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牛込門と土塁

文学と神楽坂

 旧飯田橋駅の西口では南西に向かって駅を出るのが普通でした。では、南東に行くのは? これは全くできませんでした。ところが、新飯田橋駅では西口出口から南東に行く方法ができるようになったのです。
 飯田橋駅の東部では現在、飯田橋二・三丁目地区や富士見二丁目3番地区が再開発中です。この地域で将来の人口は今よりもさらに巨大になるのでしょうか。

JR東日本。かつては南東に行く方法 (赤の四角)はありませんでした。

2022年9月 Googleではまだ工事中

 2009年はまだ店舗が沢山ありました。右に店舗、左は見附の一部。

現在の飯田橋駅西口

 現在、西口から北東の階段を降りると、そこは牛込門の北側です。「牛込門と土塁」の解説板が出てきます。解説板の更新日は2023年11月10日でした。つまり、初めて設置したのが23年11月10日だったのでしょう。

牛込門と土塁

牛込門と土塁

牛込門うしごめもんるい
Ushigomemon Gate and Embankment
 1636年(寛永13年)、将軍は諸大名に命じて、虎ノ門から時計回りに浅草橋門に至る外堀を構築し、翌年、芝でおおった土手松杉の苗を二列植えさせました。松杉は土手のすそから九尺(約2.7m)上がった位置に、一間(約1.8m)間隔で、外側には大きめ、内側には大小とりまぜ、互い違いになるよう植樹し、どめ遮蔽しゃへいの役割を担わせました。
 牛込門枡形ますがた石垣から東に伸びる土塁は、古写真によると堀側はなだらかな土手、門の内側(江戸城側)は、芝に松が繁る景観として「江戸風景」に描かれています。明治になると、道の拡幅や鉄道の開通により土手は数度にわたり削り取られましたが、地中には、土を板とでつき固める版築はんちくと呼ばれる工法で構築された江戸時代の土塁の一部が残っています。
 ここでは、松杉が植された土塁のイメージを再現しています。

家光 徳川家光。江戸幕府の第3代将軍。参勤交代やキリスト教の禁圧などを整え、政治的権威の伝統化をもたらした。
虎ノ門から時計回りに浅草橋門に 下図を参照。

土手 川などがあふれて田地や家屋に流入するのを防ぐために、土を小高く積み上げて築いた長い堤
松杉 しょうさん。松と杉。松の木と杉の木
土留め 斜面の土砂が崩れ落ちるのを防ぐために柵などを設けること
枡形 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。


江戸風景 大正4年、四代目の歌川広重(本名は菊池貴一郎)氏による『江戸風景』上下2冊。
 きね。うすに入れた穀物をつく道具。
版築 はんちく。板枠の中に土を入れて突き固め、層を重ねてつくる方法。板などで枠を作り、間に土と少量の石灰や凝固材を入れ、たたき棒などで、土を硬く突き固める。→動画
植された土塁

土塁の上部に松などの植林

 In 1636, Iemitsu, the third Tokugawa shogun, commanded domanial lords from around the country to construct an outer moat around Edo Castle. The following year, two rows of pine saplings were planted on the grass-covered embankment lining the outer moat. The outer row was comprised of large saplings, which were planted 2.7 meters from the embankment edge at intervals of 1.8 meters. The inner row consisted of an alternating series of large and small saplings arranged in a similar pattern. These rows supported the embarkment and shielded the castle.
 The portion of the embankment extending east from Ushigomemon Gate can be divided into two sections: one located along the outer moat and the other located inside the Gate. Photographic evidence indicates that the section lining the outer moat was a gentle earthen bank. The section inside the Gate is depicted in Views of Edo as a grass-covered landscape dotted with pine trees.
 During the Meiji period (1868-1912), the construction of wider roads and rail lines reduced the size of the embankment.
Underground, however, portions of the outer moat’s embankment, which constructed during the Tokugawa period using the ancient rammed earth (hanchiku) method, remain intact.
 This display recreates the earthen bank and rows of pines, which were located to the east Ushigomemon Gate’s box-shaped stone walls.

