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婦系図

文学と神楽坂

泉鏡花

泉鏡花

 これは泉鏡花氏の『婦系図』(1907年、明治40年)前篇「柏家」45節で、中心人物のうち3人(小芳、酒井俊蔵、早瀬主税)が出てくる有名な場面です。「いいえ、私が悪いんです…」と言う人は芸妓の小芳で、ドイツ文学者の酒井俊蔵の愛人。小芳から「貴下」と呼ばれた人は主人公の書生で以前の掏摸すり、早瀬主税ちから。「成らん!」と怒る人はドイツ文学者の酒井俊蔵で、主税の先生です。
 もちろん酒井俊蔵のモデルは尾崎紅葉氏、早瀬主税は泉鏡花氏、小芳は芸妓の小えんです。
 小芳が「いいえ…」といった言葉に対して、文学者の酒井は芸妓のお蔦を早瀬の妻にするのは無理だといって「俺を棄てるか、おんなを棄てるか」と詰問します。

いいえ、私が悪いんです。ですから、あとしかられますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」
「成らん! この場に及んで分別も糸瓜へちまもあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、おんなを連れて駈落かけおちをしかねない。短兵急たんぺいきゅうに首をおさえて叩っってしまうのだ。
 早瀬。」
苛々いらいらした音調で、
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支さしつかえん、おんなうらんでも、泣いてもい。こがじにに死んでもい。先生命令いいつけだ、切れっちまえ。
 俺を棄てるか、婦を棄てるか。
 むむ、このほか言句もんくはないのよ。」

婦系図 明治40年に書かれた泉鏡花の小説。お蔦と早瀬主税の悲恋物語が中心で、ドイツ文学者の酒井先生の娘お妙の純情、家名のため愛なき結婚のもたらす家庭悲劇、主税の復讐譚などを書く。
糸瓜 へちま。つまらないものや役に立たないもののたとえ
短兵急 刀剣などをもって急激に攻めるさま。だしぬけに。ひどく急に。
苛々しい いらいらしい。心がいらだつ。いらいらする様子。
先生 自分より先に生まれた人。学問や技術・芸能を教える人。自分が教えを受けている人。この場合は酒井俊蔵。
言句 げんく。ごんく。言葉。ひとくさりの言葉。一言一句。

(どうだ。)とあごで言わせて、悠然ゆうぜんと天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓にひじをついた。
おんなを棄てます。先生。」
判然はっきり云った。其処そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の猪口ちょくと相触れて、カチリと鳴った。
幾久いくひさし、おさかずきを。」と、ぐっと飲んで目をふさいだのである。
 物をも言わず、背向うしろむきになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、
其方そっちの、其方の熱い方を。もう一杯ひとつ、もう一ツ。」
と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物をふところへ、羽織ひもを引懸けて、ずッと立った。
「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」

悠然 ゆうぜん。物事に動ぜず、ゆったりと落ち着いているさま。悠々。
猪口 ちょく。日本酒を飲むときに用いる陶製の小さな器。小形の陶器で、口が広く、底は少し狭くなる。猪口
幾久く いくひさしく。いつまでも久しい。行く末長い。
 ふところ。衣服を着たときの、胸のあたりの内側の部分。懐中。
羽織 はおり。和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。



湯島の境内②|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花氏の『婦系図』「湯島の境内」からです。「湯島の境内」は「婦系図」の小説(1907年)では入っておらず、戯曲(1914年)で新しく加わりました。ここは戯曲の山場のひとつです。この原本は岩波書店の「鏡花全集 第26」(第一版は昭和17年)から。なお、早瀬主税ちからは書生で、主人公。お蔦は内縁の妻。早瀬の話に出てきた「おれ」や「先生」とはドイツ文学者の酒井俊蔵で、主税の先生。小芳は芸妓で、酒井の愛人でした。

早瀬 実は柏家かしわや奥座敷で、胸に匕首あいくちを刺されるような、御意見をこうむった。小芳こよしさんも、あおくなって涙を流して、とりなしてくんなすったが、たとい泣いても縋っても、こがれじにをしても構わん、おれの命令だ、とおっしゃってな、二の句は続かん、小芳さんも、俺も畳へ倒れたよ。
お蔦 (やや気色けしきばむ)まあ、死んでも構わないと、あの、ええ、死ぬまいとお思いなすって、……小芳さんの生命いのちを懸けた、わけしりでいて、水臭い、芸者のまことを御存じない! 私死にます、柳橋の蔦吉は男にこがれて死んで見せるわ。
早瀬 これ、飛んでもない、お前は、血相変えて、勿体もったいない、意地で先生にたてを突く気か。俺がさせない。待て、落着いて聞けと云うに!――死んでも構わないとおっしゃったのは、先生だけれど、……お前と切れる、女を棄てます、と誓ったのは、この俺だが、どうするえ。
お蔦 貴方をどうするって、そんな無理なことばッかり、情があるなら、実があるなら、先生のそうおっしゃった時、なぜ推返おしかえて出来ないまでも、私の心を、先生におっしゃってみては下さいません。
早瀬 血を吐く思いで俺も云った。小芳さんも、そばで聞く俺がきまりの悪いほど、お前の心を取次いでくれたけれど、――四の五の云うな、一も二もない――俺を棄てるか、おんなを棄てるか、さあ、どうだ――と胸つきつけて言われたには、何とも返す言葉がなかった。今もって、いや、尽未来際じんみらいざい、俺は何とも、ほかに言うべき言葉を知らん。


柏家 柳橋にあった芸者置屋おきやか料亭。置屋とは料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
奥座敷 家の奥のほうにある座敷。私生活にあてる座敷。
匕首 あいくち。つばのない短刀。
小芳 芸妓。ドイツ文学者酒井俊蔵の愛人。酒井俊蔵は早瀬主税の先生。
縋る すがる。 頼みとしてとりつく。しっかりとつかまる。しがみつく。
こがれ死に 焦がれ死に。恋い慕うあまり病気になって死ぬこと。
二の句 次に言いだす言葉。
気色ばむ 怒ったようすを表情に現す。むっとして顔色を変える。
わけしり 訳知り。遊里の事情によく通じていること。また、その人。
 まこと。うそや偽りでないこと。人に対して誠実で欺かないこと。偽りのない心。まごころ。
蔦吉 芸名、名。「吉」「太郎」「奴」などをつけて男名前を使うことが多かった。
押し返す おしかえす。押してきた相手を逆にこちらから押す。押し戻す。相手の言葉を受けて返す。裏返す。
尽未来際 じんみらいさい。仏語。未来の果てに至るまで。未来永劫。永遠。

