下宮比町」タグアーカイブ

飯田橋駅(写真)東口 歩道橋 ID 12104 昭和54年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12104は昭和54年(1974年)3月2日、飯田橋歩道橋を中心に、他にも巨大なタンクローリーの一部、わずかに見える首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12104 飯田橋歩道橋前 目白通り

 歩道橋では左から地名表示「目白通り/新宿区下宮比町」、交差点名表示「飯田橋/IIDABASHI」、方向表示「市ヶ谷/新大久保/目白/水道橋」。道路標識は(指定方向外進行禁止)「8-20」が2個。
 建物では左から「ビューティープラザ/レディ」「(ミカワ)薬局」「ジャッカル断裁機/東京伊藤鉄工㈱」「合コンパご宴会」とおそらく万国旗「(モリ)サワ」「M」「フ(ィニッシュワークスクール)」

飯田橋駅東口(写真)商店街 昭和54年 ID 12030, ID 12091-12100

文学と神楽坂

地元の方からです

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12030, 12091-12100は昭和54年(1974年)に飯田橋や目白通り付近を撮影したものです。
 簡単に地図で撮影場所を見てみます。

1970年 飯田町駅東口付近

(1)ID 12030は、少し離れた⑦です。突き当たりの木造住宅は、飯田町貨物駅に隣接する旧国鉄の職員住宅です。現在はホテルメトロポリタン エドモントが建っていて、写真のあたりが正面入り口になります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12030 飯田橋二丁目 1979年

(2)ID 12091は①。目白通りから1本、奥に入る道の入り口です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12091 クリーン薬局飯田橋店 1979年

(3)ID 12092-93は②③。国鉄(現在はJR)飯田橋駅の南東側で、東口から西口へ向かう土手沿いの商店街です。2階には「喫茶白ゆり」。これは深夜営業店で、仮眠しながら始発を待つ人にはよく知られていました。今は閉店中。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12092 飯田橋喫茶白ゆり 1979年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12093 飯田橋 1979年

(4)ID 12096は④で、左側に国鉄(現在はJR)の飯田橋駅東口があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12096 飯田橋通りガード 1979年

(5)ID 12097は番地から見ると⑥付近です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12097 飯田橋四丁目9住居表示 1979年

(6)ID 12100は⑤で、新宿区の下宮比町の第一勧業銀行飯田橋支店、東海銀行飯田橋支店などが見えています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12100 飯田橋歩道橋前 1979年

 コート姿の人が写っているので、時期は冬でしょう。同じエリアを撮影したID 12083、85-90、94−95、98ID 652、662、664、12102、12103、12105、12106などと同時撮影ではないでしょうか。

焼跡・都電・40年

A

文学と神楽坂

 林順信氏の「焼跡・都電・40年ー山手ー激変した東京の街」(大正出版、昭和62年)です。北方から飯田橋駅や外堀通り、船河原橋、神田川などを撮影しました。年月が違う撮影があり、1枚は昭和41年12月で、もう1枚は20年ほど未来の昭和62年1月でした。

 まず昭和41年12月です。左端にあるのは都道8号で、外堀通りと合わさり、右は船河原橋に、左は後楽園や水道橋などに向かいます。都道8号の電柱に電柱広告「東明徽章」「オザワ」、さらに向こうには飯田橋駅のホーム、さらに行くと、千代田区の建物が並んでいます。神田川の反対側には目白通りがあります。
 船河原橋を渡り切る直前の都電13系統が1台、神田川には船2槽が出ていますが、船は平たく、わいぶね西さい船)かもしれません。神田川の右縁で船河原橋の直前に江戸期の大下水、それを飲み込む明治期の下水管の吐口があります。

神田川を流下する東京都のごみ運搬船(深川孝行撮影)。2023.03.06 https://trafficnews.jp/post/124654#google_vignette

 船河原橋の右側に五叉路がありますが、この写真ではわかりません。ゼブラ柄の背面板の信号機が2つあり、近くに標識(ともに指定方向外進行禁止)もあります
 右側の建物については「ごらくえん」以外に文字は小さく、読めません。この部分は下宮比町の一部でしたが、区境の変更もあり、最終的に人は住めない地域になりました。

 昭和62年1月です。上空には首都高速道路5号線(池袋線)と歩道橋があるため、辺りは薄暗く、神田川に船はありません。
 遠くの中央やや左には第7田中ビル(10階)、大和ビル(10階)、飯田橋プラザ(7階)が並び、その右には巨大な飯田橋セントラルプラザ(マンションは地上16階)、また右端には広告塔「(婦)人倶(楽部)」ができました。

神楽河岸(写真)昭和51年 ID 474, 479, 11456, 12189

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 474とID 12189は昭和51年(1976年)下宮比町のおそらく歩道橋の上から南西の神楽河岸方向を狙ったカラー写真で、ID 479とID 11456は昭和51年8月、モノクロ(白黒)写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 474 揚場町神楽河岸界隈

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12189 飯田橋交差点付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11456 飯田橋交差点付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 479 駅前付近より外堀通り四谷方向

 手前の目につく街灯は水銀灯かナトリウム灯でしょう。中央は外堀通り。自動車はヘッドランプが丸く、時代を感じさせます。
 外堀通りの町並みはこの当時、右側は下宮比町、左側は神楽河岸だったようです。その後に区境変更や住居表示があり、現在は右側は揚場町、左側は千代田区になっています。

下宮比町→神楽河岸(平成51年)
  1. 東京都水道局神楽河岸営業所
  2. 大型貨物自動車等通行止め(大型貨物自動車等通行止め)
  3. ▶都バス「飯田橋」
  4. 交通局定期券売り場
  5. 空き地
  6. 新宿東清掃事務所

▶は歩道上で車道寄りに看板等がある

  1. 空地。鉄の塀に無数のポスター跡と麻雀店の立て看板
  2. ▶交通信号機「飯田橋」。架線柱
  3. 文鳥堂書(店)
  4. (山)路(飯店)(中華料理店)
  5. 麻雀店とパチンコ店の突き出し看板

住宅地図。1976年

神田川(写真)船河原橋 昭和39年 ID 551

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 551は昭和39年頃に江戸川(現在は神田川)の上流から船河原橋方向や下宮比町などを撮影しました。撮影時期について新宿歴史博物館では「1964年?」としています。

 昭和40年以前には、神田川の中流部は江戸川と呼びました。川面にはゴミがたくさん浮かんでいます。小舟が3艘見え、うち2艘はバラ積みの船倉をテントのようなもので覆っています。廃材等の運搬に使われたものでしょう。
 向かって右の岸が目白通りで新宿区、左岸が文京区です。1969年(昭和44年)には川の上に首都高速道路5号線が建設されますが、まだありません。
 新宿区側、トラス構造の鉄塔に電飾看板「ホテル」が見えます。これは同年代の写真で「つるやホテル」です。川沿いの電柱には「ナショナル」の広告が並んでいます。その他の広告もあるようですが、よく読めません。
 左から船河原橋を渡っているのは都電13系統(新宿駅前-水天宮前)。目白通りから奥にかけて15系統(高田馬場駅前ー茅場町)が2台見えます。都電の廃止は13系統が昭和45年3月27日、15系統は昭和43年9月28日でした。
 遠くかすんだように国電(現、JR東日本)の飯田橋駅の高架ホームと屋根が確認できます。その向こう側の建物は千代田区です。

昭和43年 住宅地図。

寒泉精舎跡(写真)揚場町と下宮比町 平成28年 ID 17975

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975は平成28年に揚場あげば町と下宮しもみや町のかんせんしょうしゃのあとを撮影しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975 寒泉精舎跡

 中央の黒い地に黄色の文字が説明板「寒泉精舎跡」で、設置されている場所は揚場町です。
 その前に周囲を見てみます。左から……

  1. 東京電力の高圧キャビネット。「河立679」と「安心・安全 防犯ガラス/全硝連」「第50回 中央大学 理工白門祭 お笑いステージ シャッフル 歴史/しめて 11・4◯ 5◯ 6◯」
  2. 「(第2)東(文堂ビル)」「薬」(クスリの福太郎)
  3. 「日本 Japanese Language School 03-3235-xxxx」「てけてけ にんにく醤油タレ 焼き鶏 総本家 第2 東(文)堂ビル」「博多水炊き」「てけてけ 秘伝のにんにくダレ 焼き鶏 塩つくね 博多水炊き」「名物 塩つくね」「てけてけ にんにく醤油ダレ 焼き鶏 総本家」「うまい焼き鶏」「秘伝のにんにくダレ 塩つくね 博(多水炊き)」「ご宴会あります 焼き鶏79円 宴会コース 2500円」「ザ・プレミアム モルツ生 299円」「290円」「290円」
  4. 「定礎」

 寒泉精舎の場所もよくわかっていません。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では

  名代官の学習塾、寒泉精舎跡(下宮比町と揚場町との境)
 筑土八幡を下りて大久保通りを飯田橋に向う。津久戸小学校と厚生年金病院の中間あたりは、江戸時代の儒者岡田寒泉が私塾の「寒泉精舎」を開いた所で、都の文化財(旧跡)になっている。

 津久戸小学校と厚生年金病院本館は津久戸町、病院別館は下宮比町です。下宮比町から現在の大久保通りをはさんだ南側が、説明板のある揚場町です。
 江戸時代には、現在の下宮比町と揚場町の間には道がありませんでした。新宿区地域文化部文化国際課「新宿文化絵図」(新宿区、2007年、下図)を見ると、西田小金次というおそらく旗本の屋敷がありました。

 ここに道ができるのは明治時代のはじめで、明治40年頃、やや北側にずれた場所に現在の大久保通りが開通します。
 2つの町の境界上に寒泉精舎があったと推測されるので、所在地が「揚場町二 下宮比町三」として指定されたのでしょう。
 なお、東京市及接続郡部地籍地図 上卷(大正元年)では、大久保通りの南側に少しだけ下宮比町が残っていますが、現在では揚場町に変わっています。

東京都指定旧跡
    かん せん しょう しゃ のあと
     所在地 新宿区揚場あげばちょう二・下宮しもみやちょう
     指定  大正8年10月

 岡田家泉は江戸時代後期の儒学者で政治家。名ははかる、字は子強、通称清助といい、寒泉と号した。元文げんぶん5年(1740)11月4日江戸牛込に千二百石の旗本の子として生まれた。寛政かんせい元年(1789)松平まつだいら定信さだのぶに抜擢されて幕府儒官となり昌平しょうへいこう(後の昌平坂学問所)で経書けいしょを講じた。柴野しばの栗山りつざん(彦輔)・尾藤びとう二洲じしゅう(良佐)とともに、「寛政の三博士」と呼ばれ、寛政の改革で学政や教育の改革に当たった三人の朱子学者のひとりである(寒泉が常陸ひたち代官に転じた後は古賀こが精里せいちが登用された)。寛政6年(1794)から文化5年(1808)までの14年間は、代官職として現在の茨城県内の7郡82村5万石余の地を治め、民政家としての功績は極めて大きなものがあった。
 寛政2年(1790)8月19日この地に幕府から328坪6余の土地を与えられ、寒泉精舎と名付けた家塾を開いた。官職を辞した後も子弟のために授読講義を行い、「朝ごとに句読を授け、会日を定めて講筵こうえんを開き給えりしに、門人もんじん賓客ひんかくにみちみちて、塾中いることあたわざるになべり」とあって、活況を呈している様子を門弟間宮まみや士信ことのぶが『寒泉先生行状』に記している。文化12年(1815)病気のため寒泉精舎を閉鎖し土地を返上した。文化13年(1816)8月9日77歳で死去し、大塚先儒墓所(国指定史跡)に儒制により葬られた。著書に『幼学ようがく指要しよう』『三札さんらいこう』『寒泉かんせん精舎しょうじゃ遺稿いこう』などがある。
 平成13年(2001)3月31日 設置
東京都教育委員会

