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国産飛行機の発祥地|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 47.国産飛行機の発祥地」についてです。

国産飛行機の発祥地
      (西五軒町34前道路)
 大曲から東五軒町バス停に向い、その先の横町を左折する角に千代田商会がある。この前の道路(道路拡張で道路になる)に明治末ごろ、林田という精麦精米の工場があった。ここは、明治42年12月から翌年3月までの間に国産の飛行機が誕生したところである。
 日本ではじめて発動機 (二衛程空冷式8馬力)を設計製作に着手したのは、日野熊蔵という歩兵科の将校である。
 米国のライト兄弟が飛行機をつくってから欧米各国では長足の進歩をしているのをみた日野大尉は、その将来性に着目し、英米独仏の雑誌や図書を研究し、自力でその製作に着手したのであった。
 全く独力で発動機の構造研究に没頭し、苦心惨胆のすえ、明治42年にまず自分で設計した二つの発動機の製作にとりかかった。
 ついに完成した発動機を、飛行機関係者多数参観の下に試運転をしたが好調だった。そこで今度は飛行機の製作にとり込んだのである。これも全く独力であった。そして43年2月までに完成した。
 一層式で巾8メートル、長さ3メートル、発動機は8馬力、製作費は1900円、今からみればおもちゃほどのものであったが、無から有を生んだ日野大尉の功積は偉大なものであった。
 大尉は、この飛行機に自ら搭乗して戸山ヶ原で試験飛行を実施するのである(大久保17参照)。
〔参考〕日本航空事始 東京科学散歩

国産飛行機 左が日野熊蔵氏。徳川好敏著、航空同人会編「日本航空事始」(出版協同社、1964)

林田という精麦精米の工場 西五軒町の赤枠。林田式流米器製造株式会社でした。

西五軒町 林田式流米器製造株式会社 東京市及接続郡部地籍地図

二衛程 two-stroke cycle。「衛」は「エイ」「まわる」で、例は「衛星」。集落の周囲をめぐって警戒する。「程」は「テイ」「一定の分量」で、例は「工程」。現在は「2ストローク機関」と訳します。1往復で1周期を完結するエンジン。1往復は行程換算で2回(=2 stroke)になる。
馬力 元々は馬一頭が発揮する仕事率を1馬力としたが、現在、正確に1馬力は735.5ワットと定義している。
苦心惨胆 くしんさんたん。非常に苦しんで工夫すること。
一層式 現在は「単葉機」という言葉を使います。揚力がつく主翼が1枚だけの飛行機。反対語は「複葉機」

グラーデ式は、飛行機を研究自作(飛翔せず)していた日野氏が研究を中断して訪欧の任をうけ、予定通りに購入したもの。形状説明に「一層式」とあって、単葉とは呼称していない。(<日本航空史> グラーデ式と日野熊蔵氏

