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兵庫横丁(写真)平成31年 ID 14052

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14052は、平成31年(2019)1月、兵庫横丁の北の入り口から南方を見て写真を撮ったものです。影が長いので夕方の撮影のようです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14052 神楽坂から南方面を望む

 前方の石畳が兵庫横丁、手前のアスファルトが公道で名前はありません。左側のゆるやかな上りは2番目の四つ角から下り坂になり、この坂は軽子坂です。右側の先、曲がり角からは和泉屋横町です。斜め後方は材木横丁。兵庫横丁と材木横丁の大部分は私有地です。

道路台帳平面図

 兵庫横丁の石畳には歩行者用の白線はなく、車を想定していません。ただ荷運びなどで例外的に車が入ることはあるようで、この写真でもバンが停まっています。
 石畳の中央部は扇形に並んでいますが、左右は少し違っています。これについて地元の人の解説は……

 石畳は路地の歴史を色濃く残します。この写真の右側には雨水を流す側溝があり、境石を挟んでモザイクのような石敷になっています。石畳とアスファルトの境に正方形の金属製プレートがあり、おそらく土地の境界標です。建物を建てる時に路地を広げて側溝を作ったと想像できます。
 左の家の前は、幅40センチくらいにわたって石畳が直線的に敷かれています。よく見ると赤い三角ポール(駐車禁止)の左側に窪みがあります。この窪みは別の写真で見ると排水溝です。昔はこの位置が路地の端で、今の建物を建てたときに後退して石畳を追加したことが分かります。
 私有地では、こうした側溝や上下水道は路地に面した家が費用を負担して整備します。おそらく下水管は路地の中央にあり、公道に出たところのマンホールにつながっています。
 工事で石畳を部分的に掘削した時は、そこを石畳に戻すのがルールです。従って時代を経るにつれて石畳は傷んでいきます。ちなみに神楽坂通りの歩道のインターロッキングは公道ですが、工事した店が掘削部分を同じ材料で復旧する義務を負っています。
 私有地である路地でも、住人が区に共同で申請すれば上下水道や石畳の整備に補助がもらえます。住人の意見がまとまらない場所では、徐々に石畳を維持できなくなっていくようです。
境石 きょうせき。境界石。きょうかいせき。隣の敷地や道路との境界ライン。素材はコンクリート、金属、プラスチック、鋲など。境界標と同じ
石敷 平たい石を敷き詰めて舗装した所。ピンコロ石より大きい。
境界標 目に見えない境界点を現地で示す標識

https://to-ki.jp/center/useful/kiso010.asp

 左の家1軒目はイタリア料理店ラストリカート(意味は石畳)で、2軒目は「おいしんぼ」です。中央部には旅館「和可菜」があります。ここで終わりに見えても右側に小路があり、さらに奥にはいっています。上の絵(ID 14052)も電柱があり、やはり奥にはいけないという幻想があります。ここから心理的には昭和初期、ちょっと怖くて、わくわくする世界が始まります。

兵庫横丁 住宅地図 2017年

 遠景のビルは左は島田ビル(地上6階、1階はワヰン酒場)、右はオザワビル(地上7階と地下1階、1階は郵便局とカフェ・ベローチェ)です。どちらも神楽坂通りに接しますが、縦横高さの大きさでもオザワビルのほうが巨大です。

兵庫横丁は1960年代から…だと思う

文学と神楽坂

 1995年以前は兵庫横丁という横丁はありませんでした。では、この横丁はいつごろできたのでしょうか?

 まず江戸時代は嘉永5年(1852年)❶。下図は神楽坂4丁目に相当します。中央にある線が将来の兵庫横丁です。図は新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から。

❶ 江戸時代。嘉永5年(1852年)嘉永5年(1852年)の神楽坂4丁目

 次は明治29年❷です。元の図は小さく、でも読めます(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』から)。この変形した四角形が上宮比町で、番地は1番地から8番目で、上宮比町は将来の神楽坂4丁目に当たります。町の横丁は上から1本、下から2本です。右や左の横丁はまだありません。

❷ 明治29年明治29年

 次は❸の大正元年「東京市区調査会」(地図資料編纂会編。地籍台帳・地籍地図・東京・第6巻。柏書房。1989年)。上宮比町は同じで、ただし、もっと鮮明です。なお、将来の旅館「和可菜」は7番地になります。

