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アルバム 東京文學散歩|野田宇太郎

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏が描く「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)です。

 神樂坂

 神楽坂は明治大正昭和にかけての東京に住む文学者のふるさとのやうなところである。この界隈が文学者に縁を持つやうになつたのは、横寺町尾崎紅葉が住み、矢来町広津柳浪が住み、そこに通ふ若い文人の数も多かつたのにはじまるとも云へるが、又赤城神社の境内の清風亭と云ふ貸席坪内逍遥の芝居台本朗読会や俗曲研究会が催されたり、その他の大小の文学関係の会合が行はれたりしてゐたこともその一つであらう。その清風亭がやがて長生館と云ふ下宿屋に変ってからは、片上伸や後には近松秋江なども住んだことがあつた。

貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷や家。

 大正時代になると矢来町に飯田町から移って来た新潮社が出来、新潮社を中心にこの附近には色々な文士が集つた。同時に島村抱月芸術座が旗上げして芸術倶楽部が出来たのが横寺町である。逍遥や片上伸や抱月などの早稲田大学の教授連の名が出たことでも判るやうに、大正初期になるとこの界隈は早稲田の学生で賑ひはじめた。そこから多くの現代文学の詩人や作家が出たことは今更喋々もあるまい。わけても神楽坂は毘沙門天を中心に花柳粉香の漂ふ町でもあり、ロマンチシズムに胸ふくらませた明治大正の清新な青年文士と、紅袂の美女とのコントラストは如何にも似つかはしいものとなった。
 泉鏡花がすず夫人との新婚生活を営んだのもこの神楽坂であつた。それは明治三十六年頃からのことであるが、その場所は今の牛込見附から神楽坂を登らうとする左側の小路の奥であつたらしい。だが、もはや街は全貌を変へてしまつたので偲ぶよすがとてない。

飯田町 右図で描いたのは昭和16年頃の飯田町です。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月氏と女優の松井須磨子氏を中心に、主に研究劇を行いました。
喋々 ちょうちょう。しきりにしゃべる様子。
 かなめ。ある物事の最も大切な部分。要点。
毘沙門天 仏教で天部の仏神。神楽坂では毘沙門天があり、正式には日蓮宗鎮護山善国寺。
花柳 かりゅう。紅の花と緑の柳。華やかで美しいもの。 遊女。芸者。
粉香 ふんこう。おしろいの匂い。女性の色香。
紅袂 「こうべい」「こうへい」「こうまい」でしょうか。国語辞典にはありません。赤いたもと。女性のたもと。
牛込見附 この場合は神楽坂通りと外堀通りを結ぶ4つ角。現在は「神楽坂下」に変更。
小路の奥 神楽坂二丁目22番地で、北原白秋が住んだ場所と同じでした。現在はが立っています。

東京理科大学(物理学校)裏。「アルバム 東京文學散歩」から

 北原白秋の詩に「物理学校裏」と云ふのがある。物理学校の講義の声と、附近のなまめいた街からきこえる三味や琴の音とを擬音風にとりあつかつて、牛込見附の土手下を走る今の中央線の前身の甲武線鉄道カダンスなどのことをも取り入れた、有名な詩である。白秋は神楽坂二丁目のニ十二番地に明治四十一年十月からしばらく住んでゐたのだが、それが丁度今の東京理科大学、以前の物理学校の裏に当る崖の上であつた。
「物理学校裏」と云ふ詩などは特別で、とりたてて神楽坂を文学の題材とした名作が多いと云ふわけではないが、この界隈は震災で焼け残つて以来、ぐんぐんと発展して、一時は山の手銀座とも称され、カフエーや書店をはじめ、学生や文士に縁の深い有名な店が沢山出来たものである。それに夜店が又たのしいものであつた。平和な昭和時代には真夜中かけてそこを歩きまはつた思ひ出が私などにもある。
 何と云つても神楽坂の生命はあの坂である。あの坂を登るとたのしい場所がある、と云ふやうな期待が、牛込見附の方からゆく私には、いつもあつた。
 戦後の荒廃がひどいだけに、神楽坂は又幻の町でもある。

神楽坂より牛込見附を望む

甲武線鉄道 正しくは甲武鉄道。明治時代の鉄道事業者。御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿から八王子に至りました。1870年(明治3年)に開業。1906年(明治39年)に国有化
カダンス 仏語から。詩の韻律、リズム。
震災 大正12年の関東大震災です。
山の手銀座 銀座は下町。神楽坂は山の手。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では「大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた」と書いています。詳しくは山の手銀座を参照。
カフエー 喫茶店というよりも風俗営業の店。 詳しくはカフェーを参照。
 
 

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啄木の死亡

文学と神楽坂

 明治45(1912)年4月13日、啄木は26歳で死亡しました。

 明治45(1912)年5月1日、北原白秋は『朱欒(サンボア)』(2巻5号)の「余録」で、

○石川啄木氏が死なれた。私はわけもなく只氏を痛惜する。ただ黙つて考へやう。赤い一杯の酒が、薄汚ない死の手につかまれて、ただ一息に飲み干されて丁つたのだ。氏もまた百年を刹那にちぢめた才人の一人であつた。

 ここでの『朱欒(サンボア)』は文芸雑誌の名前ですが、本来のサンボア(zamboa)はポルトガル語からきたもので、インドネシア由来の常緑小高木を示します。しかし、サンボアよりも同じ意味のザボンや文旦(ぶんたん)のほうがはるかに普通でしょう。

『朱欒』は明治44年11月から大正2(1913)年5月まで19冊を発行しています。編集は北原白秋。後期浪漫派の活躍の場となりました。

 また、大正15年1月、『フレップ・トリップ』(アルス刊、昭和3年。白秋全集19巻「詩文評論5」、昭和60年、岩波書店)で北原白秋は書き

二十一二の頃、さうだ、私が石川啄木に逢つてまだほんの二三度目の時だったと思ふ。
 「盛岡の在です。」と彼は答へた。
 「さうですか、奥州や北海道は、僕の国では鬼でもゐさうなところだと思つてゐますよ。五六百里も北だからね。」それはほんの何の気もなく、寧ろ親和の心で私は微笑して云つたのが、それが彼の性来の癇癪にきつく障つたらしい。私には答へないで、すぐに、隣りにゐる人に向つて、
 「 I 君、君も鬼のゐる国の人だね。」
と両肩をスツと怒らして云つた。それで私は吃驚して、
 「君、君、僕の国だつて熊襲だからね。」
と大真面目であつた。
 「ぢやあ、鬼の一種だね。」
 「うむ、さうだよ、君の方から見れば鬼の一種だらう、やつぱり。」
 あの頃も何かと云へば反抗心の強い、負けずぎらひの少年だつたな、啄木は。尤も細君は持つてゐたが。

 なんとなく、2人の人となりや人柄の違いがわかるような気がします。胸を張っている啄木と、おどおどする白秋。

 石川啄木は明治19年2月20日で東北の岩手県で生まれ、北原白秋は明治18年1月25日で九州の福岡県で生まれています。年齢は一歳しか違っていません。ちなみに、北原白秋は昭和17年の57歳のときに、糖尿病のため死亡しています。

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文豪の素顔|森鴎外(1)

文学と神楽坂

 長田幹彦氏は1953年の66歳の際に書かれた『文豪の素顔』です。氏は1887年3月1日に生まれ、没年は1964年5月6日なので、これは21歳に起きたことです。この日、森鴎外氏、上田敏氏、夏目漱石氏が一か所に集まったのです。これはその時の話です。

  森鴎外

 今夜の青楊会の会合は午後六時の開宴である。今は丁度三時だ。まだ彼これ三時間間があるわけである。はその間に何んとかして兄秀雄と二人分の会費を算段してこなくてはならないのである。二人で十円あれば、悠々と会へ出られるのだが、打つてもみしやいでも僕のガマロには五十銭玉がたつたひとつしか残つてゐない。まことにお寒い昨今である。兄秀雄は昨夜七時すぎに吉井勇と落合つて家を飛び出してしまつたきり、例によって膿んだでもなけりやつぶれたでもない。きつと又あのまま神楽坂の小待合へでも溺没してしまつたのであらう。きつと会がはじまる頃に、白粉くさくなつて、ひよろりと現はれるに相違ない。
 何よりも困つたのは、僕が虎の子のやうに愛蔵してゐた、あの「ゾラ全集」と「ゴンクール全集」をまんまと持ち出されてしまつたことである。兄貴のこの頃の御乱行は実さい眼にあまるものがあつた。悪友勇と一しよになると、手あたり次第に何んでもかでも持ち出してしまふ。一昨日なぞは親父の外套をきていつてしまつたので、親父は患家へ回診に出かけることも何も出来ず診察室でぷんぷん代診たちに当りちらしてゐた。真正直な温良な、実にいい親父であるだけに、僕はすつかり義憤を発して、もし深夜に兄貴が酔つぱらつて帰つてきたら今夜こそとたんにひつぱたいてやらうと思つて手ぐすねひいて待つてゐた。僕はボートできたへた腕なので、腕力では誰れにもまけない自信があつた。

森鴎外森鴎外 明治・大正期の小説家、評論家。軍医総監。医学博士・文学博士。本名は(もり)林太郎(りんたろう)。生年は1862年2月17日(文久2年1月19日)。没年は1922年(大正11年)7月9日。明治41年に行った上野精養軒の会合は46歳になっていました。
青楊会 せいようかい。森鴎外氏が作った送別会などの、文学者の宴会です。「鷗外日記」によれば明治41年(1908年)「四月十八日(土) 夜上野の青楊會に往く。夏目金之助等来会す」と書いています。また、これは3回目の青楊会でした。4月25日の上田敏宛の手紙では「君を送りまつりし會より生れし青楊會の三度目に又々夏目君などと出逢い候」と書いています。
 長田幹雄。ながたひでお。小説家。東京の生まれ。生年1887年3月1日、没年は1964年5月6日。秀雄の弟。「明星」「スバル」に参加。小説「(みお)」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名。この日は21歳でした。
秀雄 長田秀雄。ながたひでお。詩人・劇作家。生年は1885年(明治18年)5月13日。没年は1949年(昭和24年)5月5日。東京の生まれ。明治大学で学ぶ。幹彦の兄。「明星」「スバル」に参加。新劇運動に加わり、史劇で新分野を開きました。この時は23歳。
みしやい 「みしゃぐ」でしょうか。押しつぶす。ひしゃぐ
吉井勇 吉井勇よしいいさむ。歌人・劇作家。生年は1886年(明治19年)10月8日。没年は1960年(昭和35年)11月19日。東京の生まれ。早稲田大学中退。耽美派の拠点となる「パンの会」を結成。歌集は「酒ほがひ」「祇園歌集」「人間経」、戯曲は「午後三時」「俳諧亭句楽の死」など。22歳。
膿んだ ()む。化膿(かのう)すること
溺没 できぼつ。おぼれて沈むか、死ぬこと
虎の子 虎は自分の子をかわいがって育てる。それと同じで、大切に持ち続けて手放さない。
ゾラ Émile Zola。フランスの小説家。生年は1840.4.2。没年は1902.9.29。「実験小説論」を著し、自然主義文学の方法を唱道。
ゴンクール Edmond & Jules Huot de Goncourt。フランスの兄弟の小説家。自然主義の小説を合作。また、日本の浮世絵の研究・紹介にも努めました。
代診 担当の医師に代わって診察すること

