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江戸城|史跡解説板1

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の外側の歩行者空間には中型パネル4枚、石1個と大型パネル2枚(国指定史跡「江戸城外堀跡」とその遺構巡り)、西口改札外のコンコースにもパネル(外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造)があります。
 1階の中型パネル4枚()のうち、1枚目は江戸城です。徳川家康が作った江戸城は、まず本丸を拡大し、西の丸を作り、さらに大名達は江戸を建設してきます。
 写真は城郭などが3枚、図は江戸城跡の全体図です。

江戸城

江戸城
The History of Edo Castle
 江戸城は、平安時代末の江戸氏居館きょかん、室町時代のおお道灌どうかん、戦国時代の小田原ほうじょう氏の支城として受け継がれました。豊臣とよとみ秀吉ひでよしは、北条氏を滅ぼすと、徳川とくがわ家康いえやすを関東にほうしました。1590(てんしょう18)年、徳川家康は江戸城に入城し、江戸城とじょうまちの建設を始めました。家康入城時の江戸城には石垣はなくるいのみで、も入り江でほんばしきょうばし辺りも海面と同じ高さの湿地でした。
 家康は、まず城内の寺を出しほんまるを拡張し、城下町の武家ぶけちょうにんを整えました。次に、本丸の南の台地を削り西の丸を造成し、その残土で日比谷入り江を埋め立てました。1603(けいちょう8)年、ばくを開き実権を握った家康は、てんしんとして、城と城下町建設にしょだいみょうを動員しました。同じ年に、かんやまを崩して日本橋南の地域を埋め立て、市街地の造成と日本橋の架橋を行い、翌年には日本橋を起点とする五街道を整備しました。1606(慶長11)年には二の丸三の丸城郭の整備、石垣築造を進め、翌年にはてんしゅが完成しました。なお、天守は1657(明暦めいれき3)年に大火で焼失した後、再建されませんでした。
 1868(明治元)年、明治天皇が江戸城に入り皇居となり、1960(昭和35)年、江戸城内郭ないかくの堀が「江戸城跡」として国の特別史跡に指定されました。このほか、「江戸城外堀跡」と「ときばし門跡もんあと」が史跡に、そとさくらもんやすもんみずもんとそれぞれのやぐらもんが重要文化財に指定されています。
支城 本城のほかに領内各地に設けた城。
移封 いほう。大名などを他の領地へ移すこと。転封てんぽう。国替え。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
本丸 ほんまる。日本の城郭で、中心をなす一区画。城主の居所で、多く中央に天守(天守閣)を築き、周囲に堀を設ける。
西の丸 にしのまる。江戸城本丸の南西方の一郭。将軍の世子の居所、また、将軍の隠居所
天下普請 江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事
五街道 ごかいどう。江戸時代、日本橋を起点とした東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中。幕府はこれを直轄し、道中奉行の管轄下に宿駅など整備し、一方関所を設けて統制を厳重にした。そのため参勤交代など主として公用に利用、一般の旅人は脇往還を多く通った。
二の丸 本丸の外側に隣接して城主の館邸の設けられたくるわ。郭とは周囲を土や石などで築いた囲いの内側の地域のこと。
三の丸 二の丸につづいて外側の家臣屋敷などの並ぶ郭
城郭 城と外囲い。堀や土塁・石垣などにより,外敵の攻撃を防いだ施設。
天守 城の本丸に築かれた最も高い物見やぐら。天守閣。天守やぐら。
内郭 うちぐるわ。ないかく。城などの内側に築かれた囲い。また、その区域
江戸城外堀跡 江戸城の防衛的な施設である外堀のうち、牛込見附から赤坂見附まで延長約3.3kmと虎ノ門地区が、1956年(昭和31)に国の史跡に指定され、2008年(平成20)に追加指定を受けた。江戸時代以来の堀や土手、城門石垣が残る。
櫓門 やぐらもん。上階に櫓(城壁などの上に造った建物で、諸方を展望して偵察したり、矢や弾丸を発射して防戦の用とした)をのせた門。