❸ 東京市区調査会、大正元年東京市区調査会、大正元年

 次に新宿区教育委員会がまとめた『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)❹では、芸者と待合が中心で、普通の家はおそらくないといえます。中央の通りには外から上1本、下2本、さらに本多横丁からは2本の路地が中央の通りとつながっています。ここで中央の通りは兵庫横丁とは違います。

❹ 古老の記憶による関東大震災前の形。大正11年ぐらい。〇待合、△芸者、□料理屋

古老の記憶による関東大震災前の形

 関東大地震を大正12年に終えて、約15年後、昭和12年の都市製図社製『火災保険特殊地図』❺です。中央の通りは外から上1本、下3本となり、本多横丁はそのまま。さらに本多横丁から見返り横丁を通って中央の通りとつながっています。ごくぼそ、酔石横丁、紅小路の原型が出てきます。赤い線は崖なので、見返し横丁はこれ以上ははいりません。兵庫横丁もまだ出てきません。

❺ 昭和12年『火災保険特殊地図』昭和12年。『火災保険特殊地図』

 第二次世界大戦の中で、おそらく全てが灰燼になります。戦後、昭和26年には上宮比町から神楽坂4丁目になり、昭和27年❻になると、この町は相当変わってきます。新しい建造物はたくさん出て、また中央の道路も大きく変わっています。図の下から上に歩いて行く場合を考えてみると、まず右向きのカーブ、その後、左向きになっています。神楽坂4丁目の道路は上1本、下2本となり、さらに本多横丁からの1本(見返し横丁)が中央の通りとつながっています。

❻ 昭和27年。1952年。火災保険特殊地図

 参考ですが、この時期、ほとんどは下図のように芸妓置屋(黒)、料亭(灰)、割烹・旅館(薄灰)になっていきます。

神楽坂花街における歴史的建造物の残存状況と花街建築の外観特性。日本建築学会大会学術講演梗概集 。 2011 年。http://utud.sakura.ne.jp/research/publications/_docs/2011aij/7135.pdf

 ❼は昭和38(1963)年、 住宅協会地図部がつくる住宅地図です。中央の通りを見ると、外から上1本、下3本です。

昭和38年。昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③なくなり、本多横丁側は残り、見返し横丁に

❼ 昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③は一部の本多横丁側は残り、見返し横丁に

 ❼はあまり細かく書くと、ぼろがでそうな地図で、多分原っぱや空き地も多かったし、中央の道路はなく、庭なのか、道路なのか、不明です。以前は「四」から①右上方向に向かう通りがあり、これは明治時代からの通りでした。②さらに、左上方にも行き、点線の方向も通れるようになりました。これはやがて、兵庫横丁になります。また、③直接、本多横丁に行くこともできます。しかし、この通りはのちになくなり、本多横丁側だけは残り、見返し横丁になりました。

 次は❽で、1978年(昭和53年)、同じく日本住宅地図出版がつくる住宅地図です。中央の道路が左に凸と変わりました。矢印①がなくなり、矢印②と③の2つが残っています。外から中央の通りに上1本、下3本となり、さらに本多横丁からの1本が中央の通り(兵庫横丁)とつながっています。

❽ 1978年。住宅地図。

 2010年の❾です。ゼンリンがつくる住宅地図です。②は現在と同じ形です。③は行き止まりになり、見返し横丁になります。つまり、外から上1本、下2本が兵庫横丁につながっています。本多横丁から左に行くのは4本。下の2本は流れを変えて神楽坂通りにつながり、中央の1本が見返し横丁で行き止まりになり、上の1本が見返り横丁で、鍵はかかっていて、やはり行き止まりでした。

❾ 2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

 では、以上の経緯❿を見ておきます。下の地図を見てください。

❿ 経緯

 一番はっきりしているのは最下部の赤い四角()で、昭和から平成まで、どこでも4つ角があります。その上は赤い中抜き円()で、ここは階段の最上部で、降り始める場所です。その上は赤丸()で、右に行くと本多横丁にはいります。ところが、1980年以前にこの通りは消え、本多横丁のほうからはいると行き止まり(これは見返し横丁)になりました。次は青い四角()で、閉鎖した旅館「和可菜」です。昭和12年は青四角は中央の通りによりも左側に位置して7番地でした。平成29年には中央に入る通りの位置は右側に変わりますが、7番地の位置は変わりません。