寒泉精舎 「寒泉」とは「冷たい泉。冬の泉」ですが、ここでは「岡田寒泉がつくった」との意味。「精舎」とは「僧侶が仏道を修行する所。寺院」
岡田家泉 江戸中期の儒学者、民政家。号は寒泉。生年は元文5年11月4日(1740.12.22)。没年は文化13年8月9日(1816.8.31)。77歳。

岡田寒泉

儒学者 中国の孔子によって主張された政治道徳思想は儒教。実践倫理と政治哲学を加え、体系化した教育と学問を儒学。儒学を学んだり、研究・教授する人を儒学者。
松平定信 江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫。1787年〜1793年、老中として寛政の改革を実施。
幕府儒官 江戸幕府で儒学を体得し、公務に仕える者。儒学をもって公務に就いている者。公の機関で儒学を教授する者
昌平黌 こうとは「まなびや、学舎、学校」。江戸幕府直轄の学校。寛政かんせいの改革の際、実質的に官学となった。
昌平坂学問所 1790年(寛政2年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。
経書 儒教の最も基本的な教えをしるした書物。儒教の経典。四書・五経・十三経の類。
柴野栗山 江戸時代の儒学者・文人。生年は元文元年(1736年)。没年は文化4年12月1日(1807年12月29日)。

柴野栗山

尾藤二洲 江戸時代後期の儒学者。生年は延享2年10月8日(1745年11月1日)。没年は文化10年12月4日(1814年1月24日)。

尾藤二洲

寛政の改革 幕政の三大改革の1つ。老中松平定信を登用し、寛政異学の禁、棄捐きえん令、囲米かこいまいの制などを実施し、文武両道を奨励。しかし、町人の不平を招き、定信の失脚で失敗した。
朱子学者 朱子学は儒学の一学派。朱熹(朱子)の系統をひく学問。
常陸 東海道に属し、現在の茨城県北東部。

代官 幕府の直轄地(天領)数万石を支配する地方官の職名。
古賀精里 江戸時代中期〜後期の儒学者。生年は寛延3年10月20日(1750年11月18日)。没年は文化14年5月3日(1817年6月17日)
民政家 文官による政治。軍政に対する語。
授読 師が弟子一人一人に書物の読み方を教え伝える。塾生を個別に指導する。
句読 くとう。文章の読み方。特に、漢文の素読。
講筵 書物などの講義をすること。
間宮士信 江戸後期の旗本で地誌学者。生年は安永6年(1777年)。没年は天保12年7月24日(1841年9月9日)
寒泉先生行状 門弟間宮士信が著した書物。静幽堂叢書(第34冊・伝記部)に収録。
大塚先儒墓所 おおつか せんじゅ ぼしょ。江戸時代の儒者の墓所。儒学者が儒教式の葬式と祭祀(儒葬)を行った
儒制 不明。朱子の『家礼』に基づいた儒式の葬祭か?
幼学指要 ようがく しよう。刊行年は弘化3年(1846)
三札図考 寒泉精舎遺稿 不明。

寒泉精舎跡

寒泉精舎跡

下宮比町(写真)分水路吐口 昭和51年 ID 476-77, 485, 488, 11460-61, 12187-88

文学と神楽坂

  新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 476-77、485、488、11460-61、12187-88は昭和51年(1976)8月に飯田橋歩道橋の上から下宮比町、首都高速道路5号線(池袋線)や目白通り、神田川などを撮影しています。資料名は「下宮比町、高速道路下」で、ID 476-77、12187-88(カラー)が4枚、ID 485、488(白黒)が2枚、「目白通り、首都高速5号線、神田川(飯田橋付近)」ID 11460-61が2枚です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 476 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12188 飯田橋付近 目白通り 下宮比町

下宮比町(昭和51年)
  1. 袖看板「麻雀 東南 お気軽にご◯」
  2. 袖看板「3F 武西歯科 ☎2◯」
  3. 袖看板「◯◯◯ ◯◯◯◯◯機械専門/東京伊藤鉄工 株式会社」
  4. 袖看板「有限会社 銀座◯」
  5. 袖看板「近畿日本ツー(リスト)」
  6. 袖看板「お気軽に大小コンパ/御宴会受け承ります/サッポロビール/たたき◯巻/大衆酒場/八鶏園」
  7. 袖看板「12月生(募)集中/M/フィニッシュワ(ークスクール)」
  8. 袖看板「(52レーン)」(イーグルボウル)
  9. 左の歩道
  10. 道路標識 (駐車禁止)(転回禁止)(消火栓)
  1. 片側2車線。中央に三角コーン1。右側の2車線は色が違う。
  2. 隆慶橋。一時的に片側3車線に増える。交通信号機は青色。
  3. 右の歩道。両側に木製の仮設と思われる柵。裏側の道路標識。スポットライト様のライト。
  4. 首都高速道路5号線(池袋線)。橋脚は2本
  5. 神田川
  6. 首都高出口のランプから下に行く道路
  7. 右は文京区。近くに松屋ビル

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 477 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12187 飯田橋付近 目白通り 下宮比町

下宮比町(昭和51年)
  1. ポール看板「イーグルボウル」(52レーン) P有料駐車場 駐車料金◯◯ 200円
  2. 塔屋看板「モリサワ/写植スクール/随時受付 夜間部 12月生募集中」壁面看板「M」袖看板「フィニッシュワークスクール」「モリサワ写真植字機」
  3. 電柱看板「つる家」(ホテル)
  4. ポール看板「つる家」
  5. 左の歩道
  6. 道路標識 (駐車禁止)(転回禁止)
  7. 高いビルは「池田ビル」(地上8階)
  1. 右の歩道。歩道の両側に木製と思われる柵。
  2. 首都高速道路5号線(池袋線)。橋脚は2本
  3. 神田川
  4. 川の上で隆慶橋と反射像
  5. 首都高出口のランプから下に行く道路

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 485 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11460 目白通り、首都高速5号線、神田川(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 488 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11461 目白通り、首都高速5号線、神田川(飯田橋付近)

 神田川に近い歩道ではスポットライト様の光をあてていて、歩道橋に行く階段があります。ID 485と488で隆慶橋の交通信号機は赤。川を渡った文京区では「建物・不動産/松屋」がID 485と488ともにあり、ID 488は首都高から車が出てくる場所の上で「◯ガロ」やネオンサイン「競」「調」などが見えています。しかし、建物の名称について多くは小さすぎて読めません。
 この4枚の写真は、おそらく神田川の「江戸川橋分水路」が完成に近づいたことを記録したものでしょう。分水路は目白通りの地下に建設し、ID 488の手前に見えるコンクリートと鉄板の「吐口はきぐち」を通って神田川に流れ込みます。
 分水路が通っている部分の目白通りの舗装はコンクリートのような色で、左側のアスファルトらしき部分と色が違います。分水路はカーブして吐口につながっています。
 吐口のすぐ手前には飯田橋歩道橋の上り階段があり、交差点ギリギまで分水していることが分かります。
 江戸川橋分水路は神田川流域の洪水被害を防ぐ目的で建設され、写真の翌年の昭和52年に完成しました。

飯田橋交差点(写真)目白通り 平成元年 ID 508

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 508は平成元年9月に「下宮比町交差点」(正しくは「飯田橋交差点」)を、おそらくセントラルプラザの2階デッキ部分から撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 508 下宮比町交差点

 中央には五叉路があり、左下から横断歩道と飯田橋歩道橋を越えて右に抜けるのが外濠通り。横断歩道の向こうから左上に続くのが大久保通り。歩道橋の向こうの首都高速道路5号線(池袋線)に沿う形で中央奥にカーブしていくのが目白通りです。歩道橋は「外堀通り/新宿区下宮比町」と書かれています。
 手前に見えているのは地下の駐車場につながる換気装置でしょう。ラムラの「せせらぎ」にかかる「ひいらぎばし」の上で、おそらくフリーマーケットを開催中。やや離れて交差点に近い小屋は、地下鉄の出入り口のエレベーターです。

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)

 遠くに見えるビル等は左から……

  1. 「週刊現代」と「飯田橋東海ビル」
  2. 「(セント)ラル/(ファイ)ナンス」
  3. 地面に小さなテント
  4. 「ビューティープラザ/レディ」(パーマ)
  5. 「ミカワ薬局」
  6. 「五洋建設」

昭和55年(1980年) 飯田橋交差点 ラムラ建設前

飯田橋交差点(写真)目白通り 昭和54年 ID 498-500, 12107-08, 12111

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 498-500, 12107-08, 12111は昭和54年3月に飯田橋交差点、飯田橋歩道橋、目白通り、外堀通り、首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しています。資料名は「下宮比町交差点」で、地元ではそう呼ばれることが多かったようですが、正しい名称は「飯田橋交差点」です。また、 ID 12107はID 499と、ID 12108はID 500と、ID 12111はID 498とほぼ同じ写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 498 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12111 飯田橋歩道橋 目白通り 飯田橋駅付近

 歩道橋に横断幕「ゆずり合いモデル交差点/ゆとりを◯◯て東京に」と地名表示「目白通り/新宿区下宮比町」。その下を左右に横切るように車が走るのは外濠通りです。左端に特徴的なカーブした歩道橋の階段が見えます。
 たくさんの自動車が並んで待っている道路は「目白通り」です。奥には首都高速道路と橋脚があります。高速の直下は神田川ですが、昭和40年以前には江戸川と呼びました。
 交差点の向こうは文京区です。「(写)真製版所」「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」が見えます。
 撮影位置は図のでしょう。

撮影位置(1978年下宮比町付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 499 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12107 飯田橋歩道橋