旧江戸城写真帖牛込見附図」1871年
 蜷川式胤編(編集)横山松三郎(撮影)高橋由一(着色)東京国立博物館蔵
 神楽坂側から牛込見附を撮影した写真で、土塁が堀に面していた当時の姿が船と共に写されています。

牛込門

江戸風景上」1915年、菊池貴一郎、国会図書館蒇
 四代広重(菊池貴一郎)が書き留めた幕末から明治期の牛込見附とそれに連なる土塁の風景です。

「五千分一東京図測量原図 東京府武蔵国麴町区飯田町及小石川区小石川町」1883年,参謀本部、国土地理院藏,一部加筆

五千分一東京図測量原図

 正確に方位を直し、五千分一東京図測量原図をもう一度描くと……

参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」明治16年(複製は日本地図センター、2011年)

江戸城外堀|史跡解説板2

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の中型パネル4枚()のうち2枚目は江戸城の外堀です。写真は日本語と英語で書かれて、諸門の写真や図が18枚、大きい図は江戸城全体図と神田川の地形です。

江戸城外堀

江戸城外堀
The History of Edo Castle Outer Moat

 江戸城は、本丸ほんまる二の丸三の丸西の丸北の丸吹上ふきあげからなる内郭ないかく内堀が囲み、その表門おおもんでした。外堀は、雉子きじばしもんから時計回りに、ひとつばしもんかんばしもんときばしもんなど諸門をめぐり、ふくばしもんからとらもん溜池ためいけから四谷門市谷門牛込うしごめもんを経て、現在のかんがわに入り、いしかわもんから浅草あさくさもんで、すみがわに至る堀でした。外堀工事は、1606(けいちょう11)年に雉子きじばしから溜池ためいけまでの堀を構築こうちく後、1618(げん4)年に駿するだい掘削くっさくされて平川ひらかわ(現ほんがわ)のりゅうに付け替えられ、神田川が誕生しました。この工事で、平川はほりどめばしで締め切られ、独立した堀となりました。
 1636(寛永かんえい13)年には、てんしんで外堀が構築され、江戸のそうがまえが完成します。この工事は、雉子橋から虎ノ門に至る外堀の総石垣化と枡形ますがた築造をまえほそかわいけくろなど西国さいこくざまだいみょう石垣いしがきかた六組ろくくみ)、牛込うしごめばしから赤坂あかさかばしにかけての外堀掘削とるい構築こうちく東国とうこくだいみょう堀方ほりかた七組ななくみ)が行いました。
 その後も幕府は、外堀を維持するために大名の手伝普請による堀さらいをしました。牛込~市谷間の堀は、市谷~四谷間より水位が下がり、土砂が堆積し、が繁ったため、しんぎょうの管理下で頻繁ひんぱんにさらいが行われました。また、町人にも堀にゴミを捨てないよう町触まちぶれも出され、外堀の維持・管理が行われました。
本丸 日本の城郭建築で、最も主要な部分。多く、天守閣を築き、周囲に石垣や濠をめぐらし、城主が戦時に起居する。
二の丸 城郭で、本丸の外側の郭。二の丸の大きな役割は最重要の本丸を守護すること。
三の丸 二の丸を守るのが三の丸の主な役割
西の丸 本丸の西のほうに、独立して設けられた区画。将軍の世子の居所や、将軍の隠居所。世代交代をした城主が隠居場所として使うのが基本で、城主の妻や世継ぎとなる子が住むこともあった。
北の丸 城の北側の区画。特に、江戸城の北の丸にあった将軍の正妻の居所をいう。
吹上 元は風が吹き上げる高い所
内郭 城の内側に石などで築かれた囲い。また、その地域
内堀 ないごう。城の内部にある堀。
表門 おもてもん。建物などの表口にある門。正門
大手門 城の正門
