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牛込電話局(細工町)

文学と神楽坂

地元の方からです
 このブログに以下のような記事があります。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂06
 牛込第一の大建築だという北町の電話局の珍奇な建物の前をも過ぎ……

電話局 正確に言うと、新宿区北町ではなく、細工町3-12にありました。新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』では大正12年にはまだなく、昭和4年になると、ここにあったようです。以来ずっとあって、現在はNTT牛込ビルです。

 文中の「牛込第一の大建築」が気になって調べてみました。
 明治中期に電話の普及が始まってからしばらくの間、神楽坂周辺の電話管轄は「番町電話局」(東京中央電話局番町九段分局)でした。
 東京区分職業土地便覧 牛込区之部(大正4年)で見ると
赤井儀平(神楽町1丁目、足袋店)番町2859
青木堂(通寺町、洋酒・食料品)番町275
升本喜兵衛(揚場町、酒類問屋)番町62
あまさけ屋(市谷田町、呉服商)番町125
といった具合です。電話を早く備えた方が若い番号と思われます。

 おそらく電話加入が増えたためでしょう。官報によれば、新たに「牛込分局」を開設し、電話交換業務を開始したのは大正12年(1923)1月28日でした。これ以降、神楽坂周辺の電話は「番◯◯◯」から「牛◯◯◯」に変わります。

 牛込電話局の設計者は、逓信関係で実績のある山田守です。

東京中央電話局牛込分局。
放物線アーチ屋根の階段室や半円アーチの屋根を持つ。山田の独自色を打ち出した最初の作例。外壁の付柱が屋上まで延長し、その天端は放物線形状をなして繰返している。

 4階建て(一部5階)は、なるほど目立つ建物だったでしょう。また独特の外観は、東京中央電信局(1925年完成)の先駆的作品とされます。
 山田守は後に、東京逓信病院(千代田区富士見)、東京厚生年金病院(新宿区津久戸町)を設計したことでも知られています。

 牛込電話局の開業から7カ月後の9月1日、関東大震災が発生します。震災では真新しい庁舎の外壁などに亀裂が生じました。

 しかし火災は免れ、第二次大戦の終戦後も使われました。

 電話局は地域の回線を収容する拠点なので移動は難しく、今もNTTの牛込ビルが建っています。

船つき場のあった船河原|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「市谷地区 16.船つき場のあった船河原」についてです。

船つき場のあった船河原
      (市谷船河原町)
 堀兼の井戸跡の先は外堀通りである。外掘がまだできていない江戸時代初期までは、外堀のところは富久町住吉町田町と続く谷間で、この谷間には川があり大沼などもあって飯田橋の方に流れていた。
 この川には日本橋の方に通じている船が通っていて、その船つき場がこのへんにあったので、このあたりの町名が船河原町と名づけられたのである(牛込11参照)。

「江戸砂子」は簡単に「むかしは大川の川原にて、船をつなぎし所也。市谷に大池あり、そのはき水のながれ也といふ。逢坂の下片町なり」と書いています。下片町しもかたまちは道の片側が川で反対側が民家だったことから。

富久町住吉町田町 図を参照。ここには旧紅葉川が流れていて(以下は新宿区地盤地形(3)各論 旧紅葉川沿いによる)田安家の下屋敷(四谷4丁目)辺りの湧水や富久町の満頭谷の湧水を合わせて東に向かい、現在の靖国通りの南側に沿って流れ、曙橋付近でジク谷(河田町、住吉町)の流れを合わせ、その後、市谷八幡町で四谷見附方面からの流れと長延寺谷の小流をあわせて、市谷から飯田橋へ外堀通りに沿って流れて、船河原橋際で神田川に合流した。上流は「桜川」、尾張徳川家上屋敷(現在の防衛省)正門から下流は「大下水」「柳川」「長延寺川」とも呼ばれた。紅葉川は、現在埋め立てられて道路になっている。

大沼 小石川大沼のことでしょう。

飯田橋の方 当時の小石川大沼の流れは、平川に合流し、河口付近の常磐橋では架橋し、江戸湾にそそぎ込む。現在、この流れの多くは日本橋川である。
船河原町 市谷船河原町。いちがやふながわらまち。新宿区北東部に位置し、北で若宮町、北東部で神楽坂、東で外濠、南で市谷田町、西で市谷砂土原町と接する。