 もうひとつ。一番上の「福せん」「福仙」について。兵庫横丁の出口にあるとすると、変わったのは道路が兵庫横丁の中に入ってからの位置と、兵庫横丁の道幅だけでは、と、そんな疑問もでてきます。でも、福仙の位置も昭和12年と昭和27年、昭和53年では変わっていて、昭和27年では昭和12年に比べて約半分ほど小さく、また昭和53年にはまた大きくなっています。

 つまり、全てを正確に話すことは難しい。絶対どこかにおかしなことがある。兵庫横丁の入口(ごくぼそ、酔石横丁、紅小路)はほぼ正確だとしても、その道幅は大きくなり、出口(福仙)も違うし、4丁目の家々もごちゃごちゃだもんなあ。

 この神楽坂4丁目の横丁も家々も多くは私有地なので、なんでもできる。と書いたところで、いえいえ、国有地もあるし、指定道路もある、といわれました。厳として変えられない部分がある。おそらく「戦後に一部地番が変わった時に位置が決まったと推定」されると地元の人。

 戦前は兵庫横丁という名前はありませんでした。1960年頃になって、ようやく現在の形で出現したと考えています。また、この頃(1960~65年)、石畳もできたと考えています。名前として兵庫横丁が記録されたのは平成7年(1995年)でした。

 最後に4丁目の現在と「古老の記憶による関東大震災前の形」から。

新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)と現在

山の手銀座の文人宿――神楽坂・和可菜

文学と神楽坂

泉麻人

泉麻人

 麻人あさと氏の「東京ディープな宿」(中央公論新社、2003年)です。
 氏は、慶応義塾大学商学部卒業。1979年4月、東京ニュース通信社に入社し、『週刊TVガイド』の編集部に所属。1984年7月に退社して、フリーランスに。雑誌のコラムやエッセイの執筆、テレビの評論などに従事しました。生年は1956年4月8日。

 神楽坂、というのは、いまどきの東京において”独特のポジション”にいる街である。いわゆる情報メディアで取りあげられる東京の街は、都心の銀座、それから六本木青山白金……といった港区勢、この港区を震源にした“オシャレ志向の街”は、渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川、さらに新宿を基点にした高円寺吉祥寺などの中央線沿線のグループと、大方東京の西部に点在する。
 こういった“山の手趣味”の面々に対して、人形町浅草谷中門前仲町柴又あたりまで含めた“下町”と冠されたスポットが東京東部に散りばめられて、ここに新進の湾岸都市・お台場が加わる――といった情勢である。
 地図を広げてみたときに、丸い山手線内の、しかも中央・総武線の上にぽつんとある神楽坂のポイントは、他から隔離されたような印象がある。都心のなかのブラックボックス、とでもいおうか。そんな、ふと忘れられがちなポジションが、おおよその東京の繁華街に飽きた通人の興味をそそる。「どこにアソビに行こうか?」なんてことになったときに、「神楽坂」の名を出すと、どことなく粋な印象が放たれる……そんな効果がある。

神楽坂 下図で、紫色の丸。
銀座六本木青山白金 黒丸で
渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川 赤丸で
新宿高円寺吉祥寺 ピンク色の丸で
人形町浅草谷中門前仲町柴又 青丸で
お台場 緑の丸で

地下鉄

地下鉄

 神楽坂は独特のポジションにいると氏はいいます。「山の手」でも「下町」でもなく、「他から隔離」して、「ブラックボックス」で、「忘れられがち」であっても、「粋」な場所。2000年までは「忘れらた」町、それ以降では、なぜか「粋」な町と書かれていることは確かに多くなってきました。