雉子橋門 雉子橋門跡は「千代田区景観まちづくり重要物件」指定の地域遺産。千代田区一ツ橋と九段南を結ぶ。家康が朝鮮からの使節をもてなすためのきじをこの附近の鳥小屋で飼育したことが橋名の由来。
一橋門  徳川家康が江戸入国の際に丸木の一本橋を渡したことによる。江戸城の外堀の橋の一つ。雉子橋の東方、神田橋との間の橋で、南詰に一ツ橋御門があった。
神田橋門 千代田区神田と大手町を結ぶ橋。江戸城外濠(日本橋川)にかかる。江戸時代には魚市がたった。
常盤橋門 常盤橋は1590年(天正18)の架橋ともいわれ、江戸でも最も古い橋で、長さ17間(約31m)、幅6間(約11m)と、両国橋が架かるまでは江戸一の大橋だった。その橋に通じるこの門は、江戸城外郭の正門にあたり、桝形ますがた門の形状をよくとどめている。
呉服橋門 中央区八重洲やえす1丁目にあり、外堀通りと永代えいたい通りの交差点にあった。
虎ノ門 江戸城を守る三十六見附門の一つである虎ノ門が置かれた
溜池 東京都港区北部と千代田区の境界にある。江戸時代には外堀の一部で、大池があり、その水は上水に使用されていたが、明治期には埋立てられた。
四谷門 現在の麹町方面と四谷方面(新宿区)を結び、半蔵門を起点とする甲州街道の口
市谷門 1636年(寛永13年)、美作みまさかやまはん(現在の岡山県)藩主・もり長継ながつぐが築造
牛込門 1636年(寛永13年)、阿波徳島藩(現在の徳島県)藩主はち須賀すか忠英ただてが築造
神田川  東京都を流れる荒川水系隅田川支流の一級河川
小石川門 1636年(寛永13年)、岡山藩(現在の岡山県)藩主池田光政によって築造
浅草門 浅草橋は台東区、中央区の境にある橋。神田川が隅田川に合流する地点にかかり、奥州街道の入り口になる。浅草門は現在の浅草橋の南たもとにある。
隅田川 東部を貫流する荒川の分流
駿河台 徳川家康が江戸入府の際に、駿河から連れてきた家臣団がこの地に居住したからとする説と、富士山が見えたからとする説がある。
掘削 土砂や岩石を掘り取って穴を開けること
平川 神田川の前身。三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発して、かつては河口は大手町1丁目のあたりで、日比谷入江という干潟の海に流れを注いでいた。海水が遡上してて飲料水に不適だった。1620(元和6)年、平川は天下普請の大工事により、それまでの流路を変更し、三崎橋から先は駿河台・秋葉原をへて柳橋より隅田川に流れ込むようになった。
日本橋川 千代田区と中央区を流れる一級河川。江戸時代の天下普請のとき、平川は三崎橋から堀留橋までが埋め立てられ堀留となった。これは飯田堀、飯田川とも呼ばれていた。1903年(明治36年)、市区改正事業があり、埋めた区間を再度神田川まで開削し、神田川の派川として日本橋川と呼ばれるようになる。
流路 川の水が流れる場所
堀留橋 日本橋川に架かり、南堀留橋の上流約120m。九段北一丁目と飯田橋二丁目の間から西神田三丁目に通じる専大通りの橋。昔この付近の日本橋川を堀留川と称した
天下普請 江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事
総構 城以外に城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造
枡形 ますがた。枡のような四角な形。城の一の門と二の門との間にある方形の広場。出陣の際、兵の集まる所。侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
石垣方六組 西国・四国の大名61家は「石垣方」6組に編成して江戸城東方の堀に石垣を築かせた。
牛込土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


