逢坂」タグアーカイブ

逢坂下-新見附(写真)第3系統 都電 昭和42年など

文学と神楽坂

 新宿区の外堀通りに逢坂などが交差する付近を撮影した写真が3枚あります。でも、[1]のように、写真は「牛込見附」だと名前をつけると、とんでもない!と叱られそうです。
 戦前には「逢坂下停留所」という路面電車の停留所がありました。その廃止はおそらく昭和15年で、戦後、再開はありませんでした。しかし、もし「逢坂下停留所」が今もあれば、[2][3]の地点がまさにそうですし、[1]は「新見附停留所に近い場所」でしょうか。

[1]東京都電アーカイブ③

 写真[1]にはバスの「新見附」停も見えます。新見附橋のわずか先にあったようです。なお、写真の位置は逢坂下よりも新見附に近い場所です。

3か所の停留所

3か所の停留所。法政大学エコ地域デザイン研究所『外濠-江戸東京の水回廊』(鹿島出版会、2012年)から

 右手にある楕円のマークは「ピノキオ」(子供服の店舗)。(写真と地図はページの最下部で。写真は「ピ」で、地図は「子供服/ピノキオ」)

[2]東京都交通局「わが街わが都電」

東京都交通局「わが街わが都電」平成3年 撮影日時は不明

[3]都電15番の鉄道趣味

1967年7月某日
東京都新宿区東端の牛込濠脇、東京日仏学院付近
2017品川行(飯田橋行だけどもうすぐ折返しという事で)よく見るとお客がいないらしく車掌さんが運転台に来てる。
都電3系統は品川から都心を泉岳寺、三田、神谷町、虎ノ門、溜池と抜けて赤坂見附から市ヶ谷見附、飯田橋へと走っていました。一等地を走っているようですが赤坂から飯田橋はなにやらローカルな雰囲気で運転数もとても少なかった。飯田橋停留所も他路線につながってない尻切れとんぼ。僕も乗ったことないし。
撮影した年の12月10日に静かに廃止になりました。

 写真左側は牛込濠と新見附橋、左寄りに防護柵と架線柱、電柱広告「大日本印刷」、歩道。中央には外堀通りと路面電車、その路線。写真[1]~[3]は全て「飯田橋」行き(下り)の路線です。[3]の路面電車に「品川駅」と「2017」と書いてありますが、一足早く方向板だけが「品川駅」に変わったもの。
 写真[2]と[3]の右側から左側に(参考にはID 13108を)……

  1. 逢坂があり、写真[2]に運転中の自動車。町は「市谷船河原町」
  2. 色◯ ◯◯ 写真◯◯◯◯ 尾形伊之助商店
  3. (教育図書)
  4. (軽自動車工業)
  5. 渋谷ガラス「日本ペイント」
  6. (神田印刷)
  7. (2)~(3)で、新見附橋の反対側にある高いビル。昭和51年「サンエール」などが入っていた

【参考】東京都電アーカイブ③

住宅地図。1976年

逢坂(写真)市谷船河原町 昭和41年 ID 14112

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14112は、市谷船河原町の逢坂おうさかを西向きに撮影しました。なお撮影時期は「昭和41年頃か?」となっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14112 市谷船河原町 逢坂

 逢坂には円形のくぼみが沢山見えますが、これはオーリングといって、自動車等の滑り止めです。
 男性2人が逢坂を下り、男性3人と女性1人が立ち止まって話を交わし、男性1人が上っていきます。1人だけは長袖シャツとベスト、残りの男性は全て背広。木々は茂っていて、夏前か秋口でしょう。

逢坂(昭和41年頃)
  1. 民家
  2. 電柱。ポスター ?(学園祭のイベント?)
  1. 竹柵と竹垣(築土神社)
  2. 石垣と日仏会館の入口
  3. 民家。段差スロープ。石垣

牛込濠(写真)昭和45年 ID13108-15

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 13108-15は、昭和45年(1970)3月、牛込堀をはさんだ千代田区側から市谷船河原町神楽坂1丁目を撮ったものです。ID 486(昭和56年頃)よりやや右側、外濠公園あたりにカメラがありました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13108 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13109 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13110 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13111 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13112 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13113外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13114外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13115 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

 この8枚はほとんど同じ写真です。ここでは、ID 13108を詳しく見ていきます。

外堀通り・解説

 写真右側に東京理科大学の校舎群が見えます。一番高い②の7号館は、雑誌「ミスターダンディー」(1974年)の写真で数えると9階建てです。この建物は改修を経て現存しますが、手前➃の1号館(ID 12201の「理大薬学部」)と反対側が両方とも高層の校舎になり、目立たなくなってしまいました。
 この場所は牛込台地に上がる急斜面で、いくつもの坂があります。坂の上の建物も見えていますが、よく分かりません。ひとつだけ推測すれば➆は神楽坂上の菱屋ビルの可能性が高いでしょう。
 外堀通りの都電牛込線(外濠線)は昭和42年(1967)年に廃止、都バスが走っています。「美濃部カラー」と呼ばれた青白塗装でした。