 以下は、徳川好敏著、航空同人会編「日本航空事始」(出版協同社、1964)からの引用です。

 日野氏は歩兵科将校であるが、英、仏、独各国語に通じ、数学、理学にも長じ、且つ技術に秀いでていた。かつて日野式拳銃を発明するなど、発明の天才で、陸軍部内では珍らしい卓抜なる才幹の技術者であった。ライト兄弟によって飛行機が出現し、欧米諸国においてたちまち長足の進歩を遂げつつあるのを見て、日野氏は、その将来性を洞察し、広く英、米、独、仏の雑誌や図書を漁って、その該博な知識の上に独創的な考案を組み立てて、全く独力、個人で発動機および飛行機の設計、製作に着手していたのである。
 当時は、飛行機も発動機も我国には全く皆無で、これに関心を持つ人々でも僅かに外国雑誌などでこれを知見するに過ぎなかったのである。ましてや当時は飛行機用発動機の仔細な構造を知ることなどは殆んど不可能に近いことだったが、日野氏は敢然この困難と取り組み、苦心惨憺、研究を進め、明治42年、東京市内を流れる江戸川筋、俗称大曲の西南に当たる東京市牛込区東五軒町(現在は東京都新宿区東五軒町)の林田工場で、まず自分で設計した二衝程空冷式8馬力発動機の製作に着手したのである。
 とはいうものの、全く前例のないことなので、日野氏は、各部の金質、成分の配合、鋳造等すべて外国の雑誌や図書によって研究し、自ら製作に当たったのだが、その努力が酬いられて遂に完成、試運転を実施するまでに漕ぎつけたのである。
 この日は、飛行機関係者が多数参観し、私(徳川)も列席したが、成績良好で、参観者一同は大いにその成功を祝福したのである。
「二衝程発動機は最も簡単であって、飛行機用としては良好です。また空気冷却式は水冷式に比べて重量も軽減し得るから、飛行機用としては好適です」と、そのとき説明した日野氏の言葉が、今もなお耳に残っている。
 この成功により、日野式飛行機は正式に研究会の事業として製作されることになり、この年の12月から着手、翌43年の2月に完成した。一層式で幅8メートル、長さ3メートル、発動機は8馬力(これも日野氏が設計、製作したもの)であった。そして製作費用は発動機を除いて1,9000円であった。
 そこで、いよいよその出来あがった飛行機を日野氏みずから搭乗して滑走試験することになったが、当日の「研究会記録」には次のように書かれている。
「3月、戸山ヶ原射撃場に於て試験を行いたる結果、機の安定及び各部の機能概ね良好なりしと難も、未だ以て飛場するに至らざりき」
 私(徳川)も見学したが、何分にも僅か200メートルばかりの狭い射撃場に大勢の人が出て混雑していたので、思うような滑走もできなかったのである。

〔註〕日野氏は、一種の天才児であった。歩兵科将校でありながら、飛行機の発明その他技術面に熱中するのあまり、当時の軍の空気としては軍律を紊ると考えられるような行動もないわけではなかった。例えば所沢へ尊貴の方がおいでになったとき、自動車の点検に熱中していてお出迎えに出なかったというようなことがあったのである。そういうことが軍上層部の忌諱に触れ、日本における初飛行者という栄誉ある身にもかかわらず、福岡歩兵聯隊の大隊長に転職させられるという非運に遭遇したのである。発明の天才児、航空機の研究者たる日野大尉が、兵の教練のみを主任務とする歩兵の大隊長というような職務が勤まる筈がない。快々としてたのしまないままに、自然、勤務にも身が入らなかったのであろう。そのため、今度は成績が挙がらないという理由で、遂に軍職を追われてしまったのである。時勢の違いとはいえ、まことに残念なことであった。


才幹 さいかん。物事を成し遂げる知恵や能力。
金質 「金属の性質」との意味でしょうか。
1,9000円 『新宿の散歩道』では1,900円です。また同じ時期に奈良原氏が製作した飛行機は1,843円でした。これも1,900円が正しいのでしょう。
紊る みだる。乱る。紊る。整っているものを崩す。ばらばらにする。散乱させる。平静さをなくすようにする。
尊貴 そんき。きわめてとうとい。その人。その様子。
忌諱 きき。いやがって嫌う。忌みはばかる。遠慮して口にすべからざる事柄

 また「新宿区指定史跡」になっています。

 新宿区指定史跡
国産こくさん飛行機ひこうき発祥はっしょう
        所 在 地 新宿区西5軒町12番10号
        指定年月日 昭和60年12月6日
 明治42年(1909)から翌43年(1910)にかけて、陸軍りくぐんたい日野ひの熊蔵くまぞう(1878~1946)により初の国産飛行機「日野式1号機」が製作された林田商会(後の日本醸造機械株式会社)のあった場所である。
 日野大尉は、明治時代末、飛行機が欧米各国で急速な進歩をとげている様子を見て、その将来性に着目した。イギリス・アメリカ・ドイツ・フランスの文献を参考にして飛行機用発動機と機体の製作に着手し、明治43年2月に、初の国産飛行機「日野式1号機」がこの地で完成した。
 日野大尉はこの飛行機に自ら搭乗し、明治43年3月18日、戸山ヶ原において、日本で初めての国産飛行機の実地飛行試験を行った
 令和5年2月28日
新宿区教育委員会