赤坂土橋 赤坂御門のこと。土橋とは城郭の構成要素の一つ。堀を掘ったときに虎口前の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
堀方七組 関東・奥羽の大名52家を「堀方」7組に編成して江戸城西方の堀を構築させた。
手伝普請 近世の統一政権(豊臣政権,江戸幕府)が大名を動員して行った土木工事。
堀さらい 水路清掃のこと。
 インド原産のハス科の多年性水生植物。地下茎は「蓮根」(れんこん、はすね)
普請奉行 土木・建築工事において基礎工事を管掌する。
町触 まちぶれ。江戸時代に町人に対して出された法令
喰違 麹町区紀尾井町阪上から赤坂離宮前に出る城門。江戸城外郭門で唯一、石垣ではなく土塁による虎口(城の出入口)
  Edo Castle’s inner hull was comprised of six citadels: the main, second, third, western, northern, and fukiage citadels. The entire inner hull was encircled by an internal moat and Ōte-mon Gate served as its main entrance. The Castle’s outer moat originated at Kijibashi-mon Gate and passed, in clockwise direction, through Hitotsubashi-mon, Kandabashi-mon, Tokiwa-bashi-mon, Gofukubashi-mon, and Torano-mon Gates. It then extended from Castle reservoir through Yotsuya-mon, Ichigaya-mon, and Ushigome-mon Gates before ultimately flowing into the present-day Kanda River. From there. it served as a canal, which passed through Koishikawa-mon and Asakusa-mon Gates and ultimately converged with the Sumida River.
  The outer moat’s development began in 1606 with the construction of a canal from Kiji-bashi Bridge to the Castle reservoir. The second stage in its evolution came in 1618, when portions of the Kanda Plateau were removed and the canal was redirected towards the Hira River. That process gave birth to the Kanda River and transformed the Hira River, which was closed off at Horidome-bashi Bridge, into an independent canal.
  The outer moat was finally completed in 1636, when feudal lords from eastern and western Japan were mobilized to construct its remaining portions. Specifically, western domainal lords, including the Maeda, Hosokawa, Ikeda, and Kuroda Houses, were ordered to supervise the construction of stone walls and the square masugata enclosures used to protect the castle gates along the section of outer moat between Kiji-bashi Bridge and Torano-mon Gate. In constrast, domainal lords from eastern Japan were order to dig a canal between Ushigome-bashi and Akasaka-bashi Bridges and construct earthen fortifications.
  In order to maintain the outer moat, the Tokugawa shogunate mobilized domainal lords from around the country to dredge it. In particular, the section of the moat between Ushigome and Ichigaya required frequent dredging because the water level often receded, resulting in the accumulation of silt on the moat floor and the development of water lilies on its surface. Such dredging projects were carried out under the supervision of the shogunate’s Governor of Construction. In addition, the city authori-ties attempted to keep the outer moat free of debris by issuing official proclamations banning the residents of commoner neigh-borhoods from disposing of garbage in the moat.


四谷門

数寄屋橋門

雉子橋門

市谷門

山下門

一橋門

牛込橋

幸橋

神田橋

小石川門

虎ノ門

常盤橋門

筋違門

赤坂門

呉服橋門

浅草門

喰違

鍛冶橋門

四谷門数寄屋橋雉子橋門市谷門山下門一橋門
牛込門幸橋門神田橋門小石川門虎ノ門常盤橋門
筋違門赤坂門呉服橋門浅草門喰違鍛治橋門

赤坂門:長崎大学附属図書館蔵
Akasaka-mon Gate: “Photo Tokyo Past and Present” Hiroshi Nozawa
喰違:『絵本江戸土産』国立国会図書館蔵
Kuichigai-mon Gate: “Edo Souvenir in Pictures” National Diet Library
そのほか:『旧江戸城写真帖』東京国立博物館蔵
Others: “Old Edo Castle Photo Collection” Tokyo National Museum

