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記憶の中の神楽坂(3)

神楽坂6丁目辺り

記憶の中の神楽坂(3)6丁目

神祗会館・社殿(神社?)
おばあさんが教祖で、息子が神主さんで、とても趣味が多彩な人だった。
✅ 一代だけの教祖でしょう。

京屋(染物・洗い張り)
神楽坂の名案内人として知られる水野正雄さんのお店。奇しくも神楽坂の名料亭「松が枝」と同じ明治38年の創業。花柳界をはじめたくさんの顧客に惜しまれつつ2003年の大晦日に閉店。
✅ 水野正雄さんは大正9年、神楽坂の染物屋に生まれ、旧制中学を卒業後、昭和15年に中国へ出征。帰国後は染め物洗張りの「神楽坂 京屋」として仕事に励み、その後、新宿区郷土研究会の二代目会長になり、さらに公認タウンガイドの第1号になりました。

戸塚医院(医院)
昭和初期の話だけど、『トツカッピン』いう薬をこの医院でわけてもらって大人たちが服用していた。これを飲むと、あそこがピンと元気になるというのだ。いわゆる精力剤だったのだろう。
✅ 戦後の昭和35年にはなくなっている。それより古い地図では、ありました。下図を。

水野正雄『神楽坂まちの手帖 第3号』(2003年)「新宿・神楽坂暮らし80年②」

白砂(純喫茶)
インベーダーゲーム機が喫茶店にずらりと並んだ頃、よく100円で遊びました。
✅ 2階の喫茶室 白砂 HAKUSAでした。写真左の看板に「日砂 ◯KUSA」と読めます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13227 神楽坂

水文(会席料理)
天丼なら、ここだったね。
✅ 帝都信用金庫よりも神楽坂上交差点に近い場所だったらしい。

田中屋(駄菓子)
あっ、あのころは駄菓子屋って言わない。百日菓子屋って言うの。スコップみたいなので測って百日分入れてくれるの。
✅ 地図から田中屋は昭和47年の「宝石タイヨウ」の場所。現在は薬屋の「ココカラファイン」。時計と宝飾品のタイヨウはビルの上で営業を継続、しかし、令和4年8月31日に閉店

桔梗屋(小間物屋)
女性が使う、つげの櫛やピンどめ。ろうそくなどをご夫婦で売っていた。ご主人は、神楽坂で人気者の幇間だった。
✅ 現在は不動産の「神楽坂商事」。ID 13227の右側には袖看板。下はTVの「気まぐれ本格派」から。

桔梗屋。気まぐれ本格派。1977年。19話

亀十パン(パン・洋菓子)
1960年代、私が小学生だった頃、亀十のサンドイッチを遠足へ持って行けるのが自慢だった。白い紙箱に入っていたハムサンド、ミックスサンドの味が今も思い出せる。コッペパンにピーナッツバターをぬったのもおいしかった。
✅ 現在は「おかしのまちおか 神楽坂」。当時の「亀十」についてはここを

ビストロtaga(フレンチレストラン)
玄関で靴を脱いであがるフレンチの店だった。日差しが差し込むリビングのような空間、カウンターになっていて、出来立てのフレンチをいただくひとときは、幸せだったなあ。誰かのうちでおもてなしされてるような、温かな気持ちになったっけ。
✅ 不明です。

武蔵屋(呉服屋)
店員がたくさんいて、野球のチームをもっていた。
✅ 現在は寝具店の「うらしま」。

武蔵屋呉服店。 気まぐれ本格派。19話。1977年

成金(駄菓子)
「成金横丁」の名前のもとになった、小さな駄菓子屋さん。カタヌキやソースせんべい、親指と人差し指でネチネチと練り合わせて煙を出す昔風の駄菓子があった。
✅ 不明です。「成金横丁」の名前には、加藤八重子氏の「神楽坂と大〆と私」(詩学社、昭和56年)では

成金横丁の謂われとは、聞くところに依ると、余りに逼塞した連中が成金にあやかるように景気のよい名を付けたとか、真偽の程は定かでないが…。

 また、加藤さんの発言を元に地図を作っても「成金横丁」は出てこない。成金はもっと昔?

