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神楽坂の地図と由来

文学と神楽坂

神楽坂の地図と、路地、通り、横丁、小路、坂と石畳を描いてみました。

名前の由来は……
軽子坂 軽子がもっこで船荷を陸揚した場所から
神楽小路 名前はほかにいろいろ。小さな道標があり、これに
小栗横丁 小栗屋敷があったため
熱海湯階段 パリの雰囲気がいっぱい(すこしオーバー)。正式な名前はまだなし
神楽坂仲通り 名前はいろいろ。「仲通り」の巨大な看板ができたので
見番横丁 芸妓の組合があることから
芸者新路 昔は芸者が多かったから
三年坂 迷信から。神楽坂からはちょっと離れています
本多横丁 旗本の本多家から。「すずらん通り」と呼んだことも
兵庫横丁  兵庫横丁という綺麗な名前。兵庫町とは違います
寺内横丁 行元寺の跡地を「寺内」と呼んだことから
毘沙門横丁 毘沙門天と三菱東京UFJ銀行の間の小さな路地
地蔵坂 化け地蔵がでたという伝説から
神楽坂の通りと坂でさらに多くをまとめています

 ほかに横寺町、矢来町、袋町をまとめました。

明治の子供|新宿区役所

 新宿区役所編「新宿区史・史料編」(昭和31年)で佐久間徳太郎氏が話した「古老談話」です。

  佐久間 德太郎      中町三六
 佐久間さんは明治ニ十一年生れであるから、かれこれ五六十年に亘って神樂坂を知つておられる。佐久間さんのお母さんが、坂の近くで「末吉」という料亭を開いていたので、其處で子供の時代を過したわけである。
 神樂坂の特徴と云うべきものに、毘沙門天緣日があつた。最初は寅の日だけであつたが、明治中頃から午の日も緣日になった。境内にはそんなに大掛りな芝居などかゝらなかったが、源氏節などやる小屋掛が建つた。芝居を見に行こうとすれば、水道橋の東京齒科醫科大學の辺にあつた三崎座というのへ出掛けた。こゝは女役者で、近邊の女連が見物に行った。木戸錢は五錢であった。神樂坂の芸者屋はかたまつてあつたのではなく、其處此處に離れてあつた。芸者が店から客の所へ行き帰りするのに、着飾つた着物のつまをとつて坂を行く姿が、商店の内から坐つて眺められたし、歩行者の眼を樂しませてくれた。これは一寸他の所では見られぬ光景で、神樂坂の情緒ともいうべきものであった。

縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すると御利益があるという。
源氏節 明治時代、名古屋を中心に流行した浄瑠璃の一派。明治期末は衰退。
小屋掛 こやがけ。芝居や見世物のための小屋をつくることや、その小屋。
三崎座 東京神田三崎町にあった。一般の劇場で女性だけの歌舞伎(女芝居)を興行した。
東京歯科医科大學 東京歯科医学院でしょう。明治34年、校舎を神田三崎町に移転。昭和21年、東京歯科大学(旧制)設置を認可。
木戸銭 興行を見物するために払う入場料。見物料。
褄を取る 裾の長い着物のつまを手で持ち上げて歩く。褄とは着物のすその左右両端の部分。

褄を取る(http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-a708.html)

褄を取る(http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-a708.html)

 又神樂坂の坂も特別なものだった。「車力はつらいね」と唄われた如く、坂の登り降りに車力は苦労をした。車というのは、くね/\と折れ曲るようにして登るのが樂なのだが、神樂坂はそれが出來ない。かまぼこ型に真中がふくれ上つていたからだ。その為に車を店の中を突込んでしまう恐れがある。其頃の車は荷車か人力車であったが、坂の下に「立ちん棒」というのが立つていて、頼まれて荷車の後を押した。「立ちん棒」というのはれつきとした商売で車が上つてくると「旦那押しましようか」と後押しをして登りつめると一錢か二錢頂戴する。此の商賣は日露戰争頃まで見られたという。又人力車で坂の下まで來た人は一旦降りて、車が坂を登り切るまで一緒に歩かねばならなかった。こういうのは東京で珍しく、九段坂はそうであつたが他には知らないという。

車力 しゃりき。大八車などをひいて荷物の運搬に従事する人。
唄われた如く 謡曲でしょうか。地口の例としてはありますが、それ以外は不明です。
かまぼこ形かまぼこ型に真中がふくれ上つていた 昔は道路全体が上を凸に曲げられ、かまぼこ形でしたが、昭和12年には、それほどのたるみはなく、道路の左右にはどぶ板が置かれるようになり、かまぼこ形ではなくなりました。

 経済的に豐かでない人々の子供達は、小學校を出た位で働かねばならなかつた。働き場所というのは、加賀町にある秀英舎(大日本印刷株式會社)とか、後樂園にあつた砲兵工廠であった。雜用に雇われて賃金を貰い、自分で働いて家計の足しにすると共に、小使も少し持つていた。
 子供達の通う學校は、市立の赤城小學校、愛日小學校でもう一つ私立の竹内尋常高等小學校というのがあり、文部省の補助金を受けていたので、校名の上に代用の字がついていた。此の學校の生徒には亂暴者が多く、赤城小學校や愛日小學校の生徒との闘いには絶對に強く、集團的に喧嘩をしかけたりした。佐久間さんは此の學校に通つた。生徒は總數八百名位で、此處の生徒は袴なぞはいてなく、皆つくしんぼみたいな恰好で、風呂敷包で通學した。袴をはくのは元旦とか天長節の祭日位だけであった。神樂坂六丁目にあった勸工場で、袴は四十五錢から五十錢位で買えた。
 昔は簡單にお酌になれたし、今みたいに許可など必要なかった。それに場所が神樂坂に近いとあつて、生徒の中にはお酌になっている者がいた。彼女は學校に来て勉強しているのだが、習字の時間になると御太鼓に墨をつけられるといつて、白い紙をかぶせていた。綺麗にしているから誰も墨をつけて汚す者はいないのだが、きまつてそうしていた。所で彼女は小學校の生徒であるが、お酌でもあるから何時お客があるか分らないので、箱屋が教室の外で待つている。そして知らせがあると生徒ではなくなつて、お酌として授業を止めて歸つて行く。今からでは一寸考えられないのだが、當時はそれがり前のように思われていた。

加賀町 市谷加賀町。新宿区の町名。牛込第三中学校や大日本印刷などが見られる。

市谷加賀町

市谷加賀町

秀英舎 1876年、日本で最初の本格的印刷企業。個人経営。昭和10年、日清印刷と合併し「大日本印刷」に。
工廠 こうしょう。旧陸海軍に所属し、兵器・弾薬などの軍需品を製造・修理した工場。
竹内尋常高等小学校 尋常高等小学校とは旧制小学校で、尋常小学校と高等小学校の課程を併置した学校。修業年限は、初め尋常4年、高等2~4年。その後、尋常6年、高等2年。竹内小学校はここ
代用 明治40年(1907)3月以前に、公立小学校にすべての児童を就学させられない特別な事情のあるとき、市町村内か町村学校組合内につくられた私立の尋常小学校。代用私立小学校。
つくしんぼみたいな恰好 「つくしの形の恰好」。わかりませんが、「刈上げの髪は目立ち、あとはやせている」でしょうか。
天長節 第二次大戦前の天皇誕生日。大戦後は「天皇誕生日」と改称
勧工場 百貨店やマーケットの前身。一つの建物で、日用雑貨、衣類などの多種の商品を陳列し、定価で販売した。
お酌 東京では半玉はんぎょくの異称。まだ一人前として扱われず、玉代ぎょくだいも半人分である芸者。
箱屋 客席に出る芸者の供をして、三味線などを持って行く男。はこまわし。はこもち。箱丁。
箱屋 「当」の旧字体

