神田川」カテゴリーアーカイブ

飯田橋分水路工事(写真)ID 14812〜15 昭和52年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 14812-15は昭和52年(1977年)、飯田橋分水路の工事を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14812、飯田橋分水路工事、昭和52年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14813、飯田橋分水路工事、昭和52年

 神田川沿いの目白通りを東向きに撮影しています。ID 14812は右端に「石切橋」の交差点表示と信号機。左の先に石切橋があり、神田川を渡っています。目白通り沿いには写真奥に向けて「三菱石油」「共立」の看板。さらに奥のビルの「◯AN」は、ID 14813の「TO」と併せて「TOPPAN」(凸版印刷)でした。
 首都高速道路はT型橋脚で、「非常駐車帯」の出っ張りが路面を覆うコンクリートに影を落としています。分水路の工事が終わったあとでしょうか。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14814、飯田橋分水路工事、昭和52年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14815、飯田橋分水路工事、昭和52年

 ID 14812-3とは逆で西向きの撮影です。首都高のT型橋脚は右側が長く、神田川の上にせり出しています。ID 14815は手前の交通信号のある橋橋を自動車が渡っていて、これは「古川橋」です。さらに奥に向けて「掃部かもんばし」と「はなみずばし」と「江戸川橋」と続きます。

 ID 14814の左に「三菱銀行」の江戸川橋支店の看板があります。この支店は2020年10月26日に統合(廃止)され、現在は三菱UFJ銀行神楽坂支店内です。

石切橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋 生きている江戸の歴史』(昭和52年、新人物往来社)の「石切橋」からです。

石切橋(いしきりばし) 新宿区水道町から文京区水道二丁目に渡す江戸川の橋で、西江戸川橋古川橋のあいだにあり、古くは単に大橋とよび、寛文年間に架されたといわれ、新編江戸志に「大橋 俗に石切橋と云う。赤城下へゆく通りなり、馬場片町より水道丁へわたす。むかし此所に石切あるよりの名なり。」とあり、府内備考に、
 一、橋 長凡八間程 幅2間1尺
 右は江戸川相掛り候橋の儀は町内(小日向水道町)より牛込水道町の方へ渡り小橋御座候。江戸川大橋と相唱え申し候。又里俗石切橋とも唱え候えども、如何の訳にて唱え来り候や相知れ申さず候。御役所向に認め候節は、江戸川大橋と相認め申し候。右は武家方御組合橋にて、町内東側横町間口十九間の処、右入用差出し来り申し候。
 とあり、また新撰東京名所図会も諸書を引いて「石切橋 小日向水道町と西江戸川橋との間より牛込水道町に通ずる木橋にして江戸川に架せり、もと大橋といえり。続江戸砂子に云う。大橋、馬場片町より水道町へ渡す。俗に石切はしというなり。(下略)」と記述している。明治19年橋架明細表ではこの橋は長8間半、幅3間の木橋で、江戸川にかかっていた諸橋のうちではもっとも幅員が広い。むかし大橋とよんだのもそういうことからであろうか。
  下りて石切橋をわたる。ここは神田上水の下流なる江戸川の流るる所なり。橋より下十町ばかりの間、両岸に桜樹ならびて新小金井の称あれど、それでは小金井があまりかわいそうなり。殊に近年水大いに減じて、川よりも寧ろのようになりて風致一層減じたり。(大町桂月「東京遊行記」明治39年)
  江戸川の水かさまさりて春雨のけぶり
  煙れり岸の桜に    若山牧水

