飯田町駅」タグアーカイブ

甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅|史跡パネル③

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル③は「甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅」です。写真5枚(うち空中写真が1枚)、図は1枚で、日本語と英語で解説しています。

甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅

こう鉄道てつどう国有化・複々ふくふくせんと飯田橋駅
The Nationalization of Kobu Railways and Construction of Multiple Lines and Iida Station

 1906(明治39)年に甲武鉄道は国有化され、1909(明治42)年に中央東線(1911(明治44)年に中央本線に改称)の一部となりました。
 甲武鉄道の乗客数は、開業した1894(明治27)年には85万8千人、翌年には242万2千人と急増していました。大幅に増えた旅客輸送に対応するため、汽車・貨物と電車の分離を目的に、1922(大正11)年から複々線化工事が行われました。複々線化の際、牛込うしごめえき下りホーム等が支障となったため、1928(昭和3)年に電車線のいいまちえき(現在の千代田区飯田橋三丁目)と統合する形で、そのちょうど中間となる曲線位置に飯田橋駅が開業しました。
 開業当時の飯田橋駅は両端に出口があり、東口側は高架駅のような構造になっている一方、西口側は橋上の駅舎でした。この西口は旧牛込駅の利用者に対して影響が少なくなるよう設けられたものであり、長い通路が造られ、2016(平成28)年まで使用されていました。駅の屋根は古レールを使って作られ、現在もホーム上から確認することができます。
 飯田橋駅のホームは急曲線にあったため、車両の大型化に伴いホームと電車の間には広いすきができていました。2020(令和2)年に、ホームを牛込駅があった市ヶ谷駅寄りの直線部分に移設し、より安全な直線ホームに改められました。あわせて、地域のシンボルとして史跡を活かした駅前広場や駅舎が整備されました。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
駅の屋根は古レールを使って 屋根だけではなく、あらゆるところに古レールを使っていました。Golgodenka Nanchatte Researchでは……

レール

柱はホーム中央に1本の架構パターンと2本の部分に分かれており、2本が1本に集約される端部では梁の納まりにこれまた独特の古レールの絡み具合が見られる。

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】ホーム上屋古レール全景

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】ホーム上屋古レール全景
冒頭でも触れた西口への通路も古レールが下部構造に大量に使用されている。まるで線路上から撮影したような写真であるが、あくまでもホーム上から撮影したものであり、ホームの曲がり具合が相当のものであることを実感できる。奥に見える下駄ばきの建物が西口の駅舎である。

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】西口通路古レール全景

同通路を西口改札外の牛込橋付近より見下ろす。これだけの長さで立ち上がる古レールが延々と続くのは壮観である。しかし、現在の耐震基準ではまずアウトではなかろうかと思われる華奢な架構とも言える。一体どのような構造計算の結果で OK となったのだろうか。

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】西口通路古レール全景

 Kōbu Railway was nationalized in 1906 and became part of the Chūōtō Line in 1909. Two years later, the Chūōtō Line’s official name was changed to the Chūō Main Line.
 In 1894, Köbu Railway’s ridership numbered 858,000. By the following year, it had nearly tripled to 2,422,000. In 1922, additional lines were constructed in order to accommodate the line’s rapidly expanding ridership and to separate the steam and freight lines from the electric passenger lines. In 1928, Ushigome Station was merged with Iidamachi Station (present-day Chiyoda Ward Iidabashi 3-chome) because the platform for its outbound line obstructed the construction of the additional lines. This led to the creation of Iidabashi Station, which was located along a curve section of track equidistant from Ushigome and Iidamachi Stations.
 At the time of its opening, there were entrances at both ends of Iidabashi Station. While the eastern side had an elevated, viaduct-like structure, the eastern portion was located on a bridge. In order to accommodate passengers who previously boarded the train at Ushigome Station, a long passage connecting Iidabashi Station with its western entrance was constructed and remained in use until 2016. The Station’s roof was constructed using old pieces of rail track. These sections of the roof are visible today from the station platform.
 Because Iidabashi Station was located along a sharp curve, the construction of larger rail cars resulted in a wide gap between the platform and trains that served the station. In 2020, the platform was relocated to the straight section in the direction of Ichigaya Station previously occupied by Ushigome Station. This narrowed the gap between the platform and trains and made it safer for passengers to board. In conjunction with the platform’s relocation, a station-front plaza and station XX, was constructed.