 秀雄はたうとうその晩も帰つて来ず、昨日の正午頃、親父の外套は質にぶちこんだらしくふらりと帰つてきて、そのまま飯もくはずに二階へあがつて夜着をひつかぶつて寝てしまつた。実さい呆れ返つて、口がきけない。
 夕方になると、勇が叉現はれて、僕がちよつと出た留守に、二人でくだんの全集をひつかつぎ出したものに相違ない。四ケ月も五ケ月も学資の残余をこつこつためて、やつと買つた全集であるだけに、まんまとシテやられた口惜しさ! さすがの僕も腹をすゑかねた。弟のものはおれもの、おれのものはおれのもの式な、兄貴のわがままな横暴さが骨髄に徹して僕はどうしてくれようかと、全く切歯扼腕したのであつた。一たい兄貴のやうなぐうたらな土性骨のない人間はその時分でも珍らしかった。親父ももう此頃では、持余して、毎日心の中では血の涙をのんでゐるらしかった。
 さうかといって、今夜の会費だけは何んとかしてこしらへておいてやらないと、僕までが皆の前で恥ぢをかかなくちやならない。今夜は珍らしく森鴎外、上田敏夏目漱石の三先生がみえるといふので、われわれ文学青年にとつては、又とないかき入れの会合であつた。
 僕は万策つきて、たつた一枚しかないオーバーで金をこしらへるより外に手段はなかつた。幸ひ行きつけの質屋が、本郷にあるので、電車でそこへいつて、店先でオーバーをぬいで、やつと五円紙幣を二枚うけとつた。もう四月も十日過ぎ、桜の花もぽつぽつ咲きそろふ頃なので、薄地の背広一枚でもさうたいして寒くなかった。

切歯扼腕 せっしやくわん。歯ぎしりをし腕を強く握り締めること。残念や怒ったりすること
土性骨 どしょうぼね。性質・性根を強めて、ののしっていう語
上田敏 うえだ びん、文学者、評論家、翻訳家。生年は1874年(明治7年)10月30日。多くの外国語に通じて名訳を残しました。明治38年、訳詩集「海潮音」を刊行。明治41年、欧州へ留学し、帰国後、京都帝大教授に。没年は1916年(大正5年)7月9日。死亡は41歳でした。この日は34歳でした。
夏目漱石夏目漱石 なつめ そうせき。小説家、評論家、英文学者。生年は1867年2月9日(慶応3年1月5日)。没年は1916年(大正5年)12月9日。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を教え「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になりました。41歳。

 僕はその足で白山の御殿町にゐる木下杢太郎が一番鵬外先生に親 近してもゐたし、信用も一番あつたので、木下杢太郎のところへ廻つた。といふのは杢太郎が先生のお宅へ誘ひにあがつて、ごいつよに会場である上野の精養軒へお連れするのではないかと思つたからであった。もしかさうだつたらかねがねから近づきがたい先生にたつたひと言でも話しかけてみたいと、柄にもない念願をおこしたからであった。
 その時分の一しよのグループであった北原白秋、木下杢太郎、吉井勇の面々の間で、僕は年も二つや三つ下だし、それよりも第一秀 雄の舎弟とあっては一向に頭角を現はすわけにいかない。皆さうさうたる売り出しの詩人達であるから僕のやうな才の薄い散文家は、いつも卑屈な立場に立たされた。上眼づかひをしながら心にもないおベンチャラをいつてゐるしか手がない。だから秘蔵の書籍なんか遊蕩費がはりに持ち出されても実さいは、先輩や兄貴を張り倒すわけにもいかない退け目があつたわけである。お前はまだ処女膜が破けてゐねえんだなぞと人前でボロクソにいはれて、三下奴でへこへこしながらくッついて歩いてゐる情なさといったら全くなかった。一度なぞは勇が幹さん、その時計をかせッと叫んで僕の袴の紐へ手をかけて、何んともいへぬ貧ランな殺気をみせた。つまり僕の時計で金をこさへてもうひと晩吉原へいかうといふのである。僕はこれが文学のうへの先輩でなければ、むろん地面へ叩きつけてやつたに相違ない。僕だつて反面は狭量な一徹者であつたから、酔つてフラフラしてゐる勇ぐらゐひッぱたくのはへいちやらであつた。
 しかし彼の「酒ほがひ」にある一連の名歌を思ふと、碌すつぽなものもかけない自らを省みて何としても彼の頭へ鉄拳を加へるなんていふ勇気は、いつの間にかへなへなと消し飛んでしまふのである。しかし心の中ではいつも今にみやがれッと絶叫して虎視たんたんとしてゐたのは事実である。全くあの時分の吉井勇は名詮自称、無頼漢であり、智能人にすぐれてゐるくせに、手のつけられぬ洛陽の酒徒であった。秀雄、勇の徒は自分で質屋で金をこさへてくると、こっそり一人遊びをやるし、他人が金をもつてゐると弟だらうが先輩だらうが卜コトンまでタカつて素裸にしてしまふ。古風な蕩児らしいエゴイズムと残忍さをつぶさに身につけてゐた。

御殿町木下杢太郎御殿町 白山御殿町。町の大部分は白山御殿の跡です。左手に東京大学付属の小石川植物園があります。
木下杢太郎 きのした もくたろう。詩人、劇作家。後に東京大学医学部皮膚科教授。生年は1885年(明治18年)8月1日。没年は1945年(昭和20年)10月15日。本名は太田正雄。23歳。
精養軒 明治期の上野精養軒せいようけん。東京都台東区上野恩賜公園内にある最も古い西洋料理の店。図は明治期の上野精養軒
北原白秋 北原白秋きたはら はくしゅう。詩人、童謡作家、歌人。生年は1885年(明治18年)1月25日。没年は1942年(昭和17年)11月2日。23歳。
三下奴 さんしたやっこ。博打(ばくち)打ちの仲間で下っ端の者。
貧ラン どんらん。貪婪。とんらん。ひどく欲が深いこと
一徹者 いってつもの。思いこんだことはあくまで押し通す人
酒ほがひ さかほがひ。吉井勇の歌集。 1910年刊。718首を収録した第1歌集。青春の挫折感から酒と愛欲に耽溺した境地をうたったものが多く祇園を舞台とした歌が特に有名。「ほかう」は望む結果が得られるようなことばを唱えて神に祈ること。後世には濁って「ほがう」の形になりました。
虎視たんたん 虎視眈眈。こしたんたん。虎が鋭い目つきで獲物をねらっている様子。転じて、じっと機会をねらっているさま
名詮 みょうせん。仏語。名がそのものの性質を表していること
洛陽 後漢は、前漢(西漢)の都である長安から東の洛陽に遷都したため、洛陽を「東京」と呼びました。洛陽に京都という意味もありますが、吉井勇氏は東京生まれなので、この場合は洛陽は東京でしょう。
蕩児 とうじ。正業を忘れて、酒色にふける者

文学と神楽坂

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文豪の素顔|森鴎外(8)

文学と神楽坂

 その晩、杢さんは久しぶりだからといつて永代橋畔の都川と
いふ鳥屋へ連れていつて、ふんだんに飲ましてくれた。盃の間
にも鷗外先生がああいつてくれたのだから、北原や吉井とは、
別な方面から先生の支持をつけるやうにしたらどうだと親切に
アドバイスしてくれる。君はいつも自分でミソッカスだといつ
て、好んで卑屈な態度に出るからいかんのだ、詩なんかつくれ
なくたつて、何も文学の道は外にいくらだつてある。
 僕は心の中で涙をおさへて、
「ねえ、杢さん、さつきも鴎外先生がいつとられたが、兄貴の
『司祭と猫』つていふものは、ほんとにそんなにいい詩なんで
すか。どうか本当のことをいつて下さい。」僕はせめてそれで
自分に自信をつけたかつた。
 杢さんはカツカツと舌を嗚らして、
「いい詩だつたよ。多分に性的な皮肉が歌はれていて、けんら
んなものだつた。白秋もおれは震駭したといつてたな。しかし
秀さんらしからぬ、光沢のありすぎる詩だつたよ。」
「兄貴はなんていつてゐるんですか。ほめると、何か反撥しま
すか。」
「うむ、おれはデーメルを捨てゝもう一度ヴェルレーヌからや
り直すといつてるんだ。『司祭と猫』みたいなものを今後、い
くつもかくと興奮してゐたな。」
都川 都川京橋区(現在の中央区)の隅田川の川縁、永代橋に近くにあった料理屋。この図は東京紅團(東京紅団)の『パンの会を歩く』 http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm からとりました。
ミソッカス みそっかす。味噌っ滓。子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。
震駭 しんがい。驚いて、ふるえあがること
デーメル リヒャルト・フェードル・レオポルト・デーメル。Richard Fedor Leopold Dehmel。ドイツの詩人。1863年11月18日 – 1920年2月8日)
ヴェルレーヌ ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)(1844年3月30日 – 1896年1月8日)は、フランスの詩人。日本語訳では上田敏による「秋の日のヰ゛オロンのためいきの……」が有名
 すると、あのノートの中にはまだ『民族の果樹園』や『黒と
金の饗宴』『夜の円舞曲』なんていふのが、七つも八つも残つ
てゐるから、それが兄貴の署名で一つ一つ些細な原稿料に化け
るかもしれない。それとも、もう僕が北海道から帰つてきたか
ら、これでやめるかな。
 さう僕は秀雄と杢さんの友情を思ふと、それから先のことは
何んにもいへなかつた。まつたくいふに忍びなかつたのである。
それほどに杢さんは清潔な芸術家であつたし、立派な人格であ
つた。
 すぐ下の隅田川では、曳船の小蒸汽船がしつきりなしに含み
声なスクリューの音を水にこもらせてどんどん溯上してゐる。
月がゆらゆらほの白く砕けてゐるところをみると、丁度今上げ
潮らしい。川口の方では模糊とした月光の果てに、大島通いの
東京丸がぼつッぼつッと汽笛を吹嗚してゐる。もうぢき出航す
るのであらう。
 その汽笛の音を聞いてゐると、僕の眼には宝蘭港の月夜や、
吹雪の小樽港が今みるやうにまざまざと浮んでくる。空きッ腹
に、幾度かうした、うら寂しい汽笛の音を聞き送つたことか。
考へれば佗びしい二ヶ年にあまる旅路ではあつた。僕は涙がボ
ロボロ溢れて、とめどがなかつた。
『民族…』の3編 残念ながらこの名前を使って小説になっているものはありません。
曳船 ひきふね。水路に浮かべた船を水路沿いの陸路から牽引すること。 曳舟(ひきふね)は東京都墨田区東向島の地名
溯上 流れをさかのぼっていくこと
川口 川口市(かわぐちし。埼玉県南東部の荒川北岸にある人口約57万人の市
宝蘭港 宝蘭港はありません。室蘭港ではないのでしょうか。むろらんこう。北海道室蘭市にある港湾です
小樽港 北海道小樽市にある港湾