東五軒町(写真)西五軒町 令和4年 ID17089

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17089は、令和4年2月に東五軒町から西五軒町などを撮影しました。資料名は「東五軒町から西五軒町方面を望む」です。なお、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真があり、ID 14062です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17089 東五軒町から西五軒町方面を望む

東五軒町(令和4年)
  1. メープルハウス(地上3階のマンション)の一部
  2. フレスクーラ神楽坂(地上7階のマンション)、自動販売機「KIRIN」、大型ゴミ箱、3角コーン
  3. 電柱、(最高速度20キロ)、(駐車禁止)、バナー「放火に注意/牛込消防署・牛込防火協会」
  4. raum神楽坂(地上5階のマンション)
  5. ルーブル神楽坂(地上8階のマンション)
  6. ENEOS(共栄石油)、FC(燃料カード)
  7. (指定方向外進行禁止)、カーブミラー
  8. 横断歩道
  9. 左に行くと「相生坂」
  10. ハート株式会社/新宿支店
  1. 工事中
  2. 電柱看板「(株)八洋 次の角/左折 東五軒町6」
  3. トーハン本社、駐車場
  4. 郵便ポスト
  5. 横断歩道、(横断歩道)、バナー「一方通行につき/右折できません」、左に行くと「相生坂」
  6. 五軒町ビル
  7. アルスクモノイ(古書)
  8. 最も高いビルは、ラ・トゥール神楽坂(地上24階、地下2階)賃貸マンション

西五軒町(写真)東五軒町 令和4年 ID 17086-87

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17086とID 17087では、令和4年1月に西五軒町や東五軒町を撮影しました。資料名は「西五軒町6-12から南方面を望む」と「西五軒町6-19から南方面を望む」でした。ただ向かって左側は東五軒町です。ID 17086のENEOSは東五軒町4-12、ID 17087のセブンイレブンは東五軒町3-5です。ちなみに、右側は西五軒町6-12と西五軒町6-1です。撮影位置がわずかに西五軒町よりなので、この資料名になったのでしょう。
 また、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真があり、ID 14059ID 14060ID 14196です。
 遠く上向きの坂がありますが、東西2つある相生あいおいざかの西側の坂です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17086 西五軒町6-12から南方面を望む

西五軒町6-12と東五軒町4-12

西と東五軒町(令和4年)
  1. 横断歩道
  2. 電柱看板「株式会社 大川商店 64-◯ 東◯」
  3. (E)NEOS(共栄石油)
    営業時間 平 日 7:00-20:00
         土曜日 7:00-20:00
         日曜祭日8:00-18:00
    ◯ことなら◯ 大型リフトを備えた当店へ
    KeePer
    透明感の ある艶
    ご予約受付中!!
    レギュラー
  4. まわり道
    ◯工事の◯ 通行止
  5. 三角コーン
  6. (大型貨物自動車等通行止め)
  7. ご迷惑をおかけします
    水道管◯
    行っています
  8. マストクレリアン神楽坂(サービス付き高齢者向け住宅)
  9. 警備員や技術者など。
  10. (消火栓)(最高速度30キロ)
  11. 遠くに相生坂
  1. 横断歩道
  2. カーブミラー
  3. 西五軒町6
  4. (ハート株式会)社 新宿支店
    ハート株式(会社)新宿支(店)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17087 西五軒町6-19から南方面を望む