美濃部カラー 昭和43年6月に美濃部知事(当時)の提唱でバスの塗装を改めることになり「クリーム色と青帯の通称『美濃部カラー』は昭和43年のR代とともに現れ、以来12年間一般車の標準色として親しまれてきた。それが、昭和55年8月に車体を入れ替えたミニバス13輌に対して黄色に赤帯の車輌が試験的に導入され、昭和56年3月導入のH代一般車から全面的に採用された(鈴木カラー騒動)」としています。

http://toeibus.com/wp-content/uploads/2017/01/da658f58c676c090be7454023a3ba4ef.jpg

  1. 双葉ビル(双葉社)か?
  2. 東京理科大学7号館
  3. 東京理科大学3号館
  4. 東京理科大学1号館
    ーーーー若宮公園に上がる坂
  5. 研究社旧館
  6. 研究社新館
  7. 菱屋ビルか?
  8. 三幸工業
  9. 三幸工業
    ーーーー庾嶺坂。ここから船河原町
  10. 塩原ホテル 寿苑 東京
  11. 家の光会館
  12. スナックベルなど
  13. 個人宅
    ーーーーここは逢坂
  14. 丸谷石油(ガソリンスタンド)
  15. 尾形伊之助商店
  16. 日仏学院
  17. 教育図書
  18. 軽自動車工業
  19. 渋谷ガラス「日本ペイント」
  20. 神田印刷
  21. 東京理科大学体育館

住宅地図。1973年

逢坂(写真)市谷船河原町 昭和50~51年 ID 9921

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9921は昭和50~51年頃、市谷船河原町の逢坂おうさかを坂下の東向きに撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9921 市谷船河原町 逢坂

 遠くに千代田区のビル群や日本国有鉄道の中央・総武線があります。
 逢坂には円形のくぼみが沢山見えますが、これはオーリングといって、自動車等の滑り止めです。
 女性が10人ほど坂を登ってきます。全員が若く見えて長袖で、コートやセーターを着ています。中央線の奥の土手のサクラが落葉していないので、季節は秋でしょう。全員日仏学院に行く場合もありますが、左端の女性が左手に靴を持っているので、理科大の柔道館に行く場合も考えられます。

逢坂(昭和50-51年頃)
  1. 丸石自転車。看板(自転車に乗っている人)
  2. 柵。その左の築土神社は見えない
  3. 日仏学院の石垣
  4. 民家と段差スロープ
  1. (右・指定方向外進行禁)。自転車を除く/一方通行路。 (始まり)
  2. 垣根と民家

昭和51年 住宅地図

牛込濠(写真)俯瞰 昭和36年

文学と神楽坂

 石田竜次郎・和歌森太郎共書「県別・写真・観光日本案内 東京都」(修道社、昭和36年)に下の写真が載っています。


飯田橋近くの外濠のあたり  このあたりは濠を境に千代田区と新宿区が高台をなして相対している。写真は千代田区側の外濠公園から新宿区の対岸をみたところで、このへんには理科大学、日仏学院、研究社、家の光などの立派な建物が丘の中腹に集中していて、お濠をふくめての眺望はなかなかに趣きがある。

 下から中央線・総武線の線路、牛込濠と貸ボート、外堀通りが見えます。さらに写真を左右の2つに分け、それぞれの建物の名前を見ていきます。最初は左側です。

 参考は日本分県地図地名総覧(昭和35年、下図)、全住宅案内地図帳(昭和43年、2番目の図)、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス整理番号 MKT636、昭和38年)、昭和45年のID 13108と昭和56年頃のID 486です。

人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)

全住宅案内地図帳 昭和43年

  1. 日仏学院
  2. 渋谷ガラス(ペイント)
  3. 東宝自動車修理場
  4. 森会計学院
  5. 尾形(昭和45年では尾形伊之助商店)
  6. 旅館 保志乃
  7. 逢坂。⭕️は出動中の自動車
  8. 笹尾
  9. 川崎釣具店
  10. 家の光会館(JAグループの出版文化団体)

国土地理院。地図・空中写真閲覧サービス。整理番号 MKT636 コース番号 C7 写真番号 18 撮影年月日 1963/06/26(昭38)

人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)

  1. 家の光会館
  2. 家の光協会(3の前に庾嶺坂
  3. 三幸工業
  4. 三幸工業
  5. 神楽坂印刷工場(研究社
  6. 神楽坂印刷工場(研究社
  7. 東京理科大学
  8. 東京理科大学

逢坂入口(写真)市谷船河原町 昭和41年頃 ID 7809-7811

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7809-7811は市谷船河原町の逢坂の坂下付近を撮影したものです。新宿歴史博物館の写真説明は「逢坂入口 昭和41年頃か?」としています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7809 市谷船河原町 逢坂入口付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7810 市谷船河原町 逢坂入口付近

 ID 7809-10では、男女10数人が坂の途中で何かを見ています。男性は背広、女性は着物が多く、子供はいません。手にした資料のようなものに目を落とす人もいます。

逢坂(昭和39年と43年)

 右側から……

  1. 外堀通り
  2. 民家と(一時停止)
  3. 自転車の図。自転車店 水谷の自転車、協◯輪車 古川自転車店 TEL 千代田火災 SS
  4. ナショナル ポンプ 上下水道衛生工事◯◯ アルプスポンプ
  5. 古い家
  6. 左端にも家

参考 昭和51年 住宅地図。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7811 市谷船河原町 逢坂入口付近