 ID 498より、やや左よりを撮影しています。歩道橋の横断幕「ゆずり合いモデル交差点/ゆとり◯◯◯で東京に」と地名表示「目白通り/新宿区下宮比町」の左に、交通信号機と、小さく「飯田橋」交差点名表示があります。道路標識としては(指定方向外進行禁止)(大型貨物自動車等通行止め)とおそらく(駐車禁止)と(区間内)があります。撮影位置は図のです。
 右奥に伸びる片側2車線の道は目白通り。左右は外濠通りです。手前に信号機と、歩道橋が影を落としているので撮影位置が分かります。
 歩道橋の下にある建物は左から「LADY」「焼肉」「肉」「歯科」「麻雀」「土井建材」「近畿日本ツーリスト」「(フィニッシュワークス)クール」「サワ◯◯」。歩道橋の上は「ビューティープラザ/レディ」「ステッカー/も/つくります」「ジャッカル断裁機/東京伊藤鉄工㈱」「合コンパご宴会」「(モリ)サワ」「M」。


新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 500 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12108 飯田橋歩道柵

 ID 498とほぼ同じ場所から、右よりを撮影しています。左で見切れているのが目白通り。左右に車が走るのは外濠通りです。右手前の車は信号待ちで、頭上にある歩道橋の影が映っています。撮影位置は図のオレンジです。
 歩道橋の地名表示は「外堀通り/新宿区下宮比町」、また手すりには「飯田橋/Iidabashi」の交差点名表示があります。写真の中央から右の大部分は神田川にかかる船河原橋で、歩道橋の少し奥は文京区になります。飯田橋は千代田区の地名ですが、この写真には写っていません。
 歩道橋の角に信号機と標識(指定方向外進行禁止)とおそらく標識(直進以外進行禁止)があり、これは中央分離帯でしょう。
 建物は「ばな」「万」「5階」「◯クト」ですが、遠くの袖看板は文字が小さくて確認できません。「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」は露出のせいで読みにくくなっています。

首都高速(写真)新小川町 昭和44年 ID 12776-79

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12776-79は、首都高速道路5号線(池袋線)の飯田橋出入口付近を昭和44年9月に撮影したものです。備考では「新小川町付近高速道路下」となっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12776 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12777 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12778 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12779 新小川町付近高速道路下

 5号線は1969年(昭和44年)6月27日、西神田出入口から護国寺出入口までを供用開始しました。
 この写真は開業から間もない時期のものです。高所からの撮影で、おそらく飯田橋交差点(下宮比町)の東海銀行飯田橋支店の建物、現在の飯田橋御幸ビル(1966年=昭和41年5月竣工)から北の方角を見下ろしたのでしょう。
 目白通りが奥に延びています。ここには都電15系統が走っていましたが、1968年(昭和43年)に廃止され、軌道も見えません。
 首都高は神田川の上に建設されました。画面左に曲がる急カーブは「大曲」と呼ばれる場所です。手前から3本目の橋脚にかかる橋が「隆慶橋」です。その右側、高架の向こうに首都高から下りてくる「飯田橋出口」があります。
 一方、目白通りの奥に首都高が白く光って途切れている部分があります。ここは飯田橋入り口の予定地ですが、実際に建設されたのは昭和52年(1977)ごろでした。ID 12215-16に工事中の様子があります。
 手前のビルには写植・フォント大手の「モリサワ」の大きな看板。経営理念は『文字を通じて社会に貢献する』こと。デジタルフォント(日本語ポストスクリプトフォント)が有名です。本社は大阪で、大正13年に設立。この下宮比町15-5は昭和44年からの東京支店です。
 目白通り沿いの少し先のビルは「中央印刷」。大曲の向こうの「TOPPAN」は文京区の会社で今は「TOPPANホールディングス株式会社」、昔は凸版印刷株式会社と呼んでいました。本社は東京都台東区で、創業は明治33年。事務所は文京区水道1-3-3。総合印刷会社です。
 いずれも印刷関係の企業で、神田川流域が印刷・出版で発展した歴史を感じさせます。

下宮比町(写真)消防訓練 昭和41年頃 ID 12317-18

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12317-18は昭和41年頃、下宮比町の飯田橋交差点の消防訓練を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12317 消防訓練 飯田橋駅前大久保通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12318 消防訓練 飯田橋駅前大久保通り

 正面左の8階建ては飯田橋東海ビル(昭和41年(1966年)5月完成)です。1階は東海銀行飯田橋支店でした。現在は飯田橋御幸ビルです。
 また一見して分かるように、飯田橋交差点の大きな歩道橋も、首都高速道路もありません。歩道橋が出来たのは昭和43年3月で、首都高の開通は昭和44年ごろです。
 道路は左へ行くと大久保通り、右奥が目白通りです。交差点を南から北に向けて撮影しています。

住宅地図 昭和42年

 中央に東京消防庁の「はしご車」が出ていて、消防職員と警察官も数名います。遠くにポンプ車(消防ポンプ自動車)もあります。はしご車は車体から張り出すアウトリガーのため停止し、ポンプ車は撤退しているようです。路面は水に濡れており、少なくとも一部の放水は終了しています。
 ビルの3階より上は窓を開けて多くの会社員が訓練を見下ろしています。歩道にも見物している人がいます。
 ID 12318の左端にゼブラ柄の背面板がついた信号機があります。隣のビルは「東海銀行飯田橋支店」、袖看板は「東海銀行」と掲示板「BANK」。その右隣に「三平酒造」があり、酒の黄梅きざくらとカッパの絵があります。さらにその右隣は「パーマレディー」「Beauty Sh(op)」「LADY」です。
 1968年の写真(J・ウォーリー・ヒギンズ「秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本」光文社新書 2018年)とよく似ていますが、交差点の中に立つ信号は写っていません。
 はしご車の左の電柱には「質 オザワ」、その左に「大久保通り/Okubo-dori」の道名標、右の電柱は右の電柱では「ミカワ」「松信産婦人科」です。
 目白通りの路面電車の飯田橋停留所では少なくとも男女2人が待っています。これは都電15系統で、左に行けば「大曲」から「高田馬場駅前」に、右は「九段下」から「茅場町」に通じます。
 停留所の向こうは神田川ですが、見えません。その奥は文京区で、「お待たせしない家」とサインポールと「◯◯理◯◯の◯◯」、「◯◯◯5◯◯」などの看板が見えます。
 空中には電線と、都電の架線が縦横に張り巡らされています。歩行者の多くは長袖で、コート姿も数名います。飯田橋御幸ビルの完成が昭和41年5月なので、その年の晩秋の撮影でしょうか。

飯田橋交差点(写真)昭和54年 ID 673, 12110, 12109

文学と神楽坂

新宿区立新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の写真ID 673と12110は、昭和54年3月に飯田橋交差点の新宿区側を撮影した写真です。またID 12109はこの交差点周辺の災害時の一時集合場所(公園)、広域避難場所を図示した案内板です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 673 飯田橋交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12110 飯田橋駅前 大久保通り

 左右は外堀通りで、コンクリート製の中央分離帯に立っているのはブリンカーライト(分岐点用点滅灯。中央分離帯や合流地点等に設置し、24時間点滅し、中央分離帯への衝突などの事故を防ぐ)でしょう。横断歩道から左奥へ通じるのは大久保通りです。この他に目白通りも交差していますが写っていません。
 道路はすべて都道で、ナトリウム灯と思われる街路灯が高い位置にあります。この時代の大久保通りの左右は下宮比町でした。後に町域が変更され、写真左側は揚場町に変わりました。また図の左上にある電柱に長四角のものは自動式開閉器でした。
 東京厚生年金病院の別館は下宮比町に、本館は津久戸町にありました。

673 飯田橋交差点

飯田橋交差点(昭和54年)
  1. 剣菱 天麩羅みやこ
  2. 清酒大関 ニューア(サク)サ
    (ここから揚場町)(ア)サクサ
  3. 消火栓
  4. 朝日生命 鳥よし(飯塚ビル)
  1. 東海銀行(飯田橋東海ビル 1965年竣工)
  2. 日本写真学園/(カ)ワセコンピューターサプライ株式会社/三恵株式会社/銀座コージーコーナー/日本写真学園→
  3. 第一勧業銀行(第一勧銀稲垣ビル 1974年竣工)
  4. (駐車場)
  5. 大野屋(武道具店)
  6. 津多屋
  7. 読めない看板(日本精鉱株式会社)
  8. 東京厚生年金病院 別館
    (ここから津久戸町)
  9. 東京厚生年金病院 本館

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12109 飯田橋駅前表示

下宮比町付近 1980年

下宮比町(飯田橋)交差点

文学と神楽坂


地元の方です

 目白通りと外堀通り、そして大久保通りが交わる五叉路を、地元では「下宮比町の交差点」と呼ぶことが多かったと記憶します。
 しかし戦後の地図を見ると、一貫して「飯田橋」と書かれています。この理由を考察しました。
 交差点は全域が外堀の外で、新宿区内になります。隣接する千代田区の地名「飯田橋」は不適当とも言えます。しかしながら、かつては都電の結節点として交差点を取り囲むように飯田橋停留所があったことから、飯田橋と呼ぶことに抵抗は少なかったはずです。

住宅地図。飯田橋交差点 1962

 ひとつの可能性は信号機に交差点名が表示されていなかったことでしょう。単に「下宮比町のあたり」と呼ばれていたことはありそうです。
 もうひとつは、この交差点に1970年代に設置された「飯田橋歩道橋」の住所表示です。田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の写真には大きく地名が書かれています。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」06-09-57-1 船河原橋西詰から 1976-12-02

 実は信号機の交差点名の表示も始まっています。よほど目立たなかったのでしょう。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」06-09-57-2 船河原橋南詰から 1976-12-02 赤囲みが交差点名

 現在でも同様な表示はあるのですが、いくぶん文字を小さするなど誤解を避ける工夫をしているようです。


神楽坂1丁目(写真)外堀通り 昭和54年 ID 94とID 11873

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 94とID 11873は、昭和54年(1979年)1月17日、神楽坂1丁目で、外堀通りに沿って撮ったものです。

94 風景 昭和54年1月17日

11873神楽坂 外堀通り

 ID 94については地元の人の解説があります。

 写真ID:94(昭和54年1月17日)は牛込見附(神楽坂下)交差点から揚場町の方を写したものです。
 写真左から赤井商店のテント、さくらや靴店、市原燃料店、ヤマザキパン、名画の佳作座ミッシェルズコーヒーショップ、すべて閉店しました。神楽坂飯店は営業中です。
 懐かしいのは、正面の街路樹の枝の隙間から「東海銀行」が見えること。下宮比町の交差点角に支店がありました。今はスーツカンパニーです。その左のヨコ看板は残念ながら判読できません。

 もう一つ、佳作座の「作」と「座」の間に出ているものはなあに? 「部」はわかります。ほかはわかりません、ものぐさ親父「いまさら鉄ちゃん!?」の品川駅前暮色~都電3番線に乗って~昭和42年には、かすかに全体が写っています。どうやら「婦人倶楽部」と読めます。後の時代には「週刊現代」になるので、講談社の広告スペースだったでしょう。

牛込見附から飯田橋方向(昭和42年)

 神楽坂飯店の下「ば/うどん」は「そばうどん」(立ち食い店)です。
 また、転回禁止()と自転車及び歩行者専用()があります。転回禁止とは進む方向を180°変える行為で、Uターンやスイッチターンのこと。自転車及び歩行者専用とは、この標識より先、普通自転車と歩行者に限って通行できることです。

