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神楽坂の地図と由来

文学と神楽坂

神楽坂の地図と、路地、通り、横丁、小路、坂と石畳を描いてみました。

名前の由来は……
軽子坂 軽子がもっこで船荷を陸揚した場所から
神楽小路 名前はほかにいろいろ。小さな道標があり、これに
小栗横丁 小栗屋敷があったため
熱海湯階段 パリの雰囲気がいっぱい(すこしオーバー)。正式な名前はまだなし
神楽坂仲通り 名前はいろいろ。「仲通り」の巨大な看板ができたので
見番横丁 芸妓の組合があることから
芸者新路 昔は芸者が多かったから
三年坂 迷信から。神楽坂からはちょっと離れています
本多横丁 旗本の本多家から。「すずらん通り」と呼んだことも
兵庫横丁  兵庫横丁という綺麗な名前。兵庫町とは違います
寺内横丁 行元寺の跡地を「寺内」と呼んだことから
毘沙門横丁 毘沙門天と三菱東京UFJ銀行の間の小さな路地
地蔵坂 化け地蔵がでたという伝説から
神楽坂の通りと坂でさらに多くをまとめています

 ほかに横寺町、矢来町、袋町をまとめました。

神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考2

文学と神楽坂

 この「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」は江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏が書いたもので、新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)に載っています。
 また、磯部鎮雄氏が「御府内備考」から直接取った引用は1字下げインデントで表しています。同じく引用で、濁音、句読点や()の補修なども氏が直接書いた部分です。

白い矢印が昔の外濠

白い矢印が当時の神楽坂から牛込御門までの間隔。外濠と大下水があり、人間は住めなかった。

 牛込御門が出来たのは寛永13年(1636年)である。これは番町と牛込台が陸続きであるから城の擁護のために今の外濠を開削したのであって、その広さは土手際から田町の往還までで相当広かった。明治になって中央線の鉄道を引くために、堤の裾を崩して濠を埋め、線路敷にした。だから今の外濠の幅は大分縮められていることになる。
 御府内備考によれば「正保絵図に牛込御門は牛込口と記す。又寛永十三年蜂須賀阿波守忠英、命を受けて牛込御門石垣升形を作るとあり。この時始めて建てられしならん」とある。今でもその石垣の一部は残っているが、明治30年牛込停車場が出来てもまだ升形は残っていた。

 されば牛込への船入などいへるものもなかりしに、万治の頃、松平陸奥守綱宗、仰せをうけて浅草川より柳原を経て御茶の水通り吉祥寺の脇へ(吉祥寺は駒込に移転する。今も駒込にあり。この頃は水道橋の辺りにあった)かけてほりぬき、水戸家の前(今の後楽園のある所)を過ぎ、牛込御門の際まで掘しかば,はじめて牛込へ船入もいできし。この掘り上たる土を以て小日向築地小川町の築地(この辺往時は湿地帯なりしという)なり、武士の居やしきもたてり。この築地ならざる前は、赤城の明神より目白の不動まで家居一軒もあらで,畑ばかりなりしが、是より武士の屋敷商人の家居も出来たり。この比(ころ)の堀普請は三年を歴たり,その間昼夜を分たずその功をなせしと云。水道橋のくづれ橋、その時の木戸門ありし所也。改撰江戸志に云、に御討入(家康入国をいう)の前牛込のさまをおもふに牛込宮内少輔勝行が館(やかた)あり、又恒岡弾正忠の所領もありしかば、ここに家居ありしにや。(此の説には疑問あり,恒岡は稲毛高田村か)

 とにかく、牛込は番町の一部にも喰い込んでいて、お濠が出来る以前の牛込の地域はとこからとこまでであったということは定め卸い。牛込はいわゆる惣名であって、神楽坂を中心として惣名で区切ると、市ヶ谷、落合、番町、小日向、早稲田に挾まれた地域が牛込であるといえよう。
升形

升形。二つの城門と城壁とでつくった四角い空き地

開削 開鑿とも。山野を切りひらいて道や運河を作ること。
往還 おうかん。道を行き来すること。往復。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌で、1829年に成稿。ところが、1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。編纂備考の資料集が『御府内備考』として残された。
正保絵図 国立公文書館デジタルアーカイブによれば「正保年中江戸絵図」でしょうか。
蜂須賀阿波守忠英 はちすか あわのくにの ただてる。阿波徳島藩(現、徳島県)の第2代藩主。
升形 ますがた。枡形。斗形。城の一の門と二の門との間にある四角い空き地。侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
万治 1658年から1661年まで。万治3年(1660年)、幕府は江戸城小石川堀(神田川濠)の工事をするように命じ、船の通行を企図した。
松平陸奥守綱宗 伊達綱宗。仙台藩第3代藩主。
浅草川 隅田川の別称。
柳原 足立区南部の千住地域東部の地名。
御茶ノ水 文京区湯島から千代田区神田に至る、神田駿河台を中心とした一帯の地名。

正保年中江戸絵図

吉祥寺が見える(正保年中江戸絵図から)

吉祥寺 長禄2年(1458年)、太田道灌が和田倉門に創建。徳川家康の入府に伴い天正19年(1591年)、水道橋(現在の都立工芸高校、文京区本郷1-3−9あたり)に移動。明暦3年(1657年)明暦の大火で焼失し、文京区本駒込に移転。
水戸家 水戸徳川家の江戸上屋敷。現在は小石川後楽園。場所は文京区後楽一丁目。
小日向 文京区の町名で、小日向一丁目から小日向四丁目まで。
築地 海や沼などを埋めてつくった陸地。埋め立て地。
小川町 おそらく新宿区新小川町でしょう。新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では「明暦四年(1658)3月、安藤対馬守が奉行となり、筑土八幡町の御殿山を崩して(新小川町を)埋め立てた。また、万治年中(1658ー61)には仙台藩伊達家が御茶ノ水堀を掘って神田川の水を隅田川に通す工事をした際、その堀土でこの地を埋め立て、千代田区小川町の武士たちを移した。そこでこの埋立地を俗に新小川町と呼んだ」
赤城の明神 現在、赤城明神は赤城神社に。
目白の不動 文京区関口二丁目にあった新長谷寺のこと。1945年(昭和20年)、廃寺に。
堀普請 土地を掘って水を通した堀について建築や修理などの土木工事。
功を成す こうをなす。人が成果をだすこと
くづれ橋 崩落・崩壊・落橋事故の橋。神田のくづれ橋は箱崎橋のこと。水道橋のくづれ橋はわかりませんでした。
木戸門 きどもん。2本の柱を冠木かぶきでつなぎ、屋根をのせた、木戸の門。
改撰江戸志 改正新編江戸志でしょうか。東武懐山子編著。天保3年(1832)
 物事を押さえて調べる。よく考える。
牛込宮内少輔勝行 牛込勝行は戦国時代の武将。牛込城は天文年間(1532-55年)に勝行が築城した城。
恒岡弾正忠 天正十八年、江戸城が落城するまでは新宿区内は北条氏の支配下で、戸塚は恒岡弾正忠の知行地だった。
牛込は番町の一部にも喰い込んでいて おそらく違います。神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考1を読んでください。
惣名 そうみょう。ひとかたまりのものを一つに総括していう名称。総称。

神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考1

文学と神楽坂

「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」は江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏が書いたもので、新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)に載っています。
 はい、間違いがあるのです。最初は極めて正しいのですが……