 ID 7811は一転して無人で、普通の民家(現、階段と堀兼の井)と坂の脇のコンクリート敷きの部分が写っています。何を撮影したのか分かりません。左側には日仏学院があるようです。
 この家には船河原町々会のポスターがあります。「くらしに生かそう/カギとベル」「くらしに生かそう カギとベル」「カギ◯/あなたの◯」

現在の地図

CKT7415 コース番号C27B 写真番号10 撮影年月日 1975/01/19(昭50)

 この場所には、筑土神社(千代田区九段北)の摂社である船河原町築土神社と「堀兼の井」がありますが、神社はうつっておらず、ID 7811でも堀兼の井は確認できません。
 筑土神社の社伝では「この井戸は、昭和40年代の地下鉄工事の折に一時枯渇したものの、平成21年には、当時とほぼ同じ位置に再整備されている」とあります。
 これから全くの想像ですが、堀兼の井が枯れ、埋もれてしまったことを文化財関係者や氏子らが調べ、今後の対策を協議している様子でしょうか。または、一人は史跡やその歴史を解説し、残りの全員が話を聞いている場合もあります。全員が都や国の歴史関係の委員である可能性もあり、さらに以上と違って、全く別の可能性もあります。ただし、新修新宿区史編集委員会「新修 新宿区史」(新宿区、昭和42年)では昭和41年以前に委員が築土神社か堀兼の井、その周辺を解説したという話はありませんでした。

ご維新前後の牛込

文学と神楽坂

新宿郷土研究第2号

 新宿郷土研究第2号に「ご維新前後の牛込」(新宿郷土会、昭和40年)がでています。なお、筆者は「KI生」だと書かれていますが、この本では編集者の「一瀬幸三」以外には名前は書いていません。「KI生」と一瀬幸三氏、似ています。一瀬氏は東大農学部の獣医で、満洲の動物園や雪印乳業で働き、退職後は郷土史家でした。
 江戸から明治に変化し、武士の俸禄はなくなり、そこで慣れない商売に飛び込み、また武家屋敷を茶畑や桑畑に変えた人も少なからずいました。

 士族の商法
 無血革命によって、慶応4年(1868)は明治元年と改たまり江戸は東京というようになった。
 その頃は、
 上からは明治だなどと、いうけれど、治明(おさまるめい)と、下から読む。
 上方のぜい六どもがやってきて、とんきよう(東京)などと、江戸をなしたり。

などの落首が流行した。
 徳川旗下の数万人は無祿となり地所は上地され、ちょうど終戦後の軍人と同じような境遇となった。そこで新政府へ抱えられるか、駿州(静岡)へ移住しなければならなくなった。しかし、多くは3000石以下の者でそのまま残って帰農、帰商するものが多かった。
 牛込辺も祿高の多い旗本屋敷や大名の下屋敷が多かったので、にわか商人が誕生した。それを当時『士族商人の見立番付』の3枚物が出版された。それによると、牛込辺では、
〇牛込大坂(逢坂)あまさけ大安売り
〇市谷大坂(逢坂)ろうそく
根来組八百屋の大安売り
〇牛込つくど(築土舟ばやしのつけもの
牛込御門もろみおろし
〇牛込わら店の茶店
市谷本村水油売り
 とくに評判だったのは市谷柳町通りの加賀屋敷の久貝因幡守の屋敷で豆腐屋を始めたことであった。何しろ1500石取りの豆腐屋というので、お客が恐縮して受取るということだった。
『評判武家地商人』に、
  市谷柳町
        名代とうふ
  元祖久貝亭
 と、いうは名ぶつ、風味極上、其外かんぶつ、つけ物、あら物、品は上々安うりあきない。遠近こぞってしらぬものなく、こん度元祖の大商人。
 しかし、いわゆる士族の商法として長くつづかなかったようである。

ぜい六 ぜいろく。ろくでもない奴。江戸時代、江戸の者が関西の人を嘲(あざけ)って言った呼び方。
とんきょう 頓狂。だしぬけで調子はずれなこと。あわてて間が抜けていること。
落首 らくしゅ。時局の風刺や権力者を批判、嘲笑した匿名の文章や詩歌のうち、とくに詩歌形式のものを落首という。
無祿 祿がないこと。知行・給与のないこと。
上地 領主が配下の者から没収した土地。
舟ばやし わかりません。はやし(噺)は能・狂言・歌舞伎・長唄・寄席演芸など各種の芸能で、拍子をとり、または気分を出すために奏する音楽。
もろみ 酒や醤油、味噌などの醸造工程において複数の原料が発酵してできる柔らかい固形物。
おろし 大根・わさびなどを擦り崩したもの。
水油 みずあぶら。液状の油の総称。頭髪用の椿油や灯火用の菜種油など。灯油の異称。
かんぶつ 乾物。魚、肉、海藻、野菜などを日光や熱風などで乾かし、水分を少なくした比較的保存性のある食品
あら物 荒物。ほうき・ちり取り・ざるなど、簡単なつくりの家庭用品。

