投稿者「yamamogura」のアーカイブ

牛込濠(写真)遠景 令和4年 ID 16993

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 16993は、令和4年(2022)2月、法政大学前からJR東日本の架線柱、牛込濠、外堀通り、市谷田町3丁目などを撮影したものです。タイトルの「市谷船河原町を望む」は残念ながら間違いです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16993 法政大学前から市谷船河原町を望む

 カメラが少しだけ左を向けば「新見附橋」や「新見附交差点」が見える場所でした。
 外堀通り沿いが低層になっているのは、大久保通りと同じで都市計画による拡幅が予定されているためです。
 少し下がった場所からは高い建物になります。
 主にGoogle Mapを調べて、これらのビルは以下の通りでした。なお、写真で2/B、9/Fは同じ建物です。

市谷田町3丁目(令和4年)
  1. アヴェニュー市ヶ谷(マンション)
  2. 進学塾 臨海セミナー/eisu/1ヶ月無料体験受付中/進学塾 臨海セミナー 中学受験科(eisuビル市ヶ谷)
  3. 屈指の合格実績 eisu 小・中・高(eisuビル市谷新館)
  4. 華記茶餐応(中華料理)と1店舗(トゥービル)
  5. 酒井商店(酒などの店舗)
  6. 長谷川豪建築設計事務所
  7. DUNLOP FALKEN (株)タイヤ突進舎 Bridgestone (株)タイヤ突進舎 DUNLOP(タイヤショップ)
  8. The Gate Ichigaya(賃貸事務所)、前に駐車場
  9. Tomas Gymnastics(トーマス体操スクール市ヶ谷校)
  10. 用心棒(ラーメン店)
  11. システム桐葉外語 日本語学校
  1. 第2市ヶ谷マンション
  2. 塾を超えたジム eisu / 小1・2・3 脳力開発ジム イルカ/小4・5・6 名門中合格ジム プライム/中1〜高3 飛び級速習ジム ニュートン(eisuビル市ヶ谷)
  3. DNP(DNP市谷加賀町ビル)
  4. グランベスタージュ市ヶ谷(マンション)
  5. レジディア市ヶ谷(マンション)
  6. 東京理科大学 TOKYO UNIVERSITY OF SCIENCE
  7. Tokyo Institute of Tourism(東京観光専門学校

住宅地図。令和2年

新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』1997年 神楽坂界隈・店舗

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(1997年)で岡崎公一氏は「神楽坂と縁日市」[9]「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」を書き、昭和5年と平成8年の神楽坂の商店の変遷を図示しています。

神楽坂界隈・店舗(pdf)

神楽坂界隈・店舗(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』1997年)

「あをば」 大崎省吾 昭和16年

文学と神楽坂

「随筆 めばえ」「随筆 かをり」「随筆 あをば」「随筆 もみぢ」「随筆 あらし」「随筆 みのり」は全て著作者と発行者は大崎省吾氏、発行所は修省書院で、発行年は昭和15〜17年です。
「随筆 めばえ」の最初の「序」 を読んでみましょう。

    序
 この齢になり、はじめて筆を執って原稿紙に親しむ。素より、文豪を以て天地を震撼させよう、そんな野望は毛頭ない。ただ、今日やっと此處まで辿って來た飛石づたひの一つ一つを、心のまに/\に拾ひあげ、昭和拾五年一月から書き始めた。それがはや、幾千枚と重つて來た。この秘めごと、人に見すべく語るべきものではない。そつと、筐底藏くしておいた。處が、妻子どもの見つけて、その湮滅をおそれてにや、上梓をと、切に勸めるので、つい、世に公にすることにした。
この齢 「随筆 あをば」の「瑞光周屋」から、おそらく75歳くらい
素より もとより。はじめから。元来。
震撼 しんかん。強いショックで震え動く。震え動かす
飛石づたひ とびいしづたい。飛び石の上を順に伝っていくこと
筐底 きょうてい。箱の底。 箱の中。
蔵くし かくす。かくれる。「蔵匿」「埋蔵」
湮滅 いんめつ。隠滅。跡形もなく消えてしまうこと。
上梓 じょうし。図書を出版すること。

 どうもこの書き方、自費出版でしょうか。
「神楽坂」は「随筆 あをば」の一章で昭和15年10月15日に書いています。

   神樂坂
 人の往き來も、そはそはする十二月の< title=”すえつかた。末のころ”>末つ方、牛込の神樂坂の夜店を見に行つた。神樂坂といふと、東京名物の夜店市として、毎夜續々と押掛けたもので、また、どんな品物でも廉價多賣主義であつた。其の上に、神樂坂の長袖が群をなして練り歩く。それが一異彩を添へてゐたからでもあらう。また學生の一群が「牛込の神樂坂、車力はつらい……」という、當時流行の歌を高らかにうたつて通つてゐたのを覺えてゐる。そして、何方から行くにしても、行きづらい馬の脊のやうな所であるのに、それに、潮のやうに澤山の人が押し寄せる。昭和の世となつても相變らず、繁盛の土地である。
末つ方 すえつかた。末のころ
廉價多賣 廉価多売。品物一つ当たりの利益を少なくし、たくさん売ることで、全体の利益を多くすること。
長袖 長袖は通気性があって半袖より涼しいし、労働階層と違って貧乏ではない。
牛込の神樂坂、車力はつらい 「東雲のストライキ節」をもじったもので、替え歌「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」から。本歌の歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」。明治後期の1900年頃から流行し、廃娼運動を反映した。
當時 当時

逢坂(写真)市谷船河原町 昭和41年 ID 14112

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14112は、市谷船河原町の逢坂おうさかを西向きに撮影しました。なお撮影時期は「昭和41年頃か?」となっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14112 市谷船河原町 逢坂

 逢坂には円形のくぼみが沢山見えますが、これはオーリングといって、自動車等の滑り止めです。
 男性2人が逢坂を下り、男性3人と女性1人が立ち止まって話を交わし、男性1人が上っていきます。1人だけは長袖シャツとベスト、残りの男性は全て背広。木々は茂っていて、夏前か秋口でしょう。

逢坂(昭和41年頃)
  1. 民家
  2. 電柱。ポスター ?(学園祭のイベント?)
  1. 竹柵と竹垣(築土神社)
  2. 石垣と日仏会館の入口
  3. 民家。段差スロープ。石垣

牛込濠(写真)遠景 平成31年 ID 14063

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 14063は、平成31年(2019)2月、千代田区の法政大学前からJR東日本の架線柱、牛込濠、外堀通り、市谷田町3丁目市谷船河原町を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14063 法政大学前から市谷船河原町を望む

住宅地図 令和2年

 地図とGoogle Mapを調べて、これらのビルは……

  1. 神楽ビル
  2. Luft Garten
  3. Skip Boat Neo Gate
  4. 双葉ビル。看板は「週刊大衆(漫画)アクション 小説推理」「orange 双葉社 発売中」一階は「肉のハナマサ 市ヶ谷店」(倉庫)。
  5. 市ヶ谷エスワンビル。看板は「2018年度 合格実績 小石川中 68名 都立中 785名」「ena」「日比谷高 2名 西高 4名 国立高 6名」。一階は「肉のハナマサ 市ヶ谷店」
  6. やまと運輸市谷砂土原町センター
  7. 油井工業所。2階の看板は「護國園」とイラスト「将棋の駒」
  8. パークハウス市谷田町(マンション)
  9. 龍生会館
  10. メゾン・ド・コリーヌ市ケ谷(マンション)
  11. 東京理科大学5号館
  12. マノワール古河(マンション)
  13. 船河原マウントロイヤル(マンション)

牛込濠(写真)昭和45年 ID13108-15

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 13108-15は、昭和45年(1970)3月、牛込堀をはさんだ千代田区側から市谷船河原町神楽坂1丁目を撮ったものです。ID 486(昭和56年頃)よりやや右側、外濠公園あたりにカメラがありました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13108 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13109 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13110 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13111 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13112 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13113外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13114外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13115 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

 この8枚はほとんど同じ写真です。ここでは、ID 13108を詳しく見ていきます。

外堀通り・解説

 写真右側に東京理科大学の校舎群が見えます。一番高い②の7号館は、雑誌「ミスターダンディー」(1974年)の写真で数えると9階建てです。この建物は改修を経て現存しますが、手前➃の1号館(ID 12201の「理大薬学部」)と反対側が両方とも高層の校舎になり、目立たなくなってしまいました。
 この場所は牛込台地に上がる急斜面で、いくつもの坂があります。坂の上の建物も見えていますが、よく分かりません。ひとつだけ推測すれば➆は神楽坂上の菱屋ビルの可能性が高いでしょう。
 外堀通りの都電牛込線(外濠線)は昭和42年(1967)年に廃止、都バスが走っています。「美濃部カラー」と呼ばれた青白塗装でした。

美濃部カラー 昭和43年6月に美濃部知事(当時)の提唱でバスの塗装を改めることになり「クリーム色と青帯の通称『美濃部カラー』は昭和43年のR代とともに現れ、以来12年間一般車の標準色として親しまれてきた。それが、昭和55年8月に車体を入れ替えたミニバス13輌に対して黄色に赤帯の車輌が試験的に導入され、昭和56年3月導入のH代一般車から全面的に採用された(鈴木カラー騒動)」としています。

http://toeibus.com/wp-content/uploads/2017/01/da658f58c676c090be7454023a3ba4ef.jpg

  1. 双葉ビル(双葉社)か?
  2. 東京理科大学7号館
  3. 東京理科大学3号館
  4. 東京理科大学1号館
    ーーーー若宮公園に上がる坂
  5. 研究社旧館
  6. 研究社新館
  7. 菱屋ビルか?
  8. 三幸工業
  9. 三幸工業
    ーーーー庾嶺坂。ここから船河原町
  10. 塩原ホテル 寿苑 東京
  11. 家の光会館
  12. スナックベルなど
  13. 個人宅
    ーーーーここは逢坂
  14. 丸谷石油(ガソリンスタンド)
  15. 尾形伊之助商店
  16. 日仏学院
  17. 教育図書
  18. 軽自動車工業
  19. 渋谷ガラス「日本ペイント」
  20. 神田印刷
  21. 東京理科大学体育館

住宅地図。1973年

逢坂(写真)市谷船河原町 昭和50~51年 ID 9921

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9921は昭和50~51年頃、市谷船河原町の逢坂おうさかを坂下の東向きに撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9921 市谷船河原町 逢坂

 遠くに千代田区のビル群や日本国有鉄道の中央・総武線があります。
 逢坂には円形のくぼみが沢山見えますが、これはオーリングといって、自動車等の滑り止めです。
 女性が10人ほど坂を登ってきます。全員が若く見えて長袖で、コートやセーターを着ています。中央線の奥の土手のサクラが落葉していないので、季節は秋でしょう。全員日仏学院に行く場合もありますが、左端の女性が左手に靴を持っているので、理科大の柔道館に行く場合も考えられます。

逢坂(昭和50-51年頃)
  1. 丸石自転車。看板(自転車に乗っている人)
  2. 柵。その左の築土神社は見えない
  3. 日仏学院の石垣
  4. 民家と段差スロープ
  1. (右・指定方向外進行禁)。自転車を除く/一方通行路。 (始まり)
  2. 垣根と民家

昭和51年 住宅地図

足立屋と岡田常次郎氏、東京シティ信用金庫

文学と神楽坂

地元の方からです

 足立屋は岩戸町2番地にあった呉服商です。経営者は岡田常次郎氏でした。常次郎氏の名は、日本紳士録(交詢社、明治25年)や高額納税者番付『栄誉鑑』(有得社、明治23年)などに出てきます。
 人事興信録(大正4年、再録は名古屋大学)でプロファイルを見ると

  •  安政元年(1854) 埼玉県生まれ 東京府平民岡田德兵衛の養子
  •  明治十八年六月分家 呉服太物商を營み屋號を足立屋と呼ふ

 1901年(明治34年)発行の『日本之名勝』3版に記事と店の写真があります。それによると…

初代徳兵衛は…万延元年(注・1860)、地を今の所に卜して商店を開きしが、当時牛込は都下にありても最も辺僻の域に属し…ことに維新の革命に際し、御家人、徒士ら皆去って顧客の大半を奪わるるに至りしも…百難を排除し 今日の盛運を見る。
二代はすなわち今の常次郎にして…ますます業務を拡張して今は区内有数の店舗なり。
(新字新かなで適宜省略)

 つまり初代徳兵衛が苦労して店を軌道に乗せ、養子である常次郎氏が大きくしたのでしょう。
 牛込区史(昭和5年)によれば、常次郎氏は明治25年から大正2年にかけ、3度にわたって区議会議員を務めました。
 また東京市及接続郡部地籍台帳 1(明治45年)によれば、常次郎氏は牛込区内に25筆・3781.68坪(約12,400㎡)の宅地を所有していました。商売が順調だったことが想像できます。

東京市及接続郡部地籍台帳 1(明治45年)

 常次郎氏は大正9年(1920)に隠居し、家督を長男に譲ります。長男は襲名して2代目常次郎となりました。足立屋呉服店としては3代目です。

 その後、2代目常次郎氏の事業に変化が起きます。大正14年、牛込柳町に本店のある「有限責任信用組合第一金庫」の常務理事に名を連ねます。

 また昭和2年、日本紳士録31版には「足立電話店/岩戸町3番地」として登録されます。
 ちょうど関東大震災後の東京の復興期で、洋装化も進み、旧来の呉服商以外に多角化を図ったのかも知れません。
 さらに昭和4年、日本紳士録33版では「足立屋両替店・債権売買業/岩戸町2番地」になります。この頃に初代から続いた呉服商を廃業したと思われます。
 昭和5年、大衆人事録 第3版(帝国秘密探偵社、昭和5年)には「つとに呉服商を営みしが、現時足立屋と称し両替並びに債券売買業を営む」とあります。
 以後、2代目常次郎氏は岩戸町2番地で金融業に従事します。昭和9年、帝国信用録 第27版では「証券売買・貸地業」。昭和11年、日本紳士録 40版では「信用組合第一金庫常務理事・足立屋両替店・債券売買」。昭和16年2月、足立屋証券株式会社を設立し代表取締役に就任します。
 一方、信用組合第一金庫は政府主導の戦時統合で「帝都信用組合」に改組されます。本店は相変わらず牛込柳町で、組合長も信用組合第一金庫と同じです。2代目常次郎氏は理事のひとりでした。
 市谷柳町の帝都信用組合旧本店は焼け残り、平成時代まで使われました。

帝都信用組合旧本店。「かがり火」から現在はセブンイレブンとマンション

 しかし組合を改組した「帝都信用金庫」の本店は、岩戸町2番地の足立証券本社・2代目常次郎の屋敷の跡地に建設されました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9492 大久保通り 神楽坂五丁目付近(現牛込神楽坂駅付近)

 帝都信金は2000年(平成12年)に再編されて東京シティ信用金庫になりました。現在も、かつて足立屋のあった岩戸町2番地に神楽坂支店があります。

分水嶺「神楽坂界隈」|吹田順助

文学と神楽坂

吹田順助

 すいじゅんすけ氏の「分水嶺」(精興社、昭和37年)の「神楽坂界隈」を読んでみました。氏はドイツ文学者で、東京帝国大学独文科を卒業し、東京商大、中央大学などの教授を歴任。札幌で有島武郎と交遊。文芸思想史を研究し、ヘッベル、ヘルダーリンなどの作品を翻訳。
 生年は明治16年12月24日、没年は昭和38年7月20日、死亡は79歳。

神楽坂界隈
 私の少年時代はいわゆる日清戦争の前後で、戦争は別として、今から考えると、どこか大まかな、いい時代——ドイツ語でいうと、eine gute alte Zeit——で、殺人強盗というような殺伐な事件も、戦後のアプレ時代とははんたいに、数えるほどしか起らず、おこの殺しばかりでなく、野口男三郎——有名な漢詩寧斎のむこ——ので、、ん肉斬取り事件にせよ、クリスチアンの染井一郎——私の生れた二十騎町に住んでいた——の女房殺しにせよ、わりにはっきりと記憶に残っている。雨後の筍のように続出したいわゆるアプレ時代の、その種の犯罪、礼会悪ときたら、とても覚え切れるものではない。
 神楽坂は震災後、とりわけ戦災でやられてからというもの、銀座や新宿街にすっかりお株を奪われた形であるが、私の少年時代は、老舗の立ち並んだ具合といい、毘沙門の縁日の夜の賑いといい、一方、山の手らしい、どことなくおっとりした気分のたたずまいといい、私たち、牛込ッ子にとっては、ただただなつかしい思い出の町である。
 今の神楽坂停留所の近くにあった牛鍋やのいろは、、、、古い講釈席で、むかしは例の「ぼたん燈籠」の円朝なども出たらしい鶴扇亭肴町の角のたこ市という玩具や、その一、二軒先きの菓子舗の紅屋相馬屋という大きな紙問屋、和良店亭という寄席のあった坂道の降り口の武田芳信(?)堂という古本店、そこから一、二軒向うの浅岡という大きな洋品店、その筋向うの尾沢薬舗、毘沙門天の向って右どなりにあった田原屋という果物店、その店の奥がその後のいわゆるグリル・ルームで、文士なども一時よく出人りした。毘沙門から先へ行くと、洋品店のサムライ堂宮坂金物店盛文堂という新刊書店——あのころの出版書肆というと、何といって博文館が筆頭で、私はよくそこで、『少年世界』や、小波(巌谷)山人の『二人椋助』、『黄金丸』、『近江聖人』というような本を買ったものだが、その店の後を廻ると、立ちならんだ待合の先に、青陽楼とかいった西洋料理屋……こう書いてくると、どうもきりがないようなものだが、坂下を右へまがってとっつき島金——ときどき父に連れてってもらった、この古風な鰻やの名も、ぜひここに付け加えて置かねばならないであろう。
 私たちはその時分、今の神楽坂通りのことを寺町と呼んでいたが、今もあると思う郵便局寄りの通りは、むかしは通寺町と呼ばれ、そこから左へ曲ったところに、飯塚というどぶろくやがあり、紅葉山人浅田宗伯という当時有名な漢法医の住んでいた横寺町、その横寺町の通寺町寄りの左手に、大正五、六年ごろだったか、芸術倶楽部のけいこ場のような建物があって、そこは島村抱月のあとを追った松井須磨子縊死したところである。郵便局の方から神楽坂の方へ向かってダラダラと降りてゆくと、右手に獅子寺(?)があり、その境内ではいわゆるお盆の十六日におえ、、んま、、さま、、開帳され、そこで私は子供のころ佐倉宗五郎のぞき、、、からくり、、、、などを見たものである。その寺の先きにひところ、牛込勧工場というのがあり、それはその後のデパートの前身ともいうべきか、両側にいろいろの商店の並んでいる細い廊下のような路をグルグルと廻ると、また外へ出られるというしくみになっていた。そのはいり口の隣りあたりの路地をはいると、明進軒という西洋料理店があり、紅葉山人の日記をみると、訪客の誰彼を連れてときどきその店を訪れたことが書いてある。もう大正になってからであろうか、松山省三さんがその店の跡に、一時カフェー・プランタンを開店したことがある。通寺町をまがった岩戸町には、足立屋という大きな呉服屋と糸屋とが両側に向かい合い、そこの路地には川鉄という鳥料理店があり、箪笥町(まち)の区役所の前には、吉熊という牛込一の料理やの堂々たる二階建てが、あたりを圧してそびえていた。
 毘沙門の縁日(寅の日)の寺町の賑いはまた格別で、とりわけ夏の晩方などは、夕涼みがてらの男と女や、子供づれが、浴衣がけでゾロゾロと練り歩き、まるで肩と肩とが擦れあうよう、通りにはそのころはやりだしたアセチレンガスをともした夜店が、両側に立ち並び、境内にはときどき江川一座の玉乗りの一座や、田舎廻りの女相撲の小屋がかかったり、坂下へ近づくと、虫や朝顔の鉢や植木を売る店が見付の方へかけて並んでいた。そういう人込みをかきわけるようにして左棲(づま)を取った芸者や、高木履を穿いた雛妓が、提灯をぶらさげた男衆に伴われ、横丁の路地へ消えてゆく光景なども、神楽坂という町のアクセサリーであったであろう。
日清戦争 明治27年7月25日~明治28年4月17日、日本と清国(中国)での戦争。
eine gute alte Zeit 訳すと「古き良き時代」
殺伐 人を殺すこと。人を殺そうとするような荒々しさが満ちている様子
アプレ時代 アプレゲール(après-guerre)の略。戦後派。第二次大戦後、従来の思想・道徳に拘束されずに行動できる若い人
おこの殺し 明治30年4月27日、金貸しの松平紀義(39歳)が内縁の妻・御代みようめこの(40歳)を牛込区若宮町にある四軒長屋の自宅で絞殺し、お茶の水まで運んで遺棄した。死体は全裸だった。
漢詩 漢詩は本来は日本人の作で、漢字を用い、中国詩の形式に従った詩。
寧斎 野口寧斎。ねいさい。明治時代の漢詩人。
のでん肉斬取り事件 臀肉でんにく事件。明治35年3月27日、東京市麹町区下二番町(現在の東京都千代田区二番町)で、少年が何者かに殺され尻の肉を切り取られた殺人事件。なお、傍点は「ので、、ん」ではなく「のでん、、」が正しく、「斬取り」は「きりとり」「切り取り」です。
雨後の筍 うごのたけのこ。雨が降ったあと、たけのこが次々に出てくるところから、物事が相次いで現れること”>
山の手 東京23区では本郷・小石川・牛込・四谷・赤坂・青山・麻布などの台地の地域
神楽坂停留所 現在の都バスでは「牛込神楽坂駅前」です。
ぼたん燈籠 「怪談牡丹燈籠」です。お露の幽霊が牡丹灯籠の光に導かれ、カランコロンと下駄の音を響かせて恋しい男のもとへ通う話。
円朝 幕末~明治時代の落語家。怪談噺、芝居噺を得意として創作噺で人気をえた。生年は天保10年4月1日、没年は明治33年8月11日。死亡は満62歳。
肴町 現在、神楽坂4丁目に代わりました。
武田芳信(?)堂 正しくは武田芳進堂です。
少年世界 博文館が明治28年1月に創刊、昭和8年頃まで出版した、少年向けの総合雑誌。主筆は巖谷小波。
二人椋助 ふたりむくすけ。元々は『アンデルセン童話全集』の「大クラウス小クラウス」で、設定が日本に置き換えたもの。尾崎紅葉氏が翻案し、明治24年3月、博文館刊『少年文学』第2編に所収。
黄金丸 こがね丸。日本で最初の創作児童文学。巌谷漣(小波)氏の童話。明治24年、博文館刊『少年文学』第1編に所収。犬の黄金丸が牛、犬、鼠などの仲間と一緒に仇討ちを成し遂げる。
近江聖人 江戸時代前期の陽明学派の開祖である中江藤樹氏の伝記を、明治25年、村井弦斎氏が博文館刊『少年文学』第14編に載せたもの
とっつき いくつかあるうちのいちばん手前
神楽坂通り 神楽坂1丁目から5丁目までが本当の神楽坂通りで、6丁目については通寺町でした。
浅岡 藁店の入り口にある小間物の浅井でしょうか? ここに以前は「鮒忠」がありました。
書肆 しょし。書店や本屋のこと
郵便局 神楽坂6丁目にある「音楽之友社別館」が以前の郵便局でした。
どぶろく 清酒の醸造過程でできるもろみから、かすはそのままにして出てくる日本酒。白濁しているので「にごりざけ」ともいう。
縊死 いし。くびをくくって死ぬこと。
その境内 獅子寺は保善寺のこと。一方「おえんまさま」は正蔵院の脇本尊のこと。
おえんまさま お閻魔様。本尊は正蔵院の「草刈薬師」。明治44年7月、合併した養善院の本尊(脇本尊)は「閻魔大王尊」。
開帳 厨子ずしのとびらを開いて、安置する本尊秘仏などを拝観させること
佐倉宗五郎 正しくは佐倉惣五郎。江戸前期、下総佐倉領の印旛郡公津村の名主。領主の重税を将軍に直訴して処刑。江戸後期、実録本・講釈などで有名
のぞきからくり 箱の前面にレンズを取り付けた穴数個があり、内に風景や劇の続き絵を、左右の2人の説明入りでのぞかせるもの。幕末〜明治期に流行した。
松山省三 まつやましょうぞう。洋画家、明治43年からカフェー・プランタンの経営者。生年は明治17年9月8日。没年は昭和45年2月2日。
区役所 新宿区箪笥町15番地の昔の区役所です。現在は新宿区箪笥町特別出張所や牛込箪笥区民ホールなど。
左棲を取る 芸者の勤めをする。
高木履 たかぼくり。歯の高い足駄あしだ。高下駄。高足駄
雛妓 すうぎ。まだ一人前になっていない芸妓。半玉はんぎょく
男衆 おとこしゅう。花柳界で芸者などの身のまわりの世話をする男

牛込濠(写真)俯瞰 昭和36年

文学と神楽坂

 石田竜次郎・和歌森太郎共書「県別・写真・観光日本案内 東京都」(修道社、昭和36年)に下の写真が載っています。


飯田橋近くの外濠のあたり  このあたりは濠を境に千代田区と新宿区が高台をなして相対している。写真は千代田区側の外濠公園から新宿区の対岸をみたところで、このへんには理科大学、日仏学院、研究社、家の光などの立派な建物が丘の中腹に集中していて、お濠をふくめての眺望はなかなかに趣きがある。

 下から中央線・総武線の線路、牛込濠と貸ボート、外堀通りが見えます。さらに写真を左右の2つに分け、それぞれの建物の名前を見ていきます。最初は左側です。

 参考は日本分県地図地名総覧(昭和35年、下図)、全住宅案内地図帳(昭和43年、2番目の図)、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス整理番号 MKT636、昭和38年)、昭和45年のID 13108と昭和56年頃のID 486です。

人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)

全住宅案内地図帳 昭和43年

  1. 日仏学院
  2. 渋谷ガラス(ペイント)
  3. 東宝自動車修理場
  4. 森会計学院
  5. 尾形(昭和45年では尾形伊之助商店)
  6. 旅館 保志乃
  7. 逢坂。⭕️は出動中の自動車
  8. 笹尾
  9. 川崎釣具店
  10. 家の光会館(JAグループの出版文化団体)

国土地理院。地図・空中写真閲覧サービス。整理番号 MKT636 コース番号 C7 写真番号 18 撮影年月日 1963/06/26(昭38)

人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)

  1. 家の光会館
  2. 家の光協会(3の前に庾嶺坂
  3. 三幸工業
  4. 三幸工業
  5. 神楽坂印刷工場(研究社
  6. 神楽坂印刷工場(研究社
  7. 東京理科大学
  8. 東京理科大学

逢坂入口(写真)市谷船河原町 昭和41年頃 ID 7809-7811

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7809-7811は市谷船河原町の逢坂の坂下付近を撮影したものです。新宿歴史博物館の写真説明は「逢坂入口 昭和41年頃か?」としています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7809 市谷船河原町 逢坂入口付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7810 市谷船河原町 逢坂入口付近

 ID 7809-10では、男女10数人が坂の途中で何かを見ています。男性は背広、女性は着物が多く、子供はいません。手にした資料のようなものに目を落とす人もいます。

逢坂(昭和39年と43年)

 右側から……

  1. 外堀通り
  2. 民家と(一時停止)
  3. 自転車の図。自転車店 水谷の自転車、協◯輪車 古川自転車店 TEL 千代田火災 SS
  4. ナショナル ポンプ 上下水道衛生工事◯◯ アルプスポンプ
  5. 古い家
  6. 左端にも家

参考 昭和51年 住宅地図。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7811 市谷船河原町 逢坂入口付近

 ID 7811は一転して無人で、普通の民家(現、階段と堀兼の井)と坂の脇のコンクリート敷きの部分が写っています。何を撮影したのか分かりません。左側には日仏学院があるようです。
 この家には船河原町々会のポスターがあります。「くらしに生かそう/カギとベル」「くらしに生かそう カギとベル」「カギ◯/あなたの◯」

現在の地図

CKT7415 コース番号C27B 写真番号10 撮影年月日 1975/01/19(昭50)

 この場所には、筑土神社(千代田区九段北)の摂社である船河原町築土神社と「堀兼の井」がありますが、神社はうつっておらず、ID 7811でも堀兼の井は確認できません。
 筑土神社の社伝では「この井戸は、昭和40年代の地下鉄工事の折に一時枯渇したものの、平成21年には、当時とほぼ同じ位置に再整備されている」とあります。
 これから全くの想像ですが、堀兼の井が枯れ、埋もれてしまったことを文化財関係者や氏子らが調べ、今後の対策を協議している様子でしょうか。または、一人は史跡やその歴史を解説し、残りの全員が話を聞いている場合もあります。全員が都や国の歴史関係の委員である可能性もあり、さらに以上と違って、全く別の可能性もあります。ただし、新修新宿区史編集委員会「新修 新宿区史」(新宿区、昭和42年)では昭和41年以前に委員が築土神社か堀兼の井、その周辺を解説したという話はありませんでした。

市谷船河原町 (写真)地下鉄 昭和48年 ID 535-36

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 535-36は昭和48年(1973年)5月、地下鉄工事のため牛込濠を大きく掘削したものです。カメラは新見附橋の上で、市谷田町三丁目、市谷船河原町、神楽坂一丁目などに向いています。翌49年(1974年)に地下鉄・有楽町線が開通しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 535 市谷船河原町付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 536 市谷船河原町付近:市谷見附より牛込

 メトロ アーカイブ アルバムの「有楽町線の歴史」では……

有楽町線は、飯田橋・市ヶ谷間で皇居外濠の牛込濠、新見附濠の一部を通過します。この区間は両側に本線、中央に2本の留置線検車用ピット線を設けた幅17~17.5m の4線型及び3線型のトンネルで、工事は濠内に工事用桟橋架設築堤仮締切り鋼矢板打ちを施工、掘削用支保工土留めアンカーを施工して、大規模な機械掘削により行いました。
留置線 駅などにおいて、列車を一時的に停め置くための線路。
検車用ピット線 検車とは車両を検査すること。ピット(pit)とは車の下部の検査や修理ができるよう低くなっている場所
桟橋架設 桟橋とは谷間などに高くかけた橋。架設とは線路を一方から他方にかけわたすこと
築堤 堤防をきずくこと
仮締切り 一時的に戸・窓などを、閉じたままにすること
鋼矢板 鋼製の平らな板
支保工 しほこう。坑道やトンネルなどの工事で、掘削してから覆工するまで土圧を支持する仮設の足場
土留め どどめ。高低差のある敷地で、土が低い土地に崩れてこないように止めること。
アンカー 部材や器具などを建物へ取り付けるために打つ鋲で、抜けにくい構造をもつ。

 写真の中央左、外堀通りから工事現場に下りる仮設の斜路の上に看板があり、「営団地下鉄8号線牛込第二工区土木工事」「企業者 帝都高速度交通営団」「施工業者 鉄建建設株式会社◯」とあります。
外堀通りには高層の建物は少なく、二階建てが目立ちます。昭和45年のID 13108、昭和56年頃のID 486、当時の住宅地図を参考に左から見ていくと……
 その奥に外堀通りがあり、高層の建物は少なく、二階建ての建物が目立ちます。参考は昭和45年のID13108、昭和56年頃のID 486、当時の住宅地図を参考に、左から見ていくと……

  1. 看板「三平ストア 食堂三平」
  2. 看板「タケヤみそ」
  3. 八木医院
  4. 看板「雪印牛乳」
  5. 奥山歯科
  6. 新益塾
  7. 恵◯社マイクロフィルム
  8. 週刊大衆 双葉社
  9. 龍生会館(いけばな龍生派)
  10. 東京理科大学 薬学部
  11. 東京理科大学(体育館)

  1. 双葉社
  2. 日本不動産短期大学校
  3. 三興製本
  4. 油井工業所
  5. 神田印刷㈱
  6. 渋谷ガラス㈱、看板「日本ペイント」
  7. ◯◯自動車工業㈱
  8. 教育図書㈱
  9. 尾形伊之助商店
  10. 丸善石油(ガソリンスタンド)
  11. 日仏学院
  12. 家の光会館(農協の出版・文化団体)

  1. 家の光会館
  2. 研究社新館
  3. 研究社旧館
  4. 東京理科大学
  5. 東京理科大学
  6. 東京理科大学
  7. 飯田橋東海ビル(現、飯田橋御幸ビル 下宮比町)
  8. 首都高速道路5号線(池袋線)
  9. 貸ボート乗り場(現、カナルカフェ)

