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牛込城の構築|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)4「牛込城(袋町居館地)と城下町」についてです。もし牛込城があった場合、何がどこにあったのかという疑問があり、そこで昭和61年度に郷土研究会が一致団結して調査に乗りだしました。

牛込城(袋町居館地)と城下町
(1) 牛込城趾の調査
 牛込氏の居館が袋町にあった、という文献は多いが、城として存在を認めているのは『御府内備考』と『江戸名所図会』だけである。
 一般に、城には城としての条件——目的、規模、範囲、施設(、井戸、やぐら曲輪等)——があるものだが、今となっては不明な点が多い。
 今回、昭和61年度、1年がかりで、会員全員でこの調査にあたった。その結果を次に示す。
①目的……袋町への進出は重行の代とすると、まさに、戦国時代へ突入する直前の頃で、居館の安全性を考え、備えが必要だったと想われる。又、筑土八幡の高台は、すでに、扇谷上杉朝興によって“”が築かれ、赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町と、ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂供養塚(奥州街道に想定されている)との二本の古道があったらしい(『牛込区史』)。まさに、城はこの二本の古道を睨んで築かれている。
②規模……牛込氏の故郷、群馬県大胡町にある大胡城趾と、その規模、構造共に、亦、地形こそ違うが、その配置、施設と想われる場所が、非常に類似している。

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 「牛込城蹟」については……

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々

註:いかさま 1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき

江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

 空堀。からぼり。水のないくぼみ。
 水堀。みずぼり。水をためた堀。
やぐら 櫓。城門や城壁の上につくった一段高い建物。敵状の偵察や射撃のための高楼。
曲輪 くるわ。城を構成する防禦区画で、土塁や堀、石垣などで囲まれた平坦地。敷地内を複数の小さな曲輪で区切るのが日本の城の基本。壁面を急傾斜の切岸状にするほか、縁辺に土塁を盛り上げたり、外周や尾根続きに空堀を掘って外部から遮断する。
重行 大胡重行。日本城郭全集第4「東京・神奈川・埼玉編」(人物往来社、1967)では……

 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城(埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条[氏康]氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年(1578年)前後と推察される。

 天文6年は1537年で、豊臣秀吉が誕生した年でした。
筑土八幡の高台 筑土山。現在の筑土八幡神社がある高台
扇谷上杉朝興 室町後期の武将。江戸、川越の城主。朝憲の子。おおぎがやつ上杉朝良の養子。
神楽坂交差点 現在は「神楽坂上交差点」です。
二本の古道 図では「二本の古道」を描くと、中央から右に動く1本(赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町)と中央から左下に動く1本(ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂—供養塚)でしょう。

「牛込区史」「道路」の126頁では……

江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもないが、赤城下の築地の成らない前正保年中の地図に依つて見ると、本区の道路は牛込見附から通寺町榎町の通りを経て馬場下に達するものと、通寺町から南折して柳町から馬場下に達し、前者と合して旧高田馬場方面に走向するものと、(供養塚町の事蹟にこれを古奥州街道の一つと言っているのは採否の限りでないが、しかし比較的重視すべき原始往還たることだけは十分に察せられる)前記柳町附近から分岐して、西大久保方面に走向するものと、市谷本村町より渓谷を辿って谷町に至り、左右に分岐する谷に沿つて一は天神前方面、他は番衆町方面に走向する道路を幹線として、それらに若干の間道を連接する片町或は両側町式市街に過ぎない。

註:正保年中の地図 正保は「しょうほう」。地図は江戸初期、正保元年か2年(1644〜45)に作られたもの
通寺町 現在は神楽坂6丁目

 つまり「2本の古道」と「牛込区史」の「道路」とは全く違っています。さらに「江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもない」といい、これは江戸初期や戦国時代以前は、おそらく憶測が入るので、考えるべきではないといっているのでしょう。
牛込区史 東京市牛込区編「牛込区史」(昭和5年)です。
大胡城趾 群馬県前橋市河原浜町の空堀で区切った中世の城跡。鎌倉幕府御家人の大胡氏が城主。

③範囲……現在の地形、及び当時の状勢から想像すると、城の範囲は袋町を中心として、若宮、北、中、南、砂土原、払方、神楽坂4、5丁目の各町の一部、いわゆる牛込台地の南側一帯と考えられる。
 袋町の光照寺の台地は、この辺での最高地(海抜27米)で、後世、江戸時代には天文屋敷(天文台)が置かれた処である(『御府内備考』)。この台地が伝承の通り、牛込氏居館趾、本丸と思われる場所で、大胡城趾本丸居館趾高台の広さと同じ、8、90米四方になる。

光照寺 袋町15番にある浄土宗の樹王山正覚院光照寺です。
天文屋敷 現在は光照寺の正面にマンション「プラウド神楽坂ヒルトップ」です。
御府内備考 天文屋鋪では……

  天文屋舗蹟
天文屋鋪蹟は地藏坂の上半町ほと西の方なり 延寶の比はたゝ二軒の旗下屋敷ありし 享保十年の江戶圖には屋敷はなくてたゝ明地のことくにて有しと見ゆ その後佐々木文次郞といひし人 元御徒組頭なり 天文の術に長しけれは召出され やかてこひ奉り この所に司天臺を建て天文をはかれりされと この地は西南の遠望さはり多けれはとてその子吉田靱負の時に至り天明二年壬寅七月 或六月朔日ともいふ 今の淺草鳥越の地へうつされたり

牛込城(「牛込氏と牛込城」「東京都新宿区 (13104) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット」から)

 北側……急をなし牛込川の谷になっている(現大久保通り)。
 西側……南蔵院旧本堂前の池にそそいでいたと思われる沢跡が一直線に逆上り、北町、中町通りを直角に横切り、南町通りの直ぐ手前まで達している。水源地は南町通りから一寸と北へ入った箇所で、現在でも使用している井戸があり、当時は涌水が出ていたことであろう。この沢を、更に、手を入れて濠とした形跡がある。
 又、最高裁判所長官邸から払方町へ行く路が牛込中央商店街通りへ出る際に、不自然な凹地が路を横切る。その谷状地の南側は、急に、市ヶ谷濠に落ちて行く。北は崖状になって、民家の中を抜けて、南町通り近くまで達し、前記の水源地近く40~50米附近まで近づいている。恐らく、南町通りができた時にならされてしまったのではないだろうか。以上が西壕跡である。

牛込川 昔、南蔵院近傍から飯田橋駅近くの小石川大沼まで流れていたと思われた川。
南蔵院 箪笥町にある天谷山竜福寺南蔵院。
沢跡が一直線に逆上り これは空から見るとはっきりします。

沢跡と南蔵院

現在でも使用している井戸 これは40年近く前、昭和62年(1987)に書かれた文章です。井戸の有無は私にはわかりません。
最高裁判所長官 最高裁判所長官公邸は新宿区若宮町39にあります。
牛込中央商店街通り 正式には「牛込中央通り」。市谷田町交差点から矢来町交差点に至る南北に通る全長約1.2kmの通り
不自然な凹地 払方町に見られます。

払方町の不自然な凹地。

ならされる ならす。均す。平す。高低やでこぼこのないようにする。たいらにする。

牛込城(北と西)

 南側……現在の外濠り通りになっている谷に面して、相当の急崖になっている。
 東側……神楽坂通り善国寺裏あたりまでは崖になっている。若宮町14、西条歯科医院一帯は現在でも、はっきり解る濠跡である。
 ここは当時、空壕ではなく、湿地的な水の可能性さえある。この濠水の流れる谷が、現在の熱海湯通りで、両崖の高さからみて、かなりの水量があったことさえ想像される。そして、若宮八幡の前は崖状になって外濠通りへ落ちている。

外濠り通り 現在は「外堀通り」です。
若宮町14、西条歯科医院一帯 小栗横丁が西側で終わる地域を超えると、西側に西条歯科医院があります。西条歯科医院とその周辺(黄色)が若宮町14です。

若宮町14はこの写真では西条歯科医院とその周辺。右が北方。下の図(↓)では西条歯科医院の地図。

熱海湯通り 小栗横丁と同じ意味です。

 大手門……一説では地蔵坂下の説もあるが、もう少し南寄りの三菱銀行から宮坂金物店辺りではなかろうか。最近、ビル工事をした宮坂金物店の通りに面したところから頑丈なで組んだ井戸が発掘された。これが、いつの時代のものか不明だが、丁度、このあたりが神楽坂通りでは一番高く、古道に対する最短距離の場所となる。又、善国寺裏、料亭松ヶ枝の庭は階段状になり、左右に折れながら登っている。そして最奥の離屋は光照寺墓地のすぐ下へと続いている。この辺が大手門と本丸をつなぐ道ではなかろうか。