江戸城外堀

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江戸城全体図

 野中和夫編「石垣が語る江戸城」(同成社、2007)では……

 61歳で待望の栄冠をにぎった家康、日本最大の実力者となって幕府を開いた。
 ところが、家康は征夷大将軍となってわずか2年で世子秀忠にゆずる。慶長10年(1605)2月24日、譜代、外様の大名10万余の軍勢を率いて江戸を出発し、威風あたりをはらう入京、天下の人々は驚いた。このことは「天下は廻り持ち」の思想を否定し、徳川の子孫が独占することを宣言するためであった。政治的中心が、江戸と大坂という分裂状況を事実上終止符をうち、諸大名にその方向を決定させるのに十分であった。
 天下は徳川のもの、政治の中心となる威容をほこる本城作りに、譜代・外様を問わず天下の大名総力をあげて工事に協力させることが可能となったのである。諸大名も将軍への忠誠を示すために命ぜられるまま城普請にかり出された。
 慶長の天下普請のはじまりである。(略)
慶長11年(1606)の修築工事
(略)この時の工事箇所は、外郭の雉子橋より溜池落口までの石垣の他、本丸石垣、天守台、富士見橋台石垣、虎門石垣などにあたり、天守台を除き5月には竣工する。(略)
慶長12年の修築工事
 この年の修築工事は、前年の工事の未了部分を継ぎ、さらに雉子橋から溜池際に至る東南の外濠を改修することを主目的としている。(略)
寛永13年(1636)の修築工事
 この年の工事は、外郭の修築によって江戸城の総がまえが完成する時である。(略)

寛永期の修築工事

慶長期の修築工事


 修築工事は、石垣方と堀方とからなり、石垣方は西国大名、堀方は東国大名が担当し、石垣工事は、神田橋から桜田にいたる修築と虎ノ門・御成橋門(幸橋門)・赤坂門・喰違門・外糀町口(四谷門)・市ヶ谷門・牛込門・小石川門・筋違門・浅草橋門・溜池台の外郭諸門の桝形、濠の掘削工事は、赤坂から市ヶ谷までの外濠西側を開削することを目的としている。外濠西側の掘削によって東北の神田川に連結し、外郭諸門の築造によって城濠が完成するのである。

神田川の地形

 堀留橋(ほりどめばし)江戸時代の堀はここで終了し、元飯田町堀留と呼ばれた。埋め立ての時期は不明だが、寛文期(1661〜1673年)には堀留(堀で掘り進められない終了地点)になっていたらしい。大正時代の関東大震災の後に復興事業があり、再び架橋した。

再開発と神楽坂

文学と神楽坂

 神楽坂の交差点「神楽坂上」周辺で再開発していますが、これで終わりでしょうか。それともまだあれこれと起こりうるのでしょうか。何も起こらない場合、どうして起こらなかったのでしょうか。地元の人は概略します。

  再開発と神楽坂

 東京は皇居を中心に同心円状の構造をしています。環状1号線内堀通り環状2号線外堀通り。環3と環4は、いまだ建設中。環5は明治通りといった具合です。
 神楽坂は環2の外に位置します。同じ環2の外の街をぐるりと見ていくと、神田日本橋銀座虎ノ門赤坂四谷神楽坂を経て文京区の後楽本郷湯島という感じです。いずれも有名ではありますが、街の「ブランド力」を比べると、神楽坂から湯島にかけては、他の街より落ちる感じがしませんか。土地の値段やオフィスビルの賃料を比べても、神楽坂は日本橋や銀座、赤坂などより、かなり安いのが現実です。後楽よりは高いかも知れませんが。
 これは、神楽坂一帯が都心の中でも「開発の遅れた地域」であることを意味します。昔の風情を残しているとも言えるし、再開発圧力にさらされているという見方も出来る。歴史と現代が融和する神楽坂の魅力は、この「開発の遅れ」という現実の上に成り立っています。

環状1号線 東京では「千代田区日比谷公園(日比谷交差点)を起終点とし、皇居外苑を周回する総延長約6.5kmの環状道路」
内堀通り 皇居のまわりを一周する4~10車線の幅員の広い延長7kmの道路。内堀通りと環状1号線はわずかに違う(https://ja.wikipedia.org/wiki/内堀通り
環状2号線 江東区有明から中央区、港区などを経て千代田区神田佐久間町の間を結ぶ、全長約14kmの幹線道路
外堀通り 外堀に沿って作られた環状道路。環状2号線と外堀通りは現在は別々の道路です。外堀通りと環状2号線で同じ場所は赤、環状2号線のみは紫。外堀通りのみは橙。