 神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考
 往古の牛込の地域とは、どこからどこまでであったという事は定め難い。
 武蔵の国の、その中の一地域が牛込村で、強いていえば小石川と四谷の間の高陵、もっと縮めていえば江戸川流域に沿った小日向と市ヶ谷台との間の地域が、つまり牛込氏(大胡氏)が砦らしき館を築いた光照寺あるいは行願寺の辺り、つまり牛込御門内外(まだ江戸城の外濠は開さくされない時分から)と神楽坂を中心として早稲田、戸塚辺までが牛込であるといえる。
 小田原北条氏麾下に、大胡氏が牛込氏となって牛込城を築いた神楽坂上が、牛込氏の本拠であった事は確かなる事実といえる。この事は前掲牛込城址の項にと述しておいたので、ここでは重記することになるのであえて記述しない。この牛込について“御府内備考”の総説を摘記しておくと、

武蔵国 むさしのくに。東京都、埼玉県、神奈川県の一部
牛込氏 淵名兼行の孫・重俊が上野国赤城山南面の勢多郡大胡に城を築き、大胡氏と称した。戦国時代、重俊から十代の孫・大胡重行の子勝行にいたって、小田原北条氏三代の氏康に招かれ、江戸牛込に移り住み、以後牛込氏と称した。
開さく おそらく「開鑿」でしょう。土地を切り開いて道路や運河などを通すこと。
麾下 きか。将軍じきじきの家来。旗本。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌で、1829年に成稿。ところが、1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。編纂備考の資料集が『御府内備考』として残された。

 これからは国立国会図書館デジタルコレクションの御府内備考を直接使います。ただし、「が」や「ど」などの濁音や、「、」「。」などの句読点は補っています。また≪≫は割注で、本来は一行の中に二段構えで表示する補注です。
 まず牛込の「込」は、「牧」の和字で、牛が「多く集まる」という意味。次は16世紀で、大胡氏を牛込氏に変更したことが書かれています。これも全く正しいのですが……

御府内備考

御府内備考

御府内備考巻ノ五十三
  総説
此所は往古武蔵野の有し所にて牛多くおりしかはかくとなへり。駒込村≪初に出≫馬込村≪荏原郡に馬込村あり≫等の名もしかなりと≪南向茶話≫。さもありしならん。江戸古圖にも牛込村みへたり。中古上野國大胡の住人大胡彦太郎重治といひし人當國にうつり≪年時を詳にせず≫此豊島郡牛込村にすみ小田原の北條に属せり。その子宮内少輔亜行天文十二癸卯年の秋七十八歳にして卒す。その子宮内少輔勝行が時に至り天文廿四乙卯年≪弘治元年なり≫五月六日、北條氏康に告て大胡を改めて牛込氏となれり。此時氏康より判物を賜ひ江戸のり牛込村今井村≪今赤坂にあり≫櫻田村日尾村≪今の日比谷なり≫を領せり≪他国の領地は略せり≫勝行天正十五丁亥年七月廿五日卒すとし八十五歳≪牛込系図≫叉北條分限帳を見るに江戸牛込六十四貫四百三十文の地を大胡某領せしよし載す。
125,000デジタル標高地形図

125,000デジタル標高地形図 http://www.gsi.go.jp/kanto/kanto41001.html

往古 おうこ。おうご。過ぎ去った昔。いにしえ。
武蔵野 武蔵野台地。荒川と多摩川に挟まれた関東平野南西部の洪積台地の通称。
 まき。馬や牛を放し飼うために区画された地域。
南向茶話 国立国会図書館デジタルコレクション「戯作六家撰」を引くと、 岩本佐七「燕石十種」(国書刊行会、明治40年、国立国会図書館オンライン)が出てきます。この354コマのうち254コマに「南向茶話」がでていて、「牛込之名目は風土記に相見え不申候へども舊き名と被存候凡て當国は往古嚝野の地なれば駒込馬込(目黒邊)何れも牧の名にて込は和字にて多く集る意なり」と書いてあります。
上野国 現在の群馬県。
大胡彦太郎重治 新宿区赤城元町にある赤城神社については、鎌倉時代の上野国(群馬県)赤城山麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治は、正安2年(1300年)、牛込早稲田田島村に赤城神社の分霊を祀ったといいます。
宮内少輔 くないしょうゆう。従五位下の官位。宮内長官は1人、宮内大輔は1人、宮内少輔は1人で、宮廷の修繕、食事、掃除、医療など庶務を務めた。
天文十二癸卯年 1543年
卒す しゅっす。死ぬ。特に皇親や四位・五位の人の死で。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代相模国の戦国大名。1515~71年。
北条分限帳 相模の戦国大名北条氏康が作らせた、一族・家臣の役高を記した分限帳。

「牛込方」の一部は麹町にはいっているのではと、磯部鎮雄氏は指摘します。しかし、そうではなく、単に神楽坂一丁目と二丁目の発展を描いているだけです。個人の名前が出ていますが、全員、神楽坂の南に出ている名前です。

正保年中江戸絵図

正保年中江戸絵図。正保元年(1644)頃の図

新見隨筆に云、昔は牛込の御堀もあらで、四番町にて長坂血槍、須田久左衛門なとの並びの屋敷をさして番町方といひ、牛込かたは小栗半左衛門、間宮七郎兵衛、都筑叉右衛門などのならびを牛込といへり[1]。その間の道幅百間に餘りし故。牛込かたと四番町の間、ことの外廣く草茂りて夜ことに辻切など云ことあり[2]、その後丸毛五郎兵衛、中根九郎兵衛などいへる小十人をつとめし人、小栗、間宮を屋鋪の前の方に居宅を給ひ、鈴木次右衛門、松平所左衛門、小林吉左衛門などおしならびて市が谷の田町へつゞきし故、道幅もおのづとせばまり七十四間といふになれり。そのころ牛込の御門もいできしなり。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間は1673~81年。

小栗半左衛門、間宮七郎兵衛、都筑叉右衛門 名は違いますが、姓は同じものが、右図で青色で描いた居宅にあります。
[1] 磯部鎮雄氏は「註 今千代田区富士見町1丁目、日本歯科大あたりか? この辺も牛込のうちに入るらしい」と書いていますが、残念ながら、入ることはありません。
百間 1間が1.81mで、百間は181mです。
辻切 ➀ みちり。村の入り口で行われる民俗習慣のひとつ。注連縄しめなわを張ったり、大草鞋わらじを掛けたりして、悪霊や悪疫の侵入を防ぐ。➁ 辻斬。つじぎり。武士などが街中などで通行人を刀で斬りつける事。この場合は➁でしょう。
[2] 同じく磯部鎮雄氏は「註 このあたり切図の番町図をみると御用地で広く、里俗蛙ヶ原(かわずがはら)という所で,左手に牛込御門がある。この御門内も牛込の内であったのであろう」
丸毛五郎兵衛、中根九郎兵衛 右図で水色で描いた居宅でしょう。
小十人 こじゅうにん。江戸幕府の職名で、将軍出行の際に先駆として供奉した足軽の組。
鈴木次右衛門、松平所左衛門、小林吉左衛門 右図で緑色で描いた居宅
七十四間 135.42mです。どこからどこまで測ったのか不明ですが、神楽坂下のスターバックスから麹町警察署飯田橋前交番までの距離でも正しいと思います。
牛込御門 寛永16年(1639年)に建築しました。

東京ワンタン本舗|神楽坂1丁目

文学と神楽坂

 神吉拓郎氏が『東京気侭地図』で書いたものですが、

 その「軽い心」と並んで目立つのは、「東京ワンタン本舗」のこれまた大きな看板である。中央線の車中から眺めている限りでは、神楽坂は「軽い心」と「東京ワンタン」に占領されているようでなんだか可笑しい。
Googleから見た「ワ」と「東」