大手門 城の正面。正門。おう
宮坂金物店 神楽坂3丁目6-10です。現在はMIYASAKAビルに替わり、こう椿つばき」が営業中。
 ひのき。常緑高木。日本特産。山地に自生、広くは植林。高さ30~40メートル。樹皮は赤褐色で縦に裂け、小枝に鱗片りんぺん状の葉が密に対生する
本丸ほんまる 城郭で、中心をなす一区画。城主の居所で、多く中央に天守(天守閣)を築き、周囲に堀を設ける。

 大手門には仮説として2説があるということになります。一番目は地蔵坂(藁店わらだな)が神楽坂通りと交わる点、二番目はより南方(例えば毘沙門横丁や三つ叉横丁)と神楽坂通りと交わる点。重要なことですが、どちらも仮説です。

市ヶ谷牛込絵図(万延元年)

 江戸時代の「江戸名所図会」や「御府内備考」などでも大手門の位置はわかりません。「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々(註:いかさま=なるほど。いかにも)

 仮説1は芳賀善次郎氏の下図によっています。仮説2はこの文章で、おそらく文責は一瀬幸三氏にあったのでしょう。

図は「牛込氏と牛込城」から

 搦手門……不明。
 井戸……袋町25、26番地一帯は光照寺台地の南側で、一段、低くなっている。牛込城の二の丸とみられる処で、東ぎわは崖で、下は若宮町14の水濠跡になっている。この崖際に三木さんのビルがあるが、江戸時代の土井家の屋敷跡である。土井家時代からのものといわれる、外井戸が屋上にある。今でも、外水を全部まかなっている程、出が良く、大城の水門位置からみて、この辺が牛込城の水門口とみている。この辺り一帯の井戸で、最も重要な井戸と思われるものが26番地、飯塚ビル玄関前の井戸跡であろう。旧宅時代には便利で、良い水の井戸で、余り出が良いので、現在は下水栓につないであるとのことである。飯塚ビル向って左側の隣家は一段高く、その家に通じる路が、この井戸跡を巻くようにして登っている。その路を数登り切ると、光照寺本堂が目と鼻の先にある。水吸み路の名残りではなかろうか。

搦手門 からめてもん。城の裏門。
袋町25、26番地一帯 図を参照。

袋町。建物は昭和62年の時点。現在は西条歯科医院を除き全て新しい建物に変わっている。

二の丸 にのまる。城の本丸の外側を囲む城郭。本丸を守護し、城主の館、藩の各役所、武器や食料の倉庫など
三木さんのビル 袋町25の東南の角。
土井家の屋敷跡 「新撰東京名所図会」牛込之部「中」(東陽堂、明治、明治31年)では

袋町の桜。牛込袋町25番地は遠藤但馬守(江州三上の藩主1万3千石)の下屋敷の跡にして、其地続き及び26番地の辺は光照寺の境内地と幕士の宅址なり、いたく荒れ果てゝ、人の顧みる無し、牧野毅(故陸軍少將)貸して此の一廓を購い、修理して庭園となす。(中略)明治20年頃、始めて神楽町三丁目より、牛込中町に通する邸内横貫の新道を開く、新道開鑿以来、樹木は伐去られ、次第に人家立て込みて、漸く其風致を損ふ、牧野氏去って子爵土井家(元越前大野の藩主4万石)この地所を購い、又但馬守の邸址に館す。

土井家の屋敷跡。袋町25+26。東京五千分ノ1(参謀本部陸軍部測量局。明治16年)

水門口 みとぐち。川が海や湖へ流れ込む所。河口。
飯塚ビル玄関前 図を参照
旧宅 以前に住んでいた家

 曲輪……中世の城には、その城域の最前線の守りとして、曲輪という施設がある。神楽坂通り万長酒店横の路が行元寺への元参道である。最近、万長の主人、馬場さんの案内で、地下の酒蔵を見せていただいた。この地下に、参道と平行して高さ2米の江戸時代以前の築造とみられる石垣が掘り出されている。この地下酒蔵を神楽坂通り方向に、更に拡げようと、堀ったところが巨岩(凝灰岩)にぶつかり、酒蔵の拡張は中止せざるを得なかったそうである。果して、この石垣や巨岩は牛込城の東、古道側に張り出している曲輪の、最も北寄りの土止めに用いたものではないだろうか。そして、ここを起点として、2~3米の高さの崖状をなし、相馬屋ビル裏から、往時の行元寺境内との境界をつくって、本多横丁を横切り、神楽坂3丁目、マーサー美容院裏あたりまで続く、この崖上が牛込城の東曲輪になっていたのではないか。
 この曲輪の南側に若宮八幡の台地があるが、ここも、非常の場合には南曲輪として使う予定をしていたのではなかろうか。又、西壕以西、愛日小学校あたりまで、西曲輪説を考えられる。

土止め どどめ。土留め。土手や土砂の崩壊を防止する工作物
マーサー美容院 マーサ美容院。神楽坂通りと神楽坂仲通りとが接する神楽坂3丁目の美容院だった。 昭和27年の写真で見る新宿 ID 8-12や、アルバム 東京文学散歩で見ることができます。
愛日小学校 あいじつしょうがっこう。新宿区北町26。明治13年(1880年)加賀町の吉井学校と、牛込柳町の市ヶ谷学校が合併し、愛日学校が創立。男女共学の公立学校。

牛込城の東曲輪

 綜じて、今回の調査によると、以上の条件から中世の城と認めても良いという結論がでた。石垣など殆どない、地形を利用した舌状台地上の平城で、主として、土塁と空壕で存在していたことであろう。
 城域の広さが、若干広い感じがするが、当時の関東の城の例にならうと根古屋衆を城内に住まわせていたと想われる。根古屋とは一族郎党であり、側近衆の住む家を云う。城内の大切な水場を囲むようにして、根古屋を建て、農耕をやり、馬を飼っていたと思う。其の他、武器庫、馬場、集合広場も城内にあった筈である。
 そして、江戸時代、天正年間(1590)牛込勝重が徳川幕府の家人(旗本)となると、牛込領を幕府に返上、城、居館は廃されて、百姓地になり、その後、正保2年(1645)神田にあった光照寺が袋町へ移転してきた。牛込氏は小日向牛天神下隆慶橋近くに旗本千百石取りとして屋敷を構えたのである。

根古屋 ねごや。山城の麓に形成された将兵たちの居住区域。戦国山城時代の城下の村。
牛込氏は…… 礫川牛込小日向絵図(安政4年、1857)では牛込常次郎と書かれています。

礫川牛込小日向絵図

幡随院長兵衛の死体が流れついた橋|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)に「牛込地区 40. 幡随院長兵衛の死体が流れついた橋」として「隆慶橋」に焦点を当てています。

幡随院長兵衛の死体が流れついた橋
           (新小川町一丁目)
 飯田橋から高速道路添いを大曲に向うと、右手に神田川にかかる隆慶橋がある。
 町奴幡随院長兵衛は、旗本奴の総領水野十郎左衛門の誘いを受け、単身小石川牛天神網干坂にある水野屋敷を訪れた。
 十郎左術門は酒宴を張ったが、長兵衛が酒に酔うと、十郎左衛門の家中の者一人が長兵衛の顔めがけて酒を盛った燗徳利を投げつけた。それを合図に三人の者が斬りつけた。そこへしばらく身を隠していた十郎左衛門は、左の頬から顎にかけて一太刀で斬りつけた。さすがの長兵衛も、この欺し討ちにあってあえない最後をとげたのであった。
 その死体はこもに包んで仲間(ちゅうげん)二人が神田川に投げ捨てた。その死体がここの隆慶橋に流れついたのである。
 死体を発見した者が、浅草舟川戸の留守宅へ知らせると、三人の子分が馳けつけてきて死体を駕寵で浅草の源空寺に巡んで葬った。時に慶安3年(1650)4月13日、36才の男盛りであった。
 なお幡随院長兵衛、水野十郎左衛門については伝説の人で、はっきりしたことは分らない
 〔参考〕 江戸ルポルタージュ  新宿と伝説
大曲 おおまがり。道などが大きく曲がっていることや、その場所。新宿区では新小川町で道路や神田川が曲がっている場所を大曲と呼ぶ。

