配流」タグアーカイブ

「牛込氏文書 下」江戸幕府まで

文学と神楽坂

 「牛込氏文書 下」は文書6通で、16世紀末と17世紀の世界を扱います。正確には1583年から1636年までです。
 内容は、戦国時代で贈答品を送る風習、牛込勝行が子供に相続すると北条氏はその権利を認め、豊臣秀吉が禁制を出し、徳川幕府で牛込俊重の流罪は赦免される等です。
 一つひとつは歴史の断面に過ぎません。最重要なものとは思えないのに、どうしてこの文書全体や個々の文書が500年以上の間、生きていたのか、わかりません。また「昔の書き言葉」を翻訳して「生き生きした現代の言葉」に変えるのは、特に私にとっては不可能です。最初にくずし字から「楷書」に変換し、知らない言葉を補い、不思議な言葉を訂正し、現在でもわかる言葉に変えるのは、どんな人でもおそらくできません。
 ここでは[A] 矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)と、[B] 新宿区教育委員会「新宿区文化財総合調査報告書(1)」(昭和50年)、[C] 武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)を使っています。 また文書の内部と写真は[A]から、表題は[C]から、本文とキャプションは3つ全てから取っています。

武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)

 まず[C]のまとめを簡単に見ておきます。

[C] 牛込氏が牛込の地に移り住んで以降、北条氏網以下四代に仕えました。天正17年(1589)、かねてより真田昌幸と沼田・名胡桃城の領有で争っていた北条氏政が、豊臣秀吉の裁定に背いたことをきっかけに、秀吉は北条氏に宣戦布告し、翌天正18年(1590)小田原へと兵を進めました。伊豆、相模、武蔵、下総国などを領有し、百を超える支城を有した北条氏でしたが、わずか四か月ほどで徳川家康ら多くの大名が動員された豊臣軍に降伏しました。
 小田原攻めの後、家康が関東に入国します。牛込氏の系譜には、牛込勝重が天正19年(1591)に徳川家康に召し出されたとあり、家康の江戸入城後まもなく家康の家臣となったことがうかがえます。その後の関ヶ原の戦い、大坂の陣においても家康に従い、徳川将軍家の旗本となります。
 元和2年(1616)には、牛込俊重が二代将軍徳川秀忠の子である国松(徳川忠長)附けとなりました。しかし、忠長の荒々しい言動が目立ち、寛永9年(1632)忠長は改易、家臣らは流罪となりました。俊重も配流されましたが、寛永13年(1636)に赦免されて再び幕府に出仕します。これ以降牛込家は江戸時代を通じて旗本として、小姓組や書院番、長崎奉行を務める者も輩出しました。

① 北条氏政書状写(牛込氏文書下)年不詳2月3日(堅切紙)

北条氏政書状写(牛込氏文書下)年不詳2月3日(堅切紙)

[A] 北条氏政から牛込宮内少輔(勝行)に宛てた書状の写で、新年の祝儀として鯉・蛤が送られたことに対して礼を述べている。ここでも取次ぎは遠山氏で、遠山氏から別に書状が発給されたことがわかるが、現存しない。氏政の花押判形から、永禄10(1567)年から同13(1570)年までのものと比定される。贈答品の蛤は、既に盛本昌弘氏が指摘する通り、所領の比々谷郷の入江からの上納物、鯉は神田川からの上納物と考えられる。牛込氏の所領支配が、海辺(比々谷郷)と川沿い(牛込郷)の両面を軸に展開していたことを思わせる。
[B] 北条氏政書状写 二月三日 牛込宮内少輔宛
[C] 牛込勝行が新年のお祝いとして鯉、蛤を送ったことに対する北条氏政の礼状。江戸氏牛込氏文書にいくつか含まれる礼状には、鯉や鯛などの水産物を送ったことが記されています。江戸氏と牛込氏は、牛込、日比谷、桜田郷が平川や日比谷の入江に近接していたために、海と川から獲れる水産物を多く贈答していたと考えられます。