Googleから見た「ワ」と「東」

 ほんの一部ですが、「東京ワンタン」の大きな看板は今でも見ることができます。

 Googleでも右図のように東京ワンタン本舗の看板は現在もあります。ただし、「ワ」と「東」だけしかわかりませんが…

 神楽小路の中に進み、上を見ていると、「銀鈴会館」の上に、この看板が出てきます。

銀鈴会館

銀鈴会館

 以上、報告でした。

我が黙示録|稲垣足穂

文学と神楽坂 

 昭和45年、稲垣足穂氏が『海』に発表した「我が黙示録」です。ここでは「稲垣足穂全集10」(筑摩書房、2001年)から取っています。東京大空襲も、B-29爆撃機も、焼夷弾も、第二次世界大戦も、全くでていませんが、何が起こったのかは明らかです。

 そんな冥界のやからでなく、又、アルコール幻覚でなく、私がかつて現実に見た最も華麗壮大な物象を御紹介したい――
 戦時中、牛込横寺町にいた頃だった。午後三時すぎだったろう。私は神楽坂上を矢来の方へ歩いていて、頭上におどろくべき景観を見た。雲のまんなかが開けて、そこが赤熱化した真鍮しんちゅうさながらに光り輝いているのである。それはあのたえなる恵みやあめなるかどは、わがためひらかれたりリフレーンの付いた、讃美歌を思い合わさせた。灼熱しゃくねつのふちを備えた天の門があいているのだった。
 それから横丁へはいって、我が住いにいったん帰り、あの天の門がどうなったか見ようとして、それとも他に用事があったのか、もう一ペん矢来の通りに出てみた。
 先刻の天の輝ける門は大きなのが一つ、その他に余り目立たない五ツ六ツがあったようにおぼえているが、それらが右の方へ向って、それぞれに光に縁取られた竜になって、編隊を組んで走り出していた。天の門は崩れておのおの竜形になっていた。これはあの玉をつかんでいるシナの竜では無い。キリンビールの商標に似た、馬形の火で竜であった……。
 私はその見事さにあきれたように見上げていたが、気が付いて赤城神社境内の西に面した崖ぷちにまで出て、そこで釘付けになってしまった。
 竜群は遠くへ飛び去ってしまった。入れ代って右手の遥か向うに、大斜面の上にった、言語に絶する展望があった。
 全体が青い、幾分ぼやけた色をした広大な斜面は、そのまま大都の遠望であった。それは只の都市ではない。無限に見える傾斜面には、黄金の塔や銀の橋や宝石作りの家々が立ち詰っているように見えた。私が立ちつくしていた小一時間のあいだ、その不思議な都は少しずつ右へずれているようであったが、大体として形はくずれなかった。ド・クインシーはその著『英国阿片あへん吸飲者の告白』の中で、アヘンの夢に見た都会を挙げ、あんなものは時たまの夢の中でしか見られない。自分の下手な文章では却ってぶちこわしだと云って、その代りとしてコールリッジの詩を引用している。星々がきらめき、揺れ動く不安な空をバックにしたおどろくべき宮殿風城塞の描写なのである。私はこの都を表現するのに、さしずめ黙示録第二十一章にある所を引く以外はない――
「都は清らかなる玻璃はりのごとき純金にて造れり。都の石垣の基は、さまざまの宝石にて飾れり。第一の基は碧玉。第二は瑠璃るり。第三は玉髄。第四は緑玉。第五は紅縞べにしま瑪瑙めのう。第六は赤瑪瑙。第七は橄欖かんらん。第八は緑柱石。第九は黄玉石。第十は緑玉髄。第十一は青玉。第十二は紫水晶なり。十二の門は十二の真珠なり。おのおのの門は一つの真珠より成り、都の大路は透徹すきとおる玻璃のごとき純金なり。われ都の内にてを見ざりき。主なる全能の神および羔羊こひつじはその宮なり。都は日月の照らすを要せず、神の栄光これを照し、羔羊はその灯火なり。諸国の民は都の光のなかを歩み、地の王たちは己が光栄を此処ここたずさえきたる。都の門は終日ひねもす閉じず(此処に夜あることなし)」

雲のまんなかが開けて 米軍の爆撃機がやってきます。
〽妙なる恵みや天なる御門は、わがためひらかれたり 賛美歌505の「たえなるめぐみや」がよく似ています。賛美歌505では「たえなるめぐみや みかどは開け 救いのひかりぞ 世にかがやけり」と続きます。
リフレーン refrain。詩・音楽などで、同じ句や曲節を繰り返すこと。
黄金の塔や銀の橋や宝石作りの家々 次に火事が起こりました
ド・クインシー Thomas De Quincey。イギリスの評論家。主著『阿片服用者の告白』(1822年)では自らの阿片中毒体験を華麗に綴った。生年は1785年8月15日。没年は1859年12月8日。
英国阿片吸飲者の告白 Confessions of an English Opium-Eater。幼少期の悲哀、青春の放浪、阿片の魅惑と幻想の牢獄を知性と感性の言語で再構築した。
コールリッジ Samuel Taylor Coleridge。イギリスの詩人。詩集は『抒情歌謡集』など。
さしずめ 今の局面で。つまり。さしあたり。
黙示録第21章 ヨハネの黙示録(口語訳)の第21章は「21:18 城壁は碧玉で築かれ、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。21:19 都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、21:20 第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。21:21 十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。21:22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。21:23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。21:24 諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。21:25 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。」
玻璃 はり。水晶のこと。
碧玉 へきぎょく、jasper、ジャスパー。微細な石英の結晶集合体。
瑠璃 るり。青色の美しい宝石。ラピスラズリ。lapis lazuli。青金石など数種の鉱物の混合物。サファイア。
玉髄 ぎょくずい。SiO2 。石英の繊維状の潜晶質の結晶集合体。
緑玉 りょくぎょく。エメラルド。緑柱石の一種。発色原因はクロムやバナジウムで、色鮮やか。
紅縞瑪瑙 べにしまめのう。サードオニックス。赤色と白色の平行な縞模様のある石英の非常に細かい結晶集合体。
赤瑪瑙 赤メノウ。玉髄(カルセドニー)の一種。小さな石英の結晶集合体
貴橄欖石 かんらん石。橄欖石。Chrysolite。マグネシウムと鉄のケイ酸塩。黄色や緑色の準宝石
緑柱石 りょくちゅうせき。beryl。発色原因は鉄で、色は爽やか。
黄玉石 トパーズ。Topaz。黄金色。ケイ酸塩鉱物。
緑玉髄 りょくぎょくずい。クリソプレーズ。玉髄(カルセドニー、繊維状の石英)の一種。翡翠
青玉 サファイア。コランダム(Al2O3、酸化アルミニウム)の変種
紫水晶 アメジスト。紫色の水晶。組成はSiO2(二酸化ケイ素)
 神社。英語ではtemple。宮殿。
羔羊 小羊。子羊。英語ではLamb(子羊)
終日 ひもすがら。ひねもす。一日中。

神楽小路からの石畳横道

文学と神楽坂

 2018年にできたのがこの神楽小路から横に入っていく道の石畳。

 昔はここには石畳はなく、アスファルトでした。

 また、ここは神楽坂1丁目ではなく、2丁目に当たります。石畳は私道です。

以前の神楽小路からの横道。Googleから。

 以前はまったく変哲もない道でした。それが変わります。少し変わったときにGoogleでは写真を撮っています(360度のGoogleの写真。右図はその一部)。左側には薄朱色の壁がありますが、石畳はまだありません。昔の店舗は「神楽小町」でした。

 現在(2018年11月)は、こんな道と右側に新店舗ができています。

 また、突き当たりから入口にむけて撮ると、反対側は立派な黒塀に変わっています。

森田草平の住所

文学と神楽坂

 明治43年8月12~13日、森田草平氏は牛込矢来町62番地に転居、さく女史と家庭生活に入りました。女史は藤間勘次といい、藤間流の日本舞踊の先生でした。

 実は2年前の明治41年3月、氏は心中未遂事件を起こしています。明治40年4月、天台宗中学の英語教師になり、さらに6月、閏秀文学界の講師となり、ここで、平塚明(明子、らいてう、雷鳥)女史を聴講生として知ります。二人の中は急速に進展し、明治41年3月、塩原尾頭峠で、平塚明子女史と心中未遂の塩原事件を起こしています。

