タグ別アーカイブ: 田中角栄

神楽坂純愛|深井美野子

文学と神楽坂

 深井美野子氏の『神楽坂純愛――田中角栄と辻和子』(さくら舎、2018年)です。この本は田中角栄氏と辻和子氏の恋を書いたものですが、ここに取り上げた文章は主に戦前の神楽坂を書いています。
 深井氏は1938年に浅草で生まれ、ロスアンゼルスシティカレッジに留学。帰国後、公演「松岡計井子 日本語でビートルズをうたう」でビートルズ72曲の訳詞を担当しました。

 神楽坂名物といえば、熊の形をした「熊公焼き」だった。中にあんこの入っている、今のどら焼きだ。街のいたるところで売っていた。店先に宣伝用に、生きた子熊を繋いている店もあった。
 金満津の女将は、生涯独身を通した人だったが、和子さんを養女にしてからは、母親の真似ごとくらいはした。
 よく坂の上の角にある「紅や」へ連れていってくれた。ケーキ類か並べてある喫茶側と、ちょっとした軽食を食べさせる店舗が並んでいた。
 真ん中の扉が、クルクルまわる回転扉だった。その扉を手で押して入るのが嬉しくて、何度もクルクルまわして入り直したものだった。店の売りものは、当時としては西洋風でしゃれていた、現在の「ハムトースト」だった。焼いたパンを三角形に切って、真ん中にハムを入れただけだったが、とても美味しかったという。
 神楽坂には他にも美味しい店がたくさんあった。
田原屋」はもうない。2002年に閉店してしまった。戦前から、水菓子屋と洋食店が中庭を挟んで縱に分かれていた。
 水菓子といえば果物のことで、要するに店先に、林檎りんごとか、バナナ、ぶどうが並んで売られていた果物屋だった。けれどふつうの八百屋で見る果物より高級そうに見えた。実際、高級品だった。
「田原屋」は、いいばし駅側から神楽坂を上り、沙門しゃもんてん数軒先にあった。
 金満津の芸者衆の中に、藤山ふじやま愛一郎あいいちろうのお妾さんがいたが、
「田原屋のビフテキさえ与えておけば大丈夫」
 といった話を母から聞いたことがある。当時先生は、70をとうにすぎていたと思う。各花柳界に、七人のお妾さんがいたという噂だった。そこで海外へ出掛けると、いつもおなじハンドバッグを七個買い求めたという。
 その他「田原屋」には、永井ながい荷風かふう菊池きくちかん佐藤さとう春夫はるお。古くは、島村しまむら抱月ほうげつ松井まつい須磨子すまこといった有名人もよく訪れたという。
 戦後は、サトウー・ハチローが通った店として有名だった。私も会ったことがある。
 本多横丁の「若松」へも、よく連れていってくれた。化粧前の芸者衆が立ち寄る、甘味処だった。おでんに茶飯、鍋焼きうどんにお雑煮。女性が好む食べものばかりだった。
 変わったところでは、焼き芋に注射をして甘くして売っていた「春駒」。本職はお汁粉屋さんだった。
 それから「グリル三国軒」も美味しい洋食屋さんだった。

子熊を繋いている店 深井氏によれば、「街のいたるところ」に、実際に「生きた子熊」までも登場し、「熊の形」をした、どら焼きだったといいます。少なくとも「熊の形」ではありません。また、「街のいたるところ」ではなさそうです。子熊が本当に登場したのか、これも不明です。戦前の深井氏は小学校の低学年であり、子供が見た神楽坂は相当違っていてもしょうがないと思います。
金満津 深井氏の「金満津」と、辻和子の「新・金満津」は同じ場所であり、軽子坂に寄った神楽坂2丁目でした(左図)。もう1つ、新宿区教育委員会「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)では、金満津は大正11年頃に神楽坂仲通りから1歩奥に隠れた「かくれんぼ横町」にありました(左図)。神楽坂通りの図も参照に。
   
