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牛込氏についての一考察|②牛込氏の牛込移住

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の②「牛込氏の牛込移住」を読んでいきます。②と③の問題はいつ名前を「大胡氏」から「牛込氏」に変え、住所を「群馬県大胡地域」から「神楽坂」に変えたのか、です。

  2 牛込氏の牛込移住
 牛込氏の先祖は、群馬県勢多郡おおの大胡城に住んだ大胡氏である。大胡氏は、藤原秀郷の後裔(牛込氏系図)と称し、大胡を領していたので大胡氏と称したが、大胡重行の時に北条氏康の招きで牛込に移住したという(『寛政重修諸家譜』)。そしてその移住年代を『日本城郭全集』(新人物往来社刊)では、天文6年(1537)前後と推定している。
 しかし、南北朝が合体した明徳3年(1392)には、すでに大胡には大胡氏はいなかったと見られている(『新宿区史』)
 その10年後の応永9年(1402)に、大胡氏が牛込に勧請したという赤城神社に奉納した大般若経の写経が、後述するが別当寺であった神楽坂のぎょうがん(明治45年7月、品川区西大崎4-780に移転)に所蔵されていた(『江戸紀聞』)。その一巻は、郷土研究家一瀬幸三氏宅に渡って所蔵されている。それからみると、遅くとも応永9年には赤城神社があったのだから、その勧請者である大胡氏が牛込に来ていたことになる。
 そこで、大胡氏は室町時代初期には牛込に移り住んでいたものと思われる。大胡氏は、大胡で牧場経営をしていたのではあるまいか。それで牛込の牧場管理のため、江戸の上杉氏の命で牛込に移住したのではあるまいか。

勢多せた郡大胡町 平成16年(2004年)12月以降は「前橋市大胡町」に変更
大胡氏 「寛政重修諸家譜」によれば

牛込
伝左衛門勝正がとき家たゆ。太郎重俊上野国大胡を領せしより、足利を改て大胡を称す。これより代々被地に住し、宮内少軸重行がとき、武蔵国牛込にうつり住し、其男宮内少勝行地名によりて家号を牛込にあらたむ

 つまり、姓は足利氏から大胡氏に変わったのは重俊氏、大胡氏から牛込氏に変更したのは勝行氏、住所の大胡地域から牛込地域に変えたのは重行氏の時と、寛政重修諸家譜では考えています。

藤原秀郷 平安中期の武将。平将門の乱を平定し、下野守・武蔵守となる。百足むかで退治の伝説で有名。生没年未詳。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」
 1543年から77を引くと生年は1466年(寛正7年)でした。

新宿歴史博物館 常設展示解説シート 大胡氏が牛込に居住したのは、勝行の時代からで、勝行が重行の跡を継いで姓を「大胡」から「牛込」に改めた可能性が高いのではと思われます。重行を牛込重行と記したのは「牛込」という地名を指しているからで、本来は大胡を名乗っていたのでは、との指摘もありますが、勝行の時に、大胡氏が牛込氏の遺跡ゆいせきを継いだと考えるのがスムーズかと思います。『寛政重修諸家譜』の成立は、寛政年間(1789~1801)と後世になり編纂されたものなので、時代を遡れば遡るほど、信憑性に欠けてききます。そのため、『寛政重修諸家譜』を疑いの目で見てみました。

寛政重修諸家譜」から。
重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす。
勝行かつゆき 助五郎 宮内少輔 入道号清雲。北條氏康につかえ、弘治元年〔1555年、川中島合戦〕正月6日大胡をあらためて牛込を移す。このときにあたりて勝行牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総国堀切、千葉ちば等の地を領し、牛込に居住。天正15年〔1587年、豊臣秀吉の時代〕7月29日死す。年85。法名清雲。

 下図「江戸名所図会」は江戸時代後期の1834年と1836年(天保5年と7年)に刊行された江戸の地誌です。ここでは「大胡重泰」氏がその所在地を前橋市大胡から牛込に変更したと書かれています。しかし、「重泰」氏は牛込氏系図寛政重修諸家譜の名前リストには載っていません。以下は「江戸名所図会」です。

赤城明神社 同所北の裏とおりにあり。牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野国赤城山と同じ神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。そのかみ、大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫しげやす当国に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし その居住の地は牛込わら店の辺なり 先に弁ず 祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり 当社始めて勧請の地は、目白の下関口せきぐちりょうの田の中にあり今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり

北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の武将。後北条氏の第4代。晩年、豊臣秀吉に小田原城を包囲され、敗れて切腹。[1538~1590]
日本城郭全集 日本城郭全集第4「東京・神奈川・埼玉編」(人物往来社、1967)では……

 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城(埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条[氏康]氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年前後と推察される。

天文6年(1537) 戦国時代。将軍は足利義晴で、室町幕府の第12代征夷大将軍。
明徳3年(1392)には……(『新宿区史』) 『新宿区史』(新宿区役所、昭和30年)の126頁では……
明徳4年(1393)には大胡の地は上杉氏の所領となつており、大胡上総入道跡とゆう書様から推すと、大胡の地には大胡氏は居なかつたように感ぜられる。若しそうとすれば牛込助五郎が史上に明文を見る大永6年〔1526〕までは何処にいたかと云うことになるが、この間の牛込氏の動向は史料を失いていて分らない。「米良文書」に「牛米てんきう」なるものが見えるが牛込氏との関係は不明である
書様 かきざま。書いたもののようす。かきよう。字や文章の書きぶり。
牛込助五郎 牛込重行です。(参照は「牛込氏文書 上」戦国時代)
明文 はっきりと規定されてある条文。わかりやすく筋の通った文章。
米良文書 めらもんじょ。熊野三山のうち那智大社に伝えられた古文書で、鎌倉期から室町期までのものが多い。

 また、赤城神社社史では……

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています。
 その後、牛込早稲田の田島村(今の早稲田鶴巻町 元赤城神社の所在地)に鎮座していたお社を寛正元年(1460年)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷し、さらに弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔(牛込氏)が現在の場所に遷したといわれています。この牛込氏は、大胡氏の後裔にあたります。

 1555年は天文24年=弘治元年の牛込勝行氏です。
 なお、繰り返しになりますが、「大胡彦太郎重治」は牛込氏系図寛政重修諸家譜には載っていません。
大般若経の写経 「江戸紀聞」の記載から「松原讃岐守入道妙讃大般若六百巻を書写として赤城の神祠に奉納にて応永の初より書写し文安元年甲子十一月七日おさむ」

江戸紀聞

江戸紀聞 えどきぶん。江戸時代の地誌。
室町時代初期 色々な考え方がありますが、文化庁重要文化指定目録の基準によると、応永時代~嘉吉時代(1394~1443)だそうです。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年