 明治42年1月1日~5月16日、氏は朝日新聞にこの事件をモデルにした「煤煙」を連載します。ここでは、最後の数部分を読んでみます。なお、この出典はおおむね「日本現代文学全集41」(講談社、昭和58年)でありますが、さらに必要があれば国立国会図書館の「煤煙」(如山堂、大正2年)を借りています。

 女は包を解いて、手紙の束を雪の上へ投出した。その上へウィスキイの殘りを注ぐ。男はしやがんで燐寸マツチを擦つた。小さな靑い火がぼぼと燃えて、その儘すうと煙を出して消えた。二たび擦る。燐寸が半ばから折れた。三たび、四度目に燃え上つた。男の戀を連ねた文字が燃える。黑くくすぶつて消えようとしては、又ぶす/\と燃え上つた。
 要吉はそれを見詰めてゐた。眼も離さず見詰めてゐた。いよ/\黑い灰となつて仕舞つたのを見濟まして、不圖女をかへり見たが、自分の顏に泛んだ失望の色が自分の眼にも見えるやうな氣がした。
 俄に山巓からどつと風が落ちて來た。灰を飛ばし、雪の粉を飛ばし、われも人も吹飛ばして仕舞ひさうな。二人はひし相抱いた。風は山を鳴らして吹きに吹く。
「死んだら何うなるか、言つて、言つて。」
 女は男の腕を掴んで、かずれた聲に叫ぶ。
「言つて、言つて。」
「私には――言へない。」
 女は凝乎ぢつと男の顏を見守つてゐる。それを見ると、男の心には又むら/\と反抗心が起った。生きるんだ、生きるんだ、自分は何處迄も生きるんだ。
 つとうち衣嚢かくしから短刀を取出して、それを握ったまゝ立上った。女はその氣色を見て、
「何うするんです」と、突走るやうに訊く。
 あなやと言ふ間もなく、要吉は谷間を目蒐めがけて短刀を投げた。
「私は生きるんだ。自然が殺せば知らぬこと、私はもう自分ぢや死なない。貴方も殺さない。」
 二人は顔を見合せたまゝ聲を呑んだ。天上の風に吹き散らされて、雲間の星も右往左往に亂れて、見えた。女は又叫ぶ。
「歩きませう、もつと歩きませう。」
「うむ、歩きませう。」
 二人は雪明りをたよりにして、風の中を行く。風のために雪が氷り始めたやうだ。只、その上層うはかはを破れば、底迄踏み込まずには置かない。やっと半町程進んだ時、ばたりと背後で倒れる音がした。朋子は崖を踏み外したまゝ、聲も立てずにゐる。遽てて、それを引上げようとして、一緒にずる/\と摺り落ちた。三間ばかり落ちて行つたが、危く雪の洞に引かゝつた。
 二人は折重なつたまゝ動かなかった。だん/\風の音も遠くなるらしい。要吉は腹の辺りから冷たい水が沁み込んで来るのを覚えながら、ついうと/\とした。その後は何うなつたか知らない。
 不圖、誰かに喚び起されるやうな氣がして眼を開いた。朋子が凝乎ぢつと自分の顔を見守つてゐる。「ね、歩きませう、もつと歩きませう。」
 女は急に男の手を持つて、同じ事を繰返した。
 要吉は默つて立上つた。見返れば、月天心に懸つて、遠方の山々はさながら太洋のなみがその儘氷つたやうに見えた。わが居る山も、一面に雪が氷つて、きら/\と水晶のやうな光を放つた。あゝ氷獄!氷獄! 女の夢は終に成就した。到頭自分は女に件れられて氷獄のへ來た。――男の心には言ふべからざる歡喜の情が湧いた。う可い、もう可い! 二人は手を取合つたまゝ、雪の上に坐ってゐた。何にも言ふことはない!
 二人は又立上った。堅く氷つた雪を踏みしだきながら、山を登つて行く。
 山巓も間近になつた。
 だん/\月の光がぼんやりして、朝の光に變つて行く。
(明治42年1月~5月「朝日新聞」)

不図 ふと。不斗。思いがけなく、突然起こる。不意に。これといった理由や意識もなく、物事が生じる。
泛ぶ うかぶ。浮かぶ。奥に隠れていたものが表面に現れる。
山巓 さんてん。山巓。山顚。山のいただき。山頂。
犇と ひしと。ぴったりと密着する。
つと ある動作をすばやく、いきなりする。さっと。急に。
内かくし 内隠し。洋服の内ポケット。うらかくし。
突走る つっぱしる。突っ走る。勢いよく走る。まっしぐらに進む。
あなや ひどく驚いた時に発する語。あっ。あれっ。
上層 じょうそう。層をなして重なっている物の上の方の部分。
遽てて あわてる。うろたえる。急いで…する。
摺る する。こする。印刷する。
天心 てんしん。空のまん中。中天。
氷獄 読みは「ひょうごく」(国立国会図書館「煤煙」から)。この言葉は本来ありません。勝手に作ったのでしょうか。なお「八寒地獄」は、寒冷に責められる地獄のこと。
 り。うら。うち。物のうらがわ。なか。内部。

 それから約1年後、氏は藤間勘次女史と矢来町62番地で夫婦関係になりました。

 遠藤登喜子氏は『ここは牛込、神楽坂』第6号の「懐かしの神楽坂 心の故郷・神楽坂」で書き

 勘次師は、二代目藤間勘右衛門(後の勘翁)の門弟で、三代目勘右衛門、後の初代勘斎(松本幸四郎)は先代市川團十郎、松本白鴎、尾上松緑三兄弟の父君です。勘次師は、また作家の森田草平先生の奥さまで、花柳界のお弟子は全く取らず、名門の子女が多く、お嬢さま方がそのころ珍しかった自家用車に乗り、ばあやさんをお供にお稽古に来ておられました。
 藤間のお三方のご兄弟ももちろんこの頃は若く、踊りの手ほどきを勘次師にしていただくためよく来られました。私はまだ小学生で、時々お稽古場で豊(松緑)さんと顔が会うと、住まいが同じ渋谷だったので、お稽古の後、付人のみどりさんという若い男の子と三人で神楽坂をぶらぶら歩いて、よく履物の助六の下にあった白十字でアイスクリームなどをごちそうになったものです。

 下の地図で二人が住んだ矢来町62番地は赤い多角形で書きました。

矢来町62番地

大正11年、東京市牛込区の地図

糞尿の話|金子光晴

文学と神楽坂

金子光晴

 安岡章太郎編の短編集『滑稽糞尿譚』(文春文庫、1995年)のうち、金子光晴氏の「糞尿の話」です。これは新宿区立図書館にはないと思って、古本を買いました。しかし、『滑稽糞尿譚』のもとは単行本で、講談社の『ウィタ・フンニョアリス』(1980年)です。これは図書館にありました。「糞尿の話」はいわば「選集」なので、元の文章はどこかにあるはずなのですが、2冊とも説明はなく、原典は不明です。

 なお、この挿話の時代は、関東大震災が起こる以前だと思います。

 さて、甚だ、前置がながくなったが、僕はこの小文で、若い時にじぶんが経験した二つの小話を紹介させていただきたいとおもう。
と言っても、それほど、人類、国家のためになる話ではない。その一つは、まだ二十二、三歳の頃、房州布良という漁村にあそびにいった。偶然にも、そこで川崎の佐藤惣之助の友達とめぐりあい、村の海岸づたいの磯で、夜の更けるまで、なにか御きげんで大ぼらを吹きあった。そのはてに、いっしょにうんこをして、「太平洋にけつを洗わせよう」と、大波に尻をむけて、ずぶぬれになり、豪快を味わったつもりでいた。