神田川(写真)船河原橋 昭和39年 ID 551

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 551は昭和39年頃に江戸川(現在は神田川)の上流から船河原橋方向や下宮比町などを撮影しました。撮影時期について新宿歴史博物館では「1964年?」としています。

 昭和40年以前には、神田川の中流部は江戸川と呼びました。川面にはゴミがたくさん浮かんでいます。小舟が3艘見え、うち2艘はバラ積みの船倉をテントのようなもので覆っています。廃材等の運搬に使われたものでしょう。
 向かって右の岸が目白通りで新宿区、左岸が文京区です。1969年(昭和44年)には川の上に首都高速道路5号線が建設されますが、まだありません。
 新宿区側、トラス構造の鉄塔に電飾看板「ホテル」が見えます。これは同年代の写真で「つるやホテル」です。川沿いの電柱には「ナショナル」の広告が並んでいます。その他の広告もあるようですが、よく読めません。
 左から船河原橋を渡っているのは都電13系統(新宿駅前-水天宮前)。目白通りから奥にかけて15系統(高田馬場駅前ー茅場町)が2台見えます。都電の廃止は13系統が昭和45年3月27日、15系統は昭和43年9月28日でした。
 遠くかすんだように国電(現、JR東日本)の飯田橋駅の高架ホームと屋根が確認できます。その向こう側の建物は千代田区です。

昭和43年 住宅地図。

寒泉精舎跡(写真)揚場町と下宮比町 平成28年 ID 17975

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975は平成28年に揚場あげば町と下宮しもみや町のかんせんしょうしゃのあとを撮影しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975 寒泉精舎跡

 中央の黒い地に黄色の文字が説明板「寒泉精舎跡」で、設置されている場所は揚場町です。
 その前に周囲を見てみます。左から……

  1. 東京電力の高圧キャビネット。「河立679」と「安心・安全 防犯ガラス/全硝連」「第50回 中央大学 理工白門祭 お笑いステージ シャッフル 歴史/しめて 11・4◯ 5◯ 6◯」
  2. 「(第2)東(文堂ビル)」「薬」(クスリの福太郎)
  3. 「日本 Japanese Language School 03-3235-xxxx」「てけてけ にんにく醤油タレ 焼き鶏 総本家 第2 東(文)堂ビル」「博多水炊き」「てけてけ 秘伝のにんにくダレ 焼き鶏 塩つくね 博多水炊き」「名物 塩つくね」「てけてけ にんにく醤油ダレ 焼き鶏 総本家」「うまい焼き鶏」「秘伝のにんにくダレ 塩つくね 博(多水炊き)」「ご宴会あります 焼き鶏79円 宴会コース 2500円」「ザ・プレミアム モルツ生 299円」「290円」「290円」
  4. 「定礎」

 寒泉精舎の場所もよくわかっていません。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では

  名代官の学習塾、寒泉精舎跡(下宮比町と揚場町との境)
 筑土八幡を下りて大久保通りを飯田橋に向う。津久戸小学校と厚生年金病院の中間あたりは、江戸時代の儒者岡田寒泉が私塾の「寒泉精舎」を開いた所で、都の文化財(旧跡)になっている。

 津久戸小学校と厚生年金病院本館は津久戸町、病院別館は下宮比町です。下宮比町から現在の大久保通りをはさんだ南側が、説明板のある揚場町です。
 江戸時代には、現在の下宮比町と揚場町の間には道がありませんでした。新宿区地域文化部文化国際課「新宿文化絵図」(新宿区、2007年、下図)を見ると、西田小金次というおそらく旗本の屋敷がありました。

 ここに道ができるのは明治時代のはじめで、明治40年頃、やや北側にずれた場所に現在の大久保通りが開通します。
 2つの町の境界上に寒泉精舎があったと推測されるので、所在地が「揚場町二 下宮比町三」として指定されたのでしょう。
 なお、東京市及接続郡部地籍地図 上卷(大正元年)では、大久保通りの南側に少しだけ下宮比町が残っていますが、現在では揚場町に変わっています。

東京都指定旧跡
    かん せん しょう しゃ のあと
     所在地 新宿区揚場あげばちょう二・下宮しもみやちょう
     指定  大正8年10月

 岡田家泉は江戸時代後期の儒学者で政治家。名ははかる、字は子強、通称清助といい、寒泉と号した。元文げんぶん5年(1740)11月4日江戸牛込に千二百石の旗本の子として生まれた。寛政かんせい元年(1789)松平まつだいら定信さだのぶに抜擢されて幕府儒官となり昌平しょうへいこう(後の昌平坂学問所)で経書けいしょを講じた。柴野しばの栗山りつざん(彦輔)・尾藤びとう二洲じしゅう(良佐)とともに、「寛政の三博士」と呼ばれ、寛政の改革で学政や教育の改革に当たった三人の朱子学者のひとりである(寒泉が常陸ひたち代官に転じた後は古賀こが精里せいちが登用された)。寛政6年(1794)から文化5年(1808)までの14年間は、代官職として現在の茨城県内の7郡82村5万石余の地を治め、民政家としての功績は極めて大きなものがあった。
 寛政2年(1790)8月19日この地に幕府から328坪6余の土地を与えられ、寒泉精舎と名付けた家塾を開いた。官職を辞した後も子弟のために授読講義を行い、「朝ごとに句読を授け、会日を定めて講筵こうえんを開き給えりしに、門人もんじん賓客ひんかくにみちみちて、塾中いることあたわざるになべり」とあって、活況を呈している様子を門弟間宮まみや士信ことのぶが『寒泉先生行状』に記している。文化12年(1815)病気のため寒泉精舎を閉鎖し土地を返上した。文化13年(1816)8月9日77歳で死去し、大塚先儒墓所(国指定史跡)に儒制により葬られた。著書に『幼学ようがく指要しよう』『三札さんらいこう』『寒泉かんせん精舎しょうじゃ遺稿いこう』などがある。
 平成13年(2001)3月31日 設置
東京都教育委員会

寒泉精舎 「寒泉」とは「冷たい泉。冬の泉」ですが、ここでは「岡田寒泉がつくった」との意味。「精舎」とは「僧侶が仏道を修行する所。寺院」
岡田家泉 江戸中期の儒学者、民政家。号は寒泉。生年は元文5年11月4日(1740.12.22)。没年は文化13年8月9日(1816.8.31)。77歳。

岡田寒泉

儒学者 中国の孔子によって主張された政治道徳思想は儒教。実践倫理と政治哲学を加え、体系化した教育と学問を儒学。儒学を学んだり、研究・教授する人を儒学者。
松平定信 江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫。1787年〜1793年、老中として寛政の改革を実施。
幕府儒官 江戸幕府で儒学を体得し、公務に仕える者。儒学をもって公務に就いている者。公の機関で儒学を教授する者
昌平黌 こうとは「まなびや、学舎、学校」。江戸幕府直轄の学校。寛政かんせいの改革の際、実質的に官学となった。
昌平坂学問所 1790年(寛政2年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。
経書 儒教の最も基本的な教えをしるした書物。儒教の経典。四書・五経・十三経の類。
柴野栗山 江戸時代の儒学者・文人。生年は元文元年(1736年)。没年は文化4年12月1日(1807年12月29日)。

柴野栗山

尾藤二洲 江戸時代後期の儒学者。生年は延享2年10月8日(1745年11月1日)。没年は文化10年12月4日(1814年1月24日)。

尾藤二洲

寛政の改革 幕政の三大改革の1つ。老中松平定信を登用し、寛政異学の禁、棄捐きえん令、囲米かこいまいの制などを実施し、文武両道を奨励。しかし、町人の不平を招き、定信の失脚で失敗した。
朱子学者 朱子学は儒学の一学派。朱熹(朱子)の系統をひく学問。
常陸 東海道に属し、現在の茨城県北東部。

代官 幕府の直轄地(天領)数万石を支配する地方官の職名。
古賀精里 江戸時代中期〜後期の儒学者。生年は寛延3年10月20日(1750年11月18日)。没年は文化14年5月3日(1817年6月17日)
民政家 文官による政治。軍政に対する語。
授読 師が弟子一人一人に書物の読み方を教え伝える。塾生を個別に指導する。
句読 くとう。文章の読み方。特に、漢文の素読。
講筵 書物などの講義をすること。
間宮士信 江戸後期の旗本で地誌学者。生年は安永6年(1777年)。没年は天保12年7月24日(1841年9月9日)
寒泉先生行状 門弟間宮士信が著した書物。静幽堂叢書(第34冊・伝記部)に収録。
大塚先儒墓所 おおつか せんじゅ ぼしょ。江戸時代の儒者の墓所。儒学者が儒教式の葬式と祭祀(儒葬)を行った
儒制 不明。朱子の『家礼』に基づいた儒式の葬祭か?
幼学指要 ようがく しよう。刊行年は弘化3年(1846)
三札図考 寒泉精舎遺稿 不明。

寒泉精舎跡

寒泉精舎跡

下宮比町(写真)分水路吐口 昭和51年 ID 476-77, 485, 488, 11460-61, 12187-88

文学と神楽坂

  新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 476-77、485、488、11460-61、12187-88は昭和51年(1976)8月に飯田橋歩道橋の上から下宮比町、首都高速道路5号線(池袋線)や目白通り、神田川などを撮影しています。資料名は「下宮比町、高速道路下」で、ID 476-77、12187-88(カラー)が4枚、ID 485、488(白黒)が2枚、「目白通り、首都高速5号線、神田川(飯田橋付近)」ID 11460-61が2枚です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 476 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12188 飯田橋付近 目白通り 下宮比町

下宮比町(昭和51年)
  1. 袖看板「麻雀 東南 お気軽にご◯」
  2. 袖看板「3F 武西歯科 ☎2◯」
  3. 袖看板「◯◯◯ ◯◯◯◯◯機械専門/東京伊藤鉄工 株式会社」
  4. 袖看板「有限会社 銀座◯」
  5. 袖看板「近畿日本ツー(リスト)」
  6. 袖看板「お気軽に大小コンパ/御宴会受け承ります/サッポロビール/たたき◯巻/大衆酒場/八鶏園」
  7. 袖看板「12月生(募)集中/M/フィニッシュワ(ークスクール)」
  8. 袖看板「(52レーン)」(イーグルボウル)
  9. 左の歩道
  10. 道路標識 (駐車禁止)(転回禁止)(消火栓)
  1. 片側2車線。中央に三角コーン1。右側の2車線は色が違う。
  2. 隆慶橋。一時的に片側3車線に増える。交通信号機は青色。
  3. 右の歩道。両側に木製の仮設と思われる柵。裏側の道路標識。スポットライト様のライト。
  4. 首都高速道路5号線(池袋線)。橋脚は2本
  5. 神田川
  6. 首都高出口のランプから下に行く道路
  7. 右は文京区。近くに松屋ビル

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 477 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12187 飯田橋付近 目白通り 下宮比町

下宮比町(昭和51年)
  1. ポール看板「イーグルボウル」(52レーン) P有料駐車場 駐車料金◯◯ 200円
  2. 塔屋看板「モリサワ/写植スクール/随時受付 夜間部 12月生募集中」壁面看板「M」袖看板「フィニッシュワークスクール」「モリサワ写真植字機」
  3. 電柱看板「つる家」(ホテル)
  4. ポール看板「つる家」
  5. 左の歩道
  6. 道路標識 (駐車禁止)(転回禁止)
  7. 高いビルは「池田ビル」(地上8階)
  1. 右の歩道。歩道の両側に木製と思われる柵。
  2. 首都高速道路5号線(池袋線)。橋脚は2本
  3. 神田川
  4. 川の上で隆慶橋と反射像
  5. 首都高出口のランプから下に行く道路

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 485 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11460 目白通り、首都高速5号線、神田川(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 488 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11461 目白通り、首都高速5号線、神田川(飯田橋付近)

 神田川に近い歩道ではスポットライト様の光をあてていて、歩道橋に行く階段があります。ID 485と488で隆慶橋の交通信号機は赤。川を渡った文京区では「建物・不動産/松屋」がID 485と488ともにあり、ID 488は首都高から車が出てくる場所の上で「◯ガロ」やネオンサイン「競」「調」などが見えています。しかし、建物の名称について多くは小さすぎて読めません。
 この4枚の写真は、おそらく神田川の「江戸川橋分水路」が完成に近づいたことを記録したものでしょう。分水路は目白通りの地下に建設し、ID 488の手前に見えるコンクリートと鉄板の「吐口はきぐち」を通って神田川に流れ込みます。
 分水路が通っている部分の目白通りの舗装はコンクリートのような色で、左側のアスファルトらしき部分と色が違います。分水路はカーブして吐口につながっています。
 吐口のすぐ手前には飯田橋歩道橋の上り階段があり、交差点ギリギまで分水していることが分かります。
 江戸川橋分水路は神田川流域の洪水被害を防ぐ目的で建設され、写真の翌年の昭和52年に完成しました。

飯田橋交差点(写真)目白通り 平成元年 ID 508

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 508は平成元年9月に「下宮比町交差点」(正しくは「飯田橋交差点」)を、おそらくセントラルプラザの2階デッキ部分から撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 508 下宮比町交差点

 中央には五叉路があり、左下から横断歩道と飯田橋歩道橋を越えて右に抜けるのが外濠通り。横断歩道の向こうから左上に続くのが大久保通り。歩道橋の向こうの首都高速道路5号線(池袋線)に沿う形で中央奥にカーブしていくのが目白通りです。歩道橋は「外堀通り/新宿区下宮比町」と書かれています。
 手前に見えているのは地下の駐車場につながる換気装置でしょう。ラムラの「せせらぎ」にかかる「ひいらぎばし」の上で、おそらくフリーマーケットを開催中。やや離れて交差点に近い小屋は、地下鉄の出入り口のエレベーターです。

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)

 遠くに見えるビル等は左から……

  1. 「週刊現代」と「飯田橋東海ビル」
  2. 「(セント)ラル/(ファイ)ナンス」
  3. 地面に小さなテント
  4. 「ビューティープラザ/レディ」(パーマ)
  5. 「ミカワ薬局」
  6. 「五洋建設」

昭和55年(1980年) 飯田橋交差点 ラムラ建設前

すっかり観光地な神楽坂

日本の特別地域⑤新宿区

文学と神楽坂

 昼間たかし氏と佐藤圭亮氏の「日本の特別地域⑤ 副都心編 東京都新宿区」(マイクロマガジン、平成20年、2008年)で、表題「すっかり観光地な/神楽坂だが/その裏は極小住宅集合地帯」、「注目されればいいってもんでもない」とした上で、こう書いています。

神楽坂ブームに
地元民は大迷惑

 2007年に放映されたTVドラマ『拝啓、父上様』。このドラマの放映と前後して、世間には「神楽坂ブーム」なるものが発生した。
 この地域に残っていた築数十年の民家は次々と和風のカフェに改築され、「隠れ家的なカフェ」として話題を集めた(行列ができて、まったく隠れていないけど)。『産経新聞』の2007年3月15日・東京朝刊にも高校生や女性客が殺到していることが記されている。この記事では、ランチタイムの回転率が2倍になったなどホクホク顔の飲食店の声が数多く取り上げられている。だが、これ以降、現在も続いている神楽坂ブームは近隣住民にとっては、それほど歓迎すべきものではなかった。住民のカンに触った第一はブームにあてこんだ商店街が『拝啓、父上様』のテーマソングを流し続けたこと。朝から晩まで森山良子の歌声が流れ続けるのは、新手の拷問。おまけに、土日は、ゾロゾロと観光客がうろついているものだから、サンダル履きでうろつくのも躊躇するくらい。2008年になり、多少は落ち着いた感じのするブーム。観光客は住民にとって、ありがたいものではない。
カンに触れる 癇にさわる。癇にれる。腹だたしく思う。気に入らない。しゃくにさわる。
森山良子 渋谷区出身の歌手。19歳でレコードデビュー「この広い野原いっぱい」。「禁じられた恋」「遠い遠いあの野原」「涙そうそう」の歌詞など。生年は1948年1月18日

スーパー戦争の謎
激安スーパーが敗北

 さて、ブームの御蔭で観光客を当て込んだ店が増加した神楽坂だが、本来は庶民のための店が建ち並ぶ地域。通りには、ちょっと高級めのチェーン「よしや」と、地元スーパー「きむらや」が店を構える。大江戸線の開通以降、増加する人口を当て込んで2003年には、近隣の大久保通り沿いに「京王ストア」がオープン、これに対抗する形で「きむらや」は牛込北町に2号店を出店。これ以降、現在まで苛烈な集客合戦は続いている。
 このスーパー戦争の最大の特徴は、どれも高級店であることだ。通常、このようなスーパー戦争になると、それぞれの店が値下げを繰り返し、消費者には嬉しい結果となると思うのだが、そんなことはまったくない。多少は値下げをしているかもしれないが基本的に、あらゆる商品は「神楽坂価格」、すなわち「モノはよいけど、ちょっと高い」という状態(「京王ストア」なんて、あわびを売ってる……。誰が買うの?)。
 どうも、神楽坂住民の特徴として、「値段よりも品質」を求めていることが挙げられるようだ。その証拠には、2007年に起きたある出来事がある。
 実は、2007年まで神楽坂通りには、もう一軒のスーパー「丸正」が店を構えていた。都内の人ならわかると思うが、肉や魚などの生鮮食品を非常にお手ごろ価格で提供してくれている、懐に優しいスーパーである。
 この3店舗が並んでいれば通例「よしや」か「きむらや」が先に撤退するのでは……、と思っていたら「丸正」がいの一番に「今後は江戸川橋店をご利用下さい」と撤退してしまったのである。「まさか!」と驚くだろうが事実である。
 こうして残った店舗には、今日も買っただけで美味い料理がつくれたような気分にさせてくれる高級食材やらが並び、繁盛している。
スーパー「丸正」 以前は神楽坂6丁目68にありました。現在は「美容室イグレックパリ(IGREK PARIS)」です。

神楽坂駅なのに
神楽坂にはない

 神楽坂駅が神楽坂にないことを知る者は少ない。
「ああ、駅のあるのは矢来町だもんねえ…」
と、鉄道マニアなら言い出すだろうが、それはまだ甘い。
 本来の神楽坂は一般に、神楽坂と認識されている範囲の半分程度にすぎないのだ。
 正確な神楽坂は、文字どおり坂のある部分だけ。つまりJR飯田橋駅側の外堀通り沿いの坂の終端から、大久保通りを交差する、神楽坂上の信号までの範囲だ。現在では、住居表示によって「神楽坂六丁目」という地名がつくられているが、ここはもとは「通寺町」と呼ばれ、神楽坂とは別の地域とされていた。ほかにも神楽の名を冠した地名として、飯田橋駅の駅ビルの建つところが「神楽河岸」と名付けられている。ここは、高度成長期に外堀が悪臭を放つようになったのをきっかけに埋め立てられた結果の新しい地名
 と、厳密に範囲を区切ってしまえば非常に狭い神楽坂の範囲だが、通常は北は文京区、東と南は千代田区との境まで、西も外苑東通りあたりまでは、「神楽坂だ!」と主張しても古くからの住民以外は納得してくれるだろう。
 さて、この神楽坂の裏手には、白銀町下宮比町という、これまた歴史を感じさせる地名のエリアが存在する。ここには、数年前までは、何軒かの「これぞ金持ち」という雰囲気を漂わせた屋敷が建っていたが、それらも気がつけばマンションに姿を変えてしまった。神楽坂は、都心の住宅地として、ひとつのステータスを確立しつつあり、あちこちでマンションやビルの建設が始まろうとしている。本当の町の変化はこれから発生するようだ。
新しい地名 間違えています。神楽河岸は土地名としては明治期に、町名としては大正期に既に出ています。詳しくは「神楽河岸|町名はいつから」で。

神楽河岸|町名はいつから

文学と神楽坂

 神楽河岸はいつから単なる「土地名」ではなく「町名」になったのでしょうか? 現在は人口0人の「町」ですが、いつから「町」になったのでしょうか。
 ウィキペディア(Wikipedia)では……

神楽河岸(かぐらがし)は、東京都新宿区の町名。住居表示実施済み地域であり、丁目の設定がない単独町名である。

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では……

神楽かぐら河岸かし
 牛込御門から船河原橋間の外堀沿いの河岸地。当地域はかつての江戸城の外堀である飯田濠の場所にあたり、現在は埋め立てられ、千代田区と新宿区の両区にまたかって駅ビルが建っている。ビルの上層部には東京都飯田橋庁舎と住宅棟があり、このうち事務棟は新宿区、住宅棟は千代田区に属している。
 江戸時代に河岸地だったのは牛込揚場町に付属する河岸のみで、揚場と呼ばれていた。近代になって揚場河岸を含めた一帯の堀端の地を神楽河岸と総称するようになった。昭和六三年住居表示実施。

 また、コトバンクの「日本歴史地名大系」(平凡社)では

牛込御門―ふな河原かわら橋間の外堀沿いの河岸地。江戸時代に河岸地であったのは牛込うしごめ揚場あげば町に付属する河岸(物揚場)のみで、揚場河岸とよばれていた。近代に入って揚場河岸を含めた一帯の堀端の地を神楽河岸と総称するようになった。

 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4神楽坂界隈の変遷』(1970年)49頁では

 明治になってからこの川岸は俗に揚場河岸と唱えられていた。だが明治末年にはこの揚場河岸をも含めて神楽河岸となっている。古くは市兵衛河岸とか市兵衛雁木(雁木は河岸より差出した船付けの板木)といい、昔此所に岩瀬市兵衛のやしき在りしに困る、と東京名所図会に出ているがこれは誤りであろう。市兵衛河岸はもっと神田川を下って、船河原橋際より小石川橋にかけていったものである。「明治六年東京地名字引」(江戸町づくし)にも小石川街門外と記されてある。

 つまり、「神楽河岸」の土地名は「近代に入って」「明治末年」からだと書いてありますが、「神楽河岸」が「町」になった時点は不明なのです。

 高道昌志氏の「明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程」(日本建築学会計画系論文集第80巻。2015年)では「このような状態から、神楽河岸は明治26年に市区改正事業によって、土地の区分としての『河岸地』から一端削除されていく。……一部を隣接する揚場町に編入し、残りを神楽坂警察署用地と水道局神楽河岸出張所、更にその残りが神楽河岸一・二号地として分配され……」
 つまり、神楽河岸は揚場町、神楽坂警察署と水道局神楽河岸出張所、神楽河岸一・二号の6つに分かれました。「神楽河岸町」の記載はありませんが「神楽河岸」は出ています。

日本建築学会計画系論文集第80巻。明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程

 同じく明治26年11月、牛込警察署が初めて神楽河岸に移転します(昭和5年『牛込区史』491頁)。注目すべきことは、所在地が「現在の神楽坂一丁目地先神楽河岸に移転し」となっていることです。地先(じさき、ちさき)とは「居住地・所有地・耕作地と地続きの地で、反別も石高もなく、自由に使える土地」「その土地から先へつながっている場所」だそうです。
 明治41年「神楽河岸」は「|」で表しています(『牛込区史』332頁、昭和5年)。つまり、世帯もなく、住民もいない所でした。
 大正元年、東京市区調査会の東京市及接続郡部地籍地図 上卷では、神楽河岸は神楽町一丁目の一部として描かれています。この時代の神楽河岸は、神楽町一丁目につながった「無番地/番外地」(土地公簿で地番ちばんのついていない土地)だったのです。

 大正9年に変化が出ます。この年、10世帯41人と初めて人口が増え、大正13年には14世帯85人になっています。大正9年12月、警察署の庁舎がここに新築されたことが関係していて、この時に区が認める町名として成立したと考えられます。
 大正10年の牛込町誌 第1巻の地図には「神楽河岸」の地名が見えます。また「区分及び人口」でも「神楽町を左の4区に区分す」として、神楽町1-3丁目と並んで神楽河岸、番地ナシ、8戸41人の記載があります。
 一方、同書記載の土地所有者には神楽河岸がなく、全域が公有地だったと考えられます。牛込町誌は「牛込区史編纂会」が手がけており、信頼性の高い資料です。
 さらに『牛込区史』(492頁)には現在の警察の管轄区域として「神楽坂一、二、三丁目」にはじまる町名の列挙の最後に「神楽河岸」が出てきます。原文では「現在当署の管轄区域は神楽町1、2、3丁目・(中略)・神楽河岸の諸町である」と書かれ、神楽河岸は確実に町の1つになったのです。おそらく新しい町名なので、最後になったのでしょう。
 さらに時代が変わり、人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)によれば既に「神楽河岸町」とついています。

人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)

 昭和45年の住宅地図では、再び「神楽河岸町」はなくなり、代わって「神楽河岸」があります。新宿区の町は「神楽河岸」、たたえる水は「飯田濠」、東半分で千代田区の町は飯田町でした。ちなみに、町としての「飯田河岸」は昭和8年7月1日になくなっています

住宅地図。1970年

 もっと新しい文献で、新宿区教育委員会「新宿区町名誌」(昭和51年)では、まったく無視し、「神楽河岸」は載っていません。一方「新修新宿区町名誌」(平成22年)では再び町の扱いになりました。
 おそらく、神楽河岸は大正9年の牛込警察署の庁舎建築から確実に「町」になったのでしょう。以来「神楽坂」と同じように「神楽河岸」も「町」の1つです。あとは当時の公報で確認できればいいのですが。
 なお「新宿区町名誌」(昭和51年)のように完全に無視したのは、まずかったのです。

看護婦養成の苦心と賞牌

文学と神楽坂

 石黒いしぐろ忠悳ただのり氏の「懐旧九十年」(東京博文館、昭和11年。再録は岩波文庫、昭和58年)です。女の看病人をつけたらという発想から看護婦(現、看護師)が生まれ、また、日本赤十字社から今の国際的な開発協力事業が発生しました。
 氏は陸軍軍医。江戸の医学所に学び、西洋医学の移入、陸軍軍医制度や日本赤十字社の設立に尽くしました。生年は弘化2年2月11日(1845年3月18日)。没年は昭和16年4月26日。97歳で死去。
 住所は牛込袋町26番地から明治13年、牛込区揚場町17番地に転居。

第5期 兵部省出仕より日清まで
  21 看護婦養成の苦心と賞牌
 我が国での看護婦の沿革を述べると、その始りともいうべきものは、維新の際、東北戦争の傷病者を神田かんだ和泉いずみばし病院へ収容した時です。この傷病者は官軍諸藩の武士ですからなかなか気が荒く、ややもすれば小使や看病人に茶碗や煙草タバコぼんを投げ付ける騒ぎが毎々のことで、当局ももて余し、一層のことにこれは女の看病人を附けたらよかろうというので、これを実行してみると案外の好成績を得たのです。
 その後、明治12, 3年頃海軍々医大監高木たかぎ兼寛かねひろ氏が、東京病院で看護婦養成を始めました。
 これが我が国看護婦養成の最初です。越えて明治19年、我が国の国際赤十字条約加入、日本赤十字社の創立となり、万国赤十字社に聯合すべき順序となりました.その結果、明治21年5月に篤志看護婦人会が組織せられ、有栖川ありすがわのみや熾仁たるひと親王董子ただこ殿下を総裁に推載し、鍋島侯爵夫人を会長と仰ぎました。これから看護婦養成事業がちょに就いて大いに発達して参ったのです。
 前にも述べた通り、私は最初陸軍々医方面に身を投じた際、自分の職分は兵隊の母たる重要任務であるとさとりました。さて、その兵隊の母として考えてみると、傷病者が重態になった時はこれを婦人の柔かき手で看護するのでなけれぱ親切な用意周到の看護は出来ない。ところが陸軍官軍では、看護婦を養成したり使用したりすることはまだ出来ない。そこで戦時に軍隊医事衛生の援助を主眼とする日本赤十字社においてこれを養成し、戦時にこれを使用することとし、世が進むと平時には重病者には看護婦を付けるようにするというのが、私の年来の計画であったのと、今一つには幸いにしてこの看護婦がその業務に熟達して来たならば、皇族におかせられてもぜひ看護婦を御使用ありたいというのが希望でした。また、そうなると皇族方の御看護をしたる手を以て傷病者の看護をさせることになる訳です。それで日本赤十字社の看護婦は看護は勿論、平素人格ということに注意しなくてはならぬという主張を持ったのです。
 そもそもやまいの治療に十の力を要するとすれば、医師の力が五、薬剤と食物が三、看護婦の力が二といったように三つの力が揃わなくてはならぬと思います。

 えき。(人民を徴発する意味から)戦争
賞牌 しょうはい。競技の入賞者などに賞として与える記章。メダル。
神田和泉橋 神田川に架かり昭和通りにある橋。
病院 明治元年、横浜軍陣病院を神田和泉橋旧藤堂邸に移転、大病院と称していたが、明治10年、東京大学医学部附属病院と改称。
高木兼寛 鹿児島医学校に入学し、聖トーマス病院医学校(現キングス・カレッジ・ロンドン)に留学。臨床第一の英国医学を広め、脚気の原因について蛋白質を多く摂り、また麦飯がいいと判断。最終的には海軍軍医総監。東京慈恵会医科大学の創設者。生年は嘉永2年9月15日(1849年10月30日)。没年は大正9年(1920年)4月13日。
東京病院 明治14年、有志共立東京病院を設立。現在の東京慈恵会医科大学附属病院の前身。
日本赤十字社 明治10年(1877)の西南戦争時に、佐野さの常民つねたみ大給おぎゅうゆずるらが中心となり、傷病者救護を目的として組織した団体を「博愛社」と呼び、明治20年(1887)日本赤十字社と改称。
有栖川宮熾仁親王 江戸時代後期から明治時代の皇族、政治家、軍人。有栖川宮幟仁たかひと親王の第1王子。反幕府・尊王攘夷派で、戊辰戦争では江戸城を無血開城。
董子 有栖川ありすがわの宮妃みやひ董子。有栖川宮熾仁親王の妃。博愛社(現、日本赤十字社)創設。10年間、東京慈恵医院幹事長。
鍋島侯爵夫人 鍋島なべしま榮子ながこ。イタリア公使であった侯爵鍋島直大とローマで結婚。明治20年、日本赤十字社篤志看護婦人会会長に就任。
緒に就く しょにつく。見通しがつく。いとぐちが開ける。

牛肉店『いろは』と木村荘平

文学と神楽坂

地元の方からです

 明治期に通寺町(現・神楽坂6丁目)にあった牛肉店『いろは』について、このブログの記事を補完する目的で調べました。
『いろは』は今で言うチェーン店で、経営者は木村荘平でした。荘平は明治期に成功した経済人で、後に政治家になりました。彼の事業はヱビスビール(現・サッポロビール)や、都内の火葬場を取り仕切る東京博善として今に続いています。荘平は京都生まれ、家は三田にあり、必ずしも牛込と縁のあった人ではありません。
 明治37年12月22日、荘平は自らを代表社員とし、「牛馬魚料理および販売営業」を目的とした「いろは合資会社」を設立します。すでにある牛肉店を法人化したものです。官報告示の登記に以下が記されています。
   第十八支店 牛込区通寺町1番地
   金五百圓 有限(社員) 牛込区通寺町1番地 平林さわ
 荘平は愛人に店を経営させ、多くの子をなしたとされるので、そのひとりが牛込にいたのでしょう。
 では『第十八いろは』は、どこにあったのでしょうか。
 東京市及接続郡部地籍地図上卷(大正元年)の通寺町を見ると、左端に変則的な土地があり、「一ノ二」と読めます。「一ノ一」はありません。
「一ノ二」は、東京市及接続郡部地籍台帳 1によれば、わずか2.74坪です。とても建物の建つ広さには思えません。しかし、かつてはもう少し広かったのです。明治東京全図(明治9年)を見ると、肴町(現・神楽坂5丁目)に近い場所に三角形の通寺町1番地があります。

明治東京全図 明治9年(1876)

 ここが『第十八いろは』の場所でした。加能作次郎氏が「今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所」と書いていることとも符合します。
 土地が狭くなってしまったのは、明治の市区改正で現在の大久保通りが作られたためです。1番地の多くが、道路に変わってしまいました。
 明治37年の「風俗画報」新撰東京名所図会第41編(東陽堂)『第十八いろは』の写真は、現在の神楽坂5丁目から6丁目方向を撮影したものです。この写真は明治39年と説明がありますが、実際にはその2年以上の昔のようです。写真は左手から日が差して影を落としています。左の家並みの先、影のない場所が、明治26年に先行して「道幅八間」に拡幅した道と思われます。
 写真は奥に行くと通りの幅が狭くなっており、これも当時の地図に一致します。狭くなったあたりに屋台『手の字』があったでしょう。