「江戸氏文書」室町時代

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)「1 牛込の夜明け前 (3)牛込文書と江戸氏」です。この本では『牛込文書』のうち江戸氏の文書7通について解説をしています。年代は1340年から1449年までで、室町時代にあたります。

武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)

牛込文書と江戸氏
 牛込氏の直系の子孫である、牛込本家(武蔵市西久保在住)所蔵の『牛込文書』という古文書が21通ある(東京都文化財)。この文書は中世後期(室町—戦国期)の新宿区域を、最も、具体的で正確に物語っている貴重な史料である。その古い時代のものから番号をつけると、①から⑦までが何故か江戸氏関係のものである。
 江戸氏は平安末期から鎌倉、南北朝時代にかけて、武蔵在地の武士団、武蔵七党の一つ、秩父党の分かれで、秩父重継の代から江戸庄を領として、江戸氏を名のり、代々、鎌倉幕府の家人を務め、その嫡男庶子を各地に配し、「八ヶ国の大福長者」と称されていた。以下、『牛込文書』江戸氏の項を要約すると次の通りになる。
武蔵七党 平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。
秩父党 平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一つのだま党だが、その中に秩父氏を名乗るグループがあった。例えば秩父孫次郎は北条氏綱による鶴岡八幡宮の再建に協力している。
秩父重継 平安時代末期(11世紀)の武将。武蔵江戸氏初代当主。
江戸庄 「庄」は「庄園」「荘園」ともいい、奈良時代から戦国時代までの中央貴族や寺社による私的大土地所有の形態。個人が開墾したり、他人からの寄進により大きくなった。鎌倉末期以後、武士に侵害されて衰えた。荘。
家人 かじん。家の人。家族。家臣。らい
八ヶ国の大福長者 八ヶ国とは関東。武蔵国千束せんぞく郷石浜(台東区)に着岸する交通のようしょう。東京湾内の漁船、太平洋海運で航行した西国舟が集まり、水陸交通を通じて富も集中。大福だいふくとは 非常な金持。

 似た文章は他にありまして、武蔵野ふるさと歴史館の「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)です。やはり「江戸氏文書」だけの前書を書いています。

 鎌倉幕府滅亡後、内乱が全国に及ぶと武蔵国でも南朝と北朝による戦乱が起こり、武蔵国の武士も多く参陣し、武功を挙げました。暦応2年(1339)に高師冬が関東執事に任命され、足利義詮の下で北畠顕家の追討にあたります。顕家の関東撤退後、義詮、鎌倉公方足利基氏により関東支配が進められますが、師冬、上杉憲顕の両執事の対立や関東管領畠山国清の追放の後、鎌倉公方 (基氏系譜)を関東管領上杉氏が補佐するという形で関東での内乱は終息することとなります。
 暦応3年(1340)、牛込郷の名が史料上初めて登場します。この時、鎌倉幕府滅亡後に幕府に仕えていた武士の没収地である荏原郡牛込郷の支配を足利方についた江戸近江権守が任されます。また、『鎌倉大草紙』によれば、応永23年(1416)に勃発した上杉禅秀の乱において江戸近江守が参戦し戦功を挙げるも討ち死にしたことが記されています。その後、応永30年(1423)には、豊島郡桜田郷内の沽却地(売地)を江戸憲重が取得します。こうした所領の給与は、戦に参戦し戦功を挙げた際に得られることも多く、中世の武士にとって、主君の戦に従い戦功を挙げることは名誉であり、生きる道でもあったのです。
 江戸氏はその後も代々の鎌倉公方との関係を構築していたようで、足利成氏、政氏にそれぞれ酒樽や鯛などを送っている様子がうかがえます。また武蔵平一揆による江戸惣領家の没落、永享の乱、享徳の乱における江戸氏庶流の鎌倉公方・古河公方方への参陣の様子から、江戸氏の衰退および牛込・桜田郷への支配権の喪失も関東における戦乱の中で起こったものと考えられます。

 では、文書を開いてみます。

「足利義詮御教書」暦応3年(1340)
 時代は室町幕府創設直後、当時の鎌倉府の義詮(尊氏長子)が執事のこうのもろふゆに命じて、江戸氏の所領であるいも郡(現埼玉騎西町)の替地として、荏原郡牛込郷けつ分(所有者のない知行地)を与えたものである。恐らく、鎌倉幕府滅亡から室町幕府成立期の混乱時に牛込郷は不知行地になっていたのであろう。

 この本文は一瀬幸三氏のものですが、他に[A] 矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)と、[B] あれば新宿区役所の「新宿区史」(昭和30年)[C] 武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)、[D] 新宿区教育委員会「新宿区文化財総合調査報告書(1)」(昭和50年)も加えています。文書①から⑦までの数は一瀬幸三氏の数字です。

① [A] 武蔵国守護の高師冬が鎌倉公方足利義の意を奉じて、江戸近江権守に崎西郡芋茎郷に替えて、闕所となっていた荏原郡牛込郷(現新宿区)を預置くことを通達している。牛込郷の初見史料である。暦応の年号を持つが、全体的な筆勢・花押共に弱い。(矢島氏)

「高師冬奉書」暦応3年8月23日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

① [B] この文書によると、江戸近江権守は今まで持つていた崎西郡芋茎郷が何らかの理由で没収されることになり、その替所として牛込郷が闕所になつていたので、それを足利氏から貰ったことが分る。従つてこれによると、本区牛込がはじめて史上に明文を見、江戸氏の領地になつたことを知るのである。しかし鎌倉時代の節に述べた如く、江戸氏は古くから本区と関係があると思われ、江戸近江権守が牛込を領したのが、江戸氏の本区支配の最初であつたとは思われない。逆に暦応に牛込の闕所地を江戸氏が領したのは、古くから縁故の土地であったためではなかろうか。(略)
 江戸氏が室町時代に於いて足利氏の配下にあったことは「太平記」、「後鑑」に見えるが、更に曆応3年の「牛込文書」によると、江戸氏は高師直の息参河守師冬の配下に属していたのではないかと思う。そうすると師冬は当時下総・常陸にいた南朝の軍と戦っていたのであるから(保暦間記・後鑑)、江戸氏もその軍に加わっていたのではあるまいか。その後、貞和5年に尊氏の息基氏が関東に下り、関東管領となったが、基氏はその時僅か十歳であった。そのため師冬はその補佐にあたっていた。従って江戸氏も亦自然基氏に属することになったらしい。(新宿区史)
① [C] 前年に関東執事に就任し、関東平定を推し進めた高師冬が足利義詮の意を奉じた文書。冬軍には多くの武蔵・相模国の中小武士らが従いましたが、長期の戦闘に疲弊し帰国を希望する者もあったといい、高幡不動本尊像内文書(国指定重要文化財 日野市・金剛寺蔵)には参戦した武士の実態が記されています。江戸氏も冬に従い戦功を挙げたと考えられ、本文書はその際の戦功として牛込郷の領有を認められたものです。(武蔵野ふるさと歴史館)
① [D] 鎌倉公方の足利義詮(尊氏の子)が、執事高師冬に命じて、江戸氏に芋茎郷(現騎西町内)の替地として、牛込郷の欠所分(不知行地)を付与したもの。宛名の江戸氏は庶流で名は不明。牛込郷のみえる最初の史料であり、荏原郡に属していたことも明らかである。(新宿区文化財総合調査報告書)