環状1号線と2号線と外堀通り

神田、日本橋、銀座、虎ノ門、赤坂、四谷、神楽坂、後楽、本郷、湯島 2020年で簡単にm2あたりの公示地価(https://tochidai.info/tokyo/shinjuku/)を見ると、本郷を除いて、神楽坂は低価でした。

地価

神田千代田区神田須田町一丁目26番2513万
日本橋中央区日本橋3-11-1817万
銀座中央区銀座4-5-65770万
虎ノ門港区虎ノ門1-15-161050万
赤坂港区赤坂4-1-30540万
四谷新宿区四谷1丁目9番2外554万
神楽坂新宿区神楽坂2丁目12番18287万
後楽文京区後楽1-4-18305万
本郷 文京区本郷3-39-4220万
湯島文京区湯島3-39-10413万

 ⚫ 再開発のパターン

 専門の方は先刻ご承知と思いますが、都市部の再開発には、ふたつのパターンがあります。ひとつは広い道に面していること。建築法制では前面道路の幅で建物の高さや容積率を決めています。広い道沿いほど大きな建物が建てられます。
 神楽坂の場合、「広い道沿い」の再開発の典型例が「アインスタワー」です。5丁目の寺内地区には低層の木造住宅が密集していました。それを大久保通りとつなげることで大きな利益が生み出せる。積極的な地上げで、たくさんの人が立ち退きました。他にも、昭和40年代の津久戸町熊谷組の本社ビル建設なども、広い道型の再開発です。
 都市部の再開発のもうひとつのパターンは、広い土地を持つ地権者がいることです。地上げの手間もコストもかからないので、再開発を軌道に乗せやすい。
 神楽坂の場合、「広い土地」型の再開発の典型例は、通称「軽子坂プロジェクト」で完成した一連のビル群です。外堀通り沿いの揚場町から、軽子坂を登って本多横丁の手前まで、いくつもの大きなビルが連続的に建てられました。軽子坂は決して広い道ではないので、あまり高いビルは建てられません。しかし沿道の土地の大半を升本酒店が持っていたことから、スムーズに再開発が進みました。これよりかなり前になりますが、昭和30年代の揚場町のセントラルコーポラス建設も、広大な邸の跡地を利用した「広い土地」型の再開発と言えます。
 他にも神楽坂周辺ではラムラという大型の再開発の事例があります。これは江戸城の外堀という公有水面を東京都が埋め立てて、その土地を外堀通りにつなげることで大きなビルを建てたわけです。「広い道」と「広い土地」の両方の特徴を持っています。

アインスタワー 神楽坂アインスタワー(Eins Tower)で、26階建て、竣工は2003年。借地権付きマンションです。

アインスタワー。1967年。住宅地図。

地上げ 建築用地を確保するため、地主や借地・借家人と交渉して土地を買収すること
熊谷組 1974年3月、熊谷組の新本社完成。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

地権者 その土地を所有し、処分する権利をもつ者
軽子坂プロジェクト 1937年、1980年、1990年と今(2020年)。現在、小規模な住宅は極めて少ない。
セントラルコーポラス 上の中央の赤丸