紅や 紅谷のこと。
回転扉 右の写真は回転扉はありません。大正10年、3階建てに改築したので、その時に回転扉もつけたのでしょうか。
水菓子 果物のこと。しかし、現代の「水菓子」とは水ようかんやくずもちなどの総称で、甘くて水分の多い菓子に使うことが多いと思います。
数軒先 実際には隣でした。毘沙門天の門から離れているので、錯覚するのでしょう。
藤山愛一郎 財界出身の政治家。大日本製糖社長。1951年日本航空会長。1957年、岸首相の要請で外相に就任し、日米安全保障条約改定の当事者に。70年から日中友好を促進、超党派の「日中国交回復議員連盟」「日本国際貿易促進協会」の会長に。生年は明治30年5月22日。没年は昭和60年2月22日。享年は満87歳。
若松 春駒 雑誌『ここは牛込、神楽坂』第5号「本多横丁」に3軒がでていますが、「春駒」ではなく「春菊」では?

グリル三国軒 中屋金一郎編著「東京のたべものうまいもの」(北辰堂、1958)では

「三国軒」という出前専門といった式の西洋料理屋。白いエプロンのようなひだのあるのれんをかけた店で、中へはいると、コック場と仕切って白木のカウンターがあり、椅子がならんでいる。おくについたてをおき、四五人すわれる畳敷の間がある。出前が主になっているものの、そこでもカンタンに食べたり、一ぱいのんだりできるようになっている。少し古風な印象がおもしろい。給仕はそこのコックさんだったり、主人だったり、配達の少年だったりして女っ気がない。カレーライス、ハヤシライスが百円で、たっぷりあって味がいい。トンカツ、えびふらい、えびのマヨネーズ、ビフステーキ、二百円以上だが、実質的にやすい。出まえといってもだいたい料亭(待合)が客の注文をきいてあつらえてくるのが大部分であるときいた。飾りけはないが掃除が行きとどいて清潔なかんじ。

逆転式一方通行

文学と神楽坂

 神楽坂通りの逆転式一方通行はいつ始まったのでしょうか。まず逆転式一方通行についてですが、『神楽坂 まちの手帖』第7号(2005年1~3月)を読むと

角栄伝説は生きている!

出田竜祐
明治大学政治経済学部経済学科4年

 神楽坂通りには伝説が生きている。
 一方通行がある。午前中は早稲田から飯田橋方面に車が流れる。だが午後になると、車の流れが逆になる。
 「こんな交通規制の道路は、他に聞いたことがない」と誰もが言う。両幅は約5メートル、車2台が通れる道路の両脇には商店が軒並み並んでいる。
 神楽坂通りには、ある大物政治家との噂がある。その政治家の名は故田中角栄元内閣総理大臣だ。
 この通りは、田中氏が目白の自宅から国会に登壇する時の通勤ルートにあたり、田中氏が幹事長時代に、目白からの出勤時には下りの、退勤時には上りの一方通行にしたという根強い噂がある。
 讐視庁牛込署交通課の方に話を訊いた。
 「通行は自動制御で正午に切り替わるが、午後1時までの一時間は歩行者専用道路になる。なので、自動車同士の正面衝突はまず起こらない」
 ここ数年は交通事故も起こっていないとのことだ。
 「神楽坂下」交差点付近に店を構える写真屋の方とも話してみた。
 「それが当然で特に不満もありません。運転する方くらいは困っているのではないのでしょうか」
 まったく気にしていないようだ。前出の交通課の方は、
 「歴史溢れる細い通りが幾つもある商店街を、街の人々と守っていくのです」
 神楽坂通は、この街と舞妓を愛した田中角栄の伝説とともにずっと在り続けていくのだろう。

 ウィキメディアでは

 実際の理由としては、急激な交通量の増加で規制を求める声が上がり、その最中に通り沿いの陶器店に車が突っ込む交通事故が発生、これが元で規制が行われたものの周辺で大渋滞が発生したことから、1956年(昭和31年)に都心から西側の住宅地に向けた一方通行となり、1958年(昭和33年)に現在の逆転式一方通行になった。
◆東京新聞 2012年6月6日朝刊最終面『東京トリビア「時間帯で一方通行が逆転 神楽坂に角栄伝説」』