第18いろは。明治39年は間違いで、正しくは明治37年。

第十八いろは(新宿区道路台帳に加筆)

 大久保通りの開通は明治40年ごろ。つまり写真のすぐ後に『第十八いろは』はなくなったと思われます。
『ここは牛込、神楽坂』第18号の「明治40年前後の記憶の地図」は、大久保通りを描いたために『いろは』の場所が分かりにくくなってしまったのでしょう。地図1
 経営者である木村荘平には『木村荘平君伝』(著者は松永敏太郎、錦蘭社、明治41年)という伝記があり、『第十八いろは』の写真もありますが不鮮明で見えません。
 この伝記によれば

世人はいろは四十八字に因み市内に四十八カ所の支店を設置せられるもくろみで命名されたるやに伝えているが、事実はさようではなくて君(荘平)はいろはの書を学び学をなすのはじめである。(中略)牛肉店の開始は畜産事業拡張の手始めである。深き意味ではないと言うていた。

とあります。
 荘平の死去は明治39年4月27日。「いろは合資会社」の代表には長男の木村荘蔵が就任しましたが、放漫経営で倒産に追い込まれたようです。
 また息子のひとり、木村荘八は思い出を記し、そこに第八支店(日本橋)のスケッチが残っています。

つゆのあとさき|永井荷風(3)

文学と神楽坂

 永井荷風永井荷風氏の「つゆのあとさき」です。昭和6年5月に脱稿し、同年「中央公論」10月号に一挙に掲載しました。青空文庫が今回の底本です。
 主人公は銀座で働く君江さんで、対する男性には色々な人物が出てきますが、ここでは出獄してまだ間がない「おじさん」です。そして「つゆのあとさき」はこれでおしまいです。

 君江は考え考え見附を越えると、公園になっている四番町の土手際に出たまま、電燈の下のベンチを見付けて腰をかけた。いつもその辺の夜学校から出て来て通りすぎる女にからかう学生もいないのは、大方おおかた日曜日か何かの故であろう。金網の垣を張った土手の真下と、水を隔てた堀端の道とには電車が絶えず往復しているが、その響の途絶える折々、暗い水面から貸ボートの静なかいの音にまじって若い女の声が聞える。君江は毎年夏になって、貸ボートが夜ごとににぎやかになるのを見ると、いつもきまって、京子の囲われていた小石川こいしかわの家へ同居した当時の事をおもい出す。京子と二人で、岸のあかりのとどかない水の真中までボートをぎ出し、男ばかり乗っているボートにわざと突当って、それを手がかりに誘惑して見た事も幾度だか知れなかった。それから今日まで三、四年の間、誰にも語ることのできない淫恣いんしな生涯の種々様々なる活劇は、丁度現在目の前によこたわっている飯田橋いいだばしから市ヶ谷見附に至る堀端一帯の眺望をいつもその背景にして進展していた。と思うと、何というわけもなくこの芝居の序幕も、どうやら自然と終りに近づいて来たような気がして来る……。
 火取虫ひとりむしつぶてのように顔をかすめて飛去ったのに驚かされて、空想から覚めると、君江は牛込から小石川へかけて眼前に見渡す眺望が急に何というわけもなく懐しくなった。いつ見納みおさめになっても名残惜しい気がしないように、そして永く記憶から消失きえうせないように、く見覚えて置きたいような心持になり、ベンチから立上って金網を張った垣際へ進寄すすみよろうとした。その時、影のようにふらふらと樹蔭こかげから現れ出た男にあやうく突き当ろうとして、互に身を避けながらふと顔を見合せ、
「や、君子さん。」
「おじさん。どうなすって。」と二人ともびっくりしてそのまま立止った。おじさんというのは牛込芸者の京子を身受してうし天神てんじんしたかこっていた旦那だんなの事である。君江は親の家を去って京子の許に身を寄せた時分、絶えず遊びに来る芸者たちがおじさんおじさんというのをまねて、同じようにおじさんと呼んでいた。本名は川島金之助といってある会社の株式係をしていたがつかい込みの悪事があらわれて懲役に行ったのである。その時分は結城ゆうきずくめった身なりに芸人らしく見えた事もあったのが、今は帽子もかぶらず、洗ざらし手拭地てぬぐいじ浴衣ゆかた兵児帯へこおびをしめ素足に安下駄をはいた様子。どうやら出獄してまだ間がないらしいようにも思われた。
見附 新見附でしょう
四番町 現在の四番町とは違います。九段北四丁目の北部です。近くに新見附橋があります。旧麹町区の新旧町名対照図 震災復興前後

旧麹町区の一部
電車 大正時代、電車といえば路線電車=チンチン電車のことです。
京子 君江の小学校の友達で、牛込の芸者になり、さらに、ある会社の株式係の川島金之助のめかけに。君江と京子と川島の三人で一夜を共にしたことも。しかし川島は横領の咎で収監。しかし、川島は仮釈放中か満期釈放で、自由の身になっていました。
小石川の家 小石川は小石川区です。家は小石川区諏訪町にあると後でわかります。
淫恣 いんし。みだらで、だらしがない。
活劇 劇の展開を思わせるような波乱。激しく派手な格闘。乱闘
市ヶ谷見附 市ヶ谷見附は江戸時代に江戸城の外堀に作られた枡形の城門ですが、その見附は今はなくなり、「市谷見附」交差点だけが残っています。
火取虫 夏、灯火に集まるヒトリガなどの蛾の類
 れき。小さい石。こいし。いしころ。つぶて。
牛込 牛込区、特に神楽坂を中心にする地域
牛天神下 後で「諏訪町で御厄介になっていた」と君江が言っています。「牛天神下」とは「牛天神=北野神社の下」という意味なのでしょう。
結城ずくめ 結城紬は茨城県結城市の周辺で織られる、奈良時代から続く高級絹織物。「ずくめ」は「そればかりだ」
洗ざらし 衣服などの、幾度も洗って、色は薄れる状態。
兵児帯 和服用帯の一種。並幅か広幅の布で胴を二回りし、後ろで締める簡単な帯。

「君子さんの方はその後どうしているんだね。定めし好きな人ができて一緒に暮しているんだろう。」
「いいえ。おじさん。相変らずなのよ。とうとう女給になってしまったのよ。病気でこの一週間ばかり休んでいますけれど。」
「そうか。女給さんか。」
 話しながら歩いて行くうち、川島は木蔭こかげのベンチには若い男女の寄添っているほかには、人通りといっても大抵それと同じような学生らしいものばかりなので、いくらか安心したらしく、自分から先に有合うベンチに腰をおろし、「いろいろききたい事もあるんだ。君子さんの顔を見ると、やっぱりいろいろな事を思出すよ。むかしの事はさっぱり忘れてしまうつもりでいたんだが……。」
「おじさん。わたしも今から考えて見ると、諏訪町で御厄介になっていた時分が一番面白かったんですわ。さっきも一人でそんな事を考出して、ぼんやりしていましたの。今夜はほんとに不思議な晩だわ。あの時分の事を思い出して、ぼんやり小石川の方を眺めている最中、おじさんに逢うなんて、ほんとに不思議だわ。」
「なるほど小石川の方がよく見えるな。」と川島も堀外の眺望に心づいて同じように向を眺め、「あすこの、あかるいところが神楽かぐらざかだな。そうすると、あすこが安藤阪あんどうざかで、の茂ったところが牛天神になるわけだな。おれもあの時分には随分したい放題な真似まねをしたもんだな。しかし人間一生涯の中に一度でも面白いと思う事があればそれで生れたかいがあるんだ。時節が来たらあきらめをつけなくっちゃいけない。」
「ほんとうね。だから、わたしも実は田舎の家へ帰ろうかと思っていますの。
定めし さだめし。あとに推量の語を伴って、おそらく。きっと。さぞかし。
女給 じょきゅう。カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
有合う ありあう。ものがたまたまそこにある。折よくその場にある。
諏訪町 現在は文京区後楽二丁目の一部。

小石川区諏訪町

心づいて こころづく。心付く。気がつく。考えが回る。失っていた意識を取り返す。正気づく。
 「阪」のこざと偏から土偏に変えると「坂」になります。「阪」は「大阪」など地名・人名にしか使われていません。それ以外には「坂」を使います。

昭和17年(標準漢字表)
昭和21年(当用漢字表)
昭和23年(戸籍法)人名用漢字に阪は使えない
昭和56年(常用漢字表)
平成16年(常用漢字表)人名用漢字に阪は使える

安藤坂 春日通りの「伝通院前」から南に下る坂道。
牛天神 うしてんじん。牛天神北野神社は、寿永元年(1182)、源頼朝が東国経営の際、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を与えると神託があり、同年の秋には、長男頼家が誕生し、翌年、平家を西海に追はらうことができました。そこで、元暦元年(1184)源頼朝がこの地に社殿を創建しました。

安藤坂

 突然土手の下から汽車の響と共に石炭のけむりが向の見えないほど舞上って来るのに、君江は川島の返事を聞く間もなくたもとに顔をおおいながら立上った。川島もつづいて立上り、
「そろそろ出掛けよう。差閊さしつかえがなければ番地だけでも教えて置いてもらおうかね。」
「市ヶ谷本村町丸◯番地、亀崎ちか方ですわ。いつでも正午おひる時分、一時頃までなら家にいます。おじさんは今どちら。」
「おれか、おれはまア……その中きまったら知らせよう。」
 公園の小径こみち一筋ひとすじしかないので、すぐさま新見附へ出て知らず知らず堀端の電車通へ来た。君江は市ヶ谷までは停留場一ツの道程みちのりなので、川島が電車に乗るのを見送ってから、ぶらぶら歩いて帰ろうとそのまま停留場に立留っていると、川島はどっちの方角へ行こうとするのやら、二、三度電車がとまっても一向乗ろうとする様子もない。話も途絶えたまま、またもや並んで歩むともなく歩みを運ぶと、一歩一歩ひとあしひとあし市ヶ谷見附が近くなって来る。
「おじさん。もうすぐそこだから、ちょっと寄っていらっしゃいよ。」と言った。君江はもし田舎へでも帰るようになれば、いつまた逢うかわからない人だと思うので、何となく心さびしい気もするし、またあの時分いろいろ世話になった返礼に、出来ることならむかしの話でもして慰めて上げたいような気もしたのである。
「さしつかえは無いのか。」
「いやなおじさんねえ。大丈夫よ。」
「間借をしているんだろう。」
「ええ。わたし一人きり二階を借りているんですの。下のおばさんも一人きりですから、誰にも遠慮は入りません。」
「それじゃちょっとお邪魔をして行こうかね。」
 たもと。和服の袖の下の袋状の所。
市ヶ谷本村町 戦前の市ヶ谷本村町は、陸軍士官学校を除くと、小さかったようです。

大正11年 東京市牛込区

電車通 路面電車が通る道

 君江さんは「おじさん」と一緒に下宿の2階にやってきます。

「日本酒よりかえっていいのよ。後で頭が痛くならないから。」と咽喉のどの焼けるのをうるおすために、飲残りのビールをまた一杯干して、大きくいきをしながら顔の上に乱れかかる洗髪をさもじれったそうに後へとさばく様子。川島はわずか二年見ぬ間に変れば変るものだと思うと、じっと見詰めた目をそむける暇がない。その時分にはいくら淫奔いんぽんだといってもまだ肩や腰のあたりのどこやらに生娘きむすめらしい様子が残っていたのが、今ではほおからおとがいへかけて面長おもながの横顔がすっかり垢抜あかぬして、肩と頸筋くびすじとはかえってその時分より弱々しく、しなやかに見えながら、開けた浴衣の胸から坐ったもものあたりの肉づきはあくまで豊艶ゆたかになって、全身の姿の何処ということなく、正業の女には見られない妖冶ようやな趣が目につくようになった。この趣はたとえば茶の湯の師匠には平生の挙動にもおのずから常人と異ったところが見え、剣客けんかくの身体には如何いかにくつろいでいる時にもすきがないのと同じようなものであろう。女の方では別に誘う気がなくても、男の心がおのずと乱れて誘い出されて来るのである。
「おじさん。わたしも今ので少し酔って来ましたわ。」と君江は横坐りにひざを崩して窓の敷居に片肱かたひじをつき、その手の上に頬を支えて顔を後に、洗髪を窓外の風に吹かせた。その姿を此方こなたから眺めると、既に十分酔の廻っている川島の眼には、どうやら枕の上から畳の方へと女の髪の乱れくずれる時のさまがちらついて来る。
 君江はなかばをつぶってサムライ日本何とやらと、鼻唄はなうたをうたうのを、川島はじっと聞き入りながら、突然何か決心したらしく、手酌てじゃくで一杯、ぐっとウイスキーを飲み干した。
     *     *     *     *

 何やら夢を見ているような気がしていたが、君江はふと目をさますと、暑いせいかその身は肌着一枚になって夜具の上に寐ていた。ビールやウイスキーのびんはそのまま取りちらされているが、二階には誰もいない。裏隣うらどなりの時計が十一時か十二時かを打続けている。ふと見るとまくらもとに書簡箋しょかんせんが一枚二ツ折にしてある。鏡台の曳出ひきだしに入れてある自分の用箋らしいので、横になったままひろげて見ると、川島の書いたもので、
 「何事も申上げる暇がありません。今夜僕は死場所を見付けようと歩いている途中、偶然あなたに出逢であいました。そして一時全く絶望したむかしの楽しみを繰返す事が出来ました。これでもうこの世に何一つ思置く事はありません。あなたが京子に逢ってこのはなしをする間には僕はもうこの世の人ではないでしょう。くれぐれもあなたの深切しんせつを嬉しいと思います。私は実際の事を白状すると、その瞬間何も知らないあなたをも一緒にあの世へ連れて行きたい気がした位です。男の執念はおそろしいものだと自分ながらゾッとしました。ではさようなら。私はこの世の御礼にあの世からあなたの身辺を護衛します。そして将来の幸福を祈ります。KKより。」
 君江は飛起きながら「おばさんおばさん。」と夢中で呼びつづけた。
昭和六年辛未かのとひつじ三月九日病中起筆至五月念二夜半脱初稿荷風散人

淫奔 いんぽん。性関係にだらしのないこと。みだらなこと。
生娘 うぶな娘。男性との性体験のない娘。処女。
 おとがい。下あご。あご。下顎の正中部、下唇の下に、横走する溝をへだてて突出する部分。英語でchinと呼ぶ部分だが、日本語には「おとがい」という古びた言葉しかない。
垢抜け 洗練した。素敵に見せられるように外見を変化させること。
豊艶 ほうえん。ふくよかで美しい。
正業 せいぎょう。正当な職業。かたぎの職業。
妖冶 ようや。なまめかしくあでやかな。妖艷
平生 へいぜい。ごく普通の状態。状況の中で生活している時。ふだん。平素。
サムライ日本 昭和6年「サムライ日本」は西条八十が作詞、松平信作が作曲して、「人を斬るのが侍ならば/恋の未練がなぜ斬れぬ/のびた月代寂しく撫でて/新納にいろうつる千代ちよ にがわらひ/昨日勤王 明日は佐幕/その日その日の出来ごころ/どうせおいらは裏切者よ/野暮な大小落し差し」と続きます。新納鶴千代は主人公で、大老井伊直弼の隠し子です。
思置く おもいおく。気にかける。あとに心を残す。思い残す。
念二 「念」は漢数字「廿」の大字だいじで、二十。したがって、「念二」は「22」になります。
夜半 よはん。よなか。0時の前後それぞれ30分間くらいを合わせた1時間くらい
 サイ。わず-か。わずかに。すこし。やっと。
散人 さんじん。役に立たない人。俗世間を離れて気ままに暮らす人。官途につかない人。閑人。文人などが雅号の下に添えて用いる語。散士。

つゆのあとさき|永井荷風(2)

文学と神楽坂

 永井荷風永井荷風氏の「つゆのあとさき」です。昭和6年5月に脱稿し、同年「中央公論」10月号に一挙に掲載しました。今回は「荷風全集第八巻」(岩波書店)から直接とりました。
 主人公は銀座のカッフェーで働く女給の君江さんで、対する男性には色々な人物が出てきますが、ここでは自動車輸入商会の支配人の矢さんを中心にしています。

「神樂。五十錢。」と矢田は君江の手を取つて、車に乗り、「阪の下で降りやう。それから少し歩かうぢやないか。」
「さうねえ。」
「今夜は何となく夜通し歩きたいやうな氣がするんだよ。」と矢田は腕をまはして輕く君江を抱き寄せると、君江は其のまゝ寄りかゝつて、何も彼も承知してゐながら、わざと、
「矢さん。一軆どこへ行くの。」ときいた。
 矢田の方でも隨分白ばツくれた女だとは思ひながら、其の經歴については何事も知らないので、表面は摺れてゐても、其の實案外それ程ではないのかと云ふ氣もするので、此の場合は女の仕向けるがまゝ至極おとなしい女給さんとして取扱つてゐれば聞違ひはないと、君江の耳元へ口を寄せて、
待合だよ。」と囁き聞かせ、「差しつかへはないだらう。今夜は晩いからね。僕の知つてる處がいいだらう。それとも君江さん。どこか知つてゐるなら、そこへ行かう。」
 思ひがけない矢田の仕返しに、流石の君江も返事に困り、「いゝえ。何處だつてかまはないわ。」
「ぢゃ、阪下で降りやう。尾澤カツフヱーの裏で、静な家を知つてゐるから。」
 君江はうなづいたまゝの外へ目を移したので、會話はなしはそのまゝ杜絶とだえる間もなく車は神樂阪の下に停つた。商店は殘らず戸を閉め、宵の中賑な露店も今は道端にや紙屑を散らして立去つた後、ふけ渡つた阪道には屋臺の飲食店がところ/”\に殘つてゐるばかり。酔つた人達のふら/\とよろめき歩む間を自動車の馳過る外には、藝者の姿が街をよこぎつて横町から横町へと出没するばかりである。毘沙門のの前あたりまで來て、矢田は立止つて、向側の路地口を眺め、
「たしかこの裏だ。君江さん。草履だらう。水溜りがあるぜ。」
 石を敷いた路地は、二人並んでは歩けない程せまいのを、矢田は今だに一人先に立つて行つたら君江に逃げられはせぬかと心配するらしく、ハメ板や肩先が觸るのもかまはず、身をにしながら並んで行くと、突當りに稻荷らしい小さなやしろがあつて、低い石垣の前で路地は十文字にわかれ、その一筋はすぐさま石段になつて降り行くあたりから、其時靜な下駄の音と共に褄を取つた藝者の姿が現れた。二人はいよ/\身を斜にして道を譲りながら、ふと見れば、乱れた島田のたぼに怪し氣な癖のついたのもかまはず、歩くのさへ退儀らしい女の様子。矢口は勿論の事。君江の目にも寐静つた路地裏の情景が一段艶しく、いかにも深け渡つた色町の夜らしく思ひなされて來たと見え、言合したやうに立止つて、その後姿を見送つた。それとも心づかぬ藝者は、稻荷の前から左手へ曲る角の待合の勝手口をあけて這入るが否や、疲れ果てた様子とは忽ち變つた威勢のいゝ聲で、「かアさん。もう間に合はなくつて。」
 君江は耳をすましながら、「矢さん。わたしも藝者にならうと思つたことがあるのよ。ほんとうなのよ。」
「さうか。君江さんが。」と矢田はいかにもびつくりしたらしく、其の事情わけをきかうとした時、早くも目指した待合の門口へ來た。内にはまだ人の氣勢けはひがしてゐたが、門の扉の閉めてあるのを、矢田は「おい/\」と呼びながら敲くと、すぐに硝子戸の音と、下駄をはく音がして、
「どなたさま。」と女の聲。
「僕。矢さんだよ。」
カッフェー 本来のカフェの定義はフランス語でコーヒー(豆)。コーヒー・紅茶などの飲物、菓子、果物や軽食を客に供する飲食店
女給 カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
 坂と阪は異体字で、同じ意味の漢字です。通常では大阪などの特別な地名や人名では「阪」。それ以外には「坂」を使います。
しらばくれた 知らない振りをする。知っていながら知らないふりをする。
摺れる すれる。いろいろの経験をして、純粋な気持ちがなくなる。世間ずれがする。
待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
尾沢カフェー カフェー・オザワ。大東京繁昌記に詳しい。
 窓の旧字体。
賑な にぎやかな。富み栄えて繁盛する。にぎわう。
 あくた。腐ったりして捨てられているもの。ごみ。くず
ふけ渡つた 更け渡る。ふけわたる。夜がすっかりける。深夜になる。夜が深まる。
馳過る かけすぎる。はせすぎる。走って過ぎる。馬を急ぎ走らせて通る。またたく間に過ぎてしまう。
 ほこら。神を祭った小さなやしろ
向側の路地口 平松南氏によれば、ごくぼその路地です。
草履 ぞうり。歯がなく、底が平らで、鼻緒がある。

女物の草履

ハメ板 壁や天井に連続して張る板
 ひじ。肘。上腕と前腕とをつなぐ関節部の外側。
觸る さわる。軽くさわる。ふれる。
 ななめ。なのめ。傾いている。
稲荷 いなり。稲荷神社。京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社が総本社。
 やしろ。神の来臨するところ。神をまつる殿舎。神社。
路地は十文字に 地図は新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)から取りました。ここで稲荷と四つ角を赤い四角()で、石段を赤丸()で表すと、行った待合は「松月」「よろづ」などになるでしょう。なお、赤丸()から、右につながる道は現在ありません。新しい道は左にできています(兵庫横丁は1960年代から

新宿区教育委員会「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)

新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)と現在

褄を取る つまをとる。すその長い着物の褄を手でつまみあげて歩く。芸者になる。左褄をとる。
 たぼ。日本髪の部分名で、後頭部から耳裏の部分

日本髪

寝静った ね-しずまる。夜がふけ、人々が寝入ってあたりが静かになる。
艶めかしい なまめかしい。姿やしぐさが色っぽい。あだっぽい。
思いなす 思い做す。心に受け取る。思い込む。推定して、それと決める。
言合す いいあわす。前もって話し合う。口をそろえて言う。同じことを言う。相談する
心づかぬ 心遣(こころづかい)とは「いろいろと、細かく気をつかうこと」。「心づかぬ」は反対語
忽ち たちまち。すぐ。即刻
敲く たたく。叩く。手や道具を用いて打つ。続けて、あるいは何度も打つ。

 君江はおぼえず口の端に微笑を浮べたのを、矢田は何事も知らないので、笑顏を見ると共に唯嬉しさのあまり、力一ぱい抱きしめて、
「君さん、よく承知してくれたねえ。僕は到底駄目だろうと思つて絶望していたんだよ。」
「そんな事ないわ。わたしだつて女ですもの。だけれど男の人はすぐ外の人に話をするから、それでわたし逃げてゐたのよ。」と君江は男の胸の上に抱かれたまゝ、羽織の下に片手を廻し、帶の掛けを抜いて引き出したので、薄い金紗捻れながら肩先から滑り落ちて、だんだら染長襦袢の胸もはだけた艶しさ。男はます/\激した調子になり、
「こう見えたつて、僕も信用が大事さ。誰にもしやべるもんかね。」
「カツフヱーは實に口がうるさいわねえ。人が何をしたつて餘計なお世話ぢやないの。」と言ひながら、端折りしごきを解き棄てひざの上に抱かれたまゝ身をそらすやうにして仰向あおむきに打倒れて、「みんな取つて頂戴、足袋もよ。」
 君江はかういう場合、初めて逢つた男に對しては、度々馴染を重ねた男に對する時よりも却って一倍の興味を覺え、思ふさま男を惱殺して見なければ、氣がすまなくなる。いつから斯う云う癖がついたのかと、君江は口説かれてゐる最中にも時々自分ながら心付いて、中途で止めやうと思ひながら、さうなると却て止められなくなるのである。美男子に對する時よりも、醜い老人や又は最初いやだと思つた男を相手にして、こういう場合に立到ると、君江は猶更烈はげしくいつもの癖が增長して、後になつて我ながら淺間しいと身顫ひする事も幾度だか知れない。
 この夜、平素氣障きざな奴だと思つてゐた矢田に迫まられて、君江は途中から急に其の言うがまゝになり出したのも、知らず/\いつもの惡い癖を出したまでの事である。
帯の掛け 帯掛。おびかけ。大名の奥女中などが使った帯留の一種。女性の帯の上を、おさえしめるひもで、両端に金具があってかみ合わせるようになっている
金紗 きんしゃ。紗の地に金糸などを織り込んで模様を表した絹織物。
 あわせ。裏地のついている衣服
捻る ねじる。捩る。捻る。拗る。細長いものの両端に力を加えて、互いに逆の方向に回す。ひねって回す。
だんだら染 だんだんぞめ。段だら染。布帛ふはくや糸を種々の色で横段に染めること
長襦袢 ながじゅばん。長着の下に重ねて着用する下着
艶しさ なまめかしい。艷めかしい。性的魅力を表現して、色っぽい。つやっぽい。
激する げきする。怒りなどで興奮する。いきりたつ。
端折り はしょり。着物のすそをはしょること。ある部分を省いて短く縮めること
しごき 志古貴。帯の下に巻いて斜め後ろに垂らす飾り帯
棄て すてる。捨てる。いらないか、価値がないものとして投げ出す。
馴染 なじみ。同じ遊女のもとに通いなれること。
却って かえって。予想とは反対になる。反対に。逆に。
口説く くどく。自分の意志に従わせようと、あれこれ言い迫る。こちらの意向を相手に承知してもらおうとして、熱心に説いたり頼んだりする。説得する
止める やめる。継続しているものを続かなくさせる。
立到る たちいたる。ある状態になる。とうとうそのような事態になる。
猶更 なおさら、いちだんと。ますます。
烈しい はげしい。烈い。激い。勢いが強い。あらあらしい。
身顫い みぶるい。寒さや恐ろしさなどのために体がふるえ動く
気障 服装、態度、言葉などが気取っていて、いやみ。

つゆのあとさき|永井荷風(1)

文学と神楽坂

 永井荷風永井荷風氏の「つゆのあとさき」です。昭和6年5月に脱稿し、同年「中央公論」10月号に一挙に掲載しました。青空文庫が今回の底本です。
 主人公は銀座のカッフェーで働く女給の君江さんで、対する男性には色々な人物が出てきますが、ここでは自動車輸入商会の支配人のヤアさんを中心にしています。

 表梯子おもてばしごの方から蝶子ちょうこという三十越したでっぷりした大年増おおどしま拾円じゅうえん紙幣を手にして、「お会計を願います。」と帳場の前へ立ち、壁の鏡にうつる自分の姿を見て半襟はんえりを合せ直しながら、
「君江さん。二階にヤアさんがいてよ。行っておあげなさいよ。うるさいから。」
「さっき見掛けたけれど、わたしの番じゃないから降りて来たのよ。あの人、せん辰子たつこさんのパトロンだって、ほんとうなの。」
「そうよ。日活にっかつヨウさんに取られてしまったのよ。」とはなし出した時会計の女が伝票と剰銭つりせんとを出す。その時この店の持主池田何某なにがしという男に事務員の竹下というのが附きしたがい、コック場へ通う帳場のわきの戸口から出て来る姿が、酒場の鏡に映った。蝶子と君江とは挨拶あいさつするのが面倒なので、さっさと知らぬふりで二階の方へ行く。池田というのは五十年配の歯の出た貧相ひんそうな男で、震災当時、南米の植民地から帰って来て、多年の蓄財を資本にして東京大阪神戸の三都にカッフェーを開き、まず今のところでは相応に利益を得ているという噂である。
 表梯子から二階へ上った蝶子は壁際のボックスにすわっている二人連れの客のところへ剰銭を持って行き、君江は銀座通を見下みおろす窓際のテーブルを占めたヤアさんというお客の方へと歩みを運びながら、
「いらっしゃいまし。この頃はすっかりお見かぎりね。」
「そう先廻りをしちゃアずるいよ。先日はどうも、すっかり見せつけられまして。あんなひどい目にった事は御在ございません。」
ヤアさん。たまにゃア仕方がないことよ。」と愛嬌あいきょうを作って君江は膝頭ひざがしらの触れ合うほどに椅子を引寄せて男のそばに坐り、いかにも懇意らしく卓テーブルの上に置いてある敷島しきしまの袋から一本抜取って口にくわえた。
 ヤアさんというのは赤阪あかさか溜池ためいけの自動車輸入商会の支配人だという触込ふれこみで、一時ひとしきりは毎日のように女給のひまな昼過ぎを目掛けて遊びに来たばかりか、折々店員四、五人をつれて晩餐ばんさん振舞ふるまう。時々これ見よがしに芸者をつれて来る事もある。年は四十前後、二ツはめているダイヤの指環ゆびわを抜いて見せて、女たちに品質の鑑定法や相場などを長々と説明するというような、万事思切って歯の浮くような事をする男であるが、相応に金をつかうので女給れんは寄ってたかって下にも置かないようにしている。君江は既に二、三度芝居の切符を買ってもらったこともあるし、休暇時間に松屋へ行って羽織と半襟を買ってもらったこともあるので、この次どこかへ御飯ごはんでも食べに行こうと誘われれば、その先は何を言われても、そうすげなく振切ってしまうわけにも行かない位の義理合いにはなっている。それ故ヤアさんからひやかされたのを、なまじ胡麻化ごまかすよりもあからさまに打明けてしまった方が、結句面倒でなくてよいと思ったのである。
「とにかくうらやましかったな。罪なことをするやつだよ。」とテーブルの周囲に集っているおたみ、春江、定子さだこなど三、四人の女給へわざとらしく冗談に事寄せて、「お二人でおそろいのところをうしろからすっかり話をきいてしまったんだからな。人中なのに手も握っていた。」
「あら。まさか。そんなにいちゃいちゃしたければ芝居なんぞ見に行きゃアしないわ。わきへ行くわよ。」
「こいつ。ひどいぞ。」とヤアさんはつまねをするはずみにテーブルのふちにあったサイダアのびんを倒す。四、五人の女給は一度に声を揚げて椅子から飛び退き、長いたもとをかかえるばかりか、テーブルからゆかしたた飛沫とばしりをよける用心にとすそまでつまみ上げるものもある。君江は自分の事から起った騒ぎに拠所よんどころなく雑巾ぞうきんを持って来て袂の先を口にくわえながら、テーブルを拭いているうち、新しく上って来た二、三人連づれの客。いらっしゃいましと大年増の蝶子が出迎えて「番先ばんさきはどなた。」と客の注文をきくより先に当番の女給を呼ぶ金切声かなきりごえ。「君江さんでしょう。」と誰やらの返事に君江は雑巾を植木鉢の土の上に投付けて「はアい。」と言いながら、新来のお客の方へと小走りにかけて行った。
カッフェー 本来のカフェの定義はフランス語でコーヒー(豆)。コーヒー・紅茶などの飲物、菓子、果物や軽食を客に供する飲食店
女給 じょきゅう。カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
表梯子 表に面した方にある階段。玄関の近くにある梯子段。
大年増 年増の中でも年のいった中年の婦人。40歳ぐらいの婦人。今日では芸者などについていうことが多い。古くは娘盛りをかなり過ぎた年頃の女性で、30歳前後からいったか。
半襟 和服用の下着の襦袢に縫い付ける替え衿。当然安い。
 せん。時間的に早い方。ある時点より前。最初
先廻り 相手より先に物事をしたり、考えたりすること。「先回りした言い方」
懇意 親しく交際している。仲よくつきあう
敷島 巻きたばこの銘柄。大蔵省専売局が明治37年6月29日から昭和18年12月下旬まで製造・販売していた。
赤阪溜池 赤坂溜池町。大きな溜池があったから。明治21年から昭和41年6月30日まで、港区赤坂一丁目1~5、9番の一部、二丁目1~5番。
女給 カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
思切って おもいきって。かたく心を決めて、大胆に。極端に。非常に。
歯の浮く 軽はずみで気障きざな言行を見たり聞いたりして、不快な気持になる。
羽織 和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。
義理合い  義理にからんだつきあい。交際上の関係。
わき 目ざすものからずれた方向。よそ。横。すぐそば。かたわら。
 和服の袖付けから下の、袋のように垂れた部分。
 衣服の下方のふち
拠所ない よんどころない。そうするよりしかたがない。やむをえない。
番先 先にする順番になる。また、その順番