 ⚫ 神楽坂の強さ

 ただ神楽坂の場合、街の中心である神楽坂通り沿いには再開発の波は及びませんでした。通りの幅が広くないことと、土地が細切れになっていることが理由です。
 神楽坂通りの商店は戦前、明治以来の地主が広い土地を持ち、店に貸していたそうです。みんな店子ですから、地主の都合や家賃によって場所を移すことが珍しくなかったようです。それを大きく変えたのが第2次大戦後の「財産税」です。財産税の効果は農地解放がよく知られますが、商店街でも地主が土地を手放しました。神楽坂の場合、多くは店子がそのまま自分の店の土地を買ったと言われます。
 こうして細切れの土地に「一国一城の主」が立ち並ぶ構造が出来ました。これが神楽坂の再開発を妨げ、昔の風情を残すことに大きな役割を果たしています。古い店がつぶれれば再開発になりやすい。けれど神楽坂では多くの場合、店主が自前の低層ビルを建てて、貸しビル業や貸しマンション業に転業するわけです。店はなくてもオーナーは同じで、小さなビルの上に住んでいる。
 それだけではありません。最近の新型コロナウイルス感染症で、商店街は全国的に大きな打撃を受けています。ただ神楽坂の古くからある店は比較的、被害が小さいようです。それは土地を自分で持っていて、家賃を払わないですむからです。これも神楽坂の強さのひとつでしょう。
 例外的に、神楽坂通りの再開発事例として「ポルタ神楽坂」があります。10数軒の店が立ち退いてビルが建ったのですが、あの店の多くは升本酒店が地主だったのだそうです。戦後の財産税をくぐり抜けて、それだけの土地を持っていたわけです。だから同じような再開発が今後、続くとは考えにくいです。

店子 家主,大屋に対する借家人、借り主。テナント
財産税 財産を所有しているという事実に対して課される租税。ここで言っているのは戦後1度だけ、占領軍総司令部が発令した臨時税
農地解放 農地改革。第2次世界大戦後,占領軍の強力な指導によって日本で行われた農地制度の改革。

 ⚫ これからの再開発

 それでも、神楽坂に対する再開発圧力は次第に高まっているように感じます。とくに周辺部です。
 大久保通りの拡幅工事完成間近です。沿道のいくつもの店が取り壊され、神楽坂の出口のランドマークであった「昔も今も角のせとものや」こと河合陶器店がなくなりました。拡幅によって、大久保通り沿いには今まで以上に高いビルが建てられるようになります。地上げを企画する業者も出てくることでしょう。
 一時期、街作りの立場から大久保通りの拡幅を批判する人がいましたが、感情論だと思います。拡幅計画ははるか昔からあるし、退去する店には前もっての通知と補償金がある。店主は、それを前提に店をどうするかの腹を決めます。補償金がもらえるから「早く着工して欲しい」と思っている店主だって多いんです。
 大久保通りの逆側、神楽坂下の外堀通りにも拡幅計画があります。昔の神楽坂の入り口のランドマークである赤井さんのところは、坂上の河合さん同様に全部、道路になってしまう場所です。パチンコ「オアシス」も、みちくさ横丁の主であるトウホウビルも、外堀通りが広がれば半分は道路にとられる。地主はそれが分かっているから、古い建物のまま我慢している。拡幅が動き出せば、一気に再開発が進みます。その時には神楽坂の入り口は、昔の山田紙店の跡、今の地下鉄入口になるはずです。
 もうひとつ、忘れてならないのは神楽坂6丁目の再開発です。6丁目は現在の12メートルの道が20メートルに広がる計画です。そうなると、例えば角に近い五十番の店は半分は道路にとられる。道が広がれば、再開発が起きやすくなる。大きな変化があることでしょう。もっとも、さすがにそれには時間がかかりそうです。
 神楽坂1-5丁目の神楽坂通りには拡幅計画はありません。通り沿いの中小ビルの多くは自社ビルで、オーナーは簡単には手放さない。再開発がなければ路地も残るし、町並みも維持できる。神楽坂の中心部は、周辺部の高いビル群に囲まれたまま、ずっと残るのではないかと思っています。

完成間近 完成は不明です。
外堀通りにも拡幅計画 1967年の住宅地図を示します。もともとは黒い点線で書いているのですが、赤い実線に変えています。

1967年。住宅地図

 東京都都市整備局Web(https://www2.wagmap.jp/tokyo_tokeizu/Portal)を開き、掲載マップから「都市計画情報」を開き、一番下の「同意する」を選択、「新宿区」を選び、「表示切替」から「都市計画道路」だけに変えると、下図がでてきます。