大曲

隆慶橋 新宿区新小川町と文京区後楽2丁目を結び、神田川に架かる橋。

東洋文化協会編「幕末・明治・大正回顧八十年史」第5輯。昭和10年。赤丸が「隆慶橋」。前は「船河原橋」

町奴 江戸初期、はでな服装で江戸市中を横行した町人出身の侠客きょうかくおとこ伊達だて。「侠客」とは弱い者を助け強い者をくじき、市井無頼の「やくざ者」に対する美称として使う。
幡随院長兵衛 ばんずいいん ちょうべえ。江戸初期の侠客。大名・旗本へ奉公人を斡旋する貸元業を始めたが、腕と度胸、強い統率力が役だち、侠気を売り物とする男伊達としても成功。水野十郎左衛門の率いる旗本奴との対立が高じ、水野邸で殺された。生年は1622年か、没年は1650年(慶安3年)か1657年(明暦3年)。
旗本奴 はたもとやっこ。旗本や御家人のうち異装をし、徒党を組み、無頼ぶらいの生活を送った者。奴とは武家奉公人。しだいに奉公人だけではなく主人の側(旗本)にもその風俗が拡大していった。無頼とは正業に就かず、無法な行いをする「やくざ者」のこと
水野十郎左衛門 みずの じゅうろうざえもん。3000石の幕臣で、大小神祇じんぎ組首領。幡随院長兵衛と争って殺害した。のち幕府に所業をとがめられて寛文4年3月27日切腹。家は断絶。
小石川 東京府東京市(後に東京都)にかつて存在した区。明治11年から昭和22年までの期間(東京15区及び35区の時代)に存在した。現在の文京区の西部。
牛天神 うしてんじん。天満宮の異称。東京都文京区の北野神社の俗称
網干坂 あみほしざか。東大付属小石川植物園の西縁に沿って北に向かう。坂下で湯立坂と接続する。坂下の谷は入江で、舟の出入りがあり、漁師が網を干したのが名前の由来。
燗徳利 かんど(っ)くり。燗酒かんざけを飲むのに適した徳利と(っ)くり。燗酒とは加熱した酒で、おかんともいう。徳利とは細長くて口の狭い、酒などの液体を入れる容器。
こも わらの編み物のなかでも薄く、木などに巻きつける物

仲間 ちゅうげん。中間。江戸時代、武士に仕えて雑務に従った者。
舟川戸 現在の花川戸。台東区東部で、墨田区(吾妻橋・向島)との区境に当たる。
源空寺 台東区東上野にある浄土宗の仏教寺院。号は五台山文殊院。
はっきりしたことは分らない 東京都教育庁生涯学習部文化課の『東京の文化財』で文化財講座「かぶき者の出現と幡随院長兵衛殺害事件」について「水野十郎左衛門の町奉行への申し出によると、その日、水野の屋敷に幡随院長兵衛が来て、遊女町に誘ったが、水野が用事があるので断わると、臆病者のような無礼な言い方をしたので、斬り捨てたというものでした。これか記録に残るこの事件の全容です」。つまり、これ以上のことはわからないし、屋敷の宴会も、風呂も、死体も、橋も、坂も、あるかないか、全て不明です。しかし、歌舞伎では、これを元にして「幡随院ばんずい長兵衛ちょうべえ精進しょうじん俎板まないた」や「極付きわめつき幡随ばんずい長兵衛ちょうべえ」などを作り出しました。

 ここで網干坂あみほしざかが問題になります。網干坂は神田川の大曲から歩いて約30分かかります。一方、牛天神は約5分でつきます。牛天神に最も近い坂は牛坂、別名は鮫干坂で、北野神社(牛天神)の北側の坂です。あみ干坂ではなく、さめ干坂だったのでないでしょうか。

網干坂と牛坂

「小日向小石川牛込北辺絵図」(高柴三雄誌、近江屋吾平発行、嘉永2年(1849)春改、地図は下図)では「水野右近」という名前がでかでかと書かれています。しかもその下の「牛天神社」、これも大きい。

小日向小石川牛込北辺絵図」(高柴三雄誌、近江屋吾平発行、嘉永2年(1849)春改)

 しかし、幡随院長兵衛がでてくるこの事件は「小日向小石川牛込北辺絵図」よりも約200年も昔に起こったもので、さらに寛文4年(1664)には、「年来の不行跡」のため、水野十郎左衛門には切腹を命じ、家は断絶されました。
 一方、この「小日向」の絵図に出てくる「水野右近」は静岡県伊東市宇佐美の一部を所管する旗本でした。つまり「水野右近」と「水野十郎左衛門」とは全く違った人物なのです。
 虚構で固めた物語でも、わかっていることがあります。実際に水野十郎左衛門がいたこと、さらに、その屋敷がどこにあったのかも判明しています。おそらく西神田2丁目でした。

隆慶橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋』(昭和52年、新人物往来社)の「隆慶橋」についてです。「隆慶橋」の名前は大橋龍慶氏に由来し、また、龍慶氏は書道の大橋流開祖の大橋重政氏の父になります。
 なお、父・大橋龍慶氏と息子・大橋重政氏の筆がしばしば似ていて混乱する原因になっています。

 隆慶橋(りゅうけいばし) 立慶橋、龍慶橋ともかかれている。新宿区新小川町一丁目より文京区後楽二丁目へ江戸川に架された橋で、創架年月は不詳だが、正保図にはなくて寛文図になって無名橋がこの位置に記されている。船河原橋の上流の橋で、むかし大橋龍慶なる者がこのあたりに屋敷を賜わって住んでいたのが橋名の起りで、龍慶は長左衛門、源重保といい、甲州の人で大奥側近の御祐筆で、いわゆる御家流書法の元祖だといわれている。
 府内備考は「立慶橋は中の橋の次なり、川のほとりにむかし大橋立慶の邸宅ありしゆえにかく橋の名となれりという。案ずるに正保年中(1644-1648)江戸図といえるものに、この橋のほとりに龍慶寺といえる寺見ゆ。恐らくはこの寺のほとりの橋なればかくいいしならん、されど今江戸の内にかかる寺あることをきかず、疑うべし。又『紫の一本』に、立慶橋というあり、されば町ありての名なりや。一説にりゅうけい橋と称す。」と記す。
 また、「新編若葉の梢」はこれを「(穴八幡)社地を寄進した大橋龍慶は長左衛門源重保といい甲斐の人で、大奥側近の御祐筆であった。老年に及び職を辞し、台命あって剃髪し、龍慶の号を賜った。式部卿法印に叙せられ、老体の采地として牛込の郷三十余町を賜り、その屋敷附近の江戸川に架された橋を龍慶橋と名附け、今にその名を残している。龍慶の書は徳川家の御家の書体として採択され、御家流と称して永く伝わるに至った。茶を小堀正一に学ぶ。寛文十一年六月三十日歿、五十五歳」とする。
 なお、校合雑記、不聞秘録などの誌す伝説では、旗本水野十郎左衛門に殺害された侠客幡随院長兵衛の遺体が、この隆慶橋の下に流れついたという。そのころ水野の屋敷は小石川牛天神網干坂に在ったというが、しかし水野屋敷の位置については、牛込の築土下、麻布六本木、西神田一丁目などと諸説が多い。

   隆慶橋を衰る頃、空しきりに曇りければ、家路急ぎて橋をはしる、そも/\此橋の古えを聞くに、大橋長左衛門立慶と云いたる人、此所に家有りければ、此橋の名に呼付けり。
雪洞「東都紀行」

 明治十九年の調査だとこの橋は長さ十六間、幅十四尺五寸の木橋とあるが、現在は鋼鈑橋である。

東洋文化協会編「幕末・明治・大正回顧八十年史」第5輯。昭和10年。赤丸が「隆慶橋」。前は「船河原橋」

江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
正保図 正保年中江戸絵図。正保元年か2年(1644-45)の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから。ただし、正保図でも隆慶橋はありそうだ。