 Edo Castle’s origins can be traced to the establishment of the Edo Clan’s estate in the late-Heian period.  During the Muromachi period, it served as the location of Ōta Dōkan’s branch castle.  Entering the Warring States Period, it was controlled by the Hōjō Clan’s and served as the site of their branch castle. When Toyotomi Hideyoshi eradicated the Hōjō Clan in the late-sixteenth century, Tokugawa Ieyasu was sent to their former territory in the Kantō region. In 1590, leyasu assumed control of Edo Castle and initiated the Castle’s reconstruction and construction of the surrounding castle town. At the time, there were no stone walls on the Castle site. The only remaining features of the Hōjō Clan’s branch castle were its earthen fortifications. In addition, the Hibiya area was an inlet and the Nihonbashi and Kyōbashi areas were low-lying wetlands.
 leyasu began the reconstruction effort by removing temples from the site, expanding the Castle’s inner citadel, and supervising the construction of the city’s commoner districts and warrior estates. He then removed portions of the plateau immediately south of the inner citadel and constructed the western citadel. In addition, the inlet in Hibiya was filled in using the earth removed from the plateau. In 1603, leyasu, who had by then seized national political authority and established a tent government, mobilized domainal lords from the across the country to construct the remaining portions of Edo Castle and the surrounding city area. The same year, Kanda Hill was leveled and earth removed from the Hill was used to fill in the southern portions of the Nihonbashi area. The area was then developed and Nihon-bashi Bridge was constructed. The following year, an archipelago-wide network of five overland circuits originating from Nihon-bashi Bridge was established. In 1606, the second and third citadels and castle tower were constructed and work continued on the stone walls surrounding the Castle. By the following year, the Castle’s main keep was complete. In 1657, however, the Castle was destroyed by a fire and had to be reconstructed.
 In 1868, the Meiji emperor moved to Edo Castle and it came to serve as the imperial palace. In 1960, Edo Castle’s inner moat was classified as Edo Castle’s official ruins and designated a National Heritage Site. In addition, remaining portions of the Castle’s outer moat and the ruins of Tokiwabashi Gate received designation as Historical Landmarks. Lastly, the box-shaped, two-story gatehouses at Sakurada-mon, Tayasu-mon, and Shimizu-mon Gates were designated as Important National Treasures.


大手門 霞会館「鹿鳴館秘蔵写真帖」平凡社、1997

本丸大手門 本丸正門。慶長12年(1607)完成、のち伊達政宗が延べ42万人、大判2600枚を費やして右折枡形門となす。明暦の大火後、万治2年(1659)に再建された。大正12年震災で倒壊し復興された渡櫓門も戦災で焼失、現渡櫓門は昭和40年(1965)の復元。高麗門と石塁のみ遺構として現存。写真には渡櫓右に二ノ丸異三重櫓が見える。警戒は厳しく、明治4年(1871) 4月「御城内御門謷戒兵規律」には、警戒兵が門両脇に2人ずつ昼夜交替で立ち、例外を除き鑑札所持者のみ朝六ツ時から暮六ツ時まで通行を許した。明治22年皇居造営後、内閣が赤坂仮皇居から大手門内に移動、大手門は内閣への通用門となった。(霞会館「鹿鳴館秘蔵写真帖」平凡社、1997)

江戸城写真集 蓮池三重櫓、本丸御殿址と台所櫓 東京誌料 東京都立図書館

 この写真は鹿鳴館秘蔵写真帖の「下乗橋前より二ノ丸東三重櫓方向」と全く同じなので……
下乗橋前より二ノ丸東三重櫓方向 下乗橋大番所前から二ノ丸殿東側を写した写真。左手奥から東三重櫓、東多聞、異三重櫓。堀を挟んで、右手に同じ三ノ丸の平川門へ通じる喰違門の一部が見られる。大手門と喰違門の間には、御殿詰・勝手方などを除く会計一般を扱った下勘定所が置かれていた。現在、堀は二ノ丸北櫓跡まで埋められ、それより下梅林門までが天神堀となっている。埋め立て部分には宮内庁病院や厩舎、三の丸尚蔵館などが建設され、かつての面影は全くない。(霞会館「鹿鳴館秘蔵写真帖」平凡社、1997)

半蔵門 霞会館「鹿鳴館秘蔵写真帖」平凡社、1997

半蔵門 桜田門と同じく元和6年(1620)奥羽諸侯が建造した右折枡形門。土手で桜田堀と半蔵堀とを画したため門前の橋は築かれなかった。名称は門内に住んだとされる伊賀の服部半蔵に由来する。この門は内郭の西門に位置し、武蔵国府へ向かう国府方口とも称された。麴町の町名は、国府路こふじに由来するとされる。写真には解体中の半蔵門の渡櫓門が見られる。なお現在の高麗門は和田倉門より移築したもの。現在枡形はない。(霞会館「鹿鳴館秘蔵写真帖」平凡社、1997)