小樽

 その晩、僕は本田といふ品川の友だちのところへ帰るにして
は、とても酔ひすぎてゐたので、杢さんと一しよに、さつき契
約をきめたばかりのあの根津の下宿屋へいつて、むりやりに泊
めてもらつた。夜具がないので、おかみさんに頼んで、近辺の
貸布団屋からやつとひと組コスメチック臭い木綿夜具を借りて
もらつた。もう午前の一時すぎであつた。おかみさんはいやな
顔もせず、親切に世話を焼いてくれた。
 あとから聞いて、さすがの僕もひと縮みになつてしまつたか、
それは村松梢凰氏の伯母さんだつたのださうである。
 それを聞いたのは、彼れこれ二十年もたつてからであるが、
いろいろ御迷惑をかけた昔日のことを思ふと、何ともかとも慚
愧にたへない思ひである。
 翌朝、味噌汁の煮える匂ひで眼を覚ましてみると、案外落着
いたいい部屋である。手拭から歯みがきまで一々買つてもらつ
て、近所の銭湯へいつて、湯だけは浴びてきたが、何分にも綻
びの切れた、銘仙の袷が、垢でピカピカひかつてゐて、どうに
も見すぼらしくつて、気がひけてならない。早速親父の家へい
つて、ひと先づ机や行李や本の類を人力車にのせて運んできた。
親父は、古い瀬戸ものの火鉢をひとつくれて、今度はしつかり
やれと愛情をこめて激励してくれた。親父は兄貴よりも、僕に
むろん全幅の信頼をかけてゐたのである。
コスメチック 化粧品・頭髪用化粧品の総称
村松梢凰 むらまつ しょうふう。小説家。1889年(明治22年)9月21日 – 1961年(昭和36年)2月13日。
慚愧 ざんき。自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること
銘仙 めいせん。玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物
 すつかり家具のおきどころをきめてから、その下宿ではじめ
ての夕飯をくつた。塗膳には牛肉のすき焼きなんかがついてゐ
て、その時分にしてはとても扱ひのいい賄いであつた。一本つ
けてもらつて時間をかけてゆつくり飲んだ。こんな穴ぼこみた
やうなところであるから、杢さんさへ黙つてゐてくれれば、誰
れにもかぎつけられることはあるまい。秀雄や吉井勇なぞから
全く隔絶して、僕は僕自身の道を歩こうと、深くふかく決心を
きめた。
 北窓をあけると、すぐ真上は鴎外先生のお書斎の窓である。
 先生は午前の二時までも三時までも仕事をなさるらしく、い
つみても黄色い灯が窓のカーテンにほのめいてゐる。それが消
えるまで、僕は決して寝なかつた。僕はそこで出世作といはれ
る『零落』を、中央公論にかかしてもらつてやつと大正文壇に
華々しくデビューしたのである。
 こないだ僕のところの近辺の娘さんが小堀杏奴女史のところ
へ伺つたら、僕がそこの下宿の窓から汚いドテラを着て、よく
顏を出してゐたのを、子供心に覚えてゐるといはれたさうであ
る。申す迄もなく、杏奴女史は鴎外先生の令嬢である。
 その時分おいくつ位だつたかしらないか、あのお宅におかつ
ぱ頭の可愛らしいお嬢さんがゐられたとは想像も出来ない。そ
れほどに先生の千朶山房は粛殺とした、冷厳な印象を僕に与へ
てゐる。それが先生の持つてをられた雰囲気そのものであつた。
零落 れいらく。落ちぶれること。大正元年、長田幹彦氏は旅役者の生活を描いた『澪』『零落』で作家としてデビューしました。
小堀杏奴 こぼり あんぬ。森鴎外と志げの次女。随筆家。生年は1909年(明治42年)5月27日。没年は1998年(平成10年)4月2日。
粛殺 しゅくさつ。厳しい秋気が草木を枯らすこと

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(2)

文学と神楽坂

 その間にあつて、杢太郎ばかりは、いはゆる朱に染まない、純真
な学徒であり、芸術家であつた。僕のやうな三下奴が心ひそかに敬
慕もし、頼りにするのは当然の話であつた。
 杢太郎の家へいくと、彼はもうきちんと大学の制服にきかへてゐ
て、にやにやしながら「今君の親父の家へ電話かけたら、秀さんは
昨夜つから帰らんといふぢやないか。吉井と一しよなら、どうせ悪
所だな。あのディオ二ソスにも困つたもんだよ。はゝゝゝ。」と真
四角な口をあけて、歯並のそろつた歯を出して大きく笑ふ。意志的
な、英知の表情である。
 僕がソラやゴンクールが消えた話をすると「そいつは愉快だなア、
彼らにはソラやゴンクールは、およそ猫に小判だからね。仕様がな
いな。幹さん、そば杖で大損害だつたね。しかし秀さんも勇も、何
んにも読まずに、徒らにヴィナスバッカスばかり追つかけてるの
はつまらんな、今にアルチザン以上のものにはなれんぞ。」と、い
つになく、生真面目な顔になる。一たい杢さんの顔の皮膚は血行が
不安定で、笑ふとみずみずしい赤色を呈してくるが、渋面つくると、
毛細管が皺にそうて収縮するかして、黄色い太い線を残すのが特徴
であつた。
 僕は今更ら秀雄や勇の愚痴をいふのも馬鹿くさいので、鷗外先生
の方へ話をもつていくと、杢さんは例のくせの鼻をクンクン鳴らし
て、
悪所 悪いところ。花街でしょう。
ディオ二ソス Dionysos。ギリシャ神話で、酒の神。バッカス。
猫に小判 貴重なものを与えても、本人にはその値うちがわからないことのたとえ
そば杖 喧嘩のそば(づえ)。他人の喧嘩のとばっちりをうけること。
ヴィナス ビーナス。Venus。ローマ神話の愛と美の女神。
バッカス Bacchus。ローマ神話のワインの神。ディオ二ソスの異名バッコスがラテン語化してバックス、英語化してバッカス。
アルチザン artisan。技術的には熟練し精妙な腕を発揮しながらも,芸術的感動に乏しい作品を作る人々を批判的にいう言葉。
「いや、千駄木町のメートルはね、陸軍省から、真直に精養軒へい
くといつてたよ。だから、もし幹さんがいくんなら、精養軒へずつ
と一しよにいかうか。」と、すつかり当てがはずれたことになつて
しまふ。
 僕は杢さんと一しよに歩くだけでもむろん楽しいので、二人肩を
並べて、戸外へ出た。杢さんはとてもよく歩く人で、白山の停車場
へきても、電車に乗らうとはいはない。追分の方へどんどん歩いて
いく。どうやら向岡へ出て、上野までぽくぽく歩いていくつもりら
しい。
 僕も何んにもいはずに、歩いていつた。
 杢さんはしきりに鼻をクンクンやる。さういふ時には、至極御機
嫌なのである。
「ねえ、幹さん、君一昨日蒲原さんのところをベズーフしたさうだ
ね、君はよくいくんだね。」
「え、僕、とつても、有明先生が好きになつちやつたんですよ。あ
のビンズル尊者はお顔をみてるだけでも、深遠で、神聖で、頭がさ
がりますね。」
「僕らはもつと、有明を勉強しなくちやいかんな。上田敏や白秋の
けんらんもいいが、技巧ばかりで内容は稀薄だね。」
「さういふ感じがしますね。」
メートル フランス語maîtreから。先生。親方。長。この場合は森鴎外です。
白山、追分
向岡
白山は現在の「白山上」、追分町は「本郷追分」、向岡は当時の「向ケ丘弥生町」で、これは現在の「弥生町」の方が現在の「向丘」よりもいいと思います。ここを通って精養軒に行くわけです。
精養軒

最新大東京案内図 昭和17年(1942年)から

蒲原 Kambara_Ariake蒲原(かんばら)有明(ありあけ)。詩人。東京生れ。生年は1875年(明治8年)3月15日。没年は1952年(昭和27年)2月3日。複雑な語彙やリズムを駆使した象徴派詩人で、薄田泣菫と併称し、北原白秋、三木露風たちに影響を与えました。
ベズーフ ドイツ語でBesuch(ベズーフ)は「訪問」「訪問する」
有明 上を参照
ビンズル 賓頭盧(ビンズル)。釈迦の弟子。十六羅漢の第一
「何か面白い話あつたの。」
「例によつて、アーサー・シモンズでもちきりで、とても僕、興奮
しちやつた。一たい先輩つてものは、やけにわれわれに布教したが
るもんですけど、有明先生ばかりは御自分の傾向にあふやうなこと
ばかりひとりでしづかにアーサイドしてゐて、ちつとも教化しませ
んね。いやならそッぽむいてろつて調子で、妙に相手を突き放して
ゐる態度が僕、立派だと思ふんです。青年にちつとも媚びませんか
らね。」
「君は散文的なみかたをするから、リアルをみるんだね。」
「今度の『河岸蔵』の詩なんか、まるで印象派の画だな。魂に黒点
を印しますよ。僕はね正直のところ、北原君や吉井君のあの朗々
すべき声調つていふかな、ああいふのは才気だけの問題であつて、
もうぢき飽きられやしないかと思ふんですがね。」
「いや、さうでもないよ。あれはあえかな青春といふものにつなが
つてるからね。人間が不朽のリリシズムを謳歌する以上、やはりあ
の浪曼主義は、亡びないね。はゝゝゝ。但しちと甘いがね。」と、
杢さんはいたずららしくちよいと舌の先を出す。
 池の端へ出ると、東照宮五重塔がぼやッと夕靄にとけて、縮緬
皺の無数によつた不忍池には、立ちおくれた真鴨が暖かさうに浮ん
でゐる。ぬくたい夕風がほこりッぽく顔を撫でてくる。
アーサー・シモンズ  Arthur William Symons。英国のデカダン詩人。生年は1865年2月28日。没年は1945年1月22日。「デカダン詩人」は長田幹雄氏自身の『青春時代』解説による評価で、「デカダン」は退廃的なという意味です。
アーサイド あまりいい英語やフランス語はありません。arsideはあればいいのですが、ありません。asideは英語もフランス語もわきへ、かたわらに、離れて
リアル real 。真実の
河岸蔵 かしぐら。河岸に建っている倉庫
ぎん。声を出して詩や歌を歌うか作ること
黒点 太陽の光球面に出現する黒い斑点
北原 北原白秋。詳しくはここに
あえか か弱く、頼りない。きゃしゃで弱々しい
リリシズム lyricism。叙情詩的な趣や味わい
浪曼主義 Romanticism。ロマン主義。主として18世紀末から19世紀前半にヨーロッパや諸地域で起こった運動。感受性や主観に重きをおいた運動。恋愛を賛美し、民族意識を高揚し、中世への憧憬があります。その反動として写実主義・自然主義などを出てきました。
東照宮 上野東照宮(とうしょうぐう)。東京都台東区上野恩賜公園内にある神社。旧正式名称も東照宮。他の東照宮との区別のために上野東照宮と名前を付けています。
五重塔 元々は上野東照宮の五重塔でしたが明治の神仏分離によって寛永寺の帰属となり、戦後は東京都が管理。現在、上野動物園の中にあります。
夕靄 ゆうもや。夕方に立ちこめるもや
縮緬皺 ちりめんじわ。縮緬のように一面に細かく寄ったしわ。
不忍池 上野公園南西部にある池。台地の谷間に入り込んだかつての海が潟湖として残りました
ぬくたい (ぬく)い。ぬくとい。あたたかい。
「どつだい、池の水が白く光つてゐるところへ蓮の枯れた幹がによ
きによき突つたつてゐる効果はちょいとオツじやないか。日本の風
景にだつてなかなかいいニュアンスがあるんだよ。なにも、パリま
で出かけなくたつていいさ。」と、自嘲の調子でいつたかと思ふと、
藪から捧に、「ああ、こんな風が吹くと長崎へいきたくなるな。あ
の支那寺ドラが聞きたくなるよ。はゝゝゝゝ。」
と、板ッ片をぶッつけるやうに笑ひだして、急に大股にとつとと歩
きだす。これは杢さんの一流のくせであり、発想法であつた。












藪から捧 藪から棒。やぶからぼう。予期せぬことが唐突に起こること。また、出し抜けに物事を行うことのたとえ。
支那寺 支那寺長崎市鍛冶屋(かじや)町にある黄檗(おうばく)崇福寺(そうふくじ)のこと。聖寿(しょうじゅ)山と号し、俗に福州寺(ふくしゅうでら)あるいは支那寺(しなでら)とよばれます
ドラ 銅鑼。中国の楽器。dora_zildjian
板ッ片 「いたっぺん」と読むのでしょうか。板の切れ端。

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(9)