写真 戦後直後の飯田橋駅航空写真

三好好三、三宅俊彦、塚本雅啓、山口雅人著「中央線オレンジ色の電車今昔50年」(JTBパブリッシング、2008年)

手前が都電の走っていた外堀通り、左下が神楽坂方面。牛込濠と中央線の線路を越えてゆく橋が牛込橋。橋の下から右の濠端にかけてが旧・牛込駅の跡地である。橋の上に飯田橋駅の西口駅舎がある。そこからゆるやかに左へ下る長いスロープの通路とカーブを描いた飯田橋駅が見える。その先のカーブ右側一帯が旧・飯田町貨物駅。駅の左側の小さな水面 が旧飯田濠で、現在は埋め立てられて「セントラルプラザ・ラムラ」のビルが建っている。昭和38年11月8日 写真:三宅俊彦、三好好三、三宅俊彦、塚本雅啓、山口雅人著「中央線オレンジ色の電車今昔50年」(JTBパブリッシング、2008年)

飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分

都電15番の鉄道趣味 撮影日 1982年(昭和57年)10月25日らしい

写真 戦後直後の飯田橋駅航空写真

地図・空中写真閲覧サービス コース番号 M698 写真番号 99 1947/12/20(昭22)撮影高度 1524m 焦点距離 154.000mm 撮影計画機関 米軍

写真 昭和初期の牛込見附・飯田橋駅西口

写真 昭和初期の牛込濠と土塁の様子

写真 飯田橋駅旧西口通路
 飯田橋駅の写真としてはインターネット「れとろ駅舎」が非常によく撮れています。

牛込駅|史跡パネル②

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル②は「牛込駅」です。写真は6枚、図は2枚、コンピューターグラフィックス(CG)1枚で、日本語と英語で解説しています。

牛込駅

牛込うしごめえき
Ushigome Station

 1894(明治27)年10月9日にとう鉄道てつどうがいせんの新宿・牛込間の開通とともに牛込駅が開業しました。この牛込駅は翌年4月3日のいい町駅まちえき開業までのわずか半年の間ですが、甲武鉄道の始発駅として活躍していました。
 牛込駅があった位置は、現在の飯田橋駅のホームのうち牛込橋から市ヶ谷駅方向のあたりとなります。当時、駅舎と線路敷設のために堀の一部が埋め立てられており、現在の中央線快速のあたりにホームが作られ、中央・総武緩行線のあたりに駅舎が作られました。
 駅の改札口は現在の新宿区側と千代田区側の2方向にそれぞれ設置されました。千代田区側は、駅のこ線橋から階段で土手どてを上り、土手沿いの道路に面して改札の建物が設置されました。その駅舎脇にあった土手の擁壁ようへきが現在でも外濠そとぼり公園こうえん入口の付近にそのままの姿で残っています。一方新宿区側は、牛込見附のばしの脇を埋め立てて道路が塾備され、せきの水路付近に設置された小型の連絡橋を渡って駅舎に行くことができるようになっていました。現在もその連絡橋の橋台の遺構が残っており、牛込橋上やホームから確認することができます。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
2方向に 正しくは、当初は新宿区側の出口だけで、遅れて跨線橋と千代田区側の出口が出現。(註:牛込駅の通路新設
こ線橋 跨線橋。こせんきょう。鉄道線路の上をまたぐような形で架けた橋。渡線橋。
擁壁 土圧に抵抗して土の崩壊を防止する土止め壁。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


 川を横切って流水をせき止める施設。水を取るため、また、水深・流量の調節のため、川の途中や流出口などに設けて流水をせき止める構造物

オーストラリア・ニューサウスウェールズ州の堰。低いダム

  Ushigome Station opened on October 9, 1894, the same day that Kōbu Railway initiated service between Shinjuku and Ushigome Stations. Before Iidama-chi Station opened on April 3, 1895, Ushigome Station served as the starting station on the Kōbu Line.
  Ushigome Station was located on the portion of present-day Iidbashi Station that extends from Ushigome Bridge in the direction of Ichigaya Station. At the time, portions of the outer moat were reclaimed in order to construct the station house and train tracks. Ushigome Station’s platform was located on the site currently occupied the JR Chuo Rapid Transit Line. In addition, the station house was constructed on the site currently occupied by the JR Chuo and Sobu Local Lines.
  Ushigome Station had two ticket gates. One was located on the present-day Shinjuku Ward side and the other was located on the Chiyoda Ward side. The gate building on the Chiyoda Ward side was constructed facing the road alongside the outer moat’s embankment and could be accessed by a staircase that rose from the Station’s rail bridge and climbed the embankment. A retaining wall from a section of the embankment next to the station house remains in place today in the vicinity of the entrance to Sotobori Park.
  On the Shinjuku Ward side, a road was constructed on land reclaimed from alongside Ushigome-mon Gate’s earthen bridge. Thereafter, Ushigome Station could be reached via a small pedestrian bridge, which was erected near the aqueduct attached to Ushigome-mon Gate’s weir. Today, portions of the foundation that supported the pedestrian bridge remain in place and are visible from Iidabashi Station’s platform and atop Ushigome Bridge.

