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神楽坂の地図と由来

文学と神楽坂

神楽坂の地図と、路地、通り、横丁、小路、坂と石畳を描いてみました。

神楽坂の地図。石畳と坂

名前の由来は……
軽子坂 軽子がもっこで船荷を陸揚した場所から
神楽小路 名前はほかにいろいろ。小さな道標があり、これに
小栗横丁 小栗屋敷があったため
熱海湯階段 パリの雰囲気がいっぱい(すこしオーバー)。正式な名前はまだなし
神楽坂仲通り 名前はいろいろ。「仲通り」の巨大な看板ができたので
見番横丁 芸妓の組合があることから
芸者新路 昔は芸者が多かったから
三年坂 迷信から。神楽坂からはちょっと離れています
本多横丁 旗本の本多家から。「すずらん通り」と呼んだことも
兵庫横丁  兵庫横丁という綺麗な名前。兵庫町とは違います
寺内横丁 行元寺の跡地を「寺内」と呼んだことから
毘沙門横丁 毘沙門天と三菱東京UFJ銀行の間の小さな路地
地蔵坂 化け地蔵がでたという伝説から
神楽坂の通りと坂でさらに多くをまとめています

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筑土八幡神社|坂と山④

文学と神楽坂

 御殿坂、御殿山、芥坂、筑土山がでてきます。石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

御殿坂(ごてんざか) 新宿区筑土八幡町の筑土八幡神社の裏手、埃坂の上から東に向い、途中右にカーブして旧都電通りへ下る短い坂路で、御殿坂の名は慶安年間三代将軍家光のころ、ここに大納言家綱(世子)の御殿が造られてこのあたりの台地を御殿山と称したことによる。「東京市史稿市街篇第六」には「慶安三年十月十八日、牛込筑土御殿御普請これあるに付……」とある。また「新撰東京名所図会」には「御殿山とは今筑土山の西、万昌院の辺より旧中山備前守の邸地をいふ。寛永頃迄は御鷹野のとき御仮屋ありしなり。」と記されている。
  夕暮るる筑土八幡渡り鳥             瓊音

旧都電通り 大久保通りです
東京市史稿 明治44(1911)年以来、現在も刊行が続く江戸から東京への歴史で資料を年代順にまとめた史料集
新撰東京名所図会 『風俗画報』の臨時増刊として、明治29年から明治42年まで刊行。テーマは公園、東京総説、区、博覧会、祝典、災害、戦争など。全64編。
筑土山 現在の筑土八幡神社がある高台
万昌院 筑土八幡町34にありましたが、大正3年に中野区上高田へ移動しました。
中山備前守 現在は東京都看護協会のビルなどです。右図は「礫川牛込小日向絵図」(万延元年)から。ただし、中山備前守ではなく、地図によれば「中山備後守」です。

芥坂(ごみざか) 埃坂とも書く。御殿坂上から反対に北方東五軒町へ下る筑土八幡社裹の坂路で、坂下西側に東京都牛込専修職業学校がある。筑土八幡は往古は江戸城の平川門へんにあったのを、天正七年、二の丸普請のために現在地へ移したものといい、また田安門のあたりにあって田安明神と呼ばれていたとも伝えられる。「南向亭茶話」には「筑戸 旧は次戸と書す。往古は江戸明神とて江戸城の鎮守たり。江と次と字形相似たる故にいづれの頃よりか誤り来りしなるべし。」とある。祭神は素戔嗚尊であるが、後代に平将門を合祀したという。社殿は戦火で焼けて戦後再建された鉄筋建築である。

東京都牛込専修職業学校 現在は筑土八幡町4-27で、東京都看護協会のビルです。
往古 おうこ。過ぎ去った昔。大昔
素戔嗚尊 すさのおのみこと。須佐之男命。日本神話の神。天照大神の弟。多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放された。出雲に降り、八岐やまたの大蛇おろちを退治し、奇稲田姫くしなだひめを救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣あまのむらくものつるぎを天照大神に献じた。

 また、横井英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)では

御前坂 新宿区筑土八幡町、八幡社裏手、芥坂の頂上から、さらに南のほう、もと都電の通りへ下る坂。慶安五年のころ、徳川家綱の大納言時代、ここに牛込御殿ができた
芥坂  新宿区筑土八幡町から東五軒町へ下る坂。筑土八幡社の西わきを北へ下る坂

 新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」(平成22年)では

筑土八幡町

内田宗治著「明治大正凸凹地図」実業之日本社、2015年


(中略)津久戸八幡の西に続く高台を御殿山という。太田道濯の別館があったという説(江戸往古図説)もあるが、寛永の頃、三代将軍家光の鷹狩時の休息所として仮御殿があったという説もある(南向茶話・江戸図説)。明暦四年(一六五八)安藤対馬守が奉行となってこの山を崩し、その土でこの北の東五軒町、西五軒町ごけんちょう水道町すいどうちょうなどの低地を埋め立てた(町名誌)。
 筑土八幡西に上る坂を御殿坂ごてんざかという。御殿山に上る坂から名付いた。その坂を上りきり、北方の東五軒町に下る坂をごみ坂(芥坂、埃坂)という。ごみ捨て場があったので名付いた(町名誌)。
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筑土八幡神社|文化財③

文学と神楽坂

 筑土八幡神社の文化財の説明です。神社に入る前の坂を登り終える途中で、鳥居が見えてきます。写真のような石造りの鳥居です。  鳥居の左側に説明板があります。

新宿区登録有形文化財 建造物
      石造いしぞう鳥居とりい
                 所 在 地 新宿区筑土八幡町二ー一
                 指定年月日 平成九年三月七日
 石造の明神型みょうじんがた鳥居とりいで、享保十一年(一七二六)に建立された区内で現存最古の鳥居である。高さ三七五センチ、幅四七〇センチ、 三五センチ。
 柱に奉納者名と奉納年が刻まれており、それにより常陸ひたち下館しもだて藩主はんしゅ黒田豊前守ぶぜんのかみ直邦により奉納されたことがわかる。

新宿区指定有形民俗文化財
      庚申塔こうしんとう  この石段を上った右側にあります。
                 指定年月日 平成九年三月七日
 寛文四年(一六六四)に奉納された舟型ふながた光背型こうはいがたの庚申塔である。高さ一八六センチ。最上部に日月にちげつ、中央部には一対の雌雄しゆうの猿と桃の木を配する。右側のおす猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側のめす猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である。