タイのピプン首相亡命地|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「市谷地区 13.タイのピプン首相亡命地」についてです。

タイのピプン首相亡命地
      (南町2)
 加賀町から約五百メートル先の中町の東端十字路を右折する。右側の南町2番地は、タイ国のピプン首相の亡命地であった。
 ピプンは、第二次世界大戦中に日本に協力したので戦犯に問われたが、昭和23年にクーデターを起して政権をにぎった。しかし32年に再びクーデターが起きて失脚し、日本に亡命してここに住んだのであった。
ピプン首相 現在は「ピブーン」と表記。正確にはプレーク・ピブーンソンクラーム(Luang Pibulsonggram, タイ語 แปลก พิบูลสงคราม)。タイの軍人・政治家。1924年(26歳)から3年間、フランスの砲兵学校に留学。帰国後、人民党に入党し、1932年に立憲革命、さらに立憲君主制を樹立。1938年、41歳で首相に就任。国名をシャムからタイに改変。日本タイ同盟条約を締結したが、戦局の悪化とともに日本と距離を置き、1944年、独裁ぶりに反感もあり、ピブーンは辞表を提出。終戦を迎えて、英印進駐軍により戦犯容疑者としてタイ国内で拘置。1946年、無罪で釈放。1948年、クーデターで政権に復帰。1957年、新たなクーデターで政権の座を追われ、1958年、東京で亡命生活を送る。後にインドへ渡り出家。還俗後、1964年、神奈川県相模原市で一生を終えた。生年は1897年7月14日。没年は1964年6月11日、66歳没
南町2番地 南町2番地ではなく、払方町9番地では? 払方町9番地は「ビブンソングラム」氏の家でした。

ピブーン。人文社「日本分県地図地名総覧 1960年版」(人文社編集部。1960年)

払方町9番地のうちで、ここがピブーン宅か?

日本地理風俗大系|昭和6年

文学と神楽坂

 中村道太郎氏の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)です。

牛込見附 江戸開府以来江戸城の防備には非常な考慮が続らされている。濠の内側には要所要所に幾多の關門を設けて厳重を極めた。今やその遺趾は大方跡形もないが山手方面にはなほ当時が偲れる石垣や陸橋が残っている。写真が牛込見附で石垣が完全に保存されている
牛込見附 この「牛込見附」は「牛込御門」と全く同じ意味で使っています。
關門 かんもん。関所。目的を達するのに突破しなければならない難所。
跡形 あとかた。何かがあったというしるし。形跡。痕跡
偲れる しのぶ。偲ばれる。しのばれる。過去の事や遠く離れた人や、亡くなった人などを、しみじみと思い出す。
石垣が完全に保存されている 見附はもともと、石垣で囲まれた四角い空間(枡形)でした。明治中期までは完全に残っていたようです。その後、邪魔な部分は撤去され、この写真の時期には外堀に面したごく一部しかありません。

 写真の右手、外堀沿いに旧国鉄(当時は鉄道省)の中央線が走っています(O)。中央線は昭和3年(1928年)に複々線化され、同時に牛込駅が廃止、代わって飯田橋駅が誕生しました。写真中央のコンクリート製の牛込橋も、この時に改修したのかもしれません。
 つまり、この写真は、飯田橋駅の開業(昭和3年11月15日)から間もない時期に撮影したものです。
 旧牛込駅の駅舎も関東大震災で倒壊し、その後に建て直されました。写真右手の濠沿いの建物(M)は、廃止後に残った旧駅の施設でしょう。
 牛込橋の左奥、方形屋根(E)が新設した飯田橋駅西口です。この建物は戦災を免れ、令和2年(2020年)7月に新駅舎になるまで使われたようです。
 震災前の大正11−12年(1922−23年)ごろの写真と比べると、わずか10年で牛込見附付近の様子が大きく変わっていることが分かります。
 写真の左手、濠に面した複数の建物は、もともと牛込駅に通じる道があった場所に建てられたものです。右側には駅に渡る橋(G)が残っています。
 家の裏手には、土砂崩れを防ぐ擁壁(C)があるようです。ガケ上の道には石の手すりが整備されています。