お蔦 (間)ああ、分りました。それで、あの、その時に、お前さん、女を棄てます、と云ったんだわね。
早瀬 堪忍しておくれ、済まない、が、たしかに誓った。
お蔦 よく、おっしゃった、男ですわ。女房の私も嬉しい。早瀬さん、男は……それで立ちました。
早瀬 立つも立たぬも、お前一つだ。じゃ肯分ききわけてくれるんだね。
お蔦 肯分けないでどうしましょう。
早瀬 それじゃ別れてくれるんだな。
お蔦 ですけれど……やっぱり私の早瀬さん、それだからなお未練が出るじゃありませんか。
早瀬 また、そんな無理を言う。
お蔦 どッちが、無理だと思うんですよ。
早瀬 じゃお前、私がこれだけ事を分けて頼むのに、肯入れちゃくれんのかい。
お蔦 いいえ。
早瀬 それじゃ一言、清く別れると云ってくんなよ。
お蔦 …………
早瀬 ええ、お蔦。(あせる。)
お蔦 いいますよ。(きれぎれ且つ涙)別れる切れると云う前に、夫婦で、も一度顔が見たい。(胸にすがって、顔を見合わす。)
〽見る度ごとに面痩おもやて、どうせながらえいられねば、殺して行ってくださんせ。
お蔦 見納めかねえ――それじゃ、お別れ申します。
早瀬 (涙を払い、気を替う)さあ、ここに金子かねがある、……下すったんだ、受取っておいておくれ。(渡す。)
お蔦 (取るとひとしく)手切れかい、失礼な、(となげうたんとして、腕のえたるさま)あの、先生が下すったんですか。
早瀬 まだ借金も残っていよう、当座の小使いにもするように、とお心づけ下すったんだ。
お蔦 (しおしおと押頂く)こうした時の気が乱れて、勿体ない事をしようとした、そんなら私、わざと頂いておきますよ。(と帯に納めて、落したる髷形まげがたの包に目を注ぐ。じっと泣きつつ拾取って砂を払う)も、荷になってなぜか重い。打棄うっちゃって行きたいけれど、それではねるに当るから。


男が立つ 男としての名誉が保たれる。面目が保たれる。男の名誉が守られる。
事を分ける ことをわける。筋道を立てて詳しく説明する。条理を尽くす。
きれぎれ 細かくいくつにも切れて。切れそうになって、からくもつながっている
且つ 一方では。ちょっと。わずかに。そのうえ。それに加えて。
面痩せる おもやせる。顔がやせてほっそりした感じになる。顔がやつれる。
えいられねば 不明。「永」はエイ、ながい。「映ずる」は光や物の影が他のものの表面にうつる。「えいら…」はありません。
見納め みおさめ。見収め。これで見るのが最後だ。
替う かう。換う。代う。「える」の文語形。
斉しく ひとしく。等しく。そのことが起こったのと同時に。するや否や。
擲つ なげうつ。抛つ。捨てる。惜しげもなく差し出す。放棄してかえりみない。
髷形 女性が髷を結うとき、形を整えるために髷の中に入れる紙製のしん。髷入れ。
拗ねる すねる。すなおに人に従わないで、不平がましい態度をとる。

十千万堂日録|尾崎紅葉

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尾崎紅葉

尾崎紅葉

 尾崎紅葉氏は自分の日記を書き、特に明治34年1月から36年10月までを『十千万堂日録』として発表しています。

 この泉鏡花氏の事件は1903年(明治36年)4月に起こりました。鏡花氏が将来妻になる芸者すずを落籍し、同棲します。しかし、この件で紅葉氏は鏡花氏を叱責し、すずとの訣別を要求しました。紅葉氏から見たこの事件は『十千万堂日録』に書かれています。

明治36年4月14日
風葉を招き、デチケエシヨンの編輯に就いて問ふ所あり。相率て鏡花を訪ふ。(妓を家に入れしを知り、異見の為に趣く。彼秘して実を吐かず、怒り帰る。十時風葉又来る。右の件に付再人を遣し、鏡花兄弟を枕頭に招き折檻す。十二時頃放ち還す。
疲労甚しく怒罵の元気薄し。

 紅葉氏は訣別を要求したのでしょう。さて、泉氏はどうするのか、本文を読む限り、はいといったとは書いていません。

十千万 とちまん。非常に数や量の多いこと。巨万
明治36年 1903年
デチケエシヨン dictation、口述。門弟たちが紅葉氏を慰めるため企画した短篇集「換菓篇」のこと。
 親愛な、親密な、愛する。
異見 自分の思うところを述べて、人の過ちをいさめること。他の人とは違った考え。異議。異論。
趣く 従う。同意する。同意させる。
折檻 強くいさめること。厳しく諫言かんげんすること。
怒罵 どば。怒りののしること。

明治36年4月15日
風葉秋声来訪。鏡花の事件に付き、之より趣き直諌せん為也。夜に入り春葉風葉来訪、十一時迄談ず。

直諌 ちょっかん。遠慮することなく率直に目上の人を、いさめること。遠慮なく相手の非を指摘して忠告すること。

 読む限り、紅葉氏は部下の風葉氏や秋声氏からも再考してほしいといわれたようです。その後、夜の11時頃までかかって、あれこれを話し合ったようです。

明治36年4月16日
夜鏡花来る。相率て其家に到り、明日家を去るといへる桃太郎に会ひ、小使十円を遣す。

 二日後、桃太郎(すず、将来の鏡花の妻)は家から離れることになったようです。別れるとははっきり書いていません。

桃太郎 日本の芸者。桃太郎は芸者時代の名前。泉鏡花の妻、泉すず。旧姓は伊藤。生年は1881年(明治14年)9月28日、没年は1950年(昭和25年)1月20日。享年は満68歳。
十円 明治38年ごろ、小学校の先生の初任給は10~13円、大銀行の大卒の初任給は35円でした。つまり、当時の10円は今でいう10万円ぐらいでしょうか(http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J050.htm)。


湯島の境内①|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花氏の『婦系図』「湯島の境内」からです。「湯島の境内」は小説「婦系図」(1907年)では入っておらず、戯曲「婦系図」(1914年)で新しく加わりました。戯曲の山場のひとつです。この原本は岩波書店「鏡花全集 第26」(第一版は昭和17年)から。なお、早瀬主税ちからは書生で、主人公。お蔦は内縁の妻です。

早瀬 おれこれきりわかれるんだ。
お蔦 えゝ。
早瀬 思切おもひきつてわかれてくれ。
お蔦 早瀬はやせさん。
早瀬 …………
お蔦 串戯じょうだんぢや、――貴方あなたささうねえ。
早瀬 洒落しゃれ串戯じょうだんで、こ、こんなことが。おれゆめれとおもつてる。
 〽あとには二人ふたりさしあひも、なみだぬぐうて三千歳みちとせが、うらめしさうにかほて、
お蔦 真個ほんたうなのねえ。
早瀬 おれがあやまる、あたまげるよ。
お蔦 れるのわかれるのッて、そんなことは、芸者げいしやときふものよ。……わたしにやねとつてください。つたにはれろ、とおつしやいましな。
  ツンとしてそがひる。
早瀬 おつた、おつたおれけつして薄情はくじやうぢやない。
お蔦 えゝ、薄情はくじやうとはおもひません。
早瀬 ちかつておまへきはしない。
お蔦 えゝ、かれてたまるもんですか。


三千歳 みちとせ。歌舞伎舞踊で、片岡直次郎と遊女三千歳の雪夜の忍び逢いをうたう。
そがい 背向。後。後ろの方角。後方。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈⑥

文学と神楽坂

   紅葉十千万堂跡

 飯塚酒店藝術倶楽部の思い出を右にしてそのまま南へまっすぐに横寺町を歩くと、左に箪笥町への道がわかれ、その先は都電通りに出る。その道の右側に大信寺という罹災した古寺があり、その寺の裹が丁度ちょうど尾崎紅葉終焉の家となった十千万堂の跡である。十千万堂というのは紅葉の俳号で、戦災焼失後は紅葉の家主だった鳥居氏の住宅が建てられた。その表入口は横寺町の通りにあって、最近新らしく造られた鉄製の透し門の中に、新宿区で今年の三月に新らしく建て直したばかりの「尾崎紅葉旧居跡」と書いた、史跡でなく旧跡の木札標識がある。そこへ入った奥の左側の、鳥居と表札のある家の屋敷内が、ほぼ十千万堂の跡に当る。
 紅葉が祖父の荒木氏と共に横寺町四十七番地にそれぞれ隣りあわせて一軒ずつの貸家を借りて住みついたのは、明冶二十四年二月頃である。
 明冶二十二年の新著百種第一冊『二人比丘尼色懺悔』が作家としての出世作となった紅葉ではあったがすでにその頃は硯友社を率いる新進作家と云ってよかった。樺島喜久を妻に迎えたのは明治二十四年三月、横寺町に移って間もなくの二十五歳のときである。