  平成九年五月

                    新宿区教育委員会

明神型 柱や笠木など主要部材に照りや反りが施された鳥居。
庚申塔 庚申信仰でつくった石塔。江戸時代に流行った民間信仰で、庚申の日の夜には、長寿するように徹夜した。細かくは「道ばたの文化財 庚申塔」を参考に。
舟形光背 ふながたこうはい。仏像の光背(仏身からの光明)のうち、船首を上にして舟を縦に立てた形に似ている光背。

 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では

三四、珍らしい庚申塔
          (筑土八幡町七)
 筑土八幡境内には珍らしい庚申塔がある。高さ約一・五メートル、巾約七十センチの石碑で、碑面にはオス、メスの二猿が浮き彫りにされている。一猿は立って桃の実をとろうとしているところ、一猿は腰を下ろして桃の実を持っており、アダムとイブとを思わせるものである。下の方には、判読できないが、十名の男女名が刻まれている。
 寛文四年(一六六四)の銘が刻んであり、縁結びの神とか、交通安全守護神として、信仰が厚かった。
 またこの庚申塔は、由比正雪が信仰したものという伝説がある。しかし、正雪は、この碑の建った十三年前の慶安四年(一六五一)に死んでいるのである。そのような話が作られたのは、矢来町の正雪地蔵と同じように、袋町や天神町に正雪が住んだことから結びつけたものであろう(五二参照)。
 庚申塔の研究家清水長輝は、これは好事家が幕末につくったものではないかといっている。
 その理由として、庚申塔としては余りにも特異であり、猿と桃との結びつきは元祿からと思われること、年号を荒削りの光背に彫ることは、普通はあり得ないこと、などをあげている。この庚申塔は、もと吉良の庭内にあったものを移したというが、廃寺になった白銀町の万昌院にあったものではないかという。
 「参考」新宿郷土研究第一号  路傍の石仏

由比正雪 ゆいしょうせつ。江戸前期の軍学者。江戸へ出て塾を開き楠流軍学を講義して門弟は多数。1651年徳川家光の死に際し、幕閣への批判と旗本救済を掲げて幕府転覆を企図。事前に露見し駿府で自殺。
清水長輝 おそらく清水長輝著「庚申塔の研究」(大日洞、1959年)でしょう。
光背 こうはい。仏身から発する光明を象徴化したもの。後光ごこう 、円光、輪光などともいう。
万昌院 明治29年の「東京市牛込区全図」ではまだありました。

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筑土八幡神社|田村虎蔵旧居跡②

文学と神楽坂

田村虎蔵

 筑土八幡神社は新宿区筑土八幡町2-1にある小さい小さい神社ですが、しかし、「田村虎蔵先生顕彰碑」、登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」があり、文化財としては巨大です。

 ここでは「田村虎蔵先生顕彰碑」について。

 筑土八幡神社の入口で「田村虎蔵先生顕彰碑 入口」とあります。
 門を通り、登りつめると、左手に「田村虎藏先生をたたえる碑」がでてきます。
 この碑には他に「まさかりかついで きんたろう」の「金太郎」五線譜、「1965 田村先生顕彰委員会」があり、碑文は「田村先生(1873~1943)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職 言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」と書いてあります。

顕彰 けんしょう。隠れた善行や功績などを広く知らせ、表彰する。
視学 しがく。旧制度の地方教育行政官。学事の視察や教育指導に当たった。

 以前は、文部省の唱歌教科書ではどれも漢文調で難しい歌詞が多く、一方、軍歌では乱暴な言い回しが多かったといいます。これに対して、田村虎蔵氏は優しい言葉で、優しい詩を書き、言文一致の唱歌の創始者の一人でした。

 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では、

三二、作曲家田村虎蔵旧居跡
          (筑土八幡町三一)
 大久保通りから左手に行く路地の坂道を上る。坂を上りつめると、右が筑土八幡となるが、その左側は明治、大正時代の小学唱歌の作曲家田村虎蔵が明治三十九年十二月から昭和十八年まで住んでいたところで、新宿区の文化財となっている。
 代表的なものは、「金太郎のうた」、「花咲爺」、「大黒様」、「青葉の笛」、「一寸法師」、「浦島太郎」などで、今でも愛唱されているものが多い。
 昭和四十年十一月、教え子たちは、先生の二十三回忌を記念して、その徳をしのび、先生がよく散歩していた隣の筑土八幡境内に顕彰碑を建てた。大理石で、みかげ石台の上に据えられ、碑面には「田村庭蔵先生をたたえる碑」というタイトルの下に、「金太郎のうた」の音符と歌詞が刻みこまれ、その下に簡単に氏の略歴を刻んだスマートなものである。
 なお田村氏子孫は、昭和四十四年十月十五日、神楽坂六の二一に移転した。
 〔参考〕新宿区文化財

坂道 昭和5年の「牛込区全図」。赤は筑土八幡町31(現在は筑土八幡町4の24)。青は登っていく坂道で、坂は「御殿坂」といいます。

 筑土八幡神社から筑土八幡町31番地(現在は4-24)までに行く場合は、筑土八幡神社を右に越えて、西北西に下り、神社から出ると、目の前に「新宿区指定史跡 田村虎蔵旧居跡」があります。とてもとても小さく標示されています。

新宿区指定史跡
    田村たむら虎蔵とらぞうきゅう居跡きょあと
             所 在 地 新宿区筑土八幡町三十一番地
             指定年月日 昭和六十年三月一日
 作曲家田村虎蔵(一八七三~一九四三)は、明治三十九年(一九〇六)から、その生涯をとじるまでの三十七年間、この地で暮らし、作曲活動を行った。
 虎蔵は、明治時代の言文一致げんぶんいっちの唱歌運動を石原和三郎、巌谷いわや小波さざなみ、芦田恵之助、田辺友三郎らと共に展開し、その普及に尽力した。小学唱歌を主に作曲し、「金太郎」「浦島太郎」「一寸法師」「花咲はなさかじじい」など、現在も愛唱されているものが多い。
 旧居は太平洋戦争時の戦災で焼失したが、筑土八幡神社境内には虎蔵の功績をたたえた記念碑がある。
       平成二十五年三月  新宿区教育委員会