 ところで僕が神楽坂へ通うようになったのは、この10年来くらいの話である。通う、という表現はちょっと違うのだが、よく仕事をする新潮社が坂上の矢来町にある。オフィスの裏方に、古くから作家を“カンヅメ”にする屋敷があって、僕もそこを利用するようになってから、カンヅメ期間中、夜な夜な繰り出すようになった。
 そんな折、本多横丁周辺の小路をふらついていると、花街めいたなかなか味のある宿が見える。当初目をつけていたのは「かくれんぼ横丁」と名の付いた、クランク状の小路に見つけた「旅荘駒」という1軒だった。かくれんぼ、の名の如く裏道めいた場所と、「旅荘」という古風な冠にそそられたのだが、電話帳で調べて連絡すると、「予約はできません、夜10時からやってます」と、ぶっきらぼうに言われた。飛び込みオンリーの、いわゆる連れこみなのだ。
 ま、そういう所に1人で入るのも、ある意味で面白いかもしれないが、仮に満室で追い返されて、夜更けに1人路頭に迷う……なんてケースはやはり避けたい。もう1軒、編集者から「和可菜」という宿を聞いていた。僕は見落していたが、本多横丁の1本北方の小路に、黒塀を見せた趣きのある宿が建っている。取材の数日前、下見を兼ねてあたりを歩いたとき、門をくぐると感じの良さそうなおかみさんが出てきて、その場で宿泊の予約をとった。

屋敷 作者をカンヅメにする施設は新潮社クラブです。新潮社クラブ
旅荘駒 現在は「坂の上レストラン」にかわりました。

旅荘駒 かくれんぼ横丁

2000年ごろの旅荘駒

連れこみ 愛人を同伴し旅館等にはいり込むこと。
おかみさん 「和可菜」の女将さんは和田敏子氏でした。

 これで氏は「和可菜」に泊まってみました。

 お茶をいれにきたおかみさんに、この家の歴史などを伺ってみる。70くらい……と思しき彼女が、この宿を始めたのは昭和29年。うすうす噂は聞いていたが、昔から芸能関係者や作家……に親しまれた旅館だという。
「はじめの頃は、千恵蔵さんとか歌右衛門さん、東映の関係の役者さんやシナリオ作家の方に御聶厦にしていただきまして、そのうちにテレビが始まりましてね、『ダイヤル110番』『七人の刑事』のシナリオの方なんかがウチでよくカンヅメで仕事されてたんですよ」
 僕の年代が、ぎりぎりでわかる懐しい役者やテレビ番組の名前だ。
 その後、寅さんの山田洋次野坂昭如……と、お馴染みさんの名が挙げられた。作家でも、放送、芸能寄りの人々に愛されてきた宿のようである。(略)
 いわゆる“性事”をウリモノにした待合昭和33年の売春防止法の施行をもって廃止されたわけだが、芸者あそびをする料亭、の類いは昭和30年代の終わり、東京オリンピックの頃まで盛況を博していた、という。
「だいたい、坂を3分の1上ったあたりから上が、そういう大人の遊び場だったんですよ」
 3分の1というと、おそらく神楽坂仲通りから上の一帯、だろう。
「いまはぞろぞろ上の方まで若い学生さんたちが歩いてますけど、昔の早稲田の学生さんたちは、坂の3分の1までしか上がってこなかったもんです」
 まあ多少色を付けた話なのだろうが、かつては、そういう街としての“境界”がハッキリしていた、ということなのだろう。

70くらい 和田敏子氏は1922年に誕生しました。この文章が書かれた2001年には79歳になっていました。
千恵蔵 片岡千恵蔵。時代劇の俳優。生年は明治36年3月30日、没年は昭和58年3月31日。享年は満79歳。
歌右衛門 中村歌右衛門。歌舞伎役者。生年は大正6年1月20日、没年は平成13年3月31日。享年は満84歳。
ダイヤル110番 1957年9月から1964年9月まで日本テレビで放送された刑事ドラマ。
七人の刑事 1961年10月から1969年4月までTBSで放送された刑事ドラマ
山田洋次 映画監督。『男はつらいよ』など。生年は1931年9月13日。
野坂昭如 作家、歌手。生年は昭和5年10月10日、没年は平成27年12月9日。享年は満84歳。
昭和33年の売春防止法 「この法律は、昭和32年4月1日から施行する」と書いてあります。昭和33年に赤線が廃止されました。赤線とは半ば公認で売春が行われていた地域です。
早稲田の学生さん おそらく東京理科大学のほうが多かったのでは。市電や都電ができると、多くの早稲田の学生さんが遊びに行くのは新宿でした。
 今の本によると、昭和初めの当時、神楽坂には演芸館や映画館が5、6軒ばかりあったようだ。宿のおかみさんの話でも、いまパラパラで有名なディスコ「ツインスター」の所は、かつて映画館だったらしい。現在、神楽坂のメインストリートに劇場は1軒も見られないが、並行するこの軽子坂の下の方に、「キンレイホール」と「くらら劇場」というのが2軒並んでいる。キンレイは通好みの洋画の類いをかける名画座、くららの方はポルノ館である。
 くらら、という名も面白いけれど、横っちょに張り出された上映作品の掲示を何とはなしに眺めていたら、奇妙なタイトルが目にとまった。
「痴漢電車 くい込む犬もも」
 犬もも? 特殊なマニア向きの路線、と考えられなくもないが、これはやはり「太もも」の書き損じだろう。
 そんなおかしな看板を見た帰りがけ、宿の近くの小路で、不思議な表札に出くわした。立派なお屋敷風の家の玄関の所に「牛腸」とぽつんと出ている。料亭のようにも見えるから、もしや店の屋号かもしれない。牛の腸料理でもウリモノにしているのだろうか……。しかし、台湾料理の店なんかだったらわかるが、おちついた料亭風の佇まいに「牛腸」というネタは馴染まない。文人宿 帰ってきてからインターネットで検索してみたら、「牛腸」と書いて“コチョウ”と読ませる姓を持つ人が、けっこう存在することを知った。とはいえ、この夜神楽坂で目撃した「犬もも」と「牛腸」のネームは、謎めいた暗号のように脳裡にこびりついた。

