高橋春人記録集世話人会「高橋春人その軌跡」(ビスカムクリエイティブ、1999年)です。氏は戦前から絵画・グラフィックデザイン・公共広報デザインの第一人者として活躍し、特に1964年の東京パラリンピックでは公式ポスター、大会マーク、メダルのデザインなどを担当。出生は1914年。死亡は1998年で、84歳。
死亡の翌年に出た「高橋春人その軌跡」ではまず春人氏の多数の作品を展示し、次に何人もの友人が弔意を表し「ここは牛込、神楽坂」編集長だった立壁正子氏はこう述べています。
恩 |
築地明石町 第8回帝国美術院展覧会(昭和2年)で帝国美術院賞を受賞した気品ある美人画。1972年に清方氏が逝去し、サントリー美術館の出品(1975年)を最後に行方不明に。2019年、東京国立近代美術館が購入した。
話し方教室 話し方教室の創始者は江木武彦氏。1954年10月、東京都成人学級の「上手な話し方」を始め、受講者が集まり、1960年代には興隆期に。神楽坂3丁目の五条ビルで話し方教室を開設。
タゴール カフェバー。名前の由来はインドの詩人でノーベル賞文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴール氏から。昭和62年(1987年)8月22日(土)、神楽坂3丁目の五条ビルで開店。閉店は平成16年(2004年)頃。
江木ませ子 生年は明治19年、没年は昭和18年。夫の江木定男氏は農商務省の役人。鏑木清方氏は父の江木保男氏の知人。清方氏の奥様の照氏はませ子氏の女学校時代の友達。15歳のませ子氏は淡路町の姉夫婦の家に移り住み、家事を手伝いながら通学した。鏑木清方はこの情景を捉えて
私が好きでかく明治の中ごろ、新橋の駅がまだ汐留にあつた時分で、もう出るのに間のない客車に、送るのと送られるのとふたりの美しい女学生を見た。送られる方は洋髪の人で車上にゐる。ホームに立つて送るのは桃割れで紫の袴を裾長にスラリとしたうしろすがたは、そのころ女学生をかくのにたくみだつた半古さんの絵のやうであつた。 |
亡くなってから改めて気付いたこと そういえば、あるとき、道で先生にお会いして、鏑木清方の家の跡をたずねてみようということになり、神楽坂にほど近い、矢来町の住宅街へ出かけたことがあった。その界隈の人に聞いてみたりしたが、誰も知らなかった。先生は、清方の随筆集『こしかたの記』を、繰り返し読んでいられるようで、「あの記述によると、確かこのあたりだが……」と、見当をつけられた。 今回、雑誌で特集をするにあたり、清方の家に伺ったことのある神楽坂の夏目写真館の夏目正衛氏にご同道いただき、その場所を教えていただいたが、夏目氏が、「様子が大分変わって断定しにくいが、たぶんこのあたり」と言われた場所は、高橋先生の推定とほぼ一致していた。 清方の特集のために、清方の随筆もかなり読んだが、そのところどころに、あ、これは先生から伺ったことだという箇所がよく見つかった。 よくこれだけのことを、しかも正確に覚えていて、それを伝えてくださっていたのだと、感嘆させられた。 そして、先生が、たいへんな読書家で、文学にも造詣の深い方だったということを知らされたのだった。 |
まだ続きます。
先生からいただいた宝物をもとに… 文学といえば、これも雑誌で夏目漱石の特集をした際、漱石の『硝子戸の中』をテキストに、少年時代の漱石がたどった夏目坂から神楽坂に至る道をご一緒に歩いたことがあった。 先生は、まず牛込台地の説明から始まり、「ここは松平備前守の下屋敷の跡で、その後、池になったところ」とか「ここは、狐が啼くような淋しいところで、このあたりにいた田山花袋も漱石も、神楽坂に出るときは、ここの長い田圃路を通って行ったんだよ」など、道筋に埋もれた歴史を解きあかしては、私たちを驚かせた。 『硝子戸の中』に記された漱石の家の前にあった小川が、いまは暗渠となっていること、その近くにあった床屋のあった場所がここと特定してくださったのも、先生だった。 ただ、漱石のお姉さんたちが、芝居見物に行くとき、“馬場下から、筑土を下りて柿の木横丁から揚場へ出て、屋根船に乗る”というコースに関しては、柿の木横丁がどこか特定できず、ベンディングとなったままになってしまった。 このほか、父上のお仲間だったということから、ひときわ思い入れをお持ちの田山花袋のこと、そしてご自身が面識のあった稲垣足穂のこと、矢来町の酒井屋敷のことなどなど、そのうちぜひご執筆をとお願いしておいたテーマも、まだいろいろ残されている。 これからは、お宅に伺ったとき、あるいは先生の作品を展示したギャラリーのソファーで、そして漱石散歩などのまち歩きにご同道いただきながら…その都度伺ったお話など、先生からいただいた大事な贈り物をもとに、一つ一つ、まとめていければと願っている。 先生ほんとうにありがとうございました。どうぞこれからも宜しくお導きのほど。 |
松平備前守の下屋敷 赤で描いた範囲が旧津山藩松平越後守高田下屋敷です。
狐が啼くような淋しいところ 「ここは牛込、神楽坂」第10号(牛込倶楽部、平成9年)の「金之助少年の歩いた道を行く」で「ここは牛込、神楽坂」編集長の立壁正子氏は「青年期にこの辺に住んでいた田山花袋が『早稲田町ここも都の中なれど雪の降る夜は狐しば鳴く』などど詠んだ淋しいところだったとか。漱石の『硝子戸の中』にも、“当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人家のない茶畑とか、竹薮とかまたは長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。”とある。『田山花袋もここを通って神楽坂へ出ていたんだよ』と先生」(先生は高橋春人氏)。
田山花袋氏は喜久井町20番地に住んでいました。これは下屋敷と同じ住所でした。
小川が、いまは暗渠 「硝子戸の中」16章では「宅の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があつて、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える」としています。詳しくは「漱石と『硝子戸の中』16」
馬場下から、筑土を下りて柿の木横丁から揚場へ出て、屋根船に乗る これは漱石と『硝子戸の中』21を参照。