船河原橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋』(昭和52年、新人物往来社)の「船河原橋」についてです。氏は東京都公文書館主任調査員として勤務し、昭和48年に「近代作家の基礎的研究」を刊行し、「江戸東京坂道辞典」「東京の橋」などを執筆。生年は1916年8月24日 、没年は1987年。享年は70歳か71歳です。「船河原橋」では……

 船河原橋(ふながわらばし) 新宿区下宮比町から東へ文京区後楽二丁目に渡されている鉄筋コンクリート橋。旧橋はやや上手に江戸川へ架されていて、寛文の江戸図では「どんどばし」と記されており、正保の絵図にはないので神田川開さくのあとほどなく創架されたと思われる。

やや上手に 江戸時代の船河原橋を2枚、明治早期は3枚、明治後期と大正時代2枚。さらに昭和51年と現在の地図。
牛込橋と船河原橋

台紙に「東京小石川遠景」と墨書きがある。牛込見附より小石川(現飯田橋)方面を望んだ写真らしい。明治5年頃で、江戸時代と殆ど変化がないように思える。遠くに見える橋は俗称「どんと橋」と呼ばれた船河原橋であろう。堰があり手前に水が落ちている。しかし水 位は奥の方が低く、水は奥へと流れているらしい。堀は外堀である飯田堀で、昭和47年、市街地再開発事業として埋め立てられ、ビルが建った。内川九一の撮影。六切大。(石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

大正8年頃。飯田橋と牛込区筑土方面遠望。右は船河原橋。左は飯田橋

昭和56年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。386頁

Yahoo!地図

寛文の江戸図 新板江戸外絵図。寛文五枚図の外周部にあたる4舗。寛文11-13(1671-1673)刊

新板江戸外絵図。

正保の絵図 正保年中江戸絵図。正保元年(1644)か2年の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから

正保元年(1644)か2年の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから

開さく 開鑿。開削。土地を切り開いて道路や運河を作ること。
創架 新たに上にかけ渡す。架橋

新撰東京名所図会には「船河原橋は牛込下宮比町の角より小石川旧水戸邸、即ち今の砲兵工廠の前に出る道路を連絡する橋をいう。俗にドンド橋あるいは単にドンドンともいう。江戸川落口にて、もとあり、水勢常に捨石激してそうの音あるにる。此橋を仙台橋とかきしものあれど非なり。仙台橋は旧水戸邸前の石橋の称なるよし武江図説に見えたり。旧松平陸奥守御茶の水開さくの時かけられしに相違なしという。」と述べ、この橋下を蚊屋かやが淵と称したことを「蚊屋が淵は船河原橋の下をいう。江戸川の落口にて水勢急なり。あるいは中之橋隆慶橋の間にて今大曲おおまがという処なりと。江戸砂子に云う。むかしはげしきしゅうとめ、嫁に此川にて蚊屋を洗わせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。」と伝えている。
新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
砲兵工廠 ほうへいこうしょう。旧日本陸軍の兵器、軍需品、火薬類等の製造、検査、修理を担当した工場。1935年、東京工廠は小倉工廠へ移転し、跡地は現在、後楽園球場に。
道路 現在は外堀通り
ドンド橋 船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちて、どんどんと音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
落口 おちぐち。滝などの水の流れの落下する所
 せき。水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた場所。
捨石 すていし。土木工事の際、水底に基礎を作ったり、水勢を弱くしたりするために、水中に投げ入れる石。
激して 激する。げきする。はげしくぶつかる。「岩に激する奔流」
淙々 そうそう。水が音を立てて、よどみなく流れるさま
仙台橋 明治16年、参謀本部陸軍部測量局の東京図測量原図を使うと、下図の小石川橋から西にいった青丸で囲んだ橋が仙台橋でしょう。

武江図説 地誌。国立国会図書館蔵。著者は大橋方長。別名は「江戸名所集覧」
開さく 開鑿。開削。土地を切り開いて道路や運河を作ること。
蚊屋 かや。蚊帳。蚊を防ぐために寝床を覆う寝具。
中之橋 中ノ橋。なかのはし。神田川中流の橋。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
大曲り おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。
江戸砂子 えどすなご。菊岡沾涼著。6巻6冊。享保17 (1732) 年刊。地誌で、江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。
はげしき 勢いがたいへん強い。程度が度を過ぎてはなはだしい。ひどい。

「どんど」「どんどん」などは水音の形容からきたもので、同じ江戸川の関口大洗堰おおあらいぜきのことも「どんど」と呼んでいたし、また大田区の道々橋は「どうどう橋」が本来の呼び方でこれも水音から起った名であろう。江戸川は上流の大洗堰からこの船河原橋までが、旧幕時代のお留め川(禁漁区)で有名な紫鯉が放流されていたが、どんどんから下へ落ちた魚は漁猟を許したので、ここの深瀬は釣人でにぎわったと伝えられる。

関口 文京区西部の住宅商業地区。山手台地に属する目白台と神田川の低地にまたがる。
大洗堰 神田上水の取水口のこと。せきとは水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた場所。目白台側の神田上水に取水され、余った水が落ちて流れて江戸川(神田川)となっていた。
お留め川 おとめかわ。河川,湖などの内水面における領主専用の漁場
紫鯉 頭から尾鰭までが濃い紫の色をした鯉

 いざ給へと小車の牛込を跡になしつつ、舟河原橋はいにしえのさののふな橋ならで、板おおくとりはなして、むかしながらの橋ばしらゆるぎとりて、あらたにたてわたしてなんとすなる。(ひともと草
 関口のより落つるどんど橋(諧謔)
 船河原橋にて、電車を下りて築土八幡に至る。せせこましき処に築土八幡と築土神社との二祠並び立ち、人家もあり、樹木も高くなり過ぎて矚望しょくぼうを遮りたるが、これらの障害なくば、ここは牛込台の最端、一寸孤立したる形になりて四方の眺望よかるべき処なり。(大町桂月「東京遊行記」明治39年)
 現橋は昭和45年竣工のコンクリート橋で橋長21.1メートル、幅24.1メートル。

いざ給へ 「さあ、いらっしゃい」「さあ、おいでなさい。」の意味。相手を誘い、行動を促す。
さののふな橋 佐野の舟橋。群馬県高崎市佐野を流れる烏川にあった橋。「舟橋」は、舟を横に並べ、板をわたしたもの。
橋ばしら 橋柱。橋桁(はしげた)を支える台。 橋脚。 橋杭。
ゆるぎ 揺(る)ぎ。ゆるぐこと。動揺。不安定。
たてわたす 立て渡す。一面に立てる。立て並べる。
すなる するという、すると聞いている
ひともと草 寛政11年(1799年)、大田南畝などの25人の和文をまとめたもの。
 みね。峰、峯。嶺。山のいただき。山の頂上のとがったところ。物の高くなっている部分。
せせこましい 場所が狭くてひどく窮屈な感じ。
矚望 「矚」(しょく)はみる、注視する。「望」(ぼう)は、遠く見る。国立国会図書館デジタルコレクションの「東京遊行記」では460頁

神楽坂1丁目(写真)昭和49年 田口重久氏

文学と神楽坂

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」第五章 新宿区 補-10 (11/15) 05-10-32-1 牛込見附交差点からは昭和49年(1974年)12月21日(土)に撮ったものでした。大きな左向きの矢印はロール式の標識で、坂下から坂上までの一方通行を示し、時間によって進入禁止の表示と入れ替わります。夜間には照明も。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱の上には柱上変圧器があります。また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。横断歩道はごく普通のもので、地下鉄の駅(飯田橋駅)が新たに出現しました。外堀通りにはまた鉄板が覆っています。

1974-12-21 牛込見附交差点から。田口重久氏「歩いて見ました東京の街」

神楽坂1丁目(昭和49年)
  1. 有楽町線「飯田橋駅」。道路を開削、上に鉄板。埋め戻しは開業後。
  2. 看板「車両通行止め12~18 牛込警察署 新宿区」
  1.  牛込見附  (歩行者専用道路) 自転車を除く 12-13。歩行者道路。日曜休日の12-20。スプーン・フォーク・スープの標識
  2. ニューバリーパチンコ。Pachinko。上の看板イーグルボウル下宮比町に。
  3. 電柱広告「鮨・割烹 八千代鮨」(本多横丁にある)と(質)大久保
  4. TAWARAYA。黒い看板と白の球。(フルーツパーラー 田原屋)
  5. 元祖 貸衣装 清水本店
  6. 生そば(翁庵)。は「楚」のくずしかな、は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。
  7. 中華料理 信華園
  8. 1丁目の田口屋生花店がビルに。五階建て
  9. 小栗横丁にいく通り
  10. 志満金。ビルではない
  11. 靴(オザキヤ
  12. 大島糸店2階が大島歯科
  13. 話し方教室。五条ビル(ヒデ美容室の隣で)
  1. (一方通行入口)自転車を除く。(歩行者専用道路) 自転車を除く 12-13。歩行者道路。日曜休日の12-20
  2. 足袋・Yシャツ「赤井商店
  3. 「カレーショップ ボナ」
  4. 白十字医院
  5. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店
  6. 地下鉄 飯田橋駅
  7. FUJIYA 不二家洋菓子。不二家 コーヒーショップ。
  8. あんみつ。紀の善。切妻の屋根
  9. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  10. 上でビル「喫茶 軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
  11. 陶柿園がビルに。昭和47年(1972年)3月に完成
  12. 「菱屋」が遠くに見える

 神楽坂仲通りの△は横断歩道の標識。その奥は「神楽坂通り/美観街」です。

遠くの看板(写真)ID 6998、ID 68、ID 94、ID 486

文学と神楽坂

 地元の方から情報です。

古い写真の街の風景には、撮影者が意図した被写体とは別の思い出が残ることがあります。新宿歴史博物館の「写真で見る新宿」から、そんなものをいくつか拾ってみました。

写真 ID:6998(昭和30年代後半)は「東京厚生年金病院前 進む地下鉄工事」のキャプションのように、大久保通り筑土八幡町交差点から飯田橋交差点にかけての下り坂、地下鉄東西線の建設風景です。

6998 東京厚生年金病院前 進む地下鉄工事

開削工法の路面が木材でフタをされ、中央を都電の軌道が走っています。道路の上には都電の架線が張り巡らされていて、かなりうるさく感じます。

年金病院(現・東京新宿メディカルセンター)は建て替え前のもので、上空から見るとY字になった美しい曲線を持つ特徴的なデザインでした。日本武道館なども手がけた著名な建築家の作品だったそうです。Y字マークは病院のシンボルだったようで、薬の袋などに印刷されていた記憶があります。

病院の前を走るタクシーは、日産買収前のプリンス自動車の初代グロリアでしょうか。写真の右の「川島ガラス」「東衣装店」は今も同じ場所で営業中です。

写真の中央、病院の並びに「第一銀行」が見えます。戦後に進出した支店で、その後は「第一勧業銀行」、「みずほ銀行」と合併を繰り返し、神楽坂通りの「三菱UFJ銀行」のライバルとして今もこの場所に店を構えています。