闕所 けっしょ。中世、没収や、領主が他に移ったりして、知行人のいない土地。闕所地。
預置く 預け置く。あずけおく。人や物を他の人に託して、保管・管理を任せる。

② 「前遠江守打渡状」応永30年(1423)。
③「一色持家書状」応永33年(1426)
 この書からは、当時の幕府管領と鎌倉府の対立状態が鮮明にわかってくる。

② [A] 前遠江守有秀が江戸憲重に対し、施行状の通りに豊島郡桜田郷の沽却地を打ち渡している。発給者の有秀の名字は未詳だが、署名・花押が小さいことから鎌倉府の奉行人クラスの存在と推定される。(矢島氏)

「前遠江守打渡状」応永30年11月21日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

沽却地 こきゃくち。「沽却」は売り払う。売却。沽却された土地。売買の対象となる土地。
② [C] 江戸憲重が桜田郷内の沽却地(売地)を与えられた際の打渡状。室町時代の武蔵国においては、鎌倉公方の命令により遵行を命じる奉書が作成されると、守護・守護代は遵行状(伝達命令文書)を作成しこれを取り次ぎ、遵行使を派遣して知行人に証状として打渡状を交付しました。応永23年(1416)の上杉禅秀の乱後に、足利持氏方についた武士らの還補(何らかの理由で失った土地を取り戻すこと)が認められており、桜田郷は以前から江戸氏が領有していたため、本文書も桜田郷の一部を江戸氏に還補された際のものと考えることもできます。(武蔵野ふるさと歴史館)
② [D] 江戸憲重の買得地である豊嶋郡桜田郷の下地を、江戸上野入道を証人として憲重に沙汰するという内容。(新宿区文化財総合調査報告書)


③ [A] 甲斐守護武田長と鎌倉公方足利持氏の合戦に関わるものである。鎌倉府奉公衆で武田信長討伐軍の総大将であった一色持家が、甲斐国田原(現山梨県都留市)に在陣中の江戸憲重の労をねぎらい、足利持氏に戦功を注進する旨を伝えている。端裏には切封墨引があるが、線に勢いがなく、切封の上に墨を引いた跡というより点を二点打ったような書き方になっている。(矢島氏)

「一色持家書」7月26日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

③ [B] 関東管領の下にあった刑部少輔一色持家から、長い間の在陣の労を謝し、忠節をつくしたことに対する感謝状がある。これが何時のもので、何処で誰と闘つたものか明確を欠いている。(新宿区史)
③ [C] ④号文書と関連する文書で、一色持家が応永33年の武田信長征討における江戸憲重の在陣の労をねぎらい、その忠節を足利持氏に報告するという旨を伝えた文書。持家の注進により④号文書が発給されました。(武蔵野ふるさと歴史館)
③ [D] この年(1426)6月に、鎌倉公方足利持氏は、甲斐の武田信長を攻めるため一色特家を遣わした。この文書は、従軍した江戸憲重の忠節を、持家が持氏に注申すると約束したもの。(新宿区文化財総合調査報告書)

④ 「足利持氏感状」応永33年(1426)。
⑥ 「足利成氏書状」。
⑦「足利政氏書状」。
 ⑥、⑦は共に年末詳。以上の三通の文書から、江戸氏は鎌倉幕府時代から御家人であり、終始、鎌倉府方に属し、やがて、その後引き起された「永享の乱」(1439)にも公方に従い、江戸を離れ、常陸へ移り、自ら衰亡の結果をつくっていった。

④ [A] 足利持氏が一色持家の注進を受けて憲重の田原での戦功を賞している。これは前者を受けて発給されたものである。全文一筆と思われるが、持氏の花押のバランスが悪く、寸法もやや大きい。筆跡も応永期より下ると思われることから、写と判断した。(矢島氏)

「足利持氏感状」応永33年8月11日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

④ [B] 関東管領足利持氏からの感状がある。多分この二通の文書(③と④)は関係のあるものであろう。そうすると江戸氏が戦っていたのは甲州田原の戦争であったことが分る。(新宿区史)
④ [C] 鎌倉公方足利持氏が江戸憲重に与えた直状。持氏が自らの花押を据えて戦功があった憲重に与えた文書で、直状のなかでも戦功に対する賞を述べるものは感状といいます。「田原陣」は甲斐国都留郡にあった田原郷をさし、持氏に従わない武田信長を一色持家率いる軍勢が征討にあたりました。憲重は持家に従い参戦しており、江戸氏と鎌倉公方との主従関係をうかがうことができます。(武蔵野ふるさと歴史館)
④ [D] 足利持氏も自ら甲斐国田原に出陣し、一色持家の注申に従って、江戸憲重の戦功を賞した。武田長は8月25日に征圧された。(新宿区文化財総合調査報告書)

⑥ [A] 足利成氏が江戸越後守に宛てた書状で、酒等の贈答品に対する礼を述べている。江戸越後守は憲重・重方の一族と思われるが、実名は判らない。この文書に据えられた成氏の花押はバランスが悪いうえに重ね書きをしていることから、写の可能性がある。(矢島氏)

「足利成氏書状」12月11日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

⑥ [C] 江戸越後守が酒樽などを贈答したことに対する足利成氏の礼状。成氏は足利持氏の子で、永享の乱により滅亡した鎌倉府を再興した人物です。成氏が対立する関東管領上杉憲忠を殺害したことがきっかけとなり、およそ30年にわたる享徳の乱へと発展します。乱勃発後まもなく成氏は鎌倉を奪われ、下総国古河に拠点を移しました。江戸城などを奪取した上杉氏は武蔵国からも多くの武士を動員しています。本文書は発給年代が不明であり、江戸氏が享徳の乱の最中に上杉と鎌倉・古河公方のどちら方で活動していたかは定かではありません。(武蔵野ふるさと歴史館)
⑥ [D] 成氏は持氏の子で、康正元年に古河に入り、文明末年まで家督していたのでその間のもの。榼(酒だる)到来の礼状。江戸氏が古河公方に従っていたことを示すものである。(新宿区文化財総合調査報告書)

⑦ [A] 足利政氏から江戸越後守に宛てた、鯛などの贈答品に対する礼状である。この鯛は、憲重・重方が桜田郷に所領があったことから、桜田郷の海辺から納められた可能性が高い。また裏書の記載から、牛込氏の分家に際しては江戸氏文書も分割して相続されていたことがうかがえる。(矢島氏)