 下記のあいりょうそう氏は鉄工所重役として働きながら、永井荷風氏の側近中の側近として、親密な交遊を続けました。氏の「荷風余話」(岩波書店、2010)で「つゆのあとさき」について昭和31年にこう書いています。

 昭和6年1月15日、短篇小説「紫陽花」を脱稿した先生は、中一週間置いて1月22日、この小説「つゆのあとさき」を起稿された。爾来熱心に執筆を続けられ、3月に入って感興著しく起り、執筆五更に至ると言う日が幾日も続いた。4月、世間はお花見気分に浮立ったが、依然家に引龍って執筆の日が多く「5月22日、遂に小説の稿を脱す、仮に夏の草と題す。」と「断腸亭日乗」に記載された。5月26日、小説「夏の草」を改めて「つゆのあとさき」と改題された。大正6年、新橋の花柳界を背景に芸者の風俗を描いた小説「腕くらべ」の名作を世に問い、江湖絶讃を博した先生は、今度は昭和の特異な産物女給の生態を描写しようと大正の末年頃から銀座のカフェータイガーに足繁く通い始めた。大正15年12月25日、改元されて昭和となったが、明けて昭和2年の正月、元旦から早々はやばやとタイガーの楼上に在り、「二更の後帰る」と日乗に記され、その熱心の程が窺われる。
 タイガーに行かれた帰りには、必ず四、五人の女給を連れて、しるこ屋、すし屋、小料理屋等で彼女等の御機嫌をとり結び、たわいのない馬鹿話に打興じながら、半面作家として犀利な観察眼を働かせ彼女等の生態を完膚なきまで研究し尽した。尤も此間いささ研究の度が過ぎてタイガーの女給お久と言う莫連ばくれんに引っ掛り、果ては偏奇館に坐り込まれ「女房にするか、財産を半分よこすか、二つに一つの返答しろ」と凄まれて、びっくり仰天、交番の巡査を頼んで鳥居坂警察の厄介となり、女は豚箱へ、先生は大眼玉を喰うと言う飛んだ余興の一幕を演じたこともあった。或る時、私は先生に小説のモデルに就いて伺ったことがあった。其時先生のお話では、「小説の主人公とするモデルには、決してI人の特定の人物は使わない。四人とか五人とか色々な人から各々その人の特徴を剔出して一つにまとめ一人の人間を創り上げる」とのことであった。「つゆのあとさき」の主人公女給君江も先生が永い年月としつきをかけて、大勢の女給の中から苦心惨憺、遂に一人の君江と言う意中の人物を創り上げたものと見える。この小説が昭和6年10月1日発行の「中央公論」第46年第10号に発表されるや、俄然、文壇注目の的となり、各方面に異常な反響を与えた。谷崎潤一郎氏は翌11月「改造」誌上に「永井荷風氏の近業」と題して「つゆのあとさき」に対する長い評論を掲載した。
爾来 じらい。それより後。それ以後
五更 ごこう。古代中国の時刻制度で、ほぼ午後七時から二時間ずつに区分した。五更は春は午前三時頃から五時頃まで、夏は午前二時頃から四時頃まで、秋は午前二時半すぎから五時頃まで、冬は午前三時二〇分すぎから六時頃まで。
江湖 こうこ。川と湖。特に、揚子江と洞庭湖。世の中。世間。天下
絶讃 ぜっさん。絶賛。口をきわめてほめること。この上ない称賛。
カフェータイガー かつて銀座にあった飲食店。カフェー・ライオンの斜向かいの焼けビルを修復して開業。ライオンは品行が悪い女給はすぐクビにしていたため、タイガーはライオンをクビになった女給をどんどん雇用。
楼上 ろうじょう。高い建物の上。二階。階上
二更 にこう。昔の時間の単位で、五更の一つ。二更は大体午後9時から11時頃。
聊か いささか。ほんの少し。わずか。
莫連 主として女についていい、世間ずれしていて悪がしこいこと。すれっからし。ばくれんおんな。
偏奇館 麻布にあった永井荷風の住居。木造2階建ての洋館。大正9年から居住。昭和20年、東京大空襲で焼失。
鳥居坂警察 明治14年、麻布警察署として開設。明治43年、麻布鳥居坂警察署と改称。大正二年以降、麻布区は同署と霞町警察署(大正四年以降は麻布六本木警察署)の所轄に分割。
豚箱 俗称で、警察署の留置場を指す
剔出 てきしゅつ。ほじくり出す。あばき出す。
俄然 がぜん。にわかに。だしぬけに。突然に。
長い評論 これは「『つゆのあとさき』を読む」に変わっています。一部を抜粋します。
今度の「つゆのあとさき」にも、古めかしいところは可なり眼につく。否、文章の体裁、場面々々の変化配置の工合など、古いと云へば此れが一番古いかも知れない。たとへば篇中至る所に偶然の出會ひがあり、その出會ひを利用して筋を運んで行くやり方など、一と昔前の小説や戯曲に慣用された手段である。しかしそれにも拘はらず、その古い形式が題材の持つ近代的色彩と微妙なコントラストを成して、一種の風韻を添へてゐる。作者は表面緊張した素振りを現はさず、いかにも大儀さうに古めかしさうにかいてゐながら、その無愛想な筆の跡が最後迄辿って読んで行くと、女主人公の君江と云ふ女性があざやかに浮き上って来るのに気がつく。のみならず、こゝには夜の銀座を中心とする昭和時代の風俗史がある。震災後に於ける東京人の慌しく浅ましい生活の種々相がある。これはたしかに紅葉山人の世界でも為永春水の世界でもない。「腕くらべ」は作者の過去の業績の總決算に過ぎなかったが、「つゆのあとさき」は齢五十を越えてからの作者の飛躍を示してゐる。私は何よりも先づ我が敬愛する荷風先生の健在を喜びたい。
為永春水 ためながしゅんすい。江戸時代後期の戯作者。人情本で有名。生年は寛政2年。死亡は天保14年12月23日。享年54。

飯田橋交差点(写真)目白通り 昭和54年 ID 498-500, 12107-08, 12111

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 498-500, 12107-08, 12111は昭和54年3月に飯田橋交差点、飯田橋歩道橋、目白通り、外堀通り、首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しています。資料名は「下宮比町交差点」で、地元ではそう呼ばれることが多かったようですが、正しい名称は「飯田橋交差点」です。また、 ID 12107はID 499と、ID 12108はID 500と、ID 12111はID 498とほぼ同じ写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 498 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12111 飯田橋歩道橋 目白通り 飯田橋駅付近

 歩道橋に横断幕「ゆずり合いモデル交差点/ゆとりを◯◯て東京に」と地名表示「目白通り/新宿区下宮比町」。その下を左右に横切るように車が走るのは外濠通りです。左端に特徴的なカーブした歩道橋の階段が見えます。
 たくさんの自動車が並んで待っている道路は「目白通り」です。奥には首都高速道路と橋脚があります。高速の直下は神田川ですが、昭和40年以前には江戸川と呼びました。
 交差点の向こうは文京区です。「(写)真製版所」「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」が見えます。
 撮影位置は図のでしょう。

撮影位置(1978年下宮比町付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 499 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12107 飯田橋歩道橋

 ID 498より、やや左よりを撮影しています。歩道橋の横断幕「ゆずり合いモデル交差点/ゆとり◯◯◯で東京に」と地名表示「目白通り/新宿区下宮比町」の左に、交通信号機と、小さく「飯田橋」交差点名表示があります。道路標識としては(指定方向外進行禁止)(大型貨物自動車等通行止め)とおそらく(駐車禁止)と(区間内)があります。撮影位置は図のです。
 右奥に伸びる片側2車線の道は目白通り。左右は外濠通りです。手前に信号機と、歩道橋が影を落としているので撮影位置が分かります。
 歩道橋の下にある建物は左から「LADY」「焼肉」「肉」「歯科」「麻雀」「土井建材」「近畿日本ツーリスト」「(フィニッシュワークス)クール」「サワ◯◯」。歩道橋の上は「ビューティープラザ/レディ」「ステッカー/も/つくります」「ジャッカル断裁機/東京伊藤鉄工㈱」「合コンパご宴会」「(モリ)サワ」「M」。


新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 500 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12108 飯田橋歩道柵

 ID 498とほぼ同じ場所から、右よりを撮影しています。左で見切れているのが目白通り。左右に車が走るのは外濠通りです。右手前の車は信号待ちで、頭上にある歩道橋の影が映っています。撮影位置は図のオレンジです。
 歩道橋の地名表示は「外堀通り/新宿区下宮比町」、また手すりには「飯田橋/Iidabashi」の交差点名表示があります。写真の中央から右の大部分は神田川にかかる船河原橋で、歩道橋の少し奥は文京区になります。飯田橋は千代田区の地名ですが、この写真には写っていません。
 歩道橋の角に信号機と標識(指定方向外進行禁止)とおそらく標識(直進以外進行禁止)があり、これは中央分離帯でしょう。
 建物は「ばな」「万」「5階」「◯クト」ですが、遠くの袖看板は文字が小さくて確認できません。「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」は露出のせいで読みにくくなっています。

相生坂(写真)真清浄寺 令和4年 ID 17088

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17088では、令和4年2月に西五軒町の真清しんしょうじょう付近から相生あいおいざかなどを撮影しました。資料名は「真清浄寺前から相生坂を望む」となっています。相生坂は東西2つありますが、西側の坂です。坂には自動車等のすべりをとめるOオーリングと呼ぶ円形のくぼみができています。また、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真 ID 14061もあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17088 真清浄寺前から相生坂を望む

相生坂

相生坂(令和4年)
  1. 片岡ビル
  2. 道路標識(幅員減少)
  3. 道路標識(駐車禁止)
  4. 電柱看板「八洋」
  5. 白い店舗「パン デ フィロゾフ」。パンを求めて沢山の顧客が並んでいます。
  6. パークコート神楽坂レゼリア
  7. 電柱看板「八洋」
  8. 正面はヴィークコート神楽坂(マンション)
  1. 4階建てのアパート?
  2. カーブミラー 「よく見て 通りましょう」
  3. 電柱看板「ZEBRA」「地元でお葬式一筋 西五軒町1」
  4. 真清浄寺 のぼり「真清(浄寺)」
  5. 駐車場
  6. 掲示板
  7. 黒い店舗は「神楽坂富貴ふきぬき」(うなぎ店)
  8. 自動販売機「KIRIN」

東五軒町(写真)西五軒町 令和4年 ID17089

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17089は、令和4年2月に東五軒町から西五軒町などを撮影しました。資料名は「東五軒町から西五軒町方面を望む」です。なお、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真があり、ID 14062です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17089 東五軒町から西五軒町方面を望む

東五軒町(令和4年)
  1. メープルハウス(地上3階のマンション)の一部
  2. フレスクーラ神楽坂(地上7階のマンション)、自動販売機「KIRIN」、大型ゴミ箱、3角コーン
  3. 電柱、(最高速度20キロ)、(駐車禁止)、バナー「放火に注意/牛込消防署・牛込防火協会」
  4. raum神楽坂(地上5階のマンション)
  5. ルーブル神楽坂(地上8階のマンション)
  6. ENEOS(共栄石油)、FC(燃料カード)
  7. (指定方向外進行禁止)、カーブミラー
  8. 横断歩道
  9. 左に行くと「相生坂」
  10. ハート株式会社/新宿支店
  1. 工事中
  2. 電柱看板「(株)八洋 次の角/左折 東五軒町6」
  3. トーハン本社、駐車場
  4. 郵便ポスト
  5. 横断歩道、(横断歩道)、バナー「一方通行につき/右折できません」、左に行くと「相生坂」
  6. 五軒町ビル
  7. アルスクモノイ(古書)
  8. 最も高いビルは、ラ・トゥール神楽坂(地上24階、地下2階)賃貸マンション

西五軒町(写真)東五軒町 令和4年 ID 17086-87

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17086とID 17087では、令和4年1月に西五軒町や東五軒町を撮影しました。資料名は「西五軒町6-12から南方面を望む」と「西五軒町6-19から南方面を望む」でした。ただ向かって左側は東五軒町です。ID 17086のENEOSは東五軒町4-12、ID 17087のセブンイレブンは東五軒町3-5です。ちなみに、右側は西五軒町6-12と西五軒町6-1です。撮影位置がわずかに西五軒町よりなので、この資料名になったのでしょう。
 また、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真があり、ID 14059ID 14060ID 14196です。
 遠く上向きの坂がありますが、東西2つある相生あいおいざかの西側の坂です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17086 西五軒町6-12から南方面を望む

西五軒町6-12と東五軒町4-12

西と東五軒町(令和4年)
  1. 横断歩道
  2. 電柱看板「株式会社 大川商店 64-◯ 東◯」
  3. (E)NEOS(共栄石油)
    営業時間 平 日 7:00-20:00
         土曜日 7:00-20:00
         日曜祭日8:00-18:00
    ◯ことなら◯ 大型リフトを備えた当店へ
    KeePer
    透明感の ある艶
    ご予約受付中!!
    レギュラー
  4. まわり道
    ◯工事の◯ 通行止
  5. 三角コーン
  6. (大型貨物自動車等通行止め)
  7. ご迷惑をおかけします
    水道管◯
    行っています
  8. マストクレリアン神楽坂(サービス付き高齢者向け住宅)
  9. 警備員や技術者など。
  10. (消火栓)(最高速度30キロ)
  11. 遠くに相生坂
  1. 横断歩道
  2. カーブミラー
  3. 西五軒町6
  4. (ハート株式会)社 新宿支店
    ハート株式(会社)新宿支(店)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17087 西五軒町6-19から南方面を望む

西五軒町6-12と東五軒町4-12

西と東五軒町(令和4年)
  1. SEVEN & i HOLDINGS 7i ATM 酒 たばこ(セブンイレブン 新宿東五軒町店)自転車 樹脂パレット 多数の掲示物やビラ
  2. 2階はマンション
  3. 電柱看板「H 八洋」
  4. 八洋 新宿営業所(容器入り飲料水製造業者)
  5. 横断歩道と標識 (横断歩道)
  6. カーブミラー
  7. トラック1台
  8. 八洋
  9. 遠くに相生坂
  1. 段差スロープ
  2. 歩行者用道路 牛込警察署 新宿区 道路
  3. (自転車及び歩行者専用)[自転車を除く] (指定方向外進行禁止)[自転車を除く 一方通行 (一方通行入口)]
  4. 駐車場
  5. 電柱看板「イシカワデンタルクリニック 一般〇〇 手前〇〇 西五軒町6−1」
  6. コイン P 時間貸 P  2,600 1,300 400
  7. マンション
  8. 横断歩道(横)
  9. 横断歩道(縦)T字路

メタノワール|筒井康隆

文学と神楽坂

筒井康隆

「メタノワール」は2012年に筒井康隆氏が「新潮」12月号に発表し、2014年には「繁栄の昭和」という本の短編になっています。
 メタノワールの「メタ」は「変化して」「超」「高次」の意味、「ノワール」(noir)はフランス語の「黒」からアメリカの映画用語となり、意味は犯罪映画(crime movie)やハードボイルド映画(hardboiled‐detective film)など。
 氏は小説家、劇作家、ホリプロ所属の俳優。兵庫県神戸市に在住。生年は1934年9月24日。
 この小説は作家兼俳優が映画を中継する小説で、最初の書き出しの部分では…

 実年齢よりもかなり若い役で出演しているらしい。もうほとんどのシーンは撮り終えてあとは数シーンを残すだけだ。遠くの窓からの陽光と間接的な照明でほの暗い廊下。秘書室の前を通りかかると室長の深田恭子が出てきて呼びとめ、科白通りに社長からの伝言を告げ、彼についての気がかりを洩らす。いささか悪がかったキャリア・ウーマンの雰囲気を出しているので、おれは少し驚いた。彼女とは十年以上前にアイドル映画で共演し、それ以来のつきあいである。
「深キョン。お前さんずいぶん芝居うまくなったなあ」思った通りのことをいささかの感慨を寵めて言うと彼女はああ、と何かを思い出すような様子で天井を見あげる。おれの口調が昔のことを思い出させるようなものであったらしい。「あれは『死者の学園祭』。わたしの映画初主演で十八歳のとき。先生は犯人役。それからも『富豪刑事』とか、先生とはいろいろ」
「先生はまずいよ」おれは背後を気にしながら言う。「今おれは役者だ」
「あら。制約があるのね」彼女は笑い、本来の科白に戻る。「とにかく一度社長室へ行ってあげて。なんだか、だいぶ落ち込んでいるみたいだから」
「はいはい」
 深田恭子と廊下で別れて、社長室へ行く前におれはいったん控室へ行き、煙草を一本喫う。控室というのは楽屋ではなく、会社の会議室だ。いや。会議室にもなるセットだ。社長室のシーンを撮るまでに廊下の深田恭子をあと二カッ卜撮るらしく、少し待たねばならない。」
かなり若い役 この時に深田恭子氏は30歳でした。あくまでも虚構の深田氏の話ですが…
深田恭子 女優。第21回ホリプロタレントスカウトキャラバンでグランプリを受賞し芸能界入り。1999年、フジテレビ『鬼の棲家』でドラマ初主演。2000年8月に映画「死者の学園祭」で映画初主演。2005年、主演した筒井康隆原作の朝日放送ドラマ「富豪刑事」で神戸美和子役が当たり役となった。生年は昭和57年11月2日。
科白 せりふ。俳優が劇中で話す言葉。かはく。舞台における俳優のしぐさや、せりふ。
おれ 筒井康隆氏は2012年で77歳。ただし、虚構の筒井氏の話です。
死者の学園祭 赤川次郎の小説。2000年8月、深田恭子の初映画主演作品。
富豪刑事 筒井康隆の小説。2005年、朝日放送のドラマ。

「どう。今夜はスタッフ連中、明日の北村総ちゃんと裏社会の連中同士がからむシーンの準備でロケ現場へ行ってしまって、わたしゃ用なしになるから、晩飯を一緒に食いに行かない」
 この監督が晩飯を食うというなら、行く先はわかっている。「また『梅が枝』ですね」神楽坂にある寿司屋だ。
「そうだけど」
 台所へ行き、立ち話をしている宮崎美子と本物の妻のふたりの妻に、夕食はいらないと言い、おれはまたロケバスで監督と神楽坂に向かう。
 まだ早いので「梅が枝」は空いていた。男三人でやっている六坪ほどの店だ。顔馴染みの板長と向かい合い、おれたちはカウンターに掛ける。焼酎をロックでちびちびやりながら次つぎと寿司をつまみ、おれと監督は今度の映画について話しあった。いつも他のスタッフや役者だちと一緒だったから、ふたりきりで話すのはこれが初めてだ。
「やはり役者として扱ってほしいんですよ、ぼくは」と、少し酔ってきたままでおれは言った。「こいつは作家だから演技は下手な筈だと決めてかかって、学芸会の指導みたいなことをする監督がいるけど、あれはやる気をなくしますなあ。突っ込んだ芝居もやらせて貰えない。その点あなたは信頼してくれているから安心だ」
「いやいや。今度のこの映画は、あんたが一枚かんでくれているから助かってるんだよ。ただ無茶苦茶なだけの映画じゃないんだとわかってくれている役者もいなけりゃね」監督はいい演技をした時の役者を見るような細い眼をした。「あんたのお蔭で、不思議なことにこんな映画ながら、スタイルが整いはじめた」
「いやいや。それはやっぱり監督がメタフィクションの何たるかを心得ているからでしょう。文学のわかる監督はたくさんいるけど、ここまで前衛的になれる人は少ないから」おれはちょっと笑った。「滅茶苦茶だという評価も当然、あるだろうけど」
「すみません」店の隅で声がしたので振り向くと撮影助手だった。「フィルムの交換をしたいんですけど」
「えーっ。こんなとこまで撮ってるの。なんだか板長さんがいつになく緊張してるなと思ってたら」おれはちょっと非難の眼で監督を見た。

北村総 北村総一朗。俳優。1961年、文学座の研究生。生年は1935年9月25日。2012年では77歳。
梅が枝 「梅が枝」という寿司屋はありません。やはり料亭「松ヶ枝」でしょう。創業は明治38年。平成2年(1990)頃まで営業し、平成4年以前に駐車場になり、平成14年、マンションになりました。なお「寿し作」も《いい常連客がついていた店であり、「梅が枝」と呼んだと見る方が洒落ている》と、地元の方。
宮崎美子 女優、タレント、「週刊朝日」1980年1月25日号の表紙を飾り、ミノルタカメラのTVCMで一躍有名に。生年は1958年12月11日。2012年では53歳。
メタフィクション フィクション(fiction)とは小説のことで、メタフィクションとはある小説(A)が同じ小説(A)に言及する小説のこと。「虚構の世界」に、読者や筆者がいる「現実の世界」を巻き込んで展開する。

新見附付近|山内義雄随筆集

文学と神楽坂

山内義雄

 山内やまのうち義雄氏は東京外国語学校(現・東京外国語大学)仏語科を卒業し、京都帝国大学に入学し、上田敏に師事。フランスの劇作家で外交官のポール・クローデル大使が来日することを知り、東京帝国大学仏文科専科に転身。大正12年、東京帝国大学を退学。昭和2年、早稲田大学に転じ、13年、教授。昭和39年、退職まで後進の育成に力を注いだ。生年は1894年3月22日、没年は1973年12月17日、死亡は79歳。

新見附付近

「新見附」というのは電車の停留所ができてからの名前で、むかしはべつに何とも呼んでいなかった。牛込見附と市谷見附のあいだに新しくできたから新見附。濠をへだてた向うが麹町。こちら側が市谷田町。いわゆる新見附からはいる細い往来をへだてて田町二丁目三丁目にわかれていた。今も変っていないだろう。わたしは、その二丁目で生まれ、そして育った。
 新見附から市谷見附寄り、ちょうど砂土原町から北町へぬけるひろい道路の角までが二丁目の表通りで、その二丁目のへ向かって、けん間口まぐちもあろうかと思われる山の手きっての老舗「あまざけ屋」という呉服屋があった。広重の描いた日本橋三越の前身越後屋そっくり店がまえで、名前入りの紺のれん、、、をずらりとつらねたうしろが、一めん畳敷き、もうせんを敷きつめた店になっていた。行きずりの客は、上りかまちに腰をおろして用を足したが、常とくい、、、の客ともなると、店にあがり、番頭から茶菓子や煙草盆の接待をうけながら、正面の蔵の戸口から丁稚でっちのはこびだしてくる呉服物をあれやこれやと品さだめしたものだった。その情景を今もはっきりおぼえているから、おそらく明治の末ごろまでそのままだったろう。
 ところで、あまざけ屋の地所は、濠に面した表通りから裏通りまでぬけていた。そして、わたしの家は、その裏通り一つをへだてて、あまざけ屋の蔵のひとつと向いあっていた。裏通りには、八百屋、足袋屋、茶屋、お仕立物所といった町家まちやがならんでいたが、わたしの家は一段高く石垣をきずき、前に庭をひかえた奥まった構えて、その裏通りでのたった一軒、「官員さん」の家といった感じだった。その庭には、空が見えないほど庭一ぱいにひろがっている見事なしだれ、、、の老木があった。花どきには、それがいつもすばらしい花をつけた。そして、道行く人が、思わずその匂に上を見あげたものだった。それほど人の心にゆとりのある、いい時代でもあったわけだ。二階にあがると、あまざけ屋の蔵や人家の屋根を越して、濠の向うの土手が見わたされた。
 ところが、その田町二丁目の家も、たしか大正の終りごろに売ってしまった。「赤字になりかけたら、へんな見栄なんか棄てて、まず家蔵を売ってしまえ」という、父の遺言を実行してのことだった。
電車の停留所 路面電車の停留所のことです。実は「逢坂下」停留所もありましたが、昭和15年になくなっています

大正11年の路面電車

 ほり。城を取り囲む堀。水がある
麹町 東京都千代田区の地名。以前は旧東京市35区の麹町区。1947年神田区と合併、千代田区となった。
往来 人や乗り物が行き来する道。道路。街道
10間 約18メーメル
間口 まぐち。家屋や地所などの前方に面している部分の幅。正面の幅。表口。
きって 場所・グループを表す名詞に付いて、その範囲の中で最もすぐれていることを表す。…の中でいちばん。
そっくり 歌川広重『名所江戸百景』の「するかてふ」(するちょう)です。道の両側に並ぶ店は呉服屋三井越後屋でした。

名所江戸百景「するかてふ」の一部

店がまえ みせ構え。店の構え方。店の造作。店の大きさや規模。越後屋に似ていると書いてあるので、あまざけ屋は下図で右端の店舗でしょう。

緋もうせん 緋毛氈。緋色の和風カーペットで、敷物や、書画をかく場合の下敷きなど。
上り枢 玄関の上り口に縁にわたしてある化粧横木。

丁稚 職人・商家などに年季奉公をする少年。雑用や使い走りをしていました。
わたしの家 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の猿山峯子氏「大正期の牛込在住文筆家小伝」を調べると、大正11~13年の山内義雄氏の住所は市谷田町二丁目24番地でした。現在はカトリック・イエズス会の援助修道院修練院が建っています。

官員 かんいん。官吏。役人。明治時代、現在の公務員にあたる用語。
しだれ梅 枝垂れ梅。枝が柳のように優雅にしだれ、淡いピンク色の花が咲く。

花どき 2月初旬~中旬です。

 これを書こうと思って、久しぶりで田町二丁目の旧居のあたりを訪ねてみたところ、かつてのわたしの地所のあったところに、カトリック煉獄修道会の堂々たる建物がたっている。これはいい。パチンコ屋かナイト・クラブにでもなっていたら、とんだ親不孝をするところだった。子供のころ、町っ子どものガキ大将になってその境内を荒しまわった愛敬あいきょう稲荷も、ほんの形ばかりではあるが残っていた。そのすぐ先、北町への広い道路から向うが一丁目だが、そのとっつきのちょっとダラダラ上りの石だたみの路次の奥に、ロシヤ文学の昇曙夢さんの家があり、さらに先へ行って御納戸おなんどをおりきった角に英文学の馬場孤蝶先生の二階家があった。美しいひげ、、をたくわえ、ヴァロットンの描いたフランスの詩人アルベール・サマンそっくりの先生だった。わたしは、この先生から、壱岐いきざか教会の文芸講演会で、はじめてアナトール・フランスの面白さを教えられた。話のうまい先生だった。
 ところで新見附界隈、わたしの住んでいたころのおもかげはまったくなくなってしまっている。あまざけ屋もすがたを消し、そのそばにあった有名な雇人口入所えびや、、、もなくなり、父の気に入りの「箱鶴はこつる」という指物師の家も、「くに」という出入り人力車くるま宿やどもなくなってしまっている。そして、今ではまぼろし、、、、の田町二丁目に、たった一軒、新見附の角の「こばやし」というそばや、、、だけがのこっている。
「色食は人の性なり」、色のほうには縁のないヤボな田町二丁目だったが、この1軒のそばやの存在だけが、「食」の強さをほこっているといった感じだ。
(一九六七・二)

カトリック煉獄修道会 現在はカトリック・イエズス会の援助修道院修練院です。しかし、戦前の地図と戦後を比べると、変化が巨大でした。昔の「市谷田町二丁目24番地」は全く見えません。おそらく25番地にのまれたのでしょう。なお、「こばやし」の住所は赤で書いておきました。注:現在の援助修道会の場所は新宿区市谷田町2-24でした。

昭和43年 市谷田町二丁目

愛嬌稲荷 「市ヶ谷牛込絵図」(1857年)では巨大な「愛嬌稲荷社」が出ています。同じ頃「御府内沿革図書」の「当時之形」(1852年頃)では「教蔵院」になっています。以降は教蔵院です。愛嬌稲荷は教蔵院の鎮守社でした(新撰東京名所図会の市谷田町2丁目)。
とっつき 取っ付き。最初。手初め。
昇曙夢 のぼり しょむ。ロシア文学者。明治36年、ニコライ正教神学校卒業。神学校講師、陸軍士官学校教授、早大、日大などの講師を歴任。生年は明治11年7月17日。没年は昭和33年11月22日。80歳。新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の猿山峯子氏「大正期の牛込在住文筆家小伝」を調べると、明治42年2月から明治43年2月まで、氏の住所は市谷田町二丁目39番地でした。
御納戸坂 現在は「牛込中央通り」です。
馬場孤蝶 ばば こちょう。英文学者。翻訳家。同じ文献で、明治42年2月から大正7年1月まで、氏の住所は市谷田町二丁目1番地でした。
ヴァロットン Félix Edouard Vallotton。フェリックス・バロットン。フランスの画家、版画家。スイスのローザンヌ生れ。ナビ派に参加。木版画にもすぐれていました。生年は1865年2月28日、没年は1925年12日29日。
アルベール・サマン Albert Samain。フランス・フランドル出身の世紀末期の詩人で「秋と黄昏たそがれの詩人」と呼ばれました。生年は1858。没年は1900年。
壱岐坂教会 現在は日本基督教団本郷中央教会です。
アナトール・フランス Anatole France。フランスの作家。格調のある文体と皮肉や風刺が特色。生年は1844年4月16日にパリで生まれ、没年は1924年10月12日。
雇人 やといにん。人に雇われて働く人。使用人。
口入所 くちいれどころ。奉公人などを周旋する家。
指物師 さしものし。たんす、長持、机、箱火鉢など木工品の専門職人。
出入り でいり、ではいり。その家を得意先としてよく出はいりすること
人力車宿 くるまやど。車宿で客の依頼を待つ人力車か車夫。

西五軒町(写真)神田川 昭和33年 ID 8430-32

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8430-32は、昭和33年に西五軒町の北側から目白通り、神田川などを撮影しました。資料名は「西五軒町(目白通り、江戸川)」です。なお、江戸川は神田川の上流の古い名で、昭和40年以降は神田川と呼ぶようになりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8430 西五軒町(目白通り、江戸川)

 ID 8430は、神田川にかかる橋の上から下流方向(東向き)を撮影しています。撮影場所は西五軒町の西江戸川橋で、左正面が小桜橋。その先の川面に影を落としているのが中ノ橋でしょう。川が突き当たるような形で建物が見えていますが、ここは川が大きく右に曲がっている「大曲」です。

S38 大曲付近(地理院地図に加筆)

神田川の橋

 この建物の手前に、後に新白鳥橋ができますが、まだありません。できるのは1971年(昭和46年)です。「今昔マップ」では1975年以上に登場します。
 目白通りの中央には都電の軌道があります。首都高速道路は建設されていません。通り沿いの建物は低層が主体です。
 神田川の護岸は、手すりが埋もれるような形でコンクリートでかさ上げされています。大雨のたびに、この地域が洪水に悩まされていたことを物語ります。
 地図や空中写真と照合すると、左側で見切れている建物が凸版印刷の工場、右側の端が同潤会江戸川アパートです。江戸川アパートの前の通り沿いの低いビルは日本交通大曲営業所で、横看板も無理に読めば読めそうです。その奥のビルは、日本専売公社ではないでしょうか。

ID 8430 西五軒町(一部を拡大)

 川沿いの歩道に電柱看板「う」がありますが、「うなぎ」でしょう。橋を渡った文京区側には戦前から続く「はし本」があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8431 西五軒町(目白通り、江戸川)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8432 西五軒町(目白通り、江戸川)

 ID 8430-32は、同じ西江戸川橋から上流方向(西向き)を撮影しています。護岸は両岸ともかさ上げしています。右正面は石切橋です。
 西江戸川橋は石切橋とは違って鋼板をそのまま壁高欄かべこうらん(特に丈夫な欄干らんかん)に使っています。
 右側には電柱看板「質 新客歓迎 小森」「質 長島」「ナショナル」などが付いた電柱が沢山見えます。左側の電柱看板は「活字母型製造」「」(駐車禁止。これは昭和20年代に見られた英文と和文を混合した標識)です。ID 8432では路面電車が走行中。左側には店舗が並び、「文化印刷◯」、三軒あけて「カタログ社」、また数軒あけて三菱のロゴマークがあります。
 30年代の自動車がいかにも昔々しています。当時、昭和35年のサラリーマンの平均月収は約4.2万円でしたが、一方、昭和33年「スバル360」は42.5万円でした。

人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年

夏すがた|永井荷風(1)