筑土八幡神社|由緒①

文学と神楽坂

 筑土八幡神社は新宿区筑土八幡町2-1にある、今や小さい小さい神社です。

 しかし、「田村虎蔵先生顕彰碑」を始め、登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」があり、文化財となると巨大な空間です。

  まず筑土八幡神社の由緒について。天保年間に斎藤月岑氏が7巻20冊で刊行した「江戸名所図会」では

築土八幡宮 津久土明神の宮居に竝ぶ地主の神にして、別當は天台宗松霊山無量寺と号す。祭神応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、以上三座なり。相傳ふ、嵯峨天皇の御宇、この地に一人の老翁住めり。常に八幡宮を尊信す。或時、當社の御神、この翁が夢中に託して、永くこの地に跡を垂れ給はんとなり、老翁奇異の思ひをなす、その翌日一松樹の上に、瑞雲ずいうん靉靆あいたいして、旌旗はたの如くなるを見る。(松霊山の号こゝにおこると云ふ。)時に一羽の白鳩來つて、同じ樹間このまにやどる。郷人さとびと翁が霊夢を聞きて、直ちにこの樹下きのもと瑞籬みずがきめぐららして、八幡宮とあがむ、遙の後慈覺大師東國遊化ゆうげの頃、傳教大師彫造し給ふ所の阿彌陀如来を本地佛とし、小祠を經始けいしす、其後文明年間、江戸の城主上杉朝興ともおき、社壇を修飾し、此地の産土神とすといふ。(或ふみにいふ、當社の地は往古管領上杉時氏の壘[トリデ]の跡にして、時氏の弓箭ゆみやを以て八幡宮に勸請なし奉ると云々)

「江戸名所図会」の図では、筑土八幡は右、築土神社は左の神社です。現在は右側の筑土八幡しか残っていません。左側の築土神社は千代田区九段に移動し、かわって小玉製作所やカトリックの修道院などがやって来ました。

[現代語訳]津久戸明神と並ぶ土地の神で、別当は天台宗松霊山無量寺という。祭神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇の三柱。伝承によると、嵯峨天皇の時代、この地に一人の老人がいた。常に八幡宮を信仰していたが、ある時、当社の神が老人の夢に現れ、永くこの地に自らの跡を残すように告げた。翌日、松の木の上に瑞雲がたなびき旗のように見えた。松霊山の山号は、これに由来する。この時 一羽の白鳩が飛んで来て松の枝にとまった。里人たちは老人の夢の話を聞き、松の木の下に玉垣をめぐらして八幡宮として祀った。その後、慈覚大師が東国遊歴の頃、伝教大師が彫った阿弥陀如来を本地仏として祠が建てられ、さらに文明年間(一四六九~八七)江戸城主上杉朝興が社殿を整え、この地の鎮守とした。一説に、この場所は昔、関東管領上杉時氏の城館があり、時氏の弓矢を八幡宮に奉納したという。(多くは新宿区歴史博物館『江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり』平成12年から)

御宇 ぎょう。帝王が天下を治めている期間。御代
瑞雲 ずいうん。めでたいことの起こるきざしとして現れる雲。祥雲
靉靆 あいたい。雲のたなびくさま。雲の厚いさま。
旌旗 せいき。はた。のぼり。軍旗
瑞籬 ずいり。神社などの玉垣。みずがき。

「新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、1906)では

 筑土八幡神社は筑土八幡町七番地卽ち筑土山に鎮座す。表門は石柱にて銅製の注連をかけ。石磴中段に石の鳥居あり。筑土八幡神社と題する銅額を掲ぐ。享保十一年丙午建る所にして。從四位下行豊前守丹治眞人黑田直邦と銘せり。山上に株の松あり。千年松といふ株の遺蘖なりとて。ここにも注連を張りぬ。社殿は土蔵造りにて。格天井。拝殿には大なる弓とうつぼとを掛け右の方に獅子頭を安じ。筑土八幡神社の扁額を打たり。殿前の石獅には文化七庚午年八月吉日。石燈篭には寛政十二庚申八月十五日とあり。左には梅右には櫻を植へぬ。
[現代語訳]筑土八幡神社は筑土八幡町七番地、つま周辺の高台を「筑土山」といったが、ここに鎮座している。表門は石柱で銅製のしめなわをかけ、石段の中段には石の鳥居がある。筑土八幡神社という銅額を掲げている。銘は、享保十一年、従四位下行豊前守の丹治眞人黒田直邦。山上に株の松があり、千年松という株がでている。ここにもしめなわを張っている。社殿は土蔵造りで、天井は格天井、拝殿には大なる弓と矢を掛け、右の方に獅子頭をおいた。筑土八幡神社の横長の額がある。殿前の石獅には1810年8月吉日、石燈篭には1800年8月15日と書いてある。左には梅、右には桜を植えた。

石磴 せきとう。石段。石の多い坂道。
中段 今も下から48段目
享保十一年 1726年
黒田直邦 上野沼田藩主。寛文6年(1666年)生れ。享保8年(1723年)奏者番。同20年(1735年)3月歿。享年は70歳
 旧の旧字体
遺蘖 蘖は切り株や木の根元から出る若芽。余蘖。
格天井 太い木を井桁いげた状に組み、上に板を張った天井
 えびら。矢を入れて右腰につける武具。うつぼ(靫・空穂・靭)は矢を携帯する筒状の容器。
扁額 門戸や室内に掲げる横に長い額
文化七庚午年 1810年
寛政十二庚申 1800年

 境内には由来も書いてあります。

      筑土八幡神社由来
 昔、嵯峨さが天皇の御代(今から約千二百年前)に武蔵国豊嶋こおり牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁かいた。ある時、翁の夢の中に神霊しんれいが現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそはへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人さとびとに語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連しめなわをゆいまわして、その松をまつった。
 その後、伝教でんぎょう大師だいしがこの地を訪れた畤、この由を聞いて、神像を彫刻してほこらに祀った。その時に筑紫つくしの宇佐の宮土をもとめていしずえとしたので、筑土つくど八幡はちまん神社と名づけた。
 さらにその後、文明年間(今から約五百年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土うぶすな神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。
 現在、境内地は約二千二百平方米あり、昭和二十年の戦災て焼失した社殿も、昭和三十八年氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽河岸・神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。

御祭神
  応神天皇
  神功皇后
  仲哀天皇

大祭
  九月十五日

宮比神社由来
 御祭神は宮比神みやびのかみ大宮売命おおみやのめのみこと天鈿女命あめのうずめのみことともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治四十 年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和三十七年に再建したものである。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈③