西五軒町6-12と東五軒町4-12

西と東五軒町(令和4年)
  1. SEVEN & i HOLDINGS 7i ATM 酒 たばこ(セブンイレブン 新宿東五軒町店)自転車 樹脂パレット 多数の掲示物やビラ
  2. 2階はマンション
  3. 電柱看板「H 八洋」
  4. 八洋 新宿営業所(容器入り飲料水製造業者)
  5. 横断歩道と標識 (横断歩道)
  6. カーブミラー
  7. トラック1台
  8. 八洋
  9. 遠くに相生坂
  1. 段差スロープ
  2. 歩行者用道路 牛込警察署 新宿区 道路
  3. (自転車及び歩行者専用)[自転車を除く] (指定方向外進行禁止)[自転車を除く 一方通行 (一方通行入口)]
  4. 駐車場
  5. 電柱看板「イシカワデンタルクリニック 一般〇〇 手前〇〇 西五軒町6−1」
  6. コイン P 時間貸 P  2,600 1,300 400
  7. マンション
  8. 横断歩道(横)
  9. 横断歩道(縦)T字路

西五軒町(写真)神田川 昭和33年 ID 8430-32

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8430-32は、昭和33年に西五軒町の北側から目白通り、神田川などを撮影しました。資料名は「西五軒町(目白通り、江戸川)」です。なお、江戸川は神田川の上流の古い名で、昭和40年以降は神田川と呼ぶようになりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8430 西五軒町(目白通り、江戸川)

 ID 8430は、神田川にかかる橋の上から下流方向(東向き)を撮影しています。撮影場所は西五軒町の西江戸川橋で、左正面が小桜橋。その先の川面に影を落としているのが中ノ橋でしょう。川が突き当たるような形で建物が見えていますが、ここは川が大きく右に曲がっている「大曲」です。

S38 大曲付近(地理院地図に加筆)

神田川の橋

 この建物の手前に、後に新白鳥橋ができますが、まだありません。できるのは1971年(昭和46年)です。「今昔マップ」では1975年以上に登場します。
 目白通りの中央には都電の軌道があります。首都高速道路は建設されていません。通り沿いの建物は低層が主体です。
 神田川の護岸は、手すりが埋もれるような形でコンクリートでかさ上げされています。大雨のたびに、この地域が洪水に悩まされていたことを物語ります。
 地図や空中写真と照合すると、左側で見切れている建物が凸版印刷の工場、右側の端が同潤会江戸川アパートです。江戸川アパートの前の通り沿いの低いビルは日本交通大曲営業所で、横看板も無理に読めば読めそうです。その奥のビルは、日本専売公社ではないでしょうか。

ID 8430 西五軒町(一部を拡大)

 川沿いの歩道に電柱看板「う」がありますが、「うなぎ」でしょう。橋を渡った文京区側には戦前から続く「はし本」があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8431 西五軒町(目白通り、江戸川)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8432 西五軒町(目白通り、江戸川)

 ID 8430-32は、同じ西江戸川橋から上流方向(西向き)を撮影しています。護岸は両岸ともかさ上げしています。右正面は石切橋です。
 西江戸川橋は石切橋とは違って鋼板をそのまま壁高欄かべこうらん(特に丈夫な欄干らんかん)に使っています。
 右側には電柱看板「質 新客歓迎 小森」「質 長島」「ナショナル」などが付いた電柱が沢山見えます。左側の電柱看板は「活字母型製造」「」(駐車禁止。これは昭和20年代に見られた英文と和文を混合した標識)です。ID 8432では路面電車が走行中。左側には店舗が並び、「文化印刷◯」、三軒あけて「カタログ社」、また数軒あけて三菱のロゴマークがあります。
 30年代の自動車がいかにも昔々しています。当時、昭和35年のサラリーマンの平均月収は約4.2万円でしたが、一方、昭和33年「スバル360」は42.5万円でした。

人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年

五軒町(写真)平成31年 ID 14059-62

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14059から14062までとID 14196は、平成31年(2019)東五軒町と西五軒町から、相生坂の方面の写真を撮ったものです。道路の右側は西五軒町、左側は東五軒町です。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14059 西五軒町 西五軒町6-12から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14060 西五軒町 西五軒町6-19から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14196 西五軒町 西五軒町6-19から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14061 西五軒町 真清浄寺から相生坂を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14062西五軒町 東五軒町から西五軒町を望む

