十方庵敬順氏が書いた「遊歴雑記初編」(嘉永4年、1851年)です。これは1989年、朝倉治彦の校訂で平凡社が復刻した部分から取りました。江戸川(現神田川)の「中の橋」で「むらさき鯉」があったといいます。最初は現代語訳です。
[現代語訳] 武蔵国江戸川の最上部は牛込区と小日向区との間にある目白下大洗堰で、ここで白堀上水を分け、あまった水は下流にながす。一方、江戸川の最下部は船河原橋であり、これで終わる(訳注。昔の神田川を神田上水、江戸川、神田川と3つに分けていました。現在は全て神田川です)。川の長さはおよそ2000mで、この間を江戸川という。しかし、誠実に呼ぶと、小日向の「中の橋」の上流220m、下流220m、前後440mをあわせた流れを江戸川という。 その理由は、「中の橋」の流れが大部分は深く、鯉も数多く、橋の上から見ると、大きな鯉では90~110センチに及び、たまには、110センチ強と思える緋鯉も見える。「中の橋」の前後は鯉は殊に多く、水中でただ一面に黒く光り、キラキラと泳ぐものはどれも鯉だ。どれも肥えて太っていて、あるいは、丸く短い。これをむらさき鯉と称し、風味で見ると、このむらさき鯉が一番良く、豊島荒川の鯉や利根川の鯉はこれよりも劣る。これを紫鯉というのは、江戸川という名前からきたもので、逆に、数千万匹の紫鯉があるからこそ、江戸川という名前がついた。以上が、江戸むらさきの由縁である。 この清流の鯉は、むかし、五代将軍徳川綱吉がここに御放流し、この鯉は成長し、さらに、八代将軍徳川吉宗も同じくここに放流してこの鯉も成長したので、「中の橋」の前後、川の中央部では550mほどの間は、「御留川」として、釣魚は厳禁である。また鯉は「中の橋」前後でだけ動き、外には行かない。ただし、大雨が降りつづき、満水する場合は違い、鯉は川下の竜慶橋の辺りにまで下がることもある。逆に水上の石切橋の辺りに上る場合もある。石切橋からの川上では、まれに網や釣りをして、鯉をとらえる場合もあるという。例年1~2度、2,3艘の御用船はならべて乗り入れ、鯉を採ることもある。 |
東武江戸川(現神田川)といふは、牛込と小日向の間に挾まりて、上は目白下大洗堰に於て白堀上水を分し余水の下流にして、末は船河原橋までの間、川丈長き事凡拾八九町、此間を惣名江戸川といひ来れり、しかれども誠の江戸川と指ところは、小日向中の橋の水上弐町、橋より下弐町、前後四町が間の流を江戸川といえり、 その故は、中の橋の水中は殆深くして、鯉魚夥し、大いなるは橋の上より見る処、弐尺四五寸又は三尺に及ぶもあり、邂逅には、三尺余と覚しき緋鯉も見ゆ、中の橋の前後殊に夥しく、水中只壱面に黒く光り、キラ/\と游ぐものは皆鯉魚なり、おの/\肥太りたる事、丸くして丈みじかきが如し、これをむらさき鯉と称し、風味鯉魚の第一、豊嶋荒川又利根川の鯉、これに継べしとなん、是を紫鯉といふ事は、江戸川といふ名によりて名付、又此処に紫鯉数千万あるが故に、江戸川とは称す、江戸むらさきの由縁によりてなりとぞ、 此清流の鯉は、むかし、常憲尊君(五代将軍徳川綱吉)爰へ御放しありて、生立しめ給ひ、後又有徳尊君(八代将軍徳川吉宗)同じく此処へ放して生立しめ給ふによりて、中の橋前後、河中五町程の間は、御止川と成て、釣する徒を堅く禁じ給ふ、此鯉魚中の橋前後にのみ住て、更に外へ動かず、但し、大雨降つゞき満水する時は、川下竜慶橋辺へさがるもあり、又水上石切橋辺へ登るもありけり、石きり橋より上にては、稀に網し釣して、鯉魚を得る事もありとなん、例年壱両度づゝ御用船弐三艘ならべ乗入、鯉魚を採しめ給ふ、 |
東武 武蔵国の異称。江戸の異称。
牛込 旧牛込区のこと。昭和22年以降は四谷区、淀橋区と合併し、新宿区に。
小日向 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
目白下 目白下は文京区目白台よりも標高は低く、江戸川橋の周辺で、場所は関口一丁目、水道二丁目、水道一丁目など。
洗堰 あらいぜき。常時水が堰の上を溢れて流れるように作った堰。
白堀 しらほり。開渠。蓋のない地上の水路のこと。