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)。大弓場から俥屋まではあくまでも想像図。正確な地図は不明。

神楽坂・武蔵野館(映画館)
現在のスーパー「よしや」の場所にあった映画館。戦前は「文明館」「神楽坂日活」だったが、戦災で焼けてしまって、戦後地域の有志に出資してもらい、新宿の「武蔵野館」に来てもらった。少年時代の私は、木戸銭ゴメンのフリーパスで、大河内伝次郎や板妻を観た。
✅ 毎日新聞社『1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶』(写真 池田信、解説 松山厳。2008年)で武蔵野館の写真が残っています。さらに詳しくはここに

神楽坂武蔵野間館

越後屋(呉服屋)
「有明」のところにあった呉服屋。
✅ 6丁目の越後屋は、新宿区立教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」(64頁)では「缶詰の越後屋」。3丁目の越後屋は「呉服」なので、3丁目と混乱している?
 上の写真の左側に佃煮の「有明家」。渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007)によれば、昭和4年、有明家が開店。中屋金一郎氏の『東京のたべものうまいもの』(昭和33年)では

まっすぐあるいて6丁目、映画の武蔵野館のさきに、佃煮の…
『有明家』がある。昭和4年開店。四谷一丁目が本店で、ここの鉄火みそ、こんぶ、うなぎの佃煮をたべてみたが、やっぱりAクラスで、うす塩味の鮒佐とはまたちがったおもむきがある。店がよく掃き清められ、整頓しているかんじ。食べもの屋として当然のことながら、好感が持てる。ここの佃煮をいくら買ってもいいわけだけれど、まあ、鉄火みそ、こんぶだったらそれぞれ50円以上、うなぎは200円ぐらいから、買うのが妥当のようである。

 野口冨士男氏は『私のなかの東京』の中で

老舗のつくだ煮の有明家が現存して、広津和郎と船橋屋の関係ではないが、私も少年時代を回顧するために先日有明家で煮豆と佃煮をほんのわずかばかりもとめた。

カフェー・ダイマツ(カフェー)
昭和12、13年頃、今の100円ショップを曲った路地の右側に、とてもおシャレなカフェーがありましね。いつも中には、キラキラしたようなイブニングドレス姿のきれいな女給さんが7、8人いました。
✅ 不明。100円ストアは最初の地図で橙色で描かれています。

駿河屋(模型・プラモデル)
古く、落ち着いた建物に、模型やフィギュアなども置いてあって、ショーウインドーを覗く楽しみがあった。適度な明るさと、ホッとするような懐かしさが混在していた。閉店前の1カ月は、バーゲンセールで、なぜかロシア製とドイツ製の戦車が売れ残っていたので半額で買いました。でも、まだ組み立てていません。
神楽坂6丁目64番地。以前は蝋燭ろうそく屋だった。蝋燭とは、糸や紙縒りを芯にして、蝋を固めた円柱状の灯火用具。

6丁目。地東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

すっかり観光地な神楽坂

日本の特別地域⑤新宿区

文学と神楽坂

 昼間たかし氏と佐藤圭亮氏の「日本の特別地域⑤ 副都心編 東京都新宿区」(マイクロマガジン、平成20年、2008年)で、表題「すっかり観光地な/神楽坂だが/その裏は極小住宅集合地帯」、「注目されればいいってもんでもない」とした上で、こう書いています。