文学と神楽坂

永井荷風 永井荷風氏の「夏すがた」です。書き下ろし小説で、大正4年に籾山書店で出版され、戦前には風俗紊乱の罪で発禁となりました。これは永井荷風選集第1巻の「夏すがた」(東都書房、1956)からです。

 日頃(ひごろ)懇意(こんい)仲買(なかがひ)にすゝめられて()はゞ義理(ぎり)づく半口(はんくち)()つた地所(ぢしよ)賣買(ばいばい)意外(いぐわい)大當(おほあた)り、慶三(けいざう)はその(もうけ)半分(はんぶん)手堅(てがた)會社(くわいしや)株券(かぶけん)()ひ、(のこ)半分(はんぶん)馴染(なじみ)藝者(げいしや)()かした
 慶三(けいざう)(ふる)くから小川町(をがわまち)へん()()られた唐物屋(たうぶつや)の二代目(だいめ)主人(しゆじん)(とし)はもう四十に(ちか)い。商業(しやうげふ)學校(がくかう)出身(しゆつしん)(ちゝ)()きてゐた時分(じぶん)には(うち)にばかり()るよりも(すこ)しは世間(せけん)()るが肝腎(かんじん)と一()横濱(よこはま)外國(ぐわいこく)商館(しやうくわん)月給(げつきふ)多寡(たくわ)()はず實地(じつち)見習(みならひ)にと使(つか)はれてゐた(こと)もある。そのせいか(いま)だに處嫌(ところきら)はず西洋料理(せいようれうり)(つう)振廻(ふりまわ)し、二言目(ことめ)には英語(えいご)會話(くわいわ)(はな)にかけるハイカラであるが、(さけ)もさしては()まず、(あそ)びも(おほ)()景氣(けいき)よく(さわ)ぐよりは、こつそり一人(ひとり)不見點(みずてん)()ひでもする(ほう)結句(けつく)物費(ものい)(すくな)世間(せけん)體裁(ていさい)もよいと()流義(りうぎ)萬事(ばんじ)(はなは)抜目(ぬけめ)のない當世風(たうせいふう)(をとこ)であつた。
 されば藝者げいしやかしてめかけにするといふのも、慶三けいざう自分じぶんをんな見掛みかけこそ二十一二のハイカラふうつているが、じつはもう二十四五の年増としまで、三四も「わけ」でかせいでゐることつてゐるところから、さしたる借金しやくきんがあるといふでもあるまい。それゆゑあそ度々たび/\玉祝儀ぎよくしうぎ待合まちあひ席料せきれうから盆暮ぼんくれ物入ものいりまでを算盤そろばんにかけてて、このさき何箇月間なんかげつかん勘定かんぢやうを一支拂しはらふと見れば、まづ月幾分つきいくぶ利金りきんてるくらゐのものでたいしたそんはあるまいと立派りつぱにバランスをつてうへ、さて表立おもてだつての落籍らくせきなぞは世間せけんきこえをはばかるからと待合まちあひ内儀おかみにも極内ごくないで、萬事ばんじ當人たうにん同志どうし對談たいだんに、物入ものいりなしの親元おやもと身受みうけはなしをつけたのであった。
 そこで慶三けいざう買馴染かひなじみ藝者げいしや、その千代香ちよか女學生ちよがくせい看護婦かんごふ引越ひつこし同様どうやうやなぎ行李がうり風呂ふろしきづつみ、それに鏡臺きやうだい1つを人力じんりきませ、多年たねんかせいでゐた下谷したやばけ横町よこちやうから一まづ小石川こいしかは餌差ゑさしまちへん親元おやもと立退たちのく。あし午後ひるすぎの二をばまへからの約束やくそくどほりり、富坂とみざかした春日町かすがまち電車でんしや乗換場のりかへば慶三けいさう待合まちあはせ、早速さつそく二人ひたりして妾宅せふたくをさがしてあるくというはこびになった。
仲買 問屋と小売商の、あるいは生産者・荷主と問屋の間で仲立ちをして営利をはかる業
義理づく どこまでも義理を立て通す。道理を尽くす。筋を通す。
半口 企てや出資の分担の半人分。
引かされる 雑学・廓では芸者を廃業することを「引く」。やめさせるのは「引かす」、やめさせられるのが「引かされる」。芸者の籍を抜くことを「落籍す」と書き「ひかす」と読む。
小川町 千代田区神田小川町。書籍、スポーツ用品店、楽器店、飲食店等の商業施設や出版関係、大学・専門学校等の教育機関などが集積中
唐物屋 からものや。とうぶつや。中国からの輸入品を売買していた店や商人。19世紀後半からは、西洋小間物店
商業学校 1887年(明治20年)10月、東京高等商業学校が設立。一橋大学の前身
ハイカラ (洋行帰りの人がたけの高いえりを着用したため)西洋風で目新しいこと。欧米風や都会風を気取ったり、追求したりする人。
大一座 おおいちざ。多人数の集まり
不見転 みずてん。芸者などが、相手を選ばず、金をくれる人ならだれとでも情を通ずること
結句 結局。挙句に。
物費り ものいり。消耗品費や雑費
 わけ。訳。芸娼妓などが、そのかせぎ高を抱え主と半々に分けること
玉祝儀 玉代。ぎょくだい。花代。芸者や娼妓などを呼んで遊ぶための代金。
物入 ものいり。出費がかさむこと。
利金 利息の金銭。利益となった金銭。もうけた金
落籍 らくせき。身代金を払って芸者などをやめさせ、籍から名前を抜くこと。身請け。
柳行李 やなぎごうり。コリヤナギの、皮をはいだ枝を編んで作った行李こうり。衣類などを入れるのに用いる。行李は衣類などを納める直方体の入れ物。

柳行李

人力 人力車のこと
お化横丁 おばけ横丁。春日通りの南側に並行する裏路地の飲み屋街。住所は文京区湯島3丁目。かつて芸者の置き屋が数多くあり、化粧をしていない従業員が化粧で化けて出ていったから
餌差町 えさしちょう。現在は文京区小石川一・二丁目
富坂 文京区春日一丁目と小石川二丁目の間。春日通りの後楽園(富坂下)交差点から富坂上交差点まで
春日町 春日一丁目と春日二丁目
妾宅 しょうたく。めかけを住まわせておく家

 二人ふたり大曲おおまがり電車でんしゃり、江戸川えどがはばたからあしほう横町よこちやうへとぶら/\まが つてつたが、するうちにいつか築土つくど明神みやうじんしたひろとほりた。鳥居とりゐまえ電車でんしやみちよこぎるとむかうのほそ横町よこちやうかど待合まちあひあかりが三ツも四ツも一たばになつてつているのがえて、へん立並たちならんだあたらしい二階家かいや様子やうす。どうやら頃合ころあひ妾宅せふたくきの貸家かしやがありそうにおもわれた。土地とち藝者げいしや浴衣ゆかたかさねた素袷すあはせ袢纏はんてん引掛ひつかけてぶら/\あるいている。なかには島田しまだがつくりさせ細帶ほそおびのまゝで小走こばしりくものもある。箱屋はこやらしいをとことほる。稽古けいこ味線みせんきこえる。たがひに手を引合ひきあつた二人ふたり自然しぜんひろ表通おもてどほりよりもこの横町よこちやうはうあゆみをうつしたが、するとべつ相談さうだんをきめたわけでもないのに、二人ふたりとも、いま熱心ねつしんにあたりの貸家かしやふだをつけはじめた。
 神樂坂(かぐらざか)大通(おほどほり)(はさ)んで()左右(さいう)幾筋(いくすぢ)となく入亂(いりみだ)れてゐる横町(よこちやう)といふ横町(よこちやう)路地(ろぢ)といふ路地(ろぢ)をば大方(おほから)(ある)(まは)つてしまつたので、二人(ふたり)(あし)(うら)(いた)くなるほどくたぶれた。(しか)しそのかひあつて、毘沙門(びしやもんさま)裏門前(うらもんまへ)から奧深(おくふか)(まが)つて()横町(よこちやう)()ある片側(かたかは)(あた)つて、()入口(いりぐち)左右(さいう)から建込(たてこ)待合(まちあひ)竹垣(たけがき)にかくされた()(しづか)人目(ひとめ)にかゝらぬ路地(ろぢ)突當(つきあた)に、(あつらへ)(むき)の二階家(かいや)をさがし()てた。おもて戸袋とぶくろななめつた貸家かしやふだ書出かきだしで差配さはいはすぐ筋向すぢむかう待合まちあひ松風まつかぜれているところから、その小女こをんな案内あんないちの間取まどりるやいなやすぐ手付金てつけきんいた。とき千代香ちよか便所はゞかりりにと松風まつかぜ座敷ざしきあがつたが、すると二人ふたりつかれきってゐるので、もう何処どこへも元氣げんきがなくそのままこの松風まつかぜおくかい蒲團ふとんいてもらうことにした。

大曲 おおまがり。大きく曲がる場所。ここでは新宿区新小川町の大曲という地点。ここで神田川も目白通りも大きく曲がっています。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼びました。
 ばた。そのものの端の部分やその近辺の意味
築土明神 天慶3年(940年)、江戸の津久戸村(現在は千代田区大手町一丁目)に平将門の首を祀って塚を築いたことで「津久戸明神」として創建。元和2年(1616年)、江戸城の拡張工事があり、筑土八幡神社の隣接地に移転。場所は新宿区筑土八幡町。「築土明神」と呼ばれた。1945年、東京大空襲で全焼。翌年(昭和21年)、千代田区富士見へ移転。

牛込神楽坂警察署管内全図(昭和7年)(牛込警察署「牛込警察署の歩み」(牛込警察署、1976年))

広い通 大久保通りです。
電車道 路面電車です。戦前の系統➂は、新宿と万世橋を結びました。
頃合 ころあい。ちょうどよい程度。似つかわしいほど。てごろ。
素袷 下に肌着類を着けないで、あわせだけを着ること。袷とは裏地のついている衣服。
袢纏 半纏。長着の上にはおる衣服。羽織に似ているがまち(袴の内股や羽織の脇間などに入れる布)も胸紐むなひももなく、えりも折り返らない。
島田 島田まげ。日本髪の代表的な髪形。前髪とたぼを突き出させて、まげを前後に長く大きく結ったもの。
がっくり 折れるように、いきなり首が前に傾くさまを表わす語
細帯 帯幅が11~13㎝の帶。普通の帯幅の半分の半幅帯よりもさらに細い
箱屋 箱に入れた三味線を持ち、芸者の共をする者
貸家札 貸家であることを表示する札。多くは斜めに貼る。

美章園の貸家札(西山夘三撮影) https://www.osaka-angenet.jp/ange/ange94/260000604

路地の突き当たり 「突き当たり」とは「道や廊下などの行きづまった場所」。戦前の地図としては「古老の記憶による震災前の形」(新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年)があります。考えられる場所では5つです。

古老の記憶による震災前の形」(新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年)矢印は土地の高低を表す

戸袋 雨戸や引き戸を複数枚収納しておく場所
差配 所有主にかわって貸家・貸地などを管理すること
間取 家の中の部屋のとり方。部屋の配置。
奥二階 表二階とは表通りに面した二階座敷。奥二階は表通りに面しない二階座敷。

夏すがた|永井荷風(2)

 二十ねん此方このかたないあつさだというおそろしいあつがこのうへもなく慶三けいぞうよろこばばした理由りいうは、お千代ちよ裸躰らたいあはせてお千代ちよ妾宅せふたく周圍しうゐ情景じやうけいであつた。
 神樂坂上かぐらざかうへ横町よこちやうは、地盤ちばん全軆ぜんたいさがになつてゐるので、妾宅せふたくの二かいからそとると、大抵たいてい待合まちあひ藝者げいしやになつている貸家かしやがだん/\にひくく、はこでもかさねたように建込たてこんでゐて、裏側うらがは此方こなたけてゐる。なつにならないうちは一かうかずにゐたので、此頃このごろあつさにいづこのいへまどはず、勝手かつて戸口とぐちはず、いさゝかでもかぜ這入はいりさうなところみなけられるだけはなつてあるので、よるになつて燈火あかりがつくと、島田しまだかげ障子しやうじにうつるくらゐことではない。藝者げいしや兩肌もろはだ化粧けしやうしてゐるところや、おきやくさわいでゐる有樣ありさままでが、垣根かきね板塀いたべいあるい植込うゑこみあひだすがして圓見得まるみえ見通みとほされる。或晩あるばん慶三けいぞう或晩あるばんそよとのかぜさへないあつさに二かい電燈でんとうしておもて緣側えんがは勿論もちろんうら下地窓したぢまどをも明放あけはなちお千代ちよ蚊帳かやなかてゐたときとなりいへ――それは幾代いくよといふ待合まちあひになつてゐる二かい座敷さしき話聲はなしごゑるやうにきこえてるのに、ふとみみかたむけた。兩方りやうはううへ狭間ひあはいかよかぜなんともへないほどすゞしいのでとなりの二かいでも裏窓うらまど障子しやうじはなつてゐるにちがひない。喃々なん/\してつゞ話声はなしごゑうち突然とつぜん
「あなた、それぢや屹度きつとよくつて。屹度きつとつて頂戴ちやうだいよ。約束やくそくしたのよ。」
といふをんなこゑ一際ひときはつよくはつきりきこえて、それを快諾くわいだくしたらしいをとここゑとつゞいて如何いかにもうれしさうな二人ふたり笑聲わらひごゑがした。お千代ちよ先刻せんこくからくともなしにみゝをすましてゐたとえ、突然いきなり慶三けいぞう横腹よこはらかるいて、
「どうもおやすくないのね。」
馬鹿ばかにしてやがるなア。」
待合 男女の密会や、芸妓と客との遊興のため、席を貸す家
勝手 かって。台所。「勝手道具」
両肌を抜ぐ 衣の上半身全部を脱いで、両肌を現す
円見得 丸見え。見られたくないものなども全部見える
そよ (多く「と」を伴って)しずかに風の吹く音。物が触れあってたてるかすかな音。
縁側 和風住宅で、座敷の外部に面した側につける板敷きの部分。雨戸・ガラス戸などの内側に設けるものを縁側、外側に設けるものを濡れ縁という。
下地窓 したじまど。壁の一部を塗り残し、下地の木舞こまい(壁の下地で、縦横に組んだ竹や細木)を見せた窓。茶室に多く用いられる。

狭間 ざま。はざま。すきま。せまいあいだ。ひま。
ひあはひ ひあわい。廂間。ひさしが両方から突き出ている場所。家と家との間の小路。
喃々と 「喃」はしゃべる音。小声でいつまでもしゃべっている

 慶三けいぞうはどんな藝者げいしやとおきやくだかえるものならてやらうと、何心なにごころなく立上たちあがつてまどそとかほすと、はなさきとなり裏窓うらまど目隠めかくし突出つきでてゐたが、此方こちら真暗まつくらむかうにはあかりがついてゐるので、目隠めかくしいた拇指おやゆびほどのおおきさの節穴ふしあな丁度ちやうど二ツあいてゐるのがよくつた。慶三けいぞうはこれ屈強くつきやうと、覗機關のぞきからくりでもるように片目かため押當おしあてたが、するとたちまこゑてるほどにびつくりして慌忙あわてゝくちおほひ、
「お千代ちよ/\大變たいへんだぜ。鳥渡ちよつとろ。」
四邊あたりはゞか小声こごゑに、お千代ちよ何事なにごとかとをしえられた目隠めがくし節穴ふしあなからおなじやうに片目かためをつぶつてとなりの二かいのぞいた。
 となりはなしごゑ先刻さつきからぱつたりと途絶とだえたまゝいまひとなきごとしんとしてゐるのである。お千代ちよしばらのぞいてゐたが次第しだい息使いきづかせはしくむねをはずませてて、
「あなた。つみだからもうしましようよ。」
まゝだまつて隙見すきみをするのはもうどくたまらないといふやうに、そつと慶三けいぞういたが、慶三けいぞうはもうそんなことにはみゝをもさず節穴ふしあなへぴつたりかほ押當おしあてたまゝいきこらして身動みうごき一ツしない。お千代ちよ仕方しかたなしに一ツの節穴ふしあなふたゝかほ押付おしつけたが、兎角とかくするうち慶三けいぞうもお千代ちよ何方どつちからがすともれず、二人ふたり真暗まつくらなかたがひをさぐりふかとおもふと、相方そうはうともに狂氣きやうきのように猛烈まうれつちから抱合だきあつた。
 かくのごと慶三けいぞうはわが妾宅せふたくうちのみならず、周圍しうゐたいなつのありさまから、えずいままでおぼえたことのない刺戟しげきけるのであつた。

何心なく 何の深い意図・配慮もない。なにげない。
目隠 布などで目をおおって見えないようにする事。おおうもの。
屈強 頑強で人に屈しない。
覗機関 のぞきからくり。のぞき穴のある箱で風景や絵などが何枚も仕掛けられていて、 口上(こうじょう)(説明)の人の話に合わせて、立体的で写実的な絵が入れ替わる見世物
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隙見 透見。すきみ。物のすきまからのぞき見る。のぞきみ。

 下記の相磯凌霜氏は鉄工所重役として働きながら、永井荷風氏の側近中の側近として、親密な交遊を続けました。氏の「荷風余話」(岩波書店、2010)では「夏すがた」の発売禁止について昭和31年にこう書いています。

 「夏すがた」は大正三年八月に書下ろされたもので、翌四年一月籾山もみやま書店から発行されたが、直ちに発売禁止の憂目にあってしまった。猥雑淫卑な今の出版物に比べて、いったい何処がいけないのか、どうして発売禁止になったのか、今の読者は恐らく疑問を抱かれるであろう。当時、内務省警保局と言うお役所はややともすれば発売禁止と言う所謂伝家の宝刀を振りかぎして作家や出版社を震え上らせておった。従って出版社側でもお役所対策には万善を期し如何にしたら無難に検閲が済されるか、可なり苦心の存する所であったらしい。この「夏すがた」の時は、特に金曜日を選び警保局へ検閲の納本をするや電光石火、土曜日中に販売店に新刊「夏すがた」を配布して日曜一日で一千部近い冊数を売り尽してしまった。月曜日になると、果してお役所から風俗をみだものとの極印が付いて発売配布を禁止する通達があったが、時既に遅く版元にはいくらの残本も無かった。いや怒ったのは警視庁で、即刻主人に出頭せよと厳しいお達しだ。警察官が押収に来た時「一冊もございません」では到底無事には済されまいと一同額を集めての大評定、とにかく警視庁へは当時その方面に顔のきく小山内薫氏を頼んで代りに行ってもらい、百方哀訴嘆願する一方眼にも止らぬ早業はやわざで四、五十冊を作り上げてしまった。幸い小山内氏の顔と幾度となく足を運んだお蔭で、どうやら大事に到らず作者も出版元もホットー息つくことが出来た。
猥雑 わいざつ。みだりがわしく下品な様子
淫卑 性的に乱れたさま。みだらな様子
紊す 乱す。秩序をなくする。
極印 金銀貨や器物などの品質を保証するために打つ印形
評定 ひょうじょう。評議して取捨、よしあしなどを決定する。相談する
百方 ひゃっぽう。あらゆる方面。種々の方法。多く副詞的に用いる。
哀訴 あいそ。同情をひくように、強く嘆き訴えること。哀願。
嘆願 たんがん。事情を詳しく述べて熱心に頼むこと。懇願。

首都高速(写真)東五軒町 水道町 昭和44年 ID 12781-84

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12781-84は、昭和44年9月、目白通りと首都高速道路5号線(池袋線)を撮影しました。資料名には「新小川町付近高速道路下」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12781 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12782 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12783 新小川町付近高速道路下

 実際には北部の東五軒町から、目白通りを東に向けて撮影しています。
 通りは2車線ずつの対面通行です。左の神田川との境に橋脚が立ち、その上を首都高速が走っています。写真奥で首都高が膨らんだ場所が見えますが、これは「飯田橋料金所」です。2車線のランプが入り口につながった場所は4車線の幅があり、それが2車線に合流します。
 中央に見える信号機の下に、神田川を渡るざくらばしがかかっています。こちらを向いた信号機2機はゼブラ柄が確認できます。
 目白通りの向かって右側は縁石で高くなった歩道ですが、左側の首都高直下は歩道ではなく、車道と段差がない路側帯になっています。この部分にはバリケードやブロックなどが置いていてあり、神田川の洪水対策となる「放水路」ができる予定です(関口一丁目南部会)。
 ID 12781では都営バスが行き交っています。手前に向かってくるバスは「515」「小滝橋車庫ー茅場町」「ワンマン」の表示があり、逆台形のヘッドマークの中に「代替15」(「その他のヘッドマーク」の項)の字が確認できます。前年の昭和43年に廃止された都電15系統の代替バスです。また、対向車線を遠ざかるバスには同じ逆台形に「39」とあるようです。15系統と同時に廃止された都電39系統の代替バスです。
 ID 12783に見えるのは都バスではなく「KKK」(国際興業)で、「常盤台駅」「ワンマン」の表示、「ISUZU」のエンブレムが確認できます。
 電柱広告には「質 福山」「印刷ローラー 博文社」、川の対岸の文京区には「(TOP)PAN」(凸版印刷)の看板があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12784 新小川町付近高速道路下

 ID 12784は、ID 12781-839より背後(西側)に移動した新宿区水道町付近から、東方向に撮影しています。神田川に架かる橋は西江戸川橋。遠くの信号がある場所が小桜橋です。路側帯はやはりバリケードで仕切られ、小型トラックが何台か停まっています。

首都高速(写真)新小川町 昭和44年 ID 12780, 85-86

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12780とID 12785-86は、昭和44年9月、首都高速道路5号線(池袋線)を撮影したものです。撮影場所は「新小川町付近高速道路下」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12780 新小川町付近高速道路下

 目白通りを西に向けて撮影しています。対面通行で、右カーブの先が江戸川橋交差点、背後に戻ると大曲です。
 道の上を首都高速が走り、緊急車両や道路管理車両などが停車する「非常駐車帯」も先に見えます。首都高の直下は神田川で、一本足の橋脚は川と道路の間に立っています。
 神田川には多くの橋がありますが、写真右端の細い橋は「西江戸川橋」です。橋のたもとに街灯があり、この写真では工事のため通行止めになっているようです。バリケードや土管、土盛りが見えます。
 東京都建設局の資料では、目白通りの地下の「江戸川橋分水路」の整備は、この写真より後の昭和47~52年度です。
 文京区関口一丁目南部会は「昭和41年10月住民の署名を添え治水対策を早急に進めるよう都河川部・下水道局に強く交渉し昭和44年頃より江戸川橋ー下水管一本埋設、江戸川ー白鳥橋・江戸川橋ー船河原橋にそれぞれ放水路二本が作られました」といい、下水の移設などの準備中でした。
 西江戸川橋を渡って文京区に行くと、「北」(か「丸」「九」)で始まる事務所があります。
 39番のバスが大曲方向に走っています。この区間には都電15系統と39系統が走り、昭和43年(1968年)9月には廃止されています。この代替として都バス539系統(早稲田-上野公園)が運行し(都営バス小滝橋営業所 Wikipedia「上69系統は、高田馬場から上野まで東西に横断する。1968年(昭和43年)の都電第3次撤去で廃止された39系統(早稲田 – 厩橋)の代替として、539系統(早稲田 – 上野公園)で運行が始まる。1972年に系統番号を上69系統と変更、1974年に小滝橋車庫まで延伸した」)「539系統」は書面上のもので、乗客向けには39番を表示していたようです。「都営バス資料館 その他のヘッドマーク(省略)。代替後1年程度で定期券の移行措置が終わるとともに取り外され、それ以後は一般路線と見た目が変わらなくなった」といいます。バスの行き先は、無理をすれば「早稲田-〇〇〇〇」と読めそうです。
 江戸川橋方向にバン「Coca-Cola スカッとさわやか コカ・コーラ」や自動車「◯YAMA PRINTING CO. LTD」「岡◯商店」が見えます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12785 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12786 新小川町付近高速道路下

 ID 12785-86は、さらに西に行き、目白通りの「非常駐車帯」の直下で、石切橋付近から撮影しています。写真説明の「新小川町付近」からはだいぶ遠ざかっています。
 首都高の直下はチェーンスタンドとバリケードで区切られて、何台のも自動車が駐車しています。資材置き場になったのか、カバーで覆われたものもあります。恒久的な駐車場とは考えにくく、工事のために一時的に撤去したものの代替でしょうか。この場所は現在は車道になっています。
 橋脚の間に石切橋が見えます。ID 12785では道を横断する人と自転車、左端には横断する自動車が一部写っていて、右には信号機の背面が見えます。ゼブラ柄は見えませんが、ここが横断歩道だとわかります。
 石切橋の反対側(文京区)には「喫茶 アサノ」「生蕎麦」「寿司 割烹 玉明」などがあり、現在も「生蕎麦 浅野屋」が同じ場所で営業中です。
 昭和52年のID 12205は、ほぼ同じ場所の撮影で、先に行くと歩道橋があります。この「古川歩道橋」は東京都が管理し、飯田橋歩道橋と同じで、1970年(昭和45年)に架設しました(東京都建設局「横断歩道橋個別施設計画」No.439)。この写真が撮った昭和44年には、まだありません。

首都高速(写真)新小川町 昭和44年 ID 12776-79

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12776-79は、首都高速道路5号線(池袋線)の飯田橋出入口付近を昭和44年9月に撮影したものです。備考では「新小川町付近高速道路下」となっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12776 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12777 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12778 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12779 新小川町付近高速道路下

 5号線は1969年(昭和44年)6月27日、西神田出入口から護国寺出入口までを供用開始しました。
 この写真は開業から間もない時期のものです。高所からの撮影で、おそらく飯田橋交差点(下宮比町)の東海銀行飯田橋支店の建物、現在の飯田橋御幸ビル(1966年=昭和41年5月竣工)から北の方角を見下ろしたのでしょう。
 目白通りが奥に延びています。ここには都電15系統が走っていましたが、1968年(昭和43年)に廃止され、軌道も見えません。
 首都高は神田川の上に建設されました。画面左に曲がる急カーブは「大曲」と呼ばれる場所です。手前から3本目の橋脚にかかる橋が「隆慶橋」です。その右側、高架の向こうに首都高から下りてくる「飯田橋出口」があります。
 一方、目白通りの奥に首都高が白く光って途切れている部分があります。ここは飯田橋入り口の予定地ですが、実際に建設されたのは昭和52年(1977)ごろでした。ID 12215-16に工事中の様子があります。
 手前のビルには写植・フォント大手の「モリサワ」の大きな看板。経営理念は『文字を通じて社会に貢献する』こと。デジタルフォント(日本語ポストスクリプトフォント)が有名です。本社は大阪で、大正13年に設立。この下宮比町15-5は昭和44年からの東京支店です。
 目白通り沿いの少し先のビルは「中央印刷」。大曲の向こうの「TOPPAN」は文京区の会社で今は「TOPPANホールディングス株式会社」、昔は凸版印刷株式会社と呼んでいました。本社は東京都台東区で、創業は明治33年。事務所は文京区水道1-3-3。総合印刷会社です。
 いずれも印刷関係の企業で、神田川流域が印刷・出版で発展した歴史を感じさせます。

立ン坊

文学と神楽坂

 森銑三氏の「明治東京逸聞史2」(平凡社、昭和44年)が「日本社会大辞彙」の言葉として……

立ン坊 明治41年
「社会大辞彙」には、「立ン坊」などという項目までがある。
 その名の如く、路傍や坂の下などに立っていて、の後押しその他の稼ぎに、露命をつなぐ、まことにはかない連中であるが、その仲間も、ちゃんと団体組織になっているので、他の者が勝手に入込むのを許さない。九段坂下の立ン坊は、十人とその数が定められて居り、欠員が出来ると、主だった者の紹介に依って補充する。一人一日の稼ぎ高は、二十銭から八十銭くらいまでで、荷車の後押しなどは、一回が二銭三銭という相場である。立ン坊の十中の八九まで木賃宿に泊り込むのは上の部で、大抵は神社の境内などで夜を明かすのだという。
 明治の末の九段坂など、その勾配が、今よりは、ずっと急だった。それで荷車は之の字なりに引いて上るのだが、二三銭出して立ン坊を頼めば、それだけ楽に上ることが出来たのである。繩の帯をした連中が、坂下の家の軒下にのっそり立っている。あれは東京特有のものだった。

立ちんぼ(主に仕事を待って)立ち続けている者。戦前では空巣ねらい、制服巡査。明治から大正にかけて、坂の下に立って大八車だいはちぐるまや荷車が通れば押すのを手伝って駄賃を貰う職業。現在は売春する女性で、路上に立ち、直接交渉を行う。
 ここでは大八車や荷車、人力車

大八車 Google

露命をつなぐ ろめいをつなぐ。露のようなはかない命を、辛うじて保つことで、細々と暮らしていく
はかない 果無い、儚い。束の間であっけない。むなしく消えていく。頼りにならない。
九段坂下の立ン坊 東京市公演課の「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」(大正12年)ではやや遠くに荷車を押している人々が見えます。これが「たちんぼう」でしょう。

東京市公演課の「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」(大正12年)

木賃宿 江戸時代、木賃(たきぎの代金)を取り旅人に自炊させて泊めた宿屋。一般に、粗末な安宿。
之の字 ジグザグ(zigzag)。稲妻形。Z字状に直線が何度も折れ曲がっている様子

『新宿区立図書館資料室紀要 ― 神楽坂界隈の変遷』(昭和45年)の「古老談話・あれこれ」で古老の赤井儀平氏は……

 俗に『立ちん棒』ってのがいましてね、坂を上る車のあと押しをする人達ですが、それが坂下にいつでも立っているんです。坂の下まできて『サァ行こうか……』なんていうと、うしろからあと押しをして坂の上まで手伝って行って、1銭か2銭もらうんです。大正までいましたね。当時の1銭か2銭でもまず今の100円以上でしょうネ。一般の人達は30円か40円位の月給ぢゃなかったんですかねえ。帰りにはそこいらで必ず一杯ひっかけて行くんです。最後まで残ったのはひとり者でしたが、夏のことで、あんまり暑いのでそこの堀で行水をしているうち溺れて死んでしまったんです。それっきりあと継ぎは出ませんでした。年は50才位の人でしたかね。いい加減頭も禿げていましたから。」

 新宿区役所編「新宿区史・史料編」(昭和31年)で佐久間徳太郎氏の「古老談話」では……

 其頃の車は荷車か人力車であったが、坂の下に「立ちん棒」というのが立つていて、頼まれて荷車の後を押した。「立ちん棒」というのはれつきとした商売で車が上つてくると「旦那押しましようか」と後押しをして登りつめると一錢か二錢頂戴する。此の商賣は日露戰争頃まで見られたという。又人力車で坂の下まで來た人は一旦降りて、車が坂を登り切るまで一緒に歩かねばならなかった。こういうのは東京で珍しく、九段坂はそうであつたが他には知らないという。
日露戦争 明治37年2月から明治38年9月まで朝鮮や満州の支配権をめぐるロシアとの戦争。

 木村荘八氏の「東京繁昌記」(演劇出版社、昭和33年)では……

九段坂には車のあと押しの「立ちんぼ」を配するなど、明治の人の風景描写は叙情細やかだった。

 松沢光雄氏の「神楽坂と神楽河岸」(地図協会、昭和43年)では……

 当時は飯田橋の上に「たちんぼう」がたくさんいた。失業者で臨時の労働をまっている連中である。これが神楽坂をあがる車のあとをおして、5厘か一銭をもらっていた。

 明治時代の「新撰東京名所図会」(第41編、明治37年)では引っ張る人と押す人の2人が一緒になって人力車を上に押し上げています。

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊『大学シリーズ 法政大学』昭和46年、『ここは牛込、神楽坂』第17号に抜粋)では……

 神楽坂下には、たちんぼと呼ばれる職業の人が二、三人いた。四十過ぎの男ばかりで、地下足袋に股引、しるしばんてんという服装だった。八百屋、果物屋その他の商売の人たちが、神田市場から品物を仕入れ、大八車を引いて坂下まで帰ってくる。一人ではとても坂はあがれない。そこで、たちんぼに坂の頂上まで押してもらうのであった。
 いくばくかの押し賃をもらうと、次の車を待つのであった。この商売は、神楽坂だけのものだったにちがいない。