牛込濠 ボート乗り場

牛込濠 ボート乗り場 外堀風景 昭和30年代前半 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5102

 この場所は第二次大戦後、牛込橋につながる土堤(早稲田通り)に面した部分を1階とするいくつかの店になりました。これらの店は、今も地下に下りるような形で土堤の下を使っています。一方、土堤の下から濠の上に張り出す形でボート乗り場などが出来ました。これが今のカナルカフェです。
 昭和30年代前半のボート乗り場の写真(ID 5102)や、昭和42年ごろの牛込見附全景(加藤嶺夫写真全集)を見ると、かつての牛込駅に続く道が時代を経て別の利用方法になっていることが分かります。

 左から
A. ボート乗り場(濠の上にせり出している)
B. 旧牛込駅への道に建った建物
C. 擁壁
D. 旧牛込駅への道に建った建物
E. 飯田橋駅西口
F. 牛込橋
G. 旧牛込駅に渡る橋
H. 牛込濠と飯田濠をつなぐ水路。飯田濠側に落差(どんどん)がありましたが、この頃はただの水路です。ボートが遊覧中。
J. 旧牛込駅の施設
K. 石垣(牛込御門の一部)
L. 長大化した電柱。電線の条数も多い
M. 旧牛込駅の施設
N. おそらく富士見町教会の鐘楼。その右は煙突
O. 省線の中央線

 人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)ではAは「大明建設」、Bはボート乗り場、Cは古川氏の自宅でした。

人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)

5つ子の父としての1年間

文学と神楽坂

 山下頼充氏の「5つ子の父としての1年間」(文春EーBook、2015、原本は昭和52年)です。

その夜、冷えきった寮の部屋から鹿児島へかけた電話で初めて生まれた子供が五人であることを知った。
 もはや躊躇ちゅうちょは許されない。
「しばらく胸に秘めておいてほしい」と前置きして上司に五人の子供が生まれたことを報告した。
 何とかメドがつくまで外部へ漏れなければよいがという私の願いは半日ももたなかった。ウィスキーの水割りを四~五杯流し込み、しばらくまどろんだかと思うと先輩記者からの電話でおこされる。
「通信社の友人から鹿児島のNHK記者の家で五人の子供が生まれたらしいと聞いてきたんだが、君のところの奥さん、出産で帰っておられたのではなかったかい」
 しばらくそっとしておいてほしいという気持ちだけは伝えたが、通信社の動きをキャッチしたNHK社会部の泊りの記者からの電話がかかり、私は翌朝直ちに鹿児島に帰ることを決意しなければならなかった。
 NHKの朝六時のニュースは、
「我が国初の五つ子誕生。母子とも順調」とトップで伝え、体ひとつで駆け込んだ鹿児島市立病院では、あとは父親の談話をとるだけといった感じで大勢の報道陣が待ち構えていた。

    重い〝皆様のNHK〟

 ニュースというのはとかく第一報でその流れが方向づけられることが多い。最初、けしからんと判断した事象には、情報量が少なければなおのこと、そういう目で材料を集めることが、ままおこりがちである。
 一度に五人誕生という出来事が好奇の目にさらされることはやむを得ないと覚悟はしたものの、興味本位で書かれることだけは耐えられなかった。そのためには、ありのままを話す以外にない。取材の申し込みがある限り、これに応えねばならないと思った。
 そうは言ってもふだんの取材する側から取材される立場にまわっただけに、何となくぎこちない。地方支局詰めを始めたばかりという若い記者には、もっと聞きたいことがあるのではと逆に促すこともあったし、夫婦の間のことを敢えて聞き出そうとする意地悪い質問が出ても、ムッとした顔も出来ず苦笑いで誤魔化すことも多かった。
 覚悟していたとはいえ、一旦火のついた取材攻勢はとどまることがない。
メドがつく 目処が付く。将来うまくやって行ける見通しがはっきりする。めどが立つ。