東京厚生年金病院 昔の新宿区津久戸町の総合病院の名前。現在はJCHO(Japan Community Healthcare Organization、ジェイコー)東京新宿メディカルセンターに。

JCHO東京新宿メディカルセンター

開削工法 地表面から掘り下げてトンネルをつくる垂直掘削方式のひとつ
Y字になった美しい曲線を持つ特徴的なデザイン 石田竜次郎・和歌森太郎共書の「県別・写真・観光日本案内 東京都」(修道社、昭和36年)で、東京厚生年金病院が書かれています。

モダンな厚生年金病院  飯田橋の筑土八幡近くにあるこの厚生年金病院は四階建て総ガラス張り、Y字型のみるからに明るいモダンな病院であり、昭和28年に完成した。

東京厚生年金病院

このデザインについては他でもでています。

2014年4月、東京新宿メディカルセンターに変更しました。
著名な建築家 山田守氏の設計。1917年、東京帝国大学建築学科を卒業、逓信省営繕課に入り、電信局・電話局の設計を行う。1945年、逓信省を退官し、1951年、東海大学工学部建設工学科教授。建築物は東京中央電信局、東京厚生年金病院、日本武道館、京都タワーなど。生年は1894年4月19日、没年は1966年6月13日。享年は満72歳。
初代グロリア 昭和34年(1959年)の4ドアセダン。写真と比べて私にはちょっと違う気がする。

川島ガラス 新宿区揚場町2-17。ガラス工事を行う。
東衣裳店 新宿区揚場町2−21。洋服や和服を貸す。

店を構えて 最終的には「みずほ銀行 飯田橋支店」です。上図を参照。

写真ID:68(昭和48年5月22日)は、飯田橋西口前から神楽坂を見た写真です。

68

68 飯田橋駅付近より坂上方向

右側は神楽坂警察の古い建物で、この頃は使われず、飯田濠再開発の取り壊しを待っていたのではないでしょうか。道の左側は神楽坂1丁目の一部で、いくつかの店は商店会にも加盟していました。店のある左側だけ、神楽坂と同じ街灯が設置されているのが分かります。その向こうの双葉社のビルには、大ヒットした上村一夫の『同棲時代』の大きな広告が見えます。

写真中央、パチンコ店の上のヨコ看板「イーグルボウル」は下宮比町にありました。今はマンションになっています。また神楽坂通りのひときわ高い場所に見えているのは三菱銀行の看板です。

もうひとつ、パチンコ店の左上に見える大きな「B」は、大久保通り沿いの岩戸町にある教育出版の文英堂です。今も同じ場所に新しいビルがあります。写真の当時、旧ビルの地下に郵便局がありました。もともと4丁目にあった「神楽坂郵便局」(現在は楽山)が昭和40年頃に移転したのです。諸事便利な神楽坂の商店街ですが郵便は岩戸町まで行く必要があり、ちょっと不便でした。「神楽坂郵便局」が4丁目に新築したオザワビル(旧尾沢薬局)に戻ってきたのは1988年(昭和63年)でした。

文英堂とイーグルボウル

イーグルボウル 下宮比町2-27の一部にありました。

1973年。住宅地図。

写真ID:94(昭和54年1月17日)は牛込見附(神楽坂下)交差点から揚場町の方を写したものです。

94

94 神楽坂入口近く外堀通り

写真左から赤井商店のテント、さくらや靴店、市原燃料店、ヤマザキパン、名画の佳作座ミッシェルズコーヒーショップ、すべて閉店しました。神楽坂飯店は営業中です。

懐かしいのは、正面の街路樹の枝の隙間から「東海銀行」が見えること。下宮比町の交差点角に支店がありました。今はスーツカンパニーです。その左のヨコ看板は残念ながら判読できません。

下宮比町の交差点 「飯田橋交差点」です。

写真ID:486(昭和56年頃)でも、はるか遠くに下宮比町の交差点が見えます。

486 江戸城外堀跡

中央のこんもりした森は、東京日仏学院やその近隣のお屋敷の庭木でしょう。その向こうに熊谷組の本社が見えます。

外堀通り沿いには出版大手の「家の光」や「研究社」、その向こうには理科大の複数の校舎が並んでいます。遠く横に走っている首都高速が左側に隠れるあたりの黒っぼい建物が東海銀行の支店。さらに左、一段高い大きなハートのマークの看板が、東京厚生年金病院の並びにある第一勧業銀行(現みずほ銀行)の支店です。

①熊谷組
②家の光
③研究社
④⑤⑥理科大
⑦第一勧業銀行
⑧東海銀行


こうして見ると銀行業は、看板に大きな投資をしていますね。

三年坂|由来

文学と神楽坂

 三年坂や三念坂というのはどこをさしているのでしょうか。新宿歴史博物館『新修 新宿区町名誌』(平成22年)では……

()()())町内南角に小坂があり、俗に字三念坂と呼ばれた(『町方書上』)。現在は俗に三念坂という(三年坂とも書く)。三年坂という名称は各地にあり、「坂道で転ぶと三年のうちに死ぬ」という迷信=寂しい坂道だから気をつけろという意味で名付けられたという説もある(町名誌)

 『町方書上』「牛込津久戸前町」(新宿近世文書研究会、平成8年)では……

町内南角片側町家続之処小坂有之、里俗字三念坂申伝候、右訳合相知不申候
 但道幅弐間余り、高三尺五六寸程

 「新宿区町名誌:地名の由来と変遷」(東京都新宿区教育委員会、昭和51年)では……

 下宮比町との境の坂を俗に三念坂という。三念坂は、三年坂とも書く。三年坂は各地にあるが、「坂道で転ぶと三年のうちに死ぬ」という迷信から名づいたものである。しかし、これは淋しい坂道だから気をつけろということが、このような迷信となったものという。

 今の津久戸町の面積は非常に大きく、町内はどこかわかりません。では江戸時代ではどこなのでしょうか? 『新修 新宿区町名誌』で津久戸町の「町地は牛込津久戸前町と牛込西照院門前があった」と書いています。西照院を囲むように牛込津久戸前町の年貢町屋は3つあります。「町内南角に小坂があり」というので、3つのうち右下を指すのでしょう。なお、年貢町屋とは年貢を納める農家がある町です。

神楽坂津久戸町の地図 江戸時代 三年坂

 つまり、現在では交差点「筑土八幡町」から三年坂に入り、それから本多横丁に行き、そのまま神楽坂通りとなって終わります。坂の標柱や標識としては、区は不吉な三年坂を黙殺して使っていないようです。

 三年坂の語源については横関英一氏は『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年。中公文庫、昭和56年)でこう書いています。

  三年坂にまつわる俗信
 三年坂と呼ぶ江戸時代の坂が、旧東京市内に六ヵ所ばかりある。いずれも寺院、墓地のそば、または、そこからそれらが見えるところの坂である。
 三年坂はときどき三念坂とも書く。昔、この坂で転んだものは、三年のうちに死ぬというばからしい迷信があった。お寺の境内でころんだものは、すぐにその土を三度なめなければならない。もちろん土をなめるまねをすればよいのであるが、わたくしたちも小供のころ、叔母などによくやらされたものである。それをしないと三年の内に死ぬのだと、そのときいつもきかされたものだ。坂はころびやすい場所であるので、お寺のそばの坂は、とくに人々によって用心された。こうした坂が三年坂と呼ばれたのである。三度土をなめるということは、三たび仏に安泰を念願することである。とにかく、三年坂という坂は、坂のそばに寺か墓地があって、四辺が静寂で、気味の悪いほど厳粛な場所の坂を言ったもののようである。古い静寂なお寺の境内で味わうものと同じような気持ちである。(中略。台東区の三年坂について書いた後で)
 つぎは、筑土の三年坂であるが、これは新宿区神楽町三丁目上宮比町との境から北へ津久戸町に下る坂である。ところが、『東京地理沿革誌』には「牛込津久戸前町下宮比町との間を新小川町二丁目のほうへ下る坂を三念坂と云ふ」とある。文政10年の「丁亥町方書上」によると津久戸前町のところに「坂。巾二間程、高三尺余、右町内南角ニ片側家続之所小坂有之、里俗三念坂と唱申候」と、くわしく書いてあるので、今の下宮比町の坂でないことは明らかである。下宮比町境には、古くお寺があったような記録も見あたらない。しかも右のような古い書上かきあげに、津久戸前町に下る坂であると明記されているので、『東京地理沿革誌』の説明は間違いである。とにかく、お寺に関係もないところに三年坂はありえないのだ。
 神楽坂の頂上から、北へ津久戸前町ヘ下る坂の西側には、西照院(絵図には西照寺)があったり、坂のふもとには成願院(絵図には成願寺)があった。この津久戸の三年坂こそ、正頁正銘の三年坂の坂路である。しかし、今は、西照院も成願院も他へ移転してしまって、この坂みちは、昔の寂しさはどこへやらお寺の跡にはぎっしり商家が建ち並んで、この近辺ではいちばん繁華な街になっている。

この坂で転んだものは、三年のうちに死ぬ たとえば『洛陽名所集 巻之四』(万治元年、1658年)で京都の「再念坂」について「長さ半町ばかりもあらんか。世のことはざに三年坂とて。この坂にてつまづきころべる人。かならず三年をすぐさず身にしよからぬなど云つたへたり」と書かれています。(https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/2008/SK20081L253.pdf
筑土の三年坂 三年坂の由来にはがあります。

復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)

上宮比町 現在の神楽町四丁目。
東京地理沿革誌 明治23年、村田峯次郎 (看雨隠士) が書いた地誌の本です。出版社は稲垣常三郎。「東京地理沿革誌」では……

津久戸前町 市谷津久戸前町ハ築土八幡社前の町地なるを以て此名あり 起立の年代ハ詳ならされとも大抵此辺ハ幕府諸士居住の地なれは明治初年士地町地及寺院門前地等を合併せり
三念坂   此町と下宮比町との間を新小川町二町目の方へ下る坂を三念坂と云ふ

牛込津久戸前町 津久戸町のこと、以前は牛込津久戸前町と呼んでいました
丁亥 ひのとい。干支の一つで、24番目。文政十年は丁亥にあたる。
 面ではなく而が正しい。
小坂 二ではなく小坂が正しい
西照寺 現在は東京都杉並区高円寺の曹洞宗の普明山西照寺。万延元年(1860)の礫川牛込小日向絵図は下図で。
成願寺 現在は東京都中野区本町の曹洞宗の多宝山成願寺。万延元年の礫川牛込小日向絵図は下図で。