「足利政氏書状写」12月9日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

⑦ [B] 該文書は基氏が江戸氏から贈物をもらつたのでその礼の手紙である。この文書が何時頃のものか年号がないので分らないが、基氏は「後鑑」巻34貞和5年(1349)10月26日の条を見ると、『是月、以将軍家次子亀若丸鎌倉管領、以上杉越後憲顯、高三河守師冬執事』とあって、貞和5年僅か10歳で鎌倉に降り、関東管領となっているから、それから彼が死んだ貞治6年(1367)まで約20年の間のものであろう。(新宿区史)
⑦ [C] 古河公方である足利政氏から江戸越後守の鯛など贈答に対して送られた礼状。政氏は延徳元年(1489)に足利成氏から家督を譲られます。本文書の発給年代は不明ですが、江戸氏が古河公方と主従関係があったことがうかがえます。(武蔵野ふるさと歴史館)
⑦ [D] 政氏は成氏の子。長享2年頃家督し、永正12年まで文書がみられる。鯛到来の礼状。(新宿区文化財総合調査報告書)

⑤ 「江戸憲重譲状」文安6年(1449)。<
clear=”left” /> 江戸氏内部で、所領の桜田郷、牛込郷の一部を憲重から江戸重方に譲渡するという内容であり、江戸氏が牛込の地を領有していたことを示す最後の文書である。

⑤ [A] 江戸憲重が同重方に対し、桜田知行分・牛込郷からそれぞれ5貫文、手作分などを譲り渡す旨を記した譲状である。これより重方は憲重の子息と考えられる。重方は既に文安元(1444)年に牛込赤城大明神(現赤城神社)に大般若経を奉納しており、これ以前から牛込郷の支配に関わっていたと思われる。この文書は全文一筆だが、筆勢・花押ともに大変弱く、写の可能性も否定できない。(矢島氏)

「江戸憲重詫状」文安6年5月15日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

⑤ [B] この二つの文書(②と⑤)により、江戸憲重が牛込・桜田の両郷を領有していたことを知る。更に又以上の文書よりして江戸近江権守と江戸憲重は父子か孫の関係ではあるまいか。江戸重通・江戸淡路守・江戸房重・江戸近江権守は同時代の人物と思われるが、「江戸氏系図」にも名前がなく横の関係は分らない。しかしこれ等江戸氏はいずれも一族であり、鎌倉時代の江戸氏の正統を継ぐものであろう。江戸氏は主として、桜田・牛込・浅草を中心とした地域に拠をしめ、その庶流は室町初期の頃までには更に拡がっていたらしい。(新宿区史)
⑤ [C] 江戸憲重が江戸重方に桜田知行分と牛込郷からそれぞれ5貫文と手作(直営の耕作地)等を譲与する旨を記した文。重方は、文安元年(1444)には牛込郷の鎮守である赤城神社(現新宿区早稲田鶴巻町)に大般若経600巻を奉納しており、この頃には牛込郷の知行にも関わっていたと思われます。そのため重方は憲重の嫡子と考えられます。(武蔵野ふるさと歴史館)
⑤ [D] 江戸憲重が知行地の全部を重方に譲与するというもの。とくに桜田郷の内の年貢五貴文と牛込郷の内の年責五貫文とが中心であり、このほか手作地(屋敷まわり)なども重方に譲与するというもの。年貴高反当り500文として、両郷で二町の土地になる。(新宿区文化財総合調査報告書)

 以上、7通の解説を読んでみました。①②⑤は領有地に関する問題で、他は戦功の感謝や酒や鯛を送ったことに対するお礼です。

暦応3年13408月23日① 鎌倉公方足利義詮は北埼玉芋茎郷の替地として江戸氏に牛込郷を付与。
応永30年142311月21日② 江戸氏が桜田郷を領有していたことが判る。
応永33年14267月26日③ 一色持家から江戸憲重氏の忠節を足利持氏に報告する。
応永33年14268月11日④ 関東管領足利持氏から武田氏との戦で江戸氏は感状を貰う。
文安6年14495月15日⑤ 江戸氏が桜田郷のほか牛込郷を領していた。
12月11日⑥ 足利政氏から江戸越後守に宛てた、鯛などの贈答品に対する礼状
12月9日⑦ 足利成氏が江戸越後守に贈った酒等の贈答品に対する礼

牛込の夜明け前。牛込要図。「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)(緑色は当方の追加)

太田運八|大田南畝ではない狂歌(3)

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏主宰の「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土会、昭和41年)「大田南畝と牛込」の1部分です。これも大田南畝ではない狂歌です。

 あるとき牛込赤城下を通りかかった。ところが、太田運八という武士が、駕先を横切ったといって、烈火のごとく怒り、無理難題をふっかけて来た。「何者ぞ名をなのれ」と、詰めよった。蜀山人はおくすることなく、懐紙をとり出して、すらすらと一首をしたためた。
  やれまてと、いわれて、顔も赤城下
     とんだところで、太田運八
くだんの武士これを読み破顔一笑きびすをかえすと立ち去った。

 半仙散人「ねぼけ先生」(福井春芳堂、明治34年)では……

   ◎顔も赤城下
 牛込赤城下にて、太田運八といえる駕籠先を切て、いたく咎められたる時、蜀山がわびの狂歌は
   やれまてと云はれて顔も赤城下
       とんだところでたほ運八うんはち

 ねぼけ庵主人氏の「頓智頓才蜀山人」(山口屋、大正3年)では……

   ◎五郎べ二人で十郎兵衛
 ある時、八丁堀の太田主水もんどという与力が、手先五郎兵衛を連れ、何か調べ物があって牛込赤城下を通りかかると、南瓜かぼちゃ五郎兵衛が前方から来たのを見かけた。太田主水は突加
「五郎兵衛得てっ」
と声を掛けると、五郎兵衛失敗しまったと思うと、その途端に真赤になった。
「それ取押えろ」
 太田主水が手先五郎兵衛に烈しく下知げじを下すと南瓜五郎兵衛ひらりと身をかわし、元の来た道へ疾風の如く逃げ出した。(略)赤城下は大変な騒ぎで人の黒山が築かれた。その中に交じった蜀山先生は、かねて主水とは知り合いの中なので、人を押し分けて進み出て
「太田氏お役目ご苦労」
「これはこれは蜀山先生でござったか、誠にしばらくでござる」
「それはお互いじゃ。しかしお変わりがなくて結構」
「有難うござる」
「時に只今の賊はなんという奴でござる」
「いや、あれは——先生なぞ名をご存知もござるまいが——おにあざみ清吉の子分南瓜五郎兵衛という大賊でござる」
「ははあ、あれが今お尋ね者の南瓜五郎兵衛でござったか、あいつ、今尊公に呼び留められて赤くなりましたな」
おおせの通り」
「そこで太田氏、
    やれ待てといはれて顔を赤城下
         飛んだ所でおほたもんど◯◯◯◯◯◯
いかがでござる」
「これはどうも即吟そくぎん、しかし、かような中で恐れ入りました」
下知 げじ。下に対して命令を伝える文書