 野口冨士男氏の「私のなかの東京」(文藝春秋、昭和53年)では……

震災前の神楽坂には砂利が敷かれていて、傾斜ももっと急であったから、坂下には九段坂下ほどではなかったが、荷車の後押しをして零細な駄賃をもらう立ちん棒がいたことまでが思い出される。

死者を嗤う|菊池寛

文学と神楽坂

 菊池寛は大正7年6月に小説「死者をわら」(中央文学)を発表しています。29歳でした。

 二、三日降り続いた秋雨が止んで、カラリと晴れ渡ったこころよい朝であった。
 江戸えどがわべりに住んでいる啓吉は、平常いつものように十時頃家を出て、ひがしけんちょうの停留場へ急いだ。彼は雨天の日が致命的フェータルに嫌であった。従って、こうした秋晴の朝は、今日のうちに何かよいことが自分を待っているような気がして、なんとなく心がときめくのを覚えるのであった。
 彼はすぐ江戸川に差しかかった。そして、ざくらばしという小さい橋を渡ろうとした時、ふと上流の方を見た。すると、石切橋いしきりばしと小桜橋との中間に、架せられているを中心として、そこに、常には見馴れない異常な情景が、展開されているのに気がついた。橋の上にも人が一杯である。堤防にも人が一杯である。そしてすべての群衆は、川中に行われつつある何事かを、一心に注視しているのであった。
 啓吉は、日常生活においては、興味中心の男である。彼はこの光景を見ると、すぐ足を転じて、群衆の方へ急いだのである。その群衆は、普通、路上に形作らるるものに比べては、かなり大きいものであった。しかも、それが岸にあっては堤防に、橋の上では欄杆らんかんへとギシギシと押しつめられている。そしてその数が、刻々に増加して行きつつあるのだ。
 群衆に近づいてみると、彼らは黙っているのではない。銘々に何かわめいているのである。
「そら! また見えた、橋桁はしげたに引っかかったよ」と欄杆に手を掛けて、自由に川中を俯瞰みおろし得る御用聴らしい小憎が、自分の形勝けいしょうの位置を誇るかのように、得意になって後方に押し掛けている群衆に報告している。
「なんですか」と啓吉は、自分の横に居合せた年増の女に聴いた。
土左衛門ですよ」と、その女はちょっと眉をしかめるようにして答えた。啓吉は、初めからその答を予期していたので、その答から、なんらの感動も受けなかった。水死人は社会的の現象としては、ごく有り触れたことである。新聞社にいる啓吉はよく、溺死人に関する通信が、反古ほご同様に一瞥を与えられると、すぐ屑籠に投ぜられるのを知っている。が実際死人が、自分と数間の、距離内にあるということは、まったく別な感情であった。その上啓吉は、かなり物見高い男である。彼もまた死人を見たいという、人間に特有な奇妙な、好奇心に囚われてしまった。
嗤う 相手を見下したように、笑う。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
東五軒町の停留場 路面電車の停留場です。現在はバス停留所(バス停)に代わりました。

東五軒町のバス停 Google

フェータル fatal。命にかかわる。破滅をもたらす
小桜橋石切橋 図を参照
 西江戸川橋です。

神田川の橋

欄杆 欄干。らんかん。橋や建物の縁側、廊下、階段などの側辺に縦横に材を渡して墜落を防ぐもの。
喚く わめく。叫く。怒ったり興奮したりして大声で叫ぶ。大声をあげて騒ぐ
橋桁 はしげた。川を横断する道路の橋脚の上に架け渡して橋板を支える材。
御用聴 ごようきき。御用聞き。商店などで、得意先の用事・注文などを聞いて回る人
形勝 地勢や風景などがすぐれていること、その様子や土地
土左衛門 どざえもん。溺死者の死体。江戸の力士成瀬川土左衛門の色白の肥満体に見立てて言ったもの。
眉を顰める まゆをひそめる。不快や不満などのために、眉のあたりにしわを寄せる。顔をしかめる。
反古 反故。書きそこなったりして不要になった紙。
一瞥 いちべつ。ちらっと見ること。流し目に一たび見ること
屑籠 くずかご。紙屑など、廃物を入れる籠。
数間 1間は1.818…メートル。数間は約7〜8メートル。

 と、啓吉のすぐ横にいる洋服を着た男と、啓吉の前に、川中を覗き込んでいる男とが、話している。
 すると突然、橋の上の群衆や、岸に近い群衆が、
「わあ!」と、大声を揚げた。
「ああとうとう、引っ掛けやがった」と所々で同じような声が起った。人夫が、先にかぎの付いた竿で、屍体の衣類をでも、引っ掛けたらしい。
「やあ! 女だ」とまた群衆は叫んだ。橋桁はしげたに、足溜あしだまりを得た人夫は、屍体を手際よく水上に持ち上げようとしているらしい。
 群衆は、自分たちの好奇心が、満足し得る域境に達したと見え、以前よりも、大声をたてながら騒いでいる。が、啓吉には、水面に上っている屍体は、まだ少しも見えなかった。
足溜 足を掛ける所。足がかり。

 すると、突然「パシャッ」と、水音がしたかと思うと、群衆は一時に「どっ」と大声をたてて笑った。啓吉は、最初その場所はずれの笑いの意味が、わがらなかった。いかに好奇心のみの、群衆とはいえ屍体の上るのを見て、笑うとはあまりに、残酷であった。が、その意味は周囲の群衆が発する言葉ですぐ判った。一度水面を離れかけた屍体が、鈎のずれたため、ふたたび水中に落ちたからであった。
「しっかりしろ! 馬鹿!」と、哄笑から静まった群衆は、また人夫にこうした激励の言葉を投げている。
 そのうちに、また人夫は屍体に、鈎を掛けることに、成功したらしい。群衆は、
「今度こそしっかりやれ」と、叫んでいる。啓吉は、また押しつまされるような、気持になった。彼は屍体が群集の見物から、一刻も早く、逃れることを、望んでいた。すると、また突然水音がしたかと思うと、以前にも倍したような、笑い声が起った。無論、屍体が、再び水面に落ちたのである。啓吉は、当局者の冷淡な、事務的な手配と、軽佻な群衆とのために、屍体が不当に、曝し物にされていることを思うと、前より一層の悲憤を感じた。
哄笑 こうしょう。大口をあけて笑う。どっと大声で笑う。
倍する 倍になる。倍にする。大いにふえる。大いに増す。
軽佻 けいちょう。考えが浅く、調子にのって行動する様子

 三度目に屍体が、とうとう正確に鈎に掛ったらしい。
「そんな所で、引き揚げたって、仕様がないじゃないか、石段の方へ引いて行けよ」と、群衆の一人が叫んだ。これはいかにも時宜タイムリイな助言であった。人夫は屍体を竿にかけたまま、橋桁はしげたから石崖の方へ渡り、石段の方へ、水中の屍体を引いて来た。
 石段は啓吉から、一間と離れぬ所にあった。岸の上にいた巡査は、屍体を引き揚げる準備として、石段の近くにいた群衆を追い払った。そのために、啓吉の前にいた人々が払い除けられて啓吉は見物人として、絶好の位置を得たのである。
 気がつくと、人夫は屍体に、繩を掛けたらしく、その繩の一端をつかんで、屍体を引きずり上げている。啓吉はその屍体を一目見ると、悲痛な心持にならざるを得なかった。希臘ギリシャの彫刻で見た、ある姿態ポーゼのように、髪を後ざまに垂れ、白蠟のように白い手を、後へ真直にらしながら、石段を引きずり上げられる屍体は、確かに悲壮な見物であった。ことに啓吉は、その女が死後のたしなみとして、男用の股引を穿うがっているのを見た時に悲劇の第五幕目を見たような、深い感銘を受けずにはいなかった。それは明らかに覚悟の自殺であった。女の一生の悲劇の大団円カターストロフであった。啓吉は暗然として、滲む涙を押えながらおもてそむけてそこを去った。さすがに屍体をマザマザと見た見物人は、もう自分たちの好奇心を充分満たしたと見え、思い思いにその場を去りかかっていた。
 啓吉も、来合せた電車に乗った。が、その場面シーンは、なかなかに、啓吉の頭を去らなかった。啓吉は、こういう場合に、屍体収容の手配が、はなはだ不完全で、そのために人生における、最も不幸なる人々が、死後においても、なおさらし物の侮辱を受けることをいきどおらずにはおられなかった。それと同時に啓吉は死者を前にして哄笑する野卑な群衆に対する反感を感じた。
 そのうちフト啓吉は、今日見た場面を基礎として、短篇の小説を書こうかと思い付いた。それは橋の上の群衆が、死者を前にして、盛んに哄笑しているうちに、あまり多くの人々を載せていた橋は、その重みに堪えずして墜落し、今まで死者をわらっていた人たちの多くが、溺死をするという筋で、作者の群衆に対する道徳的批判を、そのうちに匂わせる積りであった。が、よく考えてみると、啓吉自身も、群衆が持っていたような、浮いた好奇心を、全然持っていなかったとは、いわれなかったのである。
時宜 じぎ。その時々に応じた。ちょうど良い頃合。適時。タイミング。
タイムリイ タイムリー。ちょうどよい折に行われる。時機を得ている
後ざま うしろざま。その人や物の、後ろのほう
白蠟 はくろう。白い蝋燭ろうそく。黄蝋を日光にさらして製した純白色の蝋。
穿う うがつ。穴を開ける。人情の機微や事の真相などを的確に指摘する。衣類やはきものを身につける。
カターストロフ  カタストロフ。ギリシア語のkatastrophēに由来。悲劇的結末。破局。
滲む にじむ。涙・血・汗などがうっすらと出る。
 おもて。顔。顔面。

梟林漫筆|内田百閒

文学と神楽坂

 内田百閒氏の「ひゃっえん随筆」の「梟林まんぴつ」第2章(出版元不明、大正6年ごろ。再録は旺文社文庫、昭和55年)で、「梟林」は「きょうりん」か「ふくろ[う]ばやし」、「漫筆」は随筆のこと。

 何時いつの事だつたか、又何処へ行つた帰りだつたか忘れてしまつたけれども、四谷見附から飯田橋の方へ行く外濠そとぼりの電車に乗つてゐた。電車が新見附に止まつた時、片頬を片目へ掛けて繃帯した婆さんが一人乗つて来て、私の向う側へ腰を掛けた。私は濠の方へ向かつて腰を掛けてゐた。私はその婆さんの顔と風体とをただ何の気もなしに眺めてゐた。きたないで繃帯が目立つほか別に変つたところもないから、婆さんが前にゐることなどは、まるで気にしてゐなかつた。それから電車が走つて牛込見附で止まると、又一人の婆さんが乗つて来た。前の方の入口から這入つて来るところをふと見たら、片頬から片目へかけて繃帯をしてゐる。おやと思つて前を見たら、もとの婆さんはもとの通りに腰をかけてゐた。さうして今はひつて来た婆さんは、もとの婆さんと一人置きにならんで、私の前に腰を掛けてしまつた。風体もよつて汚なかつた。さうして又電車が動き出した。私は不思議さうに二人を見てゐた。すると私の隣りにゐた商人風の若い男が、可笑をかしくてまらなさうな顔を私に向けた。その途端に、私も不意に堪まらない程の可笑しさが、腹の底からこみ上げて来た。しかし笑ふ事も出来ないから、顔を引き締めてゐると、その若い男にはまた私の妙な顔が可笑しくなつたらしかつた。その席を起つて、入口の所から外を向いてしまつた。

 以上で終わりです。老婦人2人が共に片目に眼帯をつけていたという、まあ普通のお話です。

四谷見附 大正時代なので、路面電車の系統は、……ー四谷見附ー本村町ー市谷見附ー新見附ー逢坂下ー牛込見附ー飯田橋ー小石川橋ー……と、皇居の外濠に沿って一周します。当時は➈系統でした。

大正11年の路面電車 市谷見附ー新見附ー逢坂下ー牛込見附ー飯田橋

外濠の電車 外濠線の路面電車。東京で、皇居の外濠に沿って走っていた路面電車。明治37年、東京電気鉄道が敷設した御茶ノ水から土橋までの線路が最初。
新見附 新見附橋明治26年に計画し、 27年にはなく28年までに完成。当時無名の橋だったが、明治38年に、新しく路面電車が通り、駅を「新見附駅」と決めて、これから「新見附橋」と命名された。
繃帯 ほうたい。包帯。傷口などを保護するため巻く、ガーゼなどの細長い布x
 だけ。ちょうどその数量・程度・範囲である。「三つだけ残っている」。限界一杯。
牛込見附 「牛込見附」交差点は現在「神楽坂下」交差点と同じ。電車路面の「牛込見附」駅は神楽坂下交差点の付近にあった。
 まま。思いどおり。もとのまま。

昼もにぎわう神楽坂 (平成19年)フジ系「拝啓、父上様」効果 高校生や女性急増

文学と神楽坂

「産経新聞」では「拝啓、父上様」について高校生や女性に大きな効果があると語っています。(この記事は2007年3月15日に掲載)

 かつて東京の花柳街として栄えた神楽坂に、このところ高校生や女性のグループが急増している。異変の“震源”は、神楽坂の老舗料亭を舞台にしたフジテレビ系の人情コメディー「拝啓、父上様」(木曜後10・00)。1月11日に放送が始まって以降、ロケで使われた路地や商店などに訪れる観光客は連日後を絶たず、ブームは、最終回(3月22日)放送後もしばらく続きそうだ。(安藤明子)
 2月末の平日の午後、神楽坂に出かけた記者が最寄りの地下鉄飯田橋駅で下車してすぐ目にしたのは中年女性グループの待ち合わせ風景。昨年末、「拝啓—」の会見取材で近くのホテルを訪れたときには見かけなかった光景だ。
 神楽坂通りの商店街に足を踏み入れると、老舗の甘味店は主婦客があふれ、中華料理店の店先ではまんじゅうを買い求める高校生の列。神楽坂のシンボル、毘沙門天境内の木には板前役でドラマ主演している二宮和也あてに「撮影が無事に終わりますように」「これからも応援します」とハートマーク付きで書いた絵馬がやたらと目につく。細く入り組んだ路地のあちこちに、一眼レフカメラや携帯電話のカメラで古き良き風景を撮る人がたたずむ…。
 坂が多く、石畳の路地や横丁が独特の風情を醸し出す神楽坂には、数年前から観光客が増えてきていたが、毘沙門天の目の前でせんべい店を営む神楽坂通り商店会会長、福井清一郎さんは「ドラマの第1回放送直後から人出が一気に増えた。ロケ用の器材が置いてあるだけですぐ人だかりができる。飲食店はブームの恩恵を受けて、どこもランチタイムの回転率が倍近くなっているといいます」と、ドラマ効果の大きさを認める。
 福井さんによれば、2月3日の節分には例年の倍以上の人が毘沙門天に殺到。また、商店会が毎年6月と11月に4万部ずつ発行している小冊子風のパンフレット「神楽坂」(無料)の11月分は1月中にほぼなくなった。「例年は3月くらいまでは残っている」というから、その効果に驚かされる。
 福井さんの店から少し先の路地で喫茶店を営む元神楽坂芸者の鈴木みどりさんもドラマ効果に感謝する1人。「午前中は常連客だけでしたが、ドラマが始まってからは10時開店と同時に熟年女性のグループやご夫婦のお客さんが次々と来られます。先日は大阪からきたという二宮さんのファンが『にの(二宮)がドラマで座った椅子(いす)はどれですか』と聞いて、そこで写真を撮っていきました」。売り上げはあっという間に1・5倍以上となり、昼食時間もなかなか取れないのが悩みだが、「ドラマが終わるまでだと思って頑張ります(笑い)」。
 飲食店を中心に活況を呈している神楽坂だが、地元では戸惑う人がいるのも事実。「神楽坂が神楽坂でなくなってしまった。ドラマが終われば元に戻ると思うけど…」
 福井さんも「最近は路地で昼寝をしている猫を見かけなくなった」と苦笑。今回、「拝啓—」のタイトルバック写真を担当した写真家、ヤマモトヨウコさんは神楽坂の魅力にとりつかれ、24年にわたって町の日常を写し続けてきたが、「どこの路地にも朝から人がいる。こんなことは初めて」と驚きを隠さない。花見シーズンが終わるまで猫の昼寝姿は見られない⁉
2007-03-15 ・ 東京朝刊・朝刊芸能


二宮和也 にのみや かずなり。生年は昭和58年6月17日。男性アイドルグループ・嵐のメンバー。愛称は「ニノ」。
ヤマモトヨウコ 写真家。青山学院大学文学部史学科考古学専攻卒業。国際線スチュワーデスから、1991年、フリーランスの写真家になる。神楽坂の芸者を撮影する。

首都高速5号線(写真)水道町 東五軒町 新小川町 昭和52年 ID 12205、12208、12215-16

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12205、12208、12215-16は、昭和52年(1977)5月、首都高速道路5号線(池袋線)の飯田橋から江戸川橋までの写真です。
 5号線は1969年(昭和44年)6月27日、西神田出入口から護国寺出入口までを供用開始しました。飯田橋-江戸川橋間は新宿区と文京区の区境にあたり、神田川の中を通っています。
 さらにID 12205、12215-16は備考として「新小川町一丁目付近 隆慶橋」、ID 12208は「水道一丁目 新小川町三丁目」をあげています。昭和57年の住居表示実施に伴い、丁目を廃止し、新小川町だけとなりました。また「水道一丁目」は「文京区水道一丁目」が普通ですが、「文京区水道二丁目」「新宿区水道町」もありえます。

(1)新宿区水道町。西向き。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12205 首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋

 高速道路は右奥へと曲がっています。神田川のこの付近には、江戸期から「大曲おおまがり」と呼ばれた急カーブがありました。
 しかしこの写真は大曲ではありません。首都高の大曲付近の橋脚は、川を挟むように2本の足を持つ「門形」で、写真の1本足の「T型」とは違います。また左側に見える歩道橋も大曲と飯田橋交差点の間にはありません。
 該当する場所は目白通りの新宿区水道町から西向きに石切いしきりばし方向を撮影したものです。橋脚の形や歩道橋、首都高がふくらんだ「非常駐車帯」の位置、高速の下の道が(三角コーンで仕切られて)対面通行になっている様子なども合致します。

現在の新宿区水道町 Google

 なお、ID 12205の備考の説明は「新小川町一丁目付近 隆慶橋」ですが、「新宿区水道町 石切橋付近」としておきます。
 歩道橋の手前が石切橋交差点です。田口政典氏の「歩いて見ました東京の街」の1976年(昭和51)12月2日の写真06-09-54-2「下流から石切橋を」では古くて狭い石切橋が写っています。ID 12205でも、かろうじて確認できます。

 ID 12205の「安」「全」「+」の工事柵の向こうの小さな橋は、おそらく工事時の架設の橋でしょう。

(2)新宿区東五軒町。東向き。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12208 首都高速道路5号線 水道一丁目 新小川町三丁目

 東五軒町の北、目白通りを東向きに撮影しています。(1)のID 12205から飯田橋側に寄ったところで、位置としてはざくらばしのたもとです。
 首都高の柱の左側を神田川が流れます。川の小さななかはしも写っています。文京区側につながる斜めの橋が見えています。この橋は中ノ橋と白鳥橋しらとりばしの間にあり、「新白鳥橋」と命名されました。また「(TOP)PAN」(凸版印刷)の印刷工場は川の北側で、この場所は文京区水道一丁目にあたります。
 写真の正面奥、首都高が右に丸く膨らんでいるのが飯田橋料金所です。広がった部分を支える大きな門形の橋脚が分かります。料金所付近から右に「大曲」のカーブになります。写真右端の(共同石油)のガソリンスタンドから先は新小川町(昔の新小川町3丁目)です。
 また、地上を走る上り車線は正面の柵の奥、信号の場所で左右2本に分かれます。高速に出入り口を設置すると、どうしても道幅が狭くなってしまいます。そこで目白通りの一部を左の文京区側に通すことで交通渋滞を減らすことを狙いました。
 地上でまっすぐ奥につながる道は飯田橋に向かう目白通りの上り車線です。工事のため車が走っていません。
 以下の上り車線と下り車線はどちらも地上の車線です。

昭和54年 新白鳥橋付近(地理院地図 整理番号 CKT794 コース番号 C10 写真番号 12 撮影年月日1979/11/14)に加筆。

整理番号 CKT794 コース番号 C10B 写真番号 12 撮影年月日1979/11/14(昭54

現在の目白通り

 この区間の目白通りの地下には、神田川の洪水対策のための「江戸川橋分水路」があります。この分水路は昭和52年に完成しました。写真は完成直前の様子を撮影したものでしょう。高速の柱の下には、地下に降りるオレンジ色の階段入り口があります。

神田川と目白通り地下(分水路・地下鉄)の断面図(東京都建設局市料)

 新小川町付近は大雨のたびに神田川の洪水が繰り返されてきましたが、分水路の完成によってリスクは小さくなりました。


(3)新小川町(かつての一丁目)付近。北向き

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12215 工事中の首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋付近

 新小川町の東側の目白通りから、首都高の飯田橋料金所の建設風景を撮影しています。首都高の下は神田川。正面が大曲の急カーブ。背中側に隆慶橋や飯田橋交差点があります。
 首都高では出入口を「ランプ(ramp、高低差のある場所を連結する傾斜路)」と呼びます。インターチェンジ(interchange、IC、複数の道路を相互に接続する施設)やジャンクション(junction、接合点、合流点)と違い、特定方向にしか行けないからです。写真の飯田橋ランプは、目白通りから首都高5号線の北池袋方面に進入するためだけの入り口です。
 冒頭に記したように、5号線のこの区間は1969年(昭和44年)6月に開業していますが、この写真を撮影した1977年(昭和52年)でも、まだ飯田橋ランブは建設中でした。
 もう1点、特徴的なのは、三角コーンを境に対面通行になり、車が手前向きに走っていることです。この状態では、北に向かう車がランプの坂を上れません。
 撮影当時、高速道路の真下はID 12208と同様に神田川の「江戸川橋分水路」を建設していました。このため下り車線を狭めて、対向車の通るスペースを確保したのでしょう。目白通りの整備は高速道路だけでなく、地下の分水路、その下の地下鉄有楽町線の建設を含めて、非常に長期にわたりました。
 この写真の撮影場所は後に大々的に区画整理され、平成28年に放射25号線が開通。「新隆慶橋」という新しい橋が架けられました。

 ID 12215の左には「国際航空輸(送)」(かつては新小川町一丁目5)の看板がありますが、今は何も残っていません。高速道路の向こうの「日本信販」の広告は文京区です。

(4)新小川町(一丁目)付近 北向き

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12216 工事中の首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋付近

 ID 12215とほぼ同じ場所で、道を渡った高速の真下から道沿いの建物を撮影したものです。
 建設中の坂道が、飯田橋料金所に上がる首都高のランプ。その手前の坂のように見えるのは目白通りの上り車線です。一番右にガードレールが見えます。
 この区間は神田川の「江戸川橋分水路」建設のため通行止めになっています。一番、奥に工事車両が見えます。その先は新白鳥橋に分岐する交差点があります。
 道路脇の建物は新小川町で、出光とロゴマーク()と看板「全軽和」、ナショナル(現、パナソニック)のロゴマーク()などが見えます。「全軽印」の看板のビルの左は東京電力新小川町変電所で、現在も変わりません。その左側の消火栓広告は「きもの英」です。

赤城神社(写真)鳥居と拝殿 令和4年 ID 17581-82

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17581-82は令和4年10月、赤城神社の鳥居と拝殿などを撮っています。鳥居は昭和44年令和元年、また拝殿は昭和44年昭和50-51年平成29年でも出ています。

(1)鳥居

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17581 赤城神社鳥居

 左側から……

  1. 横断歩道
  2. コンビニ(LAWSON)
  3. 電柱とカーブミラー
  4. 赤城神社
    • どもえ)の紋と社号標(石柱などに刻んで建てた神社名)「赤城大明神」
    • いちの鳥居
    • 神額しんがく(神社で鳥居などにある額)「赤城神社」
    • 巨大な広葉樹
    • 参道。両側に春日灯籠、遠くに創作した灯籠
    • 掲示板と読めない掲示物
  5. 道路標識 (車両進入禁止)
  6. 裏側を向いた道路標識。縁石。歩道
  7. 民家
  8. 駒寿司


(2)拝殿

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17582 赤城神社

 左側から……

  1. 屋根があり、「螢雪天神」の提灯。かつて横寺町の朝日天満宮だったが、明治9年(1876)、信徒がなく、境内社(神社の境内に鎮座して、その管理に属する摂社や末社)になる。平成17年(2005)10月、横寺町の旺文社の寄進で『螢雪天神』として復興。
  2. 絵馬、絵馬がけどころ
  3. 八耳神社、出世稲荷神社、東照宮などの屋根
  4. 民家の2階
  5. 赤城神社の社殿
    • 「狛犬」2匹と「奉」「納」。右側は口を開き「」形を、左側は口を閉じていて「うん」形を表しています。
    • 「赤城神社」のちょうちん型の御神灯が1対。
    • 「(赤城神)社」の額
    • しめ縄。神道における神祭具。白い紙飾りが「紙垂しで
    • 本坪ほんつほすずと鈴の
    • 賽銭箱と左どもえ)の紋
    • 拝殿。本殿の参拝も可。
  6. 高札様の看板
  7. 絵馬、絵馬がけどころ
  8. マンション「パークコート神楽坂」(築年は2010年)

赤城神社(写真)駐車場の眺望 令和4年 ID 17063-66

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17063-66は、令和4年(2022)3月、備考では「赤城神社から早稲田方面を望む」となっていて、赤城神社裏(北側)駐車場からの写真です。この部分は崖の上になっており、昭和28年平成31年令和元年などの撮影もあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17063 赤城神社から早稲田方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17064 赤城神社から早稲田方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17065 赤城神社から早稲田方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17066 赤城神社から早稲田方面を望む

 撮影時刻は夕方のようで、建物の手前側(東側)が影になっています。それ以外は令和元年と大きな変化がありません。
 令和元年の◯で囲んだ部分は令和4年には見られませんが、詳細は分かりません。

【参考】新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13306A 赤城神社からの眺め 令和元年

【参考】新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13305 赤城神社からの眺め 令和元年

神楽河岸の酒問屋(写真)路面電車 昭和42年 

文学と神楽坂

 雪廼舎閑人氏の「続・都電百景百話」(大正出版、1982年)に次の写真がでてきました。撮影時期は昭和42年8月でした。

雪廼舎閑人「続・都電百景百話」(大正出版、1982年)昭和42年8月に撮影

 都電「飯田橋」行きなのに、方向板だけは早々と「品川駅」に直してしまうという結構面白い写真です。理由は以下に
 この都電系統3番は4か月後の昭和42年12月10日に廃線しました。あとこの写真は升本酒問屋についても説明があり、『新撰東京名所図会』が続きます(引用は以下の「神楽河岸の酒問屋」で)。
 酒問屋の升本総本店は、確か田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」にもあったっけ。で、見つけました。これが(↓)昭和47年に撮った写真です。都電はなくなり、「京英自動車株式会社」は「安全第一/大林組」の看板に変わっています。この時期にはID 8793のように飯田壕で地下鉄有楽町線や護岸の工事が進んでおり、その関係の現場事務所かも知れません。
 升本の背後に出現したビルは、左が東衣裳店、右が小川ビル。いずれも大久保通り沿いです。右端はボウリングのピンの広告塔で、下宮比町のイーグルボウルです。

05-14-39-2飯田橋升本酒店遠景 1972-06-06

 升本総本店のサイトにも写真があったはず……。ありました(↓)。説明は昭和38年ごろとあります。しかし、よく見ると最初の雪廼舎閑人氏の写真と似ている。非常に似ている。けた違いに似ている。眼光紙背に徹すると、同じじゃないか。

 雪廼舎氏と升本総本店、いずれも嘘をつく理由はなく、どちらかが間違いです。
 住宅地図で調べると、升本の倉庫の隣は昭和39年が「駐車場」、昭和42年と43年が「百合商会」、昭和45年から「京英自動車」に変わります。住宅地図の更新は数年遅れになることが多いので、これを考えると雪廼舎氏に軍配があがります。
 「続・都電百景百話」の中で雪廼舎氏は

 当初、「都電百景百話」は、私の撮影した1万枚を越すネガから、先ず四百の場面を選んで、更にそこから百景にしぼったものだった。この広い東京の町々を、百の場面で代表させることの難しさは並大抵なものではなかった。江戸の昔、葛飾北斎は「富嶽三十六景」で三十六景ならぬ四十八景を、そして安藤広重は「江戸名所百景」で、百十八景もの場面を残しているのに徴しても、このことはお解り頂けると思う。

 雪廼舎氏は趣味が高じて写真を撮っていて、都電3系統の廃止を前に撮影に行ったのでしょう。写真の大きさや解像度から見ても氏のほうが正しいでしょう。

 神楽河岸の酒問屋
 中央線に乗って四谷から御茶の水に向かって行くと、左手に外濠が続いて、ボートを浮かべる者や釣糸を垂れる姿などが見える。早春の頃ともなると土手の菜の花の黄色が鮮やかで、都内でも珍しいところだ。その外濠に沿って走っている電車は、昔の外濠線で、この伝統ある線は、③番が品川駅から飯田橋まで通っていた。もう少しで終点の飯田橋の五叉路にさしかかろうとする所なのに、車の渋滞の真只中で立往生だ。方向板は折返す時に直さず、大抵このように予め直してしまう。電車を待つ人は、今度は折返して「品川駅」まで行くのだなということがわかるようになっていた。ここで目立つ建物は、白土蔵と黒土蔵とを持つ酒問屋の升本総本店で、江戸時代からの老舗である。ここ牛込揚場町には、神田川を利用して諸国からの荷を陸揚げしたので、船宿や問屋などがたくさんあり、このあたりの河岸を神楽河岸と言った。
 明治37年の『新撰東京名所図会』の「牛込区之部」の巻一に、「此地の東は河岸通なれば。茗荷屋、丸屋などいへる船宿あり。一番地には油問屋の小野田。三番地には東京火災保険株式会社の支店。四番地には酒問屋の升本喜兵衛。九番地には石鹸製造業の安永鐵造。二十番地には高陽館といへる旅人宿あり。而して升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝したるものにて。稲荷社なども見ゆ。」と出ているから、升本総本店は都内でも有数の老舗であることがわかる。
 都電の沿線に土蔵があったところは、そんなに多くない。麹町四丁目の質屋大和屋、本郷三丁目のかんむり質屋、音羽一丁目の土蔵、中目黒終点の土蔵、根岸の松本小間物店、深川平野町の越前屋酒店の土蔵など、数えるほどしかない。今や、その半分は取り壊されて見ることもできない。最近、飯田橋の外濠が埋め立てられて、またまた水面積か減った。残念なことである。

★飯田橋の都電ミニ・ヒストリー
 外濠線の東京電気鉄道会社によって、本郷元町から富士見坂を下りて神楽坂までが明治38年5月12日に開通した。続いて、三社合同の東京鉄道時代の明治40年11月28日に、大曲を経て江戸川橋までが完成して、飯田橋は乗換地点となる。一方、大正1年12月28日、飯田橋から焼餅坂を下って牛込柳町までが開通したことにより、重要地点となった。大正3年には、⑩番江東橋~江戸川橋、⑨番の外濠線の循環線、それに新宿からの③番新宿~牛込万世橋間が通る。
 昭和初期には、5年まで⑱番角筈~飯田橋~万世橋、⑲番早稲田~大手町~日本橋~洲崎、㉒番若松町~御茶の水~神田橋~新橋が飯田橋を通っていたが、翌6年から⑱番が⑬番に、⑲番が⑭番に、そして㉒番は改正されて㉜番飯田橋~虎の門~新橋~三原橋と、㉝番飯田橋~虎の門~札の辻間となった。昭和15年には㉜番は廃止となった。
 戦後は、⑮番高田馬場駅~茅場町、⑬番新宿駅~水天宮、③番飯田橋~品川駅とになった。
 ③番は42年12月10日、⑮番は43年9月29日に廃止、⑬番は43年3月31日岩本町までに短縮の後、45年3月27日から廃止された。

清隆寺(写真)赤城元町 昭和44年 ID 14134

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」 ID 14134は昭和44年頃に赤城元町の日蓮宗清隆寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14134 日蓮宗本光山清隆寺