古川橋 ふるかわばし。文京区水道2丁目と文京区関口1丁目との間をつなぐ神田川の橋。神田川は古川ふるかわと呼ぶ時期があった。
大橋 大橋は他の大きな橋を比較検討することではなく、近隣の橋との対比で、大橋と呼ぶことが多い。
寛文年間 1661年から1673年まで。
新編江戸志 しんぺんえどし。別称江戸誌。近藤儀休編著・瀬名貞雄補。寛政年間。「江戸砂子」の体裁を意図して刊行。内容は江戸城を中心に東は葛飾、南は六郷、西が武蔵府中、北が豊島・川口方面の地誌を記す。
石切橋 いしきりばし。名前はこの周辺に石切りが住んでいたことからつけられた。石切りとは、石材に細工をする職業や職人。いし。石屋。
武家方 ぶけがた。武家の人々。武家衆。武家とは武士の総称で、公家くげはその反意語。
御組合 ある目的で、仲間をつくる、その人々。「御」は「庶民ではなく、武士がつくった組合」の意味。
馬場片町 新宿区西五軒町の一部。古く牛込村の沼地だったが、承応年中(1652-55)に埋立て、武家屋敷等を建築。町名の由来は、この時に小日こびなた馬場の隣接地だったことによる。
水道丁 東京都文京区の町名。「丁」は「市街の一区画」の意味もあったが、代わって明治期には「町」を使った。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
長凡八間程 幅2間1尺 長さ約1456cm、幅394cm
間口 正面からみた敷地・家屋などの幅。
十九間 3458cm
入用 いりよう。必要である。必要な費用。
新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
小日向水道町と…… 原文と引用の2つが違っています。「新撰東京名所図会」の本来の引用では「牛込水道町より小石川水道町に通ずる木橋にして、江戸川に架せん、古川橋と西江戸川橋との間の橋なり。府内備考、牛込水道町の書上に(略)と見ゆ。本名は江戸川大橋にして、石切橋は其俗称たりしてと比記に據て詳らかなるべし、橋の名は、蓋し側に石工の宅あろしに起因すべけれど、其證なければ容易に断定し難し、石切の俗称、最も著はれ、江戸川大橋の名は遂に世人の忘却する所となれり」
続江戸砂子 正しくは「続江戸砂子温故名跡志」。享保20年刊(1735)。江戸砂子の著者、菊岡沾涼による補遺。内容は五巻からなり、巻一は江戸の年中行事、巻二は江戸方角図・御役屋敷・高札場等、巻三は神社拾遺・名所古蹟拾遺として日本橋の南北辺・小日向・深川・渋谷・目黒・本所・亀戸など、巻四は浄土宗一八檀林と諸州宗役寺、巻五は名木。四季の遊覧場所なども紹介。
明治19年橋架明細表 石切橋では長さ8間半、巾3間、25.5坪、木造、明治7年12月架換。川名は江戸川。
長8間半、幅3間 長さ1547cm。幅546cm
幅員 ふくいん。道路・橋・船などの、はば
十町 1町は60間。メートル法換算で約109m。10町は約1090m
 みぞ。地を細長く掘って水を通す所。どぶ。下水。流し元の小溝
大町桂月 おおまちけいげつ。詩人、随筆家。東京大学国文学科卒業。雑誌「帝国文学」に評論や詩を発表。また紀行文を多く書いた。生年は明治2年1月24日(1869.3.6)。没年は大正14年6月10日。57歳
水かさ みずかさ。水嵩。川・湖・池などの水の量。水量。
けぶり 煙。物が燃えるときに立ちのぼる、微粒子が混じた気体。けむり。
煙れり けぶる。煙る。煙が立ちのぼる。煙などでかすんで見える。

石切橋

むらさき鯉|半七捕物帳

文学と神楽坂

 岡本綺堂氏の「半七捕物帳」の「むらさき鯉」の出だしの文章です。この小説が実際に起こったとすると文久3年(1863年)ですが、では綺堂氏はいつ書いたのか、これがわかりません。大正5年、年齢は44歳から半七捕物帳を書き始め、大正14年に前半5巻の47篇を書き終わり、その後、昭和9年から11年までに、後半23篇を書いています。多くの場合、その初出の年月は不明です。