② 北条家朱印状写(牛込氏文書下)天正11年6月5日(折紙)

北条家朱印状写(牛込氏文書下)天正11年6月5日(折紙)

[A] (ありません)
[B] 父勝行の譲状のごとく、牛込の内富塚村と日比谷郷の夫銭六貫文を安堵するから、旗本として、忠節をつくすようにとの内容である。牛込平四郎は系図上不明であるが、③号文書との関連からみれば勝重の弟と思われ、知行得分のうちの一部を分与されたものであろう。
[C] 垪和康忠を奉者として牛込平四郎に下された北条家の朱印状。牛込勝行の譲状のとおり子の平四郎に牛込郷富塚村と日比谷郷からの夫銭6貫文を相続する事を認めるとともに、北条家の直属の部隊に加わって動するように命じました。日比谷村の夫銭6貫文は[牛込文書 上]①号文、[牛込文書 上]⑧号文にも記載のある陣夫役(夫銭)に相当します。

③ 北条氏直判物(牛込氏文書下)天正12年9月18日(堅紙)

北条氏直判物(牛込氏文書下)天正12年9月18日(堅紙)

[A] 牛込彦次郎(勝重)に宛てた北条氏直判物の写である。本文と氏直の花押の墨色が同じで全文一筆と思われる。花押のバランスがやや悪く、全体の墨色・筆跡も考慮して写と判断した。
[B] 北条氏直判物 天正12年9月18日 牛込彦次郎宛。勝重に父勝行の知行相続を認めたもの。
[C] 文書袖上部の欠損部は、「父宮内少輔」と考えられ、牛込勝行が子の勝重(彦次郎)に知行と家督を相続することを認めた北条氏直の物。本文書の彦次郎は勝行の嫡子とみられ、②号文書に記載がある平四郎は庶子であったと考えられます。牛込氏の所領は牛込、日比谷村、堀切合わせておよそ180貫文ほどでした。牛込氏の系譜によると、勝行は天正15年(1587)に逝去しています。

④ 豊臣秀吉禁制写(牛込氏文書下)天正18年4月日(堅切紙)

豊臣秀吉禁制写(牛込氏文書下)天正18年4月日(堅切紙)

[A] 豊臣秀吉より「武蔵国ゑハらの郡えとの内うしこめ村」に宛てた禁制の写である。牛込七村と見える唯一の史料だが、七村が具体的にどこを指すのか判然としない。宛所と、文末の「御手印写」の筆跡・墨色が同一なので、共に追筆部と判断される。これと全く同じ内容の禁制写が他にも伝わっている
[B] 豊臣秀吉禁制写 天正十八年四月日 牛込七カ村宛
[C] 禁制とは、幕府や大名などの支配者が寺社や村落に対してその統制や保護を目的に発給した文書です。この禁制は豊臣秀吉が北条氏の本拠地である小田原へ侵攻するにあたり、武蔵国牛込7村に宛てて発給したものです。ここでは、秀吉軍の現地での乱暴狼籍や放火、百姓らに対する不当な言動が禁止されています。禁制を受け取ることで戦下での安全保障にもなるため、戦国時代には寺社などから申請して代金を支払い発給してもらうことが多くなります。本文書と同様の禁制は相模、武蔵両国に多く発給されており、多くの武士が秀吉方に下ったことがうかがえます。同年7月に北条氏直は降伏しました。

⑤ 石巻康敬書状(牛込氏文書下)(年未詳)5月25日(堅切紙)

石巻康敬書状(牛込氏文書下)(年未詳)5月25日(堅切紙)