「一実」は仏語で、絶対平等の真実、「会堂」は集会の大きな建物のこと。表札は「日蓮宗本光山 清隆寺」。
「牛込区史」(昭和5年、576頁)では

本光山清隆寺、中山法華経寺末
起立不明、開基妙行院日徳、慶安四年九月九日遷化、旧境内年貢地百二十八坪、借地百四十四坪半。

 と極めて簡潔に書いています。なお「中山法華経寺」は千葉県市川市中山にある正中山法華経寺、「遷化」は高僧の死亡したこと。
「当山縁起」によれば、寛永15年(1638年)、妙行院日徳が開基として創建したといいます。

住宅地図。1967年

 清隆寺には初代・立花家橘之助の墓があることでも知られます。橘之助は明治から大正にかけで活躍した女流音曲師で、名人と呼ばれました。
 平成29年に三遊亭小円歌師匠が二代目立花家橘之助を襲名し、82年ぶりに名跡が復活したことで改めて注目されました。
 二代目は清隆寺で初代のおんの供養をしています。
 また、後ろにはお墓以外に「神楽坂樹木葬あかぎガーデン」があります。

清隆寺 上空から

赤城神社(写真)神輿蔵 眺め ID 14133, 14159-60 昭和44年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14133、ID 14159-60は昭和44年頃の赤城神社の写真を撮っています。ID 14133は神輿蔵を、ID 14159は赤城神社からの眺めを、ID 14160は赤城神社境内を撮っています。

(1)神輿蔵

あ 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14133 赤城神社 神輿蔵

 神輿みこしぐらは下の地図で「おみこしソーコ」と書いてある所です。氏子が町会ごとに神輿や山車を保管しておく建物で、左側の2棟には赤城神社の社紋である左どもえ紋()と「水道町」や「細工町」の町名があります。石造りの立派なものも、木造の漆喰塗りらしき小ぶりなもの、木の扉や錆びた扉もあり、管理状態はまちまちです。
 ただ終戦直後の航空写真には何も映っていないので、いずれも戦後に再建されたものでしょう。これらの神輿蔵は、平成22年(2010年)の新社殿では本殿の下(人工地盤の下)に移設されました。
 冬に撮影らしく立木は葉が落ちて、幹には「こも巻き」をしています。

赤城神社 住宅地図 2000年

(2)赤城神社からの眺め

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14159 赤城神社からの眺め

 左に赤城神社北参道の門柱。右側のビルの塔屋には「はいばら」と書かれていて「榛原記録紙工場」でしょう。左端には崖下の店の「小料理」の看板が見えます。

住宅地図 昭和42年

(3)赤城神社境内
 石敷きの参道の左側から北参道の方向を写しています。境内では子供が何人か遊んでいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14160 赤城神社境内

 左から……

  1. 東宮殿下碑
  2. 北参道の鳥居と門柱
  3. しょうちゅう。大山巌碑。初代の陸軍大臣大山巌が揮毫
  4. 手前に裸電球のような境内灯。石の土台から長い旗竿。
  5. 赤城会館(結婚式場)
  6. 赤城神社の社殿(拝殿)
  7. 出世稲荷神社(摂社)の鳥居

1948年1月18日(昭23)赤城神社付近(地理院地図)

赤城神社(写真)拝殿と狛犬 平成29年 ID 13977

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13977は平成29年、赤城神社の社殿と狛犬などの写真を撮っています。赤城神社の境内は建築家のくまけん氏が設計したもので、平成22年(2010年)に完成しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13977 赤城神社社殿・狛犬

 神社の社殿とは本殿ほんでん拝殿はいでん、舞殿などといった境内の重要な建物のことです。また、本殿とは神様がいらっしゃるとされている社殿のことで、拝殿とは参拝者が拝礼を行う社殿。したがって、この写真は拝殿です。屋根には簡単な切妻きりづま屋根です。
 新社殿は、旧社殿の跡に築いた人工地盤の上に建っています。鳥居から長い階段を上って、写真の拝殿前に出ます。
 拝殿の下は氏子参集殿(あかぎホール)、本殿の下は人工地盤を貫く基礎になっています。
 では左側から……

  1. 絵馬、絵馬け、絵馬がけどころ。絵馬は社寺などに祈願や感謝の目的で奉納する絵。絵馬掛所は祈願を書いた絵馬を掛ける場所
  2. 「納」と「狛犬」。左側は口を閉じていて「うん」形を表しています。
  3. 拝殿。
    • 「赤城神社」のちょうちん型の御神灯が1対。拝殿左からは殿内に入れるようで、受付らしい机が見える。
    • 「(赤)城神社」の額
    • しめ縄。神道における神祭具。白い紙飾りが「紙垂しで
    • 本坪ほんつほすずと鈴の
    • 賽銭箱と左どもえ)の紋
  4. 「狛犬」。右側は口を開いて「」形を表しています。
  5. 狛犬の下に立て看板「厄年祈願 受付中/子ども豆まき大会/平成二十九年1月二十八日(土)十四時」
  6. 高札こうさつ様の看板「奉納 斉◯芳子」

赤城神社(写真)駐車場の眺望 令和元年 ID 13303-06

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13303-06は、令和元年(2019)5月、赤城神社裏(北側)駐車場からの写真4枚です。この部分は高台の崖上になっており、昭和28年平成31年などの撮影もあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13303 赤城神社からの眺め

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13304 赤城神社からの眺め

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13305 赤城神社からの眺め

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13306 赤城神社からの眺め

 最近の写真なので建物が特定するのも簡単で、手前のえんじ色のマンションで屋上に白い正方形の模様がたくさんあるのは「ライオンズマンション神楽坂第三」(地上5階)で、同じく北に見えるえんじ色のマンションは「神楽坂ココハイツ」(地上11階)、ID 13303-05の薄い茶色のマンションは「グラーサ 神楽坂」(地上8階)です。

近い場所

 ID 13305の奥は、池袋周辺の高層ビル群です。同時期の撮影であるID 14051で詳しく見ています。ただし、豊島区役所、つまり「ブリリアタワー池袋」(地上49階 / 地下3階)は、薄い茶色のマンションの右側で、半分は隠れています。

14051b 赤城神社から池袋方向を望む

赤城神社裏(北側)駐車場

 ID 13303-04の奥は、早稲田方面のマンションなどが写っています。左側から見ていくと、屋上に貯水槽がある青灰色のビルは赤城下町にある旭創業東京支店の「神楽坂アサヒビル」、「BELISTA 神楽坂」は地上13階/地下1階、白い「グランスイート神楽坂」は地上14階で、天神町交差点の近くです。
 水色は「菱秀神楽坂ビル」(地上10階)、その右は「フリーディオ神楽坂」(地上11階)、薄い茶色は「パーク・ハイム神楽坂」(地上14階)、全部マンションであり、江戸川橋通り沿いの渡邊坂と呼ばれているあたりです。
 中央の一番奥、高い建物は山手線高田馬場駅に近い「住友不動産新宿ガーデンタワー」(地上37階/地下2階)で、ガラスの外装が濃紺に写っています。

渡邊坂近辺

 ID 13303-4の下を走る道路は無名ですが、そのまま上に行くと「赤城坂」と一緒になってT字をつくります。

路面電車(写真)飯田橋駅 第15系統 昭和6年 昭和31年 昭和43年

文学と神楽坂

 都電15系統の飯田橋停留所付近の写真5枚をまとめました。15系統は茅場町-大手町-神保町-九段下-飯田橋-目白通り-新目白通り-高田馬場駅を結ぶ路線です。
(1)昭和6年頃 中村道太郎氏の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)

飯田橋附近 飯田橋は江戸川と外濠との合する地点にあってその下流は神田川となる。写真の中央より少しく右によって前後に通ずる川が江戸川である。突きあたりの台地が小石川台で川を隔てて右は小石川区左は牛込区また飯田橋の橋手まえが麹町区。電車は5方面に通ずる。
 大正3年、市電に系統番号が採用され、電車の側面に大きく取り付けられるようになり、三田は1番、時計回りに8番まで番号をつけていました
 写真は昭和3年(1928年)に開業したばかりの中央線飯田橋駅のホームから目白通り方向を撮影しました。手前の幅の広い橋が「飯田橋」で、右に通じるのが「船河原橋」です。
 船河原橋は欄干の四隅が高い柱になっていて、その上に丸い大きな擬宝珠が乗っています。
 ここから写真奥に向けてが江戸川と呼ばれ、上流の「隆慶橋」が見えています。おそらく国鉄飯田橋駅のホームから写真を撮ったのでしょう。
 なお戦後、江戸川の名称はなくなり、神田川に統一しました。小石川区は文京区、牛込区は新宿区、麹町区は千代田区になりました。また、戦後の名称ではありますが、前後の通りは「目白通り」、左右の通りは「外堀通り」で、左奥にある「大久保通り」は見えません。
 では写真を左側から見ていきます。

  1. 小さな建物の一部。自働電話(公衆電話)でしょう。交番は船河原橋に派出所があり、不自然です。
  2. 外濠の水面は見えませんが、対岸に石垣と手すり。江戸期のものではなく、昭和4年(1929年)の飯田橋の掛け替え時に整備したものでしょう。
  3. 掲示板(裏から)。
  4. 電柱と電柱広告「耳鼻咽喉科」
  5. 交差点の向こうに店舗。看板が読めるのは「エ[ビス]ビール」と「春日堂」。
  6. 早稲田方向に向かう電車は停車中で、電停に乗降客多数。13系統は交差点を横断中。
  7. 降雪後らしく、路面は白く、車道は黒くなっている。
  8. 右前に電柱広告「魚喜」? 電柱の上にあるのは擬宝珠でしょうか。

(2)昭和31年(1956年)6月16日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)

戦前と戦後の風景が重なっていた昭和30年代初めの飯田橋駅前風景
低層の建造物ばかりだったので遠望がきいた。右に神田上水、直進する電車通りは目白通り。上流の大曲、江戸川橋にかけては沿道に中小の製造・加工工場、小出版社、印刷・製本業などが密集していた。神田川に架る外堀通りの橋は「船河原橋」。左奥が神楽坂・四谷見附方面、右奥が水道橋・御茶ノ水方面である。電車の姿は無いが、撮影当時の外堀通りには⑬系統(新宿駅前~万世橋)の都電が頻繁に往復していた。現在は高層のオフィス街に変り、頭上には首都高速5号池袋線が重くのしかかっている。
◎飯田橋 1956(昭和31)年6月16日 撮影:小川峯生

 東京都電は戦後再編され、江戸川線は高田馬場まで延長して15系統になりました。外濠線は飯田橋から南が3系統。飯田橋からお茶の水方向は大久保通りにつながり、本文のように13系統になりました。「電車の姿は無いが」という文章は本文通り。
 写真は(1)の昭和6年頃と同様、中央線飯田橋駅ホームから目白通り方向を撮影しています。2枚の写真は同じ本に掲載されていますが、下は少し画角が狭くなっています。上の写真の右側の鉄骨のようなものと、空中を横切るケーブルのようなものは後の写真には見えず、防鳥対策を含めて何かの工事をしていたのでしょう。また右下には花柄らしい車が歩道に停まっています。移動販売の車でしょうか。
 停留所の安全地帯(路面電車のホーム)ではゼブラ柄の台座から2mぐらいの高い柱があり、前面に「飯田橋」と読めます。
 街灯は昭和6年と同じように照明3個が街灯1つにまとめてついています。

  1. 交差点の向こうに商店街。看板は「つるや」が縦横2つと読めない「▢口▢▢▢▢」。
  2. 飯田橋のたもとに「光」
  3. 13系統(茅場町行)は「15」と「612」

(3)昭和43年(1968)8月24日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)

飯田橋交差点での出会い、⑮系統茅場町行きの3000形(右)と、⑬系統秋葉原駅前行きの4000形(左)飯田橋駅至近の飯田橋交差点は五差路になっていて、⑮系統の走る目白通りと、神楽坂から下ってきた⑬系統の走る大久保通り(飯田橋まで。当所から先の⑬は外堀通りを進む)が交差しており、さらに外堀通りを赤坂見附から走ってきた③系統(品川駅~飯田橋)の線路が、交差点手前で終点となっていた。信号や横断歩道も複雑なため、交差地点を取巻く井桁スタイルの歩道橋が巡らされ、歩行者が空中を歩く「大型交差点」として知られるようになった。写真はその建設開始の頃の模様で、正面のビルは東海銀行。JRの飯田橋駅には中央・総武緩行線しか停車しないが、現在は飯田橋駅周辺の道路地下や神田川の下には東京メトロ東西線・有楽町線・南北線、都営大江戸線の「飯田橋駅」が完成していて、巨大な地下鉄ジャンクションの1つとなっている。街の方も中小商工業の街から高層ビルが並ぶオフィス街に大変身している。
◎飯田橋 1968(昭和43)年8月24日 撮影:小川峯生

 手前に向かってくる15系統の都電は「茅場町」、マーク「15」と「週刊文春」、「3214」号、「乗降者優先」。一方、左奥から下ってきて13系統は「4041」号しかわかりません。
 ゼブラ柄の交通信号機は交差点の中央にあり、立て看板「飯田橋の花壇/一息いれて安全運転/牛込警察署」、その下にゼブラ柄の台座と脇に警察官。
 歩道橋は手すりは完成しておらず、橋台や橋脚も足場やシートがかかっています。
 歩道橋は最初は井桁スタイルではなく「士の字」形でした。井桁になるのは1978~79年です。

昭和44年 住宅地図

 店舗は左から……

  1. 東海銀行(時計と東海銀行、東[海]銀行、[T]OKAI BANK)
  2. 電柱看板「多加良」(旅館)
  3. [三平]酒造 商金
  4. パーマレディー。LADY
  5. サロンパス。[か]っぱ家
  6. 「銀行」
  7. [ミカワ薬品] アリナミン

(4)昭和43年(1968)8月24日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)

飯田橋交差点で信号待ちする目白通りの⑮系統高田馬場駅前行き2000形(右)と、大久保通りの⑬系統岩本町行きの8000形・4000形(左奥)
五差路の飯田橋交差点に見る都電風景である。撮影時には左側の信号の奥にここが終点の③系統品川駅行きの停留場もあった。鉄筋コンクリート仕様の本格的な歩道橋の工事が頭上で行われていた。国鉄飯田橋駅(当時)は画面の背後にあり。ホーム上からこのような展望が開けていた。
◎飯田橋 1968(昭和43)年8月24日 撮影:小川峯生

 目白通りの15系統高田馬場駅前行きで、「2009」号と「15」「小説読売」。13系統岩本町行きは大久保通りで発車中。

 店舗などは左から……

  1. きんし正宗◯
  2. [ご]らくえん
  3. 日本精[鉱]
  4. 三割安い
  5. (速度制限解除)(転回禁止)(駐車禁止)
  6. 電柱看板「飯田橋」「飯田橋」「多聞」
  7. (歩行者横断禁止)
  8. 電柱と(指定方向外進行禁止)
  9. 「科学と美味」
  10. 「話し方」「ス」
  11. 東海銀行(時計、東海銀行、TOKAI BANK)
  12. ゼブラ柄の交通信号機、立て看板「飯田橋の花壇/一息いれて安全運転/牛込警察署」、警察官
  13. 電柱広告「フクヤ」

(5)昭和43年9月28日 運転最終日 諸河久氏の「路面電車がみつめた50年前のTOKYO

自動車で輻輳する飯田橋交差点を走る15系統高田馬場駅前行きの都電。沿道の見物人はまばらで、寂しい運転最終日だった。飯田橋~大曲(撮影/諸河久 1968年9月28日)

路面電車がみつめた50年前のTOKYO  諸河久
https://dot.asahi.com/aera/photoarticle/2019070500023.html
 都電の背景に写っている横断歩道橋は1968年3月に設置されている。当時、総延長242mに及ぶ長大な歩道橋で、上野駅前や渋谷駅前の歩道橋と長さを競っていた。街の景観を阻害する歩道橋だが、撮影者にとっては都電撮影の格好の足場となった。筆者も歩道橋に上る階段の途中から、やや俯瞰した構図で都電を撮影することができた。

 これまでの写真とは逆に飯田橋駅の方向を撮影しています。「士の字」の歩道橋の左の階段から撮影しました。
 目白通りの15系統高田馬場駅前行きで、「2502」号と「15」「小説読売」。イースタン観光のバスが併走中。また、15系統の路面電車と水平にある線面は13系統のもの。
 本文では「横断歩道橋は1968年3月に設置」とありますが、(3)や(4)ではまだ工事中です。3月に歩道橋を架設し始め、9月に供用したというペースではなかったでしょうか。

 標識などは左から……

  1. (指定方向外進行禁止)8-20
  2. (帝都高速度交通営団)
  3. ガード下に「最高速度」
  4. (転回禁止)
  5. 「飯田橋駅」
  6. 奥の千代田区のビルに「ジ◯ース味」「林◯會◯」
  7. 右隅に「飯田橋」2枚

神楽坂よ、もう一度|昭和39年

文学と神楽坂

 くず勘一氏の「月刊金融ジャーナル」(金融ジャーナル社)『新・東京散歩』の「神楽坂よ、もう一度」(1964年)です。氏は随筆家で春秋社顧問、著書は「世界名作小説を中心とする文学の鑑賞 小説篇」「若き人々のための文学入門と鑑賞の手引」「文学の鑑賞」など。「金融ジャーナル」では連載『新・東京散歩』(「神楽坂よ、もう一度」のほかに「新宿」「お茶の水」「神田川から隅田川へ」「鎌倉」「池袋」「渋谷周辺」など)を執筆していました。没年は昭和57年6月25日。享年は80歳。

 飯田檎駅は、市ガ谷寄りのお堀端の水際にあった甲武線牛込駅が、関東大震災以後、水道橋寄りに改築されて面目一新し、出入口が二つ出来たために、そのころの評判小説、菊池寛の「心の日月」では、男と女の待合せ場所が、表口と裏口とになってしまい、飯田橋駅ニレジイが発生するというエピソードによって有名になった。今でこそ駅に出入口が二つあるのは少しも不思議ではないが、大正から昭和の始めごろの小駅の出入口は一つしか無かったのである。
 その飯田橋駅の長い廊下のような通路を抜けて、牛込見付のほうへ出てみると、山の手唯一の繁華街であった神楽坂は、この路の一直線上にある。明治・大正のころから神楽坂は、情緒たっぷりな市民の憩いの場であったが、大正十二年の関東大震災で下町を失ってからは、いっそう拍車がかかって、春や夏の宵など、夜店のアセチレン灯の光に映えた町全体は、まるで極彩色の錦絵を眺めるような風情ふぜいがあった。夢二の絵が、もてはやされた時代である。少年たちの瞳は、アセチレンの灯になまめく芸妓たちの褄先つまさきや白い素足におどおどと吸い寄せられたものである。
甲武線 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
心の日月 菊池寛。大日本雄弁会講談社。初版は昭和6年。皆川麗子には親が決めた結婚相手がいるが、嫌悪感は強く、同じ岡山県の学生磯村晃と飯田橋駅で待合せをする。しかし、麗子は飯田橋の改札口、磯村は神楽坂の改札口で待っていたので、数時間後も会えなかった。麗子は丸ビルで中田商事の青年社長の秘書として働くが、社長の妻からは退職するよう言われる。その後、中田社長は離婚する。また麗子は磯村と話し合い、磯村は中田の妹を愛しているので、心の友達として会いたいと答える。最後は麗子は中田社長の勧めで、音楽学校に入ることになる。
ニレジイ フランス語L’élégie。英語ではelegy。悲歌、哀歌、挽歌。
飯田橋駅の長い廊下のような通路 かつての通路。

アセチレン灯 炭化カルシウムCaC2と水を反応させ、発生したアセチレンを燃焼させるランプ。硫黄化合物などの不純物を含むため、特有のにおいがある。
錦絵 にしきえ。浮世絵版画で、多色ずりの木版画
艶めく なまめく。つやめく。異性の心を誘うような色っぽさが感じられる。また、あだっぽいふるまいをする。
褄先  着物の褄の先端。

 久しぶりに牛込見付の石崖近くに立って私は暮れなずむ神楽坂の灯を眺めた。法政大・物理大の学生の人並で押しつぶされそうである。石崖につづくお堀の上の土手に、戦前は「この土手に登るべからず警視庁」という、いかめしい制札が建っていて、これが現代俳句の濫觴らんしょうだなどと私たちは皮肉ったものである。その土手に、今では散歩道がついて、学生たちの気取った散歩姿が見られる。土手の登りぎわにある煤けた白亜の逓信博物館の、煤けた白亜に捨て難い風情がある。しかし、情緒・風情などの言葉は既に死語といえそうだ。戦争直後の廃墟のようなただ、、に過ぎなかった神楽坂も、幅広い歩道が完成し、老舗しにせの灯も復活した今は、どうやら生気が甦ったようである。
制札 せいさつ。禁令の個条を記し,路傍や寺社の門前・境内などに立てる札。
濫觴 らんしょう。ものごとの始まりや起源を指すことば
煤けた すすける。すすがついて黒く汚れる。
逓信博物館 京橋区木挽町に逓信省庁舎にあった「郵便博物館」から、大正11年、東京市麹町区富士見町二丁目の建物に移転し「逓信博物館」と改称。1964年(昭和39年)、千代田区大手町の逓信ビルに移転。

 坂の中途の左側に、文人墨客の溜り場であった名物屋という珈琲パーラーがあり、中国の詩人コーエイの若き日の姿も、この辺で見られたものである。その右手の亀井鮨に「そっと握ったその手の中に君の知らない味がある」という平山芦江ろこうの筆になる扁額がかかっていたが、今はどうなったか。さらに四、五軒上には、牛込会館という、一種の貨演芸場があり、私たちは、水谷八重子(井上正夫共演)の「大尉の娘」に涙を流し、「ドモ又の死」や「人形の家」や「青い鳥」などでりきんだり興奮したりして″新時代″を感じたものである。その牛込会館の下は、美容院になり、上は何かの事務所か貸室になっているようであった。神楽坂を登り切ったところ、左ヘ曲がると、三語楼金語楼が活躍した神楽坂演芸場があったが、今は、さむざむと自動車の駐車場か何かの空地になっていた。左側の本多横町の角から三軒目かに山本コーヒー店があり、一杯五銭の渋いコーヒーと、外国航路船の浮袋のようにふとく大きいドーナツが呼びものであった。日本髪で和服の可憐な娘さんが、カウンターにいて、学生たちは胸をときめかしたはずだが、さて、山の彼方の空は、そのころは、いっそう遠かった——のである。
文人墨客 文人と墨客。詩文・書画などの風雅の道に携わる人
名物屋 不明です。新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では昭和5年ごろ、亀井すしの坂下南では「カフェ神養軒」「はりまや喫茶」「白十字喫茶」しかありません。
コーエイ 詳細は不明。コーエーとも。大正末期から昭和初期にかけて日本語で詩を書いた詩人。
平山芦江 小説家・随筆家。花柳ものが得意で、都々逸の作詞、随筆を残した。第一次『大衆文芸』を創刊。小説『唐人船』『西南戦争』など。生年は明治15年11月15日、没年は昭和28年4月18日。享年は70歳。
扁額 へんがく。室内や門戸にかかげる横に長い額。
大尉の娘 ロシアの詩人プーシキンの完成された唯一の中編歴史小説。1836年に発表。僻遠の地キルギスの要塞に赴任した少尉補グリニョフとミロノフ大尉の娘マリヤとの恋を、プガチョフの叛乱を背景に描く。
ドモ又の死 有島武郎の作品。大正11年(1922)に発表。若い画家5人は1人(ドモ又)を天才として死亡させるが、実は死亡するのは石膏の面で、ドモ又はドモ又の弟となり、モデル(とも子)と結婚する。そして、悪ブローカーやえせ美術愛好家から金をとろうとしている。
人形の家 1879年、ヘンリック・イプセンの戯曲。弁護士の妻ノラは借金のことで夫になじられ、人形のような妻であったことを悟り,夫も子供も捨てて家をとび出す。
青い鳥 モーリス・メーテルリンク作の童話劇。1908年発表。チルチルとミチルは幸福の青い鳥を探しに行く。
美容院 マーサ美容室です。
山の彼方の空 上田敏氏の『海潮音』「山のあなた」からきています。「山のあなたになお遠く「幸」さいわい 住むと人のいう」。詩では「幸福」ですが、ここでは「恋愛」を指すのでしょう。

 その先の沙門天しゃもんてんをまつる善国寺のお隣りには、山の手の洋食の味を誇った田原屋があり、晩年の鷲尾雨工は、この店の酒と料理と雰囲気とを、こよなく愛していたようだ。同じ側に五十鈴といった甘い物屋と鮒忠という鳥料理屋があるが、これは、いずれも戦後派である。その角を左へ、急坂を少し登ると、今はアパートか何かになっているが、山の手の洋画封切場として偉容を誇る牛込館があった。徳川夢声の前のインテリ弁士といわれた藤浪無鳴がここに拠り、やがて夢声も、つづいて奇声と頓才で売出した大辻司郎が、右手を符の上へ突込んで銀幕の前へ、のこのこと現われて大喝采を博した懐しい大正時代。さらに、その以前、隣り上の下宿屋には、宇野浩二広津和郎などの若い文士たちが、とぐろを巻いていたものである。さらに大昔、藁店わらだなといったこのあたりは、由井正雪何何剣客のゆかりの地でもあったらしい。
封切 ふうきり。ふうぎり。封を切る。開封する。(近世、小説本は袋に入れられ発売した)新版の本。新作映画をはじめて上映して一般に見せること。一番館。
藤浪無鳴 活動写真弁士(無声映画の説明者)の1人。映画会社の翻訳を行い、のちに活動弁士になり、初めは浅草の金竜館、のちに新宿の武蔵野館の主任弁士を務めた。徳川無声の兄分で、2人で大正六年三月に帝国劇場でトマス・インス監督の大作映画「シヴィリゼーション」で弁士を行っている。また大日本映画協会を主宰しヨーロッパ映画の輸入に携わった。生年は明治20年8月4日。没年は昭和20年6月11年。享年は59歳。
大辻司郎 漫談家。活動写真弁士。兜町の株屋から弁士に転向し、「胸に一物、手に荷物」「海に近い海岸を」「勝手知ったる他人の家へ」「落つる涙を小脇にかかえ」などという「迷説明」など珍妙な台詞で有名になった。頭のてっぺんから出る奇声とオカッパ頭も有名。昭和27年、日航機もく星号の伊豆大島三原山の墜落事故で遭難死。生年は明治29年8月5日。没年は昭和27年4月9日。享年は55歳。
下宿屋 みやこ館です
とぐろを巻く 蛇などが渦巻状に巻いてわだかまっている。何人かの人が、ある場所に集まって長時間いる。腰を落ちつけて動かなくなる。
何何 不定称。不定の人や物事についていう。あれこれ。

 新宿―水天宮間の都電通りへ出る少し手前の左側に、紅屋という二階建の洋菓子店があり、高級な甘党を喜ばせていた。三階に、東京でも嚆矢といわれるダンスホールがあったが、いつの間にか消え失せ、その後はもっばら味の店としてさかっていた。そのころ一週間に二、三回は必ず二階の隅の卓に、小柄で白髪童顔の老紳士が、コーヒーを喫しながら何かを読んでいるのにぷつかったものだ。その老紳士秋田雨雀に、私は、ここで知り合いになった。
都電通り 現在の大久保通り。
嚆矢 こうし。何かの先がけとなるもの。物事の初め。最初。やじりにかぶらを用いていて、射ると音をたてる矢。昔、中国で、戦争の初めにかぶら矢を射たところから。

 都電通りを渡って、四、五軒目のパン屋通りを左へ入ると、カフエ・プランタンがあった。大麗災で下町を追われたダンディたちのメッカであったカフエ・プランタン。しかし私には、その薄暗い客席が、どうしても馴染なじめなかった。今でこそ町名の区別がなくなったが、この辺は、もととおてらといい、少し横へ曲れば、横寺町になり、飯塚というとぶろく、、、、屋があり、その先の路次の奥に松井須磨子のくびれ死んだ芸術倶楽部があった、ひところは倉庫のようになっていて、子供たちの遊び場であったことを覚えている。今は、もうその場所跡すら誰も知らない。記憶の中に溶けこんでしまっているようだ。この通りを少し歩いた左側に明冶の文豪尾崎紅葉の住んでいた古びた二階家と庭木が、戦争前までは残っていたが、新しい世代には関係のない絵空事とでもいおうか。
 今、この通り寺町(矢来から江戸川方面と早稲田、高冊馬場通りへつづく)は、地下鉄工事でバスなどは一方交通になっているが、ここから神楽坂へかけては、散歩道としても全くよい環境であったのだ。右側にある神楽坂武蔵野館という映画館は、文明館といって、神田の錦輝館とともに東京の映画館の草分けの一つでもあった。
 その隣りに南北社という本屋があり四六判型の「日本」という珍らしい大衆総合雑誌を発行していた。
 昭和の始めごろだったろうか。夜店のバナナの叩き売りとは違う青年のかけ声が聞こえるので、人混みをかきわけて覗いてみると、白皙長髪の青年たちが、部厚い原稿用紙の束をり売りしているのであった。つまり印刷工程を経ていないなまの小説なのである。こういう時代もあったのだ。青年たちの一人は、新しい小説家の金子洋文であった。
錦輝館 きんきかん、1891年10月9日、開業し、1918年8月19日に焼失。多目的会場。明治30年、東京でバイタスコープ(トマス・エジソンが発明したアメリカ最初の活動写真)の初めての映画があった。
白皙 はくせき。皮膚の色の白いこと
金子洋文 かねこようぶん。小説家、劇作家。武者小路実篤に師事。労農芸術家連盟を結成。昭和22年、社会党の参院議員を一期務めた。創作集「地獄」「鷗」「白い未亡人」、戯曲集「投げ棄てられた指輪」「飛ぶ唄」「狐」「菊あかり」など。生年は明治27年4月8日。没年は昭和60年3月21日。享年は91歳。

 通り寺町をまっすぐ通り抜けると矢来下に出る。その先が江戸川橋、左へ折れて早稲田へつづくが、矢来下の交番の横手に水守亀之助の家があり、小川未明もこの近所に住んでいて、娘さんの大きな澄んだ眼が印象的だった。矢来通りには東洋経済新報社もあったと思うが、古道具屋が多く「カーネギー曰く、多くの不用品を貯えんよりは有用の一品を求めよ」と大書した看板の店があった。その頃は古道具屋をあさるほどの身分でもなかったから、どんな有用な品があったか知らないが、古道具屋とカーネギーの取り合わせが珍らしく、この店はあまりはやらないのだろうと思ったりした。悠長な時代であった。
 矢来下から引返してだらだら坂を上り、右にそれると新潮社の通りだ。滝沢修が近くに住んでいた。今でも新潮社通いの文士達を時たま見かける。
(筆者は随筆家)

江戸川橋 神田川中流で目白通りの橋。場所は文京区関口一丁目。
水守亀之助 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の猿山峯子氏の「大正期の牛込在住文筆家小伝」では、大正11~14年、矢来町3番地中ノ丸2号に住んでいました。昭和3年は矢来町66番地でした(下図)。「ラ・カグ」のあたりです。さらに、昭和6年は弁天町60でしたが、戦災で焼失し、終戦直後は世田谷に疎開したと、地元の人の調査で。概略は明治40年、田山花袋に入門。大正8年(1919年)中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。編集者生活の傍ら『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と合わせて新潮三羽烏といったようです。生年は明治19年(1886年)6月22日。没年は昭和33年(1958年)12月15日。享年は72歳。

昭和5年 牛込区全図 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』昭和57年から


小川未明 同じく、大正5~6年には矢来町38番地に住んでいました。
カーネギー 実業家。カーネギー鉄鋼会社を創業。スコットランドで生まれ、1848年には両親と共にアメリカに移住。
だらだら坂 矢来通りに相当します。
新潮社の通り 牛込中央通りです。
滝沢修 俳優、演出家。開成中学を卒業後、1924年築地小劇場に入る。昭和22年、宇野重吉らと劇団民藝を創設。映画・テレビドラマへの出演も多い。生年は明治39年(1906年)11月13日、没年は平成12年(2000年)6月22日。享年は93歳。

赤城神社(写真)昭和50-51年 ID 9899‐9901

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9899、ID 9900、ID 9901は昭和50-51年頃、赤城神社からの眺めを撮っています。天気は曇りで、遠くがよく見えません。トタン屋根が光っているので、雨上がりかもしれません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9899 赤城神社からの眺め