        一
「むかし者のお話はとかく前置が長いので、今の若い方たちには小焦こじれったいかも知れませんが、話す方の身になると、やはり詳しく説明してかからないと何だか自分の気が済まないと云うわけですから、何も因果、まあ我慢してお聴きください」
 半七老人は例の調子で笑いながら話し出した。それは明治三十一年の十月、秋の雨が昼間からさびしく降りつづいて、かつてこの老人から聴かされた『津の国屋』の怪談が思い出されるような宵のことであった。(中略)
「そこで、このお話の舞台は江戸川です。遠い葛飾かつしか江戸川じゃあない、江戸の小石川牛込のあいだを流れている江戸川で……。このごろはどてに桜を植え付けて、行灯をかけたり、雪洞ぼんぼりをつけたりして、新小金井などという一つの名所になってしまいました。わたくしも今年の春はじめて、その夜桜を見物に行きましたが、川には船が出る、岸には大勢の人が押し合って歩いている。なるほど賑やかいので驚きました。しかし江戸時代には、あの辺はみな武家屋敷で、夜桜どころの話じゃあない、日が落ちると女一人などでは通れないくらいに寂しい所でした。それに昔はあの川が今よりもずっと深かった。というのは、船河原橋の下でき止めてあったからです。なぜ堰き止めたかというと、むかしは御留川おとめがわとなっていて、ここでは殺生せっしょう禁断、網を入れることも釣りをすることもできないので、鯉のたぐいがたくさんに棲んでいる。その魚類を保護するために水をたくわえてあったのです。勿論、すっかり堰いてしまっては、上から落ちて来る水が両方の岸へ溢れ出しますから、せきは低く出来ていて、水はそれを越して神田川へ落ち込むようになっているが、なにしろあれだけの長い川が一旦ここで堰かれて落ちるのですから、水の音は夜も昼もはげしいので、あの辺を俗にどんどんと云っていました。水の音がどんどんと響くからどんどんというので、江戸の絵図には船河原橋と書かずにどんど橋と書いてあるのもある位です。今でもそうですが、むかしは猶さら流れが急で、どんどんのあたりを蚊帳かやふちとも云いました。いつの頃か知りませんが、ある家の嫁さんが堤を降りて蚊帳を洗っていると、急流にその蚊帳をさらって行かれるはずみに、嫁も一緒にころげ落ちて、蚊帳にまき込まれて死んでしまったというので、そのあたりを蚊帳ヶ淵と云って恐れていたんです」
「そんなことは知りませんが、わたし達が子どもの時分にもまだあの辺をどんどんと云っていて、山の手の者はよく釣りに行ったものです。しかし滅多めったに鯉なんぞは釣れませんでした」
「そりゃあ失礼ながら、あなたが下手だからでしょう」と、老人はまた笑った。「近年まではなかなか大きいのが釣れましたよ。まして江戸時代は前にも申したような次第で、殺生禁断の御留川になっていたんですから、さかなは大きいのがたくさんいる。殊にこの川に棲んでいる鯉は紫鯉というので、頭から尾鰭までが濃い紫の色をしているというのが評判でした。わたくしも通りがかりにその泳いでいるのを二、三度見たことがありますが、普通の鯉のように黒くありませんでした。そういう鯉のたくさん泳いでいるのを見ていながら、御留川だから誰もどうすることも出来ない。しかしいつの代にも横着者は絶えないもので、その禁断を承知しながら時々に阿漕あこぎ平次のへいじをきめる奴がある。この話もそれから起ったのです」

小焦れったい こじれったい。もどかしくていらいらする。じれったい。
因果 原因と結果。その関係。
津の国屋 半七捕物帳の1つ。酒屋「津の国屋」で幽霊が出るという。半七は犯人を捉える。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
葛飾 東京都葛飾区のこと。区の左側に利根川の支流、江戸川がある。
江戸川 利根川の支流。千葉県北西端の野田市関宿で分流し、東京湾に注ぐ。
小石川 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
牛込 旧牛込区のこと。昭和22年以降は四谷区、淀橋区と合併し、新宿区に。
行灯 あんどん。小型の照明具。木などで枠を作り、紙を張り、中に油皿を置いて点灯する。
雪洞 ぼんぼり。紙・布などをはった火袋を取りつけた手燭てしよくか燭台。右図を参照。
新小金井 東京都小金井市東町。桜が有名な町で、西武鉄道の新小金井駅がある。小石川区(現、文京区)と牛込区(現、新宿区)から見ると、小金井はかなり遠い。
船河原橋 旧江戸川、外濠のお堀、さらに神田川を結ぶ橋。船河原とは揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原から。
堰き止める せきとめる。塞き止める。堰き止める。流れなどをさえぎりとめる。
御留川 おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所。
殺生 せっしょう。生き物を殺すこと。仏教では十悪の一つ。
堰く せく。堰く。塞く。流れをさえぎってとめる。せき止める。
堰かれる せかれる。流れをさえぎってとめられる。
どんどん 江戸川落とし口にかかる船河原橋を通称「どんどん橋」「どんど橋」といいます。江戸時代には船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたとのこと。

マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)。解説とは違い、近くに船河原橋が見え、遠くに隆慶橋が見えています。