 神樂坂近邊には寄席が幾つかあつた。坂の中途、助六という下駄屋のある邊に若松亭というのがあつた。これは浪花節の定席で雲右術門とか虎丸など一流の者が來て居り、丸太で仕切った特別席には常連が多かつた。それより少し上に娘義太夫石本亭があつた。娘義太夫は大流行で東京専門學校のフアン連中が、娘義太夫の人力車にくつついて寄席のはしごをした程だった。色物では藁店にあつた藁店亭で、仲々の新感覺をみせていた。お盆には圓朝牡丹燈龍も聞けた。通寺町の細い道の突當りには、男義太夫の牛込亭があり、淺太郎とか三味線松太郎というのがいた。
 坂の中途にはまだ石垣などがあり、其の上にイソベ溫泉という風呂屋があった。櫻の木が植えてあってその下に赤い毛氈を敷いた緣臺が置かれて、そこに坐つて茄小豆をたべ甘酒を飲む事も出来た。そういう悠長さが佐久間さんの子供の時分にはあつた。だから花柳界ものんびりしていた。後立てで金を出すだけの旦那もいた。帳場は女が主體になつてやつており、金錢の淸算も無頓着な所があった。横寺町には明治三十六年まで尾崎紅葉が住んで居り、神樂坂は多く文士連中の遊び場であった。

若松亭 知りませんでした。
浪花節 浪曲。三味線の伴奏で独演し、題材は軍談・講釈・物語など、義理人情をテーマとしたものが多い。
娘義太夫 女性の語る義太夫節。義太夫節とは浄瑠璃の一流派で、原則として1場を1人の太夫が語り、1人の三味線弾きが伴奏する。
石本亭 まったく知りませんでした。
東京専門学校 早稲田大学の前身。明治15(1882)年、創立。35(1902)年、早稲田大学と改称。
藁店亭 おそらく袋町の和良店亭でしょう。明治21年頃、娘義太夫の大看板である竹本小住が席亭になり、24年に改築し「和良店亭」と呼びました。
円朝 幕末~明治時代の落語家。怪談噺、芝居噺を得意として創作噺で人気をえた。生年は天保10年4月1日、没年は明治33年8月11日。享年は満62歳。
牡丹燈龍 牡丹灯籠。ぼたんどうろう。三遊亭円朝作の人情噺「怪談牡丹灯籠」の略称。お露の幽霊が牡丹灯籠の光に導かれ、カランコロンと下駄の音を響かせて恋しい男のもとへ通う。
牛込亭 神楽坂6丁目の落語と講談の専門館。詳しくは牛込亭について。
イソベ温泉 野口冨士男氏は温泉山と呼んでいたようです。
茄小豆 ゆであずき。茹でた小豆。砂糖などをかけて食べる。
後立て 「後ろ盾」は「陰にあって力を貸し、助ける事や人」。「後立て」は「かぶと立物たてもののうち、後方につけたもの。」

 佐久間さんは神樂坂で旦那・先生・兄さん等と呼ばれた人だったが、若い頃は家の商賣を嫌って世帶を持ち始めた頃は、袋町で下宿生活をしていた。淸榮館という下宿屋で隣の部屋には、小説家の宇野浩二氏が母親と共に暮して居り、時々彼の彈く三味線の音が聞えて来た。それでやはりこれも小説家の廣津和郎氏が時々顏を見せていた。
 其の頃の新宿は「新宿まぐその上に朝の露」と川柳に唄われる程で、新宿驛も貧弱なものであり、驛前に掛茶屋が三、四軒あった。神樂坂が明治の頃は、山の手隨一の繁榮を誇つた街であった。
 佐久間さんは大正十五年に、牛込區議會議員となり、現在は新宿區の名誉職待遇者となつている。

清栄館 宇野浩二氏は白銀町の都築、神楽坂の神楽館、袋町の都館にいたことはわかっています。清栄館にいたというのは知りませんでした。本当でしょうか。
新宿まぐその上に朝の露 至文堂編集部の「川柳江戸名所図会」(至文堂、昭和47年)にはでていません。江戸時代の古川柳「誹風柳多留」を索引で調べても、ありませんでした。「朝の露」は「朝、草葉に置いた露」で、はかない人生のたとえに用いる場合も。
掛茶屋 道端などによしずなどをかけて簡単に造った茶屋。茶店。
 「当」の旧字体。

羽衣館の優勝旗|都筑道夫

文学と神楽坂

 都筑道夫氏は早川書房が発行する「エラリイ・クイーンズ・ミス テリ・マガジン」の編集長を勤めた後、昭和34年、作家生活に入りました、本格推理、ハードボイルド、ショート-ショートと活躍。平成13年(2001年)に「推理作家の出来るまで」で日本推理作家協会賞賞。

 この『推理作家の出来るまで』は『ミステリマガジン』に連載したものですが、ここではフリースタイル刊(上巻、2000年)から取っています。新宿区山吹町の羽衣館という映画館の思い出を描いたものです。

羽衣館の優勝旗

 江戸川橋の交叉点から、矢来へのぼるだらだら坂の八合目あたりに、玉沢という運動具店が、昭和五十年の現在もある。私の子どものころには、居まわりにビルディングがなかったから、四階建だか、五階建だかのこの玉沢運動具店は、ひときわ目立ったものだった。
 その玉沢のすじむかいに、ピンク映画をやっている小屋が、いまでもあるはずだけれど、たしか牛込文化とかいったその映画館は、敗戦後まもなく、松竹系封切館として出来たもので、私たちは羽衣館の復活とうけとっていた。昭和20年5月25日の空襲で焼けるまで、そのあたりに羽衣館という、わりあい有名な松竹系の封切映画館があったのである。
 わりあい有名な、といういいかたをしたのは、映画興行界では知られた小屋だったらしい、ということで、この羽衣館のもぎりの横あたりには、いつも数本の旗が飾ってあった。昭和十年代にかかるころ、松竹では市内の直営館に、一種の売りあげ競争をさせていたらしく、たぶん月間の入場者数で判定したのだろう。一位になった小屋には、旗を贈って表彰したという。そのいわば優勝旗が、羽衣館には何本も飾ってあって、それほど入りのよかった小屋なのだ。
 小学生になるかならないかのころに聞いた話だから、むろん正確とはいえない。東京市内で一位ではなく、市内をいくっかのブロックにおけたなかでの、一位だったのかも知れないが、とにかく有名な映画館だと聞かされていた。この羽衣館が、私の記憶のなかでは、作品とそれを見た小屋とが、はっきり結びついている最初の映画館なのである。
 前に書いたように、片岡千恵蔵の「刺青奇偶」と「気まぐれ冠者」は、早稲田の富士館神楽坂日活と、どちらの小屋で見たのか、判然としない。昭和9年3月封切の「丹下左膳剣戟篇」、伊藤大輔大河内伝次郎のコンビによるトーキー二本目の左膳は、鼓の与吉を山本礼三郎がやっていたことと、左膳が馬で日光街道を走っていくラストシーンを、はっきりおぼえていて、これは神楽坂日活で見たような気が、かすかにするのだけれど、確信は持てないでいる。
 そこへいくと、松竹映画のほうは、近所に羽衣館しかなかったから、はっきりしているわけだ。ここで見た松竹映画の記憶は、私が数え年七つだった昭和十年から始っていて、小学校へあがる一年前だから、かなり鮮明になってきている。高田浩吉がはじめて主題歌をうたった「大江戸出世小唄」、小笠原章二郎の落語シリーズの「らくだの馬」、衣笠貞之助の「雪之丞変化」三部作。やはり時代物のほうを記憶していて、併映の現代物はおぼえていない。キネマ旬報の「日本映画作品大鑑」で、題名と出演俳優を見ても、なにひとつ思い出せないものがある。