牛込駅と土橋

 上と同じような写真はありませんが、ただし、三井住友トラスト不動産の写真「牛込駅」の開業が似ています。説明では「写真は明治後期~大正期の撮影で、手前が『牛込駅』の駅舎、その北(写真では上)に『牛込濠』が広がり、その先が『神楽坂』の入口となる。『牛込駅』から『神楽坂』の入口までは『牛込見附』の坂の隣に通路・橋が設けられており、坂を通らないで行き来することができた」

「牛込駅」の開業。三井住友トラスト不動産

 手前の駅舎と牛込濠の間にある立派な瓦屋根の建物は本屋でした。

牛込駅のCG

牛込駅見取り図

牛込駅駅舎

① 写真 牛込駅駅舎

牛込駅。法政大学専門部商科卒業アルバム(1929年3月)所載。牛込駅は1928年11月廃止。HOSEIミュージアム。

写真 現在の牛込駅駅舎跡

現在の牛込駅駅舎跡

2024/09/02の牛込駅駅舎跡

②写真 現在の外濠公園入口

現在の外濠公園入口

2024/09/02の外濠公園入口

牛込駅

③図 跨線橋立体図

甲武鉄道市街線紀要(明30年)牛込渡橋

④写真 関東大震災直後の牛込駅

関東大震災直後の牛込駅

 国立映画アーカイブで、上の「駅舎や車両の被災と無蓋貨車の避難家族」(映画)が残っています。キャプションは「被災した牛込駅や焼失した車両とともに、無蓋貨車に避難した一家の中に、幼少期の三木鶏郎の姿が写っている」。ひらがなの「うしごめ」の後ろで倒れた家は本屋でしょう。牛込濠の向こう側にある牛込区の建物は無傷に見えます。
 映画の「地割れした牛込駅前の道」のキャプションは「牛込駅とその手前の道に発生した地割れの様子。当時中央本線の駅舎は万世橋駅(煉瓦造)を除いて木造であったが、牛込駅付近は火災を逃れ、駅舎についても焼失ではなく倒壊の被害が報告された」。倒れた本屋が写っています。新宿区側(連絡橋付近)から見た牛込駅です。

⑤写真 連絡橋レンガ擁壁遺構

連絡橋レンガ擁壁遺構

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」(1972年)の「首都圏の鉄道と駅の写真」「駅市谷側」には連絡橋があり、実際に使われていたようです。ただし、この橋は橋脚よりかなり幅が狭く、おそらく牛込駅の現役時代には、もっと幅の広い橋が架けられていて、戦災で橋は焼失し、戦後に管理用の橋が架けられたのでしょう。

 また、「ひとりごと 主に鉄道工事現場・車両改造を観察した内容を紹介するページJR飯田橋駅改良工事(その26)の最後に「余談ですが、濠にちょっと出っ張った部分があります。旧牛込駅の連絡橋の擁壁遺構なのだそうです。草むらで覆われていますがよく見るとレンガ造りの遺構が見えます」と書かれています。

JR飯田橋駅改良工事

JR飯田橋駅改良工事

神楽坂1丁目(写真)昭和50年頃 ID 9781

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9781は、昭和50年頃、神楽坂1~2丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9781 神楽坂

 車道はアスファルト舗装、そばに側溝、縁石、歩道もアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」、さらに「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。電柱は道路の左側にしかありません。また電柱には大きな柱上変圧器があります。

神楽坂1~2丁目(昭和50年頃)
  1. 「12-23 (駐車禁止)「レッカー移動 牛込警察署長」
  2. 電柱看板「 大久保
  1. ✚ 診療〇〇 皮膚泌尿科 婦人科 外科 内科(白十字診療所)
  2. (消火栓) 消火栓広告「三菱銀行前 福屋 神楽坂 不(動)産」
  3. 「紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店」「」「事務用品」「文具」「原稿用紙」「Canon  NP コピーサービス」「Kodak」「さくら  さくらカラー」
  4. 地下鉄 飯田橋駅
  5. 不二家。不二家洋菓子
  6. 紀の善
  7. 床屋のサインポール
  8. 屋上看板「(ハッピ)ージャック」袖看板「喫茶 軽(い)心 」
  9. (山一)薬品
  10. 袖看板「パチンコはマリーで」
  11. (ニュー)イトウ(靴)
  12. (珈琲 音楽 坂)
  13. 純喫茶 クラウン

1976年。住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)美観街 平成2年 ID 95

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 95は、平成2年(1990年)10月19日位に神楽坂1丁目を撮ったものです。電柱はまだあり、無電柱化はまだです。

 街灯は1970年代のものから更新されています。左右にバーが突き出し、道路側はバーの上、歩道側はバーの下に6角形のランタン型の灯りがついています。
 その下にも左右にアーム(この用語は日本照明工業会規格によっています。訳すと横木でしょうか)があります。これは催事の時に告知や飾りを下げるものです。以前の街灯では、ススキや笹のような形状の飾り(神楽坂3丁目(写真)昭和54年 ID 87)を斜めに差し込むパイプがあり、季節ごとに街を彩っていましたが、これはなくなりました。
 この写真では左右のアームに「毘沙門天 おえしき」「十月十四日」と書いた提灯がぶら下がっています。おえしきは御会式と書き、日蓮宗の各寺で、日蓮の忌日(10月13日)に営まれる、宗祖報恩の法会です。さらに下のアームの「神楽坂」は常設の金属製のものでした。
 商店街の名前を示す大きな標識ポールも一新されています。向かって右が「神楽坂」左が「かぐら坂」とあり、「美観街」はなくなりました。

