ID 120」タグアーカイブ

矢来町(写真)図書館資料室紀要 1970年

文学と神楽坂

 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の138頁には次の写真が載っています。

大正期の面影を残す矢来町中の丸

 今までは写真は全く不明で、これ以上は何もわからない。さわらないように、そーっと置いておこう、と考えていました。「中の丸」だけでも巨大で、矢来町の5分の1を占めています。下図では矢来町は赤、中の丸は青です。

矢来町と中の丸(←が正しい場所)

 しかし、このID 118〜120と見比べると、これも一連の写真のひとつだと判明します。つまり、これはID 119ID 120との間にあるべき写真なのでした。場所は上図か下図のが正しい位置なのです。
 郵便の宛先は大正11年には「矢来町3番地あざ旧殿」、昭和5年には「矢来町78番地」か「矢来町81番地」が正しく、以降も変化はありませんでした。

矢来町と中の丸(←が正しい場所)。住宅地図。昭和5年

矢来町(写真)中の丸 昭和45年 ID 118-120

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 118からID 120までは、昭和45年、矢来町の中の丸を撮ったものです。ただし、ID 118とID 119の撮影時期は昭和45年3月、ID 120は昭和45年4月となっています。
 この写真の解釈2つを上げてありますが、コメントの方が正しいでしょうね。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 118 矢来町中の丸あたり

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 119 矢来町中の丸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 120 矢来町中の丸

 ID 118は自動車が遠くに走っています。T字路だと思われ、おそらく一方通行か、あるいは対面通行でもほとんど自動車は通らない場所でしょう。中の丸というのは明治時代に矢来町3番地は巨大な区域なので旧殿、中の丸、山里の3つのあざに分けていました。中の丸は中の丸御殿の跡の意味で、北東部分(下図で橙枠)になります。
 ここでT字路になる場所は9か所です。

 次は電柱を見ていきましょう。電柱の位置はまず不変ですが、ただし変わるものもあるので、ここからは全て推量です。ID 118-120のコンクリート製と木製の電柱は右側にあります。
➀ 左側だけ ➁ 左側だけ ➂ T字の中央に電柱1本
➃ 電柱0本 ➄ 右側だけ ➅ 左側だけ
➆ 電柱は遠くの左側1本と近くの右側1本
➇ 右側だけ ➈ 左側だけ
 これからすると、➄か➇だけが正しく、うち➄では電柱の位置が違うので、➇でしょうか?

 一方、地元の方は違う方法でこの難問に取りかかります。

 一連の写真は、ID 120に見える木塀の家を中心にお屋敷町のイメージを狙ったのでしょう。この写真の撮影場所を推理してみます。
 条件は以下になります。
1) 電柱が3本見えるので、60-70mある平坦で真っ直ぐな道。
2) 突き当たりに塀がある。(複数の建物ではない)
3) 車が通行しにくい。(4m幅に拡幅されていない)
4) 左側には少なくとも4軒の家が道に迫って立っている。
 これを1970(昭和45)年当時の中の丸付近の住宅地図と照らし合わせると、➀-➃が候補に浮上します。(矢印は撮影方向です)これを個別に検討します。

1970 矢来中の丸周辺b

 ➀は2016年のストリートビューで古いブロック塀が壁の写真があり、おそらく違います。
 ➁は雨水用の側溝が右側にあり、また2013年のストリートビューで突き当たりの古いブロック塀の様子が違います。
 ➂は地図上では真っ直ぐに見えますが、出口付近がカーブしていて写真と印象が違います。
 ➃は塀など写真の面影はありませんが、条件には合致しています。
 もう1点、注目すべきはID 118の樹木の間に見える人工物らしきものです。これは恐らく、突き当たりの家の向こうに4階以上のビル(屋上のテントのようなもの?)が見えていると思われます。
 ➃の位置からは牛込中央通りに面した旺文社のビルが見えていたはずで、この点でも④が最も可能性が高いと思います。

 最初にこの50年で矢来町に新しい道路がてきたんだと知りませんでした。反省です。