八合目 地理院地図電子国土webを使い、1合目を江戸川橋交差点(標高5.6m)、10合目は神楽坂通りの赤城神社に行く場所(標高24.9m)と考えると、玉沢運動具の標高は6.6m。2合目にも足りない場所です。10合目を牛込天神町交差点の入口(標高13m)としても、やはり2合目以下。合目の数はいい加減でもいいのですが、それでもおかしい。
運動具店 下の地図を参照。

昭和40年の山吹町交差点

昭和40年の山吹町交差点。右の赤色は牛込文化劇場、左の赤色は玉沢運動具

居回り 自分がいる所の周囲。辺り。近辺
すじむかい 筋向。少し隔たった斜め向こう。
ピンク映画 きわどい性描写を売り物にする成人向き中編劇映画。
牛込文化 上の地図を参照。
松竹系 松竹株式会社が製作か配給した映画を上映する映画館。
封切館 新作映画を初めて上映する映画館。
羽衣館 牛込区山吹町293にあった映画館
もぎり 「もぎる」とは「ちぎって取る」こと。名詞化して、劇場・映画館などの入口で、入場券の半片をもぎり取ること。
入り いり。収入。あがり。みいり
片岡千恵蔵 映画俳優。歌舞伎から映画に転じ、時代劇を中心に長く第一線のスターとして活躍。生年1903年。没年1983年
富士館 日活系の映画館。「戸塚町誌」(昭和6年、戸塚町誌刊行会、非売品)によれば市電(現、都電)早稲田終点にあったといいます。
神楽坂日活 現在のスーパー「よしや」の場所にあった神楽坂6丁目の映画館。
伊藤大輔  映画監督。愛媛県生まれ。戦前戦後を通じての時代劇の巨匠。
大河内伝次郎 映画俳優。新国劇の俳優から1926年日活に入社。時代劇スターとして活躍。生年1898年。没年1962年、
山本礼三郎 映画俳優。マキノプロを経て、昭和5年日活に入社。侍ニッポン、人生劇場、酔いどれ天使に出演。生年1902年。没年1964年。
高田浩吉 昭和10年主演の「大江戸出世小唄」で主題歌をうたい歌う映画スターに。戦後「伝七捕物帖」シリーズで人気復活。生年1911年。没年1998年。
小笠原章二郎 俳優。映画監督。喜劇的時代劇が得意。生年1902年。没年1974年。
衣笠貞之助  映画監督。「雪之丞変化」「地獄門」など時代劇を中心に戦後まで活躍。生年1896年。没年1982年。
併映 主な作品と併せて映画を上映すること
キネマ旬報 キネマ旬報社が発行する映画雑誌。1919年7月創刊。毎月5日・20日刊行。

神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 明治時代、東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…

神樂坂町二丁目 享保中、士地官収くわんしうして、よけとなし、延享えんきやう二年放生寺ほうしやうじ借地しやくちとし、文政五年田町四丁目代地だいちとなる。明治二年神樂坂のとりて牛込神樂かぐらちやう改稱し、明治四年六月附近ふきん士地しち開墾地かいこんちを合し、南隣に一丁目をつるを以て其の二丁目となす。坂に神樂かぐらざかあるを以て里俗此邊このへんすべて神樂坂と稱す。

享保 1716~36年
士地 武士の土地ではないでしょうか?
官収 官庁がとりあげること。没収。
火除地 江戸幕府が明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地。
延享 1744~48年
放生寺 東京都新宿区西早稲田にある高田八幡宮の別当寺。別当寺とは江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺
文政 1818~31年
田町四丁目 現在の新宿区市谷本村町1丁目。
代地 江戸幕府が江戸市中において強制的に収用した土地の代替地として市中に与えた土地のこと。
改稱 名称や称号を改めること。改名。
里俗 りぞく。地方の風俗。土地のならわし

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では

神楽坂2丁目
 神楽坂一丁目の西側、神楽坂の両側に広がる地域で、江戸時代には旗本や御家人の屋敷が多くを占め、町地は市谷いちがや田町たまち四丁目代地があった。
市谷田町四丁目代地 もともと市谷田町四丁目内にあったが、文政五年二八二二)二月八日に町内から出火した火災で焼失した場所が尾張徳川家の火除地となったため、同年六月九日、神楽坂南側にある穴八幡放生寺拝借地旅所跡を下され、そのときからこの町名となった(町方書上)。里俗は神楽坂。
 明治二年(一八六九)五月に牛込神楽町(町名唱替帳・明治二年町鑑)、同四年六月周辺の土地を合併して神楽町二丁目と改称(市史稿市街篇五三)。昭和二六年五月一日から現在の神楽坂二丁目となる(東京都告示第三四七号)

 ここで神楽坂通りを横切る右側と左側がそれぞれ別の横町につながっています。

神楽坂2丁目

神楽坂2丁目

 まず明治20年の地図2丁目。この地図では鏡花仮宅と出ていますが、現在はなくなり、「泉鏡花・北原白秋旧居跡」の標柱が立っています。

 右側は「神楽小路(こうじ)」、昔は「紀ノ善横丁」といいました。場所はここ

 神楽小路

 左側は「鏡花横丁」です。場所はここ。鏡花横丁は牛込倶楽部の平成10年夏号『ここは牛込、神楽坂』で提案した地名です。小栗横丁

 このあたりは泉鏡花の旧家があったということで『鏡花通り』とつけるといいんじゃないかと言ったことがあるんですよ。でも、文献では「小栗横丁」になっているらしい。

 志満金と田口花店に挟まれた横丁を鏡花横丁と呼んでいるようです。鏡花横丁はまっすく曲がらずにいって理科大に行く。曲がるのは小栗横丁です。なお、小栗横丁は以前、小栗利右衛門屋敷があったためとされています(町方書上)。詳しくは小栗横町でアグネスホテルはここから行くこともできます。

ここは牛込、神楽坂』「語らい広場」で、ある読者は「大通りを入ったところが横丁で、横丁を入ったその奥は路地」だといっていました。路地の幅は3尺(90cm)。神楽坂ではおおむね正しいのでしょうか。

 左側には「志満金しまきん」と「オザキヤ靴店」が見えます。

 さらに行くと「ポルタ神楽坂」にやってきます。 Portaはラテン語で城門のこと。2011年にできた新しい建物です。東京理科大学の新施設ですが、1、2階にはたくさんレストランが入っています。たとえば二丁目食堂トレド千年こうじや梅花亭です。あっという間もなく消えていった店も沢山あります。また、昔ここにカフェーユレカ(あるいはユリカ)があり、詩人がやってきたりしました。ポルタ神楽坂

 ではまた神楽坂通りの上を向いて歩いてみましょう。陶柿園神楽坂写真館さわや肉のますだや太陽堂などがでてきます。

 ここで神楽坂について、『神楽坂おとなの散歩マップ 』で洋品アカイ・赤井義松はこう書いています。

よく注意して歩くと、「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる。あれは急傾斜を取るために、あそこで一段、ちょっとつけたわけです。

 さらに上に行くと、神楽坂の2丁目と3丁目の境にやってきます。3丁目の右側には1階はサークルK、2階はロイヤルホストが見えます。昔は牛込會館でした。

 その下には牛込神楽坂の図もあります。
2丁目と3丁目

 このあたりが一番急な坂になり、最大勾配は12%、角度は4.5度です。(『ここは牛込、神楽坂』14号42頁)