蚊帳ヶ淵 かやがふち。船河原橋の下を流れる水がよどんで深くなった所。『東京名所図会』第41編(東陽堂、1904年)では「蚊屋が淵は船河原橋の下をいふ。むかしはげしき姑、嫁に此川にて蚊屋を洗はせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。」
攫う。 さらう。攫う。掠う。油断につけこんで奪い去る。気づかれないように連れ去る。その場にあるものを残らず持ち去る。関心を一人占めにする。
紫鯉 むらさきこい。江戸志では「此川に生ずる鯉は世の常の魚とことにして、味ひはなはだ美なり、されどみだりに取ことを禁ぜらる」
阿漕 あこぎ。禁漁地の阿漕ヶ浦で、ある漁師が密漁をして捕らえられたとの伝説から。しつこく、ずうずうしい。義理人情に欠け、あくどい。特に、無慈悲に金品をむさぼること
阿漕の平次 あこぎのへいじ。阿漕ヶ浦で、母の病のために禁断を破って魚をとり、簀巻すまきにされたという伝説上の漁師。

紫鯉|遊歴雑記

文学と神楽坂

 十方庵敬順氏が書いた「遊歴雑記初編」(嘉永4年、1851年)です。これは1989年、朝倉治彦の校訂で平凡社が復刻した部分から取りました。江戸川(現神田川)の「中の橋」で「むらさき鯉」があったといいます。最初は現代語訳です。

[現代語訳] 武蔵国江戸川の最上部は牛込区と小日向区との間にある目白下大洗堰で、ここで白堀上水を分け、あまった水は下流にながす。一方、江戸川の最下部は船河原橋であり、これで終わる(訳注。昔の神田川を神田上水、江戸川、神田川と3つに分けていました。現在は全て神田川です)。川の長さはおよそ2000mで、この間を江戸川という。しかし、誠実に呼ぶと、小日向の「中の橋」の上流220m、下流220m、前後440mをあわせた流れを江戸川という。
 その理由は、「中の橋」の流れが大部分は深く、鯉も数多く、橋の上から見ると、大きな鯉では90~110センチに及び、たまには、110センチ強と思える緋鯉も見える。「中の橋」の前後は鯉は殊に多く、水中でただ一面に黒く光り、キラキラと泳ぐものはどれも鯉だ。どれも肥えて太っていて、あるいは、丸く短い。これをむらさき鯉と称し、風味で見ると、このむらさき鯉が一番良く、豊島荒川の鯉や利根川の鯉はこれよりも劣る。これを紫鯉というのは、江戸川という名前からきたもので、逆に、数千万匹の紫鯉があるからこそ、江戸川という名前がついた。以上が、江戸むらさきの由縁である。
 この清流の鯉は、むかし、五代将軍徳川綱吉がここに御放流し、この鯉は成長し、さらに、八代将軍徳川吉宗も同じくここに放流してこの鯉も成長したので、「中の橋」の前後、川の中央部では550mほどの間は、「御留川」として、釣魚は厳禁である。また鯉は「中の橋」前後でだけ動き、外には行かない。ただし、大雨が降りつづき、満水する場合は違い、鯉は川下の竜慶橋の辺りにまで下がることもある。逆に水上の石切橋の辺りに上る場合もある。石切橋からの川上では、まれに網や釣りをして、鯉をとらえる場合もあるという。例年1~2度、2,3艘の御用船はならべて乗り入れ、鯉を採ることもある。

神田上水と旧江戸川

 東武江戸川(現神田川)といふは、牛込小日向の間にハサまりて、カミ目白下ヲゝ洗堰アライゼキに於て白堀シタホリ上水をワケ余水の下流にして、末はフナ河原ガワラバシまでの間、川丈カワタケ長き事拾八九町、此間を惣名ソウメウ江戸川といひ来れり、しかれども誠の江戸川とサスところは、小日向ナカハシ水上ミヅカミ弐町、橋よりシモ弐町、前後四町が間のナガレを江戸川といえり、
 その故は、中の橋の水中はホトンド深くして、ぎょ夥し、大いなるは橋の上より見る処、弐尺四五寸又は三尺に及ぶもあり、邂逅タマサカには、三尺余と覚しき緋鯉ヒゴイも見ゆ、中の橋の前後殊に夥しく、水中只壱面に黒く光り、キラ/\とヲヨぐものは皆鯉魚なり、おの/\肥太コエフトりたる事、丸くして丈みじかきが如し、これをむらさきゴイと称し、風味鯉魚の第一、豊嶋荒川又利根川トネガワの鯉、これにツグべしとなん、是を紫鯉といふ事は、江戸川といふ名によりて名付、又此処に紫鯉数千万スセンマンあるが故に、江戸川とは称す、江戸むらさき由縁ユカリによりてなりとぞ、
 此清流の鯉は、むかし、常憲尊君五代将軍徳川綱吉へ御放しありて、生立ソダテしめ給ひ、後又有徳尊君(八代将軍徳川吉宗)同じく此処へ放して生立ソダテしめ給ふによりて、中の橋前後、河中五町程の間は、御止川ヲントメガワと成て、釣するを堅く禁じ給ふ、此鯉魚中の橋前後にのみ住て、更に外へ動かず、但し、大雨降つゞき満水する時は、川下カワシモ竜慶橋辺へさがるもあり、又水上ミヅカミ石切橋イシキリバシ辺へ登るもありけり、石きり橋より上にては、マレアミツリして、鯉魚を得る事もありとなん、例年壱両度づゝ御用船弐三艘ならべ乗イレ、鯉魚をトラしめ給ふ、