正保年中江戸絵図

寛文図 寛文江戸大絵図。裏表紙題箋は、新板江戸外絵図。寛文12年6月に刊行。

大橋龍慶 江戸初期の能書家。通称長左衛門、いみな(死後にその人をたたえてつけられる称号)は重保。初め豊臣秀頼の右筆。1617年(元和3)能筆のゆえ、徳川秀忠の幕府右筆となり、采地500石を賜る。生没年は1582年〜1645年(天正10年〜正保2年)
甲州 甲斐国。現在の山梨県に相当する。
御祐筆 江戸幕府の職名。組頭の下で、機密の文書を作成、記録する役
御家流書法 おいえりゅう。小野道風、藤原行成の書法に宋風を加えた、穏和で、流麗な感じの書体。室町時代に盛んとなり、江戸時代には朝廷、幕府などの公用文書に用いられた。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
紫の一本 江戸時代の地誌。天和2年(1682)成立。2巻。戸田茂睡作。江戸の名所旧跡を山・坂・川・池などに分類し、遺世とんせい者と侍の二人が訪ね歩くという趣向で記述。
若葉の梢 「若葉の梢」は金子直徳著で、上下2巻(寛政10年、1798年)。新編が付いた「新編若葉の梢」では、昭和33年に刊行した「新編若葉の梢刊行会」の本。
台命 たいめい。だいめい。将軍などの命令。
式部卿法印 式部卿とは式部省の長官。法印は僧に準じて医師・絵師・儒者・仏師・連歌師などに対して与えられた称号。大橋式部卿法印は戦国時代末期に右筆として活躍した大橋重保のこと。
小堀正一 安土桃山時代〜江戸時代前期の大名。生年は天正7年(1579年)。没年は正保4年2月6日(1647年3月12日)。約400回茶会を開き、招いた客は延べ2,000人に及んだという。
寛文十一年 大橋龍慶の死亡は1645(正保2)年2月4日。子の大橋重政は1672(寛文12)年6月30日。
五十五歳 大橋龍慶は63歳で死亡。子の重政は55歳。どうも「寛文十一年六月三十日歿、五十五歳」の少なくとも1文は、子の重政のことを間違えて書いたのでしょう。
築土下 築土(現在は筑土)の北側。ちなみに、築土前は築土の南側。
雪洞『東都紀行』 『燕石えんせき十種じっしゅ』は江戸末期の写本の叢書。明治40年、国書刊行会が三巻本を刊行。続編として『続燕石十種』(2巻)、『新燕石十種』(5巻)が新たに編集、刊行。辻雪洞氏の『東都紀行』は『新燕石十種』(明治45年)で刊行。
長さ十六間、幅十四尺五寸 長さは約29m。幅は約4.4m。

目白通り工事(写真)新小川町 昭和45年 ID 473, 13055, 13081-85

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 473、13055、13081-85は、昭和45年1月に目白通り、神田川、首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しました。資料名は「新小川町二丁目大曲付近」です。しかし、住居表示が変わり、2丁目はなくなってただの「新小川町」になりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13055 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13084 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13085 新小川町二丁目大曲付近

 ID 13055、13084-85は南側から北側の大曲までを撮影しています。目白通りは2車線ずつの対面通行で、神田川の上に首都高があり、その下で川を渡るのは白鳥橋です。目白通りを通るとT字型の「大曲交差点」となります。信号機は一見すると確認できませんが、カバーなどで覆われているだけでしょう。
 白鳥橋の上、首都高が途切れたようになっていてるのは、後に飯田橋料金所を作る場所です。
 首都高の下、向かって右側の歩道はおそらく利用ができず、バリケードやブロック、チェーンスタンド、コンクリートの土管らしきもの、大きな円環3つなどが並んでいます。作業小屋もあります。歩道の縁石をまたいで何台かの車が止まっています。おそらく工事のためでしょう。
 左手前から奥に向けて、ヘルメット姿の作業員達は目白通りを大きく掘削しています。鉄骨や、穴を掘るための鉄板が並んでいます。
 目白通りの地下には神田川の洪水対策として江戸川橋分水路があります。しかし東京都の資料によれば建設年は昭和47ー52年で、写真と時期があいません。また平面図で見ると、分水路が作られたのは神田川寄りで、写真とは反対側です。
 文京区関口一丁目南部会は「昭和44年頃より江戸川橋ー下水管一本埋設」としています。現在の都の下水道台帳を調べると、江戸川橋分水路に沿って「早稲田幹線」があるのが分かります。工事は、この下水管に関係したものでしょう。

下水道台帳 大曲付近

 少し前の昭和44年9月のID 12776-79では、大曲付近の掘削はまだ着手していないように見えます。まず下水管を整備し、そのあとで分水路の建設に着手したのでしょう。
 ID 13085では、目白通りを「東京タワー」と書いたバスが北進中。また、トレードマーク「フクスケ」の広告塔は、福助株式会社でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 473 飯田橋大曲

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13081 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13082 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13083 新小川町二丁目大曲付近

 ID 473、ID 13081-83は、南向きの撮影で、遠くに飯田橋交差点の歩道橋が見えます。首都高の下の橋は隆慶橋です。
 写真右の掘削工事は飯田橋交差点方向に続いています。手前に「工事許可要件」の告知看板が立てかけられていますが、詳細は確認していません。
 右側の歩道は、工事によってやや狭くなっているように見えます。掘削部は一定間隔で鉄板を敷き、車道に出られるようにしています。歩道の回りにはトレードマーク「/出光」「日産サービス」の看板があり、これは昭和52年のID 12216に写っているものと同じです。その隣奥の少し引っ込んだビルは東京電力新小川町変電所。やや離れて「モリサワ」「(東海)銀行」の屋上看板が見えます。ほかに電柱広告「印刷ローラー 博文社」「歯科 田◯」「質 長島」などが確認できます。
 写真左上、首都高の上には「↖飯田橋出口/本線↑」の標識があり、本線の向こうに飯田橋出口のランプが見えます。その上には屋上広告「鹿島をひらく 鶴屋産業」があります。

下宮比町(写真)分水路吐口 昭和51年 ID 476-77, 485, 488, 11460-61, 12187-88

文学と神楽坂

  新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 476-77、485、488、11460-61、12187-88は昭和51年(1976)8月に飯田橋歩道橋の上から下宮比町、首都高速道路5号線(池袋線)や目白通り、神田川などを撮影しています。資料名は「下宮比町、高速道路下」で、ID 476-77、12187-88(カラー)が4枚、ID 485、488(白黒)が2枚、「目白通り、首都高速5号線、神田川(飯田橋付近)」ID 11460-61が2枚です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 476 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12188 飯田橋付近 目白通り 下宮比町

下宮比町(昭和51年)
  1. 袖看板「麻雀 東南 お気軽にご◯」
  2. 袖看板「3F 武西歯科 ☎2◯」
  3. 袖看板「◯◯◯ ◯◯◯◯◯機械専門/東京伊藤鉄工 株式会社」
  4. 袖看板「有限会社 銀座◯」
  5. 袖看板「近畿日本ツー(リスト)」
  6. 袖看板「お気軽に大小コンパ/御宴会受け承ります/サッポロビール/たたき◯巻/大衆酒場/八鶏園」
  7. 袖看板「12月生(募)集中/M/フィニッシュワ(ークスクール)」
  8. 袖看板「(52レーン)」(イーグルボウル)
  9. 左の歩道
  10. 道路標識 (駐車禁止)(転回禁止)(消火栓)
  1. 片側2車線。中央に三角コーン1。右側の2車線は色が違う。
  2. 隆慶橋。一時的に片側3車線に増える。交通信号機は青色。
  3. 右の歩道。両側に木製の仮設と思われる柵。裏側の道路標識。スポットライト様のライト。
  4. 首都高速道路5号線(池袋線)。橋脚は2本
  5. 神田川
  6. 首都高出口のランプから下に行く道路
  7. 右は文京区。近くに松屋ビル

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 477 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12187 飯田橋付近 目白通り 下宮比町

下宮比町(昭和51年)
  1. ポール看板「イーグルボウル」(52レーン) P有料駐車場 駐車料金◯◯ 200円
  2. 塔屋看板「モリサワ/写植スクール/随時受付 夜間部 12月生募集中」壁面看板「M」袖看板「フィニッシュワークスクール」「モリサワ写真植字機」
  3. 電柱看板「つる家」(ホテル)
  4. ポール看板「つる家」
  5. 左の歩道
  6. 道路標識 (駐車禁止)(転回禁止)
  7. 高いビルは「池田ビル」(地上8階)
  1. 右の歩道。歩道の両側に木製と思われる柵。
  2. 首都高速道路5号線(池袋線)。橋脚は2本
  3. 神田川
  4. 川の上で隆慶橋と反射像
  5. 首都高出口のランプから下に行く道路