1990年 住宅地図。

「軽い心」の跡には複合商業施設の「カグラヒルズ」が建ちました。カグラヒルズの竣工は1982年です。看板が出ている丸和証券は1970年代には通りの向かい側にあったので(神楽坂1丁目(写真)昭和54年 ID 85、ID 86)こちらに移転したのでしょう。

神楽坂1丁目(平成2年)
  1. 電柱看板「 大久保
  2. 清水衣裳店
  1. 薬ヒグチ。ヘアケア。
  2. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店。CABIN たばこ。
  3. 地下鉄 飯田町駅
  4. 不二家。ペコちゃん。
  5. あんみつ 紀の善
  6. 床屋のサインポール
  7. 丸和証券。英会話(カグラヒルズ)

都電・飯田橋(写真)1960年代

文学と神楽坂

 小川峯生・生田誠共著「東京オリンピック時代の都電と街角」 (アルファベータブックス、2017年)を見ましょう。

小川峯生・生田誠共著「東京オリンピック時代の都電と街角」

5方向からここに都電たちが集ってきた
3・13・15系統
飯田橋

 江戸城の北西にあたる飯田橋は、江戸時代には「牛込見附」が置かれた場所で、現在は外堀通りが通り、JR中央・総武線の飯田橋駅の両側で、早稲田通り神楽坂通り)と目白通りと交差している。また、早稲田通りから分かれて西に延びる大久保通りが存在し、現在は地下鉄各線が通る、この地域の交通の要となっている。
 明治から昭和戦前期の飯田橋付近には、「陸軍造兵廠東京工廠」が置かれ、国鉄の牛込、飯田町駅が存在した。現在のJR飯田橋駅は、1928(昭和3)年に牛込駅飯田町駅が統合された、比較的新しい駅である。2駅のうち、国電の始発駅だった飯田町駅は、統合後も長距離列車発着用のターミナル駅が残り、その後は貨物駅となって1999(平成11)年まで存在した。

外堀通り JR山手線やJR総武中央線に沿って皇居のまわりを一周する最大8車線の都道
早稲田通り 千代田区九段北の田安門交差点(靖国通り)から新宿区西早稲田、中野区中野などを経由し、杉並区上井草(青梅街道)に至る道路区間。
神楽坂通り 始点は神楽坂下交差点で、神楽坂上交差点を通り、神楽坂6丁目の終点辺りまで。早稲田通りの一部。
目白通り 千代田区の靖国通りから、練馬の関越自動車道の練馬インターに至る延長16kmの2~6車線の都道
大久保通り 飯田橋交差点から、牛込神楽坂駅を経て、JR高円寺駅付近の環七通りの大久保通り入口交差点に至る延長9kmの主に往復2車線の東西方向の都道

飯田橋の通り

陸軍造兵廠ぞうへいしょう東京工廠 陸軍の兵器・弾薬・器材などの考案・設計・製造・修理などをする施設。小石川の旧水戸藩邸跡に建設した。
飯田町駅 明治28(1895)年、飯田町駅は開業。場所は水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近でした。1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業。右は飯田町駅、左は甲武鉄道牛込駅、中央が飯田橋駅。2020年6月、飯田橋駅は新プラットホームや新西口駅舎を含めて使用を開始。

飯田橋駅、牛込駅、飯田町駅

 この飯田橋を通る都電は、3系統、13系統、15系統の3路線が存在した。山手線の南端にあたる品川駅前を出て、四ツ谷駅前から外堀通りを通って、はるばる飯田橋駅前へやって来たのが3系統である。ここが起終点の停留場だったから、残る2系統の路線とは接続していなかった。
 一方、高田馬場駅から南下して、新目白通り、目白通りを経由して、飯田橋へやって来た15系統は、九段下から神保町、大手町を通り、茅場町へ至る路線だった。また、新宿駅前からの13系統は、河田町から神楽坂を通って飯田橋に来て、御茶ノ水、岩本町を通り、終点の水天宮前に向かった。これらの路線は現在、東京メトロ東西線、南北線、有楽町線、都営地下鉄大江戸線に受け継がれている。

3路線 下図を参照。ただし13系統と15系統は間違いで、逆が正しい。

石堂秀夫「懐かしの都電」(有楽出版社、2004年)

東京オリンピック時代の都電と街角
【飯田橋】 1968年(昭和43年)
 傘を手にした背広姿の会社員の列が見える雪の日の朝、飯田橋駅前の風景である。ようやくやってきた15系統の都電に乗ろうと、安全地帯に駆け寄る男たちもいる。まだ、神田川・外濠の上に首都高速道路は架かっていなかった。

1967年 飯田橋

飯田橋駅前の風景 15系統の都電が見える。ほかに正面のビルには左から右に

  1. 巨大なビルは東海銀行
  2. 酒の黄梅きざくらとカッパは三平酒造
  3. パーマレディ
  4. カッパ(合羽?)
  5. ミカワ薬局
  6. 時計
  7. 銀座土地
  8. つるやコーヒー
  9. 松岡商店

