)という。江戸中期に武家屋敷地の中に新しく開かれた坂であるために名付けられた。若宮八幡からの坂なので若宮坂ともいう

 横関英一の『江戸の坂東京の坂』では

 江戸時代では、新しく坂ができるとすぐに、これを新坂と呼ぶ。もしくは、坂の形態が切通し型になっている場合は、切通坂(きりどおしざか)と呼ぶ。既設二坂の中間に新坂ができた場合は、これを中坂(なかざか)と呼ぶ。であるから、中坂も切通坂も等しく新坂なのである。新坂と言うべきところを、その坂の関係位置から中坂、その坂の態様から切通坂と呼んだのにすぎないのである。中坂は、左右二つの坂よりも新しい坂であるということは、まず原則といってよい。

 新宿区の標柱では

 新坂(しんざか)
『御府内沿革図書』によると、享保十六年(一七三一)四月に諏紡安芸守の屋敷地の跡に、新しく道路が造られた。新坂は新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。

 美濃大垣藩(岐阜)戸田左門(10万石)の屋敷でしたが、享保10年(1725)の古地図では信濃高島藩(長野)諏訪安芸守(3万石)の屋敷になっています。享保16年4月に新坂が開かれました。

 ひっそりと新坂の標柱は立っています。周りのほとんどは4階ぐらいの小規模マンションで、一戸建てはあっても少なくなりました。一方通行で、車は上(西)から下(東)に向かいます。
標柱

幡随院長兵衛 光照寺の切支丹の仏像 由比正雪の抜け穴 地蔵坂の由来 一平荘 光照寺 袋町の由来 逢坂 庾嶺坂 小栗横町 アグネスホテル 若宮公園 お蔵坂

2013年6月23日→2019年10月24日

お蔵坂|小栗横丁

文学と神楽坂


 平成10年(1998年)夏号の『ここは牛込、神楽坂』「路地・横丁に愛称をつけてしまった」でこう話しています。

阿久津 それから若宮八幡を前に見て、小栗横丁の、「熱海湯」の前に下りるまでの小路。
   あそこは今度、ビジネスホテルが建つとかで。
坂崎  あの坂の細い道は残るのかしら。
   残るでしょう。残さないと人が通れない。もともと蔵のようなものがあったところなんですよ。
坂崎  じゃあ『お蔵坂』と。マンションが建つと日陰で暗くなるかもしれないけど。暗い細道というのもいいものなんです。

 なお、このビジネスホテルというのは2000年竣工のアグネスホテルです。小栗横丁の右が「熱海湯」だと言っています。一方、左は何もない坂道なのですが、ここをお蔵坂と呼びました。


 2007年のテレビ「拝啓、父上様」の最初のシーンから「お蔵坂」がでてきます。
 テレビの『拝啓、父上様』で「お蔵坂」は最初の数分間でもう何度もでてきます。

神楽坂通り
  朝まだき。
  しんと静まり返っている。
 り「東京、神楽坂。坂だらけの町
  この町の夜明け前が、俺は好きだ」

 テレビではお蔵坂を下から見た絵もでます。
お蔵坂1
 お蔵坂を上空から見た絵もでてきます。走っているのは主人公、一平で、多分、寮から飛び出し、駐車場に行き、築地市場に先輩たちと行くのです。お蔵坂2
 それから数シーン後に出てくるのは

石段に
  陽光が漸くさしこむ。
  夢子が子猫に餌をやっている。
  他の猫たちも集まってくる。


お蔵坂3

お蔵坂41

 小栗横丁からお蔵坂の上に向かって歩くとアグネスホテルになります。そこでは「拝啓、父上様」の倉本聰が原稿書きで長期に泊まったとか。なぜこのまわりが愛着と好意を集めるのか、わかります。

ほんとは主人公の一平とは違うけど一平荘




神楽坂の由来は?

文学と神楽坂

 この神楽(かぐら)坂の由来は区の標柱では

  1. 坂の途中にあった穴八幡旅所(たびしょ)で神楽を奏したから(江戸名所図会、大日本地名辞書)
  2. 津久戸明神(築土明神)が移転してきた時にこの坂で神楽を奏したから(江戸名所図会、新編江戸志)
  3. 若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから(江戸名所図会、江戸鹿子)
  4. この坂に赤城明神の神楽堂があったから(望海毎談

神楽坂の由来

がありますが、どれがいいのか、江戸時代にもうわからなくなっています。
 江戸名所図会は次の通り。なお、割注は()で書いています。

同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹はんぷく右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼の時は神輿この所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。(或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしかなづくとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。)(斎藤長秋等編「江戸名所図会 中巻 新版」角川書店、1975)

 望海毎談ぼうかいまいだんは、江戸時代中期に、江戸名所旧跡の伝説を描き、作者は不明。「燕石十種第3」5輯に出ています。以下は「望海毎談」です。

牛込行願寺
牛込通りの行願寺と云る天台宗は東叡山開闢よりはるか古よりの大寺にて今の牛込御堀端より西手は酒井空印の御屋敷邊まで此寺の境内なり神楽坂と云は赤城明神の神楽堂の有し所のよしも赤城明神は行願寺の地守なり今の社地は元の宮所にあらず尤行願寺の持を退たり此寺東叡山の末寺にして香衣の院家の地なり今以て二千餘坪の地面にて借地せし人多し

 江戸志(別名、新編江戸志)を引用した御府内備考では……

市ケ谷八幡宮の祭禮に神輿御門の橋の上にしはらくとゝまり神楽を奏すること例なり依てこの名ありと 江戸砂子 穴八幡の祭禮にこの坂にて神楽を奏するよりかく名つくと江戸 穴八幡の御旅所の地この坂の中ふくにあり津久土の社の伝にこの社今の地へ田安より遷坐の時この坂にて神楽を奏せしよりの名なりといふはもつともうけかたきことなり 改撰江戶志

 ほかにも

  1. 市谷八幡の祭礼に、輿こしは牛込御門前の端の上に止まり、神楽を奏したから(江戸砂子
  2. かる坂にあわせてかくら坂になった(新宿区教育委員会「新宿区文化財」)
  3. 穴八幡の旅所がここに来る以前から、祭礼のときはこの場所で神楽を行っていた。その後、穴八幡の旅所ができて、さらに神楽をおこなうので神楽坂と呼んだ(牛込町方書上)。あるいは
  4. 築土明神あげさかで御輿が重くなり、この地に供物を備え神楽を行い、揚場坂は神楽坂といった(牛込町方書上)
  5. 猿楽練習説(神楽坂界隈20周年記念号、みずのまさを)
  6. 「かぐら」は高く聳えているものを見上げるときに命名する。断崖のこと。(班目文雄「神楽坂は神楽に非ず」『ここは牛込、神楽坂』)
  7. カミクラ坂(カミは神、クラは谷・崖)だったのが江戸弁でミがなくなった。

hatiman ここでたびしょとは神社の祭礼で、祭神が巡幸するとき、仮に輿こしを鎮座しておく場所。神輿が本宮から旅して仮にとどまるところです。穴八幡の御旅所は、毘沙門天とは遠くない場所にありました。(ただし穴八幡の正確な位置は地図によって違います)。この『江戸名所図会』の前半10冊は天保5年(1834)、後半10冊は天保7年に書かれています。
寛政1789寛政1789年
1818文政文政1818年


 ここは渡辺功一氏の後を追いかけ、7番が一番よさそうですが、まあ、どれでもいいですね。