   白秋と「物理学校裏」

 マスコミにかまけて俗物繁栄時代の文学界では、純粋で高度の文学者の研究は立ち遅れ気味で、北原白秋ほどの卓越たくえつした詩人さえ、もう歿後二十七年というに、まだ完全な年譜も見当らない。いくらか良心的と思われるもっとも新らしい白秋年譜で、例えば牛込山伏町から神楽坂二丁目に移った年代を調べようとすると相変らず明治四十二年十月末となっている。これは昭和十八年六月発行の雑誌「多摩」北原白秋追悼号に、側近の人々によってかなり詳しく書かれた年譜をよく検討せずにそのまま孫引している結果らしい。わたくしは昭和二十六年に『新東京文学散歩』で神楽坂の白秋を書いたとき、石川啄木の日記によって「明治四十一年十月の末近く」と訂正しておいた。それは啄木の四十一年七月二十七日の日記に「北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。」とあり、また同年十月二十九日には「北原君から転居のハガキ」「北原君の新居を訪ふ」として、やがて白秋が「物理学校裏」という詩を作ることになった神楽坂二丁目の家のことが、あたかもその詩の情景を裏書きでもしたように詳しく記録されているからであった。戦後に一応は流布るふした筈の『石川啄木日記』やわたくしの『新東京文学散歩』も、近頃の研究家にはもう活用されていないのであろう。
 わたくしは神楽坂をニ丁目から三丁目へようやく坂の頂上近くまで登り着き、三丁目と二丁目の境に当る左側の横丁に折れた。その三丁目角は戦前しばしば寄ったことのある田原屋というフルーツ・パーラーの跡で、今は山本という薬店になっているが、表口を注意して見ると、まだフルーツ・パーラー時代のモザイク模様のタイル敷きの断片がのこっている。その横丁の小路をそのまま南へ辿ってゆけば旧物理学校東京理科大学裏の崖上に出る。それは戦前の地図も現在の地図も同じである。小さなアパートや小料理店などが両側に並んで、小型自動車一台がやっと通れるほどのトンネルのような小路を、わたくしは北原白秋の「物理学校裹」という詩を切れぎれに思い出しながら歩いた。
 「物理学校裏」は大正二年七月刊行の白秋第三詩集『東京景物詩及其他』に収められ、「明治四十三年三月」作となっている。白秋は九州柳河の実家の破産問題などがあって明治四十二年秋にはもう神楽坂を去って本郷動坂に移り、翌四十三年二月には牛込新小川町に移るというあわただしい時代を迎えたが、創作慾はいよいよ(さか)んで、またその頃はパンの会もようやく隆盛期に入っていたから、「物理学校裏」は市街情調詩として新小川町で書きあげた名作の一つに違いないが、内容はあくまでも初夏の神楽坂の強烈な印象である。(この章は以下略)

41年7月27日の日記 石川啄木の日記から。

 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍つて、耳が――左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴つてゐた。
 いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言つてゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなつてから辞した。途中まで送つて、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。
 北原君は十一円の家賃の家に住つて、老婆を一人雇つてゐる。
 その時は余程頭に余裕が出てゐた。
 神楽坂の中腹のトアル氷屋に入つた。夕日の光で、坂を上る人も下る人も、長い長い影法師を逆まに坂に落して歩いてゐた。ガツカリした気持でそれを眺めてゐて、やがて遣瀬もない“放浪”の悲みを覚えた。そこを出て間もなく、卜ある店の時計を覗くと、恰度午後六時を示してゐた。
同年10月29日 石川啄木の日記から。

 九時頃起きると直ぐ吉井君が来た。吉井君も小説をかくと言つてゐる。一緒に昼飯を食つてると、北原君から転居のハガキ。二時頃、栗原君へ小説の予告文をかいて手紙。それを投函し乍ら二人で平野君を訪ふたが不在。
 吉井君とは別れて帰つた。何となく気が落付かぬ。堀合君へ行つて一円借りて、出かけた。大学の前で横浜工学士に逢つた。北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行つてゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上つた。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒つてるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。
 一日の談話につかれてゐてすぐ床についた

かまける あることに気を取られて、他のことをなおざりにする。
歿後二十七年 北原氏は昭和17年に死亡し、それから27年も時が経ち、現在は昭和44年です。
山本 小路の直後は山本漬物店(山本薬局)でした。細かくは3丁目南側最東部で。
横丁の小路 おそらく右の無名の小路です。
トンネルのような小路 おそらく小栗横町でしょう。
本郷動坂 本駒込4丁目と千駄木4丁目の境
新小川町 1982年から単独町名。「丁目」は消えている。詳しくは地図の新小川町
情調 その物のかもし出す雰囲気。心にしみる趣。感覚に伴って起こるさまざまな感情。

 以下の文章はここでは省略。それでも注釈はあります。

この詩 この詩は「物理学校裏」で細かく書いています。
深い 原文は「うすい」
Cadence (詩の)韻律,リズム。(朗読の)抑揚、 (楽章・楽曲の)終止形。楽曲の終わり特有の和声構造。汽車が停まる音でしょうか。
浮彫 平らな面に模様や形が浮き出すように彫り上げた彫刻。あるものがはっきりと見えるようにすること
甲武鉄道 御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿を経由、八王子に至る鉄道を保有・運営した。1889年(明治22年)新宿と立川で開業。1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により10月1日に国有化。
飯田町駅 1895年(明治28年)、中央本線を敷設した甲武鉄道の東京側のターミナル駅として開設。
牛込駅 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近。細かくは牛込駅
明星 1900年(明治33年)4月、同人結社東京新詩社の機関誌として、与謝野鉄幹が主宰となり創刊。詩歌を中心とする月刊文芸誌。1908年(明治41年)11月の第100号で廃刊。
スバル 1909年から1913年まで発刊。創刊号の発行人は石川啄木。他に木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載。スバル派と呼ばれた。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈②

