平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(展望社、2006年)の「神楽坂三十年代地図」です。この本は平綴じのため、これ以上頁を開くことはできませんでした。まあ、これで十分読めます。
本文の左下に「昭和35年度 神楽坂周辺詳細図より」と書いてあります。残念ながら、この「詳細図」は「国立国会図書館」でも「新宿区立図書館」でもありませんでした。
2つに分けると、解像度が上がり、もう少しきれいな図になります。
平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(展望社、2006年)の「神楽坂三十年代地図」です。この本は平綴じのため、これ以上頁を開くことはできませんでした。まあ、これで十分読めます。
本文の左下に「昭和35年度 神楽坂周辺詳細図より」と書いてあります。残念ながら、この「詳細図」は「国立国会図書館」でも「新宿区立図書館」でもありませんでした。
2つに分けると、解像度が上がり、もう少しきれいな図になります。
「街頭テレビ」って知っていましたか? 昭和28年2月に日本放送協会(NHK)が、8月には日本テレビ(NTV)が開局し、同時にNTVは「街頭テレビ」を繁華街、駅頭などに設置していきます。
サラリーマンの初任給が1万円に対してアメリカ製のテレビは30万円近く(NHKアーカイブス)なので、高価なテレビを買えない庶民が娯楽を楽しむのは、これ以外に方法がありませんでした。
翌年2月には、東京蔵前国技館で行われた力道山・木村政彦対シャープ兄弟のプロレスをNHKとNTVが同時に中継して、新橋駅の街頭テレビには2万人の群衆が押し寄せました。
神楽坂では毘沙門天に街頭テレビが設置されました。
けやき舎の「神楽坂まちの手帖」12号「あの頃の神楽坂」では……
●毘沙門様に街頭テレビがあってさ。もう塀の上まで人が鈴なりになってた。
●テレビは日テレが置いたんだ。確か、最初は日テレしか写らなかったかな。
10年後、テレビの世帯普及率は90%を越えると、街頭テレビもなくなっていきます。
NTVテレビ・スタンド 日本テレビ放送網(NTV)では20日から試験放送を開始するが、これに先立って御自慢のテレビ・スタンドの備付けを18日から始めた。これは42台の大型受像機(27、21インチ)を東京ならびに近県の繁華街、駅頭などに備え付けるほかテレビ・カー2台に各27インチの受像機をのせていたるところに進出、映像をふりまこうという、いわばテレビ機動部隊のシステム。第一陣は東京日比谷公園公会堂前広場のプラタナスの木がけにすえつけられ、同日午後2時から都民に初のお目見得をした。
高さ3メートル、幅1.5メートルのスマー卜な白色の塔で、上部に27インチのゼニス・テレビ受像機が納められ、わきには高さ4メートルのアンテナが立っている。この日はまたNTVの電波は出ていないからNHKのをかりての試験だが、もちろん映像は鮮明。
この夜今夏の最高気温に押し出されて公園に夕涼に出かけた人々の群れが『これは便利なものが出来た』とイスまで持ち出して去りやらぬ人気ぶり。なおこの大型受像機の設置場所は次のとおり決った。(カッコ内インチ数)
東京都内=東京新名店街内(27)銀座尾張町日本堂前(27)日比谷公園公会堂前(27)新橋駅西口広場(27)水天宮境内(21)江東楽天地内(27)浅草雷門(27)渋谷駅前(27)新宿駅前青木靴店(27)神田神保町富士屋(27)巣鴨とげぬき地蔵前(27)上野公園池の端(27)神楽坂毘沙門天境内(21)戸山アパート中央広語(21)恵比寿駅前(27)五反田駅前紅谷(21)麻布十番日活館前電気店(21)高円寺駅前(27)中野駅前(21)大井町駅前(27)朝日新聞本社前(27)毎日新聞本社前(27)読売新聞本社前(21)▷東浜急行=品川駅内(27)同川崎駅前(27)同浜松駅内(21)同横須賀中央駅内(21)▷東武電車=池袋駅内(21)同浅草駅前(21)▷京成電車=上野駅(27)日暮里駅(27)成田駅(21)千葉駅(21)▷その他=横浜桜木町駅前読売ビル(21)逗子駅前小公園内(21)八王子繁華街(27)前橋市明治食品前(27)浦和市繁華街(21)水戸市繁華街(21)宇都宮市明治商事前(21)鎌倉駅前浅草食堂(21) 1953年8月19日 読売新聞
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歩道です。いつから歩道はできたの?