 ここから上を向いて右側は神楽坂仲通りになり、左側は下に向き小栗横丁に入り、上は神楽坂3丁目に行きます。ほかに神楽坂1丁目神楽坂4丁目神楽坂5丁目神楽坂6丁目もあります。

神楽坂の通りと坂に戻る

神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 神楽坂6丁目は神楽坂上から西に行き、矢来町になるまでの場所です。

 江戸時代は「とおりてらまち」と呼ばれていました。現在と比べると、神楽坂6-25などを中心とした小さな小さな町でした。下の地図では青色の四角が江戸時代の通寺町で、赤色で囲んだ多角形が明治時代の通寺町(昭和26年に名前が変わって神楽坂6丁目)でした。

神楽坂6丁目(明るい色の多角形)と通寺町

神楽坂6丁目(明るい色の多角形)と江戸時代の通寺町(青い四角)

 江戸時代、各町の地誌『町方書上』(文政8~11年、1825~28)を見ると

町之儀往古、武州豊嶋郡野方領牛込村之内有之候處、其後町屋相成候、起立之義書留等焼失仕、相分り不申候、町名之起り牛込御門通、寺町有之候間、町名通寺町相唱申候
[現代語訳]この町は昔は武州豊島郡野方領の牛込村内にあったが、その後、町家になった。起立年は書き留めてあったが、焼失して、わからない。牛込見附を通る道(神楽坂通り)に面して、寺が多くて寺町になっていたため、通寺町と呼んだ。

 「当」の旧字体。

 明治時代、通寺町は拡大し、現在の神楽坂6丁目に相当するようになりました。東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…

牛込通寺町 牛込肴町の西に在り。牛込うしごめはしとはり寺地なるを以てこのしようあり。當時とうじ狭少けふせうの一市街しがいなりしが、明治二年四月附近の寺地及あんやう、養善院.三光院、正蔵院の門前をあはせ.五年七月またくみしき其他士地をがつせり。

肴町 現在、神楽坂5丁目。
寺地 てらち。寺の敷地。寺の土地。
組屋敷 江戸時代、与力組や同心組など組に属する下級武士が居住していた屋敷地。

 安養寺船橋屋スーパーよしや花豊コボちゃんの像キムラヤ音楽之友社などは活動中。

 昔の店舗としては、いろは牛込亭ヤマニバー、舛屋、蝋燭屋などがあげられます。

神楽坂6丁目

神楽坂6丁目

kimuraya

Kimuraya

岩戸町|神楽坂

文学と神楽坂

 江戸時代の岩戸町は、留守居与力の居住地から、明暦の大火が起こると火除地になります。さらに深川六間堀町の代地が加わり、この代地は岩戸町に変わります。これは神話にもとずき、天照大神が天の岩戸に隠れると、アメノウズメが神楽に合わせて舞い、岩戸を開いたという話があるためです。明治になると、全てが岩戸町になります。

 東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…

牛込岩戸町 延寶えんぽうころ幕府留守居るすゐ輿力よりき此に住す、後官収くわんしうして火除地となし、寛政十年深川六間堀町代地となる。神楽坂の上に在るを以て岩戸いわとまちと加ふ。初め二箇町に分らしが、明治四年六月之をはいし、東隣とうりん肴町さかなまち一部いちぶを加へて一町とす。
[現代語訳]延宝の頃には大奥や女中の事務をする留守居与力がここに住み、その後、防火用空地の火除地となった。寛政十年には深川六間堀町(現、江東区の1部)の代替地になった。神楽坂の上にあるから、岩戸町といった。最初は2か所に分割したが、明治4年6月、これを廃止、東の肴町の1部を加えて、1町になった。
江戸時代の岩戸町。江戸時代の青色の多角形が神社仏閣を除いて明治初期の岩戸町に。左上は延宝年間(1673-81)で留守居があり、右上は天明年間(1781-88)の火除地、左下は寛政年間(1789-1817年)で深川六間堀町の代地が付け加わり、右下は当時(嘉永5年、1852年)。

江戸時代の岩戸町。江戸時代の青色の多角形が神社仏閣を除いて明治初期の岩戸町に。左上は延宝年間(1673-81)で留守居があり、右上は天明年間(1781-88)の火除地、左下は寛政年間(1789-1817年)で深川六間堀町の代地が付け加わり、右下は当時(嘉永5年、1852年)。

留守居 江戸幕府の職名。大奥の取り締まり、奥向き女中の諸門の出入り、諸国関所の女手形などの事務、将軍不在のときは江戸城中の警衛などをつかさどった。また、諸大名が江戸屋敷に置いた職名。幕府との公務の連絡や他藩の留守居役との交際・連絡を担当。
与力 江戸時代、町奉行、留守居、大番、火消役などに付属し、町奉行組与力、御旗奉行組与力、大御番与力、火消役組与力、百人組与力、御留守居番与力などと呼ばれ、その組の頭を助けて庶務をつかさどったもの。
官収 国家や幕府が租税や土地を没収すること。
火除地 江戸幕府が明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地。
深川六間堀町 江東区常盤二丁目と森下一丁目に当たる土地。
代地 だいち。かわりの土地。代替地。
 と呼ぶ

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)でもほぼ同じです。

岩戸町いわとちょう
 延宝年間(1673-81)は幕府留守居与力の居住地などであったが、のち上納させて火除地とした。寛政10年(1798)に深川六間堀の代地として町屋ができ、牛込岩戸町一丁目、牛込岩戸町二丁目となる。両町は善国寺を挟んで東が一丁目、西が二丁目である。
深川ふかがわ六軒ろっけん掘町ぼりちょう代地だいち 牛込岩戸町一丁目・二丁目 もともと深川六軒掘町にあったが、寛政九年(1797)11月22日に神田かんだ佐久間さくまちょうから出火した火事の際、飛火で類焼し、地所が御用地となったため、代地として下された。その際、神楽に縁があるため岩戸町としたいと願い出て認められ、深川六軒掘町代地牛込岩戸町一丁目、二丁目となった。これは、天照あまてらす大神おおかみが、天の岩戸に隠れてしまったとき、アメノウズメが神楽に合わせて舞い、岩戸を開いたという神話に因み、神楽坂の神楽と並べて岩戸としたのである。町内東南に毘沙門びしゃもん横町がある。北西に藁店横町がある。これは隣町の袋町に藁屋があるからだとされる(町方書上)。

善国寺 間違いでしょう。「大久保通り」の両側です。

 新撰東京名所図会 第42編(1906)では

     ○町名の起原並に沿革
牛込岩戸町いはとちやうは、もと幕士ばくし所有地しよいうち及び肴町さかなまちの商家ありしに、後ち上地となり、しばらく空間の地たりしを、寛政の頃深川ふかゞわけんぼり代地だいちとなれり。即ち神樂坂かぐらざかの上なれば、あま岩戸いはとかみあそび、其ちなみにて岩戸町と唱ふと。
 府内備考(五十四)に云、町名之牛込うしごめ神樂坂かぐらざか上にて被下置候に付神樂坂と申緣を以て、岩戸町と唱申度旨邨上肥後守御番所へ同年(寛政十年)九月中御願申上候得者、同十月二十七日小田切土佐守御内合にて願之通被仰付、深川六間堀町代地牛込岩戸町一丁目二丁目と相唱あひとなへ可成旨被仰付、依之其節より前書之通唱來候哉

嘉永かえい切繪きりゑを見るに、此地、深川ふかゞわ間堀けんぼり代地岩戸町、肴町岩戸町二丁目とありて、甚だ入組いりくめり、明治の初、肴町さかなまちの一部を之れに編入し、舊名きうめいを襲ひ、丁目の稱を省き、牛込岩戸町いはとちやうとなす。

