新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17088では、令和4年2月に西五軒町の真清浄寺付近から相生坂などを撮影しました。資料名は「真清浄寺前から相生坂を望む」となっています。相生坂は東西2つありますが、西側の坂です。坂には自動車等のすべりをとめるOリングと呼ぶ円形のくぼみができています。また、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真 ID 14061もあります。
相生坂(令和4年) | |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17088では、令和4年2月に西五軒町の真清浄寺付近から相生坂などを撮影しました。資料名は「真清浄寺前から相生坂を望む」となっています。相生坂は東西2つありますが、西側の坂です。坂には自動車等のすべりをとめるOリングと呼ぶ円形のくぼみができています。また、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真 ID 14061もあります。
相生坂(令和4年) | |
けやき舎の「神楽坂まちの手帖」第11号(2006年)から三沢浩氏の随筆「神楽坂、坂と路地の変化40年(3)」を引用します。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、茶色のコメントは地元の方のものです。また、(1)(2)も引用可能な分量に限って、引用します。
◆モデル商店街に選ばれた頃 東京都が22の商店街を選んだのは、1982年のこと。神楽坂も「モデル商店街」に選ばれて、画期的な衣替えをした。けやきが街路樹として植えられ、今までのUFO型だった街路灯が、ガス灯型に変わる。歩道はインターロッキング・ブロックという、新しい噛み合う小型コンクリートブロックになる。車道は坂部分に輪型を残したままだが、歩道との境界ブロックが、美しくなった。嬉しかったのは、両側にあった電柱が片側だけになり、張り巡らされた電線が、半分に減ったことだった。 写真を見て頂きたい。夕方の写真は改造以前の、1980年1月の日曜日。歩行者天国の終わる5時前。今の「カグラヒルズ」の位置には、キャバレー「軽い心」の大きな間口があった。一度だけ誘われて入ったが、天井の高い巨大な空間で、美女が各テーブルに坐り、ある客たちは音楽に合わせて踊っていた。脂粉の香り、酒の匂いが満ちて、神楽坂の栄華がそこにあった。それは夜の世界、神楽坂の路地には料亭が並び、芸者の数も多かった。 しかしこの中心の通りには、今の繁栄と人通りに較べると、寂しいと思われるほどしんみりとした静けさがあった。現在の全国版チェーン店の隆盛と違い、町の顔をつくる商店が、軒を連ねていた。写真に見える「軽い心」の先、「パチンコマリー」の所は「ツインスター」の賑やかな看板に代わる。 |
UFO型 1-5丁目と6丁目は、それぞれ形状の違う円盤形の街灯でした。
ガス灯型 1-5丁目と6丁目の街灯は、どちらも円盤形の後はガス灯型になりました。しかし両者の形状は異なり、6丁目の方は左右のアームに高低差があります。両者が同時整備かどうかは分かりません。映画「神楽坂モデル商店街完成」(6丁目)はガス灯型の例が出ています。
インターロッキング・ブロック インターロッキング(interlocking)は、かみ合わせる。ブロックを互いにかみ合うような形状にして舗装する。荷重が掛かったとき、ブロック間の目地に充填した砂がブロック相互のかみ合わせ効果(荷重分散効果)が得られる。
輪型を残したまま 急勾配箇所ではアスファルト舗装よりもコンクリート舗装の採用が多い。自動車や自転車がすべりをとめるため『Oリング』と呼ばれる円形のくぼみは、ドーナツ状のゴム製リングで型どりをして施工します。
電柱が片側だけ 6丁目の通りの両側に電柱があります。一方、1-5丁目については昭和54年(1979年)のID 85、ID 87、ID 88、ID 89を見ると、すでに電柱は片側だけになっています。三沢氏が撮影した1980年1月の写真(下図)も電柱は片側だけのようです。
キャバレー「軽い心」 写真参照
ツインスター 1992年12月~2003年、ディスコ「ツインスター(TwinStar)」がありました。閉店し、フレンチレストラン「ラリアンス{L’Alliance)」に変わりました。