都電通り 大久保通りです。
大信寺 新宿区横寺町にある浄土宗寺院です。図では赤い矢印。詳しくはここに

終焉の家 図では「尾崎紅葉旧居跡」です。
今年 昭和44年です
木札標識 現在は「新宿区指定史跡」になりました。詳しくはここで
新著百種 1889年に吉岡書籍店で刊行しました。
二人比丘尼色懺悔 ににんびくにいろざんげ。尾崎紅葉氏の出世作。ある草庵に出逢った2人の尼が過去の懺悔として語る悲しい話。

 泉鏡花が紅葉門人第一号として入門したのもその年十月で、鏡花は先ず尾崎家の書生として同居し、明治二十七年には父の死を迎えて金沢に帰郷し、貧苦の中に「義血侠血」などを書いた期間もあったが、大凡二十八年二月まで、約四年間を紅葉の許で薫陶を受けた。鏡花につづいて柳川春葉小栗風葉徳田秋聲などが硯友社の門を潜って紅葉に師事し、やがて鏡花、秋聲、風葉は次代の文壇に新風を捲き起すと共に、紅葉門の三羽烏とも呼ばれるようになった。そのうちの小栗風葉が中心となって、十千万堂裏の、少し低くなった箪笥町の一角に文学塾が開かれたのは明治三十年十二月からである。
 紅葉は入門者があると一時この文学塾に入れるのが常であった。その塾では秋聲も明治三十二年二月に筑土八幡下に移るまで梁山泊のような生活をしたことがある。
 明治三十年一月から三十五年五月に亙り読売新聞に継続連載し、三十六年一月から三月までは「新小説」にその続篇を書きつづけた『金色夜叉』を最後に、紅葉が胃癌のために歿したのは明治三十六年十月三十日で、まだ三十七歳の若さであった。だがその死は悟りに徹したともいえる大往生で、「死なば秋露のひぬ間ぞ面白き」という辞世の句をのこしている。

義血侠血 旅芸人の女性がある青年を金銭的に援助する。その女性がある男性を過失で殺し、検事になった青年が断罪する。最後は2人ともに自殺で終わる。「瀧の白糸」の原作。
大凡 おおよそ。細部にこだわらず概略を判断する。だいたい。大ざっぱに。およそ。
薫陶 人徳・品位などで人を感化し、よい方に導くこと。香をたいて薫りを染み込ませ、陶器を作り上げる意から。
文学塾 十千万堂塾、または詩星堂。詳しくは徳田秋声の「‎光を追うて」で
梁山泊 りょうざんぱく。中国山東省済寧市梁山県の沼。『水滸伝』ではここに住む人々を主人公とした小説。転じて、豪傑や野心家の集まる場所。
金色夜叉 『読売新聞』連載。未完。鴫沢しぎさわ宮はいいなずけである一高生のはざま貫一を捨てて富豪の富山と結婚する。貫一は復讐のために高利貸の手代となる。
ひぬ 干ぬ。乾く。

 わたくしが昭和二十六年にはじめて紅葉住居跡をたずねたときは、秋聾が昭和八年に書いた「和解」という小説に、K(鏡花)と共にその附近を久しぶりに歩いたことがほぼ事実通りに書かれているので、それを頼りに焼け跡の大信寺で横寺町四十七番地の紅葉住居跡を尋ねると、中年の婦人が紅葉の大家でもあったという寺の裏の鳥居という家を教えてくれた。
 鳥居家は焼け跡に建てられたばかりの、まだ新らしい家であったが、紅葉歿後の十千万堂のことを知る老婦人がいて、昔の玄関や母家の在り方まで詳しく語った。紅葉遺著の『十千万堂目録』の扉に描かれている玄関口の簡単なスケッチなどを記憶して訪れたわたくしに、玄関前の木はモチの木で、その木は戦災で焼けたが、根株だけはまだ掘らずに残しているからと、わざわざ上土を取り除けてその黒い根株を見せてくれたりもした。
 そして十千万堂の襖の下張りから出て来たという、よれよれに痛んだ鳥の子紙の一枚には、「初冬や髭もそりたてのをとこぶり 十千万」、もう一枚には「はしたものいはひすきたる雑煮かな 十千万堂紅葉」と、紅葉の癖のある書体でまだ下書きらしい句が一つずつ書かれていた。それをやっとのことで読むと、紅葉葬儀の写貞や「尾崎德太郎」と印刷した細長い洒落た名刺一枚なども奥から出して見せてくれた。……
 あれから十八年が過ぎていると思うと歳月のへだたりはすでにはるかだが、十千万堂跡が新宿区の旧跡に指定されて見学者が多くなっているほかは、鳥居家の容子もあまり変らず、老婦人もさすがに頭髪はうすくなり白いものもふえているが、依然として元気で、久しぶりに訪れたわたくしをよく覚えていて、快く迎えてくれた。

根株 ねかぶ。木の切り株。
上土 うわつち。表面の土。
下張り したばり。ふすま屏風びょうぶなどの下地。
初冬や髭もそりたてのをとこぶり 初冬や髭剃りたての男ぶり
はしたもの 端者。半者。召使いで、身分は中程度。それほど身分の低くない召使いの女。
いはひ 祝い。めでたい出来事を喜ぶこと。
へだたり 隔たること。その度合い。
容子 様子。外から見てわかる物事のありさま。状況。状態。身なり。態度。そぶり。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈②

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)②は、泉鏡花の話です。

   鏡花新婚の地

牛込横寺町の恩師尾崎紅葉の門を出た鏡花は、博文館大橋乙羽の家や、小石川大塚町、牛込南榎町などを転々としたあと、明治三十六年(一九〇三)三月にはかねて相愛の伊藤すずと結婚して神楽坂町一丁目の裏通りにひそかな新居を持ち、まもなくその年十月には紅葉を喪ったが、明治三十九年二月に健康を(そこな)って逗子に転地するまで、そこに住んでいた。
神楽坂は表通りから一歩横丁に入ると、今でも料亭や待合などが多い。昔から山の手の花柳街としで知られていた。鏡花夫人のすずはもと神楽坂で藝名を桃太郎という、まだあまり世馴れせぬ藝者であった。明治三十二年一月のこと、そこのとある料亭で紅葉を盟主とする硯友社の新年会が催されたとき、紅葉に従って席に連なった鏡花は藝名桃太郎のすずと親しむようになった。それには鏡花の亡母の名もまたすずで、その偶然が二人を強く結ぶ原因だったと、いかにも鏡花らしい説も伝えられている。だがまだ若く文学者としての前途も険しい鏡花が、神楽坂の藝者を身受けしてまで結婚することに反対した紅葉は、二人の仲を認めようとしなかった。恩師の眼をおそながらも、鏡花とすずの逢う瀬はひそかにつづけられ、ようやくすずが前借などを返して苦界から足を洗うことになったとき、二人はついに同棲した。それが神楽坂裏通りの家である。(この章は以下略)