 朝日新聞では逆転式になったのは1961年5月になっています。(朝日新聞、2016年11月3日朝刊)。

 2007年、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』では、

 このころの神楽坂通りは対向通行であり、車道を狭くするため歩道がつくれなかった。いまのように安心して歩道を歩ける状況ではなかった。昭和三十八年(1963年)ごろ、町では一方通行と歩道をつくる運動を始めている、安心して買い物のできる歩道づくりのために、神楽坂通り商店会による新宿区役所や本庁交通二課への陳情をおこなった。市会議員の中村俊二の尽力で、歩道工事着工が決まった。通りの側溝の上にあった段差のある御影石を取り除き、歩きやすい歩道かできあがったのである。昭和二年から石に滑り止めの筋を入れて舗装に使われていた御影石は、側溝のふたに使われた。
 そんなおりに、神楽坂二丁目の陶器店「陶柿園」で、一方通行下りの車の突入事故が起きたのである。その結果下りは危険だということで、車は上りの一方通行になった。それからの飯田橋の五差路や大久保通りが渋滞するのは、神楽坂が一方通行にしたためであると大手新聞社の投書欄に大きく掲載された。このように狭い道路での渋滞は深刻さを増し、交通公害も問題になりはじめて、道路にもそれぞれの規制をもうけるようになった。
 神楽坂通りは、午前は坂を下り、正午から一時間のランチタイムは歩行者天国。そして午後は坂を上る。これは逆転一方通行という全国でもまれな通りになった。また日曜、祭日は、正午から午後八時まで歩行者天国となった。だが、この決定は通り商店会や町会になんの相談もなく警察署から通達されただけだという。これは陶柿園への突入事故が上下通りの入れ替えのきっかけとなり、渋滞解消も合わせた妙案として検討されて決定された事項ではないだろうか。
 この方式は、昭和五十四年(一九七九)四月一日より、九段から神楽坂通りを経て、神楽坂駅矢来出囗の矢来町一二六番地まで延長され現在にいたる。これが決まったのは、神楽坂をこよなく愛した故田中角栄元首相の影響力ではないかと噂されていた。この件でテレビ番組の取材も神楽坂商店街の数軒にあった。日白にある田中邸から毎朝、神楽坂通りをぬけ永田町へ行くのが最短で大変都合が良い。また永田町からの帰りに上りの一方通行になればなお結構であると、角栄元首相の鶴の一声で決定されたのではないかというのである。
 このまことしやかな話が一人歩きするのも、当時の角栄の実力を象徴していて説得力がありそうにみえる。だが、この方式がスタートした昭和五十四年は、当時角栄はロッキード事件の渦中にあったし、また渋滞の苦情は新聞投書で大きく報じられ、ただちに午前と午後の逆転通行に決定されている。とても角栄先生におうかがいをたてるような状況下でも案件でもなかったのである。全国でもめずらしいこの一方通行は、午前中は、都心に向かう通勤車両が多いので九段方向への一方通行となり、午後は、とうぜん逆転となったことか理由のようである。

 また2011年、市ケ谷経済新聞では

「神楽坂がまるごとわかる本」の著書がある渡辺功一さんは「以前の神楽坂通りは対面通行だったが、歩道を作るにあたり車道が狭くなることから一方通行に変わった」と話す。しかし、一方通行にしたことで大久保通りなどは渋滞。当時、朝日新聞の投書欄には大々的に「神楽坂通りの一方通行は不便で困る」との声が寄せられた。これにより、「逆転式一方通行」が誕生。「このような通りは都内では唯一、日本でも唯一と言っていいだろう」と渡辺さん』(「田中角栄」説は本当?-神楽坂「逆転式一方通行」誕生の経緯。2011年02月12日)

  ウィキメディアによれば、昭和31年(1956年)に一方通行、1958年に現在の逆転式一方通行になり、朝日新聞では逆転式は1961年5月になっています。一方、渡辺功一氏は一方通行はいつ起こったか、その時期は全く触れてはいません。

料亭「松ヶ枝」(昔)|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 今ではなくなってしまいましたが、神楽坂5丁目に佇む大料亭「松ヶ枝(まつがえ)」がありました。現在はマンションです。場所はここ
『ここは牛込、神楽坂』第8号で筆者(おそらく編集長の立壁正子氏)は「ありし日の料亭『松ヶ枝』のこと」を書き、