 平日でも夜まわりを終え、午前零時過ぎ寮に帰るとドアの前で週刊誌の記者が待っている。
「今夜中に取材しないと締め切りに間に合わない」
 寒風の吹きつけるなかで二時間も立っていたという。
 ある時は週刊誌のグラビアでひとり住いのわびしいところを写したいとの要望。何日か前に食べ残して腐りかけのインスタント料理にをつけるポーズをとったり、水割りを飲んだり、さすがに入浴シーンをとりたいという申し出だけは勘弁してもらったが……。
 もし、報道機関に身を置く人間でなかったら、もし職場がNHKでなかったら断わることが出来たろうにと思うことも多かった。気負い過ぎといわれるかもしれないが、〝皆様のNHK〟という言葉は私には重すぎた。
気負い過ぎ 気負いとは自分こそはといった態度や気持ち。「気負い過ぎ」は必要以上に緊張し、プレッシャーを感じること。

    砂糖に群がる蟻のように
 子供たちの誕生以来、世間が狭くなった様な気がする。買い物籠を持った主婦らしい二人連れが、道ですれ違いざま、
「アラ、五つ子のお父さん!」
 と叫んだかと思うと、何かこわいものでも見たかのように足で地面を踏み鳴らす。
 たまたま乗り合わせたタクシーの運転手さんには、
「女房の出産が近いので縁起のためにも」
 と名刺をまきあげられる。
 先輩と一緒に出かけたダービーの日の競馬場では、通信社の記者に、
「何を買ったのか」
 と取材され、売り場のおばさんは「こんなことやってていいの」と言わんばかりに顔を見返す。それでも初めて夜まわり取材に訪れた政治家の家で、果たして会ってくれるだろうかと名刺を手におそるおそるベルを押すと、ドアを開けた夫人が、
「アラ、山下さん。いらっしゃい」
 と、挨拶する間もなく座敷へ通してくれる。家を出たらプライベートな問題と仕事は峻別している積りだが、取材先で話題が跡切れると、
「ところで、子供さんは元気かい」
 と否応なしに五人の父親であるという現実に引き戻されることも多い。
こわいものでも見たか むしろ「有名人でも見たように」でしょう。

 排卵誘導剤のリスクが現実のものになった時代です。まず、当時は超音波(エコー)検査がありませんでした。米国産のエコーが出てくるのは80年代になってからです。子供の心音だけが唯一の検査法でした。また、エコー検査で卵5個も見つかる場合、普通はセックスは行いません。さらに当時ゴナドトロピン由来の薬しかありませんでした。この場合、多胎率は約15〜20%でした。さらに体外受精という別の方法もありませんでした。
 この方法に敬意を払いずつ、現在、5つ子の発生率は0%になりました。

白鳥橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二著「東京の橋 生きている江戸の歴史」(新人物往来社、昭和52年)です。白鳥橋がテーマですが、もう1つ、大曲橋が出てきます。石川氏によれば、1代目は大曲橋、2代目で白鳥橋になったと主張します。しかし文献上では、大曲橋も西大曲橋も「大下水」を渡る橋で、江戸川(現在の神田川)の橋ではありません。
 現在の白鳥橋の竣工は昭和11年ですが、令和6年に架け替え工事が始まりました。

 白鳥橋(しらとりばし) 文京区後楽二丁目と水道一丁目のさかいを新宿区新小川町二丁目観世会館の前に渡した江戸川の橋で、この地点で川流が大きく屈曲しているため通称大曲おおまがりといわれて大曲橋が架されていたし、さらにその上流中之橋との間には西大曲橋とよぶ橋もあったが道路および河川改修によって撤去され、大曲橋のあとに架設された新橋白鳥橋と称する。大曲橋は明治19年橋梁明細表には「大曲り橋 江戸川町17番地に架す。長5尺5寸、幅26尺 石造」とあり、現在の白鳥橋は昭和11年の竣工で長29.8メートル、幅20メートルの鋼鈑橋である。橋名は白鳥池からとったもので、南向茶話に「江戸川中之橋の下水曲流の処は、往古大なる池にて白鳥池と号す。今埋れてその余池、南の方久永氏邸地内に残れり。」とあり、また新撰東京名所図会も「白鳥橋 江戸川中之橋の下流にて、隆慶橋の方に屈曲し居る淵を大曲おおまがりという。此処最も深く、かの有名なるむらさきこいは今なお此辺に残り居れり。又今の2丁目(新小川町)10番地内に池あり。これぞ白鳥池の名残りという。」と記す。