飯田橋2

【飯田橋】 1962年(昭和37年)
 新宿駅前を出て、牛込柳町、神楽坂とたどってきた13系続の都電が坂道を下って、飯田橋までやってきた。坂の途中に見える建物は、1933(昭和8)年に完成し、戦災をくぐり抜けた新宿区立津久戸小学校の校舎である。この13系統は、手前の交差点を左折して外堀通りを水道橋の方向に進んでいった。

1960年。人文社。住宅地図。

 最左端は書店「文鳥堂」で、「小説新潮」「蛍雪時代」などを販売。その右に「田原屋」。洋酒を売っていた。「キャラメル」は「菓子 飯田橋 園」でしょう。「都 しるこ」は写真でははっきりしない。「都 寿司」はよくわかる。「ビヤホール 飯塚」もわかる。停留場「飯田橋」がその前にあり、おそらく都電は停車中。
「新宿区立津久戸小学校」は中央の大きな建物。「新宿区立愛日小学校 津久戸分校」は間借りしていた。

1965年。日本住宅地図出版。住宅地図。

 広告板「酒は両関」は稲垣ビルで、東京ガス飯田橋サービスステーションなどがはいる。地元の人は「その後、隣の第一銀行と一緒になって現・第一勧銀稲垣ビル。1974年11月に竣工。『第一勧銀』の名を残す稀な例」だといいます。その右の2階は「ネアロンコーヒー」でしょう。その隣は「日鶴園飯田橋」で、おそらく酒に絡んだ商売をしている。「明治」はおそらく「山口製パン」がつくっている。

 また「文春オンライン」(J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年)で同じようなものもでています。

1960年代の飯田橋 首都高もビルもない
 飯田橋駅のホームから神田川を眺める。64年当時は、バスと都電が走っていた。都電はここから、日本橋、茅場町へと向かう。高層ビルがほとんどなく、首都高もなく、青空が広がっているのが、今見ると印象的だ。(1964年12月4日)

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈③

文学と神楽坂

   白秋と「物理学校裏」

 マスコミにかまけて俗物繁栄時代の文学界では、純粋で高度の文学者の研究は立ち遅れ気味で、北原白秋ほどの卓越たくえつした詩人さえ、もう歿後二十七年というに、まだ完全な年譜も見当らない。いくらか良心的と思われるもっとも新らしい白秋年譜で、例えば牛込山伏町から神楽坂二丁目に移った年代を調べようとすると相変らず明治四十二年十月末となっている。これは昭和十八年六月発行の雑誌「多摩」北原白秋追悼号に、側近の人々によってかなり詳しく書かれた年譜をよく検討せずにそのまま孫引している結果らしい。わたくしは昭和二十六年に『新東京文学散歩』で神楽坂の白秋を書いたとき、石川啄木の日記によって「明治四十一年十月の末近く」と訂正しておいた。それは啄木の四十一年七月二十七日の日記に「北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。」とあり、また同年十月二十九日には「北原君から転居のハガキ」「北原君の新居を訪ふ」として、やがて白秋が「物理学校裏」という詩を作ることになった神楽坂二丁目の家のことが、あたかもその詩の情景を裏書きでもしたように詳しく記録されているからであった。戦後に一応は流布るふした筈の『石川啄木日記』やわたくしの『新東京文学散歩』も、近頃の研究家にはもう活用されていないのであろう。
 わたくしは神楽坂をニ丁目から三丁目へようやく坂の頂上近くまで登り着き、三丁目と二丁目の境に当る左側の横丁に折れた。その三丁目角は戦前しばしば寄ったことのある田原屋というフルーツ・パーラーの跡で、今は山本という薬店になっているが、表口を注意して見ると、まだフルーツ・パーラー時代のモザイク模様のタイル敷きの断片がのこっている。その横丁の小路をそのまま南へ辿ってゆけば旧物理学校東京理科大学裏の崖上に出る。それは戦前の地図も現在の地図も同じである。小さなアパートや小料理店などが両側に並んで、小型自動車一台がやっと通れるほどのトンネルのような小路を、わたくしは北原白秋の「物理学校裹」という詩を切れぎれに思い出しながら歩いた。
「物理学校裏」は大正二年七月刊行の白秋第三詩集『東京景物詩及其他』に収められ、「明治四十三年三月」作となっている。白秋は九州柳河の実家の破産問題などがあって明治四十二年秋にはもう神楽坂を去って本郷動坂に移り、翌四十三年二月には牛込新小川町に移るというあわただしい時代を迎えたが、創作慾はいよいよ(さか)んで、またその頃はパンの会もようやく隆盛期に入っていたから、「物理学校裏」は市街情調詩として新小川町で書きあげた名作の一つに違いないが、内容はあくまでも初夏の神楽坂の強烈な印象である。(この章は以下略)