浄瑠璃坂の仇討跡(標示板)

文学と神楽坂

 2020年11月、最近(でもないけれど)市谷鷹匠町の「浄瑠璃坂の仇討跡」は新しい案内標示板になっていました。でも、内容はほとんど何も変わりません。ただしこの標示板を取り巻く周囲を見回すと、マンションや大日本印刷のビルが沢山建築中でした。

「浄瑠璃坂の仇討跡」は赤い矢印で書かれていますが…

現在の地図と新板江戸外絵図(1679)

でも、決闘した戸田七之助邸は実際は遙かに巨大な場所でした(下図)。大日本印刷とおそらく同じぐらいの大きさだったと思っています。(大日本印刷はまだまだ大きくなっている)

明暦江戸大絵図(1657)

 平成28年の標識は…

 新宿区指定史跡

じょう瑠璃るりざか仇討跡あだうちあと
   所 在 地 新宿区市谷鷹匠町 浄瑠璃坂上・鼠坂上
         指定年月日 昭和60年11月1日
 浄瑠璃坂と鼠坂ねずみざかの坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日、「赤穂事件」、「伊賀越いがこえの仇討」(鍵屋かぎやの辻の決闘)とともに、江戸時代の三大仇討のひとつと呼ばれる「浄瑠璃坂の仇討」が行われた場所である。
 事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月に死亡した宇都宮藩主奥平忠昌の法要で、家老の奥平内蔵允くらのすけだが同じく家老の奥平隼人はやとに、以前から口論となっていた主君の戒名かいみょうの読み方をめぐって刃傷にんじょうにおよび、内蔵允は切腹、その子源八は改易かいえきになったことによる。
 源八は、縁者の奥平伝蔵・夏目外記げきらと仇討の機会をうかがい、寛文12年2月3日未明に牛込鷹匠たかじょう町の戸田七之助邸内に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討ち入り、牛込見附門付近で隼人を討ち取った。源八らは大老井伊掃部守かもんのかみ直澄へ自首したが、助命され伊豆大島に配流はいるとなり、6年後に許されて全員が井伊家ほかに召し抱えられた。
 平成28年12月2日
新宿区教育委員会

宇都宮藩 現在のおおむね栃木県。
戒名の読み方 竹田真砂子氏が『浄瑠璃坂の討入り』(集英社、1999年)についてこう書いています。
「まず仇討ちに至るまでの経緯を、『中津藩史』に倣いつつ、いささか意訳してお伝えしておこう。
 寛文8年(1668)2月19日、宇都宮藩奥平家の当主奥平忠昌ただまさが他界する。享年61歳であった。その折、位牌にしたためられた亡君の戒名の読み方が分がらなかった家老の一人である奥平隼人に対し、同じく家老職にある奥平内蔵允くらのじょうがすらすらと読み下してみせたことから事件は始まる」
源八 竹田真砂子氏によれば「その総大将源八は、弱冠15歳の若衆で人目を惹く美少年であった」といいます。
改易 江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄・屋敷を没収する。
掃部守 行事に際して設営を行い、殿中の清掃を行う。
配流 流罪に処する。島ながし。

 ちなみに、この標識が、1代古くなると、平成3年に発行したものとなります。ルビがなく、印刷は非常に見にくいけど、内容は同じです。

(文化財愛護シンボルマーク)

 新宿区指定史跡

じょう瑠璃るりざか仇討跡あだうちあと
        所 在 地 新宿区市谷鷹匠町浄瑠璃坂上・鼠坂上
        指定年月日 昭和60年11月1日
 浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日、江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討が行われた場所である。
 事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老の奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前から口論となっていた主君の戒名の読み方をめぐって刃傷におよび、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。
 源八は、縁者の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文12年2月3日未明に牛込鷹匠町の戸田七之助邸内に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討入り、牛込御門前で隼人を討取った。
 源八らは大老井伊掃部守へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり、6年後に許されて全員が井伊家ほかに召し抱えられた。
 平成3年1月
東京都新宿区教育委員会