幕士 幕府の侍。武士。
肴町 現、神楽坂5丁目
上地 民間から幕府・政府に召し上げられた土地。
深川六間堀町 江東区常盤二丁目と森下一丁目に当たる土地。
代地 だいち。かわりの土地。代替地。
神あそび かみあそび。神遊び。神前で、歌舞を奏すること
府内備考 江戸幕府が編集した江戸の地誌。1829年『御府内風土記』の原稿を書き上げたが、1872(明治5)年、宮城火災で焼失。この資料集が『御府内備考』として今日に伝わる。
 これに関わる事柄。…こと、…に関して。
被下置候 下し置かれ候。に与える。
邨上肥後守 村上肥後守と同じ。官位は肥後守で、国は現在の熊本県。
御番所 江戸時代、町奉行所のこと
小田切土佐守 江戸時代の旗本。官位は土佐守で、国は現在の高知県。
御内合 正しくは「御内寄合」。内寄合とは江戸時代、寺社・町・勘定の各奉行が月3回月番の役宅に集まり、事務連絡や公事訴訟の審判を行ったこと。
被仰付 おおせつけられる。命じられる
可成旨 これは間違い。府内備考では「可申旨」が正しい。「申すべきむね」。申し出るように
通唱 「一般に広く知られた歌」でしょうか。

 最後に江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏は、新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』で、こう書いています。なお、残念ながら、岩戸町の命名は明治の役人ではなく、江戸時代の村上肥後守の命名でした。

 岩戸町(いわとちょう)今は岩戸町は電車道を挾んで,元肴町の角から1町となっているが,切図をみると毘沙門堂の隣地が岩戸町1丁目、さらに肴町の間を左へ曲って南蔵院の通りを少し行った左側に岩戸町2丁目が二ヶ所に分れていた。“東京府志料”には
 此地はもと武家の賜地及び肴町の市店ありしが、後ち上地となり空間の地たりしを、寛政九年、深川六間堀町回禄に罹り、翌十年其町内百十三間の地、用地となり、当所を代地に給ふ。此地は神楽坂の上なれば、其の因みにて(岩戸神楽)岩戸町と唱うと。
 明治二年元牛込岩戸町一町目二町目を合せ五年又同町続き士地を合併す。
 今盛んに地名表示替が行われているが、筆者などは何町といえばほとんど何区のどの辺と判っていたが、その60年来なじんだ古い町名は消えて、思いもよらない地名が付けられるので分らない事甚だしい。明治の役人が岩戸神楽から取って岩戸町などと付ける所は洒落っ気があってよい思いつきである。なお、この町にある法正寺と正定院の二軒を二軒寺と呼んだ。

岩戸神楽 民俗芸能。面をつけて神々に扮し、「岩戸隠れ」「大蛇退治」など神話に取材した所作を演じる。宮崎県高千穂町で行われる神楽は有名。
明治の役人 岩戸町の命名は明治の役人ではありません。江戸時代から岩戸町でした。
二軒寺 法正寺と正定院は地図で。現在、二軒寺とは呼ばないようです。正定院は夏目漱石門下の森田草平氏が明治41年から43年にかけて下宿していました。

二軒寺

二軒寺。赤色で囲み、水色で描かれた場所が現在の岩戸町。

宮比神社と下宮比町

 宮比神社はどこにあったのでしょうか? 現在、宮比神社は新宿区筑土八幡町の筑土八幡神社境内に移動しています。それ以前には、下宮比町でしたが、神社が建っていたのでしょうか。何番地なのでしょうか? 
すむいえ情報館』では

下宮比町の由来
 町名は旗本(久世氏)の屋敷にあった宮比神社を現在地に移して社を建てたことによる。祭神は宮比神(大宮売命・天鈿女命)。宮比町は高台と低地とがあり、下は低地の意。

 極めて正々堂々と宮比神社は旗本・久世氏の屋敷にあったと書いています。反対に新宿歴史博物館の『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では宮比神社は以下のように下宮比町にあったとしか書いていません。
 どちらが正しいのでしょうか?

下宮比町

下宮比町。青の多角形は下宮比町。緑の多角形は久世伊勢守の土地(ここが一丁目)。青は当初の大久保通り。水色は現在の大久保通り。

しも宮比みやびちょう
 江戸時代は武家地であった。明治2年(1869)、武家地を開いて宮比町ができる。これは町内に宮比神社があったため名づけられた(明治2年ノ9順立帳・明治2年町鑑)。明治5年、上宮比町(現神楽坂四丁目)と下宮比町に分かれる(明治5年東京区分町鑑)。明治12年牛込下宮比町に町名変更される(明治12年東京府布達甲第43号)。牛込を付した理由は不明。明治44年再び「牛込」を省略し下宮比町となり、現在に至る。昭和63年住居表示実施。
神楽坂四丁目
 江戸時代には武家地であった。明治2年(1869)6月、武家地を開いて町とし、宮比神社があるので宮比みやびちょうと名づけた(明治2年ノ9順立帳・明治2年町鑑)。同5年1月には付近の武家地跡をあわせ、台地上をかみ宮比みやびちょう、台地下をしも宮比みやびちょうとした。同12年4月22日牛込上宮比町と改称(明治12年東京府布達甲第43号)の後、同44年、「牛込」を略し再び上宮比町となる。昭和26年(1951)5月1日、神楽坂四丁目となる(東京都告示第347号)。

 東陽堂の『東京名所図会』第41編(1904)では

    〇宮比町
     ◎位 置
宮比みやび町は。上下兩町に分てり。上宮比町は。東の神樂町三丁目の一部に對し。西は肴町に連り。南は神樂阪の道路を隔てゝ肴町の一部と神樂町三丁目の一角に面し。北は津久戸前町 幷に筑土八幡町に連りたり。下宮比町は。東は船河原橋と江戸川の岸に臨み。西は津久戸前町の一部に對し。南は揚場町に接し。北は新小川町一丁目に隣れり。上下兩町相連らずして。中間に津久戸前町介在し。恰も 采目を成せり。
 上宮比町 自一番地至八番地
 下宮比町 自一番地至十五番地
     ◎町名の起原幷に沿革
宮比町は。町内に宮比神社あるを以て。明治の初年に命名したるものなり。上下兩町共に皆武家地なりしが。今は市街地となりたり。
 武家の居住者
 上宮比町 東條能登守、岡野貞藏、興津甚左衛門、中村長十郎、東向高木左京、柘植平五郎、北向横山喜兵衛、成田某南向
 下宮比町 曾我熊之丞、朝岡頼母、内藤善次郎、古田鎌次郎 東向松平甲次郎、南向室賀鉞之助、北向河野銀之助、田口彌市郎森市郎兵衛、河村条五郎、西向

「町内に宮比神社ある」と書いています。

肴町 現代では神楽坂5丁目です。
津久戸前町 明治5年、牛込津久戸前町と呼び、明治44年からは津久戸町になった。
幷に ならびに。ともに
江戸川 現在は神田川
恰も あたかも。他のものによく似ている。まるで。まさしく。
采目 さいのめ。さいころの目。上下の宮比町がさいころが2つ並んでいると、右図でいえなくもない。
 「旧」の旧字

 東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では

牛込下宮比町 明治二年六月從來じうらいの土地を開きて市廛してんとし、一祠いつしえいして宮比みやびしんを祀れり。よつて宮比町と稱す。五年一月下字をくわんし、上宮比町に分ち、十二年四月さらに牛込の二字をくわんす。川は外濠及江戸川あり。