文学と神楽坂

 もうひとつかきそえておきたいのは例のパンの会のことである。パン
の会は僕らの青春の旗みたいなものである。野田宇太郎君の好著「パン
の会」の記述は、まことにきれいごとでけつかうだが、やはりあらゆる
芸術運動がさうであつたやうに内部的には感情の疎隔や嫉妬反ぜいがあ
つた。木下杢太郎君や石井柏亭君のやうなユニークな存在がなかつたら
あんなけんらんとした足跡を大正芸術史に残したかどうか疑がはしい。
 今思ひ出してもパンの会の帰りが凄まじかつた。みんな泥酔して深夜
の街頭を放浪して歩く。女郎屋へでもいかなけりや興奮の捨て場所がな
い。吉井勇君はその晩洲崎の遊廓へいきたがつて、味噌ッかすのぼくに
金を出せとおどかす。たつた十三銭しか残つてゐなかつたので正直にそ
つくり出すと吉井君は忽ち例の無頼漢と化していきなりぼくの手をひつ
ぱたいた。
 僕もさうさう卑屈になつてはゐられないのでやにはに彼を路上へ突き
倒して下駄でぶンなぐつた。杢太郎君がとんできてひき分けてくれる。
 いつの間にか別れ別れになつて、僕は北原白秋君と二人ッきりになつ
てしまつた。白秋は腰がぬけちまつてやたらところぶ。ころびながら
「空に真紅な雲の色」を胴間声で歌つては、おい幹彦ッ、おれを家まで
おぶつて帰れッといばりくさる。僕は唯々だくだく路傍にあつた荷車へ
彼をのせて懸命に引つぱつていつた。白秋家は神楽坂下なのでいくら若
い臂力でもそこまで曳いていけるものぢやない。途中でほッたらかして
遁げようとすると白秋はおいおい泣きだして、幹彦お前はいい奴だ、お
れを捨てるなとかじりついてきて生温い舌でぺロペロなめる。
パンの会 パン(Pan)はギリシャ神話の半獣神。明治末期の耽美派の青年芸術家グループの懇談会。反自然主義を掲げました。山本鼎・石井柏亭ら美術雑誌「方寸」の洋画家と木下杢太郎・北原白秋ら雑誌「スバル」の詩人が交流をはかりました。
野田宇太郎 野田宇太郎詩人・評論家。生年は1909年(明治42年)10月28日。没年は1984年(昭和59年)7月20日。第一詩集『北の部屋』を刊行後、上京して終戦前後期の文芸誌『新風土』『新文化』『文芸』の編集者として活躍。「文学散歩」シリーズで近代文学研究の新分野を開きました。
反ぜい はんぜい。反噬。動物が恩を忘れて、飼い主にかみつくこと。転じて、恩ある人に背きはむかうこと。恩をあだで返すこと
石井柏亭 いしい はくてい。版画家、洋画家、美術評論家。生年は1882年(明治15年)3月28日。没年は1958年(昭和33年)12月29日
けんらん 絢爛。華やかで美しい。詩歌や文章の表現が、豊富な語彙や凝った言い回しなどで美的に飾られていて、華麗な印象を与える様子。
洲崎 すさき。東京都江東区東陽一丁目の旧町名
味噌ッかす みそっかす。味噌っ滓。子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。
空に真紅…

白秋の「邪宗門」のなかにある詩です。玻璃は「はり」と読み、ガラスのことで、ガラス製の器に酒を注いだ事を意味します。またこの詩はパンの会の会歌にもなっています。

 「空に真赤な」

(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。
玻璃(はり)真赤(まつか)(さけ)(いろ)。
なんでこの()(かな)しかろ。
(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。

   明治四一年五月作
胴間声 どうまごえ。調子はずれの太く濁った下品な声。
唯々だくだく 唯唯諾諾。いいだくだく。 何事にもはいはいと従うさま。他人の言いなりになるさま
神楽坂下 神楽坂1丁目の全てと2丁目の部分。白秋はここに
臂力 ひりょく。うでの力
 僕も胸がいつぱいになつてやつと人力車を一台さがしてそれへ乗せて
帰してやつた。街燈の光で彼の財布をしらべてみると、なんと彼は三円
なにがしか隠しもつていやがるのである。車代を先払ひしてあとは僕が
ねこババきめてやつた。
 僕だつて行きどころがないのだ。そこへあひにく阪本紅蓮洞が幽霊の
やうに横町から現はれてきた。酔ひがさめてみると吉原の女郎屋の二階
で寝てゐた。夜が明けてゐる。その時分吉井君たちと女郎屋へ泊ると紅
蓮洞と版画家の伊上凡骨がいつも勘定の代りに居残りをさせられる。そ
の朝はあの老残の紅蓮洞が可哀想になつて僕自身が始末屋へさがつた。
始末屋といふのは札つきのコロンボがやつてゐる車宿のことである。勘
定不足の客には入墨をしたあんちやんがダニのやうにくッついてくる。
 僕は本郷の質屋へいつて身ぐるみぬいで八円こしらへた。学生のくせ
に親父の洋服屋をだまかしてこしらへさせた自慢の背広を店先でぬいで、
前に入れてあつた袷に着かへ革のバンドをしめてやつと家へ帰つた。 
 その晩雷門前のヨカ楼で飲んでゐると高村光太郎君と市川猿之助君に
逢つた。べろんべろんに酔つてまた吉原である。金が足りないのでワリ
床といふやつである。びとつの部屋を古屏風で仕切つて寝るのである。
夜が明けるまでカンカンガクガクの芸術論をたたかはしてゐるので、女
郎たちが怒つて、女同士で寝てしまつた。やはり今のやうにさかんにパ
リを謳歌する時代だつたが、象徴派や後期印象派の論議ばかりでキンゼ
イ報告のやうなえげつない話はしなかつた、みづみづしかつたわけであ
る。高村君はパリにゐた間この黄色い皮膚と高い頬骨が恥かしくて町が
歩けなかつたなぞといつて、エクゾティシズ厶をかきたてた。
阪本紅蓮洞 Sakamoto_Gurendoさかもと ぐれんどう。慶応出。明治・大正期の文芸評論家、放浪生活者。生年は1866年(慶応2年)9月。没年は1925年(大正14年)12月16日。のらりくらりと放浪生活に身をやつし、酒に酔っては毒舌を弄し、窮乏のうちに死亡しました。明治36年(1903年)に与謝野鉄幹が主催する新詩社に入り、鉄幹より「紅蓮洞」の名をもらいました。歌人の吉井勇を誘い出して飲み歩くようになり、数々の奇行が始まり、文壇の名物男として知れ渡るように。吉井 勇より20歳年上。
伊上凡骨 神田の木版師。中沢、三宅氏等の水彩画を版画にし、ぼかしに長じていました。
始末屋 遊里で遊興費の不足した客を引き受け勘定を取り立てる商売
ゴロンボ ごろつき、ならずもの
車宿 くるまやど。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。
ヨカ楼

高村光太郎氏が書いた「ヒウザン会とパンの会」によれば”

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、(よろい)(ばし)(わき)の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである

また、野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」で「よか楼」は

雷門前竝本通りにあつた三階建の塔のやうなレストラン

でした。細かくは東京紅團の「パンの会 -2-」で。http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm

高村光太郎 高村光太郎たかむらこうたろう。詩人・彫刻家。1883年(明治16年)3月13日 – 1956年(昭和31年)4月2日。欧米に留学。ロダンに傾倒。帰国後、「パンの会」に加わり、「スバル」に詩を発表。岸田劉生らとフュウザン会を結成。詩集「道程」「智恵子抄」「典型」、翻訳「ロダンの言葉」、彫刻に「手」など
市川猿之助 いちかわえんのすけ。2世の歌舞伎役者。1888年(明治21年)5月10日 – 1963年(昭和38年)6月12日)。劇団春秋座を結成。多くの新舞踊・新歌舞伎を上演
ワリ床 割床。ワリドコ。何人もの人が屏風などで一室を仕切って寝ること。女郎屋で廻し部屋もふさがつている時、一つの部屋を屏風で仕切つて客を入れること
エクゾティシズ厶 exoticism。現在は「エキゾチシズム」のほうがよさそうです。異国趣味、異国情緒。異国の文物に憧れを抱く心境
 僕は背広をなくしたので早稲田大学の制服をきてゐた。あの変テコな
角帽が制定されたころで、あれを文学科で真先にかぷりだしたのは猿之
助君と長谷川時雨の弟の虎太郎君と僕と三人であつた。

 酒と女では実に難行苦行したものである、谷崎潤一郎君が文化勲章を
もらひ、吉井君が芸術院会員、高村君は高名な彫刻家、みんなずゐぷん
年季を入れて古さびてしまつたもんである。
 今では名前も顔も忘れ果てたあの時分の一夜泊りの安女郎たちがもし
生きてゐたらキラ星のごときお歴々の壮観にさぞかしおッ魂消ることで
あらう。
 それにしてもあの清純そのものであつた杢太郎君の姿が最前列にみえ
ないのは何んとしてもさびしい。生きてゐたら第二の鷗外としてもては
やされたであらうのに。









長谷川時雨 長谷川時雨はせがわしぐれ。劇作家・小説家。1879年(明治12年)10月1日 – 1941年(昭和16年)8月22日。雑誌や新聞を発行して、女性の地位向上の運動を開きました。

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

正覚坊|小笠原小品|北原白秋

文学と神楽坂

正覚坊とはアオウミガメのことです。宮之浜で一匹、腹を上にして見つかりました。以下はこの一匹の物語です。なお、作者は北原白秋氏です。

正 覚 坊
 (うら)らかな麗らかな、(なん)ともかともいへぬ麗らかな小笠原の初夏(しよか)の一日である。()()()の白い弓形(ゆみなり)から影の青いバナナ(はたけ)の方へ辷り上る小径(こみち)のそば、小灌木林の境界線に近く、一本の光り輝く護謨(ごむ)の大樹が高く高く(ゆら)めいてゐる。その下に正覚坊(しやうがくばう)が仰向けに(ころ)がされてゐるのである。たゞ其処(そこ)に何時から転がつてゐるともなく、転がされてゐるからたゞ転がつてゐるといふ風である。大きな大きな正覚坊(しやうがくばう)がゆつたりと、まん(まる)卵いろ(はら)甲羅(かうら)を仰向けて、ただ(ころ)がつてゐる。無論(むろん)四肢(てあし)は固く(ゆは)へられてゐるのでその(ひれ)を動かす事さへ自由でない、図体(づうたい)は大きいし、二(でう)(ふと)荒縄(あらなは)までがぐるぐる巻きに喰ひ込んでゐる。それでなくとも、一(たん)()ろがされたが最後(さいご)、一日かかつて起きかへるか二晩(ふたばん)かかつて起きられるか、この応揚(おうやう)なのろのろの海亀の身では何だか(すこ)ぶる怪しいものである。(うれ)しいのか、悲しいのか、(くる)しいのか、又は遂々(とうく)(あきら)めはてて了つたのか、それぞと云ふ気分(けぶり)も見えない。たゞ首を当前(あたりまへ)に出して当前(あたりまへ)に目を()けてゐる。而して何の事もなく(そら)を見入つてゐる。尤も、それも仰向(あふむ)いてゐるから目が空に()いてゐるといふだけである。澄みわたつた(あか)るい(そら)の景色を凝視(みつ)めてゐるのか、又は(うら)らかな雲のゆききや、風のながれに恍惚(うつとり)と思を凝らしてゐるといふのか、それとも(へき)瑠璃(るり)大海(たいかい)の響、檳榔(びんらう)、椰子、バナナ、(さま)()の熱帯の物の匂を(うつゝ)(ごゝろ)もなく嗅ぎわけて、懐かしい生れの(うみ)の波のまにまに霊魂(たましひ)を漂はしてゐるのか、何が(なん)とも(わけ)のわからぬ夢見るやうな()を開けてゐる。
 時は正午である。五月と云つても小笠原の五月は暑い。太陽は直射し、愈々護謨(ごむ)大樹(たいじゆ)の真上から強烈な光の嵐を浴びせかけると、燦爛たる護謨の厚葉が枝々に(かぎ)りもなく重なり合つて、真青(まつさを)な油ぎつた反射(はんしや)を影とともに空いつぱいに(ゆら)めかす。その葉をくぐつてくる光線は鋭い原色の五色である。それが幹に当り、(した)に寝てゐる正覚坊(しやうがくばう)の腹を()きつける。而して(いよ)()緑と黄の(てん)()に模樣づけられた綺麗な海亀(うみがめ)の頭が軟らかな雑草の上に更につやつやと光り出し、(うら)らかな麗らかな(なん)ともかとも云へぬ空のあたりで檳榔(びんらう)の葉がそよぎ、鶯の鳴く声がきこえてくる。
 十方無碍光、澄み輝く白金寂莫世界の一時(ひととき)である。
 正覚坊(しやうがくばう)(まぶ)しさうに目を開けたり、()ぢたりしてゐる。(うつゝ)(ごゝろ)もないらしい。ただゆつたりと(ころ)がされてゐるので(ころ)がつてゐる。(だい)安心(あんしん)のかたちである。恐らく自分が囚はれの身である事すら忘れてゐるに違ひない。
宮之浜 北部父島。兄島が正面に。ビーチには珊瑚があり魚も豊富なので、シュノーケリング二は最適。沖は潮の流れが複雑で早い兄島瀬戸なので、流されないよう黄色いブイより先には絶対に行かないこと。
なぎさ。海の砂浜から波打ち際まで広い砂地。
灌木林 低木の林。 反対は喬木(きようぼく)
卵いろ 卵色。たまごいろ。16進法ではfcd575。日本の伝統色  
荒縄 あらなわ。わらで作った太い縄。
応揚 正しくは鷹揚。応揚は間違い。おうよう。鷹(たか)が悠然と空を飛ぶように小さなことにこだわらずゆったりとしている。おっとりとして上品。
碧瑠璃 へきるり。1 青色の瑠璃。また、その色。2。青々と澄みとおった水や空のたとえ。
檳榔 びろう。ビンロウ。ヤシ科の1種
現心 うつつごころ。1.正気。気持ちがしっかりと確かな状態。2.夢うつつの心の意から夢見るような気持ち。うつろな心。
十方無碍光 じっぽうむげこう。「(じん)十方無碍光如来」は、阿弥陀如来のこと
白金 白金(はっきん)と読めばプラチナ。白金(しろがね)と読めば銀。
寂莫 せきばく。正しくは寂寞。1 ひっそりとして寂しいさま。2 心が満たされずにもの寂しいさま。
大安心 とても安心、悟り