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 485 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11460 目白通り、首都高速5号線、神田川(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 488 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11461 目白通り、首都高速5号線、神田川(飯田橋付近)

 神田川に近い歩道ではスポットライト様の光をあてていて、歩道橋に行く階段があります。ID 485と488で隆慶橋の交通信号機は赤。川を渡った文京区では「建物・不動産/松屋」がID 485と488ともにあり、ID 488は首都高から車が出てくる場所の上で「◯ガロ」やネオンサイン「競」「調」などが見えています。しかし、建物の名称について多くは小さすぎて読めません。
 この4枚の写真は、おそらく神田川の「江戸川橋分水路」が完成に近づいたことを記録したものでしょう。分水路は目白通りの地下に建設し、ID 488の手前に見えるコンクリートと鉄板の「吐口はきぐち」を通って神田川に流れ込みます。
 分水路が通っている部分の目白通りの舗装はコンクリートのような色で、左側のアスファルトらしき部分と色が違います。分水路はカーブして吐口につながっています。
 吐口のすぐ手前には飯田橋歩道橋の上り階段があり、交差点ギリギまで分水していることが分かります。
 江戸川橋分水路は神田川流域の洪水被害を防ぐ目的で建設され、写真の翌年の昭和52年に完成しました。

首都高速(写真)新小川町 昭和44年 ID 12776-79

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12776-79は、首都高速道路5号線(池袋線)の飯田橋出入口付近を昭和44年9月に撮影したものです。備考では「新小川町付近高速道路下」となっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12776 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12777 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12778 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12779 新小川町付近高速道路下

 5号線は1969年(昭和44年)6月27日、西神田出入口から護国寺出入口までを供用開始しました。
 この写真は開業から間もない時期のものです。高所からの撮影で、おそらく飯田橋交差点(下宮比町)の東海銀行飯田橋支店の建物、現在の飯田橋御幸ビル(1966年=昭和41年5月竣工)から北の方角を見下ろしたのでしょう。
 目白通りが奥に延びています。ここには都電15系統が走っていましたが、1968年(昭和43年)に廃止され、軌道も見えません。
 首都高は神田川の上に建設されました。画面左に曲がる急カーブは「大曲」と呼ばれる場所です。手前から3本目の橋脚にかかる橋が「隆慶橋」です。その右側、高架の向こうに首都高から下りてくる「飯田橋出口」があります。
 一方、目白通りの奥に首都高が白く光って途切れている部分があります。ここは飯田橋入り口の予定地ですが、実際に建設されたのは昭和52年(1977)ごろでした。ID 12215-16に工事中の様子があります。
 手前のビルには写植・フォント大手の「モリサワ」の大きな看板。経営理念は『文字を通じて社会に貢献する』こと。デジタルフォント(日本語ポストスクリプトフォント)が有名です。本社は大阪で、大正13年に設立。この下宮比町15-5は昭和44年からの東京支店です。
 目白通り沿いの少し先のビルは「中央印刷」。大曲の向こうの「TOPPAN」は文京区の会社で今は「TOPPANホールディングス株式会社」、昔は凸版印刷株式会社と呼んでいました。本社は東京都台東区で、創業は明治33年。事務所は文京区水道1-3-3。総合印刷会社です。
 いずれも印刷関係の企業で、神田川流域が印刷・出版で発展した歴史を感じさせます。

首都高速5号線(写真)水道町 東五軒町 新小川町 昭和52年 ID 12205、12208、12215-16

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12205、12208、12215-16は、昭和52年(1977)5月、首都高速道路5号線(池袋線)の飯田橋から江戸川橋までの写真です。
 5号線は1969年(昭和44年)6月27日、西神田出入口から護国寺出入口までを供用開始しました。飯田橋-江戸川橋間は新宿区と文京区の区境にあたり、神田川の中を通っています。
 さらにID 12205、12215-16は備考として「新小川町一丁目付近 隆慶橋」、ID 12208は「水道一丁目 新小川町三丁目」をあげています。昭和57年の住居表示実施に伴い、丁目を廃止し、新小川町だけとなりました。また「水道一丁目」は「文京区水道一丁目」が普通ですが、「文京区水道二丁目」「新宿区水道町」もありえます。

(1)新宿区水道町。西向き。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12205 首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋

 高速道路は右奥へと曲がっています。神田川のこの付近には、江戸期から「大曲おおまがり」と呼ばれた急カーブがありました。
 しかしこの写真は大曲ではありません。首都高の大曲付近の橋脚は、川を挟むように2本の足を持つ「門形」で、写真の1本足の「T型」とは違います。また左側に見える歩道橋も大曲と飯田橋交差点の間にはありません。
 該当する場所は目白通りの新宿区水道町から西向きに石切いしきりばし方向を撮影したものです。橋脚の形や歩道橋、首都高がふくらんだ「非常駐車帯」の位置、高速の下の道が(三角コーンで仕切られて)対面通行になっている様子なども合致します。

現在の新宿区水道町 Google

 なお、ID 12205の備考の説明は「新小川町一丁目付近 隆慶橋」ですが、「新宿区水道町 石切橋付近」としておきます。
 歩道橋の手前が石切橋交差点です。田口政典氏の「歩いて見ました東京の街」の1976年(昭和51)12月2日の写真06-09-54-2「下流から石切橋を」では古くて狭い石切橋が写っています。ID 12205でも、かろうじて確認できます。

 ID 12205の「安」「全」「+」の工事柵の向こうの小さな橋は、おそらく工事時の架設の橋でしょう。

(2)新宿区東五軒町。東向き。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12208 首都高速道路5号線 水道一丁目 新小川町三丁目

 東五軒町の北、目白通りを東向きに撮影しています。(1)のID 12205から飯田橋側に寄ったところで、位置としてはざくらばしのたもとです。
 首都高の柱の左側を神田川が流れます。川の小さななかはしも写っています。文京区側につながる斜めの橋が見えています。この橋は中ノ橋と白鳥橋しらとりばしの間にあり、「新白鳥橋」と命名されました。また「(TOP)PAN」(凸版印刷)の印刷工場は川の北側で、この場所は文京区水道一丁目にあたります。
 写真の正面奥、首都高が右に丸く膨らんでいるのが飯田橋料金所です。広がった部分を支える大きな門形の橋脚が分かります。料金所付近から右に「大曲」のカーブになります。写真右端の(共同石油)のガソリンスタンドから先は新小川町(昔の新小川町3丁目)です。
 また、地上を走る上り車線は正面の柵の奥、信号の場所で左右2本に分かれます。高速に出入り口を設置すると、どうしても道幅が狭くなってしまいます。そこで目白通りの一部を左の文京区側に通すことで交通渋滞を減らすことを狙いました。
 地上でまっすぐ奥につながる道は飯田橋に向かう目白通りの上り車線です。工事のため車が走っていません。
 以下の上り車線と下り車線はどちらも地上の車線です。

昭和54年 新白鳥橋付近(地理院地図 整理番号 CKT794 コース番号 C10 写真番号 12 撮影年月日1979/11/14)に加筆。

整理番号 CKT794 コース番号 C10B 写真番号 12 撮影年月日1979/11/14(昭54

現在の目白通り

 この区間の目白通りの地下には、神田川の洪水対策のための「江戸川橋分水路」があります。この分水路は昭和52年に完成しました。写真は完成直前の様子を撮影したものでしょう。高速の柱の下には、地下に降りるオレンジ色の階段入り口があります。

神田川と目白通り地下(分水路・地下鉄)の断面図(東京都建設局市料)

 新小川町付近は大雨のたびに神田川の洪水が繰り返されてきましたが、分水路の完成によってリスクは小さくなりました。


(3)新小川町(かつての一丁目)付近。北向き

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12215 工事中の首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋付近

 新小川町の東側の目白通りから、首都高の飯田橋料金所の建設風景を撮影しています。首都高の下は神田川。正面が大曲の急カーブ。背中側に隆慶橋や飯田橋交差点があります。
 首都高では出入口を「ランプ(ramp、高低差のある場所を連結する傾斜路)」と呼びます。インターチェンジ(interchange、IC、複数の道路を相互に接続する施設)やジャンクション(junction、接合点、合流点)と違い、特定方向にしか行けないからです。写真の飯田橋ランプは、目白通りから首都高5号線の北池袋方面に進入するためだけの入り口です。
 冒頭に記したように、5号線のこの区間は1969年(昭和44年)6月に開業していますが、この写真を撮影した1977年(昭和52年)でも、まだ飯田橋ランブは建設中でした。
 もう1点、特徴的なのは、三角コーンを境に対面通行になり、車が手前向きに走っていることです。この状態では、北に向かう車がランプの坂を上れません。
 撮影当時、高速道路の真下はID 12208と同様に神田川の「江戸川橋分水路」を建設していました。このため下り車線を狭めて、対向車の通るスペースを確保したのでしょう。目白通りの整備は高速道路だけでなく、地下の分水路、その下の地下鉄有楽町線の建設を含めて、非常に長期にわたりました。
 この写真の撮影場所は後に大々的に区画整理され、平成28年に放射25号線が開通。「新隆慶橋」という新しい橋が架けられました。