 西郊散史氏の「頓智三名人:一休和尚・曽呂利・蜀山人」(盛陽堂、大正13年)では……

   ◎蜀山の赤面
 蜀山人は、常に狂歌三昧で、浮世を茶にして渡ったので、とかくに家政は困難で、ややとすれば、借金には、苦しんだことである。
 ここに、太田雲平というものがあったが、蜀山人は、このものから、金を借りたところ、急に返済ができぬので、大分に困却せられておった。
 ある時のことであったが、蜀山人は、牛込赤城下を通られますと、いやはや、廻るの神の引き合わせ、このところにて、ひたりと太田雲平に、出会わなれた。雲平は、これは、よい所で遭ったと、たちまち声をかけて、
「おいおい、蜀山先生、例の一件は。」
と言いかけましたので、蜀山は、もうたまらずなりましたので、
  やれ待て云はれてと顔も赤城下
      とんだところで太田雲平
と即吟したので、さすがの債鬼も、思わず、くすくすと笑ってそのまま別れたということでありますが、狂歌の徳は、いよいよ、驚きに感ずることでありまする。

 最初は咎められて1首、2番目は大泥棒を傍で見ていて1首、最後は蜀山人が借金取りから避けて1首です。最初の1首の「駕籠先を切て」は一体誰が何をしているのか私にはわかりません。意味は「道や列などを横切って通る」でしょうか。

浄溜璃坂は?|大田南畝ではない狂歌(2)

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏主宰の「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土会、昭和41年)「大田南畝と牛込」の1部分です。

 南畝は前にも述べたように狂歌師として、名高いだけに江戸の庶民に親しまれていた。したがって封間に伝わる逸話も多い。牛込に関するものをひろってみよう。
 例によって、飄々乎として、市が谷御門の辺りを散策していたときのことである。向うからひとりの武士がやって来て、浄溜璃坂は、どの辺であるかと問うた。蜀山人はその道を懇切丁寧に教えてやったところが、その武士は撥髪(横側を深く刷りこんだ髪の形)頭であったのと、身なりも異様であったため、思わず吹き出してしまった。武士は大いに怒って「そちは何者であるか」とつっかかって来た。蜀山人はその無礼を謝した。そこで
  ばち髪で浄溜璃坂を尋ねるは
     三味線堀の人にやあるらん
と詠んだ。で、武士も刀をおさめて立ち去っていった。
(注)下谷三味線堀には、佐竹公(秋田藩)の上屋敷があったのでそこの武士をいったものだろう。
飄々乎 ひょうひょうこ。考えや行動が世間ばなれしていて、つかまえどころのない様子
蜀山 蜀山人。しょくさんじん。大田南畝。江戸後期の文人、狂歌師。本名は大田直次郎。号はなんきょうえんものあかなど。蜀山人は晩年の号。
撥髪 ばちびん。鬢の形が三味線のバチの形になっているもの。

三味線堀 江戸下谷、不忍池から東南方に流れ、隅田川に合流していた忍川の下流の通称。現在の台東区小島町二丁目のあたり。大田南畝の純正の狂歌もあり……
   三階に 三味線堀を 三下り 二上り見れど あきたらぬ景

「ばち髪」の一首は大田南畝の狂歌ではなさそうです。では、その出典は? 飄禅散人氏の「滑稽洒落 三博士」(盛陽堂、明治39年)という噺か、さらに昔の笑い話でした。

 ある時のことでありました。蜀山人が、外出して、牛込御門の辺を通りましたるに、おりふし、向こうから、一人の、いかめしき武士が来て、蜀山に向かい、「浄溜璃坂は、いずこにてごきるか」と問われた。
 蜀山は、道を尋ねられて、「はい浄溜璃坂ですか。それは、これこれ、こう行けばよろしいのです」と指さし示して、別れたところ、この武士の頭が、撥髪にて、その風体が、いかにも可笑しきさまであったれば、蜀山は、別れる途端に、クスクスと笑われた。
 この武士は、この笑い声を聞いて、大にいきどおり、「その方なにものであるか、人の風体を笑うこと、はなはだ無礼である。そのままには、なしおかれまい」とだけだかに言われた。
 蜀山は、ギョッとして、「これは、はなはだ申し訳もないことをいたしました。拙者ことは、狂歌師にてござる。なにぶん、御寛大の処置にて、御免し下され」とわびられた。
 かのいかめしき武士は、これを聞いて、「ははあ、狂歌師にてあるか、これは面白いことである。さらば、今このところにて狂歌一首詠まれよ。それにて、無礼を免すである」と言う。
 蜀山は、狂歌の註文と聞いて、即座に、
  はち鬢で浄溜璃坂をたずぬるは
      三味線堀の人にやあるらん
とかくなん詠まれたので、いかめしき武士も、思わずくすくすと笑って、そのまま行かれたといいますが、狂歌の徳ならではこの危難は、なかなかに、免れぬことでありまする。

蜀山人伝説|新宿郷土研究(1)

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏主宰の「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土会、昭和41年)「大田南畝と牛込」の1部分です。

 赤城明神の境内の掛茶屋に赤城小町という評判のお軽という娘がいた。ある日誤って足軽の足もとに打ち水をかけてしまった、足軽は怒ってお軽を打擲におよぼうとした時に、参拝を終えて通りかかった、蜀山人は、「待たれい」と大声で、
  差しかかる来かかる足へ水かかる
       あしがる怒るおかる恐がる
と詠んだめで、見物人の中からどっと笑声が起った。足軽は強そうな武士と蜀山人を見たのか、そのまま逃げるように消えるのであった。
 この……狂歌は、寡聞にして知らないが、蜀山人の狂歌集の中にもない。しかし、本居宣長の有名な「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」の歌が本居宣長の歌集におさめられていないと同じように即興のために他の記録に遺されたものであろう。いずれにしてもこんな文芸は俗説で意味がないと、いわれるかも知れないが、牛込の住人にとっては拾てがたい挿話である。
打擲 ちょうちゃく。打ちたたく。なぐる。
蜀山人 しょくさんじん。大田南畝。江戸後期の文人、狂歌師。本名は大田直次郎。号はなんきょうえんものあかなど。蜀山人は晩年の号。

 色々調べてみると、この出典が出て来ました。明治33年の「文芸倶楽部」(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編「明治大正落語集成」講談社、昭和55年)でした。