神楽坂ブームに
地元民は大迷惑

 2007年に放映されたTVドラマ『拝啓、父上様』。このドラマの放映と前後して、世間には「神楽坂ブーム」なるものが発生した。
 この地域に残っていた築数十年の民家は次々と和風のカフェに改築され、「隠れ家的なカフェ」として話題を集めた(行列ができて、まったく隠れていないけど)。『産経新聞』の2007年3月15日・東京朝刊にも高校生や女性客が殺到していることが記されている。この記事では、ランチタイムの回転率が2倍になったなどホクホク顔の飲食店の声が数多く取り上げられている。だが、これ以降、現在も続いている神楽坂ブームは近隣住民にとっては、それほど歓迎すべきものではなかった。住民のカンに触った第一はブームにあてこんだ商店街が『拝啓、父上様』のテーマソングを流し続けたこと。朝から晩まで森山良子の歌声が流れ続けるのは、新手の拷問。おまけに、土日は、ゾロゾロと観光客がうろついているものだから、サンダル履きでうろつくのも躊躇するくらい。2008年になり、多少は落ち着いた感じのするブーム。観光客は住民にとって、ありがたいものではない。
カンに触れる 癇にさわる。癇にれる。腹だたしく思う。気に入らない。しゃくにさわる。
森山良子 渋谷区出身の歌手。19歳でレコードデビュー「この広い野原いっぱい」。「禁じられた恋」「遠い遠いあの野原」「涙そうそう」の歌詞など。生年は1948年1月18日

スーパー戦争の謎
激安スーパーが敗北

 さて、ブームの御蔭で観光客を当て込んだ店が増加した神楽坂だが、本来は庶民のための店が建ち並ぶ地域。通りには、ちょっと高級めのチェーン「よしや」と、地元スーパー「きむらや」が店を構える。大江戸線の開通以降、増加する人口を当て込んで2003年には、近隣の大久保通り沿いに「京王ストア」がオープン、これに対抗する形で「きむらや」は牛込北町に2号店を出店。これ以降、現在まで苛烈な集客合戦は続いている。
 このスーパー戦争の最大の特徴は、どれも高級店であることだ。通常、このようなスーパー戦争になると、それぞれの店が値下げを繰り返し、消費者には嬉しい結果となると思うのだが、そんなことはまったくない。多少は値下げをしているかもしれないが基本的に、あらゆる商品は「神楽坂価格」、すなわち「モノはよいけど、ちょっと高い」という状態(「京王ストア」なんて、あわびを売ってる……。誰が買うの?)。
 どうも、神楽坂住民の特徴として、「値段よりも品質」を求めていることが挙げられるようだ。その証拠には、2007年に起きたある出来事がある。
 実は、2007年まで神楽坂通りには、もう一軒のスーパー「丸正」が店を構えていた。都内の人ならわかると思うが、肉や魚などの生鮮食品を非常にお手ごろ価格で提供してくれている、懐に優しいスーパーである。
 この3店舗が並んでいれば通例「よしや」か「きむらや」が先に撤退するのでは……、と思っていたら「丸正」がいの一番に「今後は江戸川橋店をご利用下さい」と撤退してしまったのである。「まさか!」と驚くだろうが事実である。
 こうして残った店舗には、今日も買っただけで美味い料理がつくれたような気分にさせてくれる高級食材やらが並び、繁盛している。
スーパー「丸正」 以前は神楽坂6丁目68にありました。現在は「美容室イグレックパリ(IGREK PARIS)」です。

神楽坂駅なのに
神楽坂にはない

 神楽坂駅が神楽坂にないことを知る者は少ない。
「ああ、駅のあるのは矢来町だもんねえ…」
と、鉄道マニアなら言い出すだろうが、それはまだ甘い。
 本来の神楽坂は一般に、神楽坂と認識されている範囲の半分程度にすぎないのだ。
 正確な神楽坂は、文字どおり坂のある部分だけ。つまりJR飯田橋駅側の外堀通り沿いの坂の終端から、大久保通りを交差する、神楽坂上の信号までの範囲だ。現在では、住居表示によって「神楽坂六丁目」という地名がつくられているが、ここはもとは「通寺町」と呼ばれ、神楽坂とは別の地域とされていた。ほかにも神楽の名を冠した地名として、飯田橋駅の駅ビルの建つところが「神楽河岸」と名付けられている。ここは、高度成長期に外堀が悪臭を放つようになったのをきっかけに埋め立てられた結果の新しい地名
 と、厳密に範囲を区切ってしまえば非常に狭い神楽坂の範囲だが、通常は北は文京区、東と南は千代田区との境まで、西も外苑東通りあたりまでは、「神楽坂だ!」と主張しても古くからの住民以外は納得してくれるだろう。
 さて、この神楽坂の裏手には、白銀町下宮比町という、これまた歴史を感じさせる地名のエリアが存在する。ここには、数年前までは、何軒かの「これぞ金持ち」という雰囲気を漂わせた屋敷が建っていたが、それらも気がつけばマンションに姿を変えてしまった。神楽坂は、都心の住宅地として、ひとつのステータスを確立しつつあり、あちこちでマンションやビルの建設が始まろうとしている。本当の町の変化はこれから発生するようだ。
新しい地名 間違えています。神楽河岸は土地名としては明治期に、町名としては大正期に既に出ています。詳しくは「神楽河岸|町名はいつから」で。