博文館 1887年、大橋佐平が東京本郷で創業した出版社。高山樗牛を主幹とする「太陽」、巌谷小波編集の「少年世界」、硯友社と結んだ「文芸倶楽部」、田山花袋編集の「文章世界」などの雑誌を刊行。「帝国百科全書」全200巻(1898‐1909)は10年の歳月をかけている。大正から昭和初頭にかけて、新たな出版社も台頭し、出版王国もしだいに退潮していった。
大塚町 小石川区大塚町57番地で、右図です。寺木定芳氏の『人・泉鏡花』(昭和18年、武蔵書房)では「小石川大塚町に居を卜されたのは明治廿九年の五月だつた。有名な火藥庫のすぐ側で、未だ血氣盛んだつたのと、懷工合で致方なかつた爲なので、其の後の先生なら火藥庫ときいたゞけで、おぞ毛をふるつて逃げだしたらうが、其の時は平氣だつた」と書いてあります。

人文社「戦前昭和東京散歩」(2004年)から。大塚町57番地は赤丸。

人文社「戦前昭和東京散歩」(2004年)から。大塚町57番地は赤丸。

伊藤すず 明治32年1月、硯友社の新年宴会で、泉鏡花(満25歳)は神楽坂の芸妓桃太郎(本名伊藤すず、生年は明治14年9月24日。この年齢は17歳)を初めて知ります。
神楽坂町一丁目 新居は一丁目ではなく、二丁目でした。ここです。
喪う うしなう。大切な人に死なれる。
害う そこなう。がいす。成長をとめる。傷つける。
とある料亭 神楽坂の常盤という料亭です。
惧れ うまくいかないのではないかと,あやぶむこと。もとは「懼れ」の俗字。
逢う瀬 おうせ。会う時。特に、愛し合う男女がひそかに会う機会。
苦界 苦しみの多い世界。人間界。遊女のつらい境遇。公界

 以下の文章はここで省略。それでも注釈はつけてあります。

寺木定芳 歯科医。鏡花の門人。鏡花の親睦会九九九会の幹事。生年は明治16年2月16日。没年は昭和47年11月3日。享年は満89歳。
思い出 昭和十五年の思い出はわかりませんでした。昭和18年、寺木定芳氏の『人・泉鏡花』では「此の家は、新宅といふにふさはしい、ほんとの新築の二階家だつた。牛込見附から神樂坂へだら/\と五、六間登ると、すぐ左手に細い横町かある。其處を左へ折れて又五六間、表通の坂と平行に右手へ曲つて少し登ると、すぐ左手にあつた、小さいが、誠に瀟洒とした一構で、横手に堀井戸があつて其處からすぐ、臺所や勝手口になつてゐる」と書いてあります。右図は籠谷典子編著「東京10000歩ウォーキング 文学と歴史を巡る。No. 13 新宿区 神楽坂・弁天町コース」(明治書院、2006年)の図ですが、現在はこの建物もなくなり、すべてが東京理科大学に変わりました。

仮普請 かりぶしん。一時しのぎの簡単な建築。
掘井戸 地面を掘って作った井戸
物理学校 東京物理学校。1881年に東京府に設立。私立の物理学校(旧制専門学校)。略称は「物理学校」。現在の東京理科大学の前身。
因縁 前々からの関係。縁。 由来。来歴。いわれ。

龍膽と撫子|泉鏡花

文学と神楽坂

「龍膽と撫子」は大正11年から12年にかけて、泉鏡花氏が書いた未完の小説です。龍膽は「リンドウ」、撫子は「ナデシコ」と読み、どちらも花の名前です。この1部分は、最初は簡単に見えて、でも後半に行くと、なんだかよくわかりません。
 問題は(なべ)と書いた小料理屋です。その名前と場所は何なのでしょうか。

 神樂坂かぐらざかまちは、まつたひらけた、いまあのむねたかそろへた表通おもてどほりの家並やなみては、薄暗うすぐらのきに、はまぐりかたちを、江戸繪えどゑのはじめごろのやうなしよくいろどつて、(なべ)としたにかいた小料理これうりがあつたものだとはたれおもふまい。またあつてもひとにはかなからう。もつと横町よこちやう裏道うらみちことふのではない。現今げんこんカフエーにかはつたが以前いぜん毘沙門天びしやもんてんならびところに一けんあつた。時分じぶんは、土間どまはもとよりだが、二階にかいへもきやくとほした。入込いりこみおもて二階にかいと、べつ一間ひとまめうに一だんトンとひくくなつて、敷居しきゐまたいで六でふりる。すわると、うへへやたゝみよりは身體からだひくくなる部屋へやがあつた。島田しまだつた、あかぬけのしたねえさんが、唐棧たうざんがらものに繻子くろじゆすえり晝夜帶ちうやおび前垂まへだれがけで、きちんとして、さけやすくても、上手じやうずしやくをした。
 とほりすがりに、光景くわうけいおもふと、なんだか、まぼろしくも屋造やづくりに、そらごとうつしたもののやうながする。……たゞ七八ねん間隔てだたりぎないが、たちまちアスパラガスのみどりかげに、長方形ちやうはうけいしろいしたく順々じゆん/\に、かすみ水打みづうつたやうにならべたおもむきかはつたのである。
 就中なかんづくいちじるしいのは、……うしろが岩組いはぐみがけづくりつて、一面いちめん硝子戸がらすどしきつたおくところの、天井てんじやうが一だんたかい――(すなは以前いぜんだんひくかつた裏二階うらにかい小部屋こべやしたそれあたる)――其頃そのころだと、わん茶碗ちやわん板頭いたがしらに、お手輕でがる料理れうり値段ねだんづけを張出はりだしたかべわきの床柱とこばしらに、葱鮪ねぎまねぎ失禮しつれいしたかとおも水仙すゐせん竹筒たけづつかつたのを……こゝでは、硝子ビイドロなか西洋豌豆花スウィートピが、給仕きふじをんなの、種々さま/\なキスしたあとのくちびるのやうないろされて、さて、その給仕きふじは、しろのエプロンで明滅めいめつかつ往来わうらいする。
 こゝにおいて、蛤鍋はまなべ陽炎かげろふ眞中まんなかに、島田しまだ唐棧柄たうざんがらをんなおもふと、あたかもそれが安價あんかなる反魂香はんごんかう現象げんしやうて、一種いつしゆ錯覺さくかくかんぜざるをない。……それはまだい。もつと近代きんだいひとたちは、蛤鍋はまなべ風情ふぜいを、ねずみ嫁入よめいりすひものをるやうに、あかる天井てんじやうあふであらう。
[現代語訳]神楽坂の町は、全く開けた。表通りの家並みはどれも高くなった。薄暗いひさしにぶら下がった蛤の絵があり、錦絵の初めの頃に見た3色に彩って、下に(なべ)と書いた小料理店があったとは、誰も思わないだろう。また、我々の目に留まることもないだろう。もっとも横丁や裏道のことをいっているのではない。今はカフェーにかわっているが、以前は毘沙門天と並んで、そんな一軒があったのだ。そのころは、土間はもちろん、2階にも、客ははいっていた。通りに接した2階は人が多いが、ほかにひと間、敷居をまたいで、妙に一段だけ低くなって、大きさは六畳、座ると、上の部屋から見えるが、畳よりも体が低くなる、そんな部屋だった。島田髷を結い、洗練した女性が働いて、唐棧柄の着物、黒繻子の襟、表と裏に別の生地を使った帯、前がけをしていて、きちんとして、酒は安いが、上手にお酌をした。
 通りすがりに、この光景を思うと、なんだか、まぼろしの雲の中に家屋があり、絵空事を映したもののような気がする。……ただ七八年の間隔に過ぎないが、これがたちまち、アスパラガスの緑のかげがあり、長方形の白い石のテーブルが順々に、霞に水をまくように並べたという趣に変わったのである。
 なかでも、著しいのは、……この店舗は、後に岩石を配置し、床下を支え、硝子戸で仕切り、奥のところには天井が一段高くなり――(すなわち以前に一段低かった裏二階の小部屋の下にあたる)――そのころには、壁わきの床柱で、椀、茶碗を先頭に、お手軽料理の値段づけを張出して、葱鮪の葱を失礼するかと思う水仙が竹筒に生けてあった……ここでは、ガラスの中にスウィートピーがはいり、給仕女は、種々なキスしたあとの唇のような色を配置し、さて、その給仕は、白のエプロンをひらめかし、あちらこちらの場所で出現している。
 ここで、蛤鍋の陽炎は真ん中にあり、島田髷で唐棧柄の女性を思うと、あたかも死者の姿があらわる安価な香の現象にも似て、一種の錯覚を感ずるをえない。……しかし、これではまだいい。もつと近代的な人たちは、その蛤鍋の風情を見て、鼠の嫁入りの絵がはいった吸いものを見るように、明るい天井を仰ぐであろう。