都市計画道路

神楽坂通りには拡幅計画はありません 1967年の住宅地図にまた別の点線があります。実現しなかった神楽坂通りなのですね。

1967年。住宅地図。



東京の路地を歩く|笹口幸男⑤

文学と神楽坂

最後に、“こぶりながら”見落とせないピカッと光る路地を紹介しておきたい。飯田橋駅のほうから、坂を上りきる手前の左手〈青柳寿司〉の脇に入ると、すぐ右手にお稲荷さんと、その隣りに神楽坂芸妓組合がある。その斜め前の喫茶店〈シャトレーヌ〉の横が路地になっているが、まず地元の人でなければ気づかないであろう。でも土地の人はよく利用している。ひっそりとした、狭い路地で、右にカギの手に曲がると、すぐ石段になり、それを下ると真正面に〈斉藤医院〉がある。そこを右に折れて道なりに行くと、すぐ通りに出る。通りからすぐ反対側の民家の間がまた上り坂になった路地となる。上りつめてから振り返って見ると、高台にへばりついている神楽坂の家並みを望むことができる。初めに書いたような、高低差のある地形的な利点をもつ神楽坂は、きわめて優雅な街の景観をあちらこちらに残している。

この取材のためにも何回か歩いたが、またそれとは別にウォーキング・シューズをひっかけて、気ままに足の向くにまかせて歩いてもみた。渋谷も原宿も西麻布もけっこうだが、たまには発想を転換して、神楽坂散歩を試みられることをぜひおすすめしたい。

もう一度だけ、私の好きな『私のなかの東京』から、引用させていただく。

関東大震災後のきわめて短い数年間を頂点に、繁華街としての神楽坂という大輪の花はあえなくしおれたか、いまも山ノ手の花の一つであることには変りがない。そのへんが毘沙門さまをもつ神楽坂に対して金比羅さまをもつ虎ノ門あたりとの相違で、小なりといえども花は花といったところが、現在の神楽坂だといえるのではないだろうか。
開けっぴろげな原宿の若々しい明るさに対して、どこか古風なうるおいとかすかな陰影とをただよわせている神楽坂は、ほぼ対極的な存在といってまちかいないとおもうが、将来はいざ知らず、現状に関するかぎり、その両極のゆえに私の好きな街の双璧といってよい。

そして私は、ほんとうに久しぶりにあの酒場の暖簾をくぐった。店のたたずまいは昔と少しも変わらない。ただ、路地の入り囗の右手が立派なビルの料亭に変わっていた。その日は多少早めに行ったので、おやじさんと言葉をかわす余裕があった。同僚と二人でごく自然に杯をかわすこともできるようになっていた。つくずく時の経過というものを感じた。自分からもいつのまにか若さのとげとげしさといったものが、消えているように思えた。酒量が確実に落ちたのに対して、良い悪いは別として、酒を楽しむ境地になっていた。

こぶり 同類の他のものに比べると少し小形なこと
青柳寿司 寿司はなくなりましたが、「青柳LKビル」が残っています。1階は「沖縄麺屋 おいしいさあ」です

おいしいさあと稲荷稲荷 正式には伏見ふしみ火防ひぶせ稲荷いなり神社
神楽坂芸妓組合 正式には「東京神楽坂組合」
シャトレーヌ 現在は「恵さき」
芸者組合と恵さき石段 この階段や路地は「熱海湯階段」(まちづくりの会『神楽坂楽楽散歩』、『東京人』123号)、「熱海坂」か「カラン坂」(牛込倶楽部平成10年夏号『ここは牛込、神楽坂』)、「芸者小路」(階段下の音声ガイド)、「フランスの坂」、「一番湯の路地」、などと呼んでいます。

芸者小路

芸者小路

斉藤医院 現在は「別亭鳥茶屋」
通り 小栗横丁のこと
路地 堀見坂と『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」と書いてありました。
金比羅 港区虎ノ門一丁目にある神社、敷地内には、金刀比羅宮との複合施設として虎ノ門琴平タワーがあります。場所はここです。金比羅
酒場 「伊勢藤」でしょう
ビル 山本ビルに変わりました。一階は鳥茶屋本店