東武 武蔵国の異称。江戸の異称。
牛込 旧牛込区のこと。昭和22年以降は四谷区、淀橋区と合併し、新宿区に。
小日向 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
目白下 目白下は文京区目白台よりも標高は低く、江戸川橋の周辺で、場所は関口一丁目、水道二丁目、水道一丁目など。
洗堰 あらいぜき。常時水が堰の上を溢れて流れるように作った堰。
白堀 しらほり。開渠。蓋のない地上の水路のこと。
余水 よすい。余分の水
船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。文京区後楽2丁目、新宿区下宮比町と千代田区飯田橋3丁目をつなぐ橋。
川丈 川の長さ。
 およそ。おおかた。だいたい。約。
拾八九町 長さの単位で、1963~2072メートル
惣名 そうみょう。総名。いくつかの物を一つにまとめて呼ぶこと。呼び名。
中の橋 なかのはし。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けた橋。
水上 みずかみ。「みなかみ」で「流れの源のほう。上流。川上」
弐町 二町。約220メートル
 ほとんど。大多数。大部分
鯉魚 りぎょ。鯉(こい)
邂逅 「わくらば」と読み、「まれに。偶然に」
たまさか 偶さか。適さか。偶然。たまたま。
弐尺四五寸 2尺4~5寸。約91~95センチ
三尺 114センチ
緋鯉 ひごい。赤や白の体色の鯉の総称。普通、橙赤色。観賞用。
豊嶋 豊島郡。武蔵国と東京府の郡。おおむね千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、大部分の練馬区。江戸時代以降、江戸市中は豊島郡から分離。
江戸むらさき 色名の一つ。濃い青みの紫。16進法では#745399     
常憲 第5代将軍徳川綱吉つなよしの戒名は常憲院殿贈正一位大相国公。
尊君 男性が、相手の男性を敬っていう敬称
 ここ。現在の時点・場所を示す語
生立 おいたち。生い立ち。育ってゆくこと。成長すること。
有徳 徳川吉宗の戒名は有徳院殿贈正一位大相国
御止川 御留川。おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所
 と。いっしょに事をする仲間。
竜慶橋 隆慶橋。りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。上図を
石切橋 いしきりばし。付近に石工が多かったため。別名は「江戸川大橋」。上図を
壱両度 いちりょうど。一回か二回。1~2回
御用船 江戸時代、幕府・諸藩が荷物運送などを委託した民間の船舶。

川柳江戸名所図会③|至文堂

文学と神楽坂

 次は「江戸川」です。「神田川」は、東京都の井の頭池を泉源にして、中心部をほぼ東西に流れて隅田川に注ぐ川ですが、そのうち中流部、つまり、関口大洗おおあらいぜきからスタートし、外堀と合流するふな河原かわら橋の川までを、1965年(昭和40年)以前には「江戸川」と呼んでいました。ちなみに当時の上流部は神田上水、下流部は神田川と呼んでいました。1965年(昭和40年)、河川法が改正され、神田上水、江戸川、神田川3つをあわせて「神田川」と呼ぶようになりました。

江 戸 川

ここで江戸川をさかのぼってみる事にする。井の頭に発する上水が、関口で分れ、一方は神田上水としてやや上を流れて、後楽園を過ぎ、神田川水道橋の所でで渡って神田に入るが、他方は落ちてこの江戸川となり、東へ流れ、大曲と称する辺から南流して、お濠へ合流して神田川となる。
 橋は関口橋江戸川橋華水橋掃部橋古川橋石切橋大橋ともいう)・中の橋、曲ってから隆慶橋とんど橋である。
 中の橋の辺りは、白鳥が池といったという。後に、大曲のところにかけられた橋を白鳥橋というのはその故であろう。