 さらに昭和57年もありました。

 新宿区指定文化財
  旧 跡  浄瑠璃坂の仇討跡
 宇都宮藩家老の奥平内蔵允は、主君奥平忠昌の追福法要の際、同じ家老の奥平隼人と口論の末、刃傷に及んで切腹した。その子源八は父の恨みを晴らそうと近縁の奥平伝蔵、夏目外記らとその機会をうかがった。追放された隼人は父半斎ら家族と江戸に逃れて浄瑠璃坂上に隠れ住んだ。探しあてた源八は四年後の寛文12年(1672)2月2日夜、総勢42名で、大風に乗じ門前に火を放って討入り、牛込御門前で隼人を討取った。自首した源八らは、そのけなげな挙動は感じた井伊直澄のはからいで助命され、伊豆大島に流された。
 浄瑠璃坂の名の由来については江戸時代から諸説があるが、いずれも確証はない。
 昭和57年3月
東京都新宿区教育委員会

浄瑠璃坂の仇討跡

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」05-11-24-3「浄瑠璃坂仇討案内板」 1984-10-18



大下水|市谷~牛込

文学と神楽坂

 江戸時代、市ヶ谷から飯田橋にかけて「大下水」がありました。
 この時、下水には3種類があったのです。自宅の前にある小下水、小下水を集める横切下水、横切下水を集めて最終的に落口から川にもっていく大下水です(新宿区教育委員会『紅葉堀遺跡』平成2年)。大下水は石垣で構築され、その普請修復は公的資金で行いました。
 この大下水は、昭和初期にあんきょ、つまり、地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路になっていきます(本田創編著「東京『暗渠』散歩」洋泉社、平成24年)。それ以前にはかいきょ、つまり、ふたはない水路になっていたのです。

新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4。神楽坂界隈の変遷』(1970年)から

 まぁ、昔の下水のほんどは、雨水でした。屎尿は汲み取り式なので、下水に便や尿が混入することはなく、米のとぎ汁は拭き掃除に使い、最後は植木にまくわけです(ミツカン。水の文化。排水の歴史)。
 では、牛込の大下水について、『御府内備考』はどう見えていたのでしょう? この『御府内備考』は江戸幕府が編集した江戸の資料集です。これを編纂した『御府内風土記』は、1872年(明治5年)、皇居火災で焼失しましたが、『備考』は残っています。

大下水

大下水

大下水と外濠。正保年中江戸絵図から。正保元年(1644)頃。垂直に川が2本流れるように見えるが、左側は大下水の水、右側が外濠の水で、どちらも本当の川ではない。

大下水は市ヶ谷田町より牛込揚場町を歴て船河原橋脇にて江戸川に合す。此下水の成し年代等詳ならざれと寛永十八年堀千之助御手傅にて石垣を築きしよし傅ふれば古き下水なら事なし。此下水の上流尾州表門より外を柳川と唱へそれより上を拾川と唱ふるよし。よりて下流まてを通して紅葉川など書しものあり。その実は無名の大下水なり。改撰江戸志云紅葉堀の名は市谷左内坂の名主 草名の名主といふ 家に蔵するふるき帳にも見へしといふ。坂光淳の説に四谷御門をそのかみ紅葉御門といひにといふによれはそれらの名よりおこりしや。此御門にはその比よき紅葉のありしかはかくいひしにやと


[現代語訳]大下水は市ヶ谷田町から牛込揚場町を経て、船河原橋脇にて神田川に合流する。この下水が成立した年代などはわからないが、寛永18年(1641年)、堀千之助は土木工事を行い、石垣を築いたという。古い下水なので議論しても仕方がない。この下水の上流は尾張国上屋敷の表門からの外に流した部分を柳川といい、それより上を拾川という。下流までを通して紅葉川など書いたものもあるが、その実は、無名の大下水である。改撰江戸志によれば、紅葉堀の名は市谷左内坂の名主(草体の署名が有名な名主)の家にあった古い帳簿でも見える。18世紀の歌人・坂光淳の説によれば、四谷御門をその昔、紅葉御門といったので、その名から名前がついたという。その時分、この御門には美しい紅葉があったので、そう名前がついたのではないか。