 5枚の写真をID 14059は➀、ID 14060とID 14196は②、ID 14061は③、ID 14062は➃として地図に撮影した場所を書き込むと、以下のようになります。➃の道路の右側は「ラ・トゥール神楽坂」という地上24階、地下2階建の賃貸マンションです。

 新宿区は、何を目的にこの場所を撮影したのでしょうか。
 この界隈は印刷製本の町でした。昭和39年(1964年)の東京オリンピックや、昭和44年(1969年)の首都高速5号池袋線の共用開始の頃から、小さな印刷工場が店じまいしてマンションを建てる動きが目立ち始めました。芳賀善次郎著『新宿の散歩道』(三交社、1972)では……

印刷製本工業地帯          (神田川ぞい)
 新小川町から神田川にそった両岸一帯は、上流の戸塚まで、印刷製本の盛んな地域である。東京における四大印刷工業地帯の一で、文京区の小石川低地一帯、神田神保町一帯、中央区京橋裏通り一帯とともに有名である。
 これは、神田の本屋街に近いためであるが、牛込にも代表的な印刷、出版会社がある。これと関連して見のがすことのできないものに、その印刷した紙をたたむ仕事や内職をする「折り子」が多かったことである。しかし、製本の機械化がしだいに進み、さらに昭和四十四年神田川にそった道路上に高速道路ができると、道路拡張が行なわれ、会社が高層ビル化するとともに近代化が促進されて手工業の姿は姿を消した。
 地理学者田中啓爾は、つぎのよういっている。「小石川地区や牛込地区の印刷工場の周囲は、谷間も完全に住宅地や商店街となってしまっている。それでもこの印刷工場は、住宅地や商店街と両立しないことはない。
 この印刷工場のようなものは、周囲にめいわくをかけない文化工業であるからである。こんな文化工業は、山の手方面にいつまでも残ることができる。」
 〔参考〕東京都新誌

 現在では、すっかり住宅街に変わっています。歴史上の価値がある何かが写っているのか、定点観測か、それとも単に「相生坂」を撮影したのか、目的がよくわかりません。
 なお、新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)は、相生坂は一つだけと読めそうです。

 白銀町から東五軒町と西五軒町の間を下る坂を俗に相生坂あいおいざかという。また別名鼓坂つづみざかともいう。赤城元町の赤城神社西側の赤城坂と相対しているので、相生坂と一対にして鼓の両側になるという意味で鼓坂と名付けたという(町名誌)