 と、最後は何だかわかりません。

江戸繪 一枚刷りの極彩色の江戸役者絵。浮世絵の前身になった。2、3色刷りからしだいに多彩となり、錦絵として人気を博した。
三色 寛保末頃、紅色と緑色(藍色、黄色)の2~3色を印刷する方法が開発。紅摺べにずりといわれたそうです。これでしょう。
小料理 大正3~4年に、毘沙門天のならびに、小料理店があり、のちにカフェにかわったというのですが、これは、どこで、何なのでしょうか。神楽坂にカフェは多くはなく、毘沙門天のならびで、近くにあるのは「白十字」だけです。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では、この「白十字」ができる以前には「明治食堂」があったといいます。「肴町よもやま話③」では…

相川さん その大田の半襟屋の隣が荒物屋さんだったね。それで、その隣が米屋さんのあとへ「明治食堂」っていう食堂が来た。その食堂のある時分に明治製菓が借りて、そのあとへ「白十字」が来た。白十字は戦争の最中にあったんだよ。

 この「明治食堂」が(なべ)と書いた小料理店だったのでしょうか。なお、「明治食堂」は現在の「椿屋珈琲店」になりました。


現今 いま。現在
土間 建築内部は床を張らず、地面のままか、三和土たたき、石、煉瓦などにしたところ。
ならび 並ぶこと。並んでいるもの。列。
入込 差別なく入りまじること。人が入りまじって集まっていること。雑踏。
表2階 玄関に近いほう、目立つ方、前面・正面になる方の2階。
島田 島田まげのこと。日本髪の代表的な髪形。前髪とたぼを突き出させて、まげを前後に長く大きく結ったもの。
あかぬけのした 洗練されている
唐桟 紺地に浅葱あさぎ・赤などの縦の細縞を織り出した綿織物。

繻子 しゅす。繻子織りにした織物。縦糸と横糸とが交差する点が連続することなく、縦糸か横糸だけが表に現れるような織り方。

昼夜帯 表地と裏地が異なるものを合わせて仕立てた女帯。もとは黒繻子に白の裏を付け、昼夜に見立てたもの。
前垂がけ まえだれがけ。帯のあたりから体の前面に下げて、衣服の汚れを防ぐ布。
屋造 家の構え。家屋の構造。
絵そら事 絵空事。大げさで現実にはあり得ないこと。
 机。テーブル。
水打つ 街路や路地などにたつちりほこりをしずめるために水をまくこと
 風情のある様子。あじわい。
かはつた 「かわった」でしょう。
就中 その中でも。とりわけ。
岩組 いわぐみ。庭園の岩石の配置。立て石。石立て。岩が入り組んでいる所。
崖づくり 崖や池などの上に建物を長い柱と貫で固定し、床下を支える建築方法。
画る かくする。線を引く。物事をはっきり分ける。区分する。
裏二階 表面と反対の面の2階。
板頭 「板頭」は、江戸時代、岡場所で最も多額の揚げ代をかせぐ遊女。「板元」は「料理場」「料理人」。「最初の料理]の意味?
床柱 床の間の片方の、装飾的な柱。
葱鮪 ねぎとまぐろを煮た料理。鍋料理と汁物があるが、鍋をいうことが多い。
硝子 ポルトガル語のvidroから。ガラスのこと。
西洋豌豆花 香豌豆。スイートピー Sweet pea のこと。
插す 刺す。細長い物を他の物の間に入れる。
明滅 あかりがついたり消えたりすること
往来 行ったり来たりすること。行き来。
蛤鍋 蛤のむき身と焼豆腐・ねぎなどを味噌や塩で味をつけ、煮ながら食べる鍋料理。はまなべ。
陽炎 強い日射で地面が熱せられるか、焚き火などを通して遠くを見ると、その物体が細かくゆれたり形がゆがんで見える現象。揺らめき。
 夫のある女性。女性。婦人。
反魂香 反魂香。はんこんこう。はんごんこう。焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるという伝説上の香。
 裏。逆。内部。心の中。腹。
鼠の嫁入り ネズミの夫婦が秘蔵の娘に天下一の婿をとろうとして、次々に申し込むが、結局は同じ仲間のネズミを選ぶ。まず、太陽のところに行くと、太陽は雲に遮られると光が届かないので雲のほうが偉いという。そこで雲に相談すると、雲は風には吹き飛ばされてしまうので風のほうが偉いという。次に風に頼むと、いくら吹いても遮る壁にはかなわないという。そこで壁を訪ねると、壁をかじって穴をあけてしまうネズミがいちばん偉いといい、結局は同じ仲間のネズミから婿をとる。あれこれ迷っても平凡なところに落ち着く。
仰ぐ 上を向いて高い所を見る。見上げる。

うを徳開店披露|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花が大正九年三月に書いた「うを徳」の開店披露の祝辞です。「うを徳」は料亭で、現在も神楽坂3丁目にあります。ミシュラン1つ星を取ったときもありましたが、現在、ミシュランの星はありません。
 この祝辞の終わりに現代文をつけています。

うを徳

 魚德うをとく開店かいてん披露ひろう

 それあたり四季しき眺望ながめは、築土つくどゆき赤城あかぎはな若宮わかみやつき目白めじろかね神樂坂かぐらざかから見附みつけ晴嵐せいらん緣日えんにちあるきの裾模樣すそもやう左褄ひだりづま緋縮緬ひぢりめんけてはよるあめとなる。おほり水鳥みづとり揚場あげばふね八景はつけい一霞ひとかすみ三筋みすぢいと連彈つれびきにて、はるまくまつうち本舞臺ほんぶたい高臺たかだいに、しやちほこならぬ金看板きんかんばん老舗しにせさらあたらしく新築しんちく開店みせびらき御料理おんれうり魚德うをとくと、たこひゞききにぞ名告なのりたる。うをよし、さけよし、鹽梅あんばいよし、最一もひと威勢ゐせいことは、此屋ここ亭主ていしゆ俠勢きほひにして、人間にんげんきたる松魚かつをごとし。烏帽子ゑぼしことや、蓬萊ほうらい床飾とこかざりつるくちばしまなばしの、心得こゝろえはありながら、素袍すはうにあらぬ向顱巻むかうはちまき半纏はんてんまくに、庖丁はうちやううでたゝ。よしそれ見得みえわすれ、虚飾かざりてて、只管ひたすらきやく專一せんいつの、獻立こんだて心意氣こゝろいき割烹かつぽう御仕出おんしだしは正月しやうぐわつより、さて引續ひきつゞ建増たてましの、うめやなぎいろ座敷ざしき五分ごぶすかさぬ四疊半よでふはんひらくや彌生やよひ大廣間おほひろま、おん對向さしむかひも、御宴會ごえんくわいも、お取持とりもち萬端ばんたんきよらかに、お湯殿ゆどのしつらへました。これもみな贔屓ごひいき愈々いよ/\かげかうむたさ。お心置こゝろおきなく手輕てがるに、永當えいたう々々/\御入おんいらせを、ひとへねがたてまつる、と口上こうじやうひたかろう、なん魚德うをとくどうだ、とへば、亭主ていしゆ割膝わりひざひざつて、ちげえねえ、とほりだ、とほりだ、えねえと、威張ゐばるばかりで卷舌まきじたゆゑ、つゝしんだくちかれず、こゝおい馴染なじみがひに、略儀りやくぎにはさふらへど、一寸ちよいと代理だいり御挨拶ごあいさつ
(大正九年三月吉日)