パラパラ パラパラダンス。1980年後半、日本由来のダンスミュージック。
ディスコ「ツインスター」 1992年12月~2003年、ディスコの神楽坂TwinStarがありました。
映画館 1952年~1967年、メトロ映画館がありました。
キンレイホール 1974年にスタートした名画座で、ロードショーが終わった映画の中から選択し2本立てで上映する映画館です。一階にあります。
くらら劇場 成人映画館「飯田橋くらら劇場」は2016年5月31日に閉館しました。地下で3本立てで行っていました。
牛腸 「牛腸」は普通の一軒家でした。場所はクランク坂下。現在は「ROJI神楽坂ビル」で、料理店4軒があります。西に寺内公園があります。
牛腸


石畳|神楽坂|兵庫横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 なお、は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」の兵庫横丁・路地ガイドで、寺田歩氏(料亭幸本若女将)がその一部を発言したものです。またを叩くと地図は奥に進み、また手のアイコンを握れば上下左右に動きます。

 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。「兵庫横丁」です。やはり左側を流れる石畳は中央を流れる昔の石畳とすこし変わっています。

石畳|兵庫5

石畳|兵庫4

下水道でしょうか。よく見えます。これはう~ん微妙です。

 遠くから見るとたちまちきれいに見えてくるので、不思議。石畳

 上に乗った店もどこか違います。なお、この店舗はなくなっています。
石畳|兵庫2

 小さな路地も美しい。
石畳|和可奈

 2013年5月2日→2019年7月26日

和可菜|兵庫横丁

文学と神楽坂

 旅館「()()()」は昭和29年に木暮実千代氏が出資して、神楽坂4-7(兵庫横丁)に建築。女将は妹の和田敏子氏。一時は脚本家・映画監督・作家たちが本を書く「ホン書き」として有名でした。
 粋なまちづくり倶楽部の『粋なまち 神楽坂の遺伝子』(2013年、東洋書店)では和可菜旅館について

霧除けを帯びた入母屋造りの瓦屋根に下見板張りの外観は、玄関脇の植栽とともに閉静な路地に彩りを添えている。板塀にしつらえられた引違いの格子木戸は、動線を屈曲させてアプローチに「引き」を作る。玄関は洗い出し土間に自然石を沓脱ぎとして配し、台形の無垢板の式台ナグリ吹寄せ 竿縁の天井をしつらえるなど手の込んだ意匠が残る。腰には丸太を縦張りし高窓のガラス戸桟を人字型に加工するなど、旅館建築ならではの自由なデザインも見られる。

そう、建物として本当に何かが上品で流麗なのです。
 なお、ここで出てくる設計用語については

霧除け 霧や雨が入り込まないよう、出入り口や窓などの上部に設ける小さなひさし。
入母屋造り 上部で切妻造(前後2方向に勾配をもつ)、下部で寄棟造(前後左右四方向に勾配)となる構造。
下見板張り 外壁で板を横に並べるとき、板の下端がその下の板の上端に少し重なるように張ること。
格子木戸 碁盤の目の木の戸。
洗い出し たたきや壁などで、表面が乾かないうちに水洗いして、小石を浮き出させたもの。
沓脱ぎ 履物を脱ぐ所。
式台 玄関の土間と床の段差が大きい場合に設置する板。
ナグリ 舞台玄能。
吹寄せ 竿を2本ずつ寄せて入れるもの。
竿縁(さおぶち) 一般的和室天井張り形式。
縦と横1縦張り 縦に羽目板などを張ったもの。
戸桟 裏に桟を取り付けた、頑丈な戸。