昭和を走ったチンチン電車|うゑださと士

文学と神楽坂

 うゑださと氏の「昭和を走ったチンチン電車」(新日本出版社、2014)から2作品「飯田橋の交差点をゆきかう15系統」と「牛込うしごめやなぎちょうの坂を上る13系統」をとっています。うゑだ氏は昭和23年に生まれ、25歳の時、漫画原作者の小池一夫らの編集プロダクションに入り、現在は水彩で日々の暮らし、街並み、祭り、童謡や歌謡曲の景観などを描いています。
 同書でうゑだ氏は「『昭和』の風景ですから、資料が頼りです。参考にさせていただいた資料を、巻末に参考文献として収録いたしました」。参考文献には「わが街わが都電」「都電が走った昭和の東京」「よみがえる東京」「都電が走っていた懐かしの東京」「都電」「都電の消えた街」「東京都電の時代」「都電春秋」と、名称と出版社だけが載っています。

『飯田橋の交差点をゆきかう15系統』国鉄のプラットフォームから見たアングル。右奥にはふな河原かわらばし
「右奥には船河原橋」とありますが、正しくは右奥に伸びる道は目白通り。その手前で赤や青の車が並んでいるのが船河原橋で、左右は外堀通り、見えない大久保通りが交わって飯田橋交差点をつくります。

飯田橋の交差点をゆきかう15系統

J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年

 参考文献はわかりませんでしたが、似たような写真がJ・ウォーリー・ヒギンズの撮影でありました。
 ただヒギンズの写真は1964年。うゑだ氏の風景画は、都電の塗装が1950年代までの通称「金太郎塗装」で、少し時代が違います。オート三輪も時代を感じさせます。「つる」は正確には「つるやコーヒー」。
 そこで図書館で調べました。吉川文夫氏の「東京都電の時代」(大正出版、1997)はどうでしょうか。この写真は1960年に撮られて、横書きの「つる」、オート三輪もよく似ています。都電だけが違っています。

吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)。国鉄飯田橋駅ホームから見た飯田橋交差点 手前の停留場のある橋が飯田橋 右奥は船河原町 (飯田橋 15系統 815号 昭和35年9月23日)

 飯田橋の都電としては3路線、つまり3系統、13系統、15系統がありましたが、15系統だけが描かれています。15系統の都電は飯田橋停留所から、右奥の目白通りにつながっています。左右の外堀通り(船河原橋)や大久保通りにも路線がありましたが、15系統とはつながっていませんでした。

吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)

『牛込柳町の坂を上る13系統』自転車の若者が歯を食いしぼり力走

牛込柳町の坂を上る13系統

 これはわかりました。三好好三氏の「よみがえる東京ー都電が走った昭和の街角」(学研パブリッシング、2010年)でしょう。

よみがえる東京ー都電が走った昭和の街角

 前後の道路は大久保通りで、左右は外苑東通り。柳町交差点は大久保通りの前後より標高が低く、凹になっているのですが、この水彩画ではわかりません。
 アカカンバンはスーパーで、倒産後に売却されて、現在「よしや SainE 柳町店」です。さらに神楽坂六丁目「よしや SainE 神楽坂店」でも同じで、当時はアカカンバンの店舗でした。その前の「パチンコたま◯」の◯はこの写真では分かりません。「パーマ」はその通り、水彩画の「ショールーム」は不明です。