かまける あることに気を取られて、他のことをなおざりにする。
歿後二十七年 北原氏は昭和17年に死亡し、それから27年も時が経ち、現在は昭和44年です。
41年7月27日の日記 石川啄木の日記から。
 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍つて、耳が――左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴つてゐた。
 いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言つてゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなつてから辞した。途中まで送つて、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。
 北原君は十一円の家賃の家に住つて、老婆を一人雇つてゐる。
 その時は余程頭に余裕が出てゐた。
 神楽坂の中腹のトアル氷屋に入つた。夕日の光で、坂を上る人も下る人も、長い長い影法師を逆まに坂に落して歩いてゐた。ガツカリした気持でそれを眺めてゐて、やがて遣瀬もない“放浪”の悲みを覚えた。そこを出て間もなく、卜ある店の時計を覗くと、恰度午後六時を示してゐた。

同年10月29日 石川啄木の日記から。
 九時頃起きると直ぐ吉井君が来た。吉井君も小説をかくと言つてゐる。一緒に昼飯を食つてると、北原君から転居のハガキ。二時頃、栗原君へ小説の予告文をかいて手紙。それを投函し乍ら二人で平野君を訪ふたが不在。
 吉井君とは別れて帰つた。何となく気が落付かぬ。堀合君へ行つて一円借りて、出かけた。大学の前で横浜工学士に逢つた。北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行つてゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上つた。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒つてるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。
 一日の談話につかれてゐてすぐ床についた

山本 小路の直後は山本漬物店(山本薬局)でした。細かくは3丁目南側最東部で。
横丁の小路 おそらく右の無名の小路です。
トンネルのような小路 おそらく小栗横町でしょう。

本郷動坂 本駒込4丁目と千駄木4丁目の境
新小川町 1982年から単独町名。「丁目」は消えている。詳しくは地図の新小川町
情調 その物のかもし出す雰囲気。心にしみる趣。感覚に伴って起こるさまざまな感情。

 以下の文章はここでは省略。それでも注釈はあります。

この詩 この詩は「物理学校裏」で細かく書いています。
深い 原文は「うすい」
Cadence (詩の)韻律,リズム。(朗読の)抑揚、 (楽章・楽曲の)終止形。楽曲の終わり特有の和声構造。汽車が停まる音でしょうか。
浮彫 平らな面に模様や形が浮き出すように彫り上げた彫刻。あるものがはっきりと見えるようにすること
甲武鉄道 御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿を経由、八王子に至る鉄道を保有・運営した。1889年(明治22年)新宿と立川で開業。1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により10月1日に国有化。
飯田町駅 1895年(明治28年)、中央本線を敷設した甲武鉄道の東京側のターミナル駅として開設。
牛込駅 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近。細かくは牛込駅
明星 1900年(明治33年)4月、同人結社東京新詩社の機関誌として、与謝野鉄幹が主宰となり創刊。詩歌を中心とする月刊文芸誌。1908年(明治41年)11月の第100号で廃刊。
スバル 1909年から1913年まで発刊。創刊号の発行人は石川啄木。他に木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載。スバル派と呼ばれた。


外濠線にそって|野口冨士男③

「外濠線にそって」その3です。甲武鉄道と、牛込駅とその東口の思い出です。大正8年から13年にかけて野口冨士男氏は小学校の慶應義塾幼稚舎に通っていました。
 国電の中央線は、げんざい飯田橋と水道橋の中間に貨物駅としてのこっている飯田町駅から八王子に通じていた、甲武鉄道のあとを走っている。
 甲武鉄道が官有に帰したのは明治三十九年十月のようだが、大正四、五年ごろ赤坂の紀伊国坂下に住んでいた私の幼年時代の記憶によれば、その時分にもまだ「甲武線」という呼び方はのこっていた。そして、現在でも国電は四ツ谷駅から信濃町へむかって発車するとすぐ迎賓館のちかくで赤煉瓦づくりのトンネル——御所隧道へ入るが、私は年長の友人から「甲武線を見に行こうよ」とさそわれて、トンネルへ吸い込まれていく電車や汽車を上からのぞきこみに行った帰りには、喰違見附の土手でノビルツクシの摘み草をしたものであった。
 その電車は国電になる以前には省線、それよりさらに以前には院線とよばれていた。万世橋=東京駅間の開通は大正八年だから、幼稚舎ボーイだった私が真紅のクロースの表紙がついていて二つ折になる定期券をもって、院線の田町駅まで乗った期間があるのが大正八年以後であることは確実だが、その時分にはまだ飯田橋駅はなくて、私が乗降したのは牛込駅であった。
 げんざい飯田橋駅の西口=神楽坂口は、神楽坂下からゆるい坂をのぽって千代田区へ入ろうとする直前の左側にあるが、その坂道の右側の下の道を歩いていっていまものこっている木橋をわたってから右折すると、桜並木の奥に牛込駅はあった。そして、その裏口は線路むこう——千代川区側の高い位置にあって、裏口の前には阿久津病院という漆喰塗の古めかしい洋館があった。病院が大正年間に神田紅梅町あたりへ移ったあとは戦後まで逓信博物館になっていたが、その建物はどうなっているだろうかと、霧雨のけむっていた日であったが、田原屋で食事をする前に行ってみたら、一階に飯田橋郵便局が入っている飯田橋会館というありふれたビルになっていた。そして、江戸時代の遺構である牛込見附跡の石塁に近接する位置にあった牛込駅の裏口の跡には、共同便所が出来ていた。