万延元年、礫川牛込小日向絵図

 横関英一氏は『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年。中公文庫、昭和56年)の続きです。

 三年坂という名称は、不吉な意味を持っているので、いつの間にか他の名称に改められたものが多い。特に、おめでたい名前に変わっている。たとえば、三年坂が産寧坂とか三延坂、三念坂などと、それから全く「三年」をきらって、鶯坂螢坂淡路坂地蔵坂のように別の名に改められたものもある。
 三年坂に似たものに、二年坂(二寧坂とも)、百日坂袖きり坂袖もぎ坂花折坂などと言う坂もあるが、これらは三年坂と同じ種類のもので、二年坂は三年が二年になっただけである。百日坂はさらに期限が短縮されて、この坂でころぶと百日の内に死ぬということになっている。袖きり坂、袖もぎ坂、花折坂などは、この坂でころぶとやはり三年の内に死ぬというのであるが、仏寺に花をささげたり、自分の着物の袖を切ってささげることによって、死の難からのがれることができるというのである。
 こうした俗信は、かなり古い昔から行われ、しかも日本全国にわたって流行し、信仰されたもので、地名としても、いたるところに、その根強い民俗的信仰の記録を残しているのである。

 坂の名前がいくつも出てきます。
産寧坂 さんねいざか。京都市の坂で、ウィキペディアでは「この坂の上の清水寺にある子安観音へ「お産が寧か(やすらか)でありますように」と祈願するために登る坂であることから『産寧坂』と呼ばれるようになったという説が有力だ」
三延坂 日光山輪王寺に行く坂。
鶯坂 目黒区大岡山。昔この坂の両側に竹や杉が茂り、鶯がよく鳴いたため。
螢坂 台東区谷中5丁目。坂下は蛍沢と呼ばれる蛍の名所だった。三年坂の別名もある。
淡路坂 千代田区神田淡路町2丁目。鈴木淡路守の屋敷はこの坂の上であった。
地蔵坂 坂の1つは新宿区神楽坂5丁目から袋町までの坂。
二年坂 京都東山の坂で、産寧坂の下だから。「ここでつまずき転ぶと二年以内に死ぬ」という言い伝えがある。
百日坂 不明。
袖きり坂 茨城県行方市の西蓮寺。西蓮寺に訪れた女人が、袖きり坂で怪我をしてしまい、何も奉納するものもなく、着ていた着物の袖を切り取り、薬師様に捧げたら怪我が直ったことから由来する説
袖もぎ坂 岡山県邑久郡玉津村大土井の山中で、細道の坂の辺りを袖もぎ坂。ここで転ぶと袖をちぎって捨てないと不吉があるという。
花折坂 和歌山県高野町の坂。高野山への参拝者がここで花を折って御供えした。

 石川悌二氏の『東京の坂道』(新人物往来社、昭和46年)では

三年坂(さんねんざか) 三念坂とも書いた。神楽坂三、四丁目の境を神楽坂の上の方から北へ下り、筑土八幡社の手前の津久上町へ抜ける長い。三年坂の名のいわれはすでに他のところで述べたので省く。津久上町はもとは牛込津久土前町とよんだが、「東京府志料」はこれを「牛込津久土前町 此地は筑土神社の前なれば此町名あり、もと旧幕府庶士の給地にして起立の年代は伝へざれども、明暦中受領の者あれば其頃既に士地なりしこと知るべし」とし、またについては「三念坂 下宮比町との間を新小川町二丁目の方へ下る。長さ五十七開、巾一間四尺より二間二尺に至る」と記している。この坂道通りは花柳界をぬけて神楽坂通りにむすびつく商店街である。

 これは上のに相当します。
他のところ 同書の「麹町台中部」のなかで「三年坂という名は、要するに人淋しい場所の無気味な坂で、各地に共通する迷信『坂道で転んだら三年のうちに死ぬ』という伝えから来たものであろう。」
東京府志料 明治5年4月、陸軍省が各府県の地図並びに地誌の編纂を企画し、国内各地の沿革現勢を記録させ、当時の日本の国勢を明らかにしようとした地誌。東京府は府下一円に渡って調査編纂した。神楽坂などは東京府志料2 巻之42 第3大区5小区

牛込津久戸前町 此地ハ築土神社ノ前ナレハ此町名アリ モト旧幕府庶士ノ給地ニシテ起立ノ年代ハ伝へサレトモ 明暦中受領ノ者アレハ其頃既に士地ニナリシコト知ルへシ 明治二年西照院門前(ヲ合セ五年又)同町続キ士地開墾地ヲ此町へ合併ス
〔土地〕形勢 同上 坂陵 三念坂下宮比町トノ間ヲ新小川町二町目ノ方へ下ル 長57間幅1間4尺ヨリ2間2尺ニ至ル

給地 領主である主君が家臣・被官に与えた土地
 これは上のに相当します。



正式に神楽町から神楽坂に|昭和26年

文学と神楽坂

 新宿区「新宿区町名誌 地名の由来と変遷」(新宿区教育委員会、昭和51年)では…

 神楽坂とは、国鉄飯田橋駅九段口から、牛込台地に上る坂で、坂下から大久保通りまでは江戸時代からあった名称である。

 歴史博物館「新修 新宿区町名誌 地名の由来と変遷」(平成22年、新宿歴史博物館)では

 JR飯田橋駅西口から、牛込台地に上る坂で、坂下から大久保通りまでは江戸時代から神楽坂という名称で呼ばれていた。
 明治4年(1871)6月、この地域一帯に町名をつけたとき、この神楽坂からとって神楽町としたが、旧称どおりの神楽坂で呼ばれていた。
 しかし昭和20年(1945)の空襲で、焼け野原と化した。昭和26年5月1日、坂上の三町も含めて神楽坂と称することになり(東京都告示第347号)、北の赤城神社入り口まで名称統一され、四・五・六丁目ができた。
 この町名変更に当たって、関係町民からも町名を神楽坂に統一する陳情書が区議会に提出された。その理由は、下宮比町と上宮比町が混同されやすいこと、肴町は隣区の肴町と誤認されやすい等が挙げられた(昭和30年新宿区史)。
隣区の肴町 文京区駒込肴町と混同したのでしょう。現在は文京区駒込肴町ではなく、文京区向丘1丁目か2丁目になります。

 実際の陳情書は昭和30年「新宿区史」766頁に書いてあります。以下は旧漢字を新漢字に書き換え、読みにくい漢字を平仮名に変えた等をしたものです。

     陳  情  書
 江戸名所図絵や江戸砂子などに残る古き牛込村は、丘陵起伏する武蔵野の一部、往昔は放牧の地であったとさえ、ある記錄は伝えている。徳川時代に入ってようやく人煙を増すに至ったものの『神楽坂』と『牛込』との限界はすこぶる不明確のまま、その名のみ人々の意識の中に深く刻まれて今日に及び明治初期の行政区画によって丁目と町名とは一応整ったが、

  坂上に下宮比町としばしば混同される上宮比町がありこれに接して隣区肴町と誤認され易き牛込肴町が横たわり更に西方へ数丁通寺町が伸びている 等

捕捉に苦しむ所が多い。これがため行政区画とは別に肴町、上宮比町、通寺町等の住民は、数十年来『神楽坂通り』と云う総称を用い、大衆もまたこれを肯定して日常の要務を弁じている。殊に通寺町の如きは戦災に遭って全町焼土と化するや、直ちに『大神楽坂商店街』と誇示するに至った。神楽坂より六、七丁をへだたった通寺町においてさえかくの如き実状であるため、関係町民と他区域より来訪する人々とが日常の生活上や取引上幾多の煩雑不利を招きつつあるとは枚学にいとまなき所、どこよりどこまでが神楽坂か何人も明答すること能わざるのが現実である。
 数百年来、あまねく知られた名を慕ふのは人情の常、その名を襲用して宣伝価値の昂揚を図るは商業者として当然の帰結、神楽町、上宮比町、肴町、通寺町等に居住する区民が行政区画上の町名を斥け、現実に即した『神楽坂何丁目』と左記の通り町名改称を熱望するに到った事は全く自然の趨勢であり土地発展の永久的対策というも断じて過言ではありませぬ。しかもこれが実現の暁、利便を享受するものはひとり関係住民のみでない事も瞭かであります。
 神楽坂附近一帯の堅実な復興と発展とを期し、あわせてひろく都民相互間の利益をもたらす本件実現のため、何卒格別の御明鑑を仰ぎ、一日も速かに御採択願度くひたすら御願申上げます。
 さらに関係各町住民の連署を以て陳情致します。
 (変更前の町名)    (変更後の町名)
  神楽町 一丁目     神楽坂一丁目
  同   二丁目     神楽坂二丁目
  同   三丁目     神楽坂三丁目
  上 宮 比 町     神楽坂四丁目
  肴     町     神楽坂五丁目
  通  寺  町     神楽坂六丁目
昭和25年  月  日

往昔 おうせき。過ぎ去った昔。いにしえ。往古。
人煙 人家から立ち上る煙。転じて、人の住む気配。

 これを受けて昭和26年5月1日、正式の町名になりました。

通称牛込“神楽坂”で親しまれる地域は行政上の正式町名とは違っているのでこれを通称通りとすることになり28日の区議会にかけて可決すれば5月1日からつぎの通り呼ぶ(カッコ内は旧町名)
 神楽坂一〜三丁目(神楽町一〜三丁目)神楽坂四丁目(上宮比町)神楽坂五丁目(肴町)神楽坂六丁目(通寺町)
読売新聞 1951年=昭和26年2月27日



牛込駅リターンズ

文学と神楽坂

 2020年7月12日、JR飯田橋駅が新しい駅に生まれ変わります。駅の西口も新しいものにかわる予定です。さて、地元にお住まいの協力者の方から、こんなメールを頂きました。