外から見た旅館・和可奈

 明治大学教授の黒川鍾信氏の本『神楽坂ホン書き旅館』は02年に出版されました。
 NHK出版でそのPRを読むと『今井正、内田吐夢、田坂具隆、山田洋次、石堂淑朗、市川森一、竹山洋、野坂昭如、結城昌治、色川武大、伊集院静、村松友視。日本を代表する映画監督、脚本家、作家たちを、神楽坂の一角で四十八年間にわたって支えてきた「ホン書き旅館」の女将が語る執筆現場の秘話』だそうです。
 本当に「秘話」はちょっと大げさですが、でも「へー」という話が一杯入っています。たとえば、山田洋次氏が寅さんシリーズ第35作で初めてここにやってきた時の話。阿佐田哲也氏のマージャン大会の話。伊集院静氏が宿をここに置いた、その理由など。
 また黒川氏は05~06年、『神楽坂まちの手帖』第9号から第15号にかけて「ホン書き旅館の帳場から」を書いています。
 さらに小田島雅和氏が『神楽坂まちの手帖』15年第1号から第3号にかけて「和可菜通信」を書いています。中身は俳句の「くちなし句会」について。 「くちなし句会」は作家結城昌治氏を中心として俳句の句会のことです。昭和52年(1977年)から開始し、第4回句会以来は「和可菜」で行い、途中で中断がありますが、平成19年(07年)以上、25年以上も続いています。今もやっているのかどうかは、はっきり言ってわかりません。やっていると思いたいです。
 伊集院静氏は11年に『いねむり先生』を書きます。そこで、筆者2人がいるけど実は同一人物だと教わります。伊集院氏がその筆者を連れて

 神楽坂の通りを毘沙門天の向いから路地に入り、くねくねと曲がった石畳の階段を段だらに降りて行くと、黒塀に囲まれたその宿はあった。

 これは和可菜です。「段だら」とはいくつにも段になっているもの。その宿の庭については

 ボクたちはその宿の庭に面した濡縁(ぬれえん)に並んで座っていた。(略)
 ちいさな庭の中央に古びた池があり、手入れかされてないのか、水は涸れてしまっている池の真ん中に一匹の黒猫が吹き溜った枯葉とじっとしていた。(略)
 庭といっても数歩歩けば表に出てしまう箱庭で、時折、塀のむこうの坂道を通る人の足音かすぐ近くに聞こえた。

 濡縁とは雨風を防ぐ雨戸などの外壁はない縁側だそうです。
 しかし、『神楽坂まちの手帖』そのものは第18号になって消えていきます。以来、「和可菜」は沈黙し、声は聞こえてはきません。本当に今も外国人が多いのでしょうか? だれかインターネットを使ってくれるとよく分かるのに。
 06年の『神楽坂まちの手帖』第15号、「ホン書き旅館の帳場から」で黒川鍾信氏は和可菜を取り上げて寿命はもう「風前の灯」だといいます。

「昭和ニ十九年~現在 ここで三千本を超える映画・テレビドラマの脚本と数百編の小説が書かれた」と刻まれるだろう。
 「~現在」が「~平成○○年」に代わる日がくるのは、さほど先のことではない。いや、すでに半分は“休館”の状態である。

 ところが、07年のTVドラマ『拝啓、父上様』はまた大きく変わります。「和可菜」は架空の料亭『坂下』のすぐ隣りになり、第3話の架空の作家・津山冬彦(奥田瑛二)の写真もここで撮影しました。

かくれんぼ横丁(「和可菜」前)
  石畳に並んで立つ津山冬彦と芸者真由美。
  スチールをとっているカメラマン。
カメラ「あ、いいな!  いいですよ! 目線一寸上。ア! いいなァ!」
  その時、撮っている先方の角から和服の男が現われる。
カメラ「ア」
  一瞬ためらい、シャッターを切る。
  和服の男――ルオーさんである。