□茶畑と桑畑
 牛込は屋敷を取りこわして、茶畑にしたところは意外と少くなかった。もっとも朱引内外といって、東は本所扇橋川筋を限り南は品川県境より北は小石川伝通院、池ノ端、浅草、橋場を限りこの範囲なら士族の住居を認めたことにもよるものであろう。
 それ以外に武家屋敷では新政府へ明け渡したり、取りこわされたりしたもので、勝手に処分はできなかった、当時の俚謡に、
 お江戸見たけりゃ今見ておきやれ
    今にお江戸は原となる
と、いうのがあった。
 明治2年(1869) 武家屋敷をうち捨てておくのは不経済であるというところから「桑茶を植えるべし」と、東京府知事の発令があった。
    今般東京府下民産別立之為諸邸宅上地之分御郭内外市在共総て桑田茶園開墾被仰付云々
 この当時の地価は牛込神楽坂でも千坪十円から25円位が通り相場であった。しかし、外囲いの費用がかかるので、誰れも引受け手がなかったということである。
 牛込で土蔵3ヵ所、表長屋1棟、表裏門共に16両で売り払ったという有名な話もある。
 土地はまもなく払い下げられたが、桑茶畑にならないところは便所と屋敷神としての稲荷社のみが残ってうす気味わるく、さびしいものであった。
 その頃の俚謡に、
      花のお江戸へ桑茶を植えて
         くわでいろとは人は茶に
と、いうのがあった。
(KI生)

朱引 しゅびき。江戸時代、江戸の府内と府外を地図に朱を引いて分けたもの。府内と府外の境界線。
俚謡 りよう。日本の民謡の古称の一つ。俚はいやしい、ひなびたなどの意味
桑田 桑を植えた畑。くわばたけ。
外囲い そとがこい。建造物や敷地などの周囲を囲うもの。塀・さくなど。
くわでいろとは人は茶に わかりません。

東京のプチ・バリ|ドラ・トーザン

文学と神楽坂

 ドラ・トーザン氏が書いた『東京のプチ・バリですてきな街暮らし』(青萠堂、2009年)の一節です。この本は感じたことを気持ちを込めて書いた随筆と、友達や店舗とのインタビューが主。残念ながら情報は少ないけれど、情緒は一杯あると思います。

  なぜ神楽坂プチ・パリなのか?
      坂・石畳、路地、運河……の魅力

パリを思わせるミステリアスな坂

 神楽坂はとてもパリに似ています。なんといっても共通点は坂。特にパリのムフタール通りモンマルトルは坂の多いところですが、神楽坂はその名の通り、坂の種類には事欠きません。朝日坂袖摺坂軽子坂地蔵坂赤城坂と、主な坂だけでもこんなにあります。私は熱海湯のところから鳥茶屋別亭を横に見て上がっていくフランス坂と呼んでいます。まさにフランス坂と私が命名したようにとてもパリの雰囲気をもっています。
 神楽坂には、他に三年坂逢坂弁天坂、なども、それぞれ表情の違う坂が面白い。

かくれんぼのような細い路地

 そして細い路地のある点。私のパリでの住まい、ムフタール通りと同じで、坂が多く小さな商店街の通りがあって、街のサイズがコンパクトなところです。神楽坂の大好きな三大横丁といえば、毘沙門の向かいから旅館和可菜へ抜ける兵庫横丁本多横丁からさらに入ったかくれんぼ横丁、そして、同じく肉まんで有名な五十番の脇から、本多横丁を右に曲がった芸者新道も、なかなか風情があります。少しアヴァンギャルドみちくさ横丁もいいですね。

迷宮入り(⁉)の石段

 神楽坂の曲がりくねった石段も面白い。
 兵庫横丁の石段の道は途中にもっと細い横道もあって迷子になりそうです。また私の大好きなフランス坂は、小栗通りの熱海湯のところから、S字型に昇っていく石段です。
 まるでモンマルトルのよう。曲がりくねった石段はミステリアス。石段の次に何かあるかわからない楽しみがあります。
 遠くまで見えないから突然未知のものがあらわれる。それが面白い。パリと同じで、新しい発見をする楽しみ。パリもそうだけど一つ場所を決めてスポットを発見するのも、散歩・プロムナードの楽しみです。


運河 日本ではお濠(お堀)
ムフタール通り Rue Mouffetard。パリ5区でレストラン、カフェ、市場などがあり、下町的に混雑して繁栄する地域
モンマルトル この丘を含む一帯の名前。セーヌ川右岸のパリ18区を構成。パリ有数の観光名所。鳥茶屋別亭 フランス坂(熱海湯階段、芸者小路)の中にあります。『拝啓、父上様』1話で、一平が働く料亭「坂下」の勝手口は実はこの鳥茶屋別亭の玄関でした。
フランス坂 ほかに「熱海湯階段」、「熱海坂」、「一番湯の路地」、「芸者小路」、「カラン坂」等という言い方があります。
アバンギャルド avant-garde。フランス語で、軍隊用語の「前衛」から。革新的、前衛的な芸術や芸術家たち。前衛派とも。
プロムナード promenade。散策。散歩道。遊歩道

ほかの坂

文学と神楽坂

神楽坂上の地図神楽坂周辺の地図

拝啓、父上様

文学と神楽坂

「拝啓、父上様」はウィキペディアによれば、2007年1月11日から3月22日までフジテレビ系列で毎週木曜22:00~22:54に放送されていたテレビドラマです。東京、神楽坂の老舗料亭「坂下」を舞台に、料亭に関わる人々と出来事を描きました。