昔ははっきりした歩道はありませんでした。写真は昭和27年頃の神楽坂3丁目です。これを「歩道ができた」と考えられてもいい写真です。ただし、縁石は低いままです。
神楽坂2丁目のID 28も昭和27年で、「歩道はどぶ板しかない」と書いています。この時、メトロ映画館では「情無用の街」をやっていました。その下には、縁石があってもいいようにも見えます。
昭和20年代後半、神楽坂5丁目は歩道には濃淡の2色があり、縁石があっても歩道と車道はほぼ同じ高さです。
「色つき歩道」の写真もあります(新宿区「新宿区15年のあゆみ」新宿区、昭和37年)。
昭和28年以降の神楽坂3丁目はあまり変わっていないようです。歩道の縁石はここでは高くなっていません。しかし、これは縁石が部分的に低い歩道なのかもしれません。
昭和29年、神楽坂1丁目に縁石は高いようです。
昭和32年にも縁石が高くない歩道が出ています。しかし、向かって左側の歩道の縁石は高そうです。縁石が部分的に低い歩道でしょうか?
昭和33年には縁石が高い歩道が出てきます。
2006年、けやき舎「神楽坂まちの手帖」第12号の「津久戸小学校(昭和31年度・佐藤学級)ミニ同窓会」では昭和29年に歩道はできたと、2丁目の上田さん(十奈美社長)は確定します。この場合には「歩道には濃淡の2色があって、縁石も十分高い」場合に「この歩道ができた」といえるのではないでしょうか。
上瀧 20年代の後半頃だと思うんだけど、雨の日に坂上の方を走ってた自動車のブレーキが突然壊れちゃって、そのまま落ちてきたんですよ。それがたまたま私にぶつかって。 平松 えっ! 上瀧 それがきっかけで歩道が出来たって、この間チラッと聞いたんですけど。 上田 いや、あの頃はね、そういう事故が沢山あったんですよ。うちも一回、タクシーが飛びこんで来たんです。運転手がおしっこしようと思って路地に行ったんだけど、サイドブレーキがちゃんとかかってなかったから動いちゃって、それがショーウィンドウにドカーンって。人の被害はなかったですけどね。坂の店は大抵被害を受けてますよ。それで、なんとかしてくれという事で陳情したりして。夏目さんに色々と苦労話を聞きました。 平松 歩道が出来たのは何年でしたっけ? 上田 昭和29年です。最初はね、ちょっと洒落たレンガ色の石が敷きつめてあってなかなか良かったんだけど、学生がはがして投げるからっていうんで、アスファルトに変えられちゃった。味気ないよね。 平松 そういえば、毘沙門様の縁日も盛大でしたよね。 上田 助六さんのあたりまで屋台が並んでね。戦後ずっとやってなかったのが、小学校の頃に復活したのかな。 上瀧 お祭りも盛んだったよね。佐康先生が「お祭りの地区の人はお掃除しなくて帰ってもいい」なんて言ってたくらいだから。 上田 そうそう。 土屋 思い出したけど、校門の前に行商人が来てたね。 平松 津久戸小学校の? 土屋 ええ。 上田 カタ屋さん? 土屋 そう、それで二週間くらいいて、売れなくなるといなくなっちゃう。あと、エックス線で骨が見えるのぞき眼鏡とか。 上田 手品のトランプとか、がまの油。面白かったよね、みんないんちきだったけど(笑)。 |
「歩道が出来たのは何年でしたっけ?」と聞かれて、十奈美社長の上田邦彦さんは「昭和29年です」とはっきり、くっきり答えました。以来「神楽坂まちの手帖」も歩道は昭和29年にできたと答えるようになりました。この返答こそが最大の武器だったのです。
上瀧 上瀧日出子さん。旧姓・山本、主婦
平松 平松南。本誌編集長。
夏目さん 夏目写真館、夏目正衛氏。
上田 上田邦彦さん(十奈美社長)
洒落たレンガ色の石 これが「色つき歩道」でしょう。
助六さん 助六履物店。毘沙門天より120メートルほど坂下。
土屋 土屋唯之さん(旧姓・森林、東京理科大学教授)
カタ屋さん 粘土、カタ、色を売る露天商。子供はこの三点を買い、粘土をカタ(金魚、船など)にはめ込み、カタからはずしてそれをきれいに彩色する。上手く出来るとカタ屋さんが点数をくれ、この点数を集めると粘土やカタと交換してくれる。
通行 | 時期 | ウィキメディア =東京新聞 | 朝日新聞 | 渡辺功一氏 |
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歩道(2色、高い縁石) | 昭和29年 | |||
対面通行 | 昭和31年以前 | |||
陶器店での交通事故 | 昭和31年。他にも事故が多発 | |||
一方通行 | 昭和31年 | 不明 | 不明 | |