「和可奈」の前にたたずむ作家、津山冬彦。「拝啓、父上様」で出ました。

 今では和可奈は閉鎖しても閉められない場所になってきたのです。まるで遊園地、観光名所になったようです。いまでは休みの日には人人人です。

 2015年末に一時閉店しましたが、隈研吾設計事務所の手を借りて、2021年、再出発するようです。





神楽坂の通りと坂に戻る

神楽坂|兵庫横丁はどこから来たの

文学と神楽坂

 みんな兵庫横丁はどれぐらいから知っていますか? やはり2008年からでしょうか。それより前にはごく少量の人は知っていましたが、他の人は誰も知らなかったのです。

 たとえば……
 料亭幸本の若女将、寺田歩さんは2007年『神楽坂まちの手帖』第15号では

そういえば、この辺りを兵庫横丁っていうそうですね。住んでる人間は知らないもので、「へえ、名前が付いてるんだ」って驚きました。

といっています。

 もっと古く平成10年(1998年)夏号の『ここは牛込、神楽坂』では

井上 ここは神楽坂で、もっともきれいだといわれるところ。決定打がほしい。黒塀があったりして『しのび坂』はどうか。猫の通り道なので「猫坂」でもいい。
  “おしのび”という感じでいい。あのあたりは昔は確か本多横丁からも抜けられた。

 この座談会に登場する3人とも「兵庫横丁」という用語は全く知りません。

 さらに新宿区の『新宿区60年史ー新宿時物語』(新宿区、平成19年、2007年)では、なんと芸者新道という、別の場所の名前が正々堂々と付いていました。

新宿時物語

新宿時物語

 ところが平成22年(10年)の「神楽坂粋なまちなみルール」(案)では正々堂々と兵庫横丁が出てきます。

 実は水野正雄氏が『神楽坂界隈』「中世の神楽坂とその周辺」で「平成7年、神楽坂街づくりの会のフォーラムの際、ここの横丁名を「兵庫横丁を名付けるよう私から提案をしておいた」と、書いています。その際、やはり1説だと書けばよかったのに…。

提言「兵庫横丁」の命名を。
神楽坂まちづくりの会新宿区郷土史会 水野正雄。
 この周辺の横丁や路地に“かくれんぼ横丁”“見返り横丁”とかなんらかの名前がついているのですが、この横丁だけは名前がありません。なんとか名前をつけてみたいと考えています。今流で言えば「総理大臣首きり横丁」といったところですが、中世の町兵庫まちにちなんで「兵庫横丁」としたらいかがでしょう。そうすれば中世の記憶も残ります。
 兵庫まちにちなむことを是非提案いたします。
神楽坂地区まちづくりの会「わがまち神楽坂」平成7年

 まあこのあたり、歴史的な云々は別として、以前にはなかった場所、江戸時代ではまったくなかった路地だと、知っておきたいところです。江戸時代と現在では場所も違います。もう正しいことになったのでまあ仕方がない…としておきましょう。でも、兵庫横丁という用語はいい言葉です、うん。

兵庫7



神楽坂|兵庫横丁 と 兵庫町…想像図なんです

文学と神楽坂

 兵庫はひょうごだと兵庫県でいいのですが、へいこ、ひょうご、つわものぐらだと兵器を納めておく倉、兵器庫になります。では兵庫横丁と兵庫町は? 新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」では……

神楽坂五丁目

 神楽坂三・四丁目の西側、大久保通りまでの地域で、神楽坂の両側に広がる。江戸時代は武家地の他、神楽坂の両側および現大久保通りに面した横町の計五か所に分かれて牛込うしごめ肴町さかなまちが、神楽坂の北側に行元ぎょうがん門前もんぜんおよび寺地があった。

牛込肴町 家康の関東入国以前からの町屋で、はじめ兵庫ひょうごといったがその起立は不明。古くは豊島郡野方領牛込村内にあった村が、その後町屋になつたという。家康江戸入りの際には既に兵庫町と唱え、当時から肴屋が多く住む町屋だった。三代将車掌光の時代 家光御成のたびごとに肴を献上したため、今後は肴町と改めるよう酒井出居から仰せ渡され 町名を肴町とした(町方書上)。兵庫町という名称は、牛込城下にあることから、武器倉庫や武器職人があったためではないかという説がある。(町名誌)