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)②は、泉鏡花の話です。

   鏡花新婚の地

 牛込横寺町の恩師尾崎紅葉の門を出た鏡花は、博文館大橋乙羽の家や、小石川大塚町、牛込南榎町などを転々としたあと、明治三十六年(一九〇三)三月にはかねて相愛の伊藤すずと結婚して神楽坂町一丁目の裏通りにひそかな新居を持ち、まもなくその年十月には紅葉を喪ったが、明治三十九年二月に健康を(そこな)って逗子に転地するまで、そこに住んでいた。
 神楽坂は表通りから一歩横丁に入ると、今でも料亭や待合などが多い。昔から山の手の花柳街としで知られていた。鏡花夫人のすずはもと神楽坂で藝名を桃太郎という、まだあまり世馴れせぬ藝者であった。明治三十二年一月のこと、そこのとある料亭で紅葉を盟主とする硯友社の新年会が催されたとき、紅葉に従って席に連なった鏡花は藝名桃太郎のすずと親しむようになった。それには鏡花の亡母の名もまたすずで、その偶然が二人を強く結ぶ原因だったと、いかにも鏡花らしい説も伝えられている。だがまだ若く文学者としての前途も険しい鏡花が、神楽坂の藝者を身受けしてまで結婚することに反対した紅葉は、二人の仲を認めようとしなかった。恩師の眼をおそながらも、鏡花とすずの逢う瀬はひそかにつづけられ、ようやくすずが前借などを返して苦界から足を洗うことになったとき、二人はついに同棲した。それが神楽坂裏通りの家である。(この章は以下略)

人文社「戦前昭和東京散歩」(2004年)から。大塚町57番地は赤丸。

博文館 1887年、大橋佐平が東京本郷で創業した出版社。高山樗牛を主幹とする「太陽」、巌谷小波編集の「少年世界」、硯友社と結んだ「文芸倶楽部」、田山花袋編集の「文章世界」などの雑誌を刊行。「帝国百科全書」全200巻(1898‐1909)は10年の歳月をかけている。大正から昭和初頭にかけて、新たな出版社も台頭し、出版王国もしだいに退潮していった。
大塚町 小石川区大塚町57番地で、右図です。寺木定芳氏の『人・泉鏡花』(昭和18年、武蔵書房)では「小石川大塚町に居を卜されたのは明治廿九年の五月だつた。有名な火藥庫のすぐ側で、未だ血氣盛んだつたのと、懷工合で致方なかつた爲なので、其の後の先生なら火藥庫ときいたゞけで、おぞ毛をふるつて逃げだしたらうが、其の時は平氣だつた」と書いてあります。
伊藤すず 明治32年1月、硯友社の新年宴会で、泉鏡花(満25歳)は神楽坂の芸妓桃太郎(本名伊藤すず、生年は明治14年9月24日。この年齢は17歳)を初めて知ります。
神楽坂町一丁目 新居は一丁目ではなく、二丁目でした。ここです。
喪う うしなう。大切な人に死なれる。
害う そこなう。がいす。成長をとめる。傷つける。
とある料亭 神楽坂の常盤という料亭です。
惧れ うまくいかないのではないかと,あやぶむこと。もとは「懼れ」の俗字。
逢う瀬 おうせ。会う時。特に、愛し合う男女がひそかに会う機会。
苦界 苦しみの多い世界。人間界。遊女のつらい境遇。公界

 以下の文章はここで省略。それでも注釈はつけてあります。
 

寺木定芳 歯科医。鏡花の門人。鏡花の親睦会九九九会の幹事。生年は明治16年2月16日。没年は昭和47年11月3日。享年は満89歳。
思い出 昭和十五年の思い出はわかりませんでした。昭和18年、寺木定芳氏の『人・泉鏡花』では「此の家は、新宅といふにふさはしい、ほんとの新築の二階家だつた。牛込見附から神樂坂へだら/\と五、六間登ると、すぐ左手に細い横町かある。其處を左へ折れて又五六間、表通の坂と平行に右手へ曲つて少し登ると、すぐ左手にあつた、小さいが、誠に瀟洒とした一構で、横手に堀井戸があつて其處からすぐ、臺所や勝手口になつてゐる」と書いてあります。右図は籠谷典子編著「東京10000歩ウォーキング 文学と歴史を巡る。No. 13 新宿区 神楽坂・弁天町コース」(明治書院、2006年)の図ですが、現在はこの建物もなくなり、すべてが東京理科大学に変わりました。
仮普請 かりぶしん。一時しのぎの簡単な建築。
掘井戸 地面を掘って作った井戸
物理学校 東京物理学校。1881年に東京府に設立。私立の物理学校(旧制専門学校)。略称は「物理学校」。現在の東京理科大学の前身。
因縁 前々からの関係。縁。 由来。来歴。いわれ。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈①


文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)は、昭和44年春から45年秋までの記録で、46年に「改稿東京文学散歩」として刊行し、昭和53年には「その後書き加えた新しい資料も多く、全面的に筆を加えて決定版とした」ものです。
 「牛込界隈」の全部は著作権の関係で、引用できません(と思います)。そこで、そのうち一部を引用します。

   神楽坂
 大江戸成立以来の歴史的地域として牛込の名は明治以後も東京山の手の区名にのこされたが、現在は新宿区に含まれて、遂に地図からもその文字は消されてしまった。しかし、二十年前の敗戦混乱という塀の向うの歴史には牛込の文字がひしめいていて、それを知らねば二十年前の歴史さえ理解出来ないのである。
 牛込から江戸城への入口であった牛込見附跡の石垣は富士見二丁目北寄りの一角に厳然と今も残り、史跡となっている。その牛込見附跡を今日の出発点として、わたくしは中央線を(また)牛込橋を渡り、飯田橋駅南口前から外壕を横切る坂を下った。歩道に生きのこる老柳の陰から、その正面に牛込界隈かいわい第一の繁華街神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る。

富士見二丁目

牛込 東京都新宿区の地域名。旧東京市牛込区。主な地名として神楽坂、市谷、早稲田など。地名の由来は、昔、武蔵野むさしのの牧場があり、多くの牛を飼育したことから。
区名 戦前は牛込区がありました。
富士見二丁目 東京都千代田区の地名。地図は右図に。
老柳 新宿区によれば、現在はハナミズキとツツジ(http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000180899.pdf)。柳は枝葉が下がって通行に支障があり、葉が小さく緑陰に乏しいため街路樹には向きません。