◆坂と店構えのあり方 坂下から登り始め最初の路地が「神楽小路」。右角の甘味店「紀の善」は、改造されて昔の面影と違う。歩道から一呼吸あって引違いガラス戸があり、その前に小振りなショーケースのあるのは昔と同じ。心憎い余裕のある入口の気配りだ。「八百屋煎餅」を欲しがる知人がいて、地方に行く時のみやげだった。(省略) 不二家の店頭で「ベコちゃん焼き」を実演していた昔、人だかりで歩けなかった。5年前の建替えで、店先が変わった。歩道からいきなり7段下がって半地下の店へ。そのカーブする階段の左脇で実演があり、さながらまわり舞台のように、階段を降りながらそれが見られる。右の階段を10段登ればコーヒー店。間口4.5mがこの仕掛けで振り分けられ、立休化して人だかりが無くなった。うまい実例である。(省略) 間口が流通の店の3軒分ある「陶柿園」は、陶器の老舗。40年間変わらないこの店先は、恐らく神楽坂でも随一の工夫がある。坂の上と下に、2か所の入口、全面ガラスの店先で奥行きが全部見渡せる。加えて内部が5つのレベルに分かれ階段を登ったり、降りたり。それによって空間構成が見え、客がまるでステージを歩くように見える。ガラス器が輝き、人の動きに加わる。 |
八百屋煎餅 おそらく紀の善独自の煎餅
半地下の店 写真を参照
40年間変わらない 陶柿園の開業は昭和23年(1948年)、ビルを建てたのは昭和47年(1972年)でした。2006年の文章としては、少しオーバーです。
随一の工夫 随一かどうかは分かりません。
奥行きが全部見渡せる 陶柿園ビルは店舗が1階と中2階の二層構造になっています。坂下側から入ると1階、坂上側は「神楽坂写真館」などのテナントの入り口を兼ねていて中2階に入れます。また店内の階段でも上下できます。こうした構造が前面のガラス越し見えるのが、建築家としての三沢氏に興味深かったのでしょう。
◆神楽坂は両側商店街の典型 (省略) 理科大建築学科の沖塩荘一郎名誉教授は、かつて書いている。「二車線の片側は違法駐車であるが、狭くなった車道を通行人が自由に横断している。現行制度では考えられないことだが、これがこれからのまちづくりのヒント」だと。繁栄している商店街は、アーケードを持とうが持つまいが、狭い道巾で車の入らないこと。有名な江東区の「砂町銀座」。巣鴨のおばあさんの原宿である「とげぬき地蔵商店街」など。商店街は両側に店が並び、ゆっくり品定めができ、斜めに横断したり、行き交えることが賑わいづくりには、欠かせない原理ではなかろうか。(省略) 「パタンランゲージ」という、建築都市デザインの文法をのべた、クリス・アレキサンダーという、カリフォルニア大学教授は、そのパタンの一つに店先を扱っている。それも随分と研究し、学生に実験させた。店が一望の下に見えることで、店内に客を呼び込める。当たり前のことだが、大小に関わらず、店舗の入口の必要条件であることを強調している。つまらないことを研究したものと、昔は考えていたが、神楽坂の両側では、その工夫に溢れていることを痛感する。 |
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で ID 6-7, 12903-05を見ていきましょう。ともに今は雨は降り、撮影の方向は神楽坂の中途から坂下に向いています。街灯は鈴蘭灯とは違い、円盤形の大型1個だけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。円盤形の下には標識「神楽坂」もあります。車道では横断歩道を越えて、菱屋の前まで、Oリングのくぼみがあり、歩道は色つき歩道で、滑り止めのついた四角いブロックで舗装しています。
神楽坂3丁目(昭和42年)坂下→坂上 | |
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右手の工事中については、1967年(昭和42年)までは「きらく会館」で、70年(昭和45年)になると「コーヒー5番」になります。また「ブリヂストン エバーソフト」は「菱屋」です。
また、菱屋の写真がわずかに出ていますが、これは古い店舗です。新しいビルにかわるのは昭和42年以降でした。
一方、昭和42年2月8日の田口重久氏の写真があり「2月8日までに『Club 軽い心』の向こうで、菱屋のビルが完成しています。つまり新しいビルに変わるのは昭和42年(または前年末)でした」と地元の人。
これから地元の人はこう考えます。
右手の龍公亭とヒデ美容室の間に空地があります。ID 4794(昭和27年)は、ここに建物が建築中(または改装中)でした。かなり見づらいですが、ID 9504-9505(昭和28年以降)では、少し奥まった店らしきものが見えます。ID 4943(昭和32年)でも右端のヒデ美容室の隣に店があることが確認できます。 しかし、この店はその後、短期間で取り壊されたと見られます。1962年-63年(昭和37-38年)の住宅地図では下図のように空地になっています。隣家の壁面が煤けているので火事だったかも知れません。ID 14-15(昭和37年以降)でも、このID 6-7などと同様に空地です。 空地は1964年(昭和39年)の地図以降は「きらく会館」、1970年(昭和45年)になると「コーヒー5番」になります。 これらを総合すると、撮影時期は「きらく会館」が建つ前の1963年(昭和38年)ごろと思われます。 |