 翻訳はなにか非常に難しい。言葉の洒脱と、中身よりもリズムがいい五七調や七五調などでできています。翻訳はやらないのが正解でしたが…。

[現代語訳]このあたりで、四季を眺めてみよう。筑土町には雪、赤城町では桜、若宮町は月、目白は鐘で、神楽坂から牛込見附にかけては霞だ。
 縁日、歩いていると、裾に模様をつけた芸者は、左の褄に緋色の縮緬をきている。夜になると、雨が降ってくる。お堀には水鳥、揚場には船だ。この八景にも霞がかかっている。三味線の連奏が聞こえてくる。
 春がくる前に、正月で松飾りがある間に、この老舗はさらに新築の店を開く。晴れの舞台の高台に上がって、看板は金文字、料理店の「魚徳」だと、凧の響きに似て、そう名乗ろう。
 魚の生きがよく、酒はいいし、味もうまい。もうひとつ、威勢がいいのは、ここの亭主だ。気っ風がよく、まるで活きたカツオのようだ。
 烏帽子もいいが、床の間を飾るのは蓬莱(台湾)製だ。鉄の工具も、まな箸も、その心得はできている。礼服の素袍ではなく向こう鉢巻をかぶり、半纏の腕まくり、包丁で腕をたたく。見栄を忘れ、飾りを棄て、ただひとつ、お客様のことだけを考えて、気構えは献立をつくること。正月からこの割烹店は仕出しする。
 更に「梅の香」「柳の色」の座敷は建て増しする予定だ。四畳半は小声だって通さない。そこを開けると「弥生」の大広間。差し向かいでも、宴会でも、もてなしはどこをとっても清らかに。お風呂もつくりました。皆様、ますますもってご贔屓を賜りますように、来店の時には気兼ねは不要、お手軽に、末永く、お願いします……
 と、挨拶はこう言いたいところだ。魚徳、どうだ、と聞くと、亭主は正座して見栄をはり「違いねえ、その通りだ、違いねえ、その通りだ」と、威張るだけ。巻き舌があるので、うやうやしい口はできない。よく知っている亭主だし、ここで、略式ではありますが、ちょいと代理のご挨拶。

魚徳 当時は魚屋です。現在は料亭「うを徳」です。
築土赤城若宮目白見附揚場 全て周辺地域の名前です。
 目白下新長谷寺(旧目白不動)の鐘は、江戸時代に時刻を知らせる「時の鐘」の1つでした。
晴嵐 晴れた日に山にかかるかすみ。晴れた日に吹く山風
裾模様 着物の上半分を地染めした無地のままに残し、裾回りにだけ模様を置いたもの。衣装全体に模様を施すより手間が省ける。
左褄 和服の左の褄。褄は長着のすその左右両端の部分。
緋縮緬 ひぢりめん。緋色にそめた縮緬。多く婦人の長襦袢じばん、腰巻などに使う。縮緬とは表面に細かいしぼのある絹織物。
八景 八つのすぐれた景色。中国の瀟湘しようしよう八景が起源。日本では近江八景や金沢八景など。
一霞 一面におおうかすみ。一すじのかすみ。いっそう。ひとしお。見渡すかぎり。
三筋 三味線。三本のすじ。
連弾 つれびき。琴・三味線などを二人以上で奏すること。連奏。添え弾き。
松の内 正月の松飾りのある間。元旦から7日か15日まで。
本舞台  歌舞伎の劇場で、花道・付け舞台などを除いた正面の舞台。地方の劇場の舞台に対して、中央の劇場の舞台。本式に事を行う晴れの場所。ひのき舞台。
高台 周囲の土地よりも高くて、頂上が平らになっている所。実際にお濠よりは高くなっています。
 城などの屋根の大棟おおむねの両端につける想像上の海獣をかたどった金属製・瓦製などの飾り物。
金看板 金文字を彫り込んだ看板。世間に対して誇らしく掲げるしるし。世間に堂々と示す主義・主張・商品など。
塩梅 あんばい。飲食物の調味に使う塩と梅酢。食物の味かげん。
俠勢 「俠」は「おとこぎ。俠気」。「勢」は「いきおい。力。」。「任侠」は弱い者を助け、強い者をくじき、命を惜しまない気風。
松魚 カツオ。鰹。堅魚。たたき、煮物、かつお節、缶詰などに使う。
烏帽子 日本における男子の被り物の一種
蓬莱 ホウライ。台湾の異称。
床飾 掛物をかけたり、花・置物などを置いて、床の間を飾ること。その掛物など。
鶴の嘴 つるはし。鶴嘴。堅い土を掘り起こすときなどに用いる鉄製の工具。
まなばし 真魚箸。魚を料理するときに用いる長い箸。
素袍 上下二部式の衣服。武士が常服として用いた。
向こう鉢巻 結び目が額の前にくるようにして締めた鉢巻き。
半纏 半天。和服の一種。労務用と防寒用。普通の羽織と異なる点は、襟返しがないこと、前結びの紐がないこと。
捲り手 まくりで。腕まくり。袖まくり。
敲く 手や手に持った固い物で、物や体に強い衝撃を与える。打つ。目的は、破壊、音を出す、攻撃、注意を喚起、確認、その他いろいろ。
見得 見た目。外見。みば。みかけ。体裁。人の目を気にして、うわべ・外見を実際よりよく見せようとする態度。
専一 せんいつ。せんいち。他の事を考えずに、ただ一つの事柄に心を注ぐこと。
献立 料理の種類、内容、供する順序。
心意気 物事に積極的に取り組もうとする気構え。意気込み。気概。
割烹 食物の調理。料理。日本料理店。
建増 たてまし。現在ある建物に新しく部屋などを建て加えること。増築。
五分 ごくわずかな量・程度
彌生 弥生。草木がますます生い茂ること。陰暦3月。
対向 向き合うこと
取持 人をもてなすこと。もてなし。
万端 ある物事についての、すべての事柄。諸般。
湯殿 入浴するための部屋。浴室。風呂場。
しつらえる ある目的のための設備をある場所に設ける。
贔屓 気に入った人に特に目をかけ世話をすること。気に入ったものを特にかわいがること。
おかげ 御陰。他人の助力。援助。庇護。
蒙る こうむる。他人から、行為や恩恵などを受ける。
心置きない 気兼ねや遠慮がない。
手軽 手数がかからず、簡単。
永当 えいとう。興行などで、見物人が大勢つめかけるさま。
 ひとえに。ただそのことだけをする。いちずに。ひたすら。
奉る その動作の対象を敬う謙譲表現をつくる。
口上 興行で、俳優または頭取が観客に対して、舞台から述べる挨拶をいう。
割膝 わりひざ。膝頭を離して正座すること。男子の正しい座り方とされた。
肘を張る ひじをはる。肘を突っ張っていかにも強そうなようすをする。威張る。気負う。意地を張る。肩肘かたひじ張る。
卷舌 巻き舌、巻舌。舌の先を巻くようにして、威勢よく話す口調。江戸っ子に特有。
謹んで つつしんで。かしこまって。うやうやしく。
略儀 正式の手続きを省略したやり方。略式。