逆転式一方通行を発令 | 昭和33年 | 昭和36年 昭和36年5月 | 不明 | |
逆転式一方通行(神楽坂通り)実施中 | 昭和34年頃(ID 7002、ID 31)、昭和35年頃(ID 5510) | |||
逆転式一方通行(牛込橋) | 昭和37年から42年までに実施中 | |||
歩行者天国の発令(神楽坂通り) | 昭和45年11月15日 |
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歩行者天国の実施中 | 昭和47年秋?(ID13152)昭和48年2月(ID 8805)昭和51年頃(ID 11482) | |||
逆転式一方通行の範囲拡大 | 不明 | 昭和54年 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 479、489-90、11462-464は、昭和51年8月、飯田橋歩道橋の上から神田川やそこにかかる橋などを撮影したものです。
ID 489とID 11462は神田川の下流方向を撮っています。左から植物に覆われて突き出しているのは文京区の「市兵衛河岸」です。小屋があり、ガラス扉の中にイスが見えます。昭和55年の住宅地図では「都市◯地再開発(事)飯田橋工区」とあり、工事の詰め所のようなものでした。
その奥、首都高速道路の橋脚ごしに見えているのは「飯田橋公共職業安定所」(現・ハローワーク飯田橋)。さらに右にクレーンが見えているのは、中央大学の旧後楽園校舎(文学部)を解体しているのでしょう。
神田川の右岸は千代田区です。古めかしい「釣り具」の看板が見えるのは、かつて外堀や神田川で釣りを楽しむ人がいたことを示しています。
ID 490−491とID 11463−11464は、やや手前の橋を撮影しています。誤解されがちですが、この橋は文京区と千代田区をつなぐ「船河原橋」です。
船河原橋
飯田橋の直ぐ東側に船河原橋がV字状にあります。外堀通りの内回り左折車の一方通行路として、交通渋滞の緩和に役立っています。もともとの船河原橋は飯田橋と「カギ形」に新宿区と文京区を結ぶ外堀通りの橋です。この橋は江戸図にも出てくる古くからある橋です。現在の橋は昭和45年(1970)に架けられたコンクリ-ト橋です。この橋から枝分かれした形で飯田橋とV字形に並んでいますので、飯田橋の一部と見られがちです。
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船河原橋は一見すると2本あります。メーンは文京区と新宿区を結ぶ大きな橋で、外堀通りの一部です。その橋が神田川の上で左にV字に大きく分岐し、千代田区につながっています。これも船河原橋です。
飯田橋は千代田区と新宿区を結び、目白通りの一部です。ID 491では右下のコンクリート製の欄干部分が飯田橋になります。
神田川の右側は近いところから…
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 474とID 12189は昭和51年(1976年)下宮比町のおそらく歩道橋の上から南西の神楽河岸方向を狙ったカラー写真で、ID 479とID 11456は昭和51年8月、モノクロ(白黒)写真です。
手前の目につく街灯は水銀灯かナトリウム灯でしょう。中央は外堀通り。自動車はヘッドランプが丸く、時代を感じさせます。
外堀通りの町並みはこの当時、右側は下宮比町、左側は神楽河岸だったようです。その後に区境変更や住居表示があり、現在は右側は揚場町、左側は千代田区になっています。
下宮比町→神楽河岸(平成51年) | |
▶は歩道上で車道寄りに看板等がある |
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 473、13055、13081-85は、昭和45年1月に目白通り、神田川、首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しました。資料名は「新小川町二丁目大曲付近」です。しかし、住居表示が変わり、2丁目はなくなってただの「新小川町」になりました。
ID 13055、13084-85は南側から北側の大曲までを撮影しています。目白通りは2車線ずつの対面通行で、神田川の上に首都高があり、その下で川を渡るのは白鳥橋です。目白通りを通るとT字型の「大曲交差点」となります。信号機は一見すると確認できませんが、カバーなどで覆われているだけでしょう。 少し前の昭和44年9月のID 12776-79では、大曲付近の掘削はまだ着手していないように見えます。まず下水管を整備し、そのあとで分水路の建設に着手したのでしょう。 |