 つまり、西五軒町と東五軒町の間だけを相生坂だとしているようです。ただ東側に並行するもう一本の坂も相生坂と呼ばれており、教育委員会による標柱は二つあります。

相生坂と白銀坂|東五軒町と白銀町

文学と神楽坂

 (あい)(おい)(ざか)、別名は(つづみ)(ざか)は、白銀町から東五軒町と西五軒町へ下る坂で、2つあります。

相生坂

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では、

相生坂(あいおいざか) 別名をつづみ坂という。白銀町から東五軒と西五軒町の間へ下る坂路で、「続江戸砂子」は「相生坂 小日向馬場のうへ五軒町の坂なり、二坂並びたるゆへの名なり。」とし、「新編江戸志」は「鼓坂、筑戸の方より小日向へ下る坂なり。二つありてつづみの如し。」としているが、「新撰東京名所図会」は「同町(西五軒町)の南と東五軒町の間を北へ下る坂あり、相生坂といふ。小日向の新坂と相対するが故なり。」とし、また「東京府志料」も「坂名は小日向の新坂と南北相対せるを以てかく唱ふといふ。」と記している。
 地理的にみればこの坂は江戸川をはさんで新坂の西方荒木坂に相対している坂で、新坂では位置がややずれている。したがって「続江戸砂子」が「二坂並びたるゆへの名なり」といっているのは、むしろ赤城神社をはさんで、その西わきを北に下る赤城坂を対称としていったものかとも思える。後考をまつ。
続江戸砂子 続江戸砂子温故名跡志名所古蹟拾遺では「相生坂 小日向馬場のうへ、五軒町の坂也。二坂並びたるゆへの名也と云」
新編江戸志 「築戸の方ゟ小日向へ下る坂也 二ツありてつづみのとく」
新撰東京名所図会 「同町の南と東五軒町の間を北へ下る坂あり、相生坂といふ、小日向の新坂と相對するが故なり。」
東京府志料 「坂隆 相生坂 町ノ南従前市廛ノ前東五軒町トノ間ヲ北へ下る 坂名ハ小日向ノ新坂ト南北相對セルヲ以テ斯唄フト云 長二間 幅四間」

 では横関英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)ではどうなっているのでしょうか。

 江戸時代から現代までの(あい)(おい)(ざか)を並へてみると、おおよそ、次の三つに分類することができる。
  A 坂路が途中でY字型に分れているもの
  B ニつの坂が平行しているもの
  C こつの坂が離れて合っているもの
 東京都内の相生坂は、今日ほとんど昔の形を残いていないほどに道路をいじっているものもあるので、多少苦しい形になってはいるか、それでも現代の坂路から、相生坂と呼ばれた当時の形を想像することはできる。(中略)
 同じ根もとからはえた松を相生の松というのであれば、相生坂もY字型のほうが原義に合うように思われる。『百草露』には、「播磨の国に高砂の松とてあるは、根はひとつにて、上はふたつにわかれて雌雄の双生也」とあって、これを相生の松と呼んでいる。これなら相生の松として申し分はない。それから日光の「相生の滝」であるが、これも二つの滝が並んで落ちて、一つの流れに落ち合って、末は一本の川となって厦れて行くかたちのもので、明らかにY字型に属している。これも理想的に相生である、ニつの平行した坂路や大小二つの坂のくっついたもの、向き合っている坂などに、相生坂という名称をつけたことのほうが、むしろ、おかしいくらいのものである。

 標柱は

坂の由来について、2つの坂道が並んでいるから(『続江戸砂子』)、小日向の新坂と向かいあっているから(『御府内備考』)、などの説がある。

 昔の標柱は

「続江戸砂子」によると、「相生坂、小日向馬場のうえ五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。また「新撰江戸誌」では鼓坂とみえ「二つありてつづみのごとし」とある。

 東側の相生坂は

相生坂 東

 西側の相生坂は

相生坂 西

 もうひとつ、白銀坂という坂があります。

白銀坂

「神楽坂附近の地名」では、白銀坂は相生坂から南の場所(赤)にあることになっています(左図)。しかし、この場所は坂ではなく、平地です(右図)。
 もうひとつは、赤色の相生坂は右側の相生坂そのものだという見解です。たとえば、岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、1981年)では……

 平行して並ぶもう一本の坂は、前述の白銀町の西北隅を北に下る坂(市販の地図は、これを白銀しろがね坂としている)の坂上を東に寄ったところにある。国鉄アパートの西側を、北に下る、急坂である。この坂の坂上にも標柱が建ててあり、これにも同じく、小日向の新坂に向かい合う相生坂だと記してある。

 なお、国鉄アパートは現在はマンションになりました。
 さらに小林信彦氏の『新版私説東京繁昌記』(筑摩書房、1992年)では

 大久保通りを横切って、白銀しろがね公園まえを抜け、白銀坂にかかる。神楽坂歩きをとっくに逸脱しているのだが、荒木氏も私も、〈原東京〉の匂いのする方向に暴走する癖があるから仕方がない。路地、日蔭、妖しい看板、時代錯誤な人々、うねるような狭い道、谷間のある方へ身体が動いてしまうのである。

 どうも、この白銀坂は他と少し違っているようです。