最初は鶏2羽が出てきます。

微風(びふう)がをりをり護謨の(えだ)()をそよがして去つた。幹の中程(なかほど)一流(ひとながれ)ながれた海のうつくしさ。向うに兄島が見え、(うら)らかな麗らかなその瑠璃(るり)(いろ)の海峡を早瀬(はやせ)に乗つて、白い三角帆をあげた独木舟(カヌー)が走つてゆく。さりながら正覚坊にはその海が見えない。(あたま)を海の方に向けては()てゐるが。背後(うしろ)には護謨の樹の幹があり、海岸(かいがん)煙草(たばこ)の毛深い葉の(むらがり)がある。ただこの島の四方(しはう)八方(はつぱう)を取り囲んでゐる太平洋の波のうねりが何処(どこ)やらともなく緩るい調節(てうせつ)()のびに折り畳むでゐる、それだけは流石(さすが)正覚坊(しやうがくばう)癡鈍な感覚にも稍何らかの響を(つた)へるらしい、正覚坊(しやうがくばう)は目を(つぶ)つてまた目を開いた。
 コケツコツコ、コケツ・・・・・コケツコツコ、コケツ・・・・・物に驚いた鶏の鳴声が丘の下の農家(のうか)の方からきこえて来る。(はたけ)甘蔗(さたうきび)やバナナの葉かげをわけて此方(こちら)へ逃げてくるらしい、一()()、それが次第に近づくにつれて鳴声(なきごゑ)をひそめてくる、かと思ふと一羽の雄鶏(をんどり)がやがてロスタンシヤンテクレエのやうな雄姿を現した、鶏冠(とさか)の赤い、骨つ節の強さうな、()ばたきの真黒(まつくろ)い、はぢきれさうに(はづ)みかへつた驕慢雄鶏(をんどり)にひかされて白い舶来(はくらい)(だね)の雌鶏が何かを(つゝ)き乍ら()いてくる、ケケツと()(かへ)つて(はた)きつけるやうに(をす)(めす)の上に重なつた・・・・・と澄ましてまたケケツケツと(はね)(ひろ)げて(めす)の方へ()り寄つてゆくトタン、奇怪(けつたい)な大きい正覚坊(しやうがくばう)の図体がふいと前に(ころ)がつてゐるのが目についた、と、(たちま)(おどろ)きの叫びを立てゝ、ケケツコツ、ケケツ、ケケツコツケケツケケケケと逃げてゆく。而してまたひとしきり急忙(せは)さうな叫び声が甘蔗(さたうきび)の向うからきこえる。
 正覚坊(しやうがくばう)はそれでも(ゆつ)たりとしたものである。平気で大空(おほぞら)を見上げてゐる。温和(おとなし)さうな空色の(ひとみ)がつやつやと(うる)みを持つて、ただぢつと(うら)らかな(てん)の景色を見入つてゐる。恐らく傍らに何事が起つたかも知らないであらう。身動きひとつしやうともしない。
早瀬 流れのはやい瀬
海岸煙草 海岸近くに生えて タバコに似た葉を持つ。
ソウ、くさむら、むら、むらがる。草が群がり生える。
癡鈍 ちどん。痴鈍。愚かで,頭の働きがにぶいこと
ロスタン エドモンド・ロスタン(Edmond Rostand. 1868-1918)はフランスのマルセイユ生まれの劇作家。1898年の演劇『シラノ・ド・ベルジュラック』が最も有名で、約1年半も上演。
シヤンテクレエ 1910年にはロスタンは鶏を始め様々な動物を登場させた寓喩劇「シャントクレール」Chanteclerも上演。
骨つ節 ほねっぷし① 骨の関節。ほねぶし。 ② 気骨。気概。 不屈の精神と決断力。ガッツ。肝ったま。
驕慢 きょうまん【驕慢/慢】 。おごり高ぶって人を見下し、勝手なことをすること
急忙しい 「せわしい」。現在は単に「忙しい」と書く。慌ただしい、せわしい、忙しい

次は塗師が出てきます。この時期、小笠原にいた塗師は画家の倉田白羊氏が有名で、北原白秋氏と一緒に「パンの会」に出席していました。

時が経つた。日射(ひざし)は愈強くなり、(おと)も絶えた空気の中を鶯の子が(くる)しさうにさゝ鳴きをしてはまた光つて消えた。ふと正覚坊(しやうがくばう)聴耳(きゝみゝ)を立つるやうに見えた。のつしのつしと人間の(ある)いて来る足音(あしおと)がしたからである。山から暑い盛りに下りて来た男は絵の具の垢染(しみ)だらけな仕事(しごと)()をつけ、真黒(まつくろ)な怪しい帽子をかぶつてゐた。まんまるい(かほ)のづんぐりむつくりした三十四五の男である。この小笠原では油絵(あぶらゑ)かきのことを(ぬり)()といふ。塗師も(いろ)()(なが)れて来たが今度(こんど)の塗師は(なか)()()らい塗師だといふ。その塗師が傲然とのさばりかへつて歩いてくるのである。正覚坊は恐れ入らざるを得ない筈である。それだのに正覚坊(しやうがくばう)は何にも感じないらしい。ただ恍惚(くわうこつ)と目を半眼(はんがん)に開けて見てゐる。塗師は正覚坊をちょいと()(おろ)して、フフンと云つた。而して腐れたバナナの裂葉(さけば)()(かへ)しながら、真黒(まつくろ)墓穴(はかあな)のやうな(いは)()いてある大きな大きな画布(カンパス)を楯のやうに振りかざして又づしりづしり。
 後はまた(うら)らかである。強烈な太陽(たいやう)(くわう)の下に、赤い(がけ)、青いバナナ、瑠璃(るり)代赭(たいしや)に朱の(まだら)、耀く黄、(そら)も木も、草もあらゆる()に入るもの(すべ)てなまなましい原色(げんしよく)ならざるはなしである。それが強烈に正覚坊(しやうがくばう)の目をきらきらと刺戟する。護謨(ごむ)の葉が徴風(びふう)がくれば五色になる。
 正覚坊は批評家ではない。だからこの美くしい自然とさきほどの塗師(ぬりし)真黒(まつくろ)()とどれほどの差異(さい)があらうとも平気なものである。何等の不思議とも感じないらしい。よし、何とか思つたにしたところで人間は人間、正覚坊(しやうがくばう)は正覚坊、どうにもならないのである。
 正覚坊は恍惚(うつとり)として大空のあなたを仰視(みあげ)てゐる。ゆつたりしたものである。
 幾時(いくとき)()つた。
ささ鳴き 笹鳴き。冬にウグイスが舌鼓を打つようにチチと鳴くこと。季語は冬。
油絵かき 北原白秋は大正3年2月、画家の倉田白羊は小説家の押川春浪と一緒に同年4月に小笠原に渡った。
傲然 おごり高ぶって尊大に振る舞うさま
ガン、いわお、いわ。ごつごつした大きな石。岩
瑠璃 やや紫みを帯びた鮮やかな青。16進表記で#2A5CAA  
代赦 たいしゃ。黄土色がかった渋いレンガ色。16進表記で#B26235  

次は詩人です。北原白秋氏本人だと思われています。

正覚坊はあまりの(うら)らかさに思はずうとうとしたが、うしろの海岸(かいがん)煙草(たばこ)の中から人間がぽいと飛ぴ出したのでハツと()をひらいた。真白(まつしろ)なホワイトシヤツの光耀(かゞやき)が見る目も(いた)(ほど)()みる。そのホワイトシヤツが声を立てゝ笑つた。まるで子供のやうな無邪気な笑声(わらひごゑ)である。
―――やあ、正覚坊(しやうがくばう)が転がつてゐる。面白いな。
 正覚坊(しやうがくばう)自身に取つては面白いどころの話ではあるまいが、のんきな正覚坊(しやうがくばう)、黙つてゐる。而して恍惚(うつとり)とその男を見てゐるのである。
 その男は(なん)と思つたか、コツコツと(つゑ)のさきで正覚坊(しやうがくばう)のまん円いお(なか)を敲いた。(いた)くも何ともないらしい。平気なものである、今度(こんど)はまた強くコツコツと頭を(たゝ)いた。ルコン・ド・リイルではないが、不感無覚寂莫世界と云つた風である。正覚坊はなかなか高踏派(パルナツシヤン)である。その男は ―――をかしいなあ。 と云つた。正覚坊(しやうがくばう)には別にをかしくも何ともないのである。その男はまた 一体、(をとこ)かしら(をんな)かしら。 と云つた。陰茎(いんけい)があるのかしら、あるとしたらどれがさうだらうと()つた(ふう)にその男はまた(つゑ)のさきでお(しり)のあたりをコツコツと(さが)して見た。一寸(ちよつと)云つて置く、その男は()つて醜い泥豚(どろぶた)に何ともかとも云へぬ薔薇(ばら)いろ繊細(せんさい)にして微妙(びめう)至極(しごく)な陰茎があるのを見て涙を流した詩人である。
 正覚坊の(ふた)つの後肢(あとあし)のまん中に小さな(さき)のするどい短い尻尾(しつぽ)見たやうなものがある、(つゑ)がその近くをふいと()()てたと思ふと、正覚坊(しやうがくばう)が不意にふふつと笑つた、(くち)をあけ、鼻孔(はな)をいつぱい(ふく)らまし、首を強くひと()()つてふふつふふつと笑った、よほど(くすぐ)つたと見える。青年は吃驚(びつくり)したが、これも声を出して笑つた。(はら)(かゝ)えてそこらの草つ原中笑ひころげた。  正覚坊(しやうがくばう)はまたけろりとして(そら)を無心に見あげてゐる。
―――のんきだなあ。をかしいなあ。 感嘆(きはま)ると云つた風で、流石(さすが)のんきな楽天家(らくてんか)も、この正覚坊(しやうがくばう)だけには叩頭(おじぎ)をしたやうだつた。
 正覚坊(しやうがくばう)はのんきだと云はれてものんきなのが何故(なぜ)わるいのか。それとも(なん)かをかしい事でもあったのかなあと云つた(ふう)に不思議さうな目つきをした。それで別に自分をのんきだとも思ってゐないらしい、当前(あたりまへ)であるといふ心もち。
 正覚坊(しやうがくばう)はまたうとうととした。微風(びふう)が海の方から吹いてくる。白い雲がぽうつと山の檳榔樹(びんらうじゅ)の上に浮ぶ。鶯が鳴く、世は太平である。その麗かさは限りがない。  その男は健康(ぢやうぶ)さうな元気の(あふ)るるやうな体格をしてゐた。こんな暑い日に素足(すあし)で、その上、帽子(ばうし)もなんにもかぶらないでゐる。暫時(しばらく)正覚坊(しやうがくばう)を見て感嘆してゐたが、(くる)しさうに()()()()ホワイトシヤツを()いで()(ぱだか)になった。玉のやうな(あせ)がだくだくその()りきつた胴や(たく)ましい両腕(りやううで)から流れ出るのである。拭くものがないので、ホワイトシヤツで、こきこき顔から身体(からだ)(ぢう)()き取つた。そして(なん)と思つたかフワリとそれを正覚坊(しやうがくばう)の頭に投げかけて置いて、自分もまた暑い天日(てんぴ)に全身を曝しながら、またごろりとかたばみ(なか)に寝ころんだ。大きなマドロスパイプを出して(いう)()と煙草を喫んでゐる。
 正覚坊(しやうがくばう)真白(まつしろ)なホワイトシヤツを(あたま)からスツポリと(かぶ)せられて、また恍惚(うつとり)とした。西洋新舶来のその匂は正覚坊(しやうがくばう)に取つては未だ()つて()いたことも嗅こともなかったに(ちが)ひない、それに人間の汗の臭気(しうき)甘酸(あまずゆ)さ、思はず、また恍惚(うつとり)となつて空を眺めた。空はこんどは自分の上に()ちて来てまつしろな光り耀くものとなつてゐた。日光が軟らかいシヤツを()てふりそゝぐ。
 正覚坊(しやうがくばう)は思はずぐつすりと熟睡したのである。
ルコン・ド・リイル シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リール(Charles-Marie-René Leconte de Lisle、1818/10/22~1894/7/17)は、フランスの高踏派の詩人で劇作家。ペンネームは姓だけのルコント・ド・リール。
不感無覚 何も感じなく、痛みもない
高踏派 19世紀、フランス詩の様式。上田敏の言で「高踏派」。パルナシアンは形象美と技巧を重んじた唯美主義の詩人たち。
泥豚 どろぶた。牧場で放し飼いされている豚のこと。放豚
薔薇いろ 薔薇色。日本の伝統色  
かたばみ 乾燥した場所を好む多年野草で、古くから日本全国に分布する。
灑す 水をそそぐ、水を撒く、釣り針を投げる、散る、落ちる、洗う