ID 473、ID 13081-83は、南向きの撮影で、遠くに飯田橋交差点の歩道橋が見えます。首都高の下の橋は隆慶橋です。 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17078-80は、令和4年3月、神楽坂五丁目から西向きに神楽坂上交差点や神楽坂六丁目方面を撮影した写真3枚です。
中央の前後の通りは「神楽坂通り」、その先に出てくる南北(写真では左右)の通りは「大久保通り」、2つの交差点は「神楽坂上」交差点です。
神楽坂通りは0時から12時までは東向きで神楽坂を下り、12〜24時は西向きで、上がります。ランチタイムの12〜13時は歩行者専用道路です。
車道と歩道はアスファルト舗装ですが、歩道はインターロッキングという小型ブロックのかみ合わせです。
灯具は令和4年2月から3灯タイプですが、将来道路になる場所では旧来の街灯を使っています。街灯柱は淡灰色で、下半分にビニール製の保護材と思われるものがあります。
外堀通りの歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗ってあり、これは「駐車禁止」の意味です。
インターロッキング インターロッキング(interlocking)とは、コンクリートブロックをレンガ調に組み合せて敷き詰める舗装方法で、翻訳は「つなぎ合わせた」「連結した」など。荷重がかかると、ブロック間の目地に充填した砂が働き、かみ合わせ(荷重分散効果)が得られる。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17576は、令和4年10月、神楽坂下交差点から坂上方向を撮影しました。
中央の信号の上に交差点名が「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」と表示されています。よく見ると英字はシール状のものを貼っています。かつては読み通りに「Kagurazaka shita」としていましたが、外国の人々に分かりやすいように修正したのでしょう。
左右は外堀通りで、前後が神楽坂通り。信号機にはゼブラ柄の背面板はなく、車道と歩道はアスファルト舗装。街灯柱は淡灰色で、街灯は3灯をまとめ、夜には明るく光っています。外堀通りの歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗ってあり、これは「駐車禁止」の意味です。回転式の「(車両進入禁止)自転車を除く 0-12」の標識も見えます。
神楽坂1丁目→坂上(令和4年) | |
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新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 16993は、令和4年(2022)2月、法政大学前からJR東日本の架線柱、牛込濠、外堀通り、市谷田町3丁目などを撮影したものです。タイトルの「市谷船河原町を望む」は残念ながら間違いです。
カメラが少しだけ左を向けば「新見附橋」や「新見附交差点」が見える場所でした。
外堀通り沿いが低層になっているのは、大久保通りと同じで都市計画による拡幅が予定されているためです。
少し下がった場所からは高い建物になります。
主にGoogle Mapを調べて、これらのビルは以下の通りでした。なお、写真で2/B、9/Fは同じ建物です。
市谷田町3丁目(令和4年) | |
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「随筆 めばえ」「随筆 かをり」「随筆 あをば」「随筆 もみぢ」「随筆 あらし」「随筆 みのり」は全て著作者と発行者は大崎省吾氏、発行所は修省書院で、発行年は昭和15〜17年です。
「随筆 めばえ」の最初の「序」 を読んでみましょう。
序 この齢になり、はじめて筆を執って原稿紙に親しむ。素より、文豪を以て天地を震撼させよう、そんな野望は毛頭ない。ただ、今日やっと此處まで辿って來た飛石づたひの一つ一つを、心のまに/\に拾ひあげ、昭和拾五年一月から書き始めた。それがはや、幾千枚と重つて來た。この秘めごと、人に見すべく語るべきものではない。そつと、筐底に藏くしておいた。處が、妻子どもの見つけて、その湮滅をおそれてにや、上梓をと、切に勸めるので、つい、世に公にすることにした。 |