房州 安房あわ国の別名。現在の千葉県南部。
布良 めら。現在は千葉県南部、館山市の一地区。
佐藤惣之助 さとうそうのすけ。詩人。作詞家。人道主義詩人として出発。陽気で饒舌な詩風に転ずる。作詞は「赤城の子守唄」「人生劇場」など。生年は明治23年12月3日。没年は昭和17年5月15日。享年は満53歳。
御きげん ごきげん。御機嫌。気分のよいさま。上機嫌。

いま一つは、午後三時頃、神楽坂の毘沙門前をすこし肴町よりのところを通りかかって、僕は、凄まじい下痢の発作をおぼえた。夕化粧をすませた芸者たちがたえまもなく往来している。あいにくそのへんにをかりる懇意な店もなく、殆んどそんなとき、施設のないにひとしい東京の街のことをはら立ちながらも、生理の欲求は容赦なく、猿股はもう重くなり、なにやら、内股をつたわってながれ下りつつある気配、そのうち、さし込んでくるような腹痛を横腹におぼえて、道の小わきにしゃがみこんだ。それから、おもむろに猿股から片足を外し、一わたり、そのへんを始末してから後続部隊を待った。
昔の町のことで、町の両側には、細い溝があり、それをつたってうんこ大将軍は、すこしもさわがず、うしろにつづくもののふに押されて、どぶ板の下、かなたに渡御あったが、それでさっぱりというような、やさしいことではすまず、おならまじりにしぶきをたてるので、こうなっては、悪びれてもあしかりなんとおもった僕は、半眼を閉じてなりゆきにまかせることにした。

肴町 現在の神楽坂五丁目
夕化粧 夕方にする化粧。
たえまもなく 絶え間無く。とだえることがない。休みない。
 かわや。便所。川の上に設けた川屋か、家の外側に設けた側屋の意味
施設 ある目的のために建造物などをつくること。この場合は便所
猿股 パンツ形式の丈の短い男性用下着。
始末 片付けること。処理。
もののふ 武士。武をもって主君に仕え、いくさに出て戦う人。武人。もののべ。
渡御 とぎょ。天皇や将軍などがお出ましになること。
あしかりなん 悪しかりし。よくない。

 たちは、情しらずなもので、みぬふりをして通りすぎてくれるどころか、わざわざ立止って、顔をのぞいてゆくものもあった。
そんな妓と座敷で顔があったりしたら、「まあ、こちら、どっかで、お目にかかったことがあったわね」と、神経のぬけた顔で平気でいうかもしれない。それが縁となれば、ほんとうにくさい仲だ。当分のあいだ、あの社会では、話の種になったことであろう。
その後、別の土地で、気のおけない老妓にその笑話をすると、
「この社会は、案外、世間が狭くて、針ほどのことが棒のようになってしまいますから、その後、どんなふうな大きなことになったかがきいてみたいもんですわね」
布良の海で太平洋に尻を洗わせることと、座敷姿の芸者衆の前で下痢を公開することと、あなたは、どちらをおえらびになりますか。また、どちらが、男々しい、人にじまんできることとお考えになりますか。それは、僕にとってはなかなか大事なことで、僕の生きてきたねうちもそれによって変ってくることになるのです。

 酒席で、音曲・歌舞などで客をもてなす女。芸妓。芸者。
座敷姿 酒宴の席で正式な身なり。

 で、しばらくは臭いや色について話が続き、最後になってもう一度、神楽坂の下痢の話が出てきます。

最後の清掃には、肌じゅばんをぬぎ、それをもって一応に身近をきれいに処理し、立ち去ろうとしたが、狭い溝にながれもあえずそのままのこしておいてもと反省して、丁度、その前が、瀬戸物屋の店先だったので、一荷の水槽を拝借し、暗渠に落ちるぐらいまで始末をし、あわてず、さわがず、一生涯のうち、この事件に関しては貝原益軒にもひけをとらない気ばたらきをして、勝安房等のように、もう一度ぐらいは大丈夫な顔つきで家路をさして引きあげたが、あの話は当分、神楽坂の上下をさわがしたらしく、現に、僕は、あの土地のだだらとよばれた友から、「呆れた奴がいたものだ」と、僕とは知らずに語る我身の噂をきき、「神楽坂署では、その犯人を追跡中だとさ」とおもいがけぬおち、、まできいたものだった。
〔かねこ・みつはる(1895―1975)詩人〕

肌じゅばん 肌に直接つける和服用肌着。ジュバンは本来,素肌に着る肌着で、ポルトガル語gibãoから来たもの
 ぶん。その人の持っている身分や能力。身の程。分際。
あえず 完全にはできない。しきれない。
瀬戸物屋 新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)では「神楽坂上」交差点の瀬戸物屋(河合陶器店)しかありません。しかし、これは遠すぎます。また、岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」では「松岡陶苑」は、以前の「西善セトモノ」だったといいます。しかし「毘沙門前をすこし肴町よりのところ」ではありません。現在は不明としておきます。
一荷 いっか。一つの荷。
暗渠 地下に埋設した、または地表でふたをした導水路。排水、下水、用水などに使う。閉水路。暗溝。
貝原益軒 かいばらえきけん。江戸前中期の儒学者、本草家、教育思想家。長崎で医学を修め、福岡藩医に。経学、医学、民俗、歴史、地理、教育などの各分野で先駆者的業績を残した。生年は寛永7年11月14日(1630年)。没年は正徳4年8月27日(1714年)。享年は85歳
気ばたらき 気働き。その場に応じて、よく気が利くこと。機転。
勝安芳 かつやすよし。別名は勝海舟。かつかいしゅう。幕末から明治初期の武士、幕臣、政治家。生年は文政6年1月30日(1823年3月12日)、没年は明治32年(1899年)1月19日。享年は満75歳。
だだら だだらだいじん(駄駄羅大尽)と同じでは。遊里で、金銭を湯水のように使って豪遊する客。
神楽坂署 昔は神楽河岸にありました。

白昼見|稲垣足穂

文学と神楽坂

 稲垣足穂氏の『白昼見』の1部です。昭和23年に書かれた自伝的な作品で、前半は「新潮」に、後半は「思潮」に出ています。ここで扱う時間は昭和12年5月ごろ。氏は牛込区横寺町37番地の旺山荘アパートに移りました。

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)