最後に天然老人が出てきます。

―――Kさん、何をして御座る。
 青年もうとうとしてゐたが、(みゝ)()れた老人(らうじん)の声にハツとして目をひらいた。大きなタコの葉の帽子をかぶつたきれいなS老人(らうじん)がにこにこと笑ひ乍ら正覚坊と彼とを等分(とうぶん)に見下してゐた。
―――裸でおゐででごわすか。この(あつ)いのに(はだか)は毒でごわすぞ。
 一寸(ちよつと)眉を(ひそ)たが、また莞爾(につこり)として、
―――Kさん、たいしたものがごわしたぞ。
とさもうれしさうにいふ。
 青年も立ち上つた。さうしてにこにことした。
―――ほうれ、これでごわす。
 老人(らうじん)は肩から掛けてゐた雑嚢(ざつのう)の中から人問の骸骨(がいこつ)下顎(したあご)()たやうな灰色の石を取り出した。
―――実に天然(てんねん)でごわすぞ。(めづ)らしうごわすな、ほうれ御覧(ごらう)じろ、こゝに白いものがポチポチイとごわせう。まるで雪が降つたやうでごわす。
 ポチポチイと云ふ(とき)さもかわいらしく老人(らうじん)は声を小さくした。如何(いか)にも白いものが(てん)()としてある。然し青年(せいねん)の見た白いポチポチは雪ではなくて骸骨(がいこつ)下顎(したあご)に残つてくつついてゐる人間の白い歯であった。老人(らうじん)はその石を大切さうに愛撫(あいぶ)しながら、
―――大したものでごわす、三百円ものが価値(ねうち)はごわす。
 この老人(らうじん)は名古屋の商人であるが、病気保養にこの島に来てゐるといふ、よく閑暇(ひま)にあかしては白檀(びやくだん)のひねくれた()(かぶ)や、モモタマの()無骨(ぶこつ)(こぶ)や、天然(てんねん)珍石(ちんせき)奇木(きぼく)を好きで集めては楽しんでゐる、快活(きさく)ないゝ老人である。口癖(くちぐせ)にしては天然(てんねん)々々()とばかし云ふので、Kさんたちはこの(ひと)天然(てんねん)老人(らうじん)と呼んでゐる。天然(てんねん)老人(らうじん)は然し商人である、どんな珍物(ちんぶつ)を見てもすぐに()ぶみをする、さうしてこれは利益(まう)かるなと胸算用(むなざんよう)して見る。Kがにこにこしてゐると、
―――(だい)雪景(せつけい)珍石(ちんせき)としたらどうでごわせうかな。面白いものでごわすぞ。売れますぞ。
と、天然(てんねん)老人(らうじん)正覚坊(しやうがくばう)の方をちらと見る。
 雪景(せつけい)珍石(ちんせき)が売れるか、売れないか、面白いものか面白いものでないか、百円の価値(ねうち)があるものか、それとも一銭五厘の価値(ねうち)しかないものか、正覚坊(しやうがくばう)は風流とといふ事を知らないから一(かう)御存(ごぞん)じがない。たゞホワイドシヤツを(かぶ)つて黙つてゐる。
 Kも正覚坊(しやうがくばう)をちらと見たが、如何(いか)にも気の毒相な顔をして、老人を振り返った。
―――正覚坊(しやうがくばう)はようく睡むつてゐます。
眉をひそめる 眉の辺りにしわをよせる。
莞爾 読み方は「かんじ」。にっこりと笑う、ほほえむ様子。
雑嚢 雑多なものを入れる袋。肩から掛ける布製のかばん
モモタマの木 モモタマ(ジュズサンゴ)ではなく、小笠原ではモモタマナ(桃玉菜。Terminalia catappa Linn、別名:コバテイシ、シクンシ科)のことでしょう。巨大な葉が有名。
白檀 半寄生の熱帯性常緑樹。爽やかな甘い芳香が特徴で、香木として利用されている
天然てんねん老人らうじん談話はなしをしてる間もわかしい目をあげて見廻みまはしてゐた、何か珍物ちんもつはないかなと思つてさがしてゐるのだと思ふと無邪気むじやきな青年のKにはをかしくてならないといふふうだつた。天然てんねん老人らうじんはふいとお叩頭じぎをして、ついそばのモモタマの木の方へ行つたと思うと、突然いきなりおほきな大きな声を出して、さもさも一だい珍物ちんぼくを見つけたやうに叫んだ。
―――Kさん、(はや)く来て御覧(ごらう)じろ、大した珍木(ちんぼく)でごわすぞ、五百円がものはごわす。
 Kも(おどろ)いて飛んで行つたが、老人(らうじん)、モモタマの(こぶ)が飛んで()げでもするやうに(あは)てゝ、雑嚢(ざつのう)()けて二つ折の(のこぎり)を取り出し乍ら、
―――ほうれ、あの(こぶ)でごわす、(たい)したものでごわせう。陽物そつくりでごわす。
 流石に顔を(あか)めながら、
―――五百円がものは(たしか)にごわせう。 (たし)かにと云ふ言葉に力を入れて、鋸を(ひら)(なが)ら、下から(ぢつ)天然てんねん老人らうじんは見上げる。
 如何にも、(うら)らかな麗らかな(なん)ともかともいへぬ麗らかな空の(した)に、陽物そつくりのモモタマの()(こぶ)は手も届かぬ高い高い二(また)(えだ)の間に燦然と耀いてゐる。
 老人は一心に見上げながら、(した)からしきりに鋸を(うご)かす手つきをした。
 正覚坊はぐつすりとホワイトシヤツをかぶつて(ねむ)つてゐる。
陽物 ようぶつ。陰茎。男根。
燦然 さんぜん。鮮やかに輝くさま。明らかなさま。

わが青春の記|紀の善

文学と神楽坂

 長田幹彦氏が書いた「わが青春の記」には、明治41年1月、長田氏などの七人が新詩社から脱退する顛末を書いてあります。この決定は神楽坂の「紀の善」で行いました。

 長田幹彦氏(1887/3/1-1964/5/6)は小説家で、長田秀雄の弟にあたります。早稲田大学英文科卒業。炭鉱夫や鉄道工夫、或いは旅役者の一座に身を投ずるなどして各所を放浪。小説「(みお)」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名でした。

(しん)()(しや)(だつ)退(たい)()(けん)()れが(しゆ)(はう)(しや)であつたか、(いま)では()(おく)がはつきりしてゐない。とにかく(みんな)(うつ)(ぼつ)としてゐたのであるから、一人(ひとり)()をつければ(たちま)()(あが)るに(きま)つてゐる。(ちか)(ごろ)(りう)(かう)(しよく)(そく)(はつ)といふ(やつ)である。()んでも()(ぐら)(ざか)(した)()()(ぜん)といふ鮨屋(すしや)の二(かい)(あつま)つたのが、北原(きたはら)白秋(はくしう)吉井(よしゐ)(いさむ)木下(きのした)(もく)太郎(たらう)深井(ふかゐ)天川(てんせん)秋庭(あきば)俊彦(としひこ)秀雄(ひでを)(ぼく)この七(にん)で、新詩(しんし)(しや)脱退(だつたい)()(たちま)ちそこで一(けつ)してしまつた。その理由(りいう)は、とにかく()()()(くわん)()(たい)する()信任(しんにん)で、折角(せつかく)われわれが努力(どりよく)していい()をつくつても(みんな)()()()(くわん)()(きふ)(しう)されてしまふ。新詩社(しんししや)といふやうな團體(だんたい)結成(けつせい)してゐては、成長(せいちやう)()()みがない。だからこゝで分裂(ぶんれつ)して自由(じいう)天地(てんち)(およ)()ようといふやうなことだったと(おも)ふ。
(長田幹彦「わが青春の記」『中央公論』昭和11年4月)

新詩社 明治32(1899)年、(かん)鉄幹てっかん)が設立した詩歌結社で、翌年、機関誌「明星」を創刊、多くの新人を育てましたが、41年に解体。
首謀者 中心になって陰謀・悪事を企てる人
鬱勃 内にこもっていた意気が高まって外にあふれ出ようとする様子。意気が盛んな様子
一触即発 ちょっとしたきっかけで大事件に発展する危険な状態
深井天川 ほとんどわかりません。詩人、小説家でした。
秋庭俊彦 あきば としひこ。早稲田大学英文科。はじめ短歌をこころざし新詩社同人に。チェーホフの作品を知り、英訳から翻訳。昭和にはいって句作をはじめ、句集に「果樹」。生年は明治18年4月5日。没年は昭和40年1月4日で、79歳。

文学と神楽坂

木下杢太郎「南蛮寺門前」

文学と神楽坂

木下杢太郎」 木下(きのした)(もく)()(ろう)に「南蛮寺門前」の中で石川啄木のことを書いている場面があります。昭和5年4月『冬柏』第2号に投稿したもので、木下杢太郎全集第14巻によっています。

 小さな6号活字がここでも問題になっています。

 1年前、北原白秋や木下杢太郎はこの小さな活字に怒ったことや、ほかの理由もあり、与謝野寛のもとから脱退し、『明星』も第100号で廃刊。以来、与謝野寛氏にとっては失意が続きます。

 また、木下杢太郎が石川啄木をどうやってみているかもわかります。

 明治42年(1909年)1月には、森鴎外は47歳、伊藤左千夫は44歳、与謝野鉄幹と上田敏は35歳、斎藤茂吉は26歳、平野万里と北原白秋は24歳、木下杢太郎氏と石川啄木は23歳、吉井勇と古泉千樫は22歳でした。