文明館からスーパー「よしや」に

文学と神楽坂

 牛込勧工場、文明館、神楽坂日活、武蔵野館、アカカンバン、スーパー「よしや」について、土地は同一でも、時間が違います。明治時代には牛込勧工場が建ち、大正時代になると文明館に変わり、戦前は神楽坂日活、戦後は武蔵野館、アカカンバン、1970年代からは現在まではスーパーの「よしや」が建っています。
 アカカンバンからよしやまで裁判記録があり、東京地裁 昭和61年(ワ)4329号の判決をまとめると……

  1. アカカンバンが所有(店舗を営業)
  2. 昭和51年12月、グリーンスタンプに売却
  3. 昭和52年1月、よしやがグリーンスタンブから賃借
    (スーパーよしや開業)
  4. 昭和53年8月、よしやが買い取り

 まず明治時代の牛込勧工場。ここは最も古く、岡崎弘氏は『ここは牛込神楽坂』第6号「第4回 街の宝もの」で

文明館って活動(写真)になる前は勧工場でうちも瀬戸物の店出していた。勧工場というのはまあ、各商店の出店でね。食品はなかったけど。私か遊びに行くとみんなが絵を描いてくれたり、おもちゃこさえてくれたり、勧工場の人がいろいろ遊んでくれたんだよ。

 野口冨士男氏の『私のなかの東京』(「文学界」昭和53年、岩波現代文庫)では大正時代の文明館について

船橋屋からすこし先へ行ったところの反対側に、よしやというスーパーがある。二年ほど以前までは武蔵野館という東映系の映画館だったが、戦前には文明館といって、私は『あゝ松本訓導』などという映画ー当時の言葉でいえば活動写真をみている。麹町永田町小学校の松本虎雄という教員が、井之頭公園へ遠足にいって玉川上水に落ちた生徒を救おうとして溺死した美談を映画化したもので、大正八年十一月の事件だからむろん無声映画であったが、当時大流行していた琵琶の伴奏などが入って観客の紅涙をしばった。大正時代には新派悲劇をはじめ、泣かせる劇や映画が多くて、竹久夢二の人気にしろ今日の評価とは違って、お涙頂戴の延長線上にあるセンチメンタリズムの顕現として享受されていたようなところが多分にあったのだが、一方にはチャップリン、ロイド、キートンなどの短篇を集めたニコニコ大会などという興行もあって、文明館ではそういうものも私はみている。

 酒井潔氏の『日本歓楽郷案内』(昭和6年、竹酔書房)で、昭和時代の神楽坂日活館を書き

歓楽郷としての神楽坂は花街の外に、牛込館、神楽坂日活館という二つの映画館があるだけで、数年前までは山手第一の高級映画館だつた牛込館も、現在では三流どころに叩き落されて了った。なお寄席の神楽坂演芸場だけが落語の一流どころを集めて人気を呼ぶが、これとて昔日のそれと比較すればお話しにならない。

かぐらむら』の『記憶の中の神楽坂』「神楽坂6丁目辺り」では、終戦後の武蔵野館を書き

武蔵野館は現在のスーパー「よしや」の場所にあった映画館。戦前は「文明館」「神楽坂日活」だったが、戦災で焼けてしまって、戦後地域の有志に出資してもらい、新宿の「武蔵野館」に来てもらった。少年時代の私は、木戸銭ゴメンのフリーパスで、大河内伝次郎や板妻を観た。

 なお、毎日新聞社『1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶』(写真 池田信、解説 松山厳。2008年)で武蔵野館の写真が残っています。

神楽坂武蔵野間館

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座


私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑨

  文学と神楽坂

 以前には坂下が神楽町、中腹が宮比(みやび)、坂上が肴町で、電車通りから先は通寺町であったが、現在ではそれらの町名がすべて消滅して、坂下が神楽坂一丁目で大久保通りを越えた先の通寺町が神楽坂六丁目だから、のっぺらぼうな感じになってしまった。が、住民は坂下から大久保通りまでを「神楽坂通り=美観街」として、以前の通寺町では「神楽坂商栄会」という別の名称を採択している。排他性のあらわれかもしれないが、住民感覚からは当然の結果だろう。寺町通りにも戦前は夜店が出たが、神楽坂通りは肴町――電車通りまでという思い方が少年時代の私にもあった。『神楽坂通りの図』も、寺町通りにまでは及んでいない。