 2000年頃になると神楽坂に来る人は数倍に増えましたが、「拝啓、父上様」が放送されるとすぐにまたまた増えたといいます。
 以前は「拝啓、父上様」は英語や韓国語の字幕付きで全巻YouTubeで簡単に出てきました。

拝啓、父上様



逢坂|市谷船河原町(360°)

文学と神楽坂

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

逢坂(おうさか) 大坂ともかき、美男坂とも称した。新坂(痩嶺坂)南を市谷船河原町から西方に上る急坂で坂側に日仏学院がある。「新撰東京名所図会」は「市谷船河原町の濠端より西北へ払方町と若宮町の間に上る坂あり、逢坂といふ。即ち痩嶺坂の西の坂なり。」と記す。
 場所はここ。明治20年でも逢坂(おうさか)がでてきます。その周辺をみてみましょう。坂上から坂下に見ていきます。
 最初は最高裁判所長官公邸です。約1200坪の敷地に、約980平方メートル(約300坪)の木造2階建て。
 1928年(昭和3年)に馬場家の牛込邸として建築し、第2次世界大戦でも焼けなかった家ですが、財産税で物納され、1947年(昭和22年)から最高裁判所長官公邸として使用していました。
 伝統的な数寄屋造りや書院造り、庭園も広く、年に数回、海外の司法関係者らをもてなす場でした。
 近年は老朽化で雨漏りや漏電が頻発し、耐震診断でも「大規模地震が起きれば倒壊の可能性が高い」といわれ、現在、人間は住んでいません。
最高裁判所長官長官
 空中写真は長官邸 この建築物は26年5月16日に、重要文化財に指定されました。
①都心に残された希少な大規模和風建築(近代/住居)
 旧馬場家牛込邸 1棟
  土地
      東京都新宿区
        国(最高裁判所)
 旧馬場家牛込邸は,富山で海運業を営んだ馬場家の東京における拠点として、昭和3年に牛込台地の高台に建てられた。昭和22年以降は最高裁判所長官公邸となっている。
 設計は逓信省営繕技師であった吉田鉄郎(てつろう)である。南の庭園に面して和洋の客間や居間などを雁行形(がんこうがた)に連ね、和洋の意匠や空間の機能を巧妙な組合せと合理的な平面構成でまとめており、入母屋屋根や下屋庇を駆使した外観も絶妙に庭園と調和している。旧馬場家牛込邸は、東京に残された希少な大規模和風建築である。洗練された比例や精緻な造形,装飾的な細部を押さえつつ上質の良材を効果的に演出した設計手法など,昭和初期を代表する和風建築として高い価値を有している。
 さて、道は十字路になります。ここで道路を右に曲がって進むと、超豪華な和風住宅が現れます。「朝霞荘」です。地下1階、地上2階、塔屋1階、建築家は黒川紀章。昭和62年(1987)12月に竣工しました。中庭は桂離宮の紅葉山からの引用で、(くすのき)の大木は保存しています。駐車場の床は障子の組子、花、鳥、風、月の各パターンを御影石にて表現し、外壁はベンガラ色。現在は損害保険ジャパンが所有する厚生施設です。
 ベンガラ色は土から取れる成分(酸化鉄、三酸化二鉄Fe2O3)で紅殻、弁柄とも書き、インド・ベンガル地方から来ています。無害なので天然素材として使っても平気です。朝霞荘

 さてここは砂土原町三丁目22番地ですが、ここに明治37年11月から翌年3月まで石川啄木が下宿しています。彼の書簡では

11月28日牛込より 金田一京助宛
本日左記へ転ず
牛込区砂土原町三丁目廿一番地 井田芳太郎方 石川啄木
堀合兄御同道にて近日中に御来遊如何。
金田一花明様
 翌日は
廿一番地は廿二、の誤なり、兄がたづねたる埼玉学生誘掖会の隣り、大名屋敷の様な大きい門のある家は乃ち我今の宿也。一字の誤りにて大に兄を労せしめたる、罪万死に当る、多謝。明二日、日没頃より在宅。
 さて元の道路に戻って、真ん中の急坂は逢坂(おうさか)です。永井荷風の『日和下駄』の中で、
もしそれ明月皎々こうこうたる夜、牛込神楽坂うしごめかぐらざか浄瑠璃坂じょうるりざか左内坂さないざかまた逢坂おうさかなぞのほとりにたたずんで御濠おほりの土手のつづく限り老松の婆娑ばさたる影静なる水に映ずるさまを眺めなば、誰しも東京中にかくの如き絶景あるかと驚かざるを得まい
と絶賛しています。

 実は理科大学も階段を持っているので、安全を考えると、ここは階段を使おうとなりますが、まあ、ここは急坂を使って下に行きましょう。ちなみに階段はここ↓です。

逢坂 階段

渋沢篤二 著「瞬間の累積」(渋沢敬三、1963)明治41年の写真

 道路の側に標柱があります。逢坂の標柱

 上から見ると

逢坂(おうさか)
 下から
昔、小野美佐吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で、再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。
 奈良時代の昔、都から小野(おのの)美作吾(みさご)という人が武蔵国の国司として赴任しました。そこで、美しいさねかずらという名の娘と出合い、二人は相愛の仲に。美作吾に帰還の命令が出て、やむなく都に帰って、死亡しています。さねかずらは美作吾の霊とこの逢坂の上で再会しましたが、生き甲斐を失い、坂下の池に身を投げて死んだといいます。