市廛 店舗。町の店
一祠 神や祖先を祭る所。ほこら。
  計画に従って物事や事業を行う。いとなむ。軍隊のとまる所。陣屋。とりで。
 上にかぶせる。かぶる。
江戸川 現在は神田川

 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』で著者の磯部鎮雄氏は少し細かく書いています。

下宮比町(しもみやびちょう)飯田橋の北,江戸川の西に洽って下宮比町がある。
 この一角は江戸期には久世平九郎、松田甲次郎、曽我熊之亟、朝岡頼母、室賀鉄之亟などという数軒の武家地であったが、明治27年頃飯田橋々畔より津久戸へ抜ける市区改正道路により、だいぶ町を削られて大正の初めにはこの改正道路電車通りになった。今目白通り都電通りに挾まれた東海銀行の裏の一角が下宮比町である。
 ここは武家地だったので町名はなかったが、明治2年の改正によって一部武家地も取払われ町家も建てられ、上宮比町とともに町名が付けられた。宮比の由来は下宮比町1番地に宮比社があったのでそれに由来する。今はその場所は丁度電車通りに当っている。
 宮比神は今は津久土八幡社の境内、御神木銀杏の後に移っているが、宮比神とは大宮能売命、大宮比咩命である。これは平安時代不吉をさけ吉祥を得るために多くは正月と十二月の初午の日に六柱の神を祀るものであって、これを「みやのめのまつり」といった。この神はこの地の何れかの武家屋敷で祀っていたものであろう。

「下宮比町1番地に宮比社があったので」、「この神はこの地の何れかの武家屋敷で祀っていた」。しかし「この地の武家屋敷」はひとつしかありません。最上図の「当時之形」(「当時」とは調査時点のこと。嘉永5年頃、1852年頃)によると、久世伊勢守の屋敷でした。しかし、明治維新(1868年)の時点も同じものだったのかは、わかりません。『東京名所図会』には久世伊勢守の名前は入っていません。

橋畔 きょうはん。橋のたもと。橋頭。
市区改正 明治時代から大正時代に行われた都市計画
改正道路 道路計画に基づいて、幅を拡げたり、新設されたりした市街地の道路。
電車通り 路面電車が走る道。地元の人が通称で使う。路面電車が廃止された後でもこの名前の道もある。電車道。ここでは大久保通り
目白通り 東京都千代田区九段北から練馬区三原台までの道路の呼び名。図を参照
都電通り 電車通りと同じ。現在は大久保通り
東海銀行 下宮比町1番地にありました。現在は飯田橋御幸ビルで、一階はThe Suit Company、2階はECC外語学院など。
宮比社 三重県伊勢市の伊勢神宮皇大神宮(内宮)の所管社及びその祭神。社殿を持たない神社で、祭神は内宮の守護神。宮比神は大宮売命又は猿田彦大神の妻である天鈿女命の別名であると言われる。
大宮能売命 おおみやのめ。宮殿の平安を守る女神。大宮売神(おおみやのめのかみ)。大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)
みやのめのまつり 宮咩祭。昔、正月・12月の初午はつうまの日に、高皇産霊尊たかみむすひのみこと以下六柱の神をまつって、禍を除き幸福を祈った行事。

 実際に筑土八幡神社に架けられた来歴の最後では

宮比神社

宮比神社

宮比神社由来
 御祭神は宮比神みやびのかみ大宮売命おおみやのめのみこと天鈿女命あめのうずめのみことともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治四十年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和三十七年に再建したものである。

 現在のまとめを書いておぃます。宮比神社は昔には下宮比町にあり、筑土八幡神社の来歴を正しいと考えると、下宮比町1番地の旗本屋敷の中にありました。その屋敷は、嘉永年間では久世伊勢守の屋敷でしたが、明治維新の時にも同じだったかは不明です。以上です。

神楽坂|牡丹屋敷のいわれ

文学と神楽坂

「牡丹屋敷」は明治20年の地図でも出てきますが、江戸時代にすでに三分割し、この屋敷自体はまったくありません。この典雅な名前「牡丹屋敷」のいわれですが、新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』でこう書いています。

牡丹

牡丹

牛込牡丹屋敷 豊島郡野方領牛込村内にあったが、武家屋敷になった。八代将軍吉宗の時代、岡本彦右衛門が吉宗に供して紀伊国(現和歌山県)から出てきた際、武士に取りたてようと言われたが、町屋が良いと答えこの町を拝領した。屋敷内に牡丹を作り献上したため牡丹屋敷と唱えた。その後上り屋敷となり、宝暦12年(1762)12月24曰に地所を三分割し、そのうち一ケ所が拝領町屋となった(町方書上)

上り屋敷 江戸時代の狩猟地における休憩所
拝領町屋 江戸で下級の幕臣に与えられた拝領屋敷内に長屋を建て、町方の者を居住、賃貸料を取ることを認められたもの。

 江戸幕府が編集した江戸の地誌「御府内備考」(大日本地誌大系。第3巻。雄山閣。1931年)では

    牡丹屋舗
 町之儀往古は武州豊島郡野方領牛込村の内に有之其御武家方御屋舗に相成候處 有德院樣御代岡本彦右衛門と申者紀州御供仕武家に御取立之蒙臺命候得共御免相願町家望のよし奉申上候に付當町拝領仕致住居候而  御傳法の熱湯散と申藥相弘大鷲壹羽御預被爲遊屋敷内にて牡丹花を作御て致献上候よし依之町名を牡丹屋舗と唱家號牡丹屋彦右衛門と申寵在侯處其後賓暦年中有て蒙御咎を家財被召上上地上り屋舗に相成候…

 「当」の旧字。
往古 遠い過去。大昔
有徳院 江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗のこと。有徳院は戒名。
 より。平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた平仮名。合略仮名。
台命 将軍や皇族などの命令。
拝領 目上の人、身分の高い人から物をいただくこと。
伝法 でんぽう。師が弟子に仏法を授け伝えること。秘伝
大鷲 おおわし。タカ目タカ科の猛鳥。
家號 やごう。商店の呼び名。店名。
 ゆえ。事の起こるわけ。理由。原因。

 江戸時代の『御府内風土記』編纂で、江戸の町の由来について町名主に提出させた書類「町方書上」(新宿近世文書研究会、1996年)でも中身は同じです。

 當町之義、往古武州豊嶋郡野方領牛込村之内有之、其後武家方御屋鋪相成候處、 有徳院様御代、岡本彦右衛門申者紀州ゟ御供仕、武家御取立之蒙 台命候得共御免相願、町家望之由奉申上候付、當町拝領仕致住居候 御傅法熱湯散申薬相弘、大鷲壱羽御預被為遊、屋敷内而牡丹花作候献上致候由、依之町名ヲ牡丹屋舗卜唱、屋号牡丹屋彦右衛門申罷在候処其後、宝暦年中故有蒙御咎、家財被召上、地面上り屋敷相成候趣申傅候、其後右上り屋鋪…

 平仮名「は」と同じ。漢字「者」から派生。

 岡本彦右衛門は家伝の薬「熱湯散」をつくっていましたが、宝暦11年(1761)、岡本彦右衛門が故あって咎めをこうむり、このため屋敷を没収、屋敷は上り屋敷になりました。翌12年、地所は3つにわけられ、大奥女中方御年寄飛鳥井(かすがい)、同花園(はなぞの)、御表使三坂(みさか)の3人の女性が拝領することになりました。

 明治2年(1869)に玉咲(たまさき)町と改称、明治4年には神楽町1丁目と改称、明治26年になってから神楽坂1丁目になります。

 なお他の牡丹屋敷と区別するため新宿歴史博物館は牛込牡丹屋敷と書いています。現在はスターバックスコーヒーなどが林立しています。

筑土八幡神社|由緒①

文学と神楽坂

 筑土八幡神社は新宿区筑土八幡町2-1にある、今や小さい小さい神社です。

 しかし、「田村虎蔵先生顕彰碑」を始め、登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」があり、文化財となると巨大な空間です。