 正保年中江戸絵図(上図、1644年頃)には、大下水を越えて市谷と牛込を渡る橋は市谷御門だけです。牛込御門から神楽坂までは大下水のため直接渡れませんでした。

正保年間の大下水。拾川、柳川、紅葉川なども大下水と同じ意味で、図では外濠の上に大下水がありました。

正保年間の大下水。拾川、柳川、紅葉川は大下水と同じ意味。

 一方、明暦江戸大絵図(下図、1658年頃)では、市谷御門と牛込御門2つになっています。また、大下水の幅は、正保年中江戸絵図で神楽坂1丁目と同じぐらいと考えると約30m、一方、明暦江戸大絵図では一部に家などができているのか、幅は少なくなっていますが、それでも一間、つまり、約1.8mもあったと、『御府内備考』「揚場町」は述べています。

明暦江戸大絵図。http://collegio.jp/?page_id=154 (明暦は1655~8年)。大下水と外濠の距離が遠くなり、あいだには家もありそうだ。

明暦江戸大絵図(明暦3~4年頃、1657~8年)。大下水と外濠の距離が遠くなり、あいだには家もありそうだ。

『新修新宿区町名誌』から

『新修新宿区町名誌』から

市ヶ谷田町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば、「豊島郡市谷領布田ふた新田と称す場所に、元和六年(1620)頃から百姓町屋を立てていた。同九年、外堀造成の御用地として召し上げられたため、左内坂下に小屋場を設けて仮住まいをしていた。外堀完成後、旧址が堀になってしまったため、旧地近くの堀端に町屋取立てを願い出たが、既に武家屋敷となったために願いは却下され、替地として佐渡殿原(現市谷砂土原町周辺)、赤坂御門前の二か所を提案された。しかし両所ともに馴れ住んだ場所から離れた所だったので佐渡殿原の土を引きならして武家地に仕立てることを願い出、また堀端通りの田地にこの佐渡殿原や浄瑠璃坂下、逢坂辺りの土を落として埋立てた。寛永三年(1626)にこの埋立地を町割りし、南から順に市谷田町一丁目、上二丁目、下二丁目、三丁目とし、四丁目のみ市谷御門の南西側、現在の外堀通りと靖国通りとの分岐点にあたる場所に作られた。この地を開発した草創名主は島田左内である」。また、『新修新宿区町名誌』の絵(右図)では、南端は左内坂だと描いています。
牛込揚場町 新宿区北東部の町名。北は下宮比町に、東は神楽河岸に、南は神楽坂二丁目に、西は津久戸町にそれぞれ接する。江戸時代では神楽河岸の一部を含む。
船河原橋 旧江戸川(現神田川の上流)の橋。現在は、さらに外濠のお堀、さらに神田川も結ぶ橋(ここに最近の図)。
江戸川 現在は神田川。昔は堀と合流する上流を江戸川と呼びました。
寛永十八年 1641年
堀千之助 越後村上藩の堀干介直定。寛永15年(1638)、父直次が25歳で死亡し、寛永18年(1641)、幕府の命令で、6歳で御手伝普請を行い、家臣に市谷水道石垣の普請浚工したため賜物を与えた。翌年、死亡し、そのため後継者はなく、断家した。
御手伝 御手伝普請。おてつだいぶしん。豊臣政権や江戸幕府が大名を動員して行った土木工事。
 ゆ。さとす。相手の不明点や疑問点をといて教える。
尾州 びしゅう。尾張おわり国の異称。
柳川 「暗渠さんぽ」では、尾張国上屋敷(現、防衛省)から下流部分を指すという。名前は川沿いに柳が植えられていたため。
拾川 同じく「暗渠さんぽ」では、尾張国上屋敷(現、防衛省)から上流部分を指す。
紅葉川 「暗渠さんぽ」では、『全体をさす名称として、「紅葉川」「楓川」「長延寺川」「外濠川」などがみられます』
紅葉堀 「暗渠さんぽ」では、大下水のこと。
左内坂の名主 名主は島田左内です。
草名 そうみょう。そうな。草体の署名。特に、二字を合わせて一字のように書いたもの。その傾向が進むと、字を変形あるいは合体させて特殊な形をつくる花押かおうとなる。
坂光淳 18世紀の歌人。自書は『用心私記』
四谷御門 四谷見附門。千代田区麹町6丁目。現在のJR四ッ谷駅麹町口付近。初代長州藩主の毛利秀就が普請した