 昭和44年『新宿と伝説』で新宿区教育委員会は

 「江戸名所図会」にも書いているが、好事家のつくった話である。「後撰」の中に、三条右大臣が
  名にし負はば逢坂山のさねかづら
   人に知られで来るよしもがな
とうたっている。この歌の「逢坂」と「さねかづら」をとって悲恋ものに創作したものだろうといわれている。

 大坂といわれていた坂を逢坂と書くようになり、またモクレン科の常緑蔓性低木、サネカズラはビナンカズラともいうので、この坂を美男坂と呼ぶ別称もあります。

さねかずら

 若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』では「逢坂は六坂とも書き、美男坂ともいいました。奈良時代の「小野美佐吾」と「さねかづら」との悲恋物語から名が付きました」と書いています。

 切絵図をみると、逢坂の坂上から北側に、楕円形の湾曲した道筋があり、「ナベツルト云」の文字が書かれています。ナベツルは鍋鉉(なべつる)、あるいは鍋釣(なべつり)のことで、鍋に取り付けてある取っ手(正確な漢字を使えば、(つる))のことです。

鍋鉉

 道の場合は鍋やヤカンの取っ手のように湾曲する道ですが、この道は現在1部を除いてありません。

逢坂 地図 江戸時代

 さらに下に行くと、日仏学院を通り越します。日仏学院にも石畳があります。

 そして築土神社にやってきます。築土神社

文化財愛護シンボルマーク文化財愛護シンボルマーク
史   跡
掘兼(ほりかね)()
所在地  新宿区市谷船河原町九番地
 掘兼の井とは、「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。掘兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の掘兼の井には次のような伝説がある。
 昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという。
   平成三年十一月
東京都新宿区教育委員会

 昭和44年『新宿と伝説』で新宿区教育委員会は

「掘兼の井」とは、井戸を掘ろうとしても水が出ない井戸とか、水が出ても掘るのに苦労した井戸という意味である。中でも有名なのは、埼玉県狭山市入曽の「掘兼の井」である。有名な俊成卿の歌に
  むさしには掘かねの井もあるものを
    うれしく水にちかづきにけり
とある。「御府内備考」によると船河原町には、“その井戸はない”と書いてある。しかし逢坂下の井戸はそれだとも云い伝えられ、後世そこを掘り下げて井戸にした。それは昭和10年ころまでは写真のとおりであった。戦時中はポンプ井戸になり、昭和20年5月24日の空襲のあと、使用しなくなった。今は、わずかにポンプの鉄管の穴がガードレール下に残っている。
堀兼の井戸-new

 なお「堀ねの井」と「が」を使っていますが、船河原町築土神社によれば…

この地には江戸時代より「堀兼(ほりがね)の井」と呼ばれる井戸があり、幼い子どもを酷使して掘らせたと伝えられるが、昭和20年戦災で焼失し今はない。
 上は昭和初期の「堀兼(ほりかね)の井戸」(牛込区役所 『牛込区史』)、下は『風俗画報』です。堀兼の井 なお、平成21年、手前に「堀兼の井」(現代版)ができました。

掘兼の井

防災井戸 掘‵兼井戸

 区の説明は、神社前の説明板の通りであるが、その後井戸は掘られ、共同井戸として長い間使われてきた。
 地下鉄工事等の影響で一時枯れたが、平成21年に市谷船河原町町会により、防災井戸として現在の形に整備されている。(ちなみに、船河原町の町名は江戸期から続く名称で、この牛込・箪笥地域には多数現存している)
        (写真)

    明治39年(1906年の「逢坂」と「堀兼の井戸」
    レンガ塀のあたりに現在の神社がある。
㊟ 水をだすときは、周囲に多量に流れ出さないようお気をつけください。 この水は飲めません。
令和2年1月  新宿区市谷船河原町町会

 若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』では

逢坂の下(現・東京日仏学院の下)にある「堀兼の井」は、飲料水の乏しい武蔵野での名水として、平安の昔から歌集や紀行に詠まれていたようです。これは、山から出る清水をうけて井戸にした良い水なので遠くからも茶の水として汲みに来たという事です。
 また『紫の一本』には
堀兼の井 牛込逢坂の下の井をいふといへり。此水は山より出る清水を請けて井となす。よき水なるゆへ遠き方よりも茶の水にくむ。よごれたる衣を洗へばあかよく落て白くなるといふ。
 なお、『拝啓、父上様』の第5話で