 まず筑土八幡神社の由緒について。天保年間に斎藤月岑氏が7巻20冊で刊行した「江戸名所図会」では

築土八幡宮 津久土明神の宮居に竝ぶ地主の神にして、別當は天台宗松霊山無量寺と号す。祭神応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、以上三座なり。相傳ふ、嵯峨天皇の御宇、この地に一人の老翁住めり。常に八幡宮を尊信す。或時、當社の御神、この翁が夢中に託して、永くこの地に跡を垂れ給はんとなり、老翁奇異の思ひをなす、その翌日一松樹の上に、瑞雲ずいうん靉靆あいたいして、旌旗はたの如くなるを見る。(松霊山の号こゝにおこると云ふ。)時に一羽の白鳩來つて、同じ樹間このまにやどる。郷人さとびと翁が霊夢を聞きて、直ちにこの樹下きのもと瑞籬みずがきめぐららして、八幡宮とあがむ、遙の後慈覺大師東國遊化ゆうげの頃、傳教大師彫造し給ふ所の阿彌陀如来を本地佛とし、小祠を經始けいしす、其後文明年間、江戸の城主上杉朝興ともおき、社壇を修飾し、此地の産土神とすといふ。(或ふみにいふ、當社の地は往古管領上杉時氏の壘[トリデ]の跡にして、時氏の弓箭ゆみやを以て八幡宮に勸請なし奉ると云々)

御宇 ぎょう。帝王が天下を治めている期間。御代
瑞雲 ずいうん。めでたいことの起こるきざしとして現れる雲。祥雲
靉靆 あいたい。雲のたなびくさま。雲の厚いさま。
旌旗 せいき。はた。のぼり。軍旗
瑞籬 ずいり。神社などの玉垣。みずがき。

[現代語訳]津久戸明神と並ぶ土地の神で、別当は天台宗松霊山無量寺という。祭神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇の三柱。伝承によると、嵯峨天皇の時代、この地に一人の老人がいた。常に八幡宮を信仰していたが、ある時、当社の神が老人の夢に現れ、永くこの地に自らの跡を残すように告げた。翌日、松の木の上に瑞雲がたなびき旗のように見えた。松霊山の山号は、これに由来する。この時 一羽の白鳩が飛んで来て松の枝にとまった。里人たちは老人の夢の話を聞き、松の木の下に玉垣をめぐらして八幡宮として祀った。その後、慈覚大師が東国遊歴の頃、伝教大師が彫った阿弥陀如来を本地仏として祠が建てられ、さらに文明年間(一四六九~八七)江戸城主上杉朝興が社殿を整え、この地の鎮守とした。一説に、この場所は昔、関東管領上杉時氏の城館があり、時氏の弓矢を八幡宮に奉納したという。(多くは新宿区歴史博物館『江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり』平成12年から)

「江戸名所図会」の上図では、筑土八幡は右、築土神社は左の神社です。現在は右側の筑土八幡しか残っていません。左側の築土神社は千代田区九段に移動し、かわって小玉製作所やカトリックの修道院などがやって来ました。

筑土八幡(右)と筑土神社(左)

筑土八幡(右)と筑土神社(左)。東京市編纂「東京案内」(裳華房、明治40年、1907年)

筑土八幡と筑土神社(現在).

筑土八幡とカトリックの修道院(現在).

「新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、1906)では

 筑土八幡神社は筑土八幡町七番地卽ち筑土山に鎮座す。表門は石柱にて銅製の注連をかけ。石磴中段に石の鳥居あり。筑土八幡神社と題する銅額を掲ぐ。享保十一年丙午建る所にして。從四位下行豊前守丹治眞人黑田直邦と銘せり。山上に株の松あり。千年松といふ株の遺蘖なりとて。ここにも注連を張りぬ。社殿は土蔵造りにて。格天井。拝殿には大なる弓とうつぼとを掛け右の方に獅子頭を安じ。筑土八幡神社の扁額を打たり。殿前の石獅には文化七庚午年八月吉日。石燈篭には寛政十二庚申八月十五日とあり。左には梅右には櫻を植へぬ。
[現代語訳]筑土八幡神社は筑土八幡町七番地、つま周辺の高台を「筑土山」といったが、ここに鎮座している。表門は石柱で銅製のしめなわをかけ、石段の中段には石の鳥居がある。筑土八幡神社という銅額を掲げている。銘は、享保十一年、従四位下行豊前守の丹治眞人黒田直邦。山上に株の松があり、千年松という株がでている。ここにもしめなわを張っている。社殿は土蔵造りで、天井は格天井、拝殿には大なる弓と矢を掛け、右の方に獅子頭をおいた。筑土八幡神社の横長の額がある。殿前の石獅には1810年8月吉日、石燈篭には1800年8月15日と書いてある。左には梅、右には桜を植えた。
山本松谷画「明治東京名所図会」(講談社、1989)

山本松谷画「明治東京名所図会」(講談社、1989)

石磴 せきとう。石段。石の多い坂道。
中段 今も下から48段目
享保十一年 1726年
黒田直邦 上野沼田藩主。寛文6年(1666年)生れ。享保8年(1723年)奏者番。同20年(1735年)3月歿。享年は70歳
遺蘖 蘖は切り株や木の根元から出る若芽。余蘖。
格天井 太い木を井桁いげた状に組み、上に板を張った天井
 えびら。矢を入れて右腰につける武具。うつぼ(靫・空穂・靭)は矢を携帯する筒状の容器。
扁額 門戸や室内に掲げる横に長い額
文化七庚午年 1810年
寛政十二庚申 1800年

 境内には由来も書いてあります。

      筑土八幡神社由来
 昔、嵯峨さが天皇の御代(今から約千二百年前)に武蔵国豊嶋こおり牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁かいた。ある時、翁の夢の中に神霊しんれいが現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそはへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人さとびとに語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連しめなわをゆいまわして、その松をまつった。
 その後、伝教でんぎょう大師だいしがこの地を訪れた畤、この由を聞いて、神像を彫刻してほこらに祀った。その時に筑紫つくしの宇佐の宮土をもとめていしずえとしたので、筑土つくど八幡はちまん神社と名づけた。
 さらにその後、文明年間(今から約五百年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土うぶすな神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。
 現在、境内地は約二千二百平方米あり、昭和二十年の戦災て焼失した社殿も、昭和三十八年氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽河岸・神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。
 御祭神
   応神天皇
   神功皇后
   仲哀天皇
 大祭
   九月十五日

宮比神社由来
 御祭神は宮比神みやびのかみ大宮売命おおみやのめのみこと天鈿女命あめのうずめのみことともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治四十 年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和三十七年に再建したものである。

牛込橋

文学と神楽坂

 北西の「神楽坂下」から南東の牛込見附跡までにある橋を牛込橋といいます。

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 千代田区では交番の脇の標示に…

牛込橋

牛込橋

牛 込 橋
 この橋は、「牛込橋」といいます。
『御府内備考』によれば、江戸城から牛込への出口にあたる牛込見附(牛込御門)の一部をなす橋で、「牛込口」とも呼ばれた重要な交通路でした。また、現在の外堀になっている一帯は堀が開かれる前は広大な草原で、その両側は「番町方」(千代田区側)と牛込方(新宿区側)と呼ばれてたくさんの武家屋敷が建ち並んでいたと伝えられています。
 最初の橋は、寛永十三(一六三六)年に外堀が開かれた時に阿波徳島藩主の蜂須賀忠英によって造られましたが、その後の災害や老朽化によって何度も架け替えられています。
 現在の橋は、平成八年三月に完成したもので、長さ四六メートル、幅一五メートルの鋼橋てす。
     平成八年三月
千代田区教育委員会