 五月上旬になって、山上二郎の下宿から電車道をへだてた高台に、やっと自分の居場所を定めることが出来ました。衣巻の住いで書いた短篇が売れたことがありましたが、百円など何の役に立つかとわたしは思っていたので、二日間でつかいはたしてしまいました。そこで、改めて、旧知の江戸川乱歩に金三十円を無心し、ほかに玉虫色の背広と夜具の上下の寄附を受けました。こんなことで落付けるものならば、先の百円があればなんだって出来る、そういうことが判りましたが、かと云って、この次の百円は分けて使おうなどとは、わたしは勿論考えませんでした。
 わたしがこの横寺町の一隅に住いをきめたのは、飯塚という酒造家が経営している縄のれんがあったことに依ります。旧臘の或る晩初めて山上に案内されて、其処に、長大なけやきの一枚板の卓に向って、濁り酒というものを飲んでいる人々と、背後の壁面にずらりと掛け並べられた品目の廉価に、わたしは驚きました。けれども勿論、それらのたべものや鍋類に箸をつける気持は起りませんでした。ところがそのうちに、何しろこの店では十銭あれば泡盛ブランかが飲めます。便利に思って通っているうちに、五銭のゴッタ煮やにしんの煮付がなかなか美味おいしいのだ、ということが判ってきました。同時に、印半纏をまとうた人々のあいだには、紳士と称する曖昧あいまい模糊もこたる存在のあずかり知らぬ渋味と真実があるということが、――それは既に鯛太郎及び鯖吉を通して感付いていましたが――その理解がいっそう打ち拡げられることになりました。こうして、宮比町の友人がくれた青い背広はたちまちのうちに質にはいってしまいました。次に靴がなくなりました。神楽坂であがなった格子こうしじまハンティングも、ワイシャツも、蝙蝠こうもりがさも、相続いて姿を消すに到りました。同じ酒造家の金融部でしたから、インキや便箋を質草にしても一杯か二杯のブラン代に立替えられ、わたしはやがて夜具のほか身辺無一物になってしまいました。考えてみると然し、馬込の旧友の家ではわたしは着の身着のままで、あの朝たもとには二円あったきりなのです。「こんなことぐらいは何か」と思っていたものの、さて困ったのは、こちらへ移った当座こそ何彼と口実を見つけて、三円なり五円なり、時には二十円と集めることのできた金も、既に引き出すたねが尽きてきたことでした。洋服の寄進者が、こんなことではいけないと云って、食堂の回数券を買ってくれましたが、この神楽坂食堂が矢張り飯塚酒店の直営でしたから、食券で飲ませてくれるようにとの交渉が、縄のれんのねえさんとのあいだに取交されたのでした。これでわたしへの助力者はあきれました。こうなると、再び周辺が急に余所余所しくなり出したことを、わたしは感付かぬわけにはまいりません。――「君と僕とはどうも空間の性質が異なるらしい。ぼくの住む世では遺憾ながら、君の常数を発見することは不可能だ」このたび上京して数回逢った同窓の友が、彼は官立美術学校の解剖美学教授でしたが、十円だけ送ってくれと、二度目に云ってやった時に、いまのような返事を寄越しました。――「小生は今後きみをもって過ぎ去った人間と見なすであろう、ではさようなら」こんな速達の葉書をくれたのは、芥川賞の受領者石川淳でした。衣巻からは其後いっこうに音沙汰がありません。慈眼山室生犀星もついに云い出しました。「苦労が遅過ぎた、あれはあれで滅びる人間じゃ」
 八月に入ると、三日間なにも口へほうり込まない日を迎えました。九月になると、湯屋の計り台に乗ってみて、十五キログラム体重が減っていることが判りました。

電車道 現在の大久保通り
高台 当時の稲垣氏の住所は牛込区(現在は新宿区)横寺町37番地でした。
衣巻 衣巻省三。きぬまきせいぞう。詩人、小説家。同級生の稲垣足穂と一緒に佐藤春夫の門下生に。昭和10年、小説「けしかけられた男」で第1回芥川賞候補。生年は明治33年2月25日。没年は昭和53年8月14日。享年は満78歳。
無心する 遠慮せず物品や金銭をねだること。
縄のれん 縄を幾筋も結び垂らして作ったのれん。店先にこののれんを下げたところから、居酒屋や一膳飯屋
旧臘 きゅうろう。去年の12月。新年になってから用いる。臘は陰暦12月。
濁り酒 にごりざけ。発酵させただけで、糟かすを漉こしていない白くにごった酒。どぶろく。
泡盛 あわもり。沖縄産の焼酎。
ブラン デンキブラン。明治15年、浅草の酒店主が開発したブランデー風カクテル。詳しくはhttp://www.kamiya-bar.com/denkibran.html
印半纏 しるしばんてん。家号などを染め出した半纏。江戸後期から職人などが着用。半纏は防寒用や仕事用の和服の上着。
鯛太郎 不明。鯛太郎は鯛の料理の総称でしょうか。鯖吉も同じです。さらにこの1文も意味不明です。「飲み屋にいる庶民にとって紳士は独特の意味がある」でしょうか。でもこれでもやっぱりわからない。
宮比町 戦前、宮比町は上宮比町と下宮比町の2つに分かれていました。戦後、上宮比町だけが名前が変わり「神楽坂4丁目」です。

ハンチング

ハンティング 狩り。狩猟。青空文庫によれば「ハンチング(hunting cap)」と同じ用法もあり、これば鳥打ち帽子のこと。
馬込の旧友の家 大森馬込に住んでいた衣巻省三氏の家でした。
着の身着の儘 きのみきのまま。いま着ている着物以外は何も持っていないこと。
たもと 和服のそでの下の袋状の所。
飯塚酒店の直営 神楽坂大衆食堂は東京市営の食堂でした。酒店の直営ではないと思います。
石川淳 小説家。小説「普賢ふげん」で第4回芥川賞。無頼ぶらい派や戯作派で、理想の喪失と絶望からの再生を描く。生年は明治32年3月7日、没年は昭和62年12月29日。享年は満88歳。
慈眼山 室生犀星氏の住所は「大森区(現大田区)馬込町久保763番地」ですが、その隣に慈眼山萬福寺がありました。

飯塚酒場|横寺町

文学と神楽坂

飯塚酒場

横寺町2

新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』から

飯塚酒場の官許にごり

 三叉路を越えての場所、内野医院の手前、龍門寺と神楽坂中央整骨院の反対側、現在は家1軒と4台の駐車場になっていますが、この横寺町7番目が飯塚酒場でした。有名な居酒屋で自家製のどぶろく「官許どぶろく」「官許にごり」が有名で、文士もこれを目当てに並んでいました。

 井伏鱒二は『人と人影』(1972年)で

この店は江戸時代から続いて来た店で、土間の入口に「官許どぶろく」と書いた古めかしい看板を掛けていた。土間のなかは古風なままに簡素なつくりだが、幕末のころ札束に黴をわかしたという噂が立っていたほどの店である。町奉行から呼出しがあって「牛込には官札に黴が生えるほど金があるのか」と皮肉を云われたそうだ。

 中屋金一郎編著「東京のたべものうまいもの」(北辰堂, 1958年)では

「飯塚酒店」。弘化四年(1847)創業。にごり酒で有名。戦中統制以来、戦後も作っていないが、お客相手のなわのれんの方は、おばあさんが帳場を、八十すぎたおじいさんが、酒をだしたり、料理をこしらえていた。おじいさんの丹精する、いかの白づくりと、なすのからし漬けはそろばんずくではできない手の込んだすばらしい味だったが、近ごろ休んでいる。さびしいことである。早稲田派の作家・詩人がよくきていた。かつて、稲垣足穂氏のあらわれなかった晩はなく、また、明大の校歌を作った、そしてロマンチックな社会主義詩人の児玉花外が晩年困っていたとき、ここのおばあさんが家作の長屋に住まわせ、三度の食事を運んで面倒を見ていた。養育院へ入ったのちも、明大の学生とともに最後まで世話したことが伝えられている。