神楽町 下図で神楽町は赤色。
宮比町 下図で上宮比町は橙色。
肴町 下図で肴町はピンク。
電車通り 大久保通り。路面電車がある通りを電車通りと呼びました。
通寺町 下図で通寺町は黄色。なお青色は岩戸町です。

昭和5年 牛込区全図から

昭和5年 牛込区全図から

神楽坂通り 現在は神楽坂1~5丁目は「神楽坂通り商店会」です。
神楽坂商栄会 現在は6丁目は「神楽坂商店街振興組合」です。
電車通りまで 本来の神楽坂は神楽坂一丁目から五丁目まで。

 寺町通りの右角は天台宗の🏠安養寺で、戦前から小さな寺院であったが、そこから軒なみにして七、八軒目だったろうか、右角に帽子屋のある路地奥に寄席の🏠牛込亭があった。私の聞き違いでなければ、藤枝静男から「あそこへ私の叔母が嫁に行っていましてね」と言われた記億がある。だから自分にも神楽坂はなつかしい土地なのだというような言葉がつづいたようにおぼえているが、広津和郎はその先の矢来町で生まれている。そのため『年月のあしおと』執筆に際して生家跡を踏査したとき、彼は《肴町の角に出る少し手前の通寺町通の右側に、「🏠船橋屋本店」という小さな菓子屋の看板を見つけ》て、《子供の時分から知っている店で、よくオヤツを買いに来た》ことを思い出しながら店へ入ると、《代替りはして居りません。何でも五代続いているそうでございます》という店員の返事をきいて《大福を包んで貰》っているが、私も些少の興味をもって外から店内をのぞいてみたところ、現在では餅菓子の製造販売はやめてしまったらしく、セロファンの袋に包んだ半生菓子類がならべてあった。日本人の嗜好の変化も一因かもしれないが、生菓子をおかなくなったのは、寺町通りのさびれ方にも作用されているのではなかろうか。

軒なみ 家が軒を連ねて並び建っていること。家並み。並んでいる家の一軒一軒。家ごと。
セロファン セルロースを処理して得られる透明フィルム。

 矢田津世子『神楽坂』の主人公で、もと金貸の手代だった五十九歳の馬淵猪之助は通寺町に住んで、二十三歳の妾お初に袋町で小間物店をひらかせている。お初は金だけが目当てだし、自宅にいる女中の(たね)は病妻の後釜にすわることをねらっているので、猪之助は妻に死なれていとおしさを感じるといった構想のものだが、矢田はどの程度に神楽坂の地理を知っていたのか。猪之助は袋町へお初を訪ねるのに、寺町の家を出て≪肴町の電車通りを突っき》つたのち、《毘沙門の前を通》って《若宮町の横丁》へ入っていく。そのあたりもたしかに袋町だが、料亭のならんでいる毘沙門横丁神楽坂演芸場のあった通りの奥には戦前から現在に至るまで商店はない。袋町とするなら藁店をえらぶべきだったろうし、藁店なら寺町から行けば毘沙門さまより手前である。小説は人物さええがけていれば、それでいいものだが、『神楽坂』という表題で幾つかの地名も出てくる作品だけに、どうして現地を歩いてみなかったのかといぶかしまれる。好きな作家だっただけに、再読して落胆した

『神楽坂』 昭和5年、矢田津世子氏は新潮社の「文学時代」懸賞小説で『罠を跳び越える女』を書き、入選し、文壇にデビュー。昭和11年の「神楽坂」は第3回芥川賞候補作に。
小間物 こまもの。日用品・化粧品などのこまごましたもの
寺町 神楽坂六丁目のこと
通り この横丁に三つ叉通りという言葉をつけた人もいます
袋町 袋町はここです。袋町商店はない藁店をえらぶ  商店はありませんが、花柳界がありました。商店がないが花柳界はある小説と、商店や藁店があるが花柳界はない小説。しかも表題は『神楽坂』。どちらを選ぶのか。あまり考えることもなく、前者の花柳界があるほうを私は選びます。