 ID 12215の左には「国際航空輸(送)」(かつては新小川町一丁目5)の看板がありますが、今は何も残っていません。高速道路の向こうの「日本信販」の広告は文京区です。

(4)新小川町(一丁目)付近 北向き

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12216 工事中の首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋付近

 ID 12215とほぼ同じ場所で、道を渡った高速の真下から道沿いの建物を撮影したものです。
 建設中の坂道が、飯田橋料金所に上がる首都高のランプ。その手前の坂のように見えるのは目白通りの上り車線です。一番右にガードレールが見えます。
 この区間は神田川の「江戸川橋分水路」建設のため通行止めになっています。一番、奥に工事車両が見えます。その先は新白鳥橋に分岐する交差点があります。
 道路脇の建物は新小川町で、出光とロゴマーク()と看板「全軽和」、ナショナル(現、パナソニック)のロゴマーク()などが見えます。「全軽印」の看板のビルの左は東京電力新小川町変電所で、現在も変わりません。その左側の消火栓広告は「きもの英」です。

船河原橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋』(昭和52年、新人物往来社)の「船河原橋」についてです。氏は東京都公文書館主任調査員として勤務し、昭和48年に「近代作家の基礎的研究」を刊行し、「江戸東京坂道辞典」「東京の橋」などを執筆。生年は1916年8月24日 、没年は1987年。享年は70歳か71歳です。「船河原橋」では……

 船河原橋(ふながわらばし) 新宿区下宮比町から東へ文京区後楽二丁目に渡されている鉄筋コンクリート橋。旧橋はやや上手に江戸川へ架されていて、寛文の江戸図では「どんどばし」と記されており、正保の絵図にはないので神田川開さくのあとほどなく創架されたと思われる。

やや上手に 江戸時代の船河原橋を2枚、明治早期は3枚、明治後期と大正時代2枚。さらに昭和51年と現在の地図。
牛込橋と船河原橋

台紙に「東京小石川遠景」と墨書きがある。牛込見附より小石川(現飯田橋)方面を望んだ写真らしい。明治5年頃で、江戸時代と殆ど変化がないように思える。遠くに見える橋は俗称「どんと橋」と呼ばれた船河原橋であろう。堰があり手前に水が落ちている。しかし水 位は奥の方が低く、水は奥へと流れているらしい。堀は外堀である飯田堀で、昭和47年、市街地再開発事業として埋め立てられ、ビルが建った。内川九一の撮影。六切大。(石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

大正8年頃。飯田橋と牛込区筑土方面遠望。右は船河原橋。左は飯田橋

昭和56年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。386頁

Yahoo!地図

寛文の江戸図 新板江戸外絵図。寛文五枚図の外周部にあたる4舗。寛文11-13(1671-1673)刊

新板江戸外絵図。

正保の絵図 正保年中江戸絵図。正保元年(1644)か2年の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから

正保元年(1644)か2年の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから

開さく 開鑿。開削。土地を切り開いて道路や運河を作ること。
創架 新たに上にかけ渡す。架橋

新撰東京名所図会には「船河原橋は牛込下宮比町の角より小石川旧水戸邸、即ち今の砲兵工廠の前に出る道路を連絡する橋をいう。俗にドンド橋あるいは単にドンドンともいう。江戸川落口にて、もとあり、水勢常に捨石激してそうの音あるにる。此橋を仙台橋とかきしものあれど非なり。仙台橋は旧水戸邸前の石橋の称なるよし武江図説に見えたり。旧松平陸奥守御茶の水開さくの時かけられしに相違なしという。」と述べ、この橋下を蚊屋かやが淵と称したことを「蚊屋が淵は船河原橋の下をいう。江戸川の落口にて水勢急なり。あるいは中之橋隆慶橋の間にて今大曲おおまがという処なりと。江戸砂子に云う。むかしはげしきしゅうとめ、嫁に此川にて蚊屋を洗わせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。」と伝えている。
新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
砲兵工廠 ほうへいこうしょう。旧日本陸軍の兵器、軍需品、火薬類等の製造、検査、修理を担当した工場。1935年、東京工廠は小倉工廠へ移転し、跡地は現在、後楽園球場に。
道路 現在は外堀通り
ドンド橋 船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちて、どんどんと音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
落口 おちぐち。滝などの水の流れの落下する所
 せき。水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた場所。
捨石 すていし。土木工事の際、水底に基礎を作ったり、水勢を弱くしたりするために、水中に投げ入れる石。
激して 激する。げきする。はげしくぶつかる。「岩に激する奔流」
淙々 そうそう。水が音を立てて、よどみなく流れるさま
仙台橋 明治16年、参謀本部陸軍部測量局の東京図測量原図を使うと、下図の小石川橋から西にいった青丸で囲んだ橋が仙台橋でしょう。

武江図説 地誌。国立国会図書館蔵。著者は大橋方長。別名は「江戸名所集覧」
開さく 開鑿。開削。土地を切り開いて道路や運河を作ること。
蚊屋 かや。蚊帳。蚊を防ぐために寝床を覆う寝具。
中之橋 中ノ橋。なかのはし。神田川中流の橋。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
大曲り おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。
江戸砂子 えどすなご。菊岡沾涼著。6巻6冊。享保17 (1732) 年刊。地誌で、江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。
はげしき 勢いがたいへん強い。程度が度を過ぎてはなはだしい。ひどい。

「どんど」「どんどん」などは水音の形容からきたもので、同じ江戸川の関口大洗堰おおあらいぜきのことも「どんど」と呼んでいたし、また大田区の道々橋は「どうどう橋」が本来の呼び方でこれも水音から起った名であろう。江戸川は上流の大洗堰からこの船河原橋までが、旧幕時代のお留め川(禁漁区)で有名な紫鯉が放流されていたが、どんどんから下へ落ちた魚は漁猟を許したので、ここの深瀬は釣人でにぎわったと伝えられる。

関口 文京区西部の住宅商業地区。山手台地に属する目白台と神田川の低地にまたがる。
大洗堰 神田上水の取水口のこと。せきとは水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた場所。目白台側の神田上水に取水され、余った水が落ちて流れて江戸川(神田川)となっていた。
お留め川 おとめかわ。河川,湖などの内水面における領主専用の漁場
紫鯉 頭から尾鰭までが濃い紫の色をした鯉

 いざ給へと小車の牛込を跡になしつつ、舟河原橋はいにしえのさののふな橋ならで、板おおくとりはなして、むかしながらの橋ばしらゆるぎとりて、あらたにたてわたしてなんとすなる。(ひともと草
 関口のより落つるどんど橋(諧謔)
 船河原橋にて、電車を下りて築土八幡に至る。せせこましき処に築土八幡と築土神社との二祠並び立ち、人家もあり、樹木も高くなり過ぎて矚望しょくぼうを遮りたるが、これらの障害なくば、ここは牛込台の最端、一寸孤立したる形になりて四方の眺望よかるべき処なり。(大町桂月「東京遊行記」明治39年)
 現橋は昭和45年竣工のコンクリート橋で橋長21.1メートル、幅24.1メートル。

いざ給へ 「さあ、いらっしゃい」「さあ、おいでなさい。」の意味。相手を誘い、行動を促す。
さののふな橋 佐野の舟橋。群馬県高崎市佐野を流れる烏川にあった橋。「舟橋」は、舟を横に並べ、板をわたしたもの。
橋ばしら 橋柱。橋桁(はしげた)を支える台。 橋脚。 橋杭。
ゆるぎ 揺(る)ぎ。ゆるぐこと。動揺。不安定。
たてわたす 立て渡す。一面に立てる。立て並べる。
すなる するという、すると聞いている
ひともと草 寛政11年(1799年)、大田南畝などの25人の和文をまとめたもの。
 みね。峰、峯。嶺。山のいただき。山の頂上のとがったところ。物の高くなっている部分。
せせこましい 場所が狭くてひどく窮屈な感じ。
矚望 「矚」(しょく)はみる、注視する。「望」(ぼう)は、遠く見る。国立国会図書館デジタルコレクションの「東京遊行記」では460頁