[A] 石巻康敬より牛宮(牛込宮内少輔)・伊源(伊丹源六郎)に宛てた書状の写である。年代は未詳で、内容的にも不明な点が多い。牛込氏は城に在番しており、北条氏から受け取った印判状の通りにするように伝えられている。この書状は全文一筆だが、筆勢がやや弱く、文字そのものが判読しづらい。特に署名と花押の部分はその傾向が強く、読めない文字を形で模写したように思われる。よって写と判断した。
[B] 某氏書状 五月廿五日 牛宮・伊源宛
[C] 石巻康敬(彦六郎)が牛込宮内少輔と伊丹源六郎の願い出を取り次ぎ、北条家に認められた旨を記した書状。陣中や城内における竹木の採集の留意点も伝達しています。この時牛込氏が参陣・在番した城は明らかではないですが、「金」(下総国葛飾郡小金・現松戸市をさすか)に馬を運び入れたとあることから、北条氏が下総国葛西城(現葛飾区青戸)へ侵攻した永禄4年(1561)以降と考えられます。康敬は北条氏の評定来などを務めた人物です。

⑥ 太田資宗書状(牛込氏文書下)寛永13年12月14日(切紙)

太田資宗書状(牛込氏文書下)寛永13年12月14日(切紙)

[A] この文書は、裏書にもある通り、牛込伝左衛門(俊重、勝重の次代の牛込家当主)が配流を許された時に、太田資宗より受け取った書状である。これについては、既に越中哲也氏の見解がある。氏は牛込家文書を元に、この文書は寛永9(1632)年の徳川忠長高崎幽閉に伴い家臣達が配流されたが、忠長の大番士の牛込俊重は赦免され、その折りに出されたものとする。これは牛込家で後世に記された記録にのみ確認される。その他『徳川実記』より、元和2(1616)年に牛込三右衛門(俊重)が忠長の大番士となったことは確認できるが、忠長の一件との関わりを示す史料的な裏付けはとれない。しかし、資宗・俊重共に慶長6(1601)年生まれで、資宗が備中守を称するのは後半であることから、時期的に寛永期ごろのものである可能性は高い。
[B] 大田資宗書状 極月十四日(寛永13年)牛込伝左衛門宛
[C] 寛永8年に(1631)徳川忠長(2代将軍徳川秀忠の子)が改易となり、この時忠長に仕えていた牛込俊重は罷免され流罪となりました。本文書は、この流罪を赦免され、再び幕府への出仕の命が下ったことを太田資宗が俊重に伝えた書状です。

2月3日牛込勝行が鯉・蛤を送り
北条氏政がその礼状
1561以降?5月25日北条氏が下総国葛西城に侵攻(1561)
した後で牛込氏などの要望が通った
天正11年15836月5日牛込勝行の子の平四郎が
一部を相続したと北条家
天正12年15849月18日牛込勝行が子の勝重に知行と
家督を相続したと北条家
天正18年15904月日豊臣秀吉が北条氏の本拠地の小田原
へ侵攻し、牛込7村には禁制令
寛永13年163612月14日徳川忠長が高崎に幽閉され、
忠長の大番士、牛込俊重も流罪に。
5年後、赦免され、幕府にまた出仕

浄瑠璃坂の仇討跡(標示板)

文学と神楽坂

 2020年11月、最近(でもないけれど)市谷鷹匠町の「浄瑠璃坂の仇討跡」は新しい案内標示板になっていました。でも、内容はほとんど何も変わりません。ただしこの標示板を取り巻く周囲を見回すと、マンションや大日本印刷のビルが沢山建築中でした。

「浄瑠璃坂の仇討跡」は赤い矢印で書かれていますが…

現在の地図と新板江戸外絵図(1679)

でも、決闘した戸田七之助邸は実際は遙かに巨大な場所でした(下図)。大日本印刷とおそらく同じぐらいの大きさだったと思っています。(大日本印刷はまだまだ大きくなっている)

明暦江戸大絵図(1657)