1990年、六丁目の地図1990年、六丁目の地図

安養寺 牛込亭 船橋屋 よしや せいせん舎 木村屋 朝日坂 有明家
 船橋屋からすこし先へ行ったところの反対側に、🏠よしやというスーパーがある。二年ほど以前までは武蔵野館という東映系の映画館だったが、戦前には文明館といって、私は『あゝ訓導』などという映画――当時の言葉でいえば活動写真をみている。麹町永田町小学校の松本虎雄という教員が、井之頭公園へ遠足にいって玉川上水に落ちた生徒を救おうとして溺死した美談を映画化したもので、大正八年十一月の事件だからむろん無声映画であったが、当時大流行していた琵琶の伴奏などが入って観客の紅涙をしぼった。大正時代には新派悲劇をはじめ、泣かせる劇や映画が多くて、竹久夢二の人気にしろ今日の評価とは違ってお涙頂戴の延長線上にあるセンチメンタリズム顕現として享受されていたようなところが多分にあったのだが、一方にはチャップリン、ロイド、キートンなどの短篇を集めたニコニコ大会などという興行もあって、文明館ではそういうものも私はみている。

紅涙 こうるい。女性の流す涙。美人の涙
新派悲劇 新派劇で演じる人情的、感傷的な悲劇。「婦系図」「不如帰」「金色夜叉」など
センチメンタリズム 感傷主義。感性を大切にする態度。物事に感じやすい傾向
顕現 けんげん。はっきりと姿を現す。はっきりとした形で現れる
享受 きょうじゅ。あるものを受け自分のものとすること。自分のものとして楽しむこと
チャップリン、ロイド、キートン サイレント映画で三大喜劇王。
ニコニコ大会 戦前から昭和30年代まで、短編喜劇映画の上映会は「ニコニコ大会」と呼ぶ慣習がありました。

 文明館――現在のよしやスーパーの先隣りには老舗のつくだ煮の🏠有明家が現存して、広津和郎と船橋屋の関係ではないが、私も少年時代を回顧するために先日有明家で煮豆と佃煮をほんのわずかばかりもとめた。
 そのすこし先の反対側――神楽坂下からいえば左側の左角にクリーニング屋の🏠せいせん舎、右角に食料品店の🏠木村屋がある。そのあいだを入った一帯は旧町名のままの横寺町で、奥へ行くといまでも寺院が多いが、入るとすぐはじまるゆるい勾配の登り坂は横関英一と石川悌二の著書では🏠朝日坂または旭坂でも、土地にふるくから住む人たちは五条坂とよんでいるらしい。紙の上の地図と実際の地面との相違の一例だろう。

木村屋 正しくは「神楽坂KIMURAYA」。『神楽坂まちの手帖』第2号で、「創業明治32年菓子の小売から始まり、昭和初期に屋号を「木村屋」に。昭和40年代に現在のスーパー形式となり、常時200種が並ぶワインの品揃えには定評がある」と書かれています。「スーパーKIMURAYA」の設立は昭和34年(1959年)。法政大学キャリアデザイン学部の「地域活動とキャリアデザイン-神楽坂で働く、生活する」の中でこう書かれていました。現在のリンクはなさそうです。

―キムラヤさんは、初めはパンとお菓子をやられていたんですね。
 それは、明治ですね、焼きたてのパンを売ってたからものすごく売れたんですね。スーパーじゃなくて、パン屋をやりながらお菓子を売っていました。お菓子のほうがメインだったんです。その頃、焼きたてのパンなんて珍しくてね、パンをやるんだから銀座のキムラヤさんと同じ名前でいいんじゃないかって「キムラヤ」ってなったわけで、銀座のキムラヤさんとは全く関係ありませんからね(笑)