紫鯉|遊歴雑記

文学と神楽坂

 十方庵敬順氏が書いた「遊歴雑記初編」(嘉永4年、1851年)です。これは1989年、朝倉治彦の校訂で平凡社が復刻した部分から取りました。江戸川(現神田川)の「中の橋」で「むらさき鯉」があったといいます。最初は現代語訳です。

[現代語訳] 武蔵国江戸川の最上部は牛込区と小日向区との間にある目白下大洗堰で、ここで白堀上水を分け、あまった水は下流にながす。一方、江戸川の最下部は船河原橋であり、これで終わる(訳注。昔の神田川を神田上水、江戸川、神田川と3つに分けていました。現在は全て神田川です)。川の長さはおよそ2000mで、この間を江戸川という。しかし、誠実に呼ぶと、小日向の「中の橋」の上流220m、下流220m、前後440mをあわせた流れを江戸川という。
 その理由は、「中の橋」の流れが大部分は深く、鯉も数多く、橋の上から見ると、大きな鯉では90~110センチに及び、たまには、110センチ強と思える緋鯉も見える。「中の橋」の前後は鯉は殊に多く、水中でただ一面に黒く光り、キラキラと泳ぐものはどれも鯉だ。どれも肥えて太っていて、あるいは、丸く短い。これをむらさき鯉と称し、風味で見ると、このむらさき鯉が一番良く、豊島荒川の鯉や利根川の鯉はこれよりも劣る。これを紫鯉というのは、江戸川という名前からきたもので、逆に、数千万匹の紫鯉があるからこそ、江戸川という名前がついた。以上が、江戸むらさきの由縁である。
 この清流の鯉は、むかし、五代将軍徳川綱吉がここに御放流し、この鯉は成長し、さらに、八代将軍徳川吉宗も同じくここに放流してこの鯉も成長したので、「中の橋」の前後、川の中央部では550mほどの間は、「御留川」として、釣魚は厳禁である。また鯉は「中の橋」前後でだけ動き、外には行かない。ただし、大雨が降りつづき、満水する場合は違い、鯉は川下の竜慶橋の辺りにまで下がることもある。逆に水上の石切橋の辺りに上る場合もある。石切橋からの川上では、まれに網や釣りをして、鯉をとらえる場合もあるという。例年1~2度、2,3艘の御用船はならべて乗り入れ、鯉を採ることもある。

神田上水と旧江戸川

 東武江戸川(現神田川)といふは、牛込小日向の間にハサまりて、カミ目白下ヲゝ洗堰アライゼキに於て白堀シタホリ上水をワケ余水の下流にして、末はフナ河原ガワラバシまでの間、川丈カワタケ長き事拾八九町、此間を惣名ソウメウ江戸川といひ来れり、しかれども誠の江戸川とサスところは、小日向ナカハシ水上ミヅカミ弐町、橋よりシモ弐町、前後四町が間のナガレを江戸川といえり、
 その故は、中の橋の水中はホトンド深くして、ぎょ夥し、大いなるは橋の上より見る処、弐尺四五寸又は三尺に及ぶもあり、邂逅タマサカには、三尺余と覚しき緋鯉ヒゴイも見ゆ、中の橋の前後殊に夥しく、水中只壱面に黒く光り、キラ/\とヲヨぐものは皆鯉魚なり、おの/\肥太コエフトりたる事、丸くして丈みじかきが如し、これをむらさきゴイと称し、風味鯉魚の第一、豊嶋荒川又利根川トネガワの鯉、これにツグべしとなん、是を紫鯉といふ事は、江戸川といふ名によりて名付、又此処に紫鯉数千万スセンマンあるが故に、江戸川とは称す、江戸むらさき由縁ユカリによりてなりとぞ、
 此清流の鯉は、むかし、常憲尊君五代将軍徳川綱吉へ御放しありて、生立ソダテしめ給ひ、後又有徳尊君(八代将軍徳川吉宗)同じく此処へ放して生立ソダテしめ給ふによりて、中の橋前後、河中五町程の間は、御止川ヲントメガワと成て、釣するを堅く禁じ給ふ、此鯉魚中の橋前後にのみ住て、更に外へ動かず、但し、大雨降つゞき満水する時は、川下カワシモ竜慶橋辺へさがるもあり、又水上ミヅカミ石切橋イシキリバシ辺へ登るもありけり、石きり橋より上にては、マレアミツリして、鯉魚を得る事もありとなん、例年壱両度づゝ御用船弐三艘ならべ乗イレ、鯉魚をトラしめ給ふ、

東武 武蔵国の異称。江戸の異称。
牛込 旧牛込区のこと。昭和22年以降は四谷区、淀橋区と合併し、新宿区に。
小日向 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
目白下 目白下は文京区目白台よりも標高は低く、江戸川橋の周辺で、場所は関口一丁目、水道二丁目、水道一丁目など。
洗堰 あらいぜき。常時水が堰の上を溢れて流れるように作った堰。
白堀 しらほり。開渠。蓋のない地上の水路のこと。
余水 よすい。余分の水
船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。文京区後楽2丁目、新宿区下宮比町と千代田区飯田橋3丁目をつなぐ橋。
川丈 川の長さ。
 およそ。おおかた。だいたい。約。
拾八九町 長さの単位で、1963~2072メートル
惣名 そうみょう。総名。いくつかの物を一つにまとめて呼ぶこと。呼び名。
中の橋 なかのはし。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けた橋。
水上 みずかみ。「みなかみ」で「流れの源のほう。上流。川上」
弐町 二町。約220メートル
 ほとんど。大多数。大部分
鯉魚 りぎょ。鯉(こい)
邂逅 「わくらば」と読み、「まれに。偶然に」
たまさか 偶さか。適さか。偶然。たまたま。
弐尺四五寸 2尺4~5寸。約91~95センチ
三尺 114センチ
緋鯉 ひごい。赤や白の体色の鯉の総称。普通、橙赤色。観賞用。
豊嶋 豊島郡。武蔵国と東京府の郡。おおむね千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、大部分の練馬区。江戸時代以降、江戸市中は豊島郡から分離。
江戸むらさき 色名の一つ。濃い青みの紫。16進法では#745399     
常憲 第5代将軍徳川綱吉つなよしの戒名は常憲院殿贈正一位大相国公。
尊君 男性が、相手の男性を敬っていう敬称
 ここ。現在の時点・場所を示す語
生立 おいたち。生い立ち。育ってゆくこと。成長すること。
有徳 徳川吉宗の戒名は有徳院殿贈正一位大相国
御止川 御留川。おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所
 と。いっしょに事をする仲間。
竜慶橋 隆慶橋。りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。上図を
石切橋 いしきりばし。付近に石工が多かったため。別名は「江戸川大橋」。上図を
壱両度 いちりょうど。一回か二回。1~2回
御用船 江戸時代、幕府・諸藩が荷物運送などを委託した民間の船舶。

川柳江戸名所図会③|至文堂

文学と神楽坂

 次は「江戸川」です。「神田川」は、東京都の井の頭池を泉源にして、中心部をほぼ東西に流れて隅田川に注ぐ川ですが、そのうち中流部、つまり、関口大洗おおあらいぜきからスタートし、外堀と合流するふな河原かわら橋の川までを、1965年(昭和40年)以前には「江戸川」と呼んでいました。ちなみに当時の上流部は神田上水、下流部は神田川と呼んでいました。1965年(昭和40年)、河川法が改正され、神田上水、江戸川、神田川3つをあわせて「神田川」と呼ぶようになりました。

江 戸 川

ここで江戸川をさかのぼってみる事にする。井の頭に発する上水が、関口で分れ、一方は神田上水としてやや上を流れて、後楽園を過ぎ、神田川水道橋の所でで渡って神田に入るが、他方は落ちてこの江戸川となり、東へ流れ、大曲と称する辺から南流して、お濠へ合流して神田川となる。
 橋は関口橋江戸川橋華水橋掃部橋古川橋石切橋大橋ともいう)・中の橋、曲ってから隆慶橋とんど橋である。
 中の橋の辺りは、白鳥が池といったという。後に、大曲のところにかけられた橋を白鳥橋というのはその故であろう。