赤坂の溜池ためいけから葵坂を過ぎ芝の久保町の通りより、ちょうど土橋のところへかかりますると人込みで、ドヤドヤ騒いで居りまする。今十七八のしんを足軽ていの男が切ろうとして居る。酔っては何いでなさるが蜀山も人の難儀は横に見てはいられません……どいたどいたと人を押分けて中にいり
蜀「あいや、お武家御立腹はさることながら、相手は採るに足らん女のことで、どういう義かはぞんぜんが、拙者仲裁をつかまつる。いよぅ……貴公は雲州家の御足軽、田口源吾どのじゃな」
足「先生お捨ておき下さい」
蜀「これさ、そう腹を立っては困るというのに、腹を立ちすぎると腹なりが悪くなる、ハハハハハ。時に女中、この場合に至った事情を話しやれ」
女「御親切によく御たづね下さいまする。妾はこの向う側の商売あきんどの娘にござりまするが、今日こんにち往来に砂ほこり立ち通行をなさいます方が御難儀とぞんじまして、水をまいておりました。するとこのお武家さまの袖のすそに少しかかりましたところから、御わびを申し上げましたけれど、なかなか御承知下さいません。武士の袖の裾を悪水をもってけがせし段、不届ふとどき至極につきうちに致すとの御腹立ち、殺されまするこの身はいといませんけれど、親共の歎きも思いやられます。どうぞ共々御わびあそばして下さいますやう、ひとえにねがい上げまするっ」
蜀「むーそれは飛んだことだったのう。して、その名は何んと申す」
女「与平娘かるでござります」
蜀「女じゃからの字がついておかるか、そりや詫びるところが違う」
女「どこへ出ましたらよろしう御座りまするっ」
蜀「そちの父が与平という、一つふやすと一平いちべいとなるそのむすめのおかるなら、忠臣蔵の七段目が相当じゃ」
女「戯言じょうだんおっしゃっちゃいけません」
蜀「戯言じょうだんじゃぁない。忠臣蔵の七段目はやはり田口うじ見た様な足軽で、寺岡平右衛門というがある。これが軽を殺さうとする、そこへ酒に酔っても本心さらに違わぬ国家老大星由良之助という蜀山同様なのが出て、そちを助命して取らするのじゃ」
田口「何んだ人、馬鹿馬鹿しい。自分ばかり家老気取りで、飽くまで俺を足軽にたとへやぁがる」
 独りごとふくれ顔をしておりました。
蜀「あいや田口うじ、拙者は風流に世を送るもの、別にお詫のいたしょうもない。どうかこの一詠で御勘弁を」
とさしいだしましたのを不承ふしょう不承で見ました。見る見るうちに苦い顔にえみを含みました。流石さすがは名人で有ります。
  きかかる来かかる足に水かかる
    足軽あしがるいかるおかるこわがる
とうとう腹立ちを笑いにまぎらしましたのも歌の徳でありまする。

 新演芸会編の「滑稽十八番」(堀田航盛館、大正3年)では……

 蜀山人は駕籠が嫌いですから、出羽様から、足軽が一人付いて宅まで送り届ける。
 蜀山人はのん気のもので、大層酔払いながら、ブラブラヒョロヒョロやって来る。足軽も後から付いて参りましたが、丁度堀江町の新道を通ると、ある家の表で、女中が格子の掃除をしていて、汚い水を向こう見ずに往来へ撒いたのが、通り合せた蜀山人には掛らなかつたが、供をして来た足軽の頭がら着物へ、ぐしゃと掛った。いやはや足軽は怒るまいことか。
「不埒の奴だ」と刀の柄へ手を掛けた。その当時は武士が刀の柄へ手を掛けたかと思うと、町人の首は向うへ飛んでいるという位で、こういう事は度々ありますから、さあ女中は驚いて蒼白になって、家の中に逃げ込む。
 家の中からは40格好の婦人が恐る恐る出て来て参りまして、「誠に飛んだことを致しましてどうも相済みません、万望御勘なさつて下さいまし」と詫びますと、足軽は「これこれ勘弁しろもないものだ、見ろこの通り、頭から着物まで、ぐしょ濡れだ。不埒の奴だ。只今の女をここへ出せ。」婦人「ではございませうが、万望そこを一つ御勘弁下さいませ……お前ここへきてお詫びなさい」といわれて女中はぶるぶる慌いながらそこへ出まして両手をつかえ、「どうか勘弁下さいまし」という声さえ、口の内にて、歯の根も合はず、ぶるぶる振えております。
 それこも知らず行過ぎたる蜀山人、跡をふり返って、づかづかと帰って来て蜀山「どうしたどうした」足軽「先生只今かくかくの次第で」蜀山「まあ、そんなに怒っては仕方がない、勘弁さっしゃい、これこれ御女中、お前は何という名だ」女中「はい、お軽と申します」蜀山「お軽か、うむ、おかるにしちぁちょっと受け取り難いが、まあまあ心配なさるな、拙者がお詫びをして上げるから」と持っていた扇を取り出し、ひらりと開いて、腰の墨斗の筆を染めて、サラサラと書いて、足軽の前へ差出し、濁山「これで勘弁さっしゃい」言われて足軽も怒つてはいたものの、是非なく、先生が何んなことを書いたか取上げて見ると、
    行きかかる、、、来かかる、、、足に水かかる、、
      足軽いかる、、、おかるこわがる、、
 取り上げて見て足軽も吹き出し、足軽「先生有難うございます、これを頂戴したうございます」蜀山「あげるから勘弁さっしゃい」足軽「勘弁も何もありません、どうも先生ありがとございます。」そこで家の者を始め、女中のお軽も、大層喜んで厚くお礼を申し述べたと、いうことです。

 現実に起こった事実ではなく、落語だったんですね。実際の逸話ではなく、面白い咄でした。
 岩波書店の「大田南畝(第1次)月報」19「蜀山人伝説を追う(18)」(2000年)では……