肴町が5つの町に

安政4年(1857)『市谷牛込絵図』(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)から

 つまり、兵庫町から肴町に変わり、だから神楽坂五丁目なんだ、でまあ、いいと思います。

 ところが、兵庫横丁は、神楽坂五丁目ではなく、神楽坂四丁目なのです。四丁目なのに、どうして? はっきりいって、わかりません。だって、長いこと住んでいた人も「ここは兵庫横丁というんだ」と初めて知った人もいます。いまでは相当の人が知っていますが……

 ただひとつ、下図が頭に張り付いているのでしょう。でも、これは想像図ですよ。大手門も兵庫町もここでは空想で、いわば嘘です。しかも、神楽坂四丁目は江戸の昔は大きな家が建っていて、道路はありませんでした。江戸より前はまったくわかりません。

 想像図は楽しいので、おおいに出るといいと思います。しかし、区がわからないという場合、わからないのでしょう。でも、でも、ここは私道です。想像図も大歓迎です。

 ただし、想像だとはっきりいったほうがいいとは思います。また、兵庫町=肴町も正しい。でも、下図の「兵庫町」は正しいこともありえますが、現段階では空想の1つです。なお、原図は新宿区郷土研究会の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、1987年)で、新宿区の図書館や国立国会図書館から借りることができます。牛込城の想像図

文学と神楽坂

 兵庫横丁は軽子坂(厳密には違いますが)と神楽坂通りをつなぐ路地。昔は本多横丁ともつながっていました。

兵庫

 野口冨士夫『私のなかの東京』では

 読者には本多横丁や大久保通りや軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯を逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。

 石畳・黒塀・見越しの松と、もっとも神楽坂らしい一角です。元は路地の幅は3尺程度でした。この石畳・黒塀・見越しの松の3つについて見てみましょう。

 まず石畳ですが、西村和夫氏の『雑学 神楽坂』では

 坂下の石畳は…下駄履きの女性には敬遠された。下りは危険がともなった。その石畳が、戦後、アスファルトで改修されたとき、地域の要望で石畳は花柳街の路地に移され、黒塀と共に花街に風情をあたえることになった

と書いています。

 特に夜に賑わう花柳界では暗い中での足元を確保するという意味合いもありました。今のアスファルトによる舗装技術を持たなかった時代の名残りです。

 見越しの松は、塀ぎわで庭の背景をつくり、前面の景を引き立て、道路から見えるように塀の上まで伸ばした状態です。外からも見えるようになる役割があります。

「黒塀」とは柿渋に灰や炭を溶いたものが塗布した塀のことで、防虫・防腐効果がある液剤をコーティングし、奥深い黒になり、建物の化粧としても有効です。日本家屋は昔から木造でした。黒い液剤を塗ったものが粋でお洒落な風情を醸し出します。

「死んだ筈だよ お富さん」が有名ですが、その前に「お富さん」はこう歌います。
♪ 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪
やはり妾さんでしょうか?

 さらにすぐに先が見えなくなる路地も効果的です。「和可菜」の家は見えるけれど、それから先は何もわからない。実際には戦後すぐには本多横丁と数箇所でつながっていました。本多横丁で袋小路があったのを覚えていますか? 昔はそこは道で、通れたのです。それが家のため見えなくなり、かえって路地は横に曲がってしまうのです。

 また格子戸、打ち水、盛り塩もいい感じを出しています。

 格子戸は格子状の引き戸や扉で、採光や通風を得ることができます。()ち水は夏の季語で、ほこりをしずめたり,涼をとるために水をまくこと。()り塩は料理屋・寄席などで,掃き清めた門口に縁起を祝って塩を小さく盛ること。格子戸、打ち水や盛り塩はいずれも奈良・平安時代から続いていました。

 関係ないのですが、『村上のまちづくり』 案内人:吉川真嗣『黒塀プロジェクト』というのがあります。

 簡易工法ではありますが、ブロック塀を黒塀に変えるだけで町の景観を変えることができます。平成24年には約390mの黒塀が作られ、今後も延長予定です。また「安善小路と周辺地区の景観に関する住民協定」が締結され、電線の地中化や道路の石畳化を目指して活動が行なわれています。

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 黒塀、見越しの松、石畳をすべて使ってます。この地域はすごい。あっというまもなく、いい景観ができる。神楽坂などはこれに簡単に負けそう。


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