神田上水と旧江戸川

江戸川 ここでは神田川中流のこと。神田上水の余水を文京区関口台の江戸川橋付近で受け、飯田橋付近で外堀の水を併せて神田川となる。現在、神田上水、江戸川、神田川はすべて神田川になる。
井の頭 いのかしら。東京都武蔵野市と三鷹市にまたがる地区。中央に武蔵野最大の湧水池である井の頭池がある。神田川の源流。
上水 飲料などで管や溝を通して供給する水。水道水。汚物の除去や殺菌が行われている。
関口 文京区西部の目白台と神田川にまたがる地域。地名の起源は、江戸最初の上水道、神田上水の取入口、大洗おおあらいぜきがあったため。
神田上水 江戸初期、徳川家康が開削した日本最古の上水道。上図を。現在は廃止。
後楽園 文京区にある旧水戸藩江戸上屋敷の庭園。中心に池を設け、その周囲を巡りながら観賞する。上図を。
神田川 東京都の中心部をほぼ東西に流れて隅田川に注ぐ川。昔は上流部を神田上水、中流部を江戸川、下流部を神田川といった。
水道橋 千代田と文京両区境の神田川にかかる橋。地名は江戸時代に神田上水からの導水管を渡す橋があったため。
 とい。水を送り流すため、竹・木などで作った溝や管。神田上水の水道橋では上空をわたす管、掛樋かけひがありました。
神田に入る 神田上水は小石川後楽園を超えると、水道橋駅の先の懸樋(上図の右下を参照)で神田川を横切り、まず神田の武家地を給水する。
大曲 おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。橋は白鳥橋と呼ぶ。

延宝7年(1679年)「江戸大絵図」

関口橋 関口の由来には、奥州街道の関所とする説と神田上水の大洗ぜきとする二説がある。せきとは「河川の開水路を横断し流水の上を越流させる工作物」。
江戸川橋 「江戸川」とはかつて神田川中流部分(大滝橋付近から船河原橋までの約2.1km)の名称。江戸川橋は中流域で最初の橋梁
華水橋 はなみずばし。江戸川の桜並木と関係があるのか、わかりません。
掃部橋 かもんばし。江戸時代、橋のそばに吉岡掃部という紺屋があったことから。
古川橋 昔、神田川は古川ふるかわと称した時期があり、橋の南詰側には昭和42年まで西古川町、東古川町の地名があった。
石切橋 いしきりばし。付近に石工が多かったため。別名は「江戸川大橋」
大橋 おおはし。石切橋のこと。
中の橋 中ノ橋。なかのはし。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
とんど橋 現在は船河原ふなかわらばし。船河原とは揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原から。船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちる水音がして、ほかに「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」などと呼ばれていた。
白鳥が池 大曲から飯田橋に至る少し手前まで、大昔には「白鳥池」という大きな池があったようですが、延宝7年(1679年)の「増補江戸大絵図絵入」(上図参照)ではもうありません。
白鳥橋 しらとりばし。湿地帯で、神田川の大きな池があったという。

 さて、この川には紫色を帯びた大きな鯉が多くいて美味であったところから、幕府御用として漁獲禁断の場〈お留川〉となっていた。
    鯉までも紫に成江戸の水        (明三信1)
    お上りの鯉紫の水に住み         (三七・25)
 江戸は紫染のよいところであった。
    こくせうになぞとほしがる御留川     (二七・28)
 こくせうは〈濃汁(こくしょう)〉、鯉を濃い味噌汁でよく煮たもの、いま〈鯉こく〉という。
    奪人の無いむらさきの御留川      (一三五・33)
    紫を人の奪ぬ御留川          (六〇・2)
論語に「子日、紫之奪朱也。」とあり、意味は間色が正色を乱すことであるという。その語を借りたしゃれである。