どうもこの書き方、自費出版でしょうか。
「神楽坂」は「随筆 あをば」の一章で昭和15年10月15日に書いています。
神樂坂 人の往き來も、そはそはする十二月の< title=”すえつかた。末のころ”>末つ方、牛込の神樂坂の夜店を見に行つた。神樂坂といふと、東京名物の夜店市として、毎夜續々と押掛けたもので、また、どんな品物でも廉價多賣主義であつた。其の上に、神樂坂の長袖が群をなして練り歩く。それが一異彩を添へてゐたからでもあらう。また學生の一群が「牛込の神樂坂、車力はつらい……」という、當時流行の歌を高らかにうたつて通つてゐたのを覺えてゐる。そして、何方から行くにしても、行きづらい馬の脊のやうな所であるのに、それに、潮のやうに澤山の人が押し寄せる。昭和の世となつても相變らず、繁盛の土地である。 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14112は、市谷船河原町の逢坂を西向きに撮影しました。なお撮影時期は「昭和41年頃か?」となっています。
逢坂には円形のくぼみが沢山見えますが、これはOリングといって、自動車等の滑り止めです。
男性2人が逢坂を下り、男性3人と女性1人が立ち止まって話を交わし、男性1人が上っていきます。1人だけは長袖シャツとベスト、残りの男性は全て背広。木々は茂っていて、夏前か秋口でしょう。
逢坂(昭和41年頃) | |
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新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 14063は、平成31年(2019)2月、千代田区の法政大学前からJR東日本の架線柱、牛込濠、外堀通り、市谷田町3丁目や市谷船河原町を撮影したものです。
地図とGoogle Mapを調べて、これらのビルは……
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 13108-15は、昭和45年(1970)3月、牛込堀をはさんだ千代田区側から市谷船河原町や神楽坂1丁目を撮ったものです。ID 486(昭和56年頃)よりやや右側、外濠公園あたりにカメラがありました。
この8枚はほとんど同じ写真です。ここでは、ID 13108を詳しく見ていきます。
写真右側に東京理科大学の校舎群が見えます。一番高い②の7号館は、雑誌「ミスターダンディー」(1974年)の写真で数えると9階建てです。この建物は改修を経て現存しますが、手前➃の1号館(ID 12201の「理大薬学部」)と反対側が両方とも高層の校舎になり、目立たなくなってしまいました。
この場所は牛込台地に上がる急斜面で、いくつもの坂があります。坂の上の建物も見えていますが、よく分かりません。ひとつだけ推測すれば➆は神楽坂上の菱屋ビルの可能性が高いでしょう。
外堀通りの都電牛込線(外濠線)は昭和42年(1967)年に廃止、都バスが走っています。「美濃部カラー」と呼ばれた青白塗装でした。
美濃部カラー 昭和43年6月に美濃部知事(当時)の提唱でバスの塗装を改めることになり「クリーム色と青帯の通称『美濃部カラー』は昭和43年のR代とともに現れ、以来12年間一般車の標準色として親しまれてきた。それが、昭和55年8月に車体を入れ替えたミニバス13輌に対して黄色に赤帯の車輌が試験的に導入され、昭和56年3月導入のH代一般車から全面的に採用された(鈴木カラー騒動)」としています。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9921は昭和50~51年頃、市谷船河原町の逢坂を坂下の東向きに撮影しました。
遠くに千代田区のビル群や日本国有鉄道の中央・総武線があります。
逢坂には円形のくぼみが沢山見えますが、これはOリングといって、自動車等の滑り止めです。
女性が10人ほど坂を登ってきます。全員が若く見えて長袖で、コートやセーターを着ています。中央線の奥の土手のサクラが落葉していないので、季節は秋でしょう。全員日仏学院に行く場合もありますが、左端の女性が左手に靴を持っているので、理科大の柔道館に行く場合も考えられます。
逢坂(昭和50-51年頃) | |