 平成28年の標識は…

 新宿区指定史跡

じょう瑠璃るりざか仇討跡あだうちあと
   所 在 地 新宿区市谷鷹匠町 浄瑠璃坂上・鼠坂上
         指定年月日 昭和60年11月1日
 浄瑠璃坂と鼠坂ねずみざかの坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日、「赤穂事件」、「伊賀越いがこえの仇討」(鍵屋かぎやの辻の決闘)とともに、江戸時代の三大仇討のひとつと呼ばれる「浄瑠璃坂の仇討」が行われた場所である。
 事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月に死亡した宇都宮藩主奥平忠昌の法要で、家老の奥平内蔵允くらのすけだが同じく家老の奥平隼人はやとに、以前から口論となっていた主君の戒名かいみょうの読み方をめぐって刃傷にんじょうにおよび、内蔵允は切腹、その子源八は改易かいえきになったことによる。
 源八は、縁者の奥平伝蔵・夏目外記げきらと仇討の機会をうかがい、寛文12年2月3日未明に牛込鷹匠たかじょう町の戸田七之助邸内に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討ち入り、牛込見附門付近で隼人を討ち取った。源八らは大老井伊掃部守かもんのかみ直澄へ自首したが、助命され伊豆大島に配流はいるとなり、6年後に許されて全員が井伊家ほかに召し抱えられた。
 平成28年12月2日
新宿区教育委員会

宇都宮藩 現在のおおむね栃木県。
戒名の読み方 竹田真砂子氏が『浄瑠璃坂の討入り』(集英社、1999年)についてこう書いています。
「まず仇討ちに至るまでの経緯を、『中津藩史』に倣いつつ、いささか意訳してお伝えしておこう。
 寛文8年(1668)2月19日、宇都宮藩奥平家の当主奥平忠昌ただまさが他界する。享年61歳であった。その折、位牌にしたためられた亡君の戒名の読み方が分がらなかった家老の一人である奥平隼人に対し、同じく家老職にある奥平内蔵允くらのじょうがすらすらと読み下してみせたことから事件は始まる」
源八 竹田真砂子氏によれば「その総大将源八は、弱冠15歳の若衆で人目を惹く美少年であった」といいます。
改易 江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄・屋敷を没収する。
掃部守 行事に際して設営を行い、殿中の清掃を行う。
配流 流罪に処する。島ながし。

 ちなみに、この標識が、1代古くなると、平成3年に発行したものとなります。ルビがなく、印刷は非常に見にくいけど、内容は同じです。

(文化財愛護シンボルマーク)

 新宿区指定史跡

じょう瑠璃るりざか仇討跡あだうちあと
        所 在 地 新宿区市谷鷹匠町浄瑠璃坂上・鼠坂上
        指定年月日 昭和60年11月1日
 浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日、江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討が行われた場所である。
 事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老の奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前から口論となっていた主君の戒名の読み方をめぐって刃傷におよび、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。
 源八は、縁者の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文12年2月3日未明に牛込鷹匠町の戸田七之助邸内に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討入り、牛込御門前で隼人を討取った。
 源八らは大老井伊掃部守へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり、6年後に許されて全員が井伊家ほかに召し抱えられた。
 平成3年1月
東京都新宿区教育委員会

 さらに昭和57年もありました。

 新宿区指定文化財
  旧 跡  浄瑠璃坂の仇討跡
 宇都宮藩家老の奥平内蔵允は、主君奥平忠昌の追福法要の際、同じ家老の奥平隼人と口論の末、刃傷に及んで切腹した。その子源八は父の恨みを晴らそうと近縁の奥平伝蔵、夏目外記らとその機会をうかがった。追放された隼人は父半斎ら家族と江戸に逃れて浄瑠璃坂上に隠れ住んだ。探しあてた源八は四年後の寛文12年(1672)2月2日夜、総勢42名で、大風に乗じ門前に火を放って討入り、牛込御門前で隼人を討取った。自首した源八らは、そのけなげな挙動は感じた井伊直澄のはからいで助命され、伊豆大島に流された。
 浄瑠璃坂の名の由来については江戸時代から諸説があるが、いずれも確証はない。
 昭和57年3月
東京都新宿区教育委員会

浄瑠璃坂の仇討跡

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」05-11-24-3「浄瑠璃坂仇討案内板」 1984-10-18