 神楽坂! いつもお祭りの神楽の笛や太鼓の遠音が坂の上から聞えてくるような街の名である。その地名もどうやら神楽に因縁があるらしい。「江戸砂子市谷八幡の祭礼に、神輿(しんよ)、牛込門の橋上に留まりて神楽を奏するより名を得たるとなし、江戸志は、穴八幡の祭礼に此の阪にて神楽を奏するより(なづ)くと云ひ、改撰江戸志は、津久戸社田安より今の地に移るの時、神楽を此阪に奏せしよりの名なりと記す。」と明治の『東京案内』には記されている。いずれにしても神社が多く祭礼が多いのは牛込の繁昌はんじょうを物語るものであろう。江戸以前の牛込氏居城址といわれる所も神楽坂を上ってまた左へ、藁店(わらだな)の坂を辿ったその上の袋町の台地一帯である。神楽坂は牛込氏時代から開かれていた坂道だったに違いあるまい。
 ところで現在の神楽坂は、東の牛込見附に近い坂下の外濠に面して警察署のあるあたりが神楽河岸で、東から西へ坂に沿って一丁目から六丁目まで続き、「神楽坂町」が「神楽坂」何丁目になっている。そのうち一丁目から三丁目までは以前と大した変化もないようだが、その次の四丁目は以前の宮比町、五丁目は(さかな)、そして今もまだ都電が走りつづけている旧肴町の十字路をそのまま西へ越したゆるやかな坂道の六丁目は旧通寺町である。またその先の矢来町の新称早稲田通りに矢来町ならぬ神楽坂という地下鉄駅が最近に開かれたので、神楽坂の名だけが勝手に飴棒のように引きのばされた感じである。自国の歴史認識さえ失った為政者共は、町名や地名を糝粉(しんこ)細工(ざいく)と勧違いして、勝手にいじくるのをよろこんでいるのではなかろうか。そんな感じさえする。

神楽 神をまつるために奏する舞楽。民間の神事芸能。
市谷亀岡八幡宮 いちがや かめがおか はちまんぐう。新宿区市谷八幡町にある八幡神社です。太田道灌が文明11年(1479年)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を守護神として勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して、亀岡八幡宮と称した。江戸城外濠が完成の後、茶の木稲荷のあった当地に遷座。明治5年に郷社に。
神輿 みこし。祭礼の時に、神体を安置してかつぐ輿(こし)
江戸志 写本。明和年間に、近藤義休が編集し、文化年間に、瀬名貞雄が増補改正した。
穴八幡 新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。
改撰江戸志 原本はなく、成立年代は不明。文政以前(1818~1830年)にはあったらしい。
津久戸社田安 元和2年(1616年)、それまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。
『東京案内』 正確には東京市市史編纂係編「東京案内」下巻(裳華房、1907年)。インターネットでは http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900276 の146コマ目。
牛込氏 当主大胡重行は戦国時代の天文年間(1532~55)に南関東に移り、北条氏の家臣となりました。天文24年(1555)、その子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近などを領有。天正十八年(1590)、徳川家康に家臣となり、牛込城は取壊。
居城址 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)では牛込氏の居城址の想像図を出しています。
警察署 昔は警察署がありました。現在の警察署は南山伏町1番15号に。
神楽河岸 昭和56年の地図で緑の部分。
最近に開かれた 地下鉄の神楽坂駅は、1964年(昭和39年)12月に開業。
飴棒 あめんぼう。駄菓子。棒状につくった飴。
糝粉細工 うるち米を洗って乾かし、ひいて粉にした糝粉を蒸して餅状にし、彩色し、鳥、花、人間などの形にした細工物

  早稲田派の忘年会や神楽坂
という句が正岡子規の明治三十一年俳句未定稿冬の部(『子規全集』巻三)にある。この句は明治時代の神楽坂が当時の東京専門学校後の早稲田大学)のいわゆる早稲田書生の闊歩かっぽする街であったことと、宴会などが盛んに催されるような料亭などが多い街であったことを示している、この句の作られた明治三十一年十月までは、東京専門学校から明治ニ十四年十月創刊以来の第一次「早稲田文学」が発行されていて、坪内逍遙傘下の早稲田派がぼつぼつ文壇に擡頭しつつあった。「早稲田文学」が自然派の拠城として文壇を占拠するまでになり、実際に早稲田派の名が文壇にひろまったのは、島村抱月が逍遙の後を継いで主宰した明治三十九年一月からの第二次「早稲田文学」時代だが、子規のこの一句によって神楽坂はそれ以前から早くも文学的地名になっていたことが伺われる。

東京専門学校 明治15年(1882年)「東京専門学校」が開設し、10月21日、東京専門学校の開校式。明治35年(1902年)9月、「早稲田大学」の改称を認可。
早稲田大学 明治37年(1904年)、専門学校令に準拠する高等教育機関(旧制専門学校)。大正9年(1920年)、大学令による大学となりました。
第一次「早稲田文学」 明治24年10月20日「早稲田文学」の創刊号を発行。明治26年9月、第49号からは誌面が一新。純粋の文学雑誌に転身。明治31年10月まで第一次「早稲田文学」は156冊を出版。
拠城 活動の足がかりとなる領域。
第二次「早稲田文学」 1905年、島村抱月の牽引によって第二次「早稲田文学」を開始。

 神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る、とわたくしは云った。わたくしが神楽坂や早稲田あたりをはじめて歩いたのは昭和四年春からのことで、その後昭和八、九年頃にわたくしは近くの飯田町で貧乏文学青年の生活をはじめていて、毎夜のように神楽坂を歩き廻った。酒をたしなむのでもなく、また用事があるのでもなかったが、日に一度は必ずそこにゆかないと夜もおちおち眠れぬような気持で、ただわけもなく坂の夜店を冷やかしたり、ときには山田とか相馬屋とかの文房具店で原稿用紙を買ったり、友人と顔を合せては田原屋フルーツ・パーラーとか、白十字紅屋などの喫茶店で語りあうのが常であった。神楽坂は大正十二年の大震災で下町方面が焼けた後、一時は銀座あたりの古い暖簾のれんの店が分店を出し、レストランやカフェーなども多くなって牛込というより東京屈指の繁華街であった。牛込銀座などと呼ばれたのもその頃である。わたくしが上京した頃は銀座も既に復興していたが、神楽坂の夜の賑わいなどは銀座の夜に劣るものではなかった。……それが昭和の戦火で幻のように消えてしまったのである。
 戦後二十四年、思い出のフィルターを透してのぞく神楽坂には、必ずしも戦前ほどのうるおいもたのしい賑わいも感じられないが、復興に成功して繁栄を収り戻した街には違いない。わたくしは一丁目に新装した山田紙店の、わざわざ原稿用紙と大きく書いた看板文字をなつかしい気持で眺め、左側の一丁目とニ丁目の境の小路入口、花屋の角で足をとめた。その小路をはいった右側のあたりが、どうやら泉鏡花の住居跡に当るからである。
田原屋フルーツ・パーラー これは神楽坂の中腹、三丁目にあった「果物 田原屋」を指すのでしょう。