 設計したのは神楽坂六丁目の木村建築事務所の故木村兵吉氏。
「これが取り壊されたとき、昔を知る者としては涙が出る思いでしたよ。まさに強者(つわもの)どもが夢の跡という感じで」 と、開口一番、事務長さん。
「この建物ができたのは、昭和二十八年で、その後二回ほど増改築して、二階に三十畳の広間ができたんです」
 それにしてもすごいスケール。広さは「駐車場も含めて四百坪」。幾つかの棟が廊下で結ばれているところなど、平安時代の寝殿造りを思わせるが……。(中略)
 この渡り廊下の床板が木琴のように横に何枚も敷かれていたというが「あれは作曲家の古賀政男氏のアイデア」だったとか。一方では、こんな有名人の遊びもあったのだ。
「庭には立派な池もあって、その池の中に張り出した釣殿みたいな座敷があってね。池には橋が架かっていて、鯉もいたけど、あれは確か……」
 と、ここで、今 は亡き元総理の名が…。

 恐らく田中角栄氏の名前が出たのでしょう。

 水野正雄氏は『神楽坂まちの手帖』第5号『花街・神楽坂の中心だった料亭「松ケ枝」』で、

「松ヶ枝がどんなに大きくて繁盛していたかは、下働きの女中だけで50人はいたことを話せば想像できるでしょう。下働きの女中さんというのは、料理もここで作っていましたから食器を洗ったり、掃除をしたり浴衣や敷布を洗濯したり。」

元松ケ枝のマンション

蕎麦の春月、蒲焼の橋本、松ケ枝、毘沙門天、田原屋

中央下が「松ヶ枝」

 創業者はお(たけ)さんで、創業は明治38年。お(たけ)さんは民主党の代議士・三木武吉の妾さんです。神楽坂で一番の料亭だといわれていました。

 ちなみに三木武吉代議士では一番有名なものはwikipediaの語りによれば

戦後、公職追放解除後の第25回衆議院議員総選挙では、選挙中の立会演説会で対立候補の福家俊一から「戦後男女同権となったものの、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」と批判された。ところが、次に演壇に立った三木は「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者がある有力候補と申したのは、不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重なる一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私にと、三木は考えます。なお、正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども、恥とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」と愛人の存在をあっさりと認め、さらに詳細を訂正し、聴衆の爆笑と拍手を呼んだ。

 ただし、エピソードが違えばこの妾の数も違っています。

某日、演説中に「六人の妾はどうした!」と聴衆から野次られると、即座に「いや、六人ではなく正確には七人いるが、皆、キチンと面倒を見ているから御心配無用!」と切り返したというのは、あまりにも有名な逸話である。(浅川博忠『自民党ナンバー2の研究』(講談社文庫,2002年,p.185)

 元総理大臣田中角栄が芸者辻和子と逢っているのもここ料亭、松ヶ枝です。

つぎは
毘沙門横丁
神楽坂の通りと坂に戻って

神楽坂|東京神楽坂組合

文学と神楽坂

伏見火防稲荷神社があり、次に「見番けんばん横丁」の標柱があります。この標柱には

芸者衆の手配や、稽古を行う「見番」が沿道にあることから名付けられた。
稽古場からは時折、情緒ある三味線の音が聞こえてくる

と書いてあります。平成23年(2011年)12月22日に新宿区はここから図では左手の方向に見える路地を見番横丁という名前を付けました。 

その青い標柱があり、その裏の建物は、全く普通の建物ですが、これが見番を行う建物です。場所はここ。見番は検番とも書き、芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所や稽古場のことです。東京神楽坂組合の稽古場はこの上の建物になっています。

見番5

少し左を見て、この建物も東京神楽坂組合の建物で、事務所に当たります。

なお、東京神楽坂組合は田中角栄が建てた家としても有名ですね。


ここで 熱海湯階段に行く場合は ここ
見番横丁に行く場合は ここ
伏見火防稲荷神社については

神楽坂の通りと坂に戻る場合は

文学と神楽坂