今でも僕は殘念に思つてゐるのだが、それは僕の戲曲の第一作の「南蠻寺門前」をば、先生が校正の時添削して下さるといふのを、その時の第二號の編輯を引受けてゐた石川偏執からその機會を失したことである。此事は同じ名の僕の戲曲集のにも書いて置いたが、も一度回想して見る。
 時は明治四十二年の一月二月の頃である。その時分には「パンの會」と「觀潮樓歌會」とが屡〻有つた。たとへばその歳の一月の九日には午後 からパンの會があり僕等は六時半にそれを濟まして、夜森先生の御宅の短歌會に出た。その時の出席者は昴の第二號に據ると、主人の他與謝野寛上田敏伊藤左千夫小泉千樫、石川木、斎藤茂吉平野萬里及び僕で、題は「舞」「清」「吝」「構」「或」であつた。僕の日記には「雲降る。十時過帰宅。」と書いてある。

偏執 かたよった考えをかたくなに守って他の意見に耳をかさないこと。
 ばつ。書物や書画の終りに,その来歴や編著の感想・次第などを書き記す短文。あとがき。
屡〻 「しばしば」。何度も。たびたび。〻は二の字点、ゆすり点で、主に縦書きの文章に用い、上の字の訓を重ねて読むときに使います。現在は「々」で代用。
短歌会 観潮楼歌会と同じ。
古泉千樫 こいずみ ちかし。木下杢太郎氏は小泉と書いていますが、正しくは古泉。左千夫が脳溢血により50歳で急逝すると、千樫はアララギ派の中心的歌人として多くの秀歌を残しています。
平野万里 ひらの ばんり。1905年東京帝大工科大学に進み、「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表。石川啄木、吉井勇の三人で交替に『スバル』の編集に当たりました。

(スバル) 森鴎外、()()()(ひろし)鉄幹(てっかん))、与謝野晶子(あきこ)が協力して発行し、石川啄木、平野(ひらの)万里(ばんり)吉井(よしい)(いさむ)が編集し、この3人に加えて、木下杢太郎、高村(たかむら)光太郎(こうたろう)北原(きたはら)白秋(はくしゅう)らが活躍しました。反自然主義的、ロマン主義的な作品が多く、同人はスバル派と呼びました。創刊号の発行人は石川啄木で、創刊時から1年間、発行名義人です。スバルは1913年まで続きました。
パンの会 明治末期の青年文芸・美術家の懇談会。反自然主義、耽美的傾向の新しい芸術運動の場。1908年(明治41年)12月、第1回会合は隅田川の右岸の両国橋に近い矢ノ倉河岸の西洋料理「第一やまと」で。高村光太郎はやや遅れて参加、上田敏、永井荷風らの先達もときに参会し、耽美派のメッカに。白秋の『東京景物詩』、杢太郎の『食後の唄』はこの会の記念的作品です。
(かん)(ちょう)(ろう)歌会 観潮楼とは森鴎外が住む家のことで、森鴎外が『青年』『雁』『高瀬舟』など数々の名作を著しました。観潮楼歌会はここでの歌会のこと。場所は文京区千駄木1-23-4。
一月十三日の水曜日も雲であつた。午後四時から上野精養軒で「靑楊會」があつた。是れは第何回のものであつたか。靑楊會とは、上田敏先生の洋行送別會が上野の精養軒であつたのを第一の機曹としてその後その家で時々催されたものである。僕の日記には唯「上田氏怪氣焰。永井荷風。」と記してあるばかりである。然しかう云ふ斷片的のものから當時の文學的雰圍氣を通つて來たものには直ぐいろいろの聯想が附くことと思ふ。
 その一月の間に僕は南蠻寺門前の小戲曲に着手し、前半はわけもなく出來たが、後になるに從つて思想が纏めらなくて閉口した。
 當時の交友は新詩社を中心とした諸君で、一月十七日の日曜日には午後二時本郷森川町の蓋平館本店といふ下宿に石川木を訪ねた。石川が昴二月號の編輯をやつてゐたことは既記の如くである。そこに吉井勇が居た。吉井と共に寓居に歸り、夜はまた南蠻寺にかかつた。あと五六枚のところで煩悶してゐたのである。
 一月十八日も午後から雪となった。さんざ苦しんだ揚句豫期しなかつた着想を得て、膝を打ち、午後四時半に至つて到頭書き上げた。そして女中に糊入の美濃紙を買はして、大急ぎで淨書し、森先生の御宅へ電話をかけると、來てもよいといふ返事であつた。
 晩餐の後直ぐ家を出たが、その途中ふと追分なる島村盛助の宿へ立ち寄つて此原稿を見せた。
 談後島村が批評を始めて、中々言葉が切れない。こちらは氣が氣でなかつたなどといふことも思ひ出される

美濃紙 岐阜県美濃市で()かれている和紙の総称
島村盛助 しまむら もりすけ。24歳。英文学者、翻訳家、教育者で、明治42年に東京帝国大学英文科を卒業しました。岩波の英和辞典の編纂者の一人です。

青楊会(せいようかい) 上野(せい)(よう)(けん)で行いました。食べながら話を聞いたり歌を詠んだりなどしたのでしょう。
新詩社(しんししゃ) 正式には東京新詩社。1899(明治32)年、与謝野鉄幹を中心に創設。1900年創刊の機関誌《明星》は08年廃刊まで浪漫主義文学の拠点でした。妻晶子を始め、高村光太郎、平野万里、北原白秋、木下杢太郎、石川啄木、吉井勇ら新人が輩出しました。
森先生は直ぐ僕の原稿を讀み始められた。僕は傍から今どの邊が讀まれてゐるかを眺めた。
 森先生はそれを讀み了ると、はははははと笑つた。そしてだいぶいろんなものか並べてあるねと揶揄せられた。
 その時どう云ふ批評をされたか。餘り細くは批評せられなかつたやうに思ふ。今も覺えてゐることは、劇的のZuspitzung(これは獨逸語で言はれた)が足りない。それから修辭がまづいと斷ぜられたことである。森先生は當時ユリウス・バツブを讀んで居られ、その説に同感して居られるやうに見えた。それで僕はとに角校正の時は見てやらうと先生をして言はしむるまでに成功した。
 平野萬里君もあとから見えたので、一緒に森邸を辭した。その時は雪は已に息んでゐた。

Zuspitzung 激化、先鋭、先鋭化、尖鋭
修辞(しゅうじ) 言葉を美しく巧みに用いて効果的に表現する技巧や技術。レトリック(rhetoric)。
ユリウス・バツブ Julius Bab。ドイツの劇作家と劇場批評家。『演劇社會學』の著者。

一月十九日。火曜日の朝は七時からのバツフさんの佛蘭西語の講義を一時間聽き、八時二十分に石川木の宿に行き、その寐てゐるのを起して、疇昔の原稿の掲載方を頼んだ。そこに北原白秋も來り、二人で午食の振舞を受け、夜は與謝野さんの御宅に往き、原稿中の經文に振假名をして貰つた。この時は北原、石川も多分一緒であつたらう。「電車を四谷にて下り、天ぷら屋にて酒を飮み、藝術の事を談ず。」と日記に書いてある。
 一月二十二日、金曜日に石川の處に行くと、吉井君、平野君とも一人の人がそこに居た。當時石川は平野君に對して反感を有してゐた。その主な原因は昂をば短歌を主とすること明星の如くはせず、短歌をば六號活字で組まうと論じ、平野君の反對を受けたことにあるらしい。その不平をば三間ばかりの長い手紙に書いてよこした。その後この手紙を捜したが、どこかに行つてしまつて見つからなかつた。
 この頃僕に多大の感激を與へた本リヒヤルド・ムウテルの佛國印象晝派とゲオルグ・ブランデスの十九世紀思潮論であつた。またアアサア・シモンズマアテルリンクが流行で僕も之を拾ひ讀んだ。
 一月二十三日の土曜日にはまたパンの會があつた。人が集まらないで、明治座の山崎紫紅の破戒曾我を立見をしたりなどした。その日のパンの會には石井柏亭、北原白秋、長田幹彦、平野萬里、栗山茂等が集まつた。
 島村抱月の洋行土産の欧洲近代繪畫論は面白いが、肝腎の畫そのものは少しも分つてゐないのだと皆が判定した。予はその批評を書く役になつて、翌日その原稿を石川の處に持つて行くと平野萬里君が来た。

疇昔(ちゅうせき) 過去のある日。昔。疇は「以前」の意味
六號活字 六号活字。縦横約3ミリで、8ポイント活字と比べると、わずかに小さく、約7.5ポイント
リヒヤルド・ムウテル リヒャルト・ムーテル。Richard Muther。ドイツの批評家と芸術の歴史家
ゲオルグ・ブランデス ゲーオア・ブランデス。Georg Brandes. デンマークの評論家。ヨーロッパ文芸を痛烈に批評。
アアサア・シモンズ アーサー・シモンズ。Arthur William Symons. 英国の詩人、文芸批評家、雑誌編集者。
マアテルリンク モーリス・メーテルリンク。Maurice Maeterlinck。ベルギーの詩人、劇作家、随筆家
山崎紫紅 やまざき しこう。34歳。劇や歌舞伎の作家。主な作品は「破戒曾我」など
石井柏亭 いしい はくてい。 27歳。版画家、洋画家、美術評論家。東京美術学校洋画科を中退。
長田幹彦 ながた みきひこ。22歳。小説家、作詞家。早稲田大学英文科卒業。
栗山茂 くりやま しげる。23歳。東京帝国大学卒業。外務省入省。日本の元最高裁判所判事。

二月になつて昴の第二號が出た。成程短歌は皆六號活字で組んであつた。そして早野君の「抗議」が插人してあり、「短歌を六號にした事に就ては僕は一言の相談も受けなかつた。組んで來たのを見て僕は驚いて了つた。云々」と書いてある。それに對して石川君がまた「消息」といふ處でむきになって應戰してゐる。「小生は第一號に現はれたるが如き、小世界の住人のみの如き雜誌は嫌ひなり。その嫌ひなるは主として小生の性格に由る、趣味による、文藝に對する態度と覺悟と主義とに由る。小生の時々短歌を作るが如きは或意味に於て小生の遊戲なり。」云々。
 さう云ふ木が後來短歌によつて世評を得たのは、今考へると中々面白い。
 ところが僕の南蠻寺の原稿は少しも直つて居なかつた。あとで木を責めると、時日が切迫して森先生の處へ校正を廻すことが出來なかつたのだと言って辯解したが、僕は心の中ではそれは口實だと考へざるを得なかつた。木は何にでもかんにでも反感を持つ男で、自らは大家の添削を受けるなどといふことを好まなかつたので、僕の意を蹂躪したのであらう。その故に僕は千載一遇の機を失したのであつた。

蹂躪 じゅうりん。ふみにじること
千載一遇 せんざいいちぐう。千年に一度しかめぐりあえないほどまれな機会

小笠原島夜話①|北原白秋

文学と神楽坂

       一

(しま)自然(しぜん)(くわん)乃至(ないし)はその住民(ぢゆうみん)状態(じやうたい)()いて、(なに)(はな)せとお(つしや)るのですか。それなら差当(さしあた)()笠原(がさわら)(じま)のお(はなし)でもさしていただきませうか。
()いて極楽(ごくらく)()地獄(ぢごく)』と(まを)しますが、(けつ)してああいふ(はな)(じま)などに内地(ないち)(ひと)が、(なが)()めるものではありません。
 ()笠原(がさわら)(じま)(もと)随分(ずゐぶん)極楽島(ごくらくじま)だつたと、()(のこ)りの黒人(くろんぼ)(ぢい)などが、ある(ばん)(ばん)溜息(ためいき)()いて(わたし)(はな)して()れましたが、それは(あるひ)はさうだつたかも()れません。その(ころ)あの(しま)()もまた(わらべ)のやうな(うま)れた(まゝ)(しま)で、そこには(あか)(がけ)(りよく)(しよう)(しよく)岩壁(がんぺき)や、(たか)椰子(やし)や、林投樹(しんとうじゆ)や、モモタマ()(やぶ)などが、()(とほ)つた瑠璃(るり)(いろ)(そら)海水(かいすゐ)とに、強烈(きやうれつ)()熱帯(ねつたい)色彩(しきさい)耀(かゞ)やかしてゐる(ほか)には、あの、図抜(づぬ)けて阿呆(あはう)らしい信天翁(あはうどり)や、四()婉転(ゑんてん)として(うぐひす)瑠璃鳥(るりてう)()()れてゐるばかりで、毒虫(どくちう)一つゐず、太陽(たいやう)(おほ)きく耀(かゞ)やかしく、(つき)(おほ)きく(ほが)らかであり、(ほし)(おほ)きく光芒(くわうぼう)()いて、(ひる)()もただ燦爛(さんらん)とした自然(しぜん)(さう)()(つゞ)けてゐたのでした。