 紫色を帯びた大きな鯉が多かったというおそらく事実は、岡本綺堂氏が小説「むらさき鯉」でも書いています。

お留川 おとめかわ。御留川。河川や湖沼で、領主の漁場として一般の漁師の立ち入りを禁じた所。
紫染 紫根染。しこんぞめ。ムラサキ(紫)の根から抽出した染料を使った染色。灰汁を媒染とする。
こくせう 濃漿。こくしょう。魚や野菜などを煮込んだ濃い味噌汁。鯉こくなど。
鯉こく こいこく。鯉濃。鯉を筒切りにして、味噌汁で時間をかけて煮込んだ料理。「鯉の濃漿」から
奪人 人から奪う、獲得するなどの意味。
論語 孔子の書とされる儒教の経典。四書五経の一つ。20編からなる。
悪紫之奪朱也 紫の朱を奪うをにくむ。朱が正色なのに、今では間色の紫が朱に代って用いられることがあるが、これには警戒したい。「奪」は地位を奪う、取って代わる、圧倒する。

    江戸川小松川鶴の御場      (一一二・34)
 葛飾の小松川は幕府の鶴の猟場であった。
    車胤王祥江戸川の名所なり      (一ニー・21)
 鯉のほか、螢も名物であった。昔、支那の晋の車胤という者、家が貧しくて油が買えず、螢を集めて本を読んだという故事は、「螢の光」という歌で知られている。
 王祥は、二十四孝の一人で、冬に継母が鯉が食べたいというので、川の氷の上に寝ころんでいると、氷がとけて鯉が躍り出、捕えて母に供したという話がある。
 螢について「絵本風俗往来」には「螢の名所は、落合姿見橋の辺・王子谷中螢沢目白下江戸川のほとり……」とある。姿見橋や、目白下はこの川のすぐ上流であるから、この川一帯にも見られたのであろう。
 橋の内、石切橋のしも、大曲のかみにかかる橋が〈中の橋〉である。この辺りを〈鯉ヶ崎〉とも言った。
    中の橋一本ほしひと言所         (明二仁5)
    むらさきの鯉濁らぬ橋の下        (二八・5)
 橋の名は、日本橋・新橋のように、連声で「ばし」と濁音になることが多いが、中の橋は濁らず清んで訓むということと、濁らぬ水ということもかけているのであろう。

小松川 東京府南葛飾郡小松川村は「つる御成おなり」と呼ぶ鶴の猟場でした。
御場 普通は「御場」は幕府の御鷹場おたかばのこと。鷹場は鷹狩りを行う場所。
猟場 りょうば。狩りをするのに適している場所。かりば
車胤 しゃいん(不明~400)。中国東晋の官吏、学者、政治家。灯油を買うことができず、蛍の光で勉強した話で有名。
王祥 おうしょう(185~269)。継母にも孝行を尽くし、生魚を食べたいというので、真冬に凍った池に行き、服を脱ぎ氷の上に横になった。氷が溶けて割れ、大きな鯉が二匹躍り出た。王祥は捕まえて継母に捧げ、継母も王祥をかわいがったという。
故事 昔あった事柄。古い事。昔から伝わってきている、いわれのある事柄。古くからの由緒のあること。
二十四孝 にじゅうしこう。中国古来の代表的な親孝行の24人。虞舜、漢の文帝、曽参・閔損・仲由・董永・剡子・江革・陸績・唐夫人・呉猛・王祥・郭巨・楊香・朱寿昌・庾黔婁・老萊子・蔡順・黄香・姜詩・王褒・丁蘭・孟宗・黄庭堅。
絵本風俗往来 正しくは「江戸府内 絵本風俗往来」。明治38年、江戸の好事家が江戸の町の移り変わりや町家・武家の行事のさまざまを300枚以上の大判挿絵を添えて描いた本。蛍については「中編巻之参」5月で出ています。
姿見橋 おちあいすがたみばし。姿見の橋と面影橋は別々の橋なのか、同じ橋なのか、私には不明です、新宿区がだした「俤の橋・姿見の橋」を参考までに。
王子 東京都北区中部の地名。桜で有名な飛鳥あすか山公園がある。
谷中螢沢 やなかほたるさわ。近くの宗林寺周辺は江戸時代には蛍の名所「蛍沢」がありました。
目白下江戸川 めじろしたえどがわ。目白台下にある江戸川(神田川)に大洗堰があり、また桜で有名でした。
鯉ヶ崎 「江戸志」では「此川に生ずる鯉は世の常の魚とことにして、味ひははなはだ美なり、されどみだりに取ことを禁ぜらる、此川の内中の橋の邉を鯉か崎といへりといふ」と書いています。
むらさきの鯉 紫色を帯びた鯉が多かったため。