余水 よすい。余分の水
船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。文京区後楽2丁目、新宿区下宮比町と千代田区飯田橋3丁目をつなぐ橋。
川丈 川の長さ。
凡 およそ。おおかた。だいたい。約。
拾八九町 長さの単位で、1963~2072メートル
惣名 そうみょう。総名。いくつかの物を一つにまとめて呼ぶこと。呼び名。
中の橋 なかのはし。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けた橋。
水上 みずかみ。「みなかみ」で「流れの源のほう。上流。川上」
弐町 二町。約220メートル
殆 ほとんど。大多数。大部分
鯉魚 りぎょ。鯉(こい)
邂逅 「わくらば」と読み、「まれに。偶然に」
たまさか 偶さか。適さか。偶然。たまたま。
弐尺四五寸 2尺4~5寸。約91~95センチ
三尺 114センチ
緋鯉 ひごい。赤や白の体色の鯉の総称。普通、橙赤色。観賞用。
豊嶋 豊島郡。武蔵国と東京府の郡。おおむね千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、大部分の練馬区。江戸時代以降、江戸市中は豊島郡から分離。
江戸むらさき 色名の一つ。濃い青みの紫。16進法では#745399
常憲 第5代将軍徳川綱吉の戒名は常憲院殿贈正一位大相国公。
尊君 男性が、相手の男性を敬っていう敬称
爰 ここ。現在の時点・場所を示す語
生立 おいたち。生い立ち。育ってゆくこと。成長すること。
有徳 徳川吉宗の戒名は有徳院殿贈正一位大相国
御止川 御留川。おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所
徒 と。いっしょに事をする仲間。
竜慶橋 隆慶橋。りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。上図を
石切橋 いしきりばし。付近に石工が多かったため。別名は「江戸川大橋」。上図を
壱両度 いちりょうど。一回か二回。1~2回
御用船 江戸時代、幕府・諸藩が荷物運送などを委託した民間の船舶。
神田川は昔は清流だったそうですが、昭和30-40年代はドブ川になっていました。臭いから川の脇の道を歩きたくない。橋では息を止めて、急ぎ足で渡る。南こうせつの『神田川』という歌が流行しましたが、およそ現場を知らない夢想だなと感じました。
日本橋川とか渋谷川とか、都市河川は皆、同じような状況だったろうと思います。「臭いものにフタ」で暗渠にしたり、上に高速道路を通しても文句が出なかった理由の一つは、ドブ川が住民に嫌われていたからです。
神田川では、収集車で集めたゴミを水道橋駅の近くでハシケに移して下流に運んでいました。総武線の電車から見えたゴミ船や収集車の基地を記憶している人は多いと思います。いい印象なわけはないですね。
東京都が一念発起して河川浄化に取り組んで、ある程度の成果が出た頃だと思います。神田川に錦鯉を放したことがありました。高価なものではないんでしょうけれど、かつてのドブ川に紅白や金色の大きな鯉が泳いでいるを見つけたときは衝撃を受けました。行政のアピールとしては非常に効果的だったと思います。
その後、ちょっとは綺麗になった飯田壕を埋め立ててラムラが出来たわけです。反対運動も起きて、ラムラの前に清流を模した親水公園(といっても、ほんの浅瀬で、ほとんど水は流していません)を作りました。昔のドブ川のままなら反対運動もなく、渋谷川のように、ただフタをして終わりだったかも知れません。
今は見えなくなっていますが、飯田壕と牛込壕の間、牛込橋の下には江戸時代以来の大きな段差があります。この段差のせいで神田川の舟運は飯田壕までしか来られず、揚場町で荷下ろしをしていたわけです。牛込橋から市ヶ谷・四谷にかけての外堀はとても浅くて、1メートルもない。ボート遊びや釣りは出来ても運搬用のハシケは入ってこないので、昔の風情を残しました。神楽坂の住人にとってお堀とは通常、この牛込壕のことです。