新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 118からID 120までは、昭和45年、矢来町の中の丸を撮ったものです。ただし、ID 118とID 119の撮影時期は昭和45年3月、ID 120は昭和45年4月となっています。
この写真の解釈2つを上げてありますが、コメントの方が正しいでしょうね。
ID 118は自動車が遠くに走っています。T字路だと思われ、おそらく一方通行か、あるいは対面通行でもほとんど自動車は通らない場所でしょう。中の丸というのは明治時代に矢来町3番地は巨大な区域なので旧殿、中の丸、山里の3つの字に分けていました。中の丸は中の丸御殿の跡の意味で、北東部分(下図で橙枠)になります。
ここでT字路になる場所は9か所です。
次は電柱を見ていきましょう。電柱の位置はまず不変ですが、ただし変わるものもあるので、ここからは全て推量です。ID 118-120のコンクリート製と木製の電柱は右側にあります。
➀ 左側だけ ➁ 左側だけ ➂ T字の中央に電柱1本
➃ 電柱0本 ➄ 右側だけ ➅ 左側だけ
➆ 電柱は遠くの左側1本と近くの右側1本
➇ 右側だけ ➈ 左側だけ
これからすると、➄か➇だけが正しく、うち➄では電柱の位置が違うので、➇でしょうか?
一方、地元の方は違う方法でこの難問に取りかかります。
一連の写真は、ID 120に見える木塀の家を中心にお屋敷町のイメージを狙ったのでしょう。この写真の撮影場所を推理してみます。 条件は以下になります。 1) 電柱が3本見えるので、60-70mある平坦で真っ直ぐな道。 2) 突き当たりに塀がある。(複数の建物ではない) 3) 車が通行しにくい。(4m幅に拡幅されていない) 4) 左側には少なくとも4軒の家が道に迫って立っている。 これを1970(昭和45)年当時の中の丸付近の住宅地図と照らし合わせると、➀-➃が候補に浮上します。(矢印は撮影方向です)これを個別に検討します。 ➀は2016年のストリートビューで古いブロック塀が壁の写真があり、おそらく違います。 |
最初にこの50年で矢来町に新しい道路がてきたんだと知りませんでした。反省です。
偶然、このサイトを見つけました。1960~1970年に矢来町に住んでおりましたので、大変、懐かしく拝見しております。
ID118-120の3枚の写真ですが、撮影場所は、矢来町79と81の間の道路から西方向を撮影した写真と考えます。現在、ファミリーマートがあるところを東にはいったあたりです。添付の地図より少し南側です。ID118に移っている自動車は、現在の牛込中央通りを走行中の自動車です。正面にある、のぺっとした塀は 当時の興銀社宅の塀です。つきあたりの右側あたりに、都バスの矢来町(豊島園、大泉学園行き)の停留所がありました。
こうすべきなのでしょうか?
地図のあたりで撮影した写真と思われます。