脇道
  とびこんだ2人、走り出す。
  叉、角を曲がる。
坂道
  2人、坂道をかけ上がる。
日仏学院
  その構内にかけこむ2人。

 この坂道は逢坂で、ここですね。逢坂 下から
 また『拝啓、父上様』第一話が始まってから30秒ほど経ってからこれも逢坂が登場します。
逢坂 拝啓父上様

 なお、前にも言ったことですが、ここを左手に行くと、理科大学11号館の裏、5号館(化学系研究棟・体育館)の手前を通って上下をつなぐ階段があります。

逢坂 階段日仏学院 新坂 庾嶺坂


泉鏡花『神楽坂の唄』

文学と神楽坂

 泉鏡花は大正14(1925)年に「文藝春秋」で「神楽坂の唄」を書いています。すずと所帯を持った思い出深い神楽坂を唄ったものです。町名、坂の名、名所を織り込みながら大正時代の神楽坂情緒を唄いこんでいます。
 さらに昭和38(1963)年には杵屋勝東治師がこの唄に曲をつけ、花柳輔三朗師の振付で、神楽坂の曲として使っています。『ひと里』という曲で、ふだんは最初の2行と最後の5行の歌詞を抜粋して踊ります。
 春から冬まで季節が順次出てきます。意味が分かるように訳しましたが、わからないところがまだまだ沢山あります。変なところ、あればどうか教えて下さい。掛詞が出るところ、五七調、七五調もたくさんあるようです。

(ひと)(さと)は、神樂(かぐら)()けて岩戸町
(たま)も、(いらか)も、(あさ)(がすみ)
(やなぎ)(のき)()(うめ)(かど)
(もゝ)(さくら)()(なら)べ、
江戸川(えどがは)(ちか)(はる)(みづ)山吹(やまぶき)(さと)(とほ)からず。
(つく)()(まつ)(ふぢ)()けば、
ゆかり(きみ)(あふ)ぞぇ

 現代語訳を書いておきます。五七調などの名調子はなくなりました。

神楽を演奏していると、ここ一帯や岩戸町も夜は終わり、明るくなっている。
きれいな宝石も醜い甍も、朝霞にかすんでいる。
軒のはしには柳が見え、門では梅が見える。
春は桃や桜が並ぶ。神田川中流にも遠くない春に、水が流れる。山吹の里も近い。
筑土地域の松もいいし、藤の花は満開で、
つながりがあるあなたに仰ごう。

一里 約4km。この一里を見ると
神楽 かぐら。神をまつる舞楽。
明けて 神楽を演奏していると、神楽坂では夜も終わり、明るくなってくる。
岩戸町 いわとちょう。北部は神楽坂に接し、都営地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅の出入りがあります
 たま。丸い形の美しい石。宝石や真珠など
 いらか。屋根の頂上の部分。屋根に葺いた棟瓦。きれいなもの(玉)もそうでないもの(甍)も
朝霞 あさがすみ 。朝立つ霞。 季語は春。
軒端 のきば。軒のはし。軒口。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。東京都文京区水道・関口の江戸川橋の辺り。
山吹の里 室町時代の武将、太田道灌は突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ります。その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出しました。後でこの話を家臣にしたところ、後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、貧しく蓑(実の)ひとつも持ち合わせがないと教わりました。新宿区内には山吹町という地名があり、この伝説の地ではないかといいます。
築土 筑土(つくど)八幡町(はちまんちょう)は、東京都新宿区の町名。
 ふじ、東京で藤の見ごろは4月下旬から5月上旬にかけて。
ゆかり なんらかのかかわりあいや、つながりがある。因縁。血縁関係のある者。親族。縁者
 ここでは敬慕・親愛の情をこめていう語
仰ぐ 尊敬する。敬う
ぞえ 終助詞「ぞ」終助詞と「え」が付いてできる。仰ぐぞ→仰ぐぞえ→仰ぐぜ。注意を促したり念を押したりする。

牡丹(ぼたん)屋敷(やしき)(くれなゐ)は、(たもと)(つま)ほのめきて、 (こひ)には(こゝろ)あやめ(ぐさ)
ちまき(まゐ)らす(たま)ずさも、
いつそ人目(ひとめ)關口(せきぐち)なれど、
(みなぎ)ばかり(たき)津瀬(つせ)の、(おもひ)(たれ)(さまた)げむ。
蚊帳(かや)にも(かよ)へ、()(ほたる)
(しのぶ)()れよ、(あお)(すだれ)

牡丹屋敷にある牡丹の紅は、袂や裾の両端でもほのかに、香のにおいをしている。恋をするときは物事の道筋を見失うぐらいの恋をしてみたい。
5月、ちまきをあげている使者も、かえって他人の目を気にしているようだ。
あふれるばかりにいっぱいの滝のような急流のように、この思いを妨げる人はいない。
夏、飛ぶ螢は蚊帳の中まで入ってくる。
青竹を細く割って編んだ新しいすだれは、夏、軒下などにつるす忍玉(しのぶだま)と同じで、涼しさがある。
つりしのぶ