駅舎完成イメージ

 神楽坂の住民にとって、もちろん飯田橋駅はなじみ深い駅なんですが、飯田橋という地名は千代田区のものだし、駅舎も東口に「みどりの窓口」があるなど飯田橋側がメーンなんです。神楽坂に近い西口は、どうしても裏口的な感じがありました。
 この東口と西口の競争みたいな感情は多分、旧牛込駅旧飯田町駅の時代から続くものなんでしょう。地下鉄の有楽町線のができる時、地元商店会は「駅名を『神楽坂』に」と運動したんです。東西線に『神楽坂』駅があるので無理だと分かっていても、目の前の駅が別の名前であることは納得しがたかったんでしょう。
 もう立ち消えになったようですが、東口に近い新宿区側の下宮比町に町名変更の話があって、その候補名が「西飯田橋」だという。そりゃないだろと思いました。今も「飯田橋駅東口郵便局」が下宮比町にあるんてすが、おかしいですよね。けど地方の人からしたら、飯田橋の方が分かりやすいんでしょう。駅名って、とても大事だと思います。
 昔の国電の飯田橋駅西口は、改札を入ってから長い傾斜路でホームに降りていくので、電車が見えているのにドアが閉まって発車してしまう。そんな時に東口との距離を感じました。
 今のJR飯田橋は普通の各駅停車の駅ですが、昔はちょっと違ったんです。総武線と中央線の線路の脇に、隣接する飯田町貨物駅引き上げ線があって、狭い場所ながら貨物列車の入れ替えがあった。この引き上げ線の跡地は、新しい西口を作るまでの仮駅舎になりました。
 それと千葉方面から来る総武線の各駅停車は何本かに1本、飯田橋が終点でした。市ヶ谷の方にあった折り返し線に入ってから、向きを変えてホームに入ってきて、今度は飯田橋始発になる。ちょっとターミナル駅みたいな感じがありました。大人が「昔の甲武鉄道は、ここが始発駅だったんだよ」と言っているのを聞いて、なるほどなと思ったものです。
 各駅停車の飯田橋始発着がなくなったのは1990年ごろかな。折り返し線も撤去されました。ちょうどそのころ、地元の商店会にJR側から「いずれ、あの折り返しの線の場所にホームを移したい」という意向が伝えられました。曲線ホームが危険だということは、ずっと前から認識されていましたからね。この話に地元は大いに期待しました。けど実現するまで30年かかった。
 新しい西口の駅舎には「みどりの窓口」も出来て、今度は西口がメーンになります。東口からは古いホームを歩いてこないと電車に乗れない。ちょうど昔と反対の立場です。
 ほかに西口の旧駅舎で、思い出話がふたつあります。ひとつは、いまラムラに入るみやこ橋のところにあった古い神楽坂警察署の木造の建物。1970年頃、もう警察は移転していたんですが、剣道場が残っていて人が出入りしていました。機動隊も一緒に使っていたんじゃないかな。
 もうひとつは桜の木です。駅から牛込見附の交差点まで下りる坂に大きな桜が2本ありました。花の季節は綺麗なんですが、桜って毛虫がつくんですよ。初夏になると頭の上からポロポロ落ちてきて、そこを通勤通学の人が歩くものだから、もうグチャグチャで大変。苦情が出たんでしょうね、いつの間にか伐採されました。
 お堀の脇の土手公園も、昔はもっと桜が生えていたと思います。けど同じ苦情で、通路の部分の木を減らしたようです。今も桜の名所ですが、毛虫が話題にならないのはなぜなんでしょうね。

旧飯田町駅 甲武鉄道で牛込駅の東で、次の駅。飯田町駅開業当初は始発駅。1928年(昭和3年)に牛込駅と同時に廃止、両駅の中間の曲線部分に飯田橋駅が開業。その後、飯田町駅は荷物や貨物の専用駅になり、1999年(平成11年)飯田町駅は廃止。
 営団地下鉄有楽町線の飯田橋駅です。1974年開業。
運動 駅名が正式決定する前の段階なので、開業の1-2年前でしょう。商店会から営団地下鉄に要望しました。
東西線に『神楽坂』駅 1964年開業。有楽町線に比べて東西線神楽坂駅の開設は10年早い。
下宮比町に町名変更の話 噂として聞こえてきた話です。神楽坂は住居表示「未実施」で、下宮比町は昭和63年2月15日に「実施」しえいます。おそらく、その前の「候補」か「構想」の段階だと思います。
飯田橋駅東口郵便局 新宿区下宮比町3-2で、大久保通りに面しています。
飯田町貨物駅 アイランズ著『東京の戦前昔恋しい散歩地図』(草思社、2004年)で、飯田橋貨物駅は

飯田橋貨物駅

また、アルビオ・ザ・タワー千代田飯田橋では

飯田橋貨物駅(旧飯田町駅・昭和63年)毎日新聞社

引き上げ線 停車場において、列車や車両の方向転換や入れ換えを行うために、一時的に本線から列車(車両)を引き上げるための側線。
折り返し線 あきぼうのブログ(https://ameblo.jp/akif4914/entry-12194311099.html)に「折り返し用引き上げ線があった」として「この線路と線路の間の土地は、かつて飯田橋駅で折り返していた千葉方面への折り返し列車を引き上げていた線路跡なのです。現在折り返し運転が亡くなったため線路は撤去されています。そこで、この線路跡の土地を利用して飯田橋駅の改良工事が進められています。」と書かれています。下の図「飯田町駅牛込間新停車場」の1番奥の線路は折り返し用引き上げ線です。

飯田橋駅と牛込見附と橋

西口の駅舎 新西口駅舎は、鉄骨造・2階建て。延床面積は約2200㎡。多機能トイレ1カ所、1人乗りエレベーター1基が設置。一階は駅施設と店舗(3店舗)、二階は店舗(2店舗)。

ラムラ 昭和59年、飯田橋のセントラルプラザビル(店舗、事務所、住宅機能をもった大規模複合ビル)が完成。うち、セントラルプラザビルの1、2、20階を占めるショッピングセンターは「ラムラ」と呼ぶ。(株式会社セントラルプラザ

https://chikatoku.enjoytokyo.jp/spot/ramla.html

みやこ橋 牛込橋の周縁道路と総合ショッピングセンター・ラムラをつなぐ橋

みやこばし

毛虫が話題にならない 自治体の人が桜が咲き始める前に大量の殺虫剤をまくらしいと、あるブロガー



宮比神社と下宮比町

 宮比神社はどこにあったのでしょうか? 現在、宮比神社は新宿区筑土八幡町の筑土八幡神社境内に移動しています。それ以前には、下宮比町でしたが、神社が建っていたのでしょうか。何番地なのでしょうか? 
すむいえ情報館』では

下宮比町の由来
 町名は旗本(久世氏)の屋敷にあった宮比神社を現在地に移して社を建てたことによる。祭神は宮比神(大宮売命・天鈿女命)。宮比町は高台と低地とがあり、下は低地の意。

 極めて正々堂々と宮比神社は旗本・久世氏の屋敷にあったと書いています。反対に新宿歴史博物館の『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では宮比神社は以下のように下宮比町にあったとしか書いていません。
 どちらが正しいのでしょうか?

しも宮比みやびちょう
 江戸時代は武家地であった。明治2年(1869)、武家地を開いて宮比町ができる。これは町内に宮比神社があったため名づけられた(明治2年ノ9順立帳・明治2年町鑑)。明治5年、上宮比町(現神楽坂四丁目)と下宮比町に分かれる(明治5年東京区分町鑑)。明治12年牛込下宮比町に町名変更される(明治12年東京府布達甲第43号)。牛込を付した理由は不明。明治44年再び「牛込」を省略し下宮比町となり、現在に至る。昭和63年住居表示実施。

下宮比町

下宮比町。青の多角形は下宮比町。緑の多角形は久世伊勢守の土地(ここが一丁目)。青は当初の大久保通り。水色は現在の大久保通り。

神楽坂四丁目
 江戸時代には武家地であった。明治2年(1869)6月、武家地を開いて町とし、宮比神社があるので宮比みやびちょうと名づけた(明治2年ノ9順立帳・明治2年町鑑)。同5年1月には付近の武家地跡をあわせ、台地上をかみ宮比みやびちょう、台地下をしも宮比みやびちょうとした。同12年4月22日牛込上宮比町と改称(明治12年東京府布達甲第43号)の後、同44年、「牛込」を略し再び上宮比町となる。昭和26年(1951)5月1日、神楽坂四丁目となる(東京都告示第347号)。

 東陽堂の『東京名所図会』第41編(1904)では

    〇宮比町
     ◎位 置
宮比みやび町は。上下兩町に分てり。上宮比町は。東の神樂町三丁目の一部に對し。西は肴町に連り。南は神樂阪の道路を隔てゝ肴町の一部と神樂町三丁目の一角に面し。北は津久戸前町 幷に筑土八幡町に連りたり。下宮比町は。東は船河原橋と江戸川の岸に臨み。西は津久戸前町の一部に對し。南は揚場町に接し。北は新小川町一丁目に隣れり。上下兩町相連らずして。中間に津久戸前町介在し。恰も 采目を成せり。
 上宮比町 自一番地至八番地
 下宮比町 自一番地至十五番地
     ◎町名の起原幷に沿革
宮比町は。町内に宮比神社あるを以て。明治の初年に命名したるものなり。上下兩町共に皆武家地なりしが。今は市街地となりたり。
 武家の居住者
 上宮比町 東條能登守、岡野貞藏、興津甚左衛門、中村長十郎、東向高木左京、柘植平五郎、北向横山喜兵衛、成田某南向
 下宮比町 曾我熊之丞、朝岡頼母、内藤善次郎、古田鎌次郎 東向松平甲次郎、南向室賀鉞之助、北向河野銀之助、田口彌市郎森市郎兵衛、河村条五郎、西向

「町内に宮比神社ある」と書いています。

肴町 現代では神楽坂5丁目です。
津久戸前町 明治5年、牛込津久戸前町と呼び、明治44年からは津久戸町になった。
幷に ならびに。ともに
江戸川 現在は神田川
恰も あたかも。他のものによく似ている。まるで。まさしく。
采目 さいのめ。さいころの目。上下の宮比町がさいころが2つ並んでいると、右図でいえなくもない。
 「旧」の旧字

 東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では

牛込下宮比町 明治二年六月從來じうらいの土地を開きて市廛してんとし、一祠いつしえいして宮比みやびしんを祀れり。よつて宮比町と稱す。五年一月下字をくわんし、上宮比町に分ち、十二年四月さらに牛込の二字をくわんす。川は外濠及江戸川あり。

市廛 店舗。町の店
一祠 神や祖先を祭る所。ほこら。
  計画に従って物事や事業を行う。いとなむ。軍隊のとまる所。陣屋。とりで。
 上にかぶせる。かぶる。
江戸川 現在は神田川

 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』で著者の磯部鎮雄氏は少し細かく書いています。

下宮比町(しもみやびちょう)飯田橋の北,江戸川の西に洽って下宮比町がある。
 この一角は江戸期には久世平九郎、松田甲次郎、曽我熊之亟、朝岡頼母、室賀鉄之亟などという数軒の武家地であったが、明治27年頃飯田橋々畔より津久戸へ抜ける市区改正道路により、だいぶ町を削られて大正の初めにはこの改正道路電車通りになった。今目白通り都電通りに挾まれた東海銀行の裏の一角が下宮比町である。
 ここは武家地だったので町名はなかったが、明治2年の改正によって一部武家地も取払われ町家も建てられ、上宮比町とともに町名が付けられた。宮比の由来は下宮比町1番地に宮比社があったのでそれに由来する。今はその場所は丁度電車通りに当っている。
 宮比神は今は津久土八幡社の境内、御神木銀杏の後に移っているが、宮比神とは大宮能売命、大宮比咩命である。これは平安時代不吉をさけ吉祥を得るために多くは正月と十二月の初午の日に六柱の神を祀るものであって、これを「みやのめのまつり」といった。この神はこの地の何れかの武家屋敷で祀っていたものであろう。

「下宮比町1番地に宮比社があったので」、「この神はこの地の何れかの武家屋敷で祀っていた」。しかし「この地の武家屋敷」はひとつしかありません。最上図の「当時之形」(「当時」とは調査時点のこと。嘉永5年頃、1852年頃)によると、久世伊勢守の屋敷でした。しかし、明治維新(1868年)の時点も同じものだったのかは、わかりません。『東京名所図会』には久世伊勢守の名前は入っていません。