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会から

ここは牛込、神楽坂」第17号の「お便り 投稿 交差点」で故奥田卯吉氏は次のように書いています。

 創業時の田原屋のこと。神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた。(略)
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。それは格調高いもので、大理石張りのショーウインドーがあり、店内に入ると夏場の高原調の白樺風景で話題になった中庭があり、朱塗りの太鼓橋を渡ると奥が落ち着いたフルーツパーラーになっていた。突き当たりは藤棚のテラスで、その向こうは六本のシュロの木を植えた庭があり、立派な三波石が据えられていた。これが親父の自慢で『千疋屋などどこ吹く風』だった。」と書いています。

飯田町 現在は飯田橋一丁目から三丁目まで。飯田町は飯田橋一丁目と二丁目からできていました。地図はhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/d8/Chiyodacity-townmap1.png
暖簾 のれん。屋号などを染め抜いて商店の先に掲げる布。信用・名声などの無形の経済的財産。「暖」の唐音「のう」が変化したもの。

夜のタクシー|海老沢泰久

文学と神楽坂

 海老沢泰久氏の「夜のタクシー」(「青春と読書」、集英社、昭和60年)です。

 氏は国学院大学折口博士記念古代研究所に勤務し、昭和49年、「乱」で小説新潮新人賞。昭和52年、文筆生活に。平成6年、「帰郷」で直木賞を受賞。自動車レースなどのスポーツもので注目を集めました。

「お客さん」
 運転手が前を向いたままで呼びかけていた。守谷良子が注意を向けると、左手の上を見てくださいと彼はいった。窓のすぐ上のところに読書灯がとりつけられていた。
「はい、それではうしろを見てください」
 振り向くと、シートのうしろに雑誌類がたくさん置いてあった。
「明りをつければ退屈しのぎになりますよ」
「ありがとう」
 と彼女はいった。「でもわたし、車の中では本を読めないの。一ページも読まないうちに気分がわるくなるの」
 運転手は柤当の老人だった。彼女は背を伸ばしてタクシーの登録許可証を見てみた。個人タクシーだった。彼女はまた父親を思い出した。
「お客さん。いま通ったところね。右へ登る細い坂があったでしょう」
「ええ」
矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じやないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」
「自衛隊の裹には合羽坂という坂があります。雨合羽のカッパなんて字になってますが、あれは本当は河童という字を当てなくちゃならないんです。あのへんに河童のお化けが出たというんで、カッパ坂なんですから」
「はい、それじゃこんどは市ヶ谷駅ですよ。ちょうど左側です。このあたりは、お堀をはさんで、外側が牛込区、内側が麹町区といったんです。それが昭和二十二年三月十五日の区制改革で、牛込区と四谷区と淀橋区が一緒になって新宿区、麹町区と神田区が一緒になって千代田区になったんです。ということは、はい、中央線の駅名が市ヶ谷というのはおかしいことになりませんか。中央線はお堀の内側、麹町側を走ってるんですから。あ、ごめんなさい。お客さん、年よりのおしゃべり、うるさかありませんか?」
「いいえ」
 と彼女はミラーの中の老運転手に笑いかけた。「きいておいて無駄になる話ってありませんもの」

鰻坂と北西の坂、昭和56年

いまの坂 うなぎ坂と平行する坂は払方町の坂ですが、芦田伸介氏の家はどこだかわかりません。
芦田伸介 あしだしんすけ。東京外語を1年で中退、昭和12年、旧満州で新京放送劇団。昭和14年、森繁久彌等と満州劇団を結成。昭和24年、劇団民芸に入団。テレビ「七人の刑事」をはじめ、映画や舞台で活躍。生年は大正6年3月14日、没年は平成11年1月9日。享年は満81歳。
区制改革 昭和22年、以前の35区から23区になりました。千代田区は麹町区と神田区から、中央区は日本橋区と京橋区から、 港区は芝区と麻布区と赤坂区から、新宿区は四谷区と牛込区と淀橋区から、文京区は小石川区と本郷区から、台東区は下谷区と浅草区から、墨田区は本所区と向島区から、江東区は深川区と城東区から、品川区は品川区と荏原区から、大田区は大森区と蒲田区から、北区は滝野川区と王子区から。板橋区は板橋区と練馬区に分離。目黒区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、豊島区、荒川区、足立区、葛飾区、江戸川区は不変。

「そうですとも。あたしはね、書くことがうまくないもんですから、こうやって毎日お客さんに東京の話をしてるんですよ。一人でも多くの人に古い東京のことを覚えておいてもらいたいと思ってね。あ、右折車線に気がつかないでどうもすみません。あたしの不注意でした。だいじょうぶです。はい、出ました」
「さて、どこまで話しましたっけ。あ、そうそう、あたしは牛込弁天町の生れでしてね、いまは新宿区弁天町でちゃんと手紙が届きますが、あたしが子供のころはそうはいきませんでしてね。長々とこう書いたもんですよ。いいですか、東京府、東京市、牛込区、牛込弁天町。筆じゃなかなか一行に書けなくてね、そりゃあたいへんなもんでした。新宿といえば、大久保。なんでオオクボというか御存知ですか」
大久保彦左衛門のお屋敷でもあったのかしら?」
「いいえ、とんでもない。新宿なんてのは、ついこのあいだまでは“四谷から枯野へつづく馬糞かな”なんていわれてたぐらいでしてね、お武家が住むようなところじゃありませんでした。新宿がいかに田舎だったかという話をしましょう。あたしが小学生のとき、代々木八幡というところがありましょう。新宿から小田急で五分か十分のところ。あそこの八幡様へ遠足に行ったんですよ。ところがどうなったと思います。家も何もない野っ原でしてね、引率の先生が一日中そこらをさがしまわっても、当の八幡様が見つからなくて、日か暮れてあぶないから帰ろうって、そのまま帰ってきちゃいました。そんなところだったんです。さて、どこまで話しましたか」
「オオクボです」
「ああ、そうでした。あのオオクボは、大の字に荻窪の窪という字を書くんです。もうお分りですね。あのあたりは広大な窪地なんです。本当に退屈じゃありませんか? うるさいっていやがるお客さんもいるもんですから」
「いやじゃないわ」
 彼女はやさしく答えた。さっきからずっと父親のことを考えていたのである。父親もこうしてお客と愚にもつかない話をしているのだろうか。ときにはうるさいといやがられながら。もしそうだとしても誰にも責める権利はない。たった一人の話し相手だった娘に家を出られてしまったのだから。彼女はつまらぬことだと思いながら、老運転手にきいてみた。
「運転手さんは家族の人とご一緒に暮らしてるんですか?」
「いいえ。あたしはもうずっと一人です。息子も娘も、みんな外に出しちゃいましたから」
「さびしくない?」
「さびしいったって、あたしは家も財産も持ってないもんですからね。子供たちにしてやれることといったら、自由にしてやることだけなんですよ」
[おいくつ?]
「あたしですか。七十四です。でも、まだまだはたらけますよ」
「あのね、わるいんだけど」
 彼女は父親の顔を思いだしながらいった。
「行きさきを変えたいんだけど」
 老運転手が心配そうに振り向いた。
「失礼ですが、お客さん。さっきの男のところじゃないでしょうね」
「ちがうわ」
 と彼女は笑った。「わたしの父も一人で住んでいて、わたしはもう半年も父と会っていないの」