荵の忍玉

牡丹屋敷 八代将軍吉宗の時代、岡本彦右衛門も一緒に紀伊国(現和歌山県)から出てきたが、武士に取りたてようと言われたが、町屋が良いと答えこの町を拝領しました。屋敷内に牡丹を作り献上したため牡丹屋敷。牡丹の開花は4-5月です。
 くれない。鮮やかな赤色。ほたんの色です
 着物の裾(すそ)の左右両端の部分。
ほのめき ほのかに見える。香る。
あやめ草 あやめ草はサトイモ科の草で、池や溝の周辺に群をなして繁茂する。季語は夏。「文目」(あやめ)は物事の道理、筋道。物の区別。
ちまき 笹の葉で巻き、蒸して作った餠(もち)。端午の節句に食べる。季語は初夏
参らす 献上する。差し上げる
玉ずさ 使者。使
いっそ 予想に反した事を述べるときに用いる。かえって。反対に。
人目 他人の目。世間の人の見る目
関口 東京都文京区の町名で、牛込区(現在は新宿区)と接する
みなぎる 力や感情などがあふれるばかりにいっぱいになる
滝津瀬 たきつせ。滝。滝のような急流。
蚊帳 蚊帳の季語は三夏。陰暦で、4・5・6の夏の3か月。初夏・仲夏・晩夏
 季語は仲夏。夏のなかば。陰暦5月の異称。中夏
 荵はシダ植物。岩や木に着生する。根茎は太く、長く、淡褐色の鱗片を基部に密生する。葉は長柄で根茎につく。根茎を丸めて忍玉(しのぶだま)を作り、夏、軒下などにつるして、その下に風鈴を下げたりし、水をやり涼しさをたのしむ。忍ぶ草。事無草(ことなしぐさ)。
青簾 青竹を細く割って編んだ新しいすだれ

あはぬ(まぶた)()(ゆめ)は、 いつも逢坂(おふさか)軽子坂(かるこざか)
重荷(おもに)(うれ)肴町(さかなまち)
その芝肴(しばざかな)意氣(いき)(はり)は、
たとひ()(なか)(みづ)(そこ)
(ふね)首尾(しゆび)よく揚場(あげば)から、
(きり)(ともし)道行(みちゆき)の、(たがひ)いの姿(すがた)しのべども、
(なび)つるゝ(はぎ)(すすき)
(いろ)(つゆ)()御縁日(ごえんにち)

ここで見た夢はいつも逢坂や軽子坂が出てくる。
肴町だと重荷は新鮮な魚なので嬉しい。
芝浦の海でとれた小魚は意地を張っている。たとえ火の中でも、水の底でも。
小魚を船で揚場から首尾よく手に入れた。霧の灯に旅行し、お互いを思い出す。
秋になり、萩や薄は、なびいているが、まだその場にいる。露がある御縁日になった。

あはぬ あわない。合っていない。どうしても瞼が開いてしまうが
逢坂 市谷船河原町にある急坂で、下から上に向かう神楽坂では左側
軽子坂 新宿区揚場町と神楽坂二丁目との比較的に緩徐な坂。下から上に向かう神楽坂では右側。
肴町 神楽坂5丁目の以前の名称
芝肴 しばざかな。芝魚。芝肴。江戸の芝浦あたりの海でとれた小魚で、新鮮で美味とされた。
意気張 遊女が意気地を張り通すこと
揚場 船荷を陸揚げする場所。揚場町もある。
 「ともし」と読む。意味は「ともしび」
道行 旅すること
しのぶ つらいことをがまんする。じっとこらえる。耐える
靡き なびくこと。「靡く」とは「風や水の勢いに従って横にゆらめくように動く。他の意志や威力などに屈したり、引き寄せられたりして服従する。女性が男性に言い寄られて承知する。
つるる つるの連用形か。「吊る」は「物にかけて下げる。高くかけ渡す」。「釣る」は「釣り針で魚をとる。巧みに人を誘う」。 「攣る」は「筋肉がひきつって痛む」。
萩薄 萩(はぎ)と薄(すすき)。萩の季語は初秋、薄の季語は三秋(秋季の3か月で、初秋、仲秋、晩秋。陰暦の7、8、9月)
 つゆ。空気中の水蒸気が放射冷却などの影響で植物の葉や建物の外壁などで水滴となったもの。季語は三秋。陰暦の7、8、9月
添う そう。そばを離れずにいる。ぴったりつく
御縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すれば特に御利益があると信じられている

毘沙門(びしやもん)(さま)(まも)(がみ)
毘沙門(びしやもん)(さま)(まも)(がみ)
(むす)ぼる(むね)(しも)とけて、
(そら)小春(こはる)若宮(わかみや)に、
(かり)(つばさ)かげひなた
比翼(ひよく)(もん)こそ(うれ)しけれ。

毘沙門様は守り神。毘沙門様は守り神。
冬になると結んだ胸にある霜もとけてくる。
空も11月頃の小春で、若宮町に広がる。
雁の翼は、うらおもて。
比翼の紋(相愛の男女がそれぞれの紋所を組み合わせた紋)になるのは本当に嬉しい。

毘沙門 びしゃもん。「神楽坂の毘沙門さま」で親しまれている。福や財をもたらす開運厄除けのお寺
 しも。0℃以下に冷えた物体の表面水蒸気が固体化し、氷の結晶として堆積したもの
小春 こはる。陰暦10月のこと。現在の太陽暦では11月頃に相当し、この頃の陽気が春に似ているため、こう呼ばれるようになった
若宮 地域北部は神楽坂地域に接し、若宮八幡神社があります
かげひなた 日の当たらない所と日の当たる所。2人の見ている所と見ていない所とで言動が変わること。人の見る、見ないによって言葉や態度の変わること。うらおもて。
比翼の紋 ひよくのもん。比翼紋。相愛の男女がそれぞれの紋所を組み合わせた紋。二つ紋。