 ID 9899で目立つのは、中央にある「大日本印刷」の広告です。左手前には電柱から街灯がつき出していて、その街灯は消えていません。この下に道路があるのでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9900 赤城神社からの眺め

 ID 9900では、左端の石柱に「大正十一(年)」と彫られています。その右のビルの塔屋に「はいばら」の広告看板。煙突が何本かあり、右には「竹の湯」とあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9901 赤城神社からの眺め

 ID 9901は、少し引いた位置からの撮影です。石柱は屋根つきで、門灯のようなデザインです。「竹の湯」の煙突も確認できます。遠くの集合住宅の上には広告がありますが「日本火災」以外は読めません。
 さて以上です。撮影場所の特定は難しい。ところがわかりました。

ID 9899は赤城神社から西に、ID 9900とID 9901は北西で撮りました。

 赤城神社から西の方角に「大日本印刷㈱榎町工場」、北西に「竹の湯」があります。屋根つきの石柱は赤城神社北参道の門柱です。北参道から境内に入ったところ、鳥居の下あたりから撮影したのでしょう。

TV「気まぐれ本格派」29 神社の恋の物語 1978年

赤城神社(写真)鳥居 令和元年 ID 13302

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13302は令和元年(2019年)5月、赤城神社鳥居を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13302 赤城神社鳥居

 鳥居は「いちの鳥居」(神社の境内に入って最初の鳥居)で、中央に神額しんがく(鳥居等の高い位置に掲げたがく)として「赤城神社」が書かれ、左には社号しゃごうひょう(入口に石柱などの神社名)として「赤城神社」があります。昭和44年のID 8298にあった玉垣はなくなり、鳥居も二回りほど大きくなって道路ギリギリに立っています。これから参道が続きます。
 鳥居の前の左側には立て看板2つがありますが、「あかぎカフェ」の広告でしょうか、しかし読めません。右側には掲示板があり、「御大礼」以外は読めません。大礼たいれいとは冠婚葬祭などの最も重要な礼式です。この年の5月1日に今上天皇が即位されましたが、これでしょうか。
 境内けいだいには巨大な広葉樹があり、両側には春日灯籠、遠くに創作した灯籠があります。

灯籠

 社殿などの境内は建築家のくまけん氏が設計したもので、平成22年(2010年)に完成しました。立木の奥に見える縦縞の建物は地上6階・地下1階のマンション「パークコート神楽坂」で、これも隈氏の設計です。赤城幼稚園の跡地を中心に境内の東側に建てられました。
 鳥居の前はT型の三叉路で、女性がスマホで鳥居や社号標を撮影しています。
 後は左から……

  1. コンビニ「[LA]WSON」
  2. 道路標識 道路標識 横断歩道(横断歩道)
  3. 電柱とカーブミラー
  4. 赤城神社
  5. 道路標識 (車両進入禁止)
  6. シャッターは閉店
  7. 味色海鮮 駒寿司

赤城神社(写真)拝殿と赤城会館 昭和50-51年 ID9902 ID9903 ID9904

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9902、ID 9903、ID 9904は昭和50-51年頃、赤城神社を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9902 赤城神社

 赤城神社の拝殿を正面から撮りました。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、いり母屋もやづくり風で破風が正面を向いています。これは権現ごんげんづくりと呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。鈴緒すずおは賽銭箱に向かって垂れています。表柱(向拝こうはいばしら)は4本見え、回廊の欄干にはぼうしゅの飾りがあります。
 狛犬は一対で、その台座に改代かいたいの銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
 右端に金網フェンスがあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9903 赤城神社

 右から赤城神社の拝殿、おそらく杉1本、赤城会館です。赤城会館には左どもえ紋()がつけられています。会館は結婚式などを行っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9904 赤城神社

 右から赤城会館、しょうちゅうの台座、鳥居、下に行く北参道。「昭忠」とは忠義を明らかにすること。日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫、しかし、平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。かわって赤城出世稲荷神社・八耳神社・葵神社という3神社が建立。

TV「気まぐれ本格派」 29 神社の恋の物語、1977年

住宅地図 1976年

赤城神社(写真)鳥居 ID 8298 ID 14161 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8298とID 14161は「赤城神社」を「昭和44年頃か」に撮ったと備考で書かれています。この2枚の写真は人間がわずかに違うだけで、連続して撮影したものでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8298 赤城神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14161 赤城神社境内

 ID 8293とよく似ていますが、相違点があります。
 第一に、左の玉垣の一部がないことです。ID 8293をよく見ると、玉垣の上部に黒い筋があります。この位置で計画的に除却したのか、あるいは継ぎ目が割れて外れたのか、分かりません。
 第二に、このID 8298は好天で、建物の影が出ていることです。また境内の駐車車両も違っており、別の日の撮影と推測できます。
 それ以外はよく似ています。看板は「昭和四十五年度園児募集」、写っている人もコート姿や厚着で、季節は冬です。ちなみにID 389とID 390は昭和44年12月でした。
 では、左から見ておきます。

  1. 自動車と箱を抱えた男性
  2. 外灯
  3. 玉垣。何本か抜けている。
  4. ポスター「赤城ラジオ体操◯」
  5. 2階建ての民家
  6. 高札様の看板「赤城幼稚園」「11月1日◯◯◯◯◯◯/昭和45年度 園児募集/公認 赤城幼稚園」
  7. 神門に「赤城神社」
  8. 鳥居
  9. 自動車と自転車
  10. アーチ型(⨅)の車止め、赤城神社拝殿
  11. 母と子供1人
  12. 民家
  13. 玉垣、外灯、社号しゃごうひょうの「赤城神社」、自動車通行止、背の高い電柱、高札様の看板「結婚式場 赤城会館」、背の低い電柱
  14. 屋根付きの屋外掲示板
  15. 参道沿いの民家
  16. 3-4階建てのビル(東京都教育会館、現・東京都教育庁 神楽坂庁舎

路面電車(写真)飯田橋駅 第3系統 昭和27年 昭和40年 昭和42年

文学と神楽坂

 路面電車の飯田橋駅は第3系統、第13系統、第15系統が走っていました。第3系統は「外濠線」とも呼ばれ、品川駅前から飯田橋駅までを走行しました。ここでは第3系統の飯田橋駅を3つ見てみます。昭和27年、昭和40年、昭和42年です。

(1)昭和27年

林順信「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)

 ここは飯田橋交差点、五差路で車の往来しげく、真ん中にロータリーを置く。品川駅と飯田橋とを結ぶ③番の折り返し点である。右側は水道局の神楽河岸出張所、その前に薬の広告のある小さな塔は、高圧線の変圧器でそばを通ると「ブーン」とうなっていた。電車には英語で、「停車中追越時速8粁以下」の注意書きがある。

 この当時の飯田橋交差点はロータリー式でした。ロータリーとは「交通整理のための円形地帯」(大辞林)で、ゼブラ柄の模様で囲まれています。写真では複数の円形地帯が見えます。昭和22年の航空写真だと、ロータリーが2つ重なったような構造が分かります。
 円形地帯を貫いているのは、おそらく路面電車の軌道です。手間のかかる軌道移設工事まではしなかったのでしょう。飯田橋交差点は昭和28年に普通の五差路になりました。
 このロータリーの1つには大きな看板で「◯◯立入るな」か、あるいは「◯◯来る」と縦書きで書かれています。

地図院地図 昭和22年12月20日(USA-M698-99)

 写真に戻ると、路面電車の運転手がしゃがんでタバコを吸い、前には横断歩道があります。停留所はロータリーと同様なゼブラ柄で安全地帯になっていて、「KEEP LEFT/左側通行」と書かれています。英文が大きく書かれたのは占領下の名残でしょう。安全地帯からは四本足の柱が立ち上がり、上部には行灯のような時計が設置してあります。
 700形の路面電車の方向幕は「品川駅」とあり、乗客が数人、電車内で出発を待っています。車両の側面には「クラブ/◯◯」などの広告があります。
 右端に見えるのは東京都水道局の事務所で、飯田壕再開発の直前まで使われていました。建物の前の歩道には「小児せき」という薬の広告があります。

神戸市電の700形 都電の700形はありませんでした。

(2)昭和40年

諸河久「路面電車がみつめた50年」(天夢人、2023)

飯田橋交差点南西側から撮影した飯田橋停留所に停車する3系統品川駅前行きの都電。外濠通りは道幅が狭く、頻繁に渋滞が発生した。都電の後に老舗酒問屋「升本総本店」の土蔵が見える。(1965年9月12日撮影)
水運で栄えた神楽河岸(かぐらがし)の街並み
 上のカットは飯田橋交差点の南西側から外濠通りを撮影したーコマで、飯田橋停留所で品川駅前への折り返しを待つ3系統の都電にカメラを向けた。3系統は700型の独壇場だったが、1965年秋頃から旧杉並線用の2000型に置換えられていった。
 画面右側の「クララ劇場」や左方向の牛込見付にある「佳作座」が「特選洋画を大衆料金で」のフレーズによる100円均一映画館として、近隣の法政大学、理科大学の学生に親しまれていた。撮影時にはホラー映画「妖女ゴーゴン」(イギリス映画/1965年7月公開)が上映中たった。

 これは右から見ていきます。

  1. クララ劇場 特選洋画を大衆料金で 100円均一
  2. 消火栓 セントラルホテル
  3. 電柱広告「外科」
  4. 路面電車「品川駅」➂ 三菱◯◯◯ 2017 乗降者優先
  5. ◯◯家具十ヶ(丸吉家具洋装店)
  6. (松本)自動車株式会社
  7. 遠くの垣根の上に「升本総本店」
  8. 銀嶺会館(5階建て)

住宅地図。1962年。

【参考】第15系統の車体の色。これも2000形です。

当時の第15系統。J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年

(3)昭和42年

三好好三「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」(学研パブリッシング、2010年)

飯田橋交差点 外堀通りを赤坂見附、四谷見附、市ヶ谷見附と走ってきた3系統の終点で、前方の目白通りを行く路線への線路が切られていた。右が飯田橋駅、左が神楽坂方面だが、外堀通りは比較的閑静で、都電の利用客も少なかった。この地点は現在ビルが林立し、オフィス街になっている。◎昭和42年12月7日 撮影:荻原二郎

中央から左下に行くのが第3系統 吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)

 東京都交通局の東京都電アーカイブ③(3系統 品川駅前~飯田橋)と比較しながら見ていきます。

  1. 道路標識(指定方向外進行禁止)
  2. 小学館の百科(事典)
  3. 電柱に「飯田橋」(交差点名標示か)
  4. 路面電車の停留所で駅名標「飯田橋」広告「日本電子計算学院」上部に時計
  5. 東海銀行
  6. 酒は黄桜 きざくら 三平酒造 カッパの絵
  7. パーマレヂィー
  8. 路面電車 品川駅 ➂ 週刊文春 2015 乗降者優先
  9. 稲葉工業(建築中のビル)
  10. 田中土建(建築中のビル)
  11. ゼブラ柄の信号機

赤城神社(写真)昭和26-30年 ID 6869、6890

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6869とID 6870は、1945-55年(昭和20-30年)に、赤城神社で七五三のお祝いを撮ったものです。
 赤城神社は昭和20年4月13日、戦災で全てなくなりましたが、本殿は昭和26年に再建。拝殿などの再建は昭和34年なので、この撮影は拝殿の再建前の出来事でした。赤城神社の七五三は他にもID 388があり、こちらは昭和28年11月に撮影しています。この写真2枚(ID 6869とID 6870)も同じく昭和28年11月に撮影した可能性があります。

(1)ID 6869 七五三詣り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6869 赤城神社(七五三)

 正面で神職が向き合っているのが再建した本殿です。本殿にはすだれ(和風カーテン)、おそなえ、三宝さんぽう(お供えを盛る台)と高坏たかつき金襴きんらんの布などが並び、回廊にはぼうしゅの飾りがあります。神職の左右はさかきの枝です。
 その前に神主が座り、さらに手前に七五三詣りの家族たちが並んで座っています。これは仮設の拝殿であり、木造がわかる安普請であり、天井からは裸電球が下がっています。柱の前には賽銭箱が置かれ、通常はここで参拝するのでしょう。この仮拝殿はID 388でも確認できます。右の手前には母親の手を握る子供もいて、早く見たいといっているようです。
 高札こうさつ様の看板(屋根付きの看板)では「復興瓦奉納受付/御奇篤の方は復興計画中の拝殿の/瓦を御寄進願います/御氏名記入の上葺上げます/1枚金五拾圓」、下には「富◯冩眞舘で/神楽坂五ノ三二」。左の立て看板は「七五三お祝いの方は/とう料を添へて/受付之お申出で/下さい」。「ふきげ」は 屋根を仕上げることです。

(2)ID 6869 露店

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6870赤城神社(七五三)

 石敷の参道の左右に露店が連なっています。参道の奥の仮設拝殿の屋根の下に参拝者が並んでいます。参道の左右に狛犬。右の台座は「改代かいたい町」と読むのは、ID 389と同じです。
 右の狛犬の背には鉄製の天水桶てんすいおけが見えます。また、左の狛犬のやや左上に石碑がありそうで、茂みから頭をのぞかせています。昭忠碑と同時期にあった少し低い石碑かもしれません。
 写真の右端に小さな鳥居があり、参道が分かれています。その先には出世稲荷神社があります。
 露店では香具師やしがさまざまなものを売っています。右手前の黒い服の人は風船、その次の白い服の人はおそらく菓子、その次は千歳飴の屋台です。さら奥に見える壺は甘酒売りでしょうか。左手前は刀や人形などのおもちゃを並べ、奥にも露店が続きます。風船の影はまるで「日の丸」のようです。
 参道には親子連れなどが行き交い、振袖と髪飾りをつけた女の子もいます。
 左奥は木造の簡素な民家が並びます。その前の枯れたような木は「巨大なやけぼっくいになった大銀杏」でしょうか。さらに左に行けば赤城下町へ下る北参道の階段があるはずですが、この写真には写っていません。

住宅地図。1965年

赤城神社(写真)拝殿と鳥居 昭和44年 ID 389-90、8262、8292-93

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」でID 389は「昭和44年(1969年)12月」に「赤城神社本殿」を撮り、ID 390は「同年12月」「赤城神社」を、ID 8262は「昭和44年頃か」と疑っていて「赤城神社(改代町の狛犬)」を、ID 8292とID 8293は「昭和44年頃か」「赤城神社」を撮ったと備考で書かれています。
 戦後の1951年(昭和26年)、本殿を再建し、さらに1959年(昭和34年)、鉄筋コンクリートで拝殿などを再建しています。

(1)赤城神社拝殿

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 389 赤城神社本殿

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8262 赤城神社(改代町の狛犬)

 ID 389とID 8262は、いずれも赤城神社の拝殿を正面から撮っています。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、いり母屋もやづくり風で破風が正面を向いています。これは権現ごんげんづくりと呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。垂木飾りがあり、鈴緒すずおが左どもえ)の賽銭箱に向かって垂れています()。表柱(向拝こうはいばしら)は4本見え、回廊の欄干にはぼうしゅの飾りがあります。
 狛犬は一対で、その台座に改代かいたいの銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
 向かって左の建物の看板には「館」が見えます。これは結婚式場の赤城会館でした。右は同様に社務所と、その奥は赤城幼稚園のようです。赤城幼稚園は1950年頃に開園し、2009年に閉園しました。
 赤城会館、赤城幼稚園とも(3)赤城神社の遠景に案内看板が出ています。
 ID 8262では右の手前に金網フェンスがあります。

住宅地図 1978年 赤城神社付近

(2)神門と鳥居

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 390 赤城神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8293 赤城神社

 門(神社なので神門と呼ぶそうです)の直前から内部への写真を撮っています。左側の玉垣に「赤城神社」、右側は無地の玉垣で、高札様の看板(屋根付きの看板)「赤城(会館)」と看板「之より境内につき 神社関係以外の 自動車通行止」と門灯があり、次に大きな社号しゃごうひょう(神社名を建てたもの)の「赤城神(社)」です。参道を進むと、左手にドラム缶数個と二輪手押し車1台、砂1山があります。
 鳥居はID 388で遠くに見えていて、おそらく戦前からあるものです。鳥居のせきの「通寺町」は現在の「神楽坂6丁目」です。左側には民家があり、舞踊などを教える「教授」、読めない看板と自動車1台があります。右側にも民家があります。
 さらに進むとアーチ型(⨅)の車止めが参道の中央に置かれ、その右側には「駐車禁止」と書かれ、また幹巻きを行っている木も数本あります。

(3)赤城神社の遠景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8292 赤城神社

 さらに赤城神社から遠くなります。左から。

  1. 電柱看板に「三共グラビヤ印刷 株式会社/グラビヤ印刷/神社鳥居前/赤城元町」
  2. 自家用車、婦人2人
  3. (駐車禁止)8-20  (終わり)
  4. 男性2人
  5. 外灯
  6. 玉垣
  7. ポスター「赤城 ラジオ体操」
  8. 高札様の看板「公認 赤城幼稚園」「11月1日 昭和45年度 園児募集/公認 赤城幼稚園」。神門に「赤城神社」
  9. 母と娘1人(スカートをはいている)
  10. 鳥居と自動車1台、アーチ型(⨅)の車止め、男性1人。
  11. 赤城(神社)、外灯、自動車通行止、高札様の看板の「結婚式場/赤城会館」
  12. バイク2台
  13. 看板「御婚礼 御衣裳 東衣◯◯」
  14. 看板「キッチン  トップ」テントで「キッチン  トップ」
  15. 看板「駒」

住宅地図 1965年。赤丸の上はID 389とID 8262、真ん中はID 390とID 8293、下はID 8292。

赤城神社(写真)入り口付近 昭和28年 ID 388

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 388は、昭和28年11月に、赤城神社の入り口付近を撮った写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 388 赤城神社入口付近

 左に石の社号しゃごうひょう(神社名を石柱などに刻んで建てたもの)の「赤城神社」、右に看板「赤城神社御造営作事場」があります。「造営」とは神社・寺院・宮殿などを建てることで、「作事場」とは土木建築の仕事場や 工事現場のこと。赤城神社のウェブサイトによると…。

 残念なことに、その立派なお社も昭和20年4月13日夕刻の戦災により、ことごとく焼失してしまいました。
 終戦後、昭和23年より復興の計画を立て昭和26年10月16日には本殿を竣功、最終的に拝殿、幣殿ができあがったのは、復興計画から10有余年を経た昭和34年5月でした。

 つまり、この撮影の時は戦災からの再建途上で、本殿はあっても拝殿はまたできていません。参道の右奥のトラックも工事のためでしょうか。
 社号標の手前は側溝をはさんで道路がありますが、よく見ると現在の神楽坂の路地のようにピンコロ石を扇状に並べた石畳でした。
 参道は未舗装で、鳥居の跡にせきがあります。後に鳥居は写真より奥まった位置に再建され、社号標も別のものになりました。
 参道の両脇は民家のようです。右の電柱の看板は「赤城〇〇建設中」と読めますが、詳細は不明です。左にはいかにも昔の自動車が停まっています。
 左に5角形の板「赤城〇〇」があり、正面奥には中鳥居、その奥に本殿が見えます。中鳥居の奥にはガーデンパラソルが見え、何かを売っているようです。
 参道には晴着姿の親子連れが目立ち、七五三の参拝客でしょう。1人の女の子は洋服と千歳ちとせあめを持ち、もう1人の女の子は着物と帯を着て、隣の母親でしょうか、千歳飴を持っています。ID 388の説明は11月ですが、おそらく11月15日頃です。

JR飯田橋駅(写真)令和4年 ID 17577

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17577は令和4年(2022年)10月、JR飯田橋駅西口を撮った写真です。JR東日本は2015年8月から飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設する等の改良工事を始めました。この西口駅舎も一旦取り壊し、そして、令和2年(2020年)7月12日(日)、リニューアルオープンし、それから2年後の写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17577 JR飯田橋駅

 駅舎西口の中央に大きく「JR飯田橋駅」(JR東日本 Iidabashi Station)と書かれています。10〜11段の階段もできました(以前の西口は下図に)。
 西口駅舎の正面が3階(西口コンコース階)、上は4階(西口テラス階)、そこから下ったホームが2階(ホーム階)、東口は1階(東口コンコース階)です。4階にある「エキュートエディション(Ecute EDITION)」とは、主に駅ナカのコンビニを展開しているJR東日本の子会社です。上階のプレッセ飯田橋デリマーケット(Precce Iidabashi DELI MARKET)は2023年1月31日に閉店しました。3階にあった「GODIVA café Iidabashi」は営業中です。「◯ie Bufre Boulangerie Re◯」は「NewDays エキュートエディション 飯田橋西口」に変わりました。
 構内に出ている立て看板の文字は小さく、中身はよく見えません。
 この2022年では、コロナウイルスが猛威を振るい、通勤客等の人々は全員マスクをつけています。また、ロシアがウクライナを奪おうとして戦争を始めたのは同年2月のことでした。
 駅舎前には歩行者空間や植栽を用意し、写真では見えませんが、右手に身障者のスロープもあります。
 後ろにある巨大な建物はプラウドタワー千代田富士見で、その右はクラッシィハウス千代田富士見で、どちらもマンションです。

あぢさゐ供養頌

文学と神楽坂

 村松定孝氏の「あぢさゐ供養頌 わが泉鏡花」(新潮社、1988年)からです。これは泉鏡花氏は尾崎紅葉氏から叱咤を受けた明治36年の1年前の出来事で、これも叱咤の様子です。村松氏は寺木定芳氏から話を聞きました。

 それは明治三十五年の夏のことで、寺木定芳が牛込南榎町に鏡花を訪ね、入門してから二年ほどが経っていた。定芳は毎日のように学校の帰りには師の家に上りこんで、夕刻までの一と時を過すのだが、格別、小説を書いて見て貰うわけでもなかった。そんなかれを鏡花は気楽にあしらって、漫然と雑談の聞き役になってくれ、弟子のほうは、ただ師と対面し文字どおり謦咳に接していれば満足であった。先生が原稿執筆に余念ないときは、二階の書斎へ行くのを遠慮して、弟の斜汀(本名豊春、やはり作家志望だったので、紅葉が鏡花の舎弟なるを洒落れて、こういう雅号をさずけた)と将棋をさしたり、八十余歳の祖母きて、、の肩を揉んであげたりした。そんな風で三人暮しの泉家に一枚加わった家族同然の日が続いていた。さて、その年の暑いさかりだけ、逗子で一軒を借りて、当時一般に流行はやり出した避暑なるものをきめこもうという鏡花の計画に、一も二もなく定芳は賛同した。
 鏡花が逗子の地を選んだのは、紅葉に入門する前に、鎌倉のみだれ、、、妙長寺に下宿したこともあって、あの辺は思い出深いし、一夏を空気の佳い場所で、新鮮な野菜を喰べたりすれば、持病の慢性胃腸疾患も快癒するかもしれないという一縷の望みもあってのことだった。
 幸い七、八月は学校が休みだし、海にちかい涼しい場所で一夏を師匠と起居を倶にすることができるとなれば快適この上ない。避暑の一行は、七月のなかばを過ぎてから逗子へ乗り込むこととなった。これを耳にした神田の或る商店の娘さんで、服部てる、、子というのが、ぜひ自分も、参加さして下さい、台所のご用一切はひきうけますとの健気けなげ申し出があり、女手ができて好都合ということになった。彼女は不幸な二十四、五歳の出もどりだが、大の鏡花ファンで、ときどき泉家に出入りしていたから定芳も知らぬ仲ではなかった。合宿のメンバーは、鏡花と弟の斜汀、定芳ともう一人鼻下に泥鰌どじょうひげをはやした古くからの門下生の橋本花涙、これに、てる、、子の、同勢すぐって五人だった。お年寄りを連れだすのは却ってお気の毒だときて、、お婆さまだけはお留守居をおねがいした。
供養頌 くようしょう。供養は仏、菩薩、諸天などに香、華、燈明、飲食などの供物を真心から捧げること。死者への弔い。しょうは功徳をほめる。ほめことば。
寺木定芳 てらきていほう。泉鏡花の勧めで歯科医になり、渡米してアングルスクールで歯科矯正を学ぶ。雑誌「歯科評論」を発刊し、日本麻雀連盟を設立した。出生は1883年。没年は1972年。
謦咳に接する けいがいにせっする。尊敬する人の話を身近に聞く、お目にかかる。謦は「軽いせき」。咳は「重いせき」
みだれ橋 乱橋。鎌倉市材木座3-15-7付近。鎌倉へと攻め込んだ新田義貞と幕府軍が激しく攻防した。
妙長寺 鎌倉市材木座の日蓮宗の寺。
健気な 力の弱いものが勇ましく気丈な。
泥鰌髭 まばらな薄い口ひげ。
同勢 どうぜい。一緒に連れ立って行く人々。行動をともにする仲間。
すぐる 多くの中からすぐれたものを選び出す。えりぬく。

 ところで、そんな或る日、突如として紅葉山人の襲撃をうける恐怖のときがおとずれたのだった。
 その不意のアクシデントのあった当日は、おり悪しく、すゞ、、が来ていた。
 最初に山人の姿を見つけたのは斜汀であった。岡の上にあるこの家の縁先からは一望のもとに、遥か停留場まで延びている畔道の通路が見おろされる。その道をこちらに向って、鋭いまなこの紅葉先生がいそぎ足でやってくるのを咄嵯に確認した斜汀は、
「先生が、先生が……」
 八畳の間ですゞ、、とさしむかいで、お八ツ西瓜を喘り合う、しんねこぶりを発揮していたところへ、あわてて駈け込んでくると、兄の腕をつかんで、はげしくゆすぶった。
「なに‼ 本当か。ひと違いじゃないのか」
 いきなり、西瓜を投げ出した鏡花は、それでも未だ信じられない表情で、縁先に立って行ったが、一瞬、うっと息をのんだのは、もう麓のあたりまで、その人の近づいているのが、はっきり目に映じたからだった。
 一同、蒼白となって、まず、すゞ、、を家主の農家へ避難させ、彼女のものと勘づかれそうな品物を、あわてて押入にかくし、山人の御入来を待ちうけた。
 間取りは、さきにも記したように、八畳と玄関を上ってすぐの四畳半の二間きりだから、先生を奥にお通しして、鏡花は次の間のほうへひきさがって平伏し、花涙と定芳は、そのうしろに小さくちぢこまっていた。
 そのとき、紅葉の視線が、じろりと庭の物干竿に向うと、その眼は目ざとく、干してあったみず浅葱あさぎの腰巻を見つけ、いきなり、
「あれは誰のだ」
 鏡花は、(しまった)と、狼狽のあまり、肩をぶるぶるとふるわせながら、その場の気転で、
「は、はい、あれは手伝いに来ております服部のでございます」
 と、とりつくろったつもりが、
「服部のだと? おい、素人の女が紐のない腰巻をしめるか。あれが商売女のものだくらい、解らぬ俺だと思ってるのか。貴様、いつから師匠に嘘をつくことを覚えたんだ。俺は、てめえたちに嘘をつけと、いつ教えた。弟子の分際で、よくも師匠をコケにしやがったな。そこに居るのは、泉の身うちの者か。おめえらも、いい親分を持ったもんだな。今日かぎり、俺は泉とは縁を切るから、そう心得ろ」
 大喝一声どころか、百雷一時に落ちる凄まじさに、鏡花は、ただもう、おろおろと、平蜘蛛のように、畳に頭をこすりつけたまま。定芳たちも青くなって、とりつく島もない有様だったという。
 さながら大波乱の一場面だったに違いない。
すゞ 将来の鏡花の妻。桃太郎は芸者時代の名前。旧姓は伊藤。生年は明治14年9月28日、没年は昭和25年1月20日。享年は68歳。
停留場 路面電車の停留場。バスの停留所。鉄道では場内信号機・出発信号機を設けていない停車場。
畔道 あぜみち。田と田の間の細い道。
お八ツ おやつ。午後の間食のこと。八つ時(やつどき)で、現代の午後3時ごろに食べた
西瓜 スイカ
しんねこ 男女が差し向かいで、むつまじく語り合うこと
水浅葱 灰みの青緑系の色。 #7faba9 
大喝一声 だいかついっせい。大声で怒鳴りつけたり、叱りつけたりすること。
百雷 ひゃくらい。多くのかみなり。声や音の大きなこと。百連の雷。万雷。
平蜘蛛のように ひらぐも。ぺしゃんこになる。平身低頭する様子。

石黒忠悳|明治東京逸聞史

文学と神楽坂

石黒忠悳氏

 森銑三氏の「明治東京逸聞史2」(平凡社、昭和44年)に石黒忠悳ただのり氏の2話が出ていました。石黒氏は牛込区揚場町に住み、陸軍軍医から、その後は日本赤十字社社長でした。なお、ここでの「男」は「だん」で、「男爵」の意味でしょう。「翁」は老人を敬って呼ぶ言葉。石黒氏の誕生は1845年3月なので、本文の明治39年は62歳、明治42年1月は‎64歳でした。

結核予防   机の塵(朝報社編) 明治39年
 或宴会で石黒いしぐろ忠悳ただのり男が、矢野二郎翁と席を列べたら、男はまず自分の膳の上に新聞をかぶせて置いて、さて翁に向って、「君は結核面をしている。その唾がおれの食べ物にかかっては困るから、こうして置くのだ」といった。そうしたら矢野翁は、「予防してまで、おれの話を聴きたいとは嬉しいね」といったそうだ。——
 この頃の結核は、万人に忌み嫌われる病気で、伝染したら直らぬものとせられていた。

石黒忠悳 医者。日本陸軍軍医、日本赤十字社社長。1890年、陸軍軍医総監と陸軍省医務局長を兼任。軍医学校校長。生年は弘化2年2月11日(1845年3月18日)。没年は昭和16年4月26日。
矢野二郎 英語を学んで外国方訳官となり、明治3年、森有礼の推薦で外務省にはいり渡米、一時駐米代理公使となった。8年、商法講習所の初代所長となり、26年まで高等商業学校(現一橋大学)の校長をつとめ、商業教育の基礎をきずいた。生年は弘化2年1月15日(1845年2月21日)、没年は明治39年6月17日。

 矢野氏と石黒氏は同じ年齢でした。この年に矢野氏は死亡しますが、結核がその死因だとは書いていません。2人の仲の良さを描いていたのでしょう。

石黒家の新年   万朝報 明治42年1月4日
「御自由に召上れ」と題する短文が出ている。
「牛込区揚場町なる石黒忠悳ただのり男は、目下夫人同伴にて、相州地方へ旅行中なるが、主人不在中の同家は、玄関の正面に蒔絵の名刺受箱が、しかも二つ置かれてあるより、よくよく見ると、一は男爵の分、一は夫人の分にて、奉書に、『旅行中に付、年賀に参堂せず』と記したるを置き、その傍に葡萄酒とコップを備へ、これには、『御自由に召上りくれ』と貼紙してあるは、振るつた趣向なり。」
 明治が42年になっても、まだ文語体で行っている。

相州 そうしゅう。相模国の別称。神奈川県と同じ。
蒔絵 まきえ。うるしで文様を描き、金属粉の金、銀、すずや顔料の粉(色粉)をまき、固着し造形する技法。その作品
奉書 ほうしょ。文書の美称。本来は,近侍者が上位者の意を奉じて下達する文書

 文語体は石黒忠悳ではなく、万朝報の方の書き方を言っているのでしょうか。それとも石黒忠悳氏の書き方でしょうか。
 この逸聞は芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)牛込地区「38. 石黒男爵の珍しい新年」にも再録されています。

石黒男爵の珍しい新年
           (揚場町17)
 津久戸小学校前を右折する。左手は揚場町である。揚場町は東の堀割から山の手へ運送の荷物を揚げる場所であったために名づけられた町名である。堀割はここからお茶の水、万世橋を通って隅田川に続いている。
 右折した道の先左手に、明治時代男爵石黒忠悳(ただのり)が住んでいた。この石黒家の過し方が「万朝報」(明治43・1・1)に出ている。
「目下夫人同伴にて、相州地方へ旅行中なるが、主人不在中の同家は、玄関の正面に蒔絵の名刺受箱が、しかも二つ置かれてあるより、よくよく見ると、一は男爵の分、一は夫人の分にて、奉書に『旅行中に付、年賀に参堂せず』と記したるを置き、その傍に葡萄酒とコップを備へ、これには、『御自由に召上りくれ』と貼紙してあるは、振るった趣向なり。」と。
 〔参考〕 明治東京逸聞史

堀割 地を掘って水を通したところ。ほり。