観世会館 観世能楽堂。1900年の観世会の創立時に建設。観世流の活動拠点。1972年、新宿区新小川町(大曲)から渋谷区松涛に移転。 さらに銀座に再移転。

1970年 住宅地図

江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから飯田橋に近いふなわらばしまでの神田川を昭和40年以前に江戸川と呼びます。
白鳥橋 「新撰東京名所図会」が発行された明治37年には白鳥橋は全くありません。その後、新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)を調べると、白鳥橋は明治40年にはあり(328頁)、明治43年になくなり(330頁)、大正11年にまた出てきます(332頁)。 また、明治29年の東京郵便電信局編の東京市小石川区全図、明治40年の東京郵便局の番地入東京市小石川区全図、大正10年の東京逓信局編の東京市小石川区 です。この明治40年の地図は橋と電車線路が道路のない場所に描かれ、建設計画を先取りしたものでしょう。

 一方、小石川新聞社編『礫川要覧』(小石川新聞社、明治43年)で白鳥橋は「明治42年の落成にて電車線路たり」と記録しています。 また、東京市電・都電路線史年表でも、明治42年12月30日、(小石川)表町(のちの伝通院前)と大曲(旧・新小川町二丁目)との間で初めて電車がつながりました。
 また、古い白鳥橋の写真が2枚出て来ました。この2枚、かなり違っていて、一方は石橋、もう一方は木造橋で路面電車が渡っています。どちらかが間違えている可能性が大きいようです。

白鳥橋。東京市小石川区「小石川区史」(1935年)から

「江戸川」の「白鳥橋」と「大曲」三井住友トラスト不動産

大曲橋 昭和10年「小石川区史」によれば、昭和6年9月末日、小石川区内橋梁表(市土水局橋梁課調)では「橋名、大曲橋。河川名、大下水。架設位置、江戸川町17。橋種、石造。橋長、1,818米。巾員、20,909米。面積、8,93平米。工費・着手年月・竣功年月は不明」。つまり、大曲橋は1.8メートルしかない短い橋でした。下の地図で、左右の大下水が神田川に流れ込んでいます。大曲橋は江戸川(神田川)ではなく、この大下水に架かっていた橋です。また、江戸川町17に架設してあるようで、右側の青い円でしょう。

東京実測図。明治20年 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年

西大曲橋 昭和10年「小石川区史」で、明治19年の橋梁明細調(東京府文献叢書乙集18)を調べてみると、この橋は「西江戸川町1番地先に架す」る橋。地先じさきとは所有地等と地続きの地で、反別や石高がなく、自由に使える土地。また、昭和6年の「小石川区内橋架表」(市土水局橋梁課調)では大下水に架かった橋でした(昭和10年「小石川区史」)。「西江戸川町1番地先」ということから、上の地図の楕円の左側部分の細い流れに架かっていた橋です。
大曲橋のあとに架設された新橋 大曲橋は大下水の橋、白鳥橋は神田川の橋です。大正10年の東京逓信局編の地図では、白鳥橋の開通後も大下水が江戸川に流れ込んでいる様子が描かれています。おそらく大曲橋も、道路の一部として働いていました。
橋梁明細表 昭和10年の「小石川区史」によれば、この表は東京府文献叢書乙集18にあります。
江戸川町十七番地 現在、江戸川町がありませんが、明治20年では江戸川町があり、17番地は上図の文字「川 17」にあたる範囲です。実際は「戸」と「川」の中間地点から江戸川に向かって流れています。これが大下水の一部です。
長五尺五寸、幅二十六尺 1尺は約30.3cm。したがって長1m66cm、幅8m18cm。
鋼鈑 こうはん。鋼板。圧延機で板状に延ばした鋼鉄。鉄板てっぱんとほぼ同じ。純粋な「鉄」に炭素やマンガン等の成分を加えて強度や靭性じんせいを増したものを「鋼」
南向茶話 なんこうちゃわ。酒井忠昌著。寛延四年(1749)~明和二年(1765)。江戸の地誌を問答形式で記したもの。
久永氏 小日向小石川牛込北辺絵図の「久永」氏は中央に