 思えば、明治の中頃から大正時代へかけて、蜀山人説話はまさに花ざかりであった。概算であるが、明治に12冊、大正に17冊、合わせて30冊近い書物がかくも繰返して出版されたことに感嘆に似た気持すらおぼえる。もっとも、それらの大半以上が、読物としては巧妙でおもしろく出来上っていても、蜀山人その人の実像とはかけ離れた、根も葉もない虚譚に富む、ほとんどが他愛のないものばかりだといってよいのであるが、しかし、庶民の誰にでも親しまれる蜀山人像を思いきり描いてみせた熱意、それに対しての感銘は深い。言葉は悪いが、蜀山人という名前が商品として通用した時期、もちろん、読者の側にも、出版者の側にも、蜀山人に対する熱烈なる敬募の思いがあったればこその結果であるが、みんなで、蜀山人を伝説の主人公に仕立てあげようとする、強烈な時代風潮が脈々としてあったとすべきである。
 実像とは別に、その生涯が伝説と説話で彩られた人物に、西行と芭蕉がある。「撰集抄」「西行物語」「芭蕉翁行脚物語」「蕉門頭陀物語」などは西行と芭蕉の伝説面を流布する大きな役目を果してきた。一休禅師と會呂利新左衛門もまたそうで、「一休諸国物語」「一休ばなし」「會呂利咄」などの書物が長い間多くの人びとに親しまれた。濁山人を含めた、日本文学史上の大人物たちが、私たちの心の中に身近な姿で生き続けてきたのは、麗わしくもまた心強い伝統だというてよい。
 それにしても、こんなにまでもてはやされた蜀山人説話のあまりにも著しい衰退ぶりはどうであろう。逸話、風聞、伝承、狂歌説話など、虚の蜀山人像を形成してきたもろもろの要素一切を含め、本稿でそれを蜀山人伝説と総称してきたが、まさに、いま蜀山伝説は滅びんとしているといって過言でない。虚の蜀山人像を支持してきた土壌がもはや崩壊せんとしている。私たちが少年時代に愛読した少年講談の「蜀山人」を掉尾に、昭和の後半に蜀山人伝説が全く影をひそめてしまったのは淋しい限りだといわねばならぬのである。
 今後、蜀山人の実像は「大田南畝全集」の完結によってますますその全容が明らかにされて行くにちがいない。それに呼応して、先人たちがはぐくんで来た虚の蜀山人像もまた幾久しく生き残って行ってほしいことが願われる。そのためには、少年講談の「蜀山人」が岩波文庫に編入され、知識人層に新たに数多い読者を獲得するといったくらいの思い切った荒療治が必要なのではあるまいか。
掉尾 ちょうび。とうび。最後に来て勢いの盛んになること。単に「最後に」。

ご維新前後の牛込

文学と神楽坂

新宿郷土研究第2号

 新宿郷土研究第2号に「ご維新前後の牛込」(新宿郷土会、昭和40年)がでています。なお、筆者は「KI生」だと書かれていますが、この本では編集者の「一瀬幸三」以外には名前は書いていません。「KI生」と一瀬幸三氏、似ています。一瀬氏は東大農学部の獣医で、満洲の動物園や雪印乳業で働き、退職後は郷土史家でした。
 江戸から明治に変化し、武士の俸禄はなくなり、そこで慣れない商売に飛び込み、また武家屋敷を茶畑や桑畑に変えた人も少なからずいました。

 士族の商法
 無血革命によって、慶応4年(1868)は明治元年と改たまり江戸は東京というようになった。
 その頃は、
 上からは明治だなどと、いうけれど、治明(おさまるめい)と、下から読む。
 上方のぜい六どもがやってきて、とんきよう(東京)などと、江戸をなしたり。

などの落首が流行した。
 徳川旗下の数万人は無祿となり地所は上地され、ちょうど終戦後の軍人と同じような境遇となった。そこで新政府へ抱えられるか、駿州(静岡)へ移住しなければならなくなった。しかし、多くは3000石以下の者でそのまま残って帰農、帰商するものが多かった。
 牛込辺も祿高の多い旗本屋敷や大名の下屋敷が多かったので、にわか商人が誕生した。それを当時『士族商人の見立番付』の3枚物が出版された。それによると、牛込辺では、
〇牛込大坂(逢坂)あまさけ大安売り
〇市谷大坂(逢坂)ろうそく
根来組八百屋の大安売り
〇牛込つくど(築土舟ばやしのつけもの
牛込御門もろみおろし
〇牛込わら店の茶店
市谷本村水油売り
 とくに評判だったのは市谷柳町通りの加賀屋敷の久貝因幡守の屋敷で豆腐屋を始めたことであった。何しろ1500石取りの豆腐屋というので、お客が恐縮して受取るということだった。
『評判武家地商人』に、
  市谷柳町
        名代とうふ
  元祖久貝亭
 と、いうは名ぶつ、風味極上、其外かんぶつ、つけ物、あら物、品は上々安うりあきない。遠近こぞってしらぬものなく、こん度元祖の大商人。
 しかし、いわゆる士族の商法として長くつづかなかったようである。

ぜい六 ぜいろく。ろくでもない奴。江戸時代、江戸の者が関西の人を嘲(あざけ)って言った呼び方。
とんきょう 頓狂。だしぬけで調子はずれなこと。あわてて間が抜けていること。
落首 らくしゅ。時局の風刺や権力者を批判、嘲笑した匿名の文章や詩歌のうち、とくに詩歌形式のものを落首という。
無祿 祿がないこと。知行・給与のないこと。
上地 領主が配下の者から没収した土地。
舟ばやし わかりません。はやし(噺)は能・狂言・歌舞伎・長唄・寄席演芸など各種の芸能で、拍子をとり、または気分を出すために奏する音楽。
もろみ 酒や醤油、味噌などの醸造工程において複数の原料が発酵してできる柔らかい固形物。
おろし 大根・わさびなどを擦り崩したもの。
水油 みずあぶら。液状の油の総称。頭髪用の椿油や灯火用の菜種油など。灯油の異称。
かんぶつ 乾物。魚、肉、海藻、野菜などを日光や熱風などで乾かし、水分を少なくした比較的保存性のある食品
あら物 荒物。ほうき・ちり取り・ざるなど、簡単なつくりの家庭用品。

□茶畑と桑畑
 牛込は屋敷を取りこわして、茶畑にしたところは意外と少くなかった。もっとも朱引内外といって、東は本所扇橋川筋を限り南は品川県境より北は小石川伝通院、池ノ端、浅草、橋場を限りこの範囲なら士族の住居を認めたことにもよるものであろう。
 それ以外に武家屋敷では新政府へ明け渡したり、取りこわされたりしたもので、勝手に処分はできなかった、当時の俚謡に、
 お江戸見たけりゃ今見ておきやれ
    今にお江戸は原となる
と、いうのがあった。
 明治2年(1869) 武家屋敷をうち捨てておくのは不経済であるというところから「桑茶を植えるべし」と、東京府知事の発令があった。
    今般東京府下民産別立之為諸邸宅上地之分御郭内外市在共総て桑田茶園開墾被仰付云々
 この当時の地価は牛込神楽坂でも千坪十円から25円位が通り相場であった。しかし、外囲いの費用がかかるので、誰れも引受け手がなかったということである。
 牛込で土蔵3ヵ所、表長屋1棟、表裏門共に16両で売り払ったという有名な話もある。
 土地はまもなく払い下げられたが、桑茶畑にならないところは便所と屋敷神としての稲荷社のみが残ってうす気味わるく、さびしいものであった。
 その頃の俚謡に、
      花のお江戸へ桑茶を植えて
         くわでいろとは人は茶に
と、いうのがあった。
(KI生)