国電 JR線です。国電とは大都市周辺の近距離電車線のこと。
貨物駅 貨物列車に貨物を積み降ろしする鉄道駅
飯田町駅 明治28年、現在大和ハウス東京ビルとなっている場所に飯田町駅が開通(ここをクリックして地図を出すと、飯田町駅は右側の赤い矢印です)。昭和3年、飯田橋駅が発足、飯田町駅は電車線の駅から外れ、南側の貨物駅に。平成11年、この駅も廃止
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。

赤坂田町

赤坂田町

紀伊国坂 東京都港区元赤坂1丁目から旧赤坂離宮の外囲堀端を喰違見附まで上る坂
住んでいた 子供時代を書いた「かくてありけり」(講談社、昭和52年)で氏の住所は赤坂区田町(現在は赤坂3丁目)だと書いています。図では赤の範囲なのでしょう。
迎賓館 迎賓館赤坂離宮は東京都港区元赤坂2-1-1にある外国の元首や首相など国の賓客に対して、宿泊その他の接遇を行うために設けられた迎賓施設。
御所隧道 丸ノ内線四ツ谷駅からよく見えるJR総武線四ツ谷駅側の煉瓦トンネル。総武線四ツ谷駅から信濃町に向かうときに赤坂御用地の下を走る。
御所隧道喰違見附 くいちがいみつけ。「喰違」は防衛のため見附に入る土橋の道をジグザグにしたため。この見附は城門はなかった。
%e5%96%b0%e9%81%95%e8%a6%8b%e9%99%84ノビルとツクシノビル ユリ科ネギ属の多年草。山菜に使う
ツクシ 早春に出るスギナの胞子茎
省線 1920年から1949年までの国有鉄道。鉄道省(1920―1943年)、運輸通信省(1943―1945年)、運輸省(1945―1949年)が管理
院線 1920年以前は鉄道院の所管だった。
クロース cloth。本の表紙に使う型付けなどの加工をした布
田町駅 港区芝五丁目のJR駅
飯田橋駅 現在のJR駅
牛込駅 飯田橋駅よりは南寄りの駅
ここに

朝倉病院

朝倉病院

阿久津病院 正しくは朝倉病院でしょう。明治43年と大正12年の地図で朝倉病院がありました。
%e3%82%b5%e3%82%af%e3%83%a9%e3%83%86%e3%83%a9%e3%82%b9逓信博物館 昭和4年には同じ場所に逓信博物館がありました。
飯田橋郵便局 同じ場所の千代田区富士見2丁目では「飯田橋サクラテラス」があり、ここの一階に今でも飯田橋郵便局があります。
共同便所 その反対側に共同便所があります。

私の東京地図|佐多稲子⑤

文学と神楽坂

 佐多稲子氏の『私の東京地図』の「曲り角」には牛込駅が出ています。

 このときから二十年の月日が流れている。それなのに、飯田橋から九段下へ出る電車に乗ってそこを通り過ぎるとき、私はときおりふいと九段の方を見上げることがある。飯田橋から九段へ出る電車通りはいつも埃をかぶったようにくすんでいて見栄えのしない道だ。魚屋だの八百屋だのの毎日の商い屋に混って、わが家で何かの企業をしているといったようなのが目につく。神田の方へ道の岐れた二股の突っ先の角には自動車の修理をするあけっぴろげな工場があって、円タクの町に流れていたころはよく、ガラスのみじんにひび破れた車などが修理場へ持ち込んであった。片側は九段上なので、そばやの角などから石畳の狭い坂が上へ登っている。家と家との間から高台の石垣ののぞいているところもある。かつての昔、私の生活が結びついていたのは、この辺りなのだと思う。何だか遠い悪夢でも思い出したように、半ば信じられない。この辺りの土地のことを自分の利害で、区劃整理があるらしい、飯田橋の駅が中央線の起点になるらしいなどという夫の話に私も相手になっていた。飯田橋の駅が大きくなれば、あのへんの地価はずっと上るのだという。そのころ飯田橋の駅は貨物駅で、電車の客は牛込見附寄りにあった牛込駅で乗り降りしていた。その飯田橋駅の長々とした歩廊は味気ないが、桜の花の散る濠の前にあった牛込駅は愛らしく、ハイカラな玩具の停車場のようなおもむきだった。駅の隣は貸ボート屋だなんて。今だからこそ私はこんなことをいっている。飯田橋駅が中央線の始発駅になるというとき、九段下のあたりまで旅館ができたり、大きな商店のたち並ぶのを頭に描いてみたのであった。