小日向小石川牛込北辺絵図 嘉永2年(1849)

新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
紫鯉 十方庵敬順氏の「遊歴雑記初編」(嘉永4年)「紫鯉」では「中の橋の水中はホトンド深くして、ぎょ夥し、大いなるは橋の上より見る処、弐尺四五寸又は三尺に及ぶもあり、邂逅タマサカには、三尺余と覚しきゴイも見ゆ、中の橋の前後殊に夥しく、水中只壱面に黒く光り、キラ/\とヲヨぐものは皆鯉魚なり、おの/\肥太コエフトりたる事、丸くして丈みじかきが如し、これをむらさきゴイと称し、風味鯉魚の第一、豊嶋荒川又利根トネガワの鯉、これにツグべしとなん」(「中の橋」の大部分は深くて、鯉も数多くいる。橋の上から見ると、大きな鯉では90~110センチに及び、たまには、110センチ以上と思える緋鯉も見える。中の橋の前後は鯉は殊に多く、水中でただ一面に黒く光り、キラキラと泳ぐものはみんな鯉だ。どれも肥えて太っている。一匹一匹は丸くて丈は短いようだ。これをむらさき鯉と称し、風味で見ると、このむらさき鯉が一番良く、豊島荒川の鯉や利根川の鯉はこれよりも劣る
名残りという。 新撰東京名所図会では続けて「この久永の邸は即ち今の川田邸にて、此池現存し中島あり丹頂の鶴を飼へり」で終わっています。下図は大正11年の川田男爵邸です。

大正11年 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年0

私説東京繁盛記(写真)

文学と神楽坂

 小林信彦氏と荒木経惟氏の「私説東京繁盛記」(筑摩書房、2002年)は「新版私説東京繁盛記」(筑摩書房、1992年)の文庫版です。この中で神楽坂の写真が5枚撮っています。

 神楽坂にあるという「パーマ 那美の店」は実際どこにあるのか、まったくわかりません。ただし、本来の神楽坂ではないと思っています。

神楽坂の裏手(1983年)私説東京繁盛記

 おさむさんから場所がわかったと連絡が来ました。場所は矢来町160-1のサクラハウスの裏でした。おさむさんのメールでも拡大すると「パーマ 那美の店」が出てきます。

 ここは神楽小路が軽子坂に出る出口です。看板などは「シ□マサロンくらら」「3時間で全部を御覧になれます」「上映中」「変態レイプ大全 3本立 女高生集団レイプ 人妻変態レイプ 少女密室レイプ」

神楽坂の路地(1983年)私説東京繁盛記

 これは赤城下町の山中商店でしょう。

神楽坂の裏通り(1983年)私説東京繁盛記

 津久戸町の神楽坂浴場はなくなりました。再開発されて「神楽坂AKビル」が建ったのは1995年9月。右手には「世界人類の平和でありますように」と書いています。

神楽坂の公衆浴場(1983年)私説東京繁盛記

 はじめて本来の神楽坂にでました。左からで、すこし顔が出ている菱屋、真ん中の酒場の万平、右のコーヒーのジョンブルです。万平もジョンブルもなくなりましたが、しかし、明治以来の菱屋はなくなっていません。Oリングは万平に接する道路の下にありますが、菱屋の下にはありません。右手の丸い道路標識はおそらく「駐停車禁止」ではないかと思います。万平の看板などは「小座敷 すきやき おでん 茶めし」「酒場」。ジョンブルの2階は「ジョンブル」、1階は「コーヒー豆・コーヒー器具 」「お食事のできるコ」「珈琲豆 John Bull UCCコーヒー」「ピザ」「コーヒー豆」「週末 の」「珈琲 ンブル」「珈琲専門店」「(2行)コーヒー」「珈琲豆」

神楽坂(1983年)私説東京繁盛記