朱引 しゅびき。江戸時代、江戸の府内と府外を地図に朱を引いて分けたもの。府内と府外の境界線。
俚謡 りよう。日本の民謡の古称の一つ。俚はいやしい、ひなびたなどの意味
桑田 桑を植えた畑。くわばたけ。
外囲い そとがこい。建造物や敷地などの周囲を囲うもの。塀・さくなど。
くわでいろとは人は茶に わかりません。

福島中佐と単騎シベリヤ横断

文学と神楽坂

福島安正中佐

 一瀬幸三氏は「牛込矢来町の福島中佐と単騎シベリヤ横断」(新宿郷土会、新宿郷土研究史料叢書、平成2年)を書き、氏は高年になって郷土史家として発揮しています。
 一方、福島中佐は明治・大正の陸軍軍人で、維新後、大学南校に入学して英語を習い、明治7年、陸軍省に入り、明治15年に朝鮮に派遣、翌年北京公使館付武官となり、満州とモンゴル方面を踏査。明治20年、駐独武官としてバルカン半島を視察、帰国の際、ロシアのシベリア鉄道建設の状況視察のため、明治25年2月からベルリンからウラジオストクへと、1年4カ月かけて単騎横断を行いました。
 では、一瀬氏の記載に行きましょう。

     はじめに
 私は最早や80歳を越えた老人であるが、少年の頃は、単騎シベリヤ横断の快挙をなし遂げた、福島中佐(安正・後の大将)を英雄として崇拝していたものである。
 それというのも小学生当時は寄るとさわると、「偉い人だったんだってねえ」と、話合ったものである。そんなことから私の蒐集癖は福島中佐に関するものを手当りしだいに集めてきた。今ここにそれらを整理して置こうと小冊子を出すことにした。
 私の小学校入学は、山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市)の谷村町高等尋常小学校で入学したのは、大正7年(1918年)4月であった。体操の時間や運動会には、必ずといっていいほど、福島中佐の作歌『波蘭(ポーランド)懐古』が、歌われこれに遊戯がついていて、いやでも自然に口遊むようになった。
 ところが、奇縁といおうか、福島中佐の居住地であった矢来町に近い山伏町に住むようになって、一層その念を強くして、ここにもはや忘れられた英雄の足跡を改めて記録しておこうと思ったことに外ならない。
都留市 地図参照
波蘭懐古 ポーランド懐古。明治の軍歌。作詞、落合直文。作曲、不詳。その1番は「ひと日ふた日は晴れたれど 三日四日五日は雨に風 道の悪しきに乗る駒も 踏みわづらひぬ野路山路」

 この勇姿はいろいろな形ででてきたという。著者蔵の例では……

雪の広野を行く福島中佐

壮挙を終え帰国した福島中佐

 福島中佐の快挙 明治25年(1892)2月11日ベルリンを出発して、単騎シベリヤ横断をおこなって、勇名を馳せた。福島安正陸軍中佐は、当時、牛込矢来三番地中の丸24号に居住していた。これについては後述する。
 中佐はドイツ駐在武官をしていた頃、陸軍省に対し、「中央アジアの政治・経済・国情の調査をして行かないと、国家百年の計は樹てられない」旨の上申を行い、これが軍部の容るところとなって、駐在武官の任期満了を機会に、明治25年2月11日を期して、単騎ベルリンを出発した。
 苦難の多いコース そして、ドイツ、ポーランド、欧露を横切って、オムスクに出て、それより馬をアルタイに向け、峻嶮をこえコブトウイヤスクタイウランバートルキヤクタイを経て、バイカル湖畔に出て、更にイルツクから再び引き返して、バイカル湖畔を東へと進み、ウェルフネウーヂンスクを通り、ブラゴエシチェンスクに至り、対岸の黒河より興安嶺山脈を横切って、チチハルに出て、ズンガリー(松花江)に沿って、キチリン(吉林)ニンクタコンジュン(琿春)を過ぎて、ボシエツト地方より、ウラジオストックに到着、ここでのその長途の騎馬旅行を終わっている。時に翌26年(1893年)6月であった。
オムスク ロシア連邦中南部の都市。カザフスタンとロシアにまたがるエルティシ川を通ってアルタイに向かう。
アルタイ 中央アジアの一地域
コブト ホブト。モンゴル西部ホブド県の県都。
ウイヤスクタイ ウリャスクタイ。モンゴル・ザブハン県の県都。
ウランバートル モンゴル国の首都。中国語ではクーロン(庫倫)。
キヤクタイ ロシア南部ブリヤート共和国のキャフタ市。
バイカル湖畔 ロシア南東部のシベリア連邦管区の三日月型の湖
イルツク イルクーツク。バイカル湖の西岸。
ウェルフネウーヂンスク 現在はウラン・ウデ。ヴェルフネウジンスク。東シベリアのロシア・ブリヤート共和国の首都。バイカル湖の南東約100km。
ブラゴエシチェンスク シベリア南部のアムール州の州都。対岸には中国黒河市がある。
黒河 中国黒竜江省の地級市。黒竜江右岸の河港都市。対岸にはシベリア南部ブラゴベシチェンスクがある。
興安嶺 こうあんれい。中国北東部にあるターシンアンリン(大興安嶺)山脈とシヤオシンアンリン(小興安嶺)山脈の総称。
チチハル 中国黒竜江省の直轄市。
キチリン(吉林) 中国東北部の省。省都は長春市。
ズンガリー(松花江) ソンホワチアン。松花江。しょうかこう。アムール川最大の支流。
ニンクタ 正しくはニングタ。寧古塔。現在は黒竜江省牡丹江市寧安市。
コンジュン(琿春) 中国吉林省の県級市
ボシエツト地方 クラスキノ町など。北朝鮮国境に近いポシェト湾岸に位置する。
ウラジオストック ロシアの極東部沿海地方の州都。
翌26年6月 全行程は1年4ヶ月かかったという。

アルタイ山脈の踏破。島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

福島中佐単騎旅行図絵

 それはそれとして、矢来町に住まわれるようになったのは、いつ頃からか不明であるが、単騎シベリヤ横断をなし遂げた頃は、すでに牛込区矢来町三番地に居住していた。
 ところが、この三番地というのは広範囲で現在の地図と比較すると、87番地から106番地までの広い区域である。
 しかし、中佐の居住を明細に記したものに明治43年(1910)10月の刊行になる中央電話局の「電話番号簿」には、
  番町 二四六 福島安正 牛、矢来三、中ノ丸24号
とある。そこで明治44年(1911)6月逓信協会の発行にかかわる「東京市牛込区」の地図を見ると矢来町中ノ丸は、現在の地名番地では、75番地に当たると見てよいだろう。ちょうど、新潮社のやや南横に当たるところである。
逓信協会「東京市牛込区」 これは新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』(昭和57年)326-7頁と同じ。「75番地に当たると見てよい」とはいえません。https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/search/uploads/2_ippanntizu.pdf