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地元の方からです |
足立屋は岩戸町2番地にあった呉服商です。経営者は岡田常次郎氏でした。常次郎氏の名は、日本紳士録(交詢社、明治25年)や高額納税者番付『栄誉鑑』(有得社、明治23年)などに出てきます。
人事興信録(大正4年、再録は名古屋大学)でプロファイルを見ると
1901年(明治34年)発行の『日本之名勝』3版に記事と店の写真があります。それによると…
初代徳兵衛は…万延元年(注・1860)、地を今の所に卜して商店を開きしが、当時牛込は都下にありても最も辺僻の域に属し…ことに維新の革命に際し、御家人、徒士ら皆去って顧客の大半を奪わるるに至りしも…百難を排除し 今日の盛運を見る。
二代はすなわち今の常次郎にして…ますます業務を拡張して今は区内有数の店舗なり。 (新字新かなで適宜省略)
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つまり初代徳兵衛が苦労して店を軌道に乗せ、養子である常次郎氏が大きくしたのでしょう。
牛込区史(昭和5年)によれば、常次郎氏は明治25年から大正2年にかけ、3度にわたって区議会議員を務めました。
また東京市及接続郡部地籍台帳 1(明治45年)によれば、常次郎氏は牛込区内に25筆・3781.68坪(約12,400㎡)の宅地を所有していました。商売が順調だったことが想像できます。
常次郎氏は大正9年(1920)に隠居し、家督を長男に譲ります。長男は襲名して2代目常次郎となりました。足立屋呉服店としては3代目です。
その後、2代目常次郎氏の事業に変化が起きます。大正14年、牛込柳町に本店のある「有限責任信用組合第一金庫」の常務理事に名を連ねます。
また昭和2年、日本紳士録31版には「足立電話店/岩戸町3番地」として登録されます。
ちょうど関東大震災後の東京の復興期で、洋装化も進み、旧来の呉服商以外に多角化を図ったのかも知れません。
さらに昭和4年、日本紳士録33版では「足立屋両替店・債権売買業/岩戸町2番地」になります。この頃に初代から続いた呉服商を廃業したと思われます。
昭和5年、大衆人事録 第3版(帝国秘密探偵社、昭和5年)には「つとに呉服商を営みしが、現時足立屋と称し両替並びに債券売買業を営む」とあります。
以後、2代目常次郎氏は岩戸町2番地で金融業に従事します。昭和9年、帝国信用録 第27版では「証券売買・貸地業」。昭和11年、日本紳士録 40版では「信用組合第一金庫常務理事・足立屋両替店・債券売買」。昭和16年2月、足立屋証券株式会社を設立し代表取締役に就任します。
一方、信用組合第一金庫は政府主導の戦時統合で「帝都信用組合」に改組されます。本店は相変わらず牛込柳町で、組合長も信用組合第一金庫と同じです。2代目常次郎氏は理事のひとりでした。
市谷柳町の帝都信用組合旧本店は焼け残り、平成時代まで使われました。
しかし組合を改組した「帝都信用金庫」の本店は、岩戸町2番地の足立証券本社・2代目常次郎の屋敷の跡地に建設されました。
帝都信金は2000年(平成12年)に再編されて東京シティ信用金庫になりました。現在も、かつて足立屋のあった岩戸町2番地に神楽坂支店があります。
吹田順助氏の「分水嶺」(精興社、昭和37年)の「神楽坂界隈」を読んでみました。氏はドイツ文学者で、東京帝国大学独文科を卒業し、東京商大、中央大学などの教授を歴任。札幌で有島武郎と交遊。文芸思想史を研究し、ヘッベル、ヘルダーリンなどの作品を翻訳。
生年は明治16年12月24日、没年は昭和38年7月20日、死亡は79歳。
神楽坂界隈 私の少年時代はいわゆる日清戦争の前後で、戦争は別として、今から考えると、どこか大まかな、いい時代——ドイツ語でいうと、eine gute alte Zeit——で、殺人強盗というような殺伐な事件も、戦後のアプレ時代とははんたいに、数えるほどしか起らず、おこの殺しばかりでなく、野口男三郎——有名な漢詩人寧斎のむこ——のでん肉斬取り事件にせよ、クリスチアンの染井一郎——私の生れた二十騎町に住んでいた——の女房殺しにせよ、わりにはっきりと記憶に残っている。雨後の筍のように続出したいわゆるアプレ時代の、その種の犯罪、礼会悪ときたら、とても覚え切れるものではない。 神楽坂は震災後、とりわけ戦災でやられてからというもの、銀座や新宿街にすっかりお株を奪われた形であるが、私の少年時代は、老舗の立ち並んだ具合といい、毘沙門の縁日の夜の賑いといい、一方、山の手らしい、どことなくおっとりした気分のたたずまいといい、私たち、牛込ッ子にとっては、ただただなつかしい思い出の町である。 