 衣巻省三氏の「馬込牛込」(「文藝世紀」、昭和15年、文藝世紀社。再録は「タルホスペシャル」別冊幻想文学➂、1987年、幻想文学会出版局)では

 横寺町の通りに「飯塚」と呼ばれる牛込名代の飲屋があつた。その裏手の同名の質屋と兄弟分で、自分の家で種々の酒を醸造し、安く、うまく飲ませた。その道のものは誰知らぬものもない老舗だつた。十錢もあればブランデーが一杯五銭もあればおがとれた。此處では細かい神經など用をなさない。他の、新興の、文化的な薄手のものとちがひ、古風に、どつしり落着いてゐた。時分どきには、さしもの廣いこの店も唯嗷々、此の店の「ごつた」のお皿盛りのやうに一杯だつた。家庭と云ふものを知らぬは毎日ここに来た。この店については――誰か餘り見かけない客が便所へ行かうと立上つたとしよう。お爛場にゐるでつぷり血色のいい梅ちゃんが、「ハイお便所!」と喚くやうに云ふ。すると奥で仕事してゐた若い衆が、「こちらヘ!」と誘導してくれる。斷らうものなら道に迷つて了ふ。廣い、薄暗い酒造場をくねくね廻つて、大酒樽の乾された裏庭へ出てから、その片隅に隠れてゐる便所に案内してくれるのだ。丁度胸のへんに鐵棒が一本横に渡してあつた。成程上手に出来てゐるわいと、醉つたお客は思はず胸を當てた。こんな仕掛けを見ただけで大方客種も知れる。お天気の好い晝間は、鷄が餌を拾ひ、雄鷄が千鳥足を突つきに来た。皆んなは怖い鷄だと云つてゐた。ダットサンや乳母車もおかれ、子守娘がこの家の美しい末娘を遊ばせてゐた。牛込の飲屋の裏に、こんな長閑な風景もあるのかと、感心しながら戻ると又道を失ふ。まごまごしてゐると。さつきの若い衆が「こちらヘ!」と導いてくれた。この便所行は。退窟した酒間の気持らしにもなり、運動にもなつた。もう、「 ハイお便所!」と云はれなくなつたら、常連の一人となつた證證である。常迪は此の飲屋を愛する者ばかりの寄り合ひだつた。身なりこそ凡て卑しいと云へるが、たちの惡い客は見當らなかつた。不思議に喧嘩がなかつた。主人は茶色の圓帽をかぶつて、ほんの時たま顔を見せた。帳場に坐る時は眼鏡をかけた。店の長テーブルの奥の端に席をとると、帳場越しにお座敷が見渡された。夕飯時には、お櫃を抱へた女中を侍らし、一家うち揃つての團欒だつた。大きな食卓の上になごやかな笑ひが溢れてゐた。家庭を失つた者、故鄕を去つてうらぶれた者などにとつて、たまらぬ程なつかしい一瞥だつた。それは店の方とちがひ、上品な格をそなへた一家の夕餉だつた。

 酒や飯に添えて食べるもの。おかず。副食物。
嗷々 ごうごう。口やかましい。騒々しい。声がうるさい。
 小説家の稲垣足穂氏です。
長閑 のどか。静かでのんびりして落ち着いている。
円帽 正教会で長輔祭・長司祭に与えられる円筒形の帽子。カミラフカ。日本正教会では円帽子という。
朝日坂の名前 神楽坂5丁目 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁 一水寮

神楽坂の通りと坂に戻る

方南の人|稲垣足穂

文学と神楽坂

 昭和23年、稲垣足穂氏は「方南かたなみの人」を発表しました。
 この主役は「俺」とヤマニバーで働いていた女性トシちゃんです。彼女は神楽坂をやめると、しばらくの間、杉並区方南に住んでいました。

 ヤマニバーの、ヒビ割れの上に草花をペンキで描いた鏡の傍に、褐色を主調にした油絵の小さな風景画が懸かっている。「これはあたしのお父さんの友達が描いたのよ」と彼女は教えた。それは清水銀太郎と云って、俺の二十歳頃に聞えていたオペラ役者である。「あれは分家の弟だ」とは、縄暖簾のおかみさんの言葉である。「縄暖簾」というのは、彼女らが本店と呼んでいる横寺町どぶろく屋のことである。この古い酒造家と表通りのヤマニバーとは同姓であるが、そうかと云って、常連が知ったか振りに吹聴しているような繋りは別にないらしい。其処がどうなっているのか見当が付かぬけれど、然し何にせよ、彼女の家庭を今のように想像してみると、俺の眼前には下げ髪姿の少女が浮ぶ。立込んだ低い家並の向うのの夕空。縄飛び。千代紙。ビイ玉。そしてまた〽勘平さまも時折は……。

 横寺片隅の孤りぼっちの起臥は、昔馴染の曲々のおさらいをさせた。俺の口から知らず知らずに、〽千鳥の声も我袖も涙にしおるる磯枕………が出ていたらしい。トシちゃんが近付いてきて、「あら、謡曲ね」と云った。彼女は「うたい」とも「お能」とも云わなかった。「謡曲ね」と云ったのである。また彼女は何時だって「酔払ったのね」とは云わない。「ご酪酊ね」である。

方南 東京都杉並区南東部の地名。方南一丁目と方南二丁目。地名は「ほうなん」ですが、この小説では「かたなみ」と読みます。
それ 「清水銀太郎」は「お父さん」か「友達」ですが、全体を見ると、おそらくこのお父さんが清水銀太郎なのでしょう。なお、このオペラ役者の詳細は不明です。
オペラ役者 歌って、演技する声楽家。現在は「オペラ歌手」のほうがより普通です。
分家 家族員がこれまで属した家から分離し、新たにつくった家。なお、元の家は本家。
縄暖簾 飯塚酒場のこと。横寺町にありました。
どぶろく 日本酒と同じく米こうじ、蒸し米と水で仕込み、発酵したもろみを濾過はなくそのまま飲む。
同姓 どちらも「飯塚」だったのでしょう。
繋り 現在は「繋がり」。つながり。結びつき。関係があること。
下げ髪 さげがみ。髪をそのまま、あるいはもとどりで束ねて後方に垂れ下げた女性の髪形。
家並 いえなみ。家が続いて並んでいること。
 あかね。黄みを帯びた沈んだ赤色。暗赤色。
〽勘平さまも… おそらく「仮名手本忠臣蔵」から。謡曲ようきょくの一種でしょう。
横寺片隅 稲垣足穂氏の住所は「横寺町37番地 東京高等数学塾気付」でした。
起臥 きが。起きることと寝ること。生活すること。
〽千鳥の声も… 能楽「敦盛あつもり」の一節。源平の合戦から数年後、源氏の武将、熊谷直実は平敦盛の菩提を弔うため、須磨の浦に行き、敦盛の霊に出会う。正しくは「千鳥の声も我が袖も波にしおるる磯枕」
謡曲 能の脚本部分。声楽部分、つまりうたいをさすことも。
酩酊 めいてい。非常に酔うこと。

 白銀町から赤城神社境内へ抜ける鈎の手が続いた通路。紅いに絡まれた箱形洋館の脇からはいって行く小径。幾重にも折れ曲っだ落葉の道。何時だって人影が無い。トシちゃんはいまどんな用事をしているであろう?

「洗濯物なんか神楽坂の姐さんが控えているじゃないか」と銀座裏の社長が云った。
「それにはお白粉が入用なんだ」
「おしろいまで買わせるのか」ちょび髭の森谷氏はそう云って、別に札を一枚出し、これで向いの店で適当なのを買ってこい、と校正係の若者に命じた。白粉はトシちゃん行きではない。沖縄乙女のヨッちゃんの為にである。
 縄暖簾を潜ると、武田麟太郎白馬を飲んでいた。約束の金を持ってきてくれたのである。五、六本明けてからヤマニヘ引張って行く。
「師匠から女の子を見せられようとは、これはおどろいた!」
 そう云いながら、彼は濁り酒を四本明けた。いっしょに日活館の前まで来たが、此処で彼の姿は児雷也のように、急に何処かへ消え失せてしまった。

鉤の手 かぎのて。かぎ(鈎)の形に曲がっていること。ほぼ直角に曲がっていること。
 つた。ブドウ科のつる性落葉木本。
社長 森谷均。1897~1969。編集者。昭森社を創業。神保町に喫茶店や画廊を開き、出版社を二階に移転。思潮社の小田久郎氏やユリイカの伊達得夫氏は同社の出身。
白馬 しろうま。どぶろくと同じ。ほかに、濁り酒、濁酒、もろみ酒も。
濁り酒 にごりざけ。これもどぶろくと同じ。
日活館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地にあった映画館。日活館。現在はスーパーの「よしや」
児雷也 じらいや。江戸時代の読本・草双紙・歌舞伎などに現れる怪盗。中国明代の小説で門扉に「自来也」と書き残す盗賊の我来也があり、翻案による人物。がまの妖術を使う。