神田上水と旧江戸川

江戸川 ここでは神田川中流のこと。神田上水の余水を文京区関口台の江戸川橋付近で受け、飯田橋付近で外堀の水を併せて神田川となる。現在、神田上水、江戸川、神田川はすべて神田川になる。
井の頭 いのかしら。東京都武蔵野市と三鷹市にまたがる地区。中央に武蔵野最大の湧水池である井の頭池がある。神田川の源流。
上水 飲料などで管や溝を通して供給する水。水道水。汚物の除去や殺菌が行われている。
関口 文京区西部の目白台と神田川にまたがる地域。地名の起源は、江戸最初の上水道、神田上水の取入口、大洗おおあらいぜきがあったため。
神田上水 江戸初期、徳川家康が開削した日本最古の上水道。上図を。現在は廃止。
後楽園 文京区にある旧水戸藩江戸上屋敷の庭園。中心に池を設け、その周囲を巡りながら観賞する。上図を。
神田川 東京都の中心部をほぼ東西に流れて隅田川に注ぐ川。昔は上流部を神田上水、中流部を江戸川、下流部を神田川といった。
水道橋 千代田と文京両区境の神田川にかかる橋。地名は江戸時代に神田上水からの導水管を渡す橋があったため。
 とい。水を送り流すため、竹・木などで作った溝や管。神田上水の水道橋では上空をわたす管、掛樋かけひがありました。
神田に入る 神田上水は小石川後楽園を超えると、水道橋駅の先の懸樋(上図の右下を参照)で神田川を横切り、まず神田の武家地を給水する。
大曲 おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。橋は白鳥橋と呼ぶ。

延宝7年(1679年)「江戸大絵図」

関口橋 関口の由来には、奥州街道の関所とする説と神田上水の大洗ぜきとする二説がある。せきとは「河川の開水路を横断し流水の上を越流させる工作物」。
江戸川橋 「江戸川」とはかつて神田川中流部分(大滝橋付近から船河原橋までの約2.1km)の名称。江戸川橋は中流域で最初の橋梁
華水橋 はなみずばし。江戸川の桜並木と関係があるのか、わかりません。
掃部橋 かもんばし。江戸時代、橋のそばに吉岡掃部という紺屋があったことから。
古川橋 昔、神田川は古川ふるかわと称した時期があり、橋の南詰側には昭和42年まで西古川町、東古川町の地名があった。
石切橋 いしきりばし。付近に石工が多かったため。別名は「江戸川大橋」
大橋 おおはし。石切橋のこと。
中の橋 中ノ橋。なかのはし。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
とんど橋 現在は船河原ふなかわらばし。船河原とは揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原から。船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちる水音がして、ほかに「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」などと呼ばれていた。
白鳥が池 大曲から飯田橋に至る少し手前まで、大昔には「白鳥池」という大きな池があったようですが、延宝7年(1679年)の「増補江戸大絵図絵入」(上図参照)ではもうありません。
白鳥橋 しらとりばし。湿地帯で、神田川の大きな池があったという。

 さて、この川には紫色を帯びた大きな鯉が多くいて美味であったところから、幕府御用として漁獲禁断の場〈お留川〉となっていた。
    鯉までも紫に成江戸の水        (明三信1)
    お上りの鯉紫の水に住み         (三七・25)
 江戸は紫染のよいところであった。
    こくせうになぞとほしがる御留川     (二七・28)
 こくせうは〈濃汁(こくしょう)〉、鯉を濃い味噌汁でよく煮たもの、いま〈鯉こく〉という。
    奪人の無いむらさきの御留川      (一三五・33)
    紫を人の奪ぬ御留川          (六〇・2)
論語に「子日、紫之奪朱也。」とあり、意味は間色が正色を乱すことであるという。その語を借りたしゃれである。

 紫色を帯びた大きな鯉が多かったというおそらく事実は、岡本綺堂氏が小説「むらさき鯉」でも書いています。

お留川 おとめかわ。御留川。河川や湖沼で、領主の漁場として一般の漁師の立ち入りを禁じた所。
紫染 紫根染。しこんぞめ。ムラサキ(紫)の根から抽出した染料を使った染色。灰汁を媒染とする。
こくせう 濃漿。こくしょう。魚や野菜などを煮込んだ濃い味噌汁。鯉こくなど。
鯉こく こいこく。鯉濃。鯉を筒切りにして、味噌汁で時間をかけて煮込んだ料理。「鯉の濃漿」から
奪人 人から奪う、獲得するなどの意味。
論語 孔子の書とされる儒教の経典。四書五経の一つ。20編からなる。
悪紫之奪朱也 紫の朱を奪うをにくむ。朱が正色なのに、今では間色の紫が朱に代って用いられることがあるが、これには警戒したい。「奪」は地位を奪う、取って代わる、圧倒する。

    江戸川小松川鶴の御場      (一一二・34)
 葛飾の小松川は幕府の鶴の猟場であった。
    車胤王祥江戸川の名所なり      (一ニー・21)
 鯉のほか、螢も名物であった。昔、支那の晋の車胤という者、家が貧しくて油が買えず、螢を集めて本を読んだという故事は、「螢の光」という歌で知られている。
 王祥は、二十四孝の一人で、冬に継母が鯉が食べたいというので、川の氷の上に寝ころんでいると、氷がとけて鯉が躍り出、捕えて母に供したという話がある。
 螢について「絵本風俗往来」には「螢の名所は、落合姿見橋の辺・王子谷中螢沢目白下江戸川のほとり……」とある。姿見橋や、目白下はこの川のすぐ上流であるから、この川一帯にも見られたのであろう。
 橋の内、石切橋のしも、大曲のかみにかかる橋が〈中の橋〉である。この辺りを〈鯉ヶ崎〉とも言った。
    中の橋一本ほしひと言所         (明二仁5)
    むらさきの鯉濁らぬ橋の下        (二八・5)
 橋の名は、日本橋・新橋のように、連声で「ばし」と濁音になることが多いが、中の橋は濁らず清んで訓むということと、濁らぬ水ということもかけているのであろう。

小松川 東京府南葛飾郡小松川村は「つる御成おなり」と呼ぶ鶴の猟場でした。
御場 普通は「御場」は幕府の御鷹場おたかばのこと。鷹場は鷹狩りを行う場所。
猟場 りょうば。狩りをするのに適している場所。かりば
車胤 しゃいん(不明~400)。中国東晋の官吏、学者、政治家。灯油を買うことができず、蛍の光で勉強した話で有名。
王祥 おうしょう(185~269)。継母にも孝行を尽くし、生魚を食べたいというので、真冬に凍った池に行き、服を脱ぎ氷の上に横になった。氷が溶けて割れ、大きな鯉が二匹躍り出た。王祥は捕まえて継母に捧げ、継母も王祥をかわいがったという。
故事 昔あった事柄。古い事。昔から伝わってきている、いわれのある事柄。古くからの由緒のあること。
二十四孝 にじゅうしこう。中国古来の代表的な親孝行の24人。虞舜、漢の文帝、曽参・閔損・仲由・董永・剡子・江革・陸績・唐夫人・呉猛・王祥・郭巨・楊香・朱寿昌・庾黔婁・老萊子・蔡順・黄香・姜詩・王褒・丁蘭・孟宗・黄庭堅。
絵本風俗往来 正しくは「江戸府内 絵本風俗往来」。明治38年、江戸の好事家が江戸の町の移り変わりや町家・武家の行事のさまざまを300枚以上の大判挿絵を添えて描いた本。蛍については「中編巻之参」5月で出ています。
姿見橋 おちあいすがたみばし。姿見の橋と面影橋は別々の橋なのか、同じ橋なのか、私には不明です、新宿区がだした「俤の橋・姿見の橋」を参考までに。
王子 東京都北区中部の地名。桜で有名な飛鳥あすか山公園がある。
谷中螢沢 やなかほたるさわ。近くの宗林寺周辺は江戸時代には蛍の名所「蛍沢」がありました。
目白下江戸川 めじろしたえどがわ。目白台下にある江戸川(神田川)に大洗堰があり、また桜で有名でした。
鯉ヶ崎 「江戸志」では「此川に生ずる鯉は世の常の魚とことにして、味ひははなはだ美なり、されどみだりに取ことを禁ぜらる、此川の内中の橋の邉を鯉か崎といへりといふ」と書いています。
むらさきの鯉 紫色を帯びた鯉が多かったため。