林投樹 アダン(阿檀、Pandanus odoratissimus)は、タコノキ科タコノキ属の常緑小高木。小笠原なのでアダンではなく、タコノキなのでしょう。ただし、戦後大量に固有種の「タコノキ」が都道の周りに植えましたがすべて純正品かは判りません。
モモタマ モモタマのジュズサンゴではなく、モモタマナ(桃玉菜。Terminalia catappa Linn、別名:コバテイシ、シクンシ科 )のことでしょう。巨大な葉が有名です。
瑠璃 やや紫みを帯びた鮮やかな青。16進表記で #2A5CAA
 
信天翁 アホウドリ(信天翁、阿房鳥、阿呆鳥)はミズナギドリ目アホウドリ科キタアホウドリ属です。
婉転 美しくまわり動いていること。
瑠璃鳥 オオルリ(大瑠璃、学名Cyanoptila cyanomelana)はヒタキ科オオルリ属です。青い小鳥です。
光芒 細長く伸びる一筋の光。尾を引くように見える光のすじ。
燦爛 光り輝いてあでやかなさま、まばゆくきらびやかなさま
たまたま、天明(てんめい)(ねん)土州(としう)船頭(せんどう)(にん)(おな)じく八(ねん)肥前(ひぜん)(ぶね)の十一(にん)寛政(くわんせい)元年(ぐわんねん)日向(ひゆうが)志布志(しぶし)(うら)船頭(せんどう)(えい)右衛()(もん)とその船子(かこ)の四(にん)都合(つがふ)十七(にん)(おな)じ一つの無人島(むじんたう)漂流(へうりう)して、(なが)いのは十二(ねん)(みじ)かくて七八(ねん)(つぶ)さに漂人(へうじん)としての辛苦(しんく)艱難(かんなん)(とも)にする(うち)に、その(なか)幾人(いくにん)かは病死(びやうし)し、やつと(のこ)りの人数(にんず)だけで、覚束(おぼつか)ない小舟(こぶね)(つく)つて、やつとの(こと)でハ丈島(ぢやうしま)まで()ぎついたといふ(こと)もありました。その(しま)(いま)でいふ鳥島(とりじま)かと(おも)はれますが、ああいふ(かぎ)りの()麗光(れいくわう)(なか)()つても、人間(にんげん)(けつ)して人間(にんげん)社会(しやくわい)(はな)れて()きてゆけないと()大事(だいじ)痛切(つうせつ)(かん)じられたに(ちが)ひありません。
天明 天明五年は1785年。 杉田 玄白、伊能 忠敬、大田 南畝などがいた時代です。
土州 土佐(とさ)国の異称
肥州 現在の佐賀県と長崎県(ただし壱岐(いき)対馬(つしま)を除く)。
寛政 寛政元年は1789年。寛政の改革は1787(天明7)年から1793(寛政5)年にかけて松平(まつだいら)定信(さだのぶ)が老中になり、大規模な幕政改革を行いました。
日向志布志浦 日向(ひゅうが)国の志布志(しぶし)湾。現在は湾、以前は浦。違いは湾は単に地形。浦は「湾」のうち「磯」や「断崖」ではなく、浅瀬の砂浜のこと。
船子 水夫。船子(フナコ)船長(ふなおさ)の指揮下にある。
辛苦艱難 かんなんしんくのほうが普通。人生でぶつかる困難や苦労
鳥島 伊豆諸島の無人島。特別天然記念物アホウドリの生息地としても有名。
麗光 美しい光
母島(はゝじま)伝説(でんせつ)()りますと、(かつ)てその(しま)漂流(へうりう)した内地(ないち)(じん)(うち)で、()(のこ)つたはただ船頭(せんどう)とその(つま)と、(わか)船子(かこ)との三(にん)でした。無人島(むじんたう)(をとこ)二人(ふたり)(をんな)一人(ひとり)です。1人(ひとり)(をんな)自然(しぜん)二人(ふたり)(つま)になつて(しま)ひました。其処(そこ)無人島(むじんたう)です。人間(にんげん)社会(しやくわい)(ほか)です。(かんが)へて(くだ)さい。その三(にん)にはその(とき)、ただ(ひと)つの共同(きようどう)()(まも)(こと)(なに)より神聖(しんせい)な、また痛切(つうせつ)緊要事(きんえうじ)でした。船頭(せんどう)とその(つま)とが洞窟(どうくつ)(よる)(ねむ)(とき)(わか)船子(かこ)は、一(ばん)(ぢう)その(そと)()つて、その()(まも)らなければなりませんでした。そしてまた、(わか)船子(かこ)自分(じぶん)(つま)とが(よる)(ねむ)(とき)船頭(せんどう)は、しよぼしよぼと()をしぱだたきながら、また一(ばん)(ぢう)洞窟(どうくつ)(そと)(かゞ)んで()(まも)らなければなりませんでした。船頭(せんどう)()いてゐる。船子(かこ)(わか)い。人間(にんげん)(つひ)人間(にんげん)です。船頭(せんどう)はある深夜(しんや)突然(とつぜん)激怒(げきど)嫉妬(しつと)()られて(おも)はず、自分(じぶん)(まも)つてゐた薪火(たきび)岩壁(がんぺき)にたたきつけて(しま)ひました。()()えて了ひました。その三(にん)生死(せいし)()が。
(うずくま)る。(つくば)う。かがむ。しゃがむ。
所謂(いはゆる)黒船(くろふね)提督(ていとく)ペルリ浦賀(うらが)()て、太平(たいへい)(たう)帝国(ていこく)(おびや)かして、一(たん)本国(ほんごく)(かへ)ると(しよう)して(みなみ)()つた(のち)再交渉(さいかうせふ)()北上(ほくじやう)したその(あひだ)は、(かれ)(かれ)艦隊(かんたい)()笠原(がさわら)(じま)父島(ちゝじま)(とゞ)めてゐたのだと()ひます。本国(ほんごく)へなぞは(かへ)つてゐなかつたらしいのです。(かれ)はその(しま)開墾(かいこん)し、石炭(せきたん)貯蔵庫(ちよざうこ)()て、部落(ぶらく)(つく)り、(のち)には整然(せいぜん)たる(とう)政治(せいぢ)()いたと申伝(まをしつた)へます。さういふ(ふう)にささやかでも人間(にんげん)同志(どうし)社会(しやくわい)組織(そしき)成立(せいりつ)すると、ただ絶海(ぜつかい)無人島(むじんたう)として、(ひと)をして(おそ)れしめ(すさ)まじがらせたその島々(しま〲)にも(はじ)めて(あたゝ)かな人間(にんげん)愛情(あいじやう)心音(しんおん)とが()()つて()ました。人間(にんげん)もまた、その燦爛(さんらん)とした自然(しぜん)麗光(れいくわう)(はじ)めて、安心(あんしん)して()にし(みゝ)にし、()れ、()ぎ、(した)しみ()した(こと)も、非常(ひじやう)(かんが)ふべき(こと)だらうと(おも*)ひます。無論(むろん)人間(にんげん)はゐなかつた(とき)も、一人(ひとり)二人(ふたり)漂流(へいりう)した()(とき)も、部落(ぶらく)ができ一(せう)社会(しやくわい)(かたちづく)つた(のち)も、その自然(じぜん)本体(ほんたい)には(すこ)しの異動(いどう)があつた(はず)はありません。そこへゆくと(さび)しいのは人間(にんげん)です。大勢(おほぜい)(あつ)まつて、(あい)道義(だうぎ)礼節(れいせつ)相互(さうご)扶助(ふじよ)とで()()はねば()きてゆけないのです。(なに)ものの麗光(れいくわう)感知(かんち)する(だけ)余裕(よゆう)()ちあはせないのです。
ペルリ マシュー・ペリー。ペルリ提督。米国の海軍軍人。1794~1858。東インド艦隊司令長官として、嘉永6年(1853)軍艦4隻を率いて浦賀に来航。日本に開国をせまり、翌年再び来航、日米和親条約を締結
石炭貯蔵庫 大正時代に大村にペリーの残した貯炭所があったといわれる。青野正男氏の『小笠原物語』によると、大正時代オガサワラビロウの古い屋根の下に炭が山積みになっていたという。昭和初期には屋根はなく石炭はただ野積みになっていた。
三頭政治 3人の実力者による政治体制
燦爛 華やかで美しいこと
ペルリの艦隊(かんたい)()つた(のち)も、(のこ)るものは(のこ)つたし、それに(ふね)から()(あが)つた黒人(こくじん)奴隷(どれい)密猟(みつれふ)船員(せんゐん)家族(かぞく)などが相変(あひかは)らず共同的(きようどうてき)安楽(あんらく)生活(せいくわつ)(つゞ)けてゐました。大統領(だいとうりやう)もゐました。無論(むろん)共和(きようわ)政治(せいぢ)です。(しか)しただ部落(ぶらく)(ちひ)さな(ひと)つの部落(ぶらく)()ぎませんでした、それだけ山野(さんや)食物(しよくもつ)豊富(ほうふ)なり、(して)して開墾(かいこん)せずともバナナもあれば椰子(やし)()もあり、自然(しぜん)恩恵(おんけい)少数(せうすう)(ひと)()にとつては()()るほど充実(じうじつ)してゐました。それに外界(ぐわいかい)との小面倒(こめんだう)交渉(かうせふ)()し、不純(ふじゆん)権勢(けんせい)からも圧迫(あつぱく)されず、ただ自然(しぜん)(とゝの)つて()秩序(ちつじよ)無文律(むぶんりつ)道義的(だうきせき)制裁(せいさい)とが、その社会(しやくわい)をおのづからな(うつく)しいものに(そだ)ててゆきました。それで(ひと)()もしぜんと珍草(ちんさう)奇木(ぶらく)愛翫(あいぐわん)したり、(はたけ)(つく)つたり、(たがひ)遊楽(いうらく)したり、自由(じいう)恋慕(れんぼ)()つたりしたらしいのでした。空腹(ひも)じくなる(ころ)には、工合(ぐあひ)よくまたぺルリの(はな)して()いたのちに、しぜんと繁殖(はんしよく)した(ぶた)群集(ぐんしふ)(やま)()りては部落(ぶらく)檳榔(びんらう)(ぶき)小屋(こや)(ちか)くに()いて()たさうです。それを甘蔗(いも)焼酎(せうちう)()()(なが)ら、厨房(コツクば)から鉄砲(てつぱう)()つたものだと()ひます。正覚坊(しやうがくばう)にしてからが、その(ころ)随分(ずゐぶん)湾内(わんない)游泳(いうえい)してゐたものださうで、二時間(じかん)丸木舟(まるきぶね)()(まは)れば、三(とう)や四(とう)無雑作(むざふさ)手捕(てど)りにする(こと)ができたし、(まつた)くその(ころ)小笠原(をがさはら)(じま)は一(しゆ)極楽(ごくらく)(たう)だつたに(ちが)ひありません。
大統領 共和国の元首
共和政治 特定の個人ではなく、全構成員の利益のための政治体制
檳榔 ビンロウ。学名はAreca catechu。ヤシ科の植物、太平洋、アジア、東アフリカの一部に。
正覚坊 しょうがくぼう。アオウミガメのこと