神楽坂七不思議|泉鏡花

文学と神楽坂

 明治28年、泉鏡花氏の「神楽坂七不思議」です。地図と比べてみます。

神樂坂(かぐらざか)(なゝ)不思議(ふしぎ)

なか何事なにごと不思議ふしぎなり、「おい、ちよいと煙草屋たばこやむすめはアノ眼色めつき不思議ふしぎぢやあないか。」とふはべつツあるといふ意味いみにあらず、「春狐子しゆんこしうでごす、彼處あすこ會席くわいせき不思議ふしぎくはせやすぜ。」とふもやうひねのなり。ひとありて、もし「イヤ不思議ふしぎね、日本につぽん不思議ふしぎだよ、うも。」とかたらむか、「此奴こいつ失敬しつけいなことをいふ、陛下へいか稜威みいづ軍士ぐんし忠勇ちうゆうつなアおめえあたりまへだ、なに不思議ふしぎなことあねえ。」とムキになるのはおほきに野暮やぼ號外がうぐわいてぴしや/\とひたひたゝき、「不思議ふしぎ不思議ふしぎだ」といつたとてつたが不思議ふしぎであてにはならぬといふにはあらず、こゝの道理だうり噛分かみわけてさ、この七不思議なゝふしぎたまへや。

眼色 目つき。物を見るときの目のようす。また、普段の目の表情。
春狐子 「春狐」は人の名前で、誰かは不明。泉鏡花だとも。子は「名前の下に付けて親しみか、自分の名には、卑下する意味」。
会席 日本料理の形式の一つ。江戸時代以降に発達した酒宴の料理。現在では日本料理の主流に。
捻る いろいろと悩みながら考えをめぐらす。わざと変わった趣向や考案をする。苦心して俳句や歌などを作る。
勝つ 日清戦争で勝ったこと。両国が朝鮮の支配権を争ったのが原因に。
稜威 天子の威光。御厳(みいつ)

東西とうざい最初さいしよきゝたつしまするは、
しゝでらのもゝんぢい。」
これ弓場だいきうば爺樣ぢいさんなり。ひとへば顏相がんさうをくづし、一種いつしゆ特有とくいうこゑはつして、「えひゝゝ。」と愛想あいさうわらひをなす、其顏そのかほては泣出なきださぬ嬰兒こどもを――、「あいつあ不思議ふしぎだよ。」とお花主とくい可愛かはいがる。
次が、
勸工場くわんこうば逆戻ぎやくもどり。」
東京とうきやういたところにいづれも一二いちに勸工場くわんこうばあり、みな入口いりぐち出口でぐちことにす、ひと牛込うしごめ勸工場くわんこうば出口でぐち入口いりぐち同一ひとつなり、「だから不思議ふしぎさ。」といてればつまらぬこと。
それから、
藪蕎麥やぶそば青天井あをてんじやう。」
下谷したや團子坂だんござか出店でみせなり。なつ屋根やねうへはしらて、むしろきてきやくせうず。時々とき/″\夕立ゆふだち蕎麥そばさらはる、とおまけはねば不思議ふしぎにならず。

しし寺 獅子寺。通寺町(現在の神楽坂六丁目)にあった曹洞宗保善寺のこと。江戸幕府三代将軍である徳川家光が牛込の酒井家を訪問し、ここに立寄り、獅子に似た犬を下賜しました。以来「獅子寺」と呼んでいます。明治39年、保善寺は中野区上高田に移転しました。

東京実測図。明治18-20年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。獅子寺は赤い丸。

弓場 弓の稽古場。
顔相 占いで、顔の外面に現れた運勢・吉凶のきざしを見ること。
花主 こう書く熟語はありません。「得意」は「いつも商品を買ってもらったり取引したりする相手、顧客、お得意、親しい友」。「花」は花のように美しいもの。「主」は一家の長、主人。
勧工場 かんこうば。明治・大正時代、一つの建物の中に各種商店が連合して商品を陳列し正札販売した一種のマーケット。「牛込勧工場」は六丁目にあり、現在はスーパーの「よしや」
逆戻 再びもとの場所・状態に戻ること。
藪蕎麦 今は神田、浅草、上野が「藪そば」の御三家。神田藪の本家がここ団子坂にありました。神楽坂の場所は不明ですが、岡崎弘氏と河合慶子氏は『ここは牛込、神楽坂』第18号の「遊び場だった『寺内』」の図で明治40年前後の肴町のソバヤ(下図の中央)を書いています。ここでしょうか。

ソバヤ

青天井 青空。空。空を天井に見立てていう。
下谷 上野駅を中心とした地域で、1878年(明治11)、下谷区が成立。1947年(昭和22)、浅草区と合併して台東区に。
団子坂 文京区千駄木町二丁目と三丁目の境にある坂道。明治時代、坂の両側に菊人形が展示、東京名物の一つに。
攫う 掠う。さらう。油断につけこんで奪い去る。気づかれないように連れ去る。その場にあるものを残らず持ち去る。

奧行おくゆきなしの牛肉店ぎうにくてん。」
いろは)のことなり、れば大廈たいか嵬然くわいぜんとしてそびゆれども奧行おくゆきすこしもなく、座敷ざしきのこらず三角形さんかくけいをなす、けだ幾何學的きかがくてき不思議ふしぎならむ。
島金しまきん辻行燈つじあんどう。」
いへ小路せうぢ引込ひつこんで、とほりのかどに「蒲燒かばやき」といた行燈あんどうばかりあり。はややつがむやみと飛込とびこむと仕立屋したてやなりしぞ不思議ふしぎなる。
菓子屋くわしや鹽餡しほあんむすめ。」
餅菓子店もちぐわしやみせにツンとましてる婦人をんななり。生娘きむすめそでたれてか雉子きじこゑで、ケンもほろゝ無愛嬌者ぶあいけうもの其癖そのくせあまいから不思議ふしぎだとさ。
さてどんじりが、
繪草紙屋ゑざうしや四十しじふ島田しまだ。」
女主人をんなあるじにてなか/\の曲者くせものなり、「小僧こぞうや、紅葉さん御家へ參つて……」などと一面識いちめんしきもない大家たいかこえよがしにひやかしおどかすやつれないから不思議ふしぎなり。
明治二十八年三月

いろは 昔は牛肉店「いろは」でした。現在は神楽坂6丁目2の駐車場です。
 単に
大廈 たいか。大きな建物。りっぱな構えの建物。
嵬然 かいぜん。高くそびえるさま。つまり、外から見ると大きな建物なのに、内部は三角形で小さい。
辻行燈 江戸時代、辻番所の前に立ててあった灯籠形の行灯

辻行灯

仕立屋 「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」では「洋服・八木下」と書いてあります。この時は「島金」(現、志満金)は小栗横丁(鏡花横丁)にでていました。
菓子屋 菓子屋は1~3丁目だけでも9店がありました。不明です。
塩餡 塩で味をつけた餡
雉子の声 雄の雉は春になると「けんけん」と甲高く鳴いて雌を呼びます
曳く 物に手をかけて近くへ寄せる。無理について来させて、ある場所に移動させる。
けんもほろろ 「けん」「ほろろ」はともに雉の鳴き声。頼みや相談などを、冷淡に断ること。
絵草紙 挿絵を多く入れた大衆向けの読物。絵草紙屋は大久保通り西側にある神楽坂5丁目(京屋)や「ここは牛込、神楽坂」第17号の「お便り 投稿 交差点」では3丁目(図)にありました。また、絵葉書屋は3丁目北側最西部(開成堂)にありました。