今の神楽坂停留所の近くにあった牛鍋やのいろは、古い講釈席で、むかしは例の「ぼたん燈籠」の円朝なども出たらしい鶴扇亭、肴町の角のたこ市という玩具や、その一、二軒先きの菓子舗の紅屋、相馬屋という大きな紙問屋、和良店亭という寄席のあった坂道の降り口の武田芳信(?)堂という古本店、そこから一、二軒向うの浅岡という大きな洋品店、その筋向うの尾沢薬舗、毘沙門天の向って右どなりにあった田原屋という果物店、その店の奥がその後のいわゆるグリル・ルームで、文士なども一時よく出人りした。毘沙門から先へ行くと、洋品店のサムライ堂、宮坂金物店、盛文堂という新刊書店——あのころの出版書肆というと、何といって博文館が筆頭で、私はよくそこで、『少年世界』や、小波(巌谷)山人の『二人椋助』、『黄金丸』、『近江聖人』というような本を買ったものだが、その店の後を廻ると、立ちならんだ待合の先に、青陽楼とかいった西洋料理屋……こう書いてくると、どうもきりがないようなものだが、坂下を右へまがってとっつきの島金——ときどき父に連れてってもらった、この古風な鰻やの名も、ぜひここに付け加えて置かねばならないであろう。 私たちはその時分、今の神楽坂通りのことを寺町と呼んでいたが、今もあると思う郵便局寄りの通りは、むかしは通寺町と呼ばれ、そこから左へ曲ったところに、飯塚というどぶろくやがあり、紅葉山人や浅田宗伯という当時有名な漢法医の住んでいた横寺町、その横寺町の通寺町寄りの左手に、大正五、六年ごろだったか、芸術倶楽部のけいこ場のような建物があって、そこは島村抱月のあとを追った松井須磨子の縊死したところである。郵便局の方から神楽坂の方へ向かってダラダラと降りてゆくと、右手に獅子寺(?)があり、その境内ではいわゆるお盆の十六日におえんまさまが開帳され、そこで私は子供のころ佐倉宗五郎ののぞきからくりなどを見たものである。その寺の先きにひところ、牛込勧工場というのがあり、それはその後のデパートの前身ともいうべきか、両側にいろいろの商店の並んでいる細い廊下のような路をグルグルと廻ると、また外へ出られるというしくみになっていた。そのはいり口の隣りあたりの路地をはいると、明進軒という西洋料理店があり、紅葉山人の日記をみると、訪客の誰彼を連れてときどきその店を訪れたことが書いてある。もう大正になってからであろうか、松山省三さんがその店の跡に、一時カフェー・プランタンを開店したことがある。通寺町をまがった岩戸町には、足立屋という大きな呉服屋と糸屋とが両側に向かい合い、そこの路地には川鉄という鳥料理店があり、箪笥町(まち)の区役所の前には、吉熊という牛込一の料理やの堂々たる二階建てが、あたりを圧してそびえていた。 毘沙門の縁日(寅の日)の寺町の賑いはまた格別で、とりわけ夏の晩方などは、夕涼みがてらの男と女や、子供づれが、浴衣がけでゾロゾロと練り歩き、まるで肩と肩とが擦れあうよう、通りにはそのころはやりだしたアセチレンガスを燈した夜店が、両側に立ち並び、境内にはときどき江川一座の玉乗りの一座や、田舎廻りの女相撲の小屋がかかったり、坂下へ近づくと、虫や朝顔の鉢や植木を売る店が見付の方へかけて並んでいた。そういう人込みをかきわけるようにして左棲(づま)を取った芸者や、高木履を穿いた雛妓が、提灯をぶらさげた男衆に伴われ、横丁の路地へ消えてゆく光景なども、神楽坂という町のアクセサリーであったであろう。 |
石田竜次郎・和歌森太郎共書「県別・写真・観光日本案内 東京都」(修道社、昭和36年)に下の写真が載っています。
飯田橋近くの外濠のあたり このあたりは濠を境に千代田区と新宿区が高台をなして相対している。写真は千代田区側の外濠公園から新宿区の対岸をみたところで、このへんには理科大学、日仏学院、研究社、家の光などの立派な建物が丘の中腹に集中していて、お濠をふくめての眺望はなかなかに趣きがある。 |
下から中央線・総武線の線路、牛込濠と貸ボート、外堀通りが見えます。さらに写真を左右の2つに分け、それぞれの建物の名前を見ていきます。最初は左側です。
参考は日本分県地図地名総覧(昭和35年、下図)、全住宅案内地図帳(昭和43年、2番目の図)、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス(整理番号 MKT636、昭和38年)、昭和45年のID 13108と昭和56年頃のID 486です。