 これで小説は終わりです。

牛込弁天町 右図を。
なんでオオクボというか 4説があり、①江戸時代、この地に大きな窪地があって大窪村と呼ばれた。②永福寺の山号である大窪山から。③小田原北条氏の家来である太田新六郎寄子衆に大久保という姓の者がいて、この地を領していた。④江戸幕府によって諸組の同心の総取締に大久保氏が任じられた。史料では大久保・諏訪・戸塚一帯を富塚(戸塚)村とされていたものが、ある時期を境に大久保村に置き換わっており、①の地形関係や②を由来とするのは不自然、④も元々の地名が変わるに足るような理由とは考えづらく、③がベスト。江戸時代は農村で、戦後、ロッテの工場や歌舞伎町の労働力として朝鮮系の人々が集まりだした。
四谷から枯野へつづく馬糞かな 正しくは「四ツ谷から馬糞のつづく枯野かな」(青蛾)
代々木八幡 代々木八幡宮のこと。渋谷区代々木5丁目1-1にある。

上田敏|『海潮音』

文学と神楽坂

 この詩は聞いたことはありますか。30代以下の人はまず知らないでしょう。

  やまのあなた
やまのあなたのそらとほ
さいはひむとひとのいふ。
あゝ、われひととめゆきて、
なみださしぐみ、かへりきぬ。
やまのあなたになほとほ
さいはひむとひとのいふ。

 もとはドイツ語からやって来ました。原文は

Über den Bergen,weit zu wandern,
sagen die Leute,wohnt das Glück.
Ach, und ich ging,im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zurück.
Über den Bergen,weit, weit drüben,
Sagen die Leute, wohnt das Glück.

 一応、英語の翻訳もあります。

Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.
Alas, and I went in the crowd of the others,
and returned with a tear-stained face.
Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.

 有名な人が翻訳していますが、その人の姓名は知っていますか? 

 次も同じ人が訳した有名な文章です。

「秋の日の」の次は「ヸオロンの」が縦書きとして続き、それから「ためいきの」と続きます。「うら悲し」の後、一行空き、「てくてく牛込神楽坂」では改行も行い、「鐘のおとに」になります。
 すいません。あくまでも空白をつくらないと考えて、途中で改行するように決めています。

 1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦の時に、BBCのフランス語放送で流れた詩でもあります。各地のレジスタンスに命令を出す暗号なのです。

 フランス語の原文、英語の翻訳も出しておきます。

 翻訳者は上田びん氏です。夏目漱石氏と比べると、年齢は8歳若く、東大には明治27年、21歳で入学しています。1905年(明治38年)、数え32歳になってから訳詞集『海潮音かいちょうおん』は発行しました。どちらの訳詞も『海潮音』からとってあります。

 では、他の『海潮音』の訳詩を知っている人は? 残念ながら、私はこれ以外の訳詩はなにも知りません。他の人も同じでは?

 ちょうど1987年、俵万智氏の『サラダ記念日』は大ブームになり、中学校の教科書にも取り上げられましたが、1句あげてといわれると、うーんというのと同じです。まあ、これが詩の生き方。『海潮音』は青空文庫で全部が載っています。

 上田敏氏は東京高等師範学校教授、東大講師、京大教授を歴任し、死亡は数え43歳、満41歳で、萎縮腎と尿毒症でした。

上田敏|横寺町

文学と神楽坂

 上田敏氏について知られていない事実があり(知っている人はいる?)、子供時代は矢来町と横寺町に住んでいたのです。

 以下は安田保雄氏の『上田敏研究 増補新版-その生涯と業績』(有精堂、昭和44年)からの引用です。

明治二十年(十四歳)四月、父が大蔵省に轉任することになつたので、一家とともに上京し、牛込區矢來町三番地に移り、六月、神田區錦町の私立東京英語學校に入學した。
 明治二十一年(十五歳)、父は四十三歳で歿し、この年、彼は第一高等中學校の入學試験に合格したが、父の死のため入學を果さず、牛込區横寺町五十八番地の伯父乙骨太郎乙の邸内に移つた。(中略)
 明冶二十二年(十六歳)九月、第一高等中學校(後の第一高等學校、當時は、五年制であつた)に入學、豫科英三級ニノ組に編入され、乙骨太郎乙の弟子である本郷區西片町十番地田口卯吉方に寄寓するやうになつた。

 まず矢来町三番地です。矢来町の90%は小浜藩酒井家の矢来屋敷でした。三番地はなかでも広く、図の赤い部分です。あまりにも大きく、このどれかに住んでいたのでしょうが、これ以上は不明です。

東京実測図(明治28年)

 次は横寺町58番地です。青い場所で、将来はこの1部分を牛込中央通りが通過し、完全に西半分だけが生き残ります。現在は下の地図での所です。

 以上、住んだのは短期間でしたが、上田敏氏も矢来町や横寺町に住んでいたのです。