島田 島田まげ。未婚の女性の髪形の1つ。
曲者 一筋縄ではいかない人。ひとくせある人。
ひやかす 相手が恥ずかしがったり当惑したりするような冗談を言う。からかう。
気が知れない 相手が何を考えているのかわからない。相手の考え・意図が理解できない。

故郷七十年|柳田国男

文学と神楽坂

 柳田国男氏に「故郷七十年」(神戸新聞、1958年)という本があります。民俗学が絡んだ自叙伝の本ですが、森鴎外尾崎紅葉などは普通に書き、しかし、泉鏡花については、かなり大胆な書き方をしています。以下は『定本柳田國男集 別巻3』に出ていた「泉鏡花」です。ちなみに柳田国男の生年は明治8年、泉鏡花は明治6年です。

 「故郷七十年」の1は、泉鏡花、2は自然主義小説について、3は30歳代に住んでいた加賀町、4は河童について、5は浅見淵氏が書く加賀町の家です。

  柳田国男は民俗学者で、市谷加賀町柳田家(よう)嗣子(しし)(民法旧規定で、家督相続人となる養子)として入籍し、結婚しています。

   泉鏡花

 星野家の天知夕影の兩君と、妹のおゆうさんとの住居は日本橋にあつた。中庭のある變つた家で、すぐそばに平田禿木も住んでいた。おゆうさんはどちらかというと、兄の友人などからちやほやされることに、意識的な誇りを覺えるというやうな型の婦人だったやうに思う。後に吉田賢竜君の所へ嫁いだ。
 吉田君は泉鏡花と同じ金澤の出身だつたので、二人はずゐぶんと懇意にしてゐた。よくねれた溫厚な人物で、鏡花の小説の中に頻々と現はれてくる人である。私が泉君と知り合ひになるきつかけは、この吉田君の大学寄宿舎の部屋での出來事からであつた。
 大學の一番運動場に近い、日當りのいゝ小さな四人室で、いつの年でも卒業に近い上級生が入ることになつてゐた部屋があつた。空地に近く、外からでも部屋に誰がゐるかがよく判るやうな部屋である。その時分私は白い縞の袴をはいてゐたが、これは當時の學生の伊達であつた。ある日こんな恰好で、この部屋の外を通りながら聲をかけると、多分畔柳芥舟君だつたと思ふが、「おい上らないか」と呼んだので、 窻に手をかけ一気に飛び越えて部屋に入つた。偶然その時泉君が室内に居合せて、私の器械體操が下手だといふことを知らないで、飛び込んでゆく姿をみて、非常に爽快に感じたらしい。そしていかにも器械體操の名人ででもあるかのやうに思い込んでしまつた。泉君の「湯島詣」という小説のはじめの方に、身輕さうに窓からとび上る 學生のことが書いてあるが、あれは私のことである。泉君がそれからこの方、「あんないゝ氣持になった時はなかつたね」などといってくれたので、こちらもつい嬉しくなつて、暇さえあれば小石川の家に訪ねて行つたりした。それ以来、學校を出てから後も、ずつと交際して来たのである。
 鏡花は小石川に住む以前、牛込横寺町尾崎紅葉の玄關番をしばらくしてゐた。しかし誰でも本を出すやうになると、お弟子でも師匠から獨立するのが一般のしきたりになっていたやうだ。ことに泉君は何となく他の諸君に対する競争心があって、人からあまりよく思われないやうな所があつた。
 酒を飮むにしてもまるで古風な飮み方をするし、あとの連中はまあ無茶な遊び方が多かった。そのいちばんの巨魁小栗風葉で、この連中は「あゝ、僞善者奴が」と泉の惡口をいうものだから、しまいには仲間割れがしてしまつた。
 同じ金澤出身の徳田秋聲君などともあまりよくなく、徳田君の方で無理してつき合っているような様子がうかがえた。徳田君は外國語の知識も若干あつたが、泉君の方は、それは昔風で、たゞ頭がいゝから、他人が譯した外國のものなども、こつそり讀んでいたやうである。いろ/\なことがあつたが、私にとっては生涯懇意にした友人の一人であつた。

とび上る学生 泉鏡花作の『湯島詣』から取った、部屋の外から中に一気に飛び込む場所です。

(にぎや)かだね、柳澤(やなぎさは)、」と(まど)(した)園生(そのふ)から(こゑ)()けたものがある。
        二
 一番(いちばん)(まど)(ちか)柳澤(やなぎさは)は、亂暴(らんばう)(むね)(そら)して振向(ふりむ)いたが、硝子(がらす)(ごし)(した)(のぞ)いて()て、
龍田(たつた)か。」
(たれ)()()るかい。」
根岸(ねぎし)新華族(しんくわぞく)だ、(はひ)れ。」と()つて()(なほ)る。
 同時(どうじ)に、ひよいと(まど)(ふち)()(かゝ)つた、飛附(とびつ)いて、(その)以前(いぜん)器械(きかい)體操(たいさう)()らしたか、()(かる)さ、(かた)()()げて(しつ)(なか)に、()()瀟洒(せうしや)なる(かほ)()したのは、龍田(たつた)()若吉(わかきち)といふのである。
 (あづさ)()(ゑみ)(ふく)み、
堪忍(かんにん)してやれ、神月(かうづき)はもう子爵(ししやく)ぢやあない。」といひながら腕組(うでぐみ)をして外壁(そとかべ)附着(くツつ)いたまゝで()る。柳澤(やなぎさは)椅子(いす)をずらして、
「まあ(はひ)れ、丁度(ちやうど)()い。(いま)其事(そのこと)()いて、神月(かうづき)問題(もんだい)といふのをはじめた(ところ)だ。一寸(ちよつと)(その)休憩時間(きうけいじかん)よ。神月(かうづき)(ひど)辯論(べんろん)(きう)して、き(さま)()るのを()つて()たんだぜ、龍田(たつた)()たらばツて()ういつてな。」

天知 星野天知。ほしのてんち。評論家。小説家。帝大農科大学卒。1887年平田禿木らと日本橋教会で受洗。明治女学校で教鞭を取り、1890年『女学生』を創刊、主筆に。26年、北村透谷らと「文学界」を創刊。のち書道研究に没頭。生年は文久2年1月10日、没年は昭和25年9月17日。享年は満88歳。
夕影 ほしのせきえい。建築家。帝大建築科卒。「文学界」同人となって雑誌経営の実務を担当。大卒後は内務省技師。日光東照宮の修復などに携わった。生年は明治2年11月8日、没年は大正13年3月19日。享年は満54歳。
頻々 ひんぴん。同じような事が次から次へと起こること。
伊達 人目にふれるような派手な行動をする。派手なふるまいなどで外見を飾る。
畔柳芥舟 くろやなぎかいしゅう。英語・英文学者。評論家。明治31年、一高教授。のち「大英和辞典」(冨山房)の編纂に専念。生年は明治4年5月17日。没年は大正12年2月20日。享年は満50歳。
湯島詣 芸者蝶吉が主人公。華族の令嬢を妻にした青年神月梓を配し、梓が狂人となった蝶吉とついに心中する話。
小石川の家 鏡花が住んでいた場所でしょう。小石川区大塚町57番地です。
巨魁 盗賊などの悪い仲間の首領。