 そのトシちゃんがヤマニバーをやめ、神楽坂からも消えてしまいます。

 トシちゃんは去った――二月に入って、二週間ほど俺が顔を出さなかったあいだに。「お目出度う」と彼女が云ってくれた俺の本の刷上りを待たずにトシちゃんは神楽坂上を去った。きょうも時刻が来て、酒呑連の行列がどッとヤマニヘなだれこんだ時、何処かのおっさんが、混乱の渦の真中で、「背の高い女中が居ないと駄目だあ!」と呶鳴ったけれど、その、客捌きの鮮かな、優い、背の高い女中は最早このバーヘは帰ってこないのである。足掛六年の月日だった。俺には未だよく思い出せない数々のことが、今となってよく手繰り出せない事共がひと餅になっている。暑い日も寒い日も変りなく立働いていたトシちゃん。「おひたし? おしたじ? いったいどっちなの?」と甲高い声でたずねてくれるトシちゃん。俺が痩せ細った寒鴉になり、金具の取れた布バンドを巻くようになっても態度の変らなかった唯一の人。何時だって、あの突当りに前田医院の青銅円蓋が見える所へ帰ってきた時に、俺の心を明るくした女性。朋輩が次々に入れ変っても一人居残って、永久に此処に居そうに見えた彼女は、とうとう神楽坂を去った。

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)

呶鳴る どなる。激しく言葉をだす。
客捌き きゃくさばき。客に対応して手際よく処理する。
手繰り てぐり。工夫して都合をつけること。やり繰り。
ひと餅 不明。「一緒になって」でしょうか。
おしたじ 御下地。醬油のこと。
寒鴉 かんあ。冬のからす。かんがらす。
前田医院 神楽坂6丁目32にありました。現在は菊池医院に変わっています。

 昭和20(1945)年4月13日午後8時頃から、米軍による東京大空襲がありました。

 正面に緑青の吹いた鹿鳴館風の円屋根が見える神楽坂上の書割は、いまは荒涼としていた。これも永くは続かなかった。俺がトシちゃんへご機嫌奉仕をし、合せて電車通の天使的富美子さんの上に、郵便局横丁のみどりさんの上に、そのすじ向いの菊代嬢に、日活会館前のギー坊に、肴町のヨッちゃんの上に、さては「矢来小町」の喜美江さんを繞って、それぞれに明暗物語が進捗していた時、旧神楽坂はその周辺なる親しき誰彼にいまはの別れを告げていたのだ。電車道の東側から始まった取壊し作業の鳶口が、既に無住のヤマニバーまで届かぬうちに、四月半ばの生暖い深更に、牛込一帯は天降った火竜群の舌々によって砥め尽されてしまった。お湯屋の煙突と、消防本部の格子塔と、そして新潮社のたてに長い四階建を残したのみで、俺の思い出の土地は何も彼もが半夜の煙に。そして起伏した一望の焼野原。ヤマニの前に敷詰められた鱗形の割栗ばかりが昔なりけり――になってしまった。

鹿鳴館

緑青 ろくしょう。金属の銅から出た緑色の錆。腐食の進行を妨げる働きがある。
鹿鳴館 ろくめいかん。明治16年(1883)、英国人コンドルの設計で完成した洋館。煉瓦造り、二階建て。高官や華族の夜会や舞踏会を開催。
円屋根 稲垣足穂氏は「世界の巌」(昭和31年)で「彼らの思い出の神楽坂、正面にM医院の鹿鳴館式の青銅の円蓋が見える書割は、――あの1935年の秋、霧立ちこめる神戸沖の幻影ファントム艦隊フリートと共に――いまはどこに求めるよすがも無い。」と書いています。したがって、これも前田医院の描写なのでしょう。
書割 かきわり。芝居の大道具。木製の枠に紙や布を張り、建物や風景などを描き、背景にする。
繞る めぐる。まわりをぐるりと回る。とりまく。
進捗 物事が進みはかどること。
電車通 現「大久保通り」のこと。
郵便局横丁 郵便局は通寺町(現神楽坂6丁目)30番地でした。前の図で右側の横丁を指すのでしょう。
日活会館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地。
肴町 現「神楽坂5丁目」
鳶口 とびぐち。竹や木製の棒の先端に鉄製のかぎをつけ、破壊消防、木材の積立・搬出・流送などを行う道具。
深更 しんこう。夜ふけ。深夜。

牛込区詳細図。昭和16年

お湯屋 「藤乃湯」が横寺町13にありました。
消防本部 消防本部は矢来町108にありました。
新潮社 新潮社は矢来町71にありました。
半夜 まよなか。夜半。
割栗 割栗石。わりぐりいし。岩石や玉石を割った砕石。直径は10〜20cm。基礎工事の地盤改良などで利用した。

 それから戦後数年たって、トシちゃんの話が出てきます。

武蔵野館の前を曲りながら、近頃休みがちの店が本日も閉っていることを願わずに居られなかった。タール塗の小屋の表には然し暖簾が出ていた。俺は横丁へ逸れて、通り過ぎながら、勝手口から奥を窺った。俯いて何かやっている小柄な、痩ぎすの姿があった。
「奥さん」と俺は声を掛げた。「表は未だなのですか?」
 顔を上げて、それからおかみは戸口まで出てきた。
 持前のちょっと皮肉な笑みを浮べると、
「まだ氷がはいらないので、お午からです」
 五、六秒の間があった。
「おトシはお嫁に行って、もうじき子供が生まれるそうです」
「それはお目出度い……」と俺は受け継いでいた。このおかみの肌の木目が細かいこと、物を云いかけるたびに、揃いの金歯がよく光ることに今更ながら気が付いた。
「東京ですか」と自動的に俺は口に出した。
「いいえ田舎で――」
 その田舎は……? とは、はずみにもせよ口には出なかった。この上は何時かひょっくり逢えばよいのだ。逢わなくてもよいのである。
 その代り接穂は次のようになった。
「姉さんの方はどちらに?」
「千葉とか聞いています」
「こちらは相変らずの宿無しで」と、俺は吃り気味に、此場から離れる為に言葉を引張り出した。
「――いま、戸塚の旅館にいるんですよ」それはまあ! という風におかみは頷いた。
「ではまた」と云って、俺は歩き出した。

武蔵野館 前後の流れを読むと、神楽坂6丁目にあった日活館で、それが戦後になって「武蔵野館」に変わったものではなく、新宿の「武蔵野館」でしょう。
タール コールタール。石炭の高温乾留で得られる黒色の油状液体。そのまま防腐塗料として使う。
暖簾 のれん。商店で、屋号などを染め抜いて店先に掲げる布。部屋の入り口や仕切りにたらす短い布。
木目 皮膚や物の表面の細かいあや。また、それに触れたときの感じ。
はずみに そのときの思いがけない勢い。その場のなりゆき。
接穂 つぎほ。話を続けて行くきっかけ。言葉をつぐ機会。

 次で小説は終わりです。

「涙が零れたのよ」釣革を持った婦人同士の会話中に、こんな言葉が洩れ聞えた。僅かに上下動して展開してくる夏の終りの焼跡風景を見ている俺は、一九四七年八月二十五日、交響楽『神楽坂年代記』も愈々終ったことを知るのだった。
 電車は劇しく揺れながら代々木に向って走っていた。

零れる こぼれる。液体が容器から出て外へ落ちる。抑え切れなくて、外に表れる。
釣革 つり革。吊革。吊り手。つりて。電車・バスなどの中で、乗客が体を支えるためにつかまる、上から吊り下げられた輪。
1947年 足穂氏は46歳でした。
愈々 いよいよ。待望していた物事が成立したり実現したりするさま。とうとう。ついに。