橋畔 きょうはん。橋のたもと。橋頭。
市区改正 明治時代から大正時代に行われた都市計画
改正道路 道路計画に基づいて、幅を拡げたり、新設されたりした市街地の道路。
電車通り 路面電車が走る道。地元の人が通称で使う。路面電車が廃止された後でもこの名前の道もある。電車道。ここでは大久保通り
目白通り 東京都千代田区九段北から練馬区三原台までの道路の呼び名。上図を参照
都電通り 電車通りと同じ。現在は大久保通り
東海銀行 下宮比町1番地にありました。現在は飯田橋御幸ビルで、一階はThe Suit Company、2階はECC外語学院など。
宮比社 三重県伊勢市の伊勢神宮皇大神宮(内宮)の所管社及びその祭神。社殿を持たない神社で、祭神は内宮の守護神。宮比神は大宮売命又は猿田彦大神の妻である天鈿女命の別名であると言われる。
大宮能売命 おおみやのめ。宮殿の平安を守る女神。大宮売神(おおみやのめのかみ)。大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)
みやのめのまつり 宮咩祭。昔、正月・12月の初午はつうまの日に、高皇産霊尊たかみむすひのみこと以下六柱の神をまつって、禍を除き幸福を祈った行事。

 地元の人の調査によって「明治40年1月調査 東京市牛込区全図」を使うと、確かに宮比神社はありました。

明治40年1月調査 東京市牛込区全図(東京郵便局)

 実際に筑土八幡神社に架けられた来歴の最後では

宮比神社由来
 御祭神は宮比神みやびのかみ大宮売命おおみやのめのみこと天鈿女命あめのうずめのみことともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治四十年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和三十七年に再建したものである。

宮比神社

宮比神社

 現在のまとめを書いておきます。宮比神社は昔には下宮比町にあり、筑土八幡神社の来歴を正しいと考えると、下宮比町1番地の旗本屋敷の中にありました。その屋敷は、嘉永年間では久世伊勢守の屋敷でしたが、明治維新の時にも同じだったかは不明です。以上です。

船河原橋と蚊屋が淵

文学と神楽坂

 神楽河岸、飯田橋、船河原橋、蚊屋が淵の4つは「新撰東京名所図会」第41編(東陽堂、1904年)で書いてありました。

    ●神樂河岸
神樂河岸は、牛込門外の北岸にして、神樂町一丁目より揚場町及び下宮比町の一部なる前面に横る一帯の河岸地をいふ。もとは市兵衛河岸●●●●●叉は市兵衛雁木●●●●●●と稱したり。そはむかし此所に岩瀬市兵衛●●●●●の屋敷ありしに因る。
牛込警察署は此河岸地の南端に在り。
目下當地の北端より飯田町の方に煉瓦にて基底を作り、新橋を架設し居れり。是は市區改正の計畫に據るものにして、下宮比町より津久戸前町等を貫通して開創すべき道路と連絡せむが爲めなりといふ。
    ●飯田橋
飯田橋は、神樂河岸の北端卽ち下宮比町の東隅なる河岸より、飯田町九段阪下の通りに連絡する架橋をいふ。今より凡そ十七八年前に架設したるものなり。前項の新架橋落成せぱ撤去せらるべきか。

[現代語訳]
    ●神楽河岸
 神楽河岸は、牛込御門外の北岸で、神楽町一丁目から、揚場町と下宮比町までの、一帯の河岸地をいう。もとは市兵衛河岸や市兵衛雁木といったが、昔、ここに岩瀬市兵衛の屋敷があったからだ。
 牛込警察署もこの河岸地の南端にある。
 当地の北端から飯田町の方に向かって煉瓦で基礎を作り、目下、新しい橋をかけようとしている。これは市区改正の計画によるもので、下宮比町から津久戸前町などを貫通して、新しい道路に連絡するためだという。
    ●飯田橋
 飯田橋は、神楽河岸の北端、つまり下宮比町の東隅の河岸から、飯田町九段阪下までの道路に連絡する橋をいう。今からおそよ17、8年前、架橋ができたが、前項の新しい橋が落成するとこの橋も撤去するべきといえないか。

 神楽河岸については、新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」によると

 明治の終りか大正の始めまで神楽河岸の地名はなかった。揚場河岸の続きとしていたらしい。今も見附際の所にペンキ塗りの元牛込警察署があり柳の並木と共に明治らしい面影がある。戦後警察は牛込警察署として南山伏町16に移っている。警察が河岸地にあった時分は明治5年第3大区5~6小区の巡査屯所として発足したのが始めで、明治14年第二方面牛込区神楽町警察署と改められた。その年3月牛込警察署と改名された。

昔の船河原橋と飯田橋。神楽河岸。

昔の船河原橋と飯田橋。神楽河岸。新道路も開始予定。明治28年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

河岸 川の岸。特に、船から荷を上げ下ろしする所。
牛込門 江戸城の外郭につくった城門。「牛込見附」「牛込御門」と同じ。
揚場町 町名は山の手で使用する商品を運送する荷を揚げる物揚場になったため
しも宮比みやび 江戸時代は武家地。明治2年、武家地を開いて宮比町に。宮比神社を祀る祠を建てたので宮比町と。ただし、この宮比神社は現在ない。明治5年、付近の武家地跡を合わせ、台地上を上宮比町(昭和26年からは神楽坂四丁目)、台地下は下宮比町である。下宮比町の変更はない。
雁木 がんぎ。船着き場や桟橋さんばしの階段。
基底 基礎となる底面。
架設 橋や電線などを支えを設けて一方から他方へかけ渡すこと。
市区改正 東京市区改正事業。明治時代から大正時代の都市計画。明治21年(1888年)東京市区改正条例が公布。道路を拡幅し、路面電車の開通し、上水道の整備などを行った。
據る よる。たよりとなる足場とする。よりどころ
津久戸前町 津久戸明神前にあるため、津久戸前町と呼ばれた。明治2年、牛込西照院前と併合し、牛込津久戸前町となり、明治44年、さらに津久戸町となる。
開創 かいそう。初めてその寺や事業を開くこと。
架橋 橋を架けること。その橋。
明治の終りか大正の始めまで 明治28年の「東京実測図」(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)では、ここを神楽河岸と呼んでいました。明治中旬でもう神楽河岸に呼称が変わったのです。一方、明治20年「神楽坂附近の地名」(新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』、1970年)では、明治20年以降に神楽河岸に呼称が変わったとしています。つまり、明治20年代に変わったのでしょう。
南山伏町16 新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)「大正11年 東京市牛込区」を見ると、南山伏町16は大久保通りに直接接していませんでした。南山伏町1番地から2番地までは確実に移動したのでしょう。なお、牛込警察の住所は1番15号です。

    ●船河原橋
船河原橋は、牛込下宮比町の角より、小石川水戸邸、卽ち今の砲兵工廠の前に出る道路を連絡する橋をいふ。俗にドンド橋或は單にドンドンともいふ。江戸川落口にて、もとあり。水勢常に捨石激して淙々の音あるに因る。此橋を仙臺橋とかきしものあれども非なり。仙臺橋は水戸邸前の石橋の稱なるよし武江圖説に見えたり。松平陸奥守御茶の水開鑿の時かけられしには相違なしといふ。
    ●蚊屋が淵
蚊屋かやふちは船河原橋の下をいふ。江戸川の落口にて水勢急激なり。或はいふ。中之橋隆慶橋の間にて今おほまがといふ處なりと江戸砂子に云。むかしはげしき姑、嫁に此川にて蚊屋を洗はせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。

[現代語訳]
    ●船河原橋
 船河原橋は、牛込区下宮比町の角から、小石川区の旧水戸邸、つまり今の砲兵工廠の前に出る道と連絡する橋をいう。俗にドンド橋、単にドンドンともいう。江戸川が落下する場所に堰があった。水の勢いは、投石に激しくぶつかり、常に高く、ドンドンという音がしていた。この橋を仙台橋と書いたものあるが、これは間違いだ。武江図説では、仙台橋は旧水戸邸前の石橋だと書いてある。旧松平陸奥守の「御茶の水」の橋は開削の時に、架橋して、現在はない。
    ●蚊屋が淵
 船河原橋の下面を蚊屋が淵という。神田川中流が落下する場所であり、水勢が急激だ。江戸砂子では、別の説を出し、中之橋と隆慶橋の間に相当し、現在は大曲という場所がそれだという。昔、ひどい姑がいて、嫁にこの川で蚊帳を洗わせていたが、浅瀬は速く、水に蚊帳をとられ、嫁はその蚊帳に巻かれて死亡したという。

船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。文京区後楽2丁目、新宿区下宮比町と千代田区飯田橋3丁目をつなぐ橋。船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。

台紙に「東京小石川遠景」と墨書きがある。牛込見附より小石川(現飯田橋)方面を望んだ写真らしい。明治5年頃で、江戸時代と殆ど変化がないように思える。遠くに見える橋は俗称「どんと橋」と呼ばれた船河原橋であろう。堰があり手前に水が落ちている。しかし水 位は奥の方が低く、水は奥へと流れているらしい。堀は外堀である飯田堀で、昭和47年、市街地再開発事業として埋め立てられ、ビルが建った。内川九一の撮影。六切大。(石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

 「旧」の旧字。
砲兵工廠 ほうへいこうしょう。旧日本陸軍の兵器、軍需品、火薬類等の製造、検査、修理を担当した工場。1935年、東京工廠は小倉工廠へ移転し、跡地は現在、後楽園球場に。
道路 現在は外堀通り。
ドンド橋 船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちて、どんどんと音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原ふながわら橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
落口 おちぐち。滝などの水の流れの落下する所
 せき。水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた場所。
捨石 すていし。土木工事の際、水底に基礎を作ったり、水勢を弱くしたりするために、水中に投げ入れる石。
激して 激する。げきする。はげしくぶつかる。「岩に激する奔流」
淙々 そうそう。水が音を立てて、よどみなく流れるさま
仙臺橋 仙台橋。明治16年、参謀本部陸軍部測量局の東京図測量原図(http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2275675-16.html)を使うと、おそらく小石川橋から西にいった青丸で囲んだ橋が仙台橋でしょう(右図)。
武江図説 地誌。国立国会図書館蔵。著者は大橋方長。別名は「江戸名所集覧」
開鑿 かいさく。開削。土地を切り開いて道路や運河を作ること。
蚊屋が淵 「半七捕物帳」では「蚊帳ケ淵」と書かれています。
中之橋 中ノ橋。なかのはし。神田川中流の橋。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
大曲り おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。
江戸砂子 えどすなご。菊岡沾涼著。6巻6冊。享保 17 (1732) 年刊。地誌で、江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。
はげしき 勢いがたいへん強い。程度が度を過ぎてはなはだしい。ひどい。
蚊屋 かや。蚊帳。蚊を防ぐために寝床を覆う寝具。