 このとき。大正13年(1924)頃です。また『私の東京地図』は昭和24年(1949年)に出ています。

飯田橋 市電の飯田橋停留場です。下の図で。
九段下 下の図で。市電で飯田橋から目白通りを通って九段下に行くときに目に入ってきた情景です。

飯田橋と市電

飯田橋と市電。明治40年の地図。人文社「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」。2003年

電車 もちろん、JRではなく、市電(都電)です。
見栄えのしない道 飯田町1丁目の写真です。この写真を撮った日時は不明ですが、この路線の都電は昭和43年に廃止されていますので、それ以前に撮った写真でしょう。

飯田町1丁目

飯田町1丁目(東京都交通局『わが街 わが都電』アドクリエーツ社、平成3年)

二股 明治40年の地図にはありませんが、下の昭和6年の地図でははっきり2股になっています。
九段上 下の地図を。
私の生活 佐多稲子氏の住所は麹町区飯田町6丁目24番地でした。上の赤い場所です。

昭和6年の飯田町

昭和6年の飯田町

区画整理 宅地などの区画を整形して新たに道路や公園を造る事業。
中央線の起点 明治27年(1894年)に新宿から牛込駅まで、28年には飯田町駅までが開通。37年に御茶ノ水駅が完成。昭和3年(1928年)、飯田橋駅が完成し、牛込駅は廃駅、飯田町駅は本線の駅は廃駅に、代わりに南側の貨物駅だけが残りました。1999年(平成11年)、この駅も廃止。
貨物駅 明治28年、現在大和ハウス東京ビルとなっている場所に飯田町駅が開通。昭和3年、飯田橋駅が発足、飯田町駅は電車線の駅から外れ、南側の貨物駅に。
牛込駅 明治27年から昭和3年まで(1894~1928年)、牛込駅がありました。
貸ボート屋 平成8年、水上レストラン「カナルカフェ」が開業しました。それよりも昔、西村和夫氏は『雑学神楽坂』のなかで

 牛込停車場のホームは牛込橋の下、市谷寄りにあった。駅舎は現在の駅舎の反対側早稲田通りの下にあった。乗客は神楽坂下から水上レストランのわきを通って駅舎に入り、濠を渡ってホームへ出た。昭和の初めまで使われていた駅舎は、牛込橋の下、メガネドラッグの後ろで、現在はJRの用地として空地になっている。
 駅舎前には桜が植えられていて、東京の夜桜の名所として知られ、桜の満開の時期は、わざわざ路面電車でやってくる夜桜の見物人が出た。牛込停車場の乗降客は桜のトンネルをくぐるようにしてホームに出た。
 ここに水上公園が出来て、ボートが浮かべられたのは震災後間もない頃だった。若い男女がパラソルをかざして語り合う絶好の場所になり、休日には親子連れが集まる憩いの場になっていた。大戦後、外堀通りには東京オリンピックを前に市電が廃止された後、桜が植えられた。

 また加能作次郎氏は『大東京繁昌記』のなかの「早稲田神楽坂」「牛込見附」で

 あの濠の上に貸ボートが浮ぶようになったのは、(ごく)近年のことで確か震災前一、二年頃からのことのように記憶する。あすこを埋め立てて市の公園にするとかいう(うわさ)も幾度か聞いたが、そのままお流れになって今のような私設の水上公園(?)になったものらしい。

『大東京繁昌記』は昭和2年に発行し、一方、『雑学神楽坂』は平成22年に発行し、筆者の西村和夫氏は昭和3年生まれです。それから考えると「震災前一、二年頃から」のほうが正しいと思います。
 実際には大正7年(1918年)に東京水上倶楽部ができたそうですが、古いインターネットでははっきり書いてあったのに、新版でなくなっています。

三孫質店[昔]|神楽坂二丁目

文学と神楽坂

 神楽坂2丁目に質屋の三孫がありました。お店の地図はここ。『まちの手帳』第3号の水野正雄氏の『新宿・神楽坂暮らし80年』で

一家で神楽坂に越してきて、祖父は神楽坂2丁目の「三孫(さんまご)」という質屋の通い番頭、長男は質屋に奉公、次男は質屋に婿養子、三男は着物の整理屋へ奉公に出ていたのを、三男だった親父を呼び戻して39年「湯のし屋」を始めた。

「さんまご」と読み、「さんそん」とは読まないようです。

 邦枝完治氏が書いた「恋あやめ」(朝日新聞、1953年)には……

 牛込見附の石垣に弁慶蟹が這って、飯田町駅を出た甲武鉄道の汽車の煙が、夕焼空に吸われて行った六時近く、神楽坂裏の質屋三孫ののれんをくぐったのは、ふろしき包を小脇に抱えた、四十がらみの肥ったおかみさん。
弁慶蟹 弁慶蟹はイワガニ科で海岸の湿地にすみ、約3センチ。本州中部以南に分布。今では蟹はこのあたりにはいません。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
質屋三孫 質屋「三孫」(さんまご)の場所は下図で。現在はポルタ神楽坂になりました。

三猿(さんまご)質店

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年