 最初は広重の「どんどんノ図」の一部です。神田川を遡る荷船はこの「どんどん」と呼ぶ牛込御門下の堰より手前に停泊し、右岸の揚場町へ荷揚げしました。天保年間(1830-44)後期の作品です。
  団扇絵3

 次は明治4年(1871)の橋で、「旧江戸城写真帖」に載っている写真です。太政官役人の蜷川式胤が写真師・横山松三郎と絵師・高橋由一の協力を得て、江戸城を記録した写真集です。湿式コロジオン法といわれる撮影技法を用い、感光能力に優れ、取り扱いも簡便、画像が鮮明で保存性もよかったといいます。
牛込門

 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近でした。駅の建設が終わると、下の橋もできています。翌年、飯田町駅も開業されました。

東京実測図。明治28年

東京実測図。明治28年

 次は明治後期で、小林清親氏の「牛込見附」です。本来の牛込橋は上の橋で、神楽坂と千代田区の牛込見附跡をつなぐ橋です。一方、下の橋は牛込駅につながっています。

小林清朝氏の牛込見附

小林清朝「牛込見附」

 今度は、東京市編纂の「東京案内」(裳華房、明治40年、1907年)の牛込橋から見た神楽坂です。

 さらに明治42年(1909年)の牛込見附です。(牛込警察署「牛込警察署の歩み」、1976年) L

 1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。場所は 牛込駅と比べて北寄りに移りました。また、牛込駅は廃止しました。

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録』(洸林堂、1944年、昭和19年)で『牛込見附雪景』です。このころは2つの橋があったので、これは下の橋から眺めた上の橋を示し、北向きです。

牛込見附雪景

牛込見附雪景

 なお、写真のように、この下の橋は昭和42年になっても残っていました。

飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分

 また、牛込橋と関係はないですが、2014(平成26)年、JR東日本は飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設し、西口駅舎は一旦取り壊し、千代田区と共同で1,000㎡の駅前広場を備えた新駅舎を建設したいとの発表を行いました。2020年の東京オリンピックまでに完成したいとのこと。牛込橋も変更の可能性があります。新飯田橋駅

思い出はいつも光とともに|川村克己

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文学と神楽坂

川村克己氏

『ここは牛込、神楽坂』第4号で川村克己かつみ氏が津久戸小学校のことを書いています。
 川村氏はフランス文学者で、1945年、東京帝国大学仏文科を卒業し、立教大学教授を勤め、退職後は新潟産業大学副学長。生年は1922年3月13日、没年は2007年6月14日。享年は満85歳。

 思い出はいつも、光とともにあった。遥か遠くに去った日々が、時折りきらりと光るきらめきを送ってくる。そして失われた時の風景がよみがえる。
 その日、いつも明るいはずの教室には、どんよりとした薄暗い光が重苦しく淀んでいた。いつもは優しい西林先生が、いかめしい顔つきで立っていられる。宿題をやってこなかったひとは立ちなさいと言われ、おずおずと立ち上がった僕の眼には涙が惨み出てきた。
 前の日、学校から帰るとランドセルを放り出し、宿題はないのという母の声をふり切って、毘沙門さまに日暮れまで遊びに出かけてしまったのだ。
 お使いに行かされたのでと言い訳にもならぬ言い訳をか細い声で言ったのに対し、「一日中お使いしていたわけではないでしょう」と問いつめるきびしい声が返ってきた。先生の姿は、灰色のバックに黒々と浮かんで、あふれる大粒の涙の中にゆれる影となって見えなくなった。木造だった校舎の一階の、一年生の教室は、悲しい光に満ちていた。
          §
 雨が降るとそのゆるやかな小松石の石段は、鮮やかな緑色に光るのだった。そこをぴちゃぴちゃとはねをあげながら走り降りるのが好きだった。
 神楽坂をのぼりつめると右側に、木村屋というパン屋さんがある。その先は細い路地をへだてて、太白飴名代とする宮城屋があり、その次が古めかしい作りの筆墨を商う魁雲堂という店があった。この筆屋が僕の育った家である。
 その頃、折れそうに痩せこけた少年の僕は、いつも遅刻しそうになりながら、パン屋と飴屋の間の路地に駆け込み、突き当たって右に折れる。置屋の並ぶその道が、やがてゆるやかに下る石段となる。いつもはくすんだ色のその石段が、雨に濡れると装いを凝らしたグリーンの色となり、この僕になにかわからない言葉で、語りかけてくるのだった。
 段をおりきって、これもさして広くない道へ出る。そこを左に折れて、真っすぐに、だらだらと下ると、われらが津久戸小学校の門に行き着く。
          §
 新学年のまだ馴染めない教室だけれども、華やいだ光に満ちている。校庭をとりまく桜の木が、咲き乱れる花をつけて、その枝が二階の僕たちの教室の窓際にまでのびている。
 その明るい教室の教壇のわきに見なれない少年が立っている。転校生として先生が紹介されたその子は、僕の前の席に座った。櫛田克己という名で、僕と同じ名なので、すぐ仲良しになった。しかし、何ヵ月かたつと、彼の姿は消えてしまった。また引っ越していったらしい。中学に入ったら、その櫛田と再会し、肴町の鳥肉屋の息子、重田功もまじえ、この三人は長く友達としてつき合った。先年櫛田はこの世を去り、残された二人は、淋しい思いを抱きながらも、時折出会って懐かしさを反芻している。
太白飴

太白飴

小松石 箱根火山の溶岩が急速に固まった安山岩で、特に神奈川県真鶴町でとれるのを「本小松石」という。石の表面を研磨すると、緑がかった灰色の輝く美しい石肌がでる。
はね 跳ねる。はずみをつけて飛び上がる。跳躍する。
太白飴 たいはくあめ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴。
名代 なだい。評判が高いこと。名高いこと。
宮城屋 宮城屋は下図の右から2番目

大正11年頃の「豊島理髪店」から「パン木村ヤ」まで。(「古老の記憶による関東大震災前の形」昭和45年。新宿区立図書館資料室紀要4。「神楽坂界隈の変遷」新宿区教育委員会)

大正11年頃の「豊島理髪店」から「パン木村ヤ」まで。(「古老の記憶による関東大震災前の形」昭和45年。新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」新宿区教育委員会)

置屋 おきや。芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。芸妓屋。芸者屋。
津久戸小学校 明治37年に開校。酒問屋の升本喜兵衛氏がこの学校を寄付。
櫛田克己 くしだかつみ。朝日新聞の学芸記者。
肴町 現在は神楽坂五丁目
重田功 久保たかし氏が書いた随筆「ふるさと神楽坂」(大久保孝、1994年)で、「重田功」の名前が出てきます。それを除くと、なさそうです。

 私と津久戸小学校の同級生で、早稲田中学へ行った人達は多かった。
 その中で、川村克己君(立教大学の文学部教授でフランス文学者、その後柏崎市にある新潟産業大学の教授になり、今は副学長)、重田功君(サラリーマンを定年でやめたあと、今は横須賀で自然破壊に敢然と立ち上がり、運動を行っている)、櫛田克己君(故人櫛田民雄氏と櫛田ふきさんの息子。朝日新聞の記者として、大佛次郎さんが「天皇の世紀」を執筆されるに当って、つきっきりでお世話をした人として有名)のトリオは、まことにうらやましい仲であった